黒の城と、残虐公
恐れと緊張のなか、リアナを乗せた馬車が、黒の城へとたどり着いた。
重く鈍い音を立てて開いた鉄門の先には、まるで兵の要塞のような厳かな空間。
壁に掛かる剣、整然と並ぶ兵士たち――
「…………ここが、夫となる方の住む場所……」
震える膝を押さえつけながら、リアナはぎこちなく馬車から降りる。
「わ、私はこれで失礼しますので……」
従者は"残虐公"に怯えているのか、そそくさと帰っていく。みすぼらしい姿のリアナと、輿入れとは思えない、小さな荷物を置いて。
側仕えすらいないリアナは、馬車が去っていくのを、ただぼうっと見ていることしかできなかった。
そのときだった。
「あなたが……リアナ嬢か」
低く、よく通る男の声。
振り返った先にいたのは、漆黒の外套を羽織り、銀の剣を腰に差した一人の男だった。
リアナはこのような美しい男性を見るのは初めてだった。
背は高く、引き締まった体躯。鋭い金の瞳に、切れ長の美しい目元。
そして、どこか寂しさを帯びたような、表情。
彼こそが、この地を治める――“残虐公”アレクシス=ヴァルト公爵だった。
リアナは反射的にひざまずき、怯えながら言葉を絞り出した。
「わ、わたしは……リュセール王国の二女、リアナ・リュセールと申します。そ、粗末な身ではありますが……どうか、命だけは……」
その瞬間、アレクシスの眉がぴくりと動く。
彼は数歩、リアナへと近づいた。
近づくたびに騎士たちが静かに道を空け、空気が張り詰める。
リアナは思わず目を閉じた。
(……殺される……?)
だが――
「ここ辺境の地、"ヴァルト領"を治めるアレクシス=ヴァルトだ。遠方からよく来てくれた」
「……あなたはそんな姿勢で、顔も上げられぬまま、我が妻になろうというのか」
――静かな声。
怒りでも、嘲りでもなく。
深い哀しみを湛えたような声だった。
「……?」
リアナが恐る恐る顔を上げると、彼はそのまま片膝を突き、リアナの手にそっと触れた。
「その姿にこの手。
……"働き者の手"は好ましくは思うが…王女ともあろう者が、これまで周囲に何をされてきた?」
「え……」
冷え切った指先。傷だらけの手のひら。
アレクシスはそれを見て、深く息を吐いた。
「――もう、いい」
リアナの頭にそっと手をのせ、やわらかく言った。
「誰も、お前を蔑んだりはしない。
ここではお前が私の唯一の“妻”で、大切にされるべき存在だ」
その瞬間――
リアナの心が、はじめて「守られた」と感じた。
胸が熱くなり、涙が止まらなくなる。
(こんなふうに、優しく手を握られたのは……きっと、生まれて初めて……)
アレクシスはリアナの手を引いて立ち上がらせると、背後の騎士たちに告げた。
「この方は我が妻、リアナ=ヴァルト公爵夫人だ。
以後、礼節をもって仕えるように」
それは、まるで宣言。
蔑まれてきたリアナを、貴き者として迎え入れるという宣言だった。
そしてその夜。
リアナが着替えのため、侍女に服を脱がされているときのこと。
「きゃっ……!」
服の下に隠れていた、淡い光を放つ模様。
まるで蔓草のような神聖な痣が、リアナの胸元に浮かび上がっていた。
それを見た侍女が震える声でつぶやく。
「まさか……《聖痕》……?あなた様はもしや……」
その知らせは、すぐにアレクシスのもとへ届けられた。