第一話 偽りの姫と、泥にまみれた娘
産声が重なったあの日。
王宮の一角にある女官の部屋で、ふたりの赤子がほぼ同時に生を受けた。
一人は正妃の娘。
一人は愛妾の娘。
本来ならば、血統も立場も天と地ほど違うふたり――その運命は、たった一つの過ちでねじれてしまった。
「……起きてるんでしょう。いつまで寝てるつもり?」
冷たい水が、頬に叩きつけられる。
体を丸めていた少女は、びくりと肩を震わせた。
「お姉さま……いえ、フィオナさま……申し訳ありません……!」
必死に謝る声。
でもその声すら、フィオナはあからさまに嫌悪するように鼻を鳴らした。
「姉と呼ぶなと何度言ったら理解できるの?
それに私の服に触ったわね?下僕が、私の物に指をかけるなんて……けがらわしい」
その言葉に、少女――リアナは静かにうつむく。
彼女はこの家で、“使用人よりも下の存在”として育てられていた。
リアナには“姉”がいた。
名をフィオナ・リュセール。リュセール王国の第一王女にして、正妃の娘。
……と、されていた。
リアナはそのフィオナとまったく同じ日に生まれた。
産声の順も、ほんの数分しか違わなかったという。
正妃に憎まれた愛妾は、産後まもなく亡くなったという。
リアナは“愛人の子”として扱われてきた。
下女にすら、蔑まれ、笑われ、カビたパンとスープを与えられーいや、時には食事すら与えられなかった。
部屋は使用人よりもひどい部屋で、衣服はぼろ布。
髪はとかしてもらえず、皮膚は日々の労働で荒れていた。
「……まるで奴隷ね。さっさと屋敷を出て行けば?」
フィオナはつんと鼻を鳴らして去っていく。
豪奢なドレスに身を包み、背筋を伸ばすその姿は、確かに「王女」に見えた。
でも――
リアナの中で、うっすらとした違和感が消えたことはなかった。
(私は、どうして……こんなに、憎まれてるんだろう)
リアナは屋敷の片隅、庭園の見えない影で、膝を抱えていた。
もっと幼い頃は、乳母がそばにいてくれたように思う。食べ物も用意してくれたし、子守唄だって、歌ってくれた。
リアナはずっとその歌を聴いていたくて、寝るのを我慢して、寝たふりをしていつも最後まで聴いていた。
でも、その乳母は、私が寝たふりをすると、時折泣いて、何かに謝っていた。
「ごめんなさい、私のせいで…ごめんなさい…っ」
リアナは乳母が大好きだったから、泣き止んでほしかった。
でも、いつもと雰囲気の違う乳母が怖くて、そのまま寝たふりを続けるうちに、気づいたら朝になっていた。
その乳母も、いつからか来なくなり、フィオナに
「捨てられたのね、可哀想に」と笑われてしまったのを覚えている。
……その日から、自分で食事をもらってくることを覚えたのだ。
フィオナは、誰も見ていないのを確認してから、そっと涙を拭った。
泣いてはならない。
泣いたら、また「泣き虫下女」と笑われる。
でも、涙は勝手にあふれてくる。
この世界に、自分の味方などひとりもいないのだから。
(でも……生きていたら、いつか、何か……変わるのかな)
それは祈りにも似た願い。
どんなに踏みにじられても、リアナは心だけは、まだ折れていなかった。
ーー
その日、王都に使者が訪れた。
会議の場で、老いた王は退屈そうにため息をつきながら口を開いた。
「……あの男の国、また魔物の被害か。それに、縁談を申し出てくるとは……わしの娘を差し出す気はないぞ」
「陛下。“本物の姫”である必要はないと存じます」
重臣のひとりが、そっと言う。
「ほう……では、余計な口を出さず、大人しく従う娘であれば誰でもよいというわけか」
それは、王にとって都合が良かった。
国を脅かすほどの魔物の被害を受けているあの“辺境の男”の元へ、自らの娘など差し出せるはずがない。
だが、ひとり、使い捨てても惜しくない少女を思い出す。
――リアナだ。
*
「あなた、明日嫁入りですって」
突然言い渡された言葉に、リアナは目を見開いた。
「……え……?」
「聞こえなかった?婚礼の準備なんてしないでいいわ。ただそのみすぼらしい格好のまま、馬車に乗ればいい。
喜びなさい。代わりに莫大な資金をいただけるみたい。あなたは、金で売られたのよ」
フィオナの口元が、おかしくてたまらないというように、残酷に歪む。
王が決めたのだ。
リアナが、辺境の“残虐公”の元へ嫁ぐことを。
「彼は気に入らない女はすぐに手にかける野蛮な男って噂よ?下賤な生まれのお前の姿を見られなくなるなんて、本当に喜ばしいわ。
…本当に、半分だけでも血のつながりがあると思うだけでおぞましいもの。
残虐公のもとで、ふふ、せいぜい長生きできるといいわね」
屋敷の誰もが、リアナを嘲笑し、“厄介払い”として見送った。
誰も悲しまず、誰も涙を流さず。
唯一、リアナだけが胸の奥で小さな火を抱いていた。
(どうせ、私は……何者でもない)
(けど――)
その時だった。
ふと、胸にある小さな痣のような印が、かすかに疼いた。
誰にも見せたことがなく、ただ時折熱を持つだけだった。
けれどそれは、遥か昔の神と契約した正妃の一族の証――「聖痕」の萌芽だった。
愛人の子として虐げられ、誰にも世話をされなかったからこそ、誰にも気づかれなかっただけ。
リアナは、誰にも知られぬまま――
本来、国を守る「祝福の姫」としての運命を、静かに握っていた。
(……この命、どうせ捨てられるなら)
(せめて――誰かに、必要とされたい)
小さな荷物と、着古した粗末な服。
髪は乱れ、指には労働の跡。
そんなリアナを乗せた馬車は、静かに王都を離れていった。
向かう先は、魔物の蠢く辺境。
そして――“残虐公”の住む、黒の城。
まだ彼女は知らなかった。
この地にこそ、彼女を必要とする人々がいて。
“残虐公”と呼ばれた男が、本当は誰よりも優しく、誠実な人であることを――