友達
4話 友達
目を開けると、みんなランドセルを机の上に置いている。教科書や筆箱をしまって・・・そうか、ちょうど下校の時間だ。寝起きの顔を照らす夕陽を見て、意識が覚める。すっかり忘れかけていた約束を思い出した。あいつと──月先遥と一緒に帰るという約束。
遥って学校で何をしてるんだろう。耳、聞こえないんだよな。授業は受けてるのか? 昼休みの時、チャイムが鳴っても教室に戻ろうとしてなかったし、ひょっとしてずっと図書室? だとしたら俺、めっちゃ遥のことを待たせてるじゃん!
窓から今すぐにでも飛び降りて、下駄箱に行きたい──そんな衝動を抑えてちゃんと「起立。礼」まで待った。そのスタート合図と同時に無我夢中で教室を出て、走って、階段を飛び降りる。なんか今の俺すげー小学生っぽいかも。
「はるかー!」
下駄箱には、黒いランドセルをこちらに向けたまま立っている遥がいた。差し込む陽が空色の髪を照らす。夕陽が沈む海のような色。人の髪ってこんなに綺麗になれるんだ。
髪を見ていたら、いたずらをしたくなった。大したことじゃない。ちょっとした好奇心。忍者のように遥の背後に近づいて、指先で首を突く。遥がぴょんと跳ねて驚く──と、思った。けれど、普通に振り返って俺を見る。俺を見て笑ってくれるかなと期待した。しかし、遥の顔は悩んでいた。この顔は、鉛筆が進まなかったあの時と同じ顔だ。そうだ、こういう時のためのメモ張。
《どうした?》
《靴がない。でも平気。上履きで帰る》
そんな作り笑いを見せられても、辛いだけだ。1ミリも笑えないんだよ。
《何でないんだよ。朝は履いてきたのか?》本当は隠されたんだろ? そしてこれは毎日のようにやられてるんだろ? 俺そういうの分かっちゃうんだよ。人の顔とか雰囲気で色々と分かっちゃうんだよ。それに俺も前にやられたことあるから、余計に分かんだよ。
上履きを履いたまま帰ろうとした遥の腕を、こちらへ引き寄せる。ごめん。廊下から犯人の声が聞こえてきたから、変に力が入っていたかも。
「月先のやつ、今日はどうしたかな?」
「これどーする? また川に捨てとく?」
「だいちゃんそれ、いつの間にとったの?」
「昼休みだよ。教室に戻る時ついでに」
そうか。お前たちが遥の靴を。怒り。怒り。怒り。手に集まってくる怒り! 他の学校で自分の靴を隠された時は、こんなに怒らなかったのに! 今ならこいつらを──
《キミ、どうかしたの?》
握ったら壊れそうな遥の手が、俺の怒りの上をさする。冷たい手。いや、俺が熱くなりすぎてた。止めてくれてありがとう。
《忘れ物をした。ちょっと待ってて》
適当な言い訳。でも間違ってはいない。俺が遥の靴を取り返す。遥にペンとメモ帳を預けて、声のする方へ行った。廊下には3人の犯人がいた。見たことあるような、ないような奴ら。3人か。頑張れば勝てるかな。
「おいお前ら。月先の靴を返せよ」
「ねー。誰あいつ」
「4組の転校生じゃなかった? 大翔お前、同じクラスだろ?」
「た、確かに僕のクラスだけど、全然知らないよ」
ひろと?──ああ、相沢大翔か。俺の前の席のやつだ。なのに俺のこと知らねえのかよ。
「あまつじって確かこの前、真斗のことを殴ったんだっけ?」
「まじ? こいつが!?」
まさとってのは、俺がリュックで通学して来たことを馬鹿にしたやつだ。てことはこの3人はそれの友達か。全く、色々と最悪な縁。
「良いから月先の靴を返せ。お前らのしてること、人として最低だ。クズだ」
「人を殴ったやつに言われたくないんですけど~」
・・・そうだな。何も言い返せないよ。
「あー。俺良いこと思いついた」
「なになに!?」
「こいつに土下座してもらおう」
「良いねそれ! さすが大ちゃん!」
「・・・したら。土下座したら返してくれるのか?」
「ほ、本当にするの!?」
「あんな本オタクのために、そこまでするとかやーば」
したら返してくれるんだろ?土下座を何とも思っていない俺の土下座は無価値だ。そんなもんいくらでもばらまいてやるよ!
リュックを背負ったまま膝をついた。その次は手のひら。後は頭を下げるだけ──というところで急に、背後からリュックを引っ張られる。
「君たち。下校時間を過ぎますよ。早く帰りなさい?」
大人の声。そいつの声が俺の土下座を止めた。注意されたガキどもはすぐに無言で去る。まるでベテラン教師のような口調の大人。振り返って見ると、その正体は若い青年だった。
「・・・の、紀戸先生」
「大丈夫でしたか?」
知らない教師の方がマシだった。どうしてあんたが、ここにいる。どうしてあんたが、俺を止める。
「なあ、あんた先生なんだろ? ならなんで遥のいじめを注意しないんだ!」
当たると思っていなかった俺のパンチは、そいつの腹に入った。先生は「うっ」と声を漏らす。流石にヤバいと思い、謝ろうとしたがこいつはそれさえも止めた。むしろ俺に対して頭を下げてきやがった。学校の人間が俺に頭を下げるなんて驚いた。でも頭を下げたのがこいつなのは納得いかない。
「ごめんなさい天辻くん。けど許してほしい。私では──」
「良いよ。だってあんたは本当の先生じゃない。ただの司書だもん。八つ当たりしてごめん」
どうせここの本当の教師たちは、遥のことを相手にしないんだろう。それはこないだの俺への対応を見ても分かったことだ。どこの教師もロボットと変わらないようなやつばっかり。人間である必要を感じない。
やっぱりいじめってやり得だよな。特に遥の場合は耳が聞こえないから、本人の自覚がないとか言われるだろう。遥もそれを伝えたくても伝えられなくて、泣き寝入りしているんだろう。男子にしては伸びている遥の髪の毛からさっするに、あいつの親も親なんだろうか。ま、そこまでは俺も関係ないことだけど。
「じゃあなノリ先生」結局、遥の靴はどこにいったのか、わからないままだ。
下駄箱に戻ると、遥がまだ俺を待ってくれていた。いつまでも待つと言わんばかりの優しい顔をして、まるで忠犬のよう。どうして、どうしてこんな良い人間がいじめのターゲットになるんだよ。
《遅かったね》
《これ履いて帰れよ》
《出来ないよ。これはキミの靴だ》
「良いから履けよ!!」
廊下まで響いた俺の声。つい、怒鳴ってしまった。ノリ先生にも聞こえてしまっただろうか。これだけ響いても、目の前のこいつには聞こえていないんだよな。それでも伝わるものは伝わるものだ。遥が不安そうにメモ帳を見せる。
《今怒ったの?》
《せきしただけ。良いから早く帰ろうぜ》
腕を引いて校門を出ると、ガキたちがたくさんいた。上履きを履いて帰る遥を見ようと、待機していたんだろうか。見て見ぬフリどころか、便乗して楽しむだなんて、最低だなこいつらも。
ゆっくり歩く遥の腕を握って早歩きで進む。聞こえてくる汚い言葉の全てを、遥が受け取らないように足早に去る。
「見てみて! 図書室のヌシが誰かと帰ってる!」
「ホントだ~。あ、今日は靴履いてるねー」
「でも隣のあの子は上履きだよ。変なの~」
そんな言葉が聞こえなくなったのは、坂道を下って橋を渡って、誰もいない田んぼ道に出てからだった。時折、風になる勢いで横の車道を車が通過する。俺たちはここでようやくペースダウン。やっと、やっとメモ帳を見せて会話が出来る。
書くたびにいちいち止まるのは不便だと思われるかもしれない。けど、それは逆に良いこと。だって帰るのに時間がかかるということは、遥といられる時間が増えるってことだから。
《ごめんねキミ。きっとさっきの子たちは、僕とキミのこともバカにしていたよね?》
《してない。そんなことより俺のことキミって言うのやめて。拓馬にして。タクマでも良いから》
《どうして?キミは二文字だよ。拓馬は漢字だし》
「そ、そういうことじゃ」ねえよ。天然かよ。
《どうしてって、俺は遥の友達だからだよ》
《ともだち?それ、ともだちって漢字だよね。僕と友達になってくれるの?》
友達じゃないなら俺のことをなんだと思っているんだよ。
遥に言いたいことがどんどん増える。一気に伝えられないのがもどかしい。一番伝えたいことをその都度選んでいるつもりでも、俺にとってはどれも、こいつに伝えたい重要なことなんだ。
《友達だから遥と一緒に帰ってるんだよ》それを見せた時、遥の白い手が俺の手を強く握ってきた。体全体で俺の文字に反応していた。訳が分からず俺の頭はからっぽ。こんなこと急にされたら恥ずかしくて動けない。手を握ってきた意味は感謝だろうと、思うことにした。もしも俺が遥だったら相手に感謝をすると思ったから。
再度メモ帳を持った遥は、強く握りしめたページを見せる。
《拓馬。僕はね、今までで一番学校が楽しいよ》
《俺もそうだよ。俺も一番楽しいよ》
遥はすごいな。顔、いや体全体で幸せを表現する。俺がもし遥と同じ境遇だったら、こんな表情、できるだろうか。耳が聞こえない世界なんて想像も出来ない。無音の状態は分かるけど、その世界で暮らしていくということは、今の生き方とは全然違うだろう。
《遥の家は遠いの?》
《あの信号を右に曲がったところ。フードファーストっていうスーパーの近く。拓馬は?》
《俺は信号を左。けど、そこからまだあるから遥の家とはちょっと距離があるね》
俺たちはちょうど信号を渡ったところで別れる。あと少しでその信号。だけどもうちょっとだけ、一緒にいたいな。
《それじゃあ拓馬とはまた明日だね》
《朝もいっしょに行こうか?》
別にここまで仲良くするつもりはなかった。今だってなんで朝も誘ったんだろうって、数秒遅れて正常な思考が働く。今日だって、一緒に帰るのを誘ったのは気まぐれ。面白そうだなって、思っただけなんだ。今日一緒に帰って終わるつもりだった。なのに今では、遥と伝え合うのが楽しい。文字を書くことが楽しい。もっと言葉を書きたい。もっと気持ちを伝えたい。もっと──遥と一緒にいたい。
《僕は特別学級だから、朝はほんの少し遅いんだ》
《俺が時間合わせるよ》
《それじゃあ拓馬の勉強が》
表情だけで遥の不安が伝わる。そんなに心配そうにしなくて良いって。
《平気。俺は塾で勉強してるから》
《頭良いんだね》
「べ、別に」そんなこと、ないし。
信号が青に変わる。渡ったところで、用意していた一文をお互いに見せ合った。
《じゃあな。また明日》
《またね。ありがとう拓馬》
メモ帳を見せ合っても俺は遥のことを見つめていた。不思議な感覚。これが友達と仲良くするってことなのかな。こんなの経験したことがないから、今のこの感情がどういう感情なのか分から──唐突に、頬に手が触れてきた。その、遥の右手で時が進んでいることを自覚した。
「ご、ごめん遥!」遥は一度しまったメモ帳を取り出した。「そっか」つい忘れがちだけど、俺の声は聞こえないんだった。
《どうかしたの?》
《なんでもない! じゃあ明日もここで待ってるから!》
すぐに背を向けて遥と分かれる。俺は一気に坂を駆け上がった。早く、明日になれ。