姫の秘密
3話 姫の秘密
次の日は朝のチャイムと同時に登校した。昨日みたいに早く起きれなかった。あいつのせいだ。あいつに会えないと思ったら、楽しみがなかったから。
とは言ったけど、これが俺の本来の日常。昨日が例外なだけ。
「さてと」昼休みまで退屈だし空でも見ておこう。ちょうど晴れているあの空を。
外が見える窓際の席が羨ましい。廊下側だと横目でしか見えない。本当は見上げたいんだ。俺はもっと上を見たいんだ。太陽がいるあの高い空を。
水色の空を泳ぐ雲を見ていたら、あっという間に給食の時間を迎えた。そういやあいつは、どんな風に授業を受けているんだろう。きっと真面目にノートを書いているんだろうな。絶対黙々と書いている。手を上げるタイプじゃない。給食だってしっかり噛んで、ゆっくり食べてそう。リスとかハムスターのようにね。
こういう何気ない話もあいつに会えたらしてみたい。「好きな給食は何?俺はレーズンパン」って感じで。
昼休み、ほとんどのやつが外へ向かう中、独り逆走する俺は人気のない道を進む。その先にあるのは図書室。
「今日こそはいてくれ」願いながらドアをスライドさせて、部屋の隅を見る────いた。あいつがいた。図書室に空色の花が咲いている。貸し切りの図書室で床に座り、本を読む水色頭──やっと会えた。
会えて嬉しい気持ちは束の間。いざ会えても、なんて話しかければ良いのか。なんとなく用意してきた言葉たちじゃ、不十分だった。なんでだろう。同じ小学生なのに近づくことすら勇気がいる。と、とりあえずあの日と同じように背後から声をかけた。
「あ、あのさ。一昨日はごめん」
・・・やっぱりか。俺の方を振り返りやしない。もっと近づいて正面から顔を合わせよう。そうだ!今日は何の本を読んでいるんだろう。もしてかして、また舞姫だったりして。
横に座って表紙を見た。本のタイトルは「幽霊監督」。この本はそのタイトル通り、いわゆるゴーストライターの監督版みたいな物語。確かサッカーの監督の話だった気がする。
「ねえ君。こないだ舞姫、読んでたよね。その、ネタバレとか酷いこと言ってごめん」頭を下げた。こちらを向いてくれた時に、改めて目を合わせて謝ろうと思った。────でも、こいつはまたしても俺を見なかった。頭を下げながらこみ上げる感情。いつもなら解き放つそれを、拳を握って、歯を食いしばって潰した。堪えたけどよ、流石に何回も無視されて黙ってらんねえよ!
「なんなんだよお前!俺のことずっと無視しやが──」
「おや?君は初めて見ますね。もしかして転校生の天辻拓馬くん──では?」
振り上げようとした拳は、背後からの大人の声で止まり、脱力していった。俺の名前を知っている?でも俺はこの声を知らない。いつの間にか図書室に入ってきていた大人。彼はしゃがんで俺の目を見てきた。わざわざ目線を合わせてムカつくやつ。じじくさい口調のくせに、それに似合わない童顔。ひょっとして大学生か?
「あんたは誰? ここの先生?」
「私は紀戸進。この図書室の司書です。生徒からはノリ先生と呼ばれています。あ、私は先生ではないですがね」
そのノリ先生とやらは自分の頭に手を当てると、勝手に照れて、勝手に笑う。本人は嬉しそうだけど、教師じゃないのにノリ〝先生〟って、皮肉じゃねえの?おめでたいやつだな。
「ここの図書室ってさ、この水色頭とあんたしかいないんだな」
「休み時間はやはり、みんな外で遊ぶでしょう? 天辻くんは友達が出来ましたか?」
「別に?そんなのいらねえし」
「なるほど。君も不器用なんですね」
こいつ、また笑った。俺が不器用な人間でそんなに嬉しいかよ。こいつの笑い方嫌いだ。気持ち悪いし腹が立つ。いや、笑い方だけじゃない。さっきからワザと生意気にしている俺の言葉使いや、態度を全く注意しない。教師でなくとも学校の人間なら、普通こんな態度の生徒は注意するだろ。なのにこいつ──ノリ先生は俺を見放すどころか、近づいて来やがる。それが腹立つ。こいつ変わっている。変人だ。変な物を好む変人だ。普通にしていればちょっとイケメンなのに、とことん残念なやつ。って、こんな奴はどうでも良いんだ。俺が話したいのは水色頭。
「確かに俺は不器用だけど、無視だけの水色頭より、返事をする俺の方がマシだろ。こいつ何なの? 一昨日からずっと無視してくんだけど!」
俺の声が水色頭に聞こえているのは、もちろん承知。その上で今も本を読んでいるこいつを指差した。
「あぁ、この子は──」にこやかに話していたノリ先生が、急に大人の顔をする。その険しい顔をしたまま、予想出来ない残酷な現実を、俺に告げる。
「耳が聞こえないんですよ」
こいつにそう宣告された時、俺は視力も聴力も失った。俺の世界は真っ暗になった。耳が聞こえない? な、なんで?それじゃあ俺の声はこいつに届かない。俺は、こいつと会話ができない。こいつのことを俺は──知ることができない。
バカだな俺。耳が聞こえないやつにずっと話しかけていたのかよ。ただのアホじゃん。そりゃ無視されるわ。いや、聞こえていないんじゃ無視ですらないか。勝手に話しかけて、勝手に怒って、暴言を言って、勝手に謝って──やっぱり俺はずっと独りのままだったんだな。まさか耳が聞こえないなんて思わねえよ普通。だって見た目は何も変わらねえもん。むしろ──綺麗じゃんかよこいつ。
「耳が聞こえないから──とは言いませんけど、見ての通り遥には一緒に遊ぶ友達がいないんです。天辻くん、君は友達になってくれますか?」
「別に友達なんていなくたって良いだろ。俺だっていないんだし。それにこいつは本を読んで、楽しんでいるんだから邪魔する必要ない」
「でも天辻くんは遥と関わろうとした。それに君もこの図書室に来る数少ない生徒です。私たちと出会ったのが縁だと思いませんか?」
「べ、別に思わねえ偶然だよ。それにお前はともかく、誰が女子なんかと友達になるか!」
「それなら遥とは友達になれますね」
またお得意の気持ち悪い笑い方。なにがそんなに嬉しいんだこいつは。それどころか日本語通じてねえな。
「何言ってんだよノリ先生。俺は女とは」
「遥は男の子──ですよ?確かに見た目は女の子にも見えなくもないですが」
────なんだ。な~んだ。こいつ、男だったのか。当たったと思ったくじが、実はハズレだったような、そんな感覚。心の中の何かのスイッチが消えた。頭がクリアだ。落ち込んだわけじゃないけど、冷静になれた。でも、ハズレで良かったのかもしれない。男なら別に。別に、友達になっても、良いか。
「でもこいつ、耳が聞こえないんだろ? しゅわ、だっけ?俺それ出来ないし」
「きっと遥は、この学校の誰よりも漢字が読めます」
「手紙でも書けってか?」
ノリ先生は指を横に振って否定すると、ポケットから手の平サイズのメモ帳を取り出して──《筆談ですよ。知りませんか?》──そう書いたページを俺に見せた。
それを見た瞬間、真っ暗だった世界が一気に輝いた。すごい発明品を見た気分だった。まさか今の時代に、紙とペンがこんなに便利な道具だと思うことがあるなんて。
ノリ先生から奪うようにそれらを受け取って、早速こいつに言いたかったことを書いた。
《俺、天辻拓馬。君、本好きなの?》このページをそいつが今も読んでいる本のページの上に出す。空色の髪がはねて反応した。背中までびくんとして驚いたそいつはやっと、やっと俺の目を見た。底が見えない海のように深い瞳。見つめていると引きずり込まれそう。
《なんか言ってよ》
ページをめくってペンを渡すと、そいつは読んでいた本を置いた。やっとメモ帳に言葉を書いてくれる。そう思ったが、渡したばかりのメモ帳とペンを、こいつは俺に返してきた。むかつくことにこいつは、自分のポケットからメモ帳と鉛筆を出した。なんだよ。自分のを持ってんのかよ。先に言えよ。
《僕は月先遥。本好き。キミは何が好き?》
メモ帳を見せながら照れて微笑む遥。遥の笑顔は少し前までのイライラを、砂粒にしてくれた。怒りは風に吹かれて飛んで行った。なんでだろう。こいつのことを見ていると俺まで恥ずかしくなる。せっかく俺のことを見てくれているのに、遥の顔を見ていられない。だから代わりにそいつのメモ帳を見る。今まで見てきた文字の中で一番読みやすい文字が、そこに並んでいた。大げさだけど、まるで俺のために書いてくれたんじゃないかってくらいに読みやすい字。つい質問を忘れそうになる程、俺はその文字に夢中になっていた。
「えっと、好きな本だっけか?」別に、特にないんだけどな。
《俺はシェイクスピアとか好きだよ》こんなにペン先を意識しながら、カタカナやひらがなを書いたのは初めて。
《オセロ。ハムレット。マクベス。リア王。僕はそれくらいしか知らないや》
それくらいって・・・小学生で四大悲劇を読んでいれば十分だろ。遥って、ほんとうに本が好きなんだな。そしてこいつも立派な変人だ。もっと面白い本読めよ。
《遥は本以外に好きな事ないの? 俺はサッカーが好き》
遥の鉛筆が止まる。図書室で唯一鳴っていた音──筆記音が消えた。開いた窓から春の強い風が抜けていく。白い紙に触れる鉛はまだ重りのまま。遥の青い目もメモ帳を見たまま動かない。何を書こうかを迷っているのではなくて、何を書けば良いのか分からないのかもしれない。返事を気長に待とうとしたが、チャイムがなってしまった。それが聞こえない遥はまだ白紙を凝視している。そんなこいつを見て俺は何を思ったのか、自分のペンをメモ帳に走らせて雑に書いた。そのページを破って手渡す。
《いっしょにかえろうぜむかえに行くからゲタ箱にいろよ》
渡した後にくる謎の感情。なんだこの、数秒前に戻りたい気持ち。なんでこんなことをしたんだ。後悔とは違うけど、やっちまった感が半端じゃない。顔を隠したい。穴があったら入りたい。そこまで恥ずかしかったのに、遥の顔をもう1度見たかった。熱くなる体に耐えて彼を見ていると──
《ありがとう。待ってるね》
──遥は笑いながら、丁寧な字で書かれたメモ帳を見せてきた。思わず俺も笑ってしまうほどの遥の満面の笑み。ちょうど風が吹いて空色の髪が揺れ動く。遥の目が、顔が、よく見えた。せっかくの素敵な顔。隠しているなんてもったいない。──そう思ったのは数秒。むしろ隠れていて良かった。これからも隠していてほしいと思った。誰にも発見されていない青い花。この花は俺しか知らない秘密。
「ノリ先生。これ、ありがとう」
「良いですよ。その筆談セットは私からのプレゼントです。遥のことお願いします」
「おう! いいぜ!」
休み時間がこんなにも有意義だったのは初めてだ。誰かと過ごしたことも、教師とこんなに話したのも初めて。あ、あいつは教師じゃないんだっけ。