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老人よ大志を抱け  作者: 比留間大五郎
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陽のあたる坂道

その日がやって来た。中野から電車を乗り継いで来ることを考えて、通勤時を避けて、待ち合わせ時間は11時としていた。私は大森駅の西口に30分ほど前に着いた。年寄りを待たせてはいけない、かく言う私も立派な年寄りであるが。そう言えば最近になって電車のシルバーシートに何の躊躇もなく座れるようになった。つい4,5年前だったらわずかばかりの躊躇らしきものがあったが。人間、すべて慣れだろう。

 待ち合わせ時間の10分前には彼女が到着した。父の葬式以来だったが、それほど変わってはいなかった。ただ、杖をついている。それでも歩きぶりはしっかりしている。

「これはアクセサリー」

 と言って、杖を持ち上げた。

「とくに必要もないんだけど、娘が心配して杖は肌身離さずに、と言うもんだから」

「骨折でもしたんですか」

「5年前に、何でもない所で転んでしまって。それが病院の廊下というから笑っちゃうよね。隣のおばあさんが入院したからお見舞いに行ったのよ、その私が入院することになっちゃった」

 美千代さんの明るさは変わっていなかった。変わりようがないのである、とは彼女の弁。

「そうだったんですか、それじゃタクシーでいきましょう」

「タクシーで行くほどの距離でもないし、第一勿体ないわ。それにバスで行きたいのよ」

「乗り降りは大丈夫ですか」

「ええ大丈夫、あの臼田坂下のバス停はまだ変わらずにあるんでしょう」

「たぶん、あると思いますよ」

 平日の昼前とあって車内は空いていた。

「私が集団就職して最初に勤めたのが蒲田の印刷工場、そこを1年程して辞めて、叔母の紹介でお手伝いさんとしてご奉公に上がったのが坊ちゃんの大和田邸」

「71の爺さんをつかまえて、その坊ちゃんは辞めてくれませんか、他人が聞いたら何と思うか」

「何と思おうと他人の勝手です。それはそうと、叔母の手紙に、奉公先の住所が書いてあってね、大森駅の西口から荏原行のバスに乗って白田坂下というバス停で降りるんだよ、と書いてあったから、女の車掌さんにまず聞いたんです「このバスは白田坂下に行きますか」

「臼田坂下じゃないですか、間違えるのはあなた一人じゃないですから大丈夫ですよ」

叔母の字が達筆だったので「臼」と「白」を読み違えていたんです。その車掌さんは私と幾つも年が離れていないようでしたね。私と同じ集団就職組かもしれなかったわね。どこかの方言交じりだったから。それにしても優しい車掌さんで良かった」

 バスは駅前の商店街を通り抜けようとしていた。彼女は商店街を見ながら、

「この商店街、なんだか60年前の方が活気があったような気がするね、団子屋や魚屋、衣料品屋、もっと明るくて華々しかったね、それがどうだろう、今は店は明るいけど、私にはうす暗い感じ、それにカタカナの看板ばかりで、何を売っているんだかわからないね、お客も少ないし」

「大型スーパーに客を取られるのはどこも一緒ですね」

 案の定、右折待ちの交差点角にある大型ショッピングセンターには駐車場入り待ちするマイカーの行列ができていた。

 バスが右折してしばらくすると、臼田坂にさしかかった。

「次は臼田坂下です、降りるお客様はブザーでお知らせください」

 方言も何もない音声案内が流れた。

 バスを降りると、長い坂を上らなければならない。それでも彼女は杖をつきながらも元気に上って行く。

「坊ちゃん、すっかり変わっちまったけど、この坂だけは変わらないね」

「坂だけは変わりようがありませんからね」

「でも、昔はこんなに奇麗に舗装されていなかったよね」

「そう言えば、砂利道でしたかね」

「初めてあのバス停で降りた日、昨日のように覚えているわ。この坂道を上りながらあたりをキョロキョロしていたら、お屋敷の二階の窓から首を出していた坊ちゃんと目が合ったんだよね」

「そうでしたね、あの日は熱がちょっとあって学校を休んでいたんです。本当は、今日は新しいお手伝いさんが来る日だと言うことで、ずる休みをして窓から坂を見ていたんです。すると、キョロキョロしながら元気よく坂を上って来る美千代さんの姿を見付けたんです。この人が新しいお手伝いさんに間違いないと思いました。そして、日活の「陽のあたる坂道」の冒頭シーンを思いだしたんです」

「私も見たわ、女子大生役の北原三枝がこれから家庭教師として勤めることになる石原裕次郎と芦川いづみが住む大きなお屋敷を探して歩くシーン」

「当時、親父が芦川いづみの大フアンでね、僕を連れて映画を見に行ったんだけど、子供の自分には難しくてよくわからなかったな」

「小学生には無理よね」

「坂道を上る美千代さんを見ていたら北原三枝に似ているな、と思ったんです」

「あらいやだ、杖を持った北原三枝じゃ、さまにならないね」

「僕は北原三枝に似ていると思ったけど、親父はあなたのことを芦川いづみにそっくりだと言っていました」

「日活のトップ女優の二人に似ていると言われたら悪い気はしないね。娘が聞いたら、大笑いするよ」

 やはり大和田邸は影も形もなく、そこにはどこにでもあるような小さなマンションが建っていた。

「ここに立派な門があって、そこから玄関までは石畳が続いていて、石畳はいくつあったか坊ちゃんは覚えていますか」

「さあ、どうだろう、気にしたこともなかったな」

「石畳は13個です。私は思ったもんです。石畳1個を1年とすれば13年、あと13年すれば私も30歳、その頃まではこのお屋敷でお手伝いさんを続けたい。母に仕送りして、何とか母を楽にしてあげたい」

「お母さまは女手一人で美千代さんたち兄弟を育て上げたんですよね」

「父が南方で戦死して、もうかれこれ80年が経ちますね、いまだに遺骨は帰ってきません」

「そうですか」

「でも仏壇には遺骨の代わりに小さなハンカチが飾られているんですよ」

「形見のハンカチですか」

「それがね、私の小学校の運動会の時、父母参加の借り物競争があってね、母が参加したんです。母がドキドキしながら紙を広げると「校長先生のハンカチ」と書いてありました。母はまたドキドキしながらテントに座っている校長先生の所へ行って深々と頭を下げてハンカチを借りたそうです。

あとでハンカチを返しに行くと、これは記念にお母さまに差し上げます、と言ってくれたそうです。その校長先生は亡くなった父親の昔の担任だったそうで、旦那様の遺骨はまだですか、そうですか、大山君はどこにいても必ずあなた達母娘を見守ってくれていますよ、大山君のためにも頑張ってください、とおっしゃったそうです」

「大切なハンカチですね」

「その脇は広い芝生、コイが泳ぐ池もあった。そうそう、噴水もあったよね、春の突風が吹くと水煙になって飛んで行った」

「夏の渇水時期になると、隣のうるさい爺さんが水の無駄使いとねじ込んで来たことがあったな」

「でもあの噴水は池の水の循環だから関係ないわよね」

「それが爺さん大分耄碌しているらしく、何度親父が説明しても納得しないんだ。それで親父は噴水を止めて「水の無駄使いに注意しましょう大和田水道局」と書いたでかい看板を出したんだ。親父もやるよな。あの頃が、親父も自分も一番楽しい頃だったかもしれない」

「そんなことがあったわね」

 彼女はマンションが建つ前にあって昔の光景を思い出していた。

 屋敷跡を後にして次は私が通っていた馬込小学校へと坂道を下った。この辺は特に坂道が多い。上り下りの坂の中に町があるようだ。

「その初めてお宅様へ伺った日、今風に言えば旦那様に採用面接を受けたわよ。応接間で旦那様を待つ間、私の前任者の婆やさんがコーヒーを入れてくれた。のどが渇いていたので、すぐにも飲みたかったけど、じっと我慢していたわ。ほどなく旦那様が出て来て、よく来てくれましたね、どうぞお上がりになって、とコーヒーを指すので、一口飲みました。その美味しかったこと。今でもあの味、忘れません。この年になってもあれ以上美味しいコーヒーを飲んだことはないわよ。

旦那様は煙草に火を点けたわ。いい香りの煙が部屋中に漂いました。今じゃ副流煙とか言うんですってね。勿体ないことです。坊ちゃん、煙草は」

「時々吸う程度ですね、今じゃ吸うところも限られているし」

「そうよね、世間様はなんであれほどまでして煙草を悪者にするんですかね、私にはわからない。それはそうと、旦那様は煙草を吸いながら、生まれ故郷や家族構成や今まで勤めて来た印刷工場のことなどを、世間話のようにして質問したわ。

一段落して煙草を灰皿ににじり消すと

「君、悪いけどそこの窓際に立ってくれませんか」とおっしゃるではありませんか。やはり小説家だけあって、ちょっと変わっているのかな、と思いながらも窓際に立ちました。

「庭の方を見ながら顔だけ僕の方を見てくれる」とおっしゃるのでその通りにしました。

やおら、新しい煙草を取り出すと、それをペン代わりにして、画家がよくやるように指先の煙草を立てて私の方を見透かしました。

「美千代さん、芦川いづみにそっくりだ、深層のご令嬢、芦川いづみの登場だ」そう言うと、坊ちゃんと婆やさんを呼んで「パンパカパーン、お手伝いさん面接試験合格」とファンファーレ入りで発表しました。面白い旦那さまでした」

「親父は、芦川いづみの大フアンだったからね。それに婆やに聞いたら、亡くなった母親も芦川いづみに似ていたということ。

母親は僕の産後すぐに亡くなったから、僕の記憶にはないけど。写真を見る限りだと、そんなに似ているとは思えないけど」

「私自身だって、どこが芦川いづみだと言うのか、全くわかりませんよ。娘にこの話をしたことがあるんですけど、スマホで芦川いづみを検索して、スマホと私を見比べて大笑いしていました。失礼な話ですよ」

「それから女中部屋に婆やと坊ちゃんで案内されたわ。二階の四畳半の奇麗な部屋だった。ここ一人で占領していいんですか、と婆やさんに聞いたわ。すると婆やさんが当たり前じゃないですかと笑っていたっけ。普通の人には当たり前でも、これまでは印刷工場の寮で八畳間四人暮らしをしていた私にとっては天国だった。

 窓から外を見ると明るい屋根瓦が続いていて、その向こうに小高い丘が見えて、神社の森も見えたわ。近くの銭湯の煙突からはのんびり煙が流れている。これまでの「お部屋は北向き曇りのガラス」の部屋とは大違いで、あまりにも明るくて興奮がしばらく収まらなかったわ」



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