人生浪人になるのはまだ早い
昔懐かしいお屋敷はなくなっていた。
年寄りは朝が早い、と言っても特別に熟睡したわけでもない。夜はやることが無くて9時前に寝てしまえば、朝早いのは当たり前のこと。5時前には目が覚めてしまう。冬の夜明けはまだまだ遠い。ポストから凍えた朝刊を取り出し、その手を暖かい湯で癒しながら洗面をしてパン1枚の朝食をとる。地球の遠くから日の出が見え始めたころ、ベランダに出て食後の煙草を1本吸う。その1本も半分ほどで止めて灰皿に残す。それをまた次に吸いなおす。こうすれば20本入りの煙草も40本入りの煙草に早変わり。これも年金暮らしの知恵。
それからソフアーに身を沈めて新聞を拾い読み。金のかからない政治はいいだろうが、面白みのない世の中になって行くだろう。その後朝ドラを見終わっても、まだ8時過ぎ、1日はやたらと長い。
うどん1杯の昼食を終えるとお馬の親子のメロデイが聞こえる。ゴミ収集車が流すミュージック、それを聞くと庭先のゴミネットを片付けに行く。次にポストを覗く。71歳一人住まいの男の決まりきった行動である。
昨年まではサラリーマンの生活だった、と言っても工場のしがない守衛だが、朝だけ見ればサラリーマンには違いない。普通の勤め人のように朝出かけて、そこから違うのは延々と24時間勤務をこなして翌朝帰る。当初は隣近所の世間体、朝帰りが恥ずかしかった。この年で夜勤をやっているの、大変ね、と言った隣近所の眼差しがあるようで気になった。しかし、これも慣れだ。
24時間勤務の守衛をやっている時は、辞めたいと思うことしばしば、一番辛かったのは、夕方のチャイムで工員が家路を急ぐのを見ると、一緒に帰りたくなったことだ。しかし、夜明けまでは、まだまだ遠い。しかし、住宅ローンが残る身の上としては20万弱の稼ぎを失う気にはなれずに、6年間も勤めてしまった。
65歳で役所の再雇用も終わり、たまたまネットで見つけた近くの工場の守衛勤務募集、自宅から自転車で10分ほど、そんな職場も昨年末、解雇通告を受けてしまった。解雇通告とは言え、契約社員だから契約更新しないだけの話、と会社は平気な顔で言うが、こちらとしてはショックだった。理由を聞くと、警備員の若返りを図るので70歳以上はお引き取り願う、との明快な回答。70歳以上とは言え、足腰もしっかりしているし、30歳や40歳のいい加減な若い者に比べても決して引けを取らない、いや、年寄りの方が神経が細やかで仕事にそつはない、と自分は思うのだが。しかし、辞めろと言われれば仕方ない。
と言うことで、6年間勤めた職場を失い、今年から毎日が日曜日になった。71歳になっても気力体力とも昨年と変わったことは少しもない。いや少しばかり落ちたかもしれない。守衛をやっている当時は辞めたくなることもしばしばあったが、仕事がなくなって見ると、寂しいものだ。朝起きて行く職場があるとないでは大違い。収入面はもちろんのこと、背骨の一部が剝ぎ取られたように元気が出ない。それに1日がやたらと長い。
そんなことで何か仕事をしたいと思い、仕事探しを始めた。日曜日の朝刊に仕事探しのチラシが入っていた。1日5時間のマンション清掃、これなら自分でもできそうだ、と応募してみた。清掃なんて、と馬鹿にしていた訳ではないが、やってみると存外身体がきつい。そりゃそうだ我が家でやっているようないい加減な掃除では飯は食えない。清掃員らしい働きをしないと給料はもらえない。見るとやるでは大違い。所詮、役所仕事と、その後の守衛は、肉体労働とは程遠い世界だった。その自分が肉体労働はもともと無理だった。
身体もきつかったが、昼休みの休憩時間を過ごすのは、モップや箒がしまわれているコンクリート打ちっぱなしの狭い倉庫、もちろん窓はない、そこにパイプ椅子が置かれているだけ。昼飯のパンをかじっていると情けないとか、見すぼらしいとか思うわけではないが、そこまで裸になることはないのでないかと思った。3日目にはチーフに辞めることを告げた。理由一つ聞くではなくあっという間に了承された。一晩寝られずにあれこれ辞める理由を考えていたのに。年寄りのアルバイトはこんなものか。
ポストには珍しく手書きの封書が入っていた。ほとんどが健康サプリの宣伝チラシや、道路工事のお知らせ、ダイレクトメール便だから、ペン書きの封書は新鮮だ。封書を裏返すと昔のと言っても、60年も前に我が家にいたお手伝いさんの美千代さんからのものだった。
美千代さんとは賀状の交換は欠かしたことが無かったが、封書が来ることは滅多になかった。娘さんの結婚式の招待状が送られてきた事があったきりだ。何かあったのだろうか、最近は滅多になくなったドキドキ感をもって封書を開いた。
拝啓
ようやく春の兆しがみえてきましたね 昨日は春一番が吹いたとか、暖かいはずです。
年賀状のご挨拶の他にあらたまって手紙を差し上げるのは久しぶりのことです。
今時、封書で手紙が来て何事かと驚いていらっしゃる坊ちゃん(70過ぎた高齢者に坊ちゃんはないだろう、と迷惑がっていますか、私にとっては坊ちゃんはいつまで経っても坊ちゃんなのです)の顔が見えるようです。
特別なことではないので、どうかご安心ください。
最近、昔の坊ちゃんのお屋敷でお手伝いとして働いていたことがしきりに思い出されるのです。買い物かごを下げて自分の影法師を見ながら坂道を上り下りしたり、その途中、電信柱に貼られた色鮮やかな石原裕次郎の映画ポスターに憧れを抱いたりしたことが、つい昨日のように思い出されるのです。
それからこんなこともありましたね。小学校の脇を通ると休み時間でしょうか、みんながドッチボールでキャーキャー言いながら遊んでいるそばで、花壇のレンガに腰を下ろして一人佇んでいる坊ちゃんの姿を見たり、その日、坊ちゃんが学校から帰ると、すぐに
「美千代さん、僕って変な子供と思うでしょう。みんなは楽しく遊んでいるのに、みんなの中に入れなくて、一人レンガに座って、まるでお地蔵様だよね」とおっしゃるので、私は言いましたよね。
「そんなことはないよ、坊ちゃんは少々大人っぽいから、みんなと遊べないだけ。一人はやっぱり寂しいの」
「別に寂しかないよ」
「それなら、ひとりで堂々としていればいいんじゃない」
そんな光景がまるで他人事のように、よく夢の中に出てくるのです。
当時、私は中学を卒業して集団就職で東京に出て来たばかりの山出しの娘、坊ちゃんはまだ小学生でしたね。小説家の旦那様はまだ30歳代でした。当たり前のことですが、みんな若かった。
この私が78歳の後期高齢者で坊ちゃんが71歳の前期高齢者とは驚きです。亡くなった旦那様は生きていらっしゃれば90歳半ば、旦那様が亡くなってから10年は経つでしょうか。早いものです。そう言えば、最後に坊ちゃんとお会いしたのが旦那様のお葬式でしたね。
こんなことを考えていたら、東京へ行って、昔懐かしいお屋敷の近くを散歩したくなりました。もちろんお屋敷はもう跡形もないでしょうが、あたりの空気を吸いたくなりました。
私も元気でいられるのは残り僅かと思います。新潟から東京見物に一人で出かけられるのは、今をおいてはないと、決心した次第です。気候も良い4月半ばに行きたいと思いますので、その際は御同伴をお願いできましょうか。勝手なお願いで申し訳ございません。
かしこ
2024年2月20日
大山 美千代
大和田 健一 様
拝啓
嬉しいお申し出、有難うございます。学校の休み時間の話は今でもよく覚えています。あなたの「堂々と生きて行けばよい」と言う言葉に、友達のいない私はどんなに勇気づけられたことでしょう。
昭和30年代の半ばに大森馬込の屋敷が人手に渡り、多摩地方の小平に引っ越してきてから60数年が経ちます。今では小平は立派なベッドタウンですが、あのころは私が住んだ近くの西武線の駅は30分に1本でした。電車が近づくと事務室から駅員がのんびり出て来て改札口を塞いでいたチェーンをカラーンと開ける。そうすると待合室にいた4、5人の客がのんびりと改札を通りホームへ上がる。そんな田舎町でした。
転校した小学校には都内では当たり前だった給食がありませんでした。父がご飯の上に炒り卵と海苔をのせた弁当を持たせてくれました。こんな時、美千代さんがいてくれたらなあ、と思ったものです。
あれから実家のあった大森には、ほとんど行ったことが無いので、相当様変わりしていることでしょう。もちろん仕事などで大森に行ったことはありますが、実家のあった馬込には行っておりません。特に意識してのことではないのですが、夜逃げのようにして引っ越しをしたので足が向かなかったことは事実です。
日程が決まり次第、ご連絡ください。できれば我が家に泊まってもらえばとも思うのですが、狭いボロ家では失礼でしょうし、お互いに気を遣うでしょうから、安いホテルを紹介します。
敬具
2024年2月22日
大和田 健一
大山 美千代 様
拝啓
お優しいお気遣いありがとうございます。娘の婚家先が中野にあるので、孫の顔を見るついでに、一晩か二晩厄介になるつもりですのでホテルの方は結構です。
なぜ急に昔のお手伝い先のお屋敷あたりを散歩したくなったのかは、私でもよくわかりません。しいて言えば、連れ合いが昨年亡くなったからでしょうか。それほど仲のいい夫婦でもなかったし、離婚を考えたこともあったくらいです。家にいても顔を会すのは3度の食事時だけ、夫婦らしい会話もなく、事務連絡程度の会話があっただけです。
そんな夫婦でしたが、夫を亡くしてから、あるべきところにあるものがない、と言っては夫に失礼ですが、やはり一抹の寂しさを感じるものです。
娘に東京行きのことを告げると、大森に行ったって面白いことはなにもないよ。お母さんがお手伝いしていたのは昭和30年代のことでしょう。当時を忍ぶと言っても、そんなものはなにも残っていないよ、大森は辞めて孫と一緒にデニーズランドへ行こうよ、と言うのです。
私は、当時の空気を吸いたいだけなのですが、こんなことは娘でもわからないでしょうね。
かしこ
2024年2月25日
大山 美千代
大和田 健一 様
拝啓
私ごときが言うのもなんなのですが、夫婦なんてそんなものじゃないですか。それは、仲のいい夫婦もいることはいるでしょう。「徹子の部屋」に出てくるような、加山雄三夫妻のような夫婦もいるでしょうが、それはごく一部で、それに俳優としての多少の演技もあるのではないですか。
私も5年前に妻を亡くしましたが、夫婦が夫婦としていられるのは子供がいるときだけ(お子さんのいないご夫婦には失礼な言い方ですね、あくまで私個人の感想です)だったような気がします。
子供が巣立っていくと、美千代さんの言う「事務連絡」ではないですが、その程度の付き合いだったような気がします。そうは言っても、美千代さんの言う通りあるべきものがない、と言う寂しさはありますよね。
30年ローンで建てた家の中に、これは妻に対して全くひどい言い方ですが、呼吸をする私以外の生き物がいない、これは寂しいものです。風呂に入っていて、テレビを見ている妻がいないことに気づいて、点けっぱなしのテレビの音声だけが見るものもなく隣の居間から流れて来る。そんな寂しさはありますよね。
大森でお会いすることを楽しみにしています。
敬具
2024年2月28日
大和田 健一
大山 美千代 様