おとぎの魔女と終わる物語
朝食に食べられないパンが出てきたので、私はとってもがっかりした。久しぶりにまともで大きなパンが出てきたと思ったら、中にネズミの死体が入っていたのだ。
美味しそうなパンを見せておいて食べさせないなんて、悪質な嫌がらせだ。それにしてもパンがもったいない。こんなに綺麗でふっくらした白パン。これで何食分になっただろうか。悲しい。
ネズミを取り除いてお墓を作ってからも、名残惜しくパンを眺めていたが、どうやったってパンは食べられない。ネズミは疫病を運ぶって物語で読んだもの。食べたら死んでしまうかもしれない。
そうだ、どうせ食べられないなら、ちょっと魔術を試してみよう。
魔術については、物語で読んだことがある。きっと私にだって出来るはずだ。
白パンを上からぎゅっと押し潰して、粘土のようにこねていく。しっかり捏ねたら、頭と手足のある人形に整える。胸の真ん中には自分の髪の毛を一本埋め込んで、厨房から盗んで隠しておいた塩をパラパラ。それからおまじない。
プイプイぱっぱ、プイぱっぱ、私のお願い、聞いてちょうだい。
するとパン人形からゆらゆらと煙が立ち上ぼり始めるので、人形遊びをするようにだっこしてゆらゆらしながら、更におまじないをした。
プイプイぱっぱ、プイぱっぱ。私の代わりに、悪いもの、すべて引きうけて死んでちょうだい。
こうすると、身代わり人形が作れると物語にあったのだ。
ゆらゆらと一緒に体を揺すりながら、まるでパン人形とワルツを踊るようにくるくる回る。パン人形はゆっくりと手足を伸ばし、やがて白い足が地面についた頃、私は二人になっていた。
そっくりな顔立ち、背丈、手の指の長さまで一緒! 本で読んだ通りだ。
魔術の成功に満足して、私は私の手を引いてクローゼットへ。2枚しかないドレスだけど、2枚あってよかったわ。はだかんぼじゃ身代わりにするわけにはいかないものね。
せっせと身代わり人形に服を着せて、わあ、本当に私ね、くるりと一回転。私の後ろ姿は初めて見るけれど、尻尾だって生えていないし、きっと完璧だわ。寝癖はついてるけど、きっと私だってついてる。もうすぐ来るメイドにいつも怒られるの。でも、今日はこの子がいる。
私はクローゼットに隠れているから、メイドの小言を代わりに受けてもらっていーい? と頼むと、人形はにっこり笑った。どうやら言葉は喋れないようだけど、私も普段は喋らないから平気。
私はクローゼットの戸を閉めて中に隠れる。
そう時を置かずに、慌ただしく、なぜか普段よりたくさんの人が私の部屋へ雪崩れ込んできた。
戸の隙間から伺っていると、彼らは私を悪し様に罵りながら引きたて、まるで罪人のように腕を引いて立たせたかと思えば、騎士が剣を抜いて一息にその胸を突き刺した。
ピリッと指先に痛みが走って血が出る。魔術の反動だ。わあ、でもここで人形が元に戻るのは困ってしまう。私はその血を通じて『人形の胸から血が吹き出す、そして人形は明日まではパンに戻らない』と続けて念じた。血を代償にする魔術は重い効果があるって、物語で読んだものね。
人形が刺された瞬間に止まったような時が、その胸から吹き出す血で動き始める。あれはパンの中身を変換しているだろうから、少し干からびてしまうかも? でもきっと死体の乾燥具合なんて気にされないはず。
不法者たちは人形を担ぎ上げるようにして、窓から投げ捨てた。そしてついてきていたメイドが心得たように悲鳴をあげる。あら、あらあら。
そして部屋は封鎖され、すぐに掃除メイドによって床の血飛沫の清掃が行われる。わあ、すごい、証拠隠滅の手際もいい。
そこまで終わると、部屋は静かになった。でも本当に誰もいないのか、今クローゼットから出ていいものかわからない。隙間から伺う限りではいないけど、部屋の外から見られている可能性だってある。
私は目を閉じてクローゼットの中で丸まった。大丈夫よ、クローゼットの中はなかなか見つからない。物語でもそうだったもの。だからまだ時間はある。でも、最後まで見つからないわけじゃない。考えなくちゃ。
すっかり夜になった。外は暗くて、戸の隙間からはもうなにも見えない。明かりを灯すことも出来ない。見回りは4回、この部屋に来て、クローゼットは見ずに帰っていった。
次に誰かが来たら、私は見つかってしまうだろう。5匹目の子やぎは、食べられてしまうさだめ。でもこの部屋に大時計はなかったんだもの。
足音が近づいてくる。私はぎゅっと目をつむった。
キイ、とクローゼットが開かれる。
「ひめ」
ささやくような、ほとんど音のしない声にあわてて目を開ける。
「影さん」
「ひめ」
伸びてきた大きな腕に、私も手を伸ばして抱きついた。影さんは黒い影をぎゅっと濃縮したような姿をしているが、人間だ。そっと背を撫でられて無事を確認される。
怪我はないし、落ちてもいない。あれは人形だったのよ、と私がいうと、影さんは脱力して、もう一度私を抱きしめた。ご無事でよかった、と。
この国にも、祖父の国にも、これほどただ私の身を案じてくれる人はいないだろう。
私は既に大勢に死体を見られていて、いまさら本物だと出ていっても信用はされまい。なんといっても落ちた遺体があまりにも惨いから、という理由で早々に棺に仕舞われ、窓も閉ざされてしまったらしいし。
仮にも一国の姫だというのに、あんまりな扱い。いや、それは今に始まったことではないのだけれど。
「影さんはどうして来てくれたの? この部屋に入るのは大変じゃなかった?」
証拠隠滅を終えても何か見られると気になるのか、それともポーズなのか、ここは窓下も部屋の前も警備が厳重に敷かれているらしい、と外の会話から知った。
外の鳥に意識を飛ばすのは得意よ。魔女なら朝飯前だって物語で読んだし、たくさん練習したから。
でも外へ出る方法は知らない。私はここで生まれて、ここから出ることもなく育ったから。このままここで死ぬのかも、と思っていたから、影さんの手にとっても安心した。
「あなたは怖いことがあると、ここに隠れていましたから。それに、畏れ多いことですが、あなたのものが残されているのはここだけですし」
勝手ながら形見をもらいに、と言われて、はっと気がついた。
そうか、影さんは、おそらく殺されるのだ。守るべき姫を守れなかったから。それに、もしかしたら姫が殺害される瞬間を見ていたかもしれないから、口封じも兼ねてだろう。
この部屋が厳重警戒だったのは、影さんが戻ってくるかもしれないからか。
大きな腕に顔を伏せると、夜風の冷たさに紛れて血の匂いがした。影さんは、狼さん。
「ここより、命に懸けてあなたをお逃がしいたします」
「影さん。影さんは私と一緒に来てくれるのね? 私に命をくれる?」
「もちろんです。元より、あなたのために捧げた命ですから」
影さんはどうしてこんなに私を慕ってくれるのかしら――なんて、とぼけたことを言うつもりはない。これが私の、魔女の力だって物語でも読んだもの。魔女は魅了が得意なの。だって魔女は守ってもらわなければすぐに殺されてしまうんだもの。物語ではいつもそうでしょ?
だから私は、影さんを手放すつもりはない。みすみす誰かに殺されたりはしない。
だって私は、魔女だもの。
物語でも読んだわ。覚醒したら、自分がそうと認めたら、魔法使いはいつだって無敵なの。
「わかった。なら、一緒に行こう。こっちだよ」
影さんの手を取ってクローゼットへ引き込む。そして、クローゼットの奥を押す。キイ、と音がしてそこが開く。まるで、こちら側にも戸があったみたいに――いいえ、今、繋いだの。私は知っている。
「これは…!?」
ほら、扉は開いた。
◆ ◆ ◆
「物語でね、読んだのよ。クローゼットは魔法の扉になるの。見知らぬ遠い場所にしか繋がらないのが難点なのだけど」
古王国の魔女姫の娘、現王の末の王女。
黒髪にヘーゼルの目、小柄な体、不可思議な言動。
命に代えても守れ、という命がどこから下ったのか、実のところ知らない。影に知る術はなかったし、知っても意味のないことだったから。
元々変わった姫だったが、遠巻きにされるだけで、特に命を狙われることなどはなかった。王族というのは大袈裟なことをいうものだ、と眺めていられたのは今年の春までのこと。
王女が十二になって、そろそろ婚約をと話が上がり始めると途端にきな臭い事態になってきた。
一体何が起きているのかと探ってみれば、またずいぶんと荒唐無稽な話が出てくる。
隣は古王国の王は若い頃、魔女に戯れに手をつけて裏切ったそうな。そして魔女の娘、つまりは魔女姫を押しつけられたらしい。押しつけられたといっても、間違いなく自分の血を引く娘だったのだが。
『我が血脈は魔女を生み繋ぐ、もしこの娘が不幸となりその血が途絶えるならば、呪いがお前を殺すだろう』
魔女はそう王に告げたらしい。だから王は魔女姫を厭い、けれど厳重に育て、我が国へ送った。必ず娘を生ませよと多額の金を払って――まるで売り払うように。
そして魔女姫が娘を生んだ時点で、その呪いの対象はその娘の父――つまり我が国の王に移ったそうだ。
この話が隣国から知らされたのが、無事に魔女姫が娘を生んだあとだったものだから、王は大いに泡を食ったらしい。
そんなわけで、ひめを狙う勢力は主に三つ。
実に他力本願な話だが、王に呪いをかけるために娘を殺そうという勢力がまず、ひとつ。
娘が降嫁しそうな家が、呪いが降りかかることを避けるために先に殺してしまおうとするのが、ひとつ。
それからもうひとつが、母である魔女姫だ。娘が成長するにしたがって魔女の力を失い始めたと専らの噂で、力を取り戻すために娘を殺めようというのだとか――。
びょうとクローゼットの向こう側から冷たい風が吹きつける。こちらは夜だというのに、その向こうはぼんやりと明るく、こちらはもう春だというのに、あちらは雪が舞っている。
すうっと冬の空気が血臭の詰まっていた胸を濯いだ。
どいつもこいつも呪いだの魔女だのって、頭がおかしいのではないか、と影は思っていた。――最初は。
影の「ひめ」は、物語が大好きなだけの、ちょっとどんくさい普通の女の子だった。――最初は。
だが、今は影も知っている。
この姫は間違いなく魔女だ。それも、どれほど荒唐無稽な魔法でも本人が使えると思ったら使えてしまう、とんでもない魔女だ。
それでも魔法というものは、どういう効果が出るのかが最低限明確でなければならない、らしい。そのため姫は『物語に出てくる魔法』が得意だった。
「みにくいアヒルの子は本当は白鳥なのよ」
小さな手が撫でるたびに、影のみにくい肌からぼろぼろとデキモノは落ちていった。
どういうわけか黒髪まで白髪にされたのは参ったが、物心ついた頃から痒くて汚くて煩わしかった体がなめらかになったのは、間違いなく魔女の力だった。
「影さんは狼さん。狼さんは物語では悪役が多いけど、魔女だって悪役だもの」
ひめはそういって影を慕った。
「私の狼さん。殺されるときは一緒よ。井戸に落ちるときは連れていって。竈へ落ちるときには連れていくわ」
影にとって守るべきものであるひめは、いつの間にか影を守る大きな夜となっていた。
影にはひめのことは何もわからない。魔女のことは何もわからない。
それでも、ひめの語る物語のことは知っている。それは影がひめに与えてきたものだ。
閉じ込められて哀れなひめにと、影が差し入れてきた物語の本は擦りきれるほどに読み返されてきた。
市井にあふれるありふれた物語は、飽きもせずさまざまな魔法を生み出し、ひめはそこから水を飲むように魔法を覚えた。
けれど物語は、いつだって魔女を迫害し、追い出して、殺して、結末を迎える。
ひめは物語の魔法に習熟するのと同じようにして、己の運命を定めてしまった。
いずれ白日の元へ引きずり出され、老婆のようにしわしわに崩れて、燃えさかる竈へ放り込まれる。それが世界の望みなのだと、ひめは思い込んでしまった。
クローゼットでふるえて泣いていた少女に昔語りをした。目を輝かせた少女にねだられるままに物語をかたって聞かせた。影の知る物語がなくなれば本を与え、今度はひめから読み聞かせられた。
希望のためにと聞かせた物語が牙をむくのであれば、影には盾になる覚悟があった。その結末が悲劇だというならば、影には共にいく準備があった。
この先がひめを守っての死であれ、処刑であれ、燃えさかる竈の奥であれ、影の心は決まっていた。
「閉じると、扉は消えてしまうの。一方通行なのよ。本当に一緒に行ってくれる? 迷いはない?」
「ありません。…ただ、冷えますから上着は持っておいた方がいいでしょう」
ひめは真っ黒な目を三度またたいて、ぱちぱちと睫毛を揺らし、ふっと瞳の色を変えた。
「そうね! あっ、着替えもいるわよね? わあ、あっ、旅をするのよね?」
「そうですね。あちらはどうやら冬のようですから。鞄はありますか?」
「ないわ! でも、よく考えたら着替えは人形が着ていってしまったから、持っていないの。向こうで手に入れないといけないわね」
身ひとつで身軽だわ、と一国の姫とは思えない台詞を言いながら、ひめは頬をほんのりと紅潮させて嬉しそうだ。
クローゼットをひっくり返しても上着になりそうなものは見つからず、「きっと誰かが持っていってしまったのね」と、ひめはそれでもにこにこと微笑んでいる。
悲しくはないか、などと聞くのはもうずいぶん前にやめた。奪われることや虐げられることに慣れすぎたひめは、それを当然のものと受け入れてしまう。
結局ハンカチ2枚だけを懐に入れて、ひめの旅支度は終えてしまった。
控えめに差し出された手を握ると、ひめはいつものように脇腹に抱きついてきた。
びゅうびゅうとクローゼットの向こうからは雪と風が吹いてくる。
「もしこの先が違う世界でも、いっしょにいてくれる?」
顔をあげないまま、ひめが言う。
「あなたの行くところであれば、何処へなりとも」
ひめは影の脇腹から顔をあげて、満面の笑みを浮かべた。
そしてふたりは、クローゼットの奥へ踏み出す。
見知らぬ深い雪降る地へ。
「憎まれた魔女は異世界へ消えるのよ。世界はハッピーエンドを迎えるわ」
閉じようとする扉を振り返って、ひめがほほえむ。
「はい。幸せに終わるのでしょう」
悪役が消えれば、物語は終わる。
ひめが『物語の終わり』をどう捉えているのか――影は少し思いを馳せたが、またたきひとつで忘れ去ることにした。
クローゼットを通り抜ければ、深い森と雪の中。
ひめと影の新しい物語は、ここから始まるのだから。
これは異世界転生したベストセラー作家がいた世界のお話…