第9話 甘えられる相手
結果から言うと、宏美が役者として覚醒することもなければ駆が本気になることもなかった。
それでも駆の異常な演技力は居合わせた者たちに深く刻み込まれることになる。また、宏美もそんな彼を相手にしながらも一歩も引かないどころか、見る見るうちに駆け出し程度にまで成長を遂げることになった。
事務所の表向きの目標は十分に達成できたと言えるだろう。そのことを裏付けるように、宏美と駆が行った挨拶回りでは名刺という大量の戦利品を手にすることができていた。
「それなのに、この重苦しさは一体なに……?」
後部座席の駆が虚ろな目でそう漏らしてしまうほど、帰りの車内にはどんよりと暗い空気が充満していた。ちなみに、彼以外の同乗者は運転手の子島を除くと助手席に座っている宏美ただ一人となる。
そして異常重力波の発生源となっていたのもまた彼女だった。
「……宏美、そろそろ切り替えなさい。あなたと駆君では役者としての年季が違うのだから敵わないのは当然なのよ」
厳しいようだが、子島の言葉はれっきとした事実でもある。駆、山口ツトムは幼い頃から緊急時の代役や突発的に追加された役などを務めてきた。
一方の宏美はアイドル業が最優先で役者業はあくまで興味がある程度でしかなかった。まあ、事務所的にはグループ卒業後の選択肢の一つとして有力視していたのではあるが。
話を戻すと、素人同然の彼女がどう逆立ちしようがベテラン並みの芸歴――年間当たり数回から精々十数回の仕事を熟していないとしても――を持つ彼に並べるはずがないのだ。
それ以前に、グループのメンバーたちは常日頃から駆のハイスペックさを目の当たりにしている。だから今回もすぐに受け入れるだろうと考えていたので、この反応は完全に予想外だった。
現場では折れることなく食らい付いていたので、てっきり割り切ったものだと思っていたのである。
「……ごめんなさい。この前のこともあってどうにも自分が不甲斐なく思えちゃって」
「この前?」
「新曲の振り付けを練習した時のことです。無理を言って協力してもらったのに、わたしの方が先にダウンしたんです……」
「なるほど。その一件で迷惑をかけていたのに、今日もまた足を引っ張ってしまったと思っている訳ね」
納得したような振りをしながら視線を移動させてみれば、バックミラー越しに顔をしかめた駆がゆるゆると首を横に振っているのが見えた。どうやら二人の真実はそれぞれに異なっているようだ。
「前にも言いましたけど、宏美さんはダンスと一緒に歌も口ずさんでいたんだから体力が先に尽きちゃったのは当然ですよ。それに今から思えばあの時はもう後がないって精神的にも追い詰められていたんじゃないですか?」
だからこそ倒れそうになるくらいまで続けて練習に没頭してしまったのではないか。
「駆君の意見も一理あるかな。宏美はちょっと自分にばかり責任を求め過ぎね」
一見すると責任転嫁をすることなく他人に失敗の原因を押し付けたりしない良いもののように思えるかもしれないが、度が過ぎれば決して褒められたものではなくなる。
例えば、本当に別の誰かの責任で失敗してしまった時でも、その責任を追及できなくなってしまう。極論ではあるが該当する人物が反省して成長するための機会を奪うということになりかねないのだ。
「あなたにそんなつもりがないのは分かっているわよ。これまでと違った新しいことへの挑戦で気が張っていたことも理解できる。でもね、だからこそもっと鷹揚に構えておくべきだと思うの。だって今のあなたはアイドルグループ一期生の志摩宏美なのだから」
以前にも述べたように、メンバー最年長の彼女は理想のお姉さんとしてファンから見られることが多く、グループ内でも――主に歩の突拍子のない言動を諫めていたことから――二期生や三期生からは同様の扱いを受けることすらある。
酷なようだが、そうしたイメージを損なわない立ち居振る舞いも必要なのである。
「宏美のキャラはどちらかと言えば秀才寄りだから努力をするのはいいの。だけど落ち込んだりするのはダメ」
「子島さん、いくらファンの人たちが求めているものが安定と癒しだからって、それはちょっときついんじゃないですか?そんなことを続けていたら宏美さんが潰れちゃいますよ」
「あら、そうなる前に駆君が宏美の癒しになってくれるでしょう」
「え?」
「そりゃあ、宏美さんのフォローをするのはやぶさかじゃないですけど」
「え?え?」
「それなら良いじゃない。宏美、辛くなったら駆君に甘やかせてもらいなさい」
「え?あ、はい。……えと、よろしくね駆君」
この時、子島と駆は「グループのメンバーなら誰でも」という重要な一言をつけ忘れていた。平素の宏美であればそういう意味合いだったと気が付いたことだろう。だが、この時は初めての役者体験で疲弊していた。
そんな時に思いもかけない優しい言葉をを投げかけられたことで、心底動揺してしまっていた。結果、いきなりの展開にぱちぱちと目をしばたたかせながらも、額面通りに受け取り甘える宣言をしてしまったのだった。
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それからおよそ一週間後、先輩女優を通じて宏美たちの元に一つの動画ファイルが届けられた。
「あの時撮ったやつを放送する本CM風に編集したものだってさー」
その場にいた全員が悪乗りしたお遊びのようなもの、というのが暗黙の了解になっていたはずなのだが、あちらは律儀にも編集して完成品として仕立て上げたらしい。直接事務所に送られてこなかったのは、窓口となった彼女の顔を立てたということなのだろう。
加えて、大っぴらに表には出せないことも関係していたと言える。動画そのものの流出はもちろんのこと、感想なども一切外に漏らしてはいけないと先輩女優からもしっかりとその点は釘を刺されることになるのだった。
「今、再生専用のディスクにしてもらっているから、もうすぐ視聴室で見ることができるようになると思うよー」
「おおー!姐さんありがとうございます!駆君の出演作品とあれば見るしかない!」
「どうどう。歩はちょっと落ち着こうか―。それと同じグループのメンバーなんだからまずは宏美ちゃんを応援してあげなさいよー」
駆と同じく歩のことも幼い頃から知っていることもあって、その扱いは堂に入ったものである。
「宏美さんと駆君が主演のCMかあ」
「すっごく気になるけど、見ちゃったら誰かに話したくなりそう」
「う……、同じく。わたしらは今すぐ見るのは我慢した方がいいかも」
「えー!みんなで見よう?そして駆君のことを語り合おう?」
「歩、あんんたねえ……」
「見るな語るななんて野暮なことは言わないけど、そういうことは本っ当にモニタースペースの中だけにしてねー。うちだけじゃなくて色んな所に迷惑をかけることになるからー」
「は、はい!」
笑顔のままマジトーンになった先輩女優に、その場にいたグループメンバー全員が直立不動で返事をする。あえて露出先を既存メディアにのみ限定していることもあって、知り得た情報の取り扱いについては業界内で信用信頼を得ることと並んで厳しく教え込まれていたためだ。
ところが、この映像は予想外のところから世間に流出してしまうことになる。
『ここのCMスタッフマジ最悪!!私がいない間に勝手にこんなの作ってた!?!?』
例のドタキャンをした女性タレントが自身のSNSに掲載してしまったのだ。共演者側の事務所やCMを依頼した企業からの苦情や批判を受けてこの投稿自体は半日ほどで削除されることになったのだが、正式公開前のCM動画ということで面白がった連中によって瞬く間に拡散されてしまう。
「これが悪い見本だよー。デジタルタトゥーじゃないけど、一度でもネットに乗って広がってしまうと完全に消すのはとっても難しくなるから、みんなも気を付けようねー」
「はーい」
「その被害を絶賛受けている最中のおれたちの前でそれを言います?」
先輩女優と歩たちグループメンバーによるコントのようなやり取りにジト目を向ける駆。世の中には有能な者がいるようで、動画の出演者が宏美と山口ツトムだと特定されてしまっていた。
幸いにもまだ両者ともに仕事や日常生活に影響するようなことにはなっていないが、事務所には問い合わせの電話やらメールやらが殺到しており、駆と歩の母親の湊を含めた事務職員や裏方スタッフたちが対応に追われる羽目になっていた。
なお、もう一人の当事者である宏美は恥ずかしさのあまりか、駆の隣で机に突っ伏していた。CM風に編集されたものですら拙い演技だと自覚していたのだからさもありなん。
「だけどさ、ネットの評判は良いんだよね」
歩たちがそれぞれ持つアイドルとしてのSNSにはファンからの応援メッセージや高評価の反応に溢れていたし、一連の騒動を題材にした掲示板ではあまりの出来の良さに全てが仕込みなのではないか、という意見まで飛び出していたほどだった。
「まあ、被害の方は被害の方で私たちも含めてしっかり申し立てていくから心配しなさんなー」
「それはありがたいんですけど、姐さんたちが非難されたり文句を言われたりはしてませんか?」
「ないないー。だって私らは時間と場所を有効利用しただけだからねー」
要はそういう体で押し通すことに決まったらしい。
「という訳で残る問題はあと一つだねー」
その言葉に全員の視線がある一点、宏美へと向けられる。
「あー、えー、……大丈夫ですか?」
「……大丈夫じゃない」
視線でせっつかれて皆の代表として尋ねる駆だったが、返ってきたのは突っ伏した体勢でのくぐもった声だった。
「選りにも選ってあんな下手っぴなのが拡散されてるなんて。……もう死にたい」
「いやいやいやいや!落ち着いてくださいよ。初めての撮影であそこまでやれたら上出来ですって!」
「嘘」
「嘘じゃないですってば!さっき姉さんも言ってたようにネットの評判だって上々なんですから」
中には「アイドルとしては」と前置きを付けたり、「所詮はアイドル」とこき下ろしたりする意見もあったが、世間からはおおむね好意的に評価されていた。むしろここでは駆の方が相手に配慮しない独善的な演技として批判されることが多かったほどである。
「うう、ダメ。辛い。恥ずかしい。駆君、慰めてえ」
「うわっ!?」
不意に宏美が首根っこに縋りつくように隣の駆へとしなだれかかる。
「あああああああああーーーーーー!?!?」
「おおおおおおおおおおお!?!?」
その瞬間、部屋の中がどっと沸いた。ちなみに前者の悲鳴染みた抗議叫びが歩他二名で、後者の驚きと感嘆を兼ね備えたものが残りのメンバーたちのものとなる。
「弟に抱きつけるのは姉の特権なのにい!」
「何やってるんですか宏美さん!うらやま、じゃなくてはしたないです!」
「くうっ!わたしなんてまだ頭を撫でてもらったことしかないのに……!」
「だって駆君から甘えていいって言ってもらったんだもの。お言葉に甘えて甘えさせてもらってるの。もっと甘やかしてえ」
そんな駆ガチ勢たちからの批判も何のその。しれっと答えて抱き着く力を強めていく。
「確かにそんなことも言いましたけど!?……ちょっ!?む、胸当たってますから!?」
「甘えるがゲシュタルト崩壊してる?」
「とりあえず宏美が甘えたになっていることだけは理解した」
「うわー。さすがはお姉さんキャラな宏美さん。大胆だわ……」
「宏美さんまで参戦とかどんな無理ゲー……」
「だから早く告白しちゃえって言ったのに。この子はホントにヘタレなんだから」
先程までの深刻で真剣な空気はどこへやら。ギャーギャーとすっかり騒がしくなってしまった。
「いやー、宏美ちゃんもなかなかに強かでやるねー。やっぱりあの子、役者に向いていそうだわー」
騒ぐ彼女たちと慌てふためく駆を見ながら、先輩女優は密かにそんな評価を下していた。