第1話 山口さんちの駆くん
新作です。書いたのは一年以上前ですが新作なのです。
「ふぁ……」
リビングのソファにだらしなく寝転がって、山口駆は小さく欠伸をして体を伸ばした。
壁に掛けられた時計を見てみれば、その針は十時まで間近に迫っていた。あと二時間もすれば世間の大半の人にとって憂鬱な月曜日がやって来ることになる。
眠い。正直に言ってかなり眠い。が、今眠りに落ちてしまえば次に目覚めることができるのはさんさんと光り輝く朝日の中になるのは確実だ。
子どもの頃のことが影響しているのか、駆は寝るのは嫌いではない、どころか好きな方だ。特に惰眠をむさぼるのが堪らない。十代半ばの成長期ということも相まって、やろうと思えば一日中寝て過ごすことだってできるだろう。
まあ、ゲームやら他にもやりたいことがあるから、さすがに実行に移したりはしないが。
それはさておき、今現在のことである。駆には眠る訳にはいかない理由というものが存在していた。たった一人の姉である山口歩を出迎えるという大役を受け持っているからだ。
眠気に支配された頭と眼差しでぼんやりとソファの正面におかれたテレビを見やる。ローカルの天気予報が流れていた画面、わずか数十分前にはそこに歩がリーダーを務めるアイドルグループが大々的に映し出されていた。
昨今のブームに乗って彼女たちのグループはメジャーデビュー以来順調にファンの数を増やし続けてきた。あえてコンサートの回数を限定して露出をテレビやラジオなど既存のメディアだけにする独自路線を敷いたことも功を奏したと言えるだろう。
デビュー六年目の今では名実共にアイドルグループの代表格の一つとして芸能業界では認められるようになっている。
もっとも、デビュー初期は先立つものがなかったことに加えて、メンバーの全員が中学生だったので諸々の法律などによる規制のためコンサートを開きたくても開けない、というのが実情だったのだが。
そんな歩は先月高校を卒業して以降、これまでのうっ憤を晴らすかのように精力的にアイドル業に邁進していた。それまでの歌番組だけでなくバラエティー系の番組への出演が可能になったこともあり、テレビでその姿を見ない日はないのではないかと思えるほどである。
そうした裏には、一年早く高校を卒業して芸能活動に専念していた数名の同期たちに置いて行かれるような焦りもあったのだろう。
嬉々として姉を煽っていじる彼女たちの姿が思い浮かび、思わず苦笑してしまう。
一応、世間体と将来のことを考えて大学には進学しているものの、はっきり言って籍を置いているだけに近い。受講科目を決定するオリエンテーリングの期間こそ頻繁に通学していたが、今では最低限の出席日数を確保するために申し訳程度に通っているという状態だ。
卒業どころか必須単位の取得すら危ういのでは?と密かに心配する駆なのだった。
「……遅いな」
いつもであれば歩から帰宅時間を知らせる連絡が入っていてもおかしくない頃合いである。ちなみに、先ほど歩が出演していた歌番組は収録済みの番組なので、今現在の状況とは関係がない。
まとわりついてくる眠気を払うために起き上がって座り込む。いや、ソファなのだから、それが正式な利用姿勢ではあるのだが。
ローテーブルに置かれた携帯端末に手を伸ばして確認してみるも、何の通知も入ってはいない。念のためセンターへと問い合わせを行ってみたが、やはりメッセージが送られてはいなかった。
そもそも、歩はメールよりも通話を好む性質だ。彼女いわく「生声の方が力が出る」らしく、公共交通機関の中や、よほど時間が押している時でもなければ必ずと言っていいほど通話での連絡となる。まれにどころではない頻度で、ただの雑談のためということも多いのだが。
ところで、電波に乗せるために変換されたものを生声と呼んでも良いのだろうか?
もう少し待ってから連絡を入れるべきか、それとも本人ではなくマネージャーに確認を取るべきだろうか?駆が悩んでいると、家用に設置してある固定電話からコール音が鳴り響いた。
慌てて移動してディスプレイを確認してみると、待望の相手、ではなくもう一つの選択肢として挙げたマネージャーの名が表示されていた。
「はい、山口です」
『夜分遅くに失礼します。歩さんのマネージャーの子島です。……その声は駆君かしら?』
「正解です。っていう子島かさん、うちの家族構成とか家庭環境を知ってるでしょ。」
『知ってるけど、山口さん、お母さんが急用か何かで帰宅しているかもと思って』
「急用ならなおさら帰って来ませんって」
彼らの母、湊は歩のアイドルグループを運営している芸能事務所で一般事務職として働いているのだが、結婚以前にはマネージャーを務めていた経験から、何かにつけて頼りにされていた。
しかもそれらを要求される水準以上で熟してしまうため、更に頼りにされるようになってしまうという悪循環に陥っていたのだった。
『えー、湊さんのことは注意して見ておくし、上にも言っておくわ』
若い時には自分も随分と頼りにさせてもらった先輩だけに、微妙に歯切れの悪くなってしまう子島だった。
「お願いします。ところで、要件は何だったんですか?子島さんがわざわざ電話までかけてくるってことは、何かトラブルでも発生しました?」
『その言い方だと私がトラブル担当みたいだから止めて』
駆の言い分についついげんなりした声を上げてしまう子島。とはいえ、彼女は歩たちアイドルグループのチーフマネージャーという立場となるので、トラブルが起きてしまった際には必ずかり出されることになってしまっている。
そして実際、今回の要件もトラブル絡みであることも確かだった。
『実は今日の収録の時にメンバーの一人が怪我をしちゃっていてね。ああ、怪我と言っても大きなものではないから安心して。ただ、その子収録終わるまで我慢していたのよ』
子島の話によると、元々はちょっと捻ったくらいでその場で処置すれば湿布を張ってしばらく安静にしていれば治る程度の軽いものだったらしい。
しかし我慢して無理をしてしまったことで腫れが酷くなっていたのだそうだ。
「怪我を我慢してたとか、歩姉さんキレちゃったんじゃないですか?」
『そうなのよ。涙目になりながら叱りつけるものだから、そこの子も罪悪感から泣きだしちゃって。最後は二人してお互いに謝りながらわんわん泣いてたわ』
その光景が簡単に目に浮かんでしまう。一見すると結成から常に右肩上がりで推移してきたように見えるアイドルグループだが、決して順風満帆で進んでこられた訳ではなかった。
特に二期生の一人が怪我で活動を辞めざるを得なくなった時は、グループが解散する直前にまでメンバー全員が追い詰められていた。ファンの応援などによって立ち直ることはできたが、そのトラウマは今でも歩たちの内に深く根を張っているのだ。
『骨に異常はないのは分かっているんだけど、一応お医者様に診てもらうべきだってことになって。だけど、この時間でしょう。どこも開いていなくて、ダメ元で事務所が懇意にしている先生に連絡を入れて、何とか診てもらえることになったの』
ただし、そちらに人手を割くことになり、予定していたメンバーの送迎ができなくなってしまった。
「なるほど。責任を感じた姉さんが自分はタクシーでも構わないとか言ったんですね」
『いえ。電車で帰るといったから即却下しておいたわ』
「ナイス判断です。っていうかうちの姉がわがまま言ってごめんなさい」
メンバーの大半がミドルティーンでしかも学生のため、彼女たちグループの移動は事務所スタッフたちによる送迎が基本となっていた。
歩は高校を卒業したことでその頸木を外してもいいのではないかと考えたのだろう。が、甘い。
「普段から地元の電車の利用すらしていないのに、世界有数の巨大駅舎をクリアできるはずがないっての……」
これは場合によっては説教案件だなと考えながら、駆は話の続きを聞く。
『それと、どこから聞きつけてきたのか局のお偉いさんが謝罪にやって来てね……。番組スタッフの不手際だったと言って譲ってくれなくて。結局、向こうが手配したタクシーを使うことになったの』
テレビ局からの呼び出しでその関係者を乗せるのだから口の堅い者が手配されるだろうが、何事にも例外というものがつきものである。
もしもの時のために山口家ではなく最寄りの駅へと送ってもらい、そこで駆に歩と合流してもらえないだろうか、というのが子島が電話をかけてきた理由だった。
「問題ないです。それなら今から駅に向かっておきますよ」
『え?今から?結構待つことになるわよ?』
「平気です。それにこのまま家に居ると寝ちゃいそうなので……」
歩からの連絡に気が付かず、彼女を一人夜の暗闇の中で家まで一人で帰らせる方が怖い。
『……歩のブラコンの方にばかり目が行くけど、駆君のシスコンも大概よね』
「何か言いました?」
『何でもないわ。それじゃあ、悪いけど歩のお迎えよろしくね』
「紹介です。それじゃあ、おやすみなさい。失礼します」
電話越しなので見えるはずもないのだが、ついペコリと一つ頭を下げてから受話器を置く。
「さて、それじゃあ、駅までひとっ走り行きますか」
四月も半ばを過ぎたとはいえ、まだまだ夜は冷え込む。歩に着せる分と合わせて厚着をしておこうと考えながら、駆は外へ出る準備を始めたのだった。
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自転車をこいで十五分ほどで駅へと到着する。事務所の箱入りアイドルな歩とは違い、駆にとってはこの春から高校への通学で利用している馴染みの場所だ。
が、夜ということで気が急いていたのか、思っていたよりも早く着いてしまった。とりあえずタクシー乗り場がよく見える駅舎に併設されたコンビニに入り、立ち読みをして時間をつぶすことにする。
「あれ?山口じゃん」
名前を呼ばれて顔を上げると、別の高校へと進学した中学時代の同級生の顔があった。
「夜遊びとは感心しないな」
「会っていきなりそれかよ。違えよ。バイトだよ、バイト」
言いながらくいくいとバックヤードに続く扉を指さす。
「うん?お前の進学先ってアルバイト不可じゃなかったっけ?」
「親戚のおじさんがオーナーってことで、ガッコからは特別に許可貰ってんだ。その代わり他のバイトの人が病欠の時とかには臨時で入らなくちゃいけなくなったけど……」
遊びなどに使える金が欲しくてバイトを始めたというのに、今度はその金を使う時間がなくなってしまったらしい。
「うわー、親戚とか家業あるあるだな」
久しぶりに会ったこともあって話が弾む。が、さすがに店の中では邪魔になるだろうと駅舎の方へと移動することにした。
「ところで、山口の方こそこんな時間に何してんだ?」
「おれ?おれは姉さんの迎えに来たんだ」
歩がアイドルをやっていることも出身地も公表しているので問題はない。なにせ駅舎の中の掲示コーナーには常に歩のポスターが貼られているほどなのだ。
「おお!歩さんか!……え?こんな時間まで仕事なのか?」
世間一般的には休日の日曜日、それもそろそろ深夜と呼べるような時間帯である。同級生の彼が驚くのも無理はない。
「ネットで寝る時間がないって言ってる芸能人のニュースを見たことがあるけど、マジで大変なんだな」
「まあ、本人は楽しんでやってるみたいだけど」
「そうなんか?まあ、無理はしないように言っといてくれよ。アイドルが過労でぶっ倒れたなんてことになったら、ファンとしても同じ地元民としても辛いし」
「了解。ちゃんと言っとく」
都市部から離れているせいか、山口家がある地域は人情味があり良い意味でお節介な者たちが多い土地柄だった。人によってはこの近い距離感を苦手に感じることもあるのだろうが、駆はこの地元のことを気に入っていた。
少なくとも「助けて!」と叫んでいる人がいるのに、無視したり逆に面白がって動画の撮影を始めたりするような連中よりは何万倍もマシというものだ。
数年前に都心で遭遇したとある事件のことを思い出してしまい、顔をしかめる駆。ニュースにはならなかったったが口コミでその時のことは拡散しており、当然この同級生の彼も耳にしているため何も言わない。
余談だが、その一件の後に危険人物対策としてこの地域では警察の協力の下に有志による夜間見回りが行われるようになったのだが、通常の軽犯罪に加えて青少年の非行の減少にも繋がり、改めて警察から感謝状が贈られる、などということにもなっていた。
その後も二人で軽い雑談に興じていたのだが、当の見回り隊がやって来たことでお開きとなる。
去り際に肩と一緒に「歩さんのサインをもらい損ねた……」と見事なオチを付けた同級生に、店に飾る分と合わせて打診するだけはしてみようと思う駆だった。
この後19:00にもう一話投稿します。