真夜中のハプニング
「本当にリリーのお茶は美味しいわ。他の者にも教えているみたいだけど全然駄目ね。リリー、だからずっとうちに居なさい」
この屋敷に来てもう二週間過ぎようとしていた。それなのにキトリーはそう言ってリリーを手放そうとせず、今ではお茶だけでなく侍女の役目もしている。執事のブノワもすっかりリリーを頼りにしていた。彼女がいればキトリーは大人しいからだろう。
リリーはイレーネの事が気になって仕方が無かった。しかし今の彼女なら誰が侍女となっても問題なく勤まるだろう。尊敬して一生懸命尽くそうと心に誓っていたイレーネの側に、自分の居場所が無くなったみたいで悲しくなり、夜になるとつい泣いてしまうのだった。
真夜中になっても涙が止まらないのでお茶を飲もうと思い立ち、寝床から起き上がった。薄い夜着のままそっと部屋を抜け出し、召使い用の台所へと向った。そこで湯を沸かし自分用の特製のお茶を淹れると、心を癒すような香りを胸いっぱいに吸い込んだ。それから残りは保温の容器に入れて部屋へと向かった。しかし帰っている途中に前の方から、ぬっと誰かの影が出てきた。驚いてお茶をのせた盆を落としそうになるのを、その影が受け止めた。
「やっぱり貴女でしたか」
その影はクロードだった。
「ク、クロード様?ど、どうなさったのですか?こんな夜中に・・・」
クロードは今日、仕事が忙しいとの事で帰宅していなかった。
「今、帰って来たのです。そうしたらお茶の良い香りがするので、それこそどうしたのかと・・・」
クロードはそう言いながらリリーを見た。彼女はまだ驚いたような顔をしていた。そして飾りも何も無いただ白いだけの子供の肌着のような夜着に、いつもは後ろに束ねてある髪が左右に振り分けて束ねてあった。そんな姿を見ると母では無いが本当に保護を必要とする幼子のようだった。
「あの・・・私、眠れなくて・・・」
幼く見えるのは大きな瞳のせいだろうかと思っていると、その瞳は赤く、まつ毛が濡れていた。
(泣いていた?)
クロードの胸に何故か、ずきりと痛むものが走った。
「母が何かしましたか?」
クロードは思わず、まつ毛に残る涙を拭うようにそれにそっと触れた。
リリーは驚いて、どきりと胸が跳ねた。
「い、いいえ・・・ただ少しイレーネ様の事が気になったもので・・・」
「・・・・・・帰りたいのでしょう?母はあの通り手がかかる人ですし・・・」
「ち、違います!キトリー様はとても良くして下さいます!ですから嫌な事は全く無いです!ただ・・・イレーネ様と離れているのが寂しくて・・」
遠い帝国からイレーネだけを頼りに、この国へ来たリリーの不安をクロードは察した。それに幼いのによく親元を離れ、一緒に同行して来たものだと感心していた。
(幼い?違いましたね・・・)
クロードは彼女の見かけから、ついそう思ってしまうのを何時も自分で否定しなければならなかった。
「貴女は本当にイレーネ殿のことが好きみたいですね?」
「はい、とても尊敬しています!あの方のような女性になりたいと何時も思うんです」
「そう」
クロードは珍しくにっこりと微笑んだ。
彼はどちらかと言えば気難しい顔をしている方が多い。眉間にしわを寄せているみたいな感じだ。
その貴重な微笑みは薄暗い廊下でもはっきりと見えてリリーはまた、どきりと胸が跳ねた。そして自分の格好が急に恥ずかしくなってきて下を向いてしまった。色気など全く無い夜着で室内履きをつっかけているだけだから足は裸足だ。どうみても子供っぽい。侍女仲間がしきりにリリーの夜着に文句をつけていたのを思い出してしまった。就寝前に彼女達は誰かの部屋に集まって、噂話や愚痴を言い合ったりするお喋りを楽しむのが決まりだった。そしてその日の標的はリリーとなっていた。
『リリー、何?それ?今どき子供でもそんなの着ないわよ』
『え?そう?でも寝るだけでしょう?誰に見せる訳でもないし・・・』
そう言いつつ皆を見ると、レースやリボンに花飾りと昼用のドレスのようなものを着ていた。違う点は生地が透けるように薄だけだ。
『リリーは子供だからまだ早いかなぁ~』
皆が、きゃっきゃと笑った。彼女達からは何時も子供だと言って馬鹿にされるのだ。
『ここは皇城よ。いつ高貴な方の目に留まるか分からないのよ。そして何時忍んで来られるかもね』
その言葉にまた皆が、きゃっきゃとはしゃいだ。
侍女は良家の子女が多いと言っても良くて下級貴族か裕福な平民が普通だった。だから彼女達は城に出入りする有力な貴族の目に留まるのを目的にしているものが多かった。良くて妻の一人になるか妾にでもなれば遊んで暮らせるからだ。それを知っている遊び人の貴族達は恋の鞘当を楽しんだりしていた。だから彼女達の自由時間でもある夜の装いは念入りだったのだ。
しかしそんなのに興味の無かったリリーは彼女達にからかわれながらも気にしなかったが・・・今は後悔していた。彼女達みたいにあんなに透け透けのお色気いっぱいの夜着は着なくても、もう少し大人っぽくしていれば良かったと思った。
(馬鹿ね、リリー。そんなの着ていたってクロード様が何か思う訳でもないじゃない)
リリーは自分に叱咤して、おずおずと背の高いクロードを見上げた。
「あの・・・宜しければこのお茶如何ですか?寝つきが良くなるようにしています」
「実はそう言ってくれるのを待っていました。個人のものを欲しがるのは失礼ですからね」
クロードがまた微笑んだのでリリーは真っ赤になってしまった。そして失礼なことを言った事に気が付いた。
「も、申し訳ございません!私こそ自分のものをご主人様にお勧めするなんて!直ぐに淹れ直して参ります!」
そういえば持ってもらっていたままの盆に手を伸ばした。しかしそれは、すいっと高く上げられてリリーの手が届かなくなってしまった。
「あっ!」
「沢山入っていそうだからこれで良いですよ」
「駄目でございます!」
リリーはそれを取り返そうと、ぴょんぴょん跳んだ。両側に下げた髪も一緒にぴょんぴょん跳ねるのを見たクロードは、その可愛らしい様子に思わず笑ってしまった。しかし盆からそのお茶を入れた容器が落ちそうになった。
「うわっ!」
クロードはそれを止めようとして足元がふらつき尻もちをついてしまった。そして盆と容器は彼が死守したが、お茶の入った器は中身をリリーの胸にぶちまけながら盆から飛び出していた。
あっ!とリリーは手を伸ばしてそれを追いかけ、床に落ちる前に取った。しかし体勢を崩してしまったので尻もちをついているクロードの上に落ちてしまったのだった。それはほぼ抱きついていると言ってもいい感じの体勢だった。
「大丈夫ですか?」
クロードは自分に呆れながらリリーごと立ち上がった。茶で濡れた夜着は透けて胸に張り付いているし、クロードには抱かれているみたいになっているし・・・リリーはもう何が何だか分からなくなってしまって混乱していた。
「も、申し訳ございません!どうぞ、それをお召し上がり下さいませ!し、失礼致します!」
一気にそう言うと器だけ手に持って走り去ってしまった。
「あっ、待ちなさい!リリー!」
クロードが、はっとして呼びとめたが間に合わなかった。立ち上がった後、自分から離れたリリーの姿に驚いている間に、彼女から逃げられてしまったのだった。
結局、貰ったお茶は他の者が注いでくれたが思ったより美味しく無かった。リリーの魔法の一滴が無いからだろうとクロードは思った。彼女が飲む直前にいつも入れてくれるそれは本当に魔法のようだったからだ。明日こそは早く仕事を切り上げて帰って来ようとクロードは思うのだった。リリーの淹れるお茶にありつけるようにと―――
「ん?まだあのちっこい侍女戻っていないのか?」
オラール王国の王アランがイレーネの部屋で出された茶を一口飲んでそう言った。
「ちっこいって?リリーの事でございますか?」
「おおっ、そうそう!リリー」
「陛下、女性に対してそういう言い方は宜しくありませんわ」
「そうか?ちっこいって可愛いっていう意味だぞ」
イレーネは複雑な顔をした。それを見たアランの顔が輝いた。
「おっ!今、嫉妬したのか?なぁー嫉妬したか?」
イレーネはぱっと頬を染めた。
「知りません」
アランはまた、にやりと笑った。こうなったら手が付けられないのが分かっているイレーネは話を戻すことにした。
「リリーが居ないと良く分かりましたね?」
「ああ、茶の味が違うからな」
イレーネがくすりと笑った。
「陛下はお酒の味だけでは無く、クロード様のようにお茶の味もお分かりになるのですね?」
アランはむっとした。
「それは嫌味か?クロードを褒めているみたいで気に入らないな」
「クロード様を褒めたのでは無くて陛下に感心しただけです。言い方がお気に召しませんでしたか?」
イレーネが眉をひそめて心配そうな顔をして言った。
「う――っ・・・その顔は止めろ!むらむらくるだろう!今日は今から会議があるんだからな!やっぱり寄るんじゃなかった。お前がちょっと寂しそうだと思ったから、つい顔を見に来てしまった・・・がぁ――もう!」
アランは溜まる熱を発散するように大声を上げた。そして真剣な目でイレーネを見た。
「イレーネ。お前、何か思い悩んでいるんじゃないか?」
「悩みというものではございませんわ」
イレーネはそう言って微笑んだ。アランは自分を甘やかし過ぎると何時も思うのだ。直ぐこんな風に聞いてくるのだ。でも何か言わないと納得しないのも分かっていた。
「今、リリーがセゼール家に行っていますでしょう?あの子の事は妹のように思っていましたので少し寂しいと思っていましたの」
「なんだ、それなら直ぐに呼び戻したらいい!」
「いえ、今のことでは無くて・・・いずれあの子は帝国に戻るだろうと思ったからその日の事を思って寂しくなったのです。こんな風な日々が来るのね、と思っていただけですの」
「帰らせなければいいだろう!」
「そういう訳にはまいりませんわ。年頃なのですから実家から結婚の話しが決まれば帰りますわ。だから仕方が無いことなのです」
イレーネはそう言って微笑んだ。アランは納得が行かず考え込んだ。それからの彼の行動にクロードは何事かと思い問いただした。
「陛下、何をお調べでございますか?」
「何の話だ?」
「とぼけられても駄目でございます。どうして出入りの商人達に年頃の息子がいないかと訊ねられるのですか?皆、何事かと騒いでおります」
「そんなことぐらいで騒ぐなと言っておけ!」
「陛下!お答えを聞くまで今日は解放いたしませんよ」
アランは舌打ちした。クロードがこう言い出したら動かない奴だと知っているからだ。だから声を潜めて言った。
「いいか、イレーネには内緒だぞ。彼女の侍女の結婚相手を探しているんだ」
「イレーネ殿の侍女?まさかリリー!」
「しっ、声が大きい!誰かが聞いていたらどうするんだ!」
突拍子も無いことを言い出した王に、クロードは明晰な筈の思考が止まりそうだった。
「陛下、どういう事ですか?」
「イレーネが悲しい顔をするんだ。その娘が帝国から縁談がきたら帰ってしまうだろうって。だからその前にこっちで縁談を用意しようと思ってな。実家が文句を言わない良縁を用意して先手必勝だ!」
「彼女はまだ幼いく結婚なんて・・・」
クロードはやはりそう思ってしまう。
「はん?何寝ぼけたこと言ってるんだ?確かに背が小さくて顔が幼いが立派な大人だろうが?あんなに小柄なのによ、胸なんかたっぷりあるし・・・」
クロードはぎょっとした。
「陛下は何時見られたのですか!」
アランがへぇーと愉快そうな顔をした。
「俺は何時見たのかだって?お前はもう見たんだ」
クロードは滅多に慌てないが、アランの突っ込みに意表をつかれ、言葉に詰まってしまった。先日の夜、彼女の夜着にかかったお茶が、胸のふくらみを露にしていたのを見たばかりだった。しかも抱きつかれたのでしっかり感触も確かめていた。
アランの言う通り、見かけによらずと言うか、着痩せしているせいかそれを見て内心驚いたのは確かだった。子供と思っていたのに、一瞬で女として意識してしまったのだ。アランはにやにやと笑っている。
「俺はなぁ~最初からあの娘には目を付けていたんだ。イレーネとこんな風にならなかったら間違えなく手をつけて妾にでもしていたな。あれは良い女だ。この俺が言うんだから間違いない。何も知らない童女のような顔をしていてあの体だろう?その不調和が堪らない・・・まっ、今の俺には全く興味は無いけどな!」
女好きで数多く女達を手に入れていたアランが、そこまでリリーを絶賛するとはクロードは正直思わなかった。自分自身こういうのに興味が無いせもあるだろうが・・・・
(しかし縁談とは・・・)
「陛下、イレーネ殿はもちろんですが本人に許可も無く、そのような話を進めるのはどうかと思います」
「驚かせてやるんだよ。感謝されるだけさ!彼女の家は商家であの娘は跡取りらしいから、こっちで嫁いでこっちと向こうで同時に商売したらいいだろう?店は拡大して万々歳だ!と、言う訳だからお前も協力しろよな」
クロードは絶句してしまった。イレーネの為とはいえ国王が一介の侍女の結婚話をまとめようとしているのだ。
「それとな明後日、ほら商工会議があるだろう?あれにリリーを連れて来い。茶を淹れさせろ。あの会合には跡取り息子達を同席するように言っているから丁度いいだろう?内緒の見合いだ」
「いつの間にそんな勝手なことを!」
「お前忘れていないか?俺は誰だっけ?王様だろう?俺様がするのに文句は言わせない」
アランは上機嫌でそう言った。今日はクロードに勝ったと思っているようだった。いつもならやり込められるのはアランの方だったが、今日のクロードには冴えが無かったのだ。彼が言い返せないまま、更に調子良く注文を付けてきたのだった。
「それと服装。侍女服はまるで修道女みたいだから着替えさせて来いよ。もっと色気のあるものにな。命令だ!ふふん」
鼻歌混じりで去って行く王を呆れて見送るしかクロードは出来なかった。考えると頭が痛くなるようだった。
(こんな雑事にかまけている暇は無いと言うのに・・・)
クロードは雑事だと自分に言い聞かせた。自分が関わる内容では無い。関係無いのだと―――そして大きく溜息をついたのだった。