良きサイモンは、死んだサイモン
こちら「ブラックマーケット」からの派生作「マグナム・ブラッドバス」のプロローグです。
――みんな、いなくなった。
厭世的なジャパニーズの魔王も、小さなドワーフの魔王妃も、我が人生を照らしてくれた女神、最愛の妻も。彼女の家族や親族もひとり減りふたり減り、いまでは碌に面識もない遠戚たちが遥か彼方で暮らしているだけだ。
俺も、もう長くない。老いは身体を萎えさせ、着実に気力を殺いでゆく。妻のもとへと旅立つのも時間の問題だ。終わりのときは近い。
それでも、生き続けるものはある。
俺の……俺たちの天使。そして、彼女が生み出した多くの無垢な妖精たち。彼らが幸せに暮らせる平和で豊かな国を残せたのだから、きっと俺の人生にも意味はあったのだ。
「サー・サイモン・メドベージェフ。外は良きお日柄のようです」
執事のミハエルがお茶を注ぎ、俺が手を振ると頭を下げて退室した。
「そうだな」
窓の外に広がる緑と澄んだ青空を見て、俺はボソリと呟く。
「……“死ぬには、良い日だ”、か」
晴天の日になるたび、自虐交じりに吐いてきた親父の口癖。
負け犬の子として生まれ、狂った野良犬として生き、微笑む聖人として死ぬ。まさかこの俺が、勲功爵位持ちとは。おかしな人生だとは思うが、悔いはない。遺せるものは遺し、処分すべきものは処分した。いまここで死んだところで、困る者はいないよう執事と顧問弁護士には後を任せ手続きを済ませてある。
「あとは……汚れ仕事の名残を、処分するだけか」
ミハエルが用意してくれた箱に処分する不用品をまとめ、最後に思い出の詰まった演台を片付けようとした俺は、込み上げてきた感情に思わず吐息を漏らした。数々の取り引きが行なわれてきたカウンター。荒い木目に手を触れると、ここまでの人生が切れ切れの断片として脳裏に蘇ってくる。ここに積み上げられた武器は何処いずことも知れない遥かな世界へと送りだされ、引き換えに得た金銀財宝は我が国の未来へと形を変えた。手元に残したものはわずかで、かつてそこに置かれていたブリキのボウルも、いまはもうない。
「……おい、なんだこの爺さん」
顔を上げた俺は、目の前に広がる奇妙な光景に戸惑う。
そこには雨の降りしきる薄汚れた路地裏が、切り取られたかのように浮かび上がっていた。
鋭い目をした、アジア系の少女がこちらを向いて立っていた。見たところ、年の頃は十代半ば。少年のように短く切り揃えられた髪に、細い手足。帆布かシーツかボロボロの布切れを薄い半裸の身体に巻き付け、喉に掛かった荒縄の首輪を引きずっている。
「お迎えに来た、死神ってとこか……?」
言葉もないまま立ち尽くす俺を見て、その小娘は紅色の眼を光らせて呆れたように笑った。事故にでも遭ったのか殴られたのか、痣だらけで血塗れで、唇は晴れ上がり片目は半ば塞がっている。
「……ああ、ッ痛ってーな、ちくしょう……」
膝に手を置いて呻く娘のいる場所は、雨粒も宙に浮いて時が止まったままに見える。しかし、通りの奥には棒や短剣を手に迫る男たちの姿があって、時間が動き出せば彼女は彼らに蹂躙されるのだろう。
俺は思う。これも、魔王の残した福音のひとつなのかと。
「ああ、失礼。初めまして、お嬢さん」
「……あ?」
俺は静かに声を掛ける。こちらの返答がないことに失望し蹲り掛けていた娘が、ゆるゆると顔を上げた。
猜疑心と不信感。その奥で、かすかな期待が瞬く。溢れ出る感情を押さえつけようとする者ほど、揺さぶれば崩れるのも早い。
「お会いできて嬉しいよ。わたしは、サイモン。ビジネスマンだ。なにか助けが要るかね?」
「……あたしに、武器をくれ」
娘は笑う。
「……じゃなきゃ、さっさと殺ひてくれよ」」
――欲しい物あれば、何でも調達するぜぇ? 金さえあれば、何でもな。
若い頃には、それが商売の常套句だった。笑顔と口上、見せるためだけのアクセサリーと高級時計。近付く者の身ぐるみ剥いで、ケツの毛まで毟ると決めた“闇市の野良犬”が、カモの心を開き財布を開かせるための定番行動。あの頃に愛用していた物も技術も、みんな処分するか錆び付いてしまった。
娘が物心ついた頃に、裏稼業は畳んだ。それからは真っ当な商人としてやってきたから、もう銃火器なんて残っていない。文机の引き出しにペーパーナイフ代わりの飛び出しナイフが入っているくらいで……
いや、あったな。その引き出しの奥に、一丁だけ。特別誂えの、拳銃が。もう少し何かあった気はするが、記憶が朧げで思い出せない。
まあ、いい。少なくとも、一丁はある。キツネ狩りのために残してあった、キレイな銃が……
「……きつね? ンなもん喰うのか……?」
娘が呆れ顔でこちらを見る。意識せず声が出ていたようだ。これも老化か。
「……まあ、いいや。キレイかどうかなんてのも、どうでもいいよ。殺せれば、なんれもな」
かつては俺も、そういう考え方だったな。銃器にも車にも、思い入れを持ったことはない。いつでも使えて、いつでも捨てられればそれでいい。
製造番号を削った、犯罪歴のない銃。
裏切り者の処理なんて、もう何十年もやっていない。街どころか国さえも動かした男に楯突こうなどという自殺志願者は、存在しなかったから。
それでも一丁だけ残しておいたのは、この日のためか。それとも。
“最後の一発は自分のために”
若い頃、裏稼業の連中が好んで使っていた言葉だ。敵対勢力の人間に捕まれば、殺してくれと懇願するような目に遭わされる。だから、銃撃戦になっても自分の頭を吹き飛ばすために、必ず銃弾は一発だけ残しておく。そういう、いわば戒めみたいなものだ。
きっと、俺にはもう必要ない。いまのこの身にとって、死は逃れるべき問題ではないのだ。
「お嬢さんの、要望を聞こうじゃないか。そして予算に応じて、最高の商品を用意しよう」
娘は俺の言葉を聞いて、小さく顔を歪めた。俺というわずかな希望を得て、いま彼女は脆くなった。もう死を受け入れることはできない。苦境からの脱出に頭を巡らすしかないのだ。前に立つ商人にとっては、獲物が自ら翼を捥いだようなものだ。
「……カネ、ああカネか。そりゃそうらな。う〜ん……」
振り返ると、ほんの少しだけ、追っ手の位置が動いていた。そうだ。彼女の時間は、止まっていない。猶予もそう長くない。
ここで彼女に武器を与えることは容易いが、絶対に良い結果には繋がらない。無償の施しは人をダメにする。苦境にある者ほどそうだ。
問題は、見極め。施されて立ち直るような人間は、施されなくても立ち直る。死を待つだけの人間は、助けがあっても死ぬのだ。では、その境界線上にいるやつは。
「“文無しには、何も与えない”というのがわたしの、ビジネスマンとしての最低限のルールだ」
少しだけ、負荷を掛ける。萎れた花を、指で突くように。跳ね返ってきたら、もう少し揺らす。
「……そらそうら。カネ払った客に、失礼らもんな」
小娘は、思ってもみなかった方向に答えを返してきた。信用が問題になるような商売の経験でもあるのかとも思ったが、だとしたら交渉前にカネがないことには気付く。経験ではなく教育の問題か。
こいつはきっと、そういう場所で育ったのだ。
「ちょっとらけ待ってろ。どうにかする」
なにやら思い付いたらしい彼女の決意に満ちた表情を見て、俺は笑う。忌々しいことに、俺は興味を持ってしまった。この小娘がどこに向かい、何をするのか。こいつの進む先に、何が待っているのか。それが知りたい。
きっと俺には、必要だったんだと思う。自分の手で、何かを成し遂げたという実感が。かつて顧客であった彼らは、あまりに優秀過ぎたから。こちらが施しを受けたような負い目が胸の奥で燻っていたのだ。
すまん、シェリル。これで終わりにするから。
天国で待っているであろう女神に、俺は小声で詫びる。
本当に、もう一度だけ。勝っても負けても。上手くいっても失敗してもだ。それで、ほんの少しだけでも、俺の人生に新たな意味が見出せるのだとしたら。
そう、ここからが俺の、新しい……そして最後の、物語だ。