【出版記念&ご愛読感謝特典SS】「サイモンズ・ロード」後篇
「近隣地域の金相場が、崩れ始めました」
資産管理チームのリーダー、ローレンからいわれて俺は頭を抱える。原因は、わかってる。俺だ。正確にいうと、俺のクライアントである謎の男ヨシュアによるものだ。
「……そりゃそうだろよ」
「まあ、確かに。いままで良く持った、ともいえますね」
ここ数年で市場に流したゴールドは実に四トン以上。トンだ。まず単位がおかしい。しかも、相場の維持を考えて放出を制限してきたから――それでも破綻しかけているのだけれども――俺が保有する全量ではないのだ。
「現在は周辺数か国の値動きで維持していますが、このままの勢いで流すと世界的規模で崩れます」
「……世界、か。ずいぶんと話が大きいな」
「当然です。あなたの放出したゴールドは、この国の中央銀行が保有する外貨準備の金塊より多いですからね」
「それは……前にも聞いたな」
「ちなみに、現在のあなたの個人保有量でも、バーレーンやブルネイ辺りより上ですね。国別ランキングでいうと、世界で八十位くらい」
ローレンの解説に、俺は黙って肩を竦める。そんなもん、返答のしようもない。だいたい、俺は国じゃねえ。
ヨシュアが持ち込んだもののなかにはゴールドの他に大量の宝石と貴金属(と素性のわからない美術品にレアメタル)も含まれるから、取り引き金額は優に五億ドルを超える。これはこれで単位がおかしいと思うが、その収支は俺が抱えている資産管理スペシャリスト集団と、政治家と官僚、そして複数の政府機関によって巧妙に隠蔽され洗浄され少なくとも書類上は正常化され合法化されて、この地域と国の経済を潤している。
そう、この国の、だ。そこもおかしい。たかが闇市業者の商売に、政治家と官僚が関わっているのもおかしい。何もかも完全におかしいのだが、いまさらだ。
取引開始早々、自分の手には余ると判断した俺は、まずシェリルの父であるセィボレィを巻き込み、セィボレィは所属派閥のトップを巻き込み、所属派閥の長はやがて――長期的に見れば、他に選択肢はないのだ――国政の中枢に取り引きを持ちかけた。俺からの条件はひとつだけ。
“より多くが幸せになれる選択を”
学も知性も見識もない俺のような人間にとって、ルールとゴールはシンプルでなくてはいけない。まして、それを多くの人間に、しかも人伝に共有しなければいけないとなれば、なおさらだ。
政治に関わる連中が、俺のような得体の知れん若造を舐めて掛かることは想定内だ。それは構わない。ある意味、当然の反応だからな。ただ、こちらを世間知らずの安いカモだと思って好き勝手なことを始めるヤツには、静かに退場してもらう。資金には困っていないが、それで手を抜く、もしくはカネを抜くような連中にも外れてもらった。
最初は、政治的に。二度目は、法的に。そして三度目は、物理的にだ。
幸か不幸か、最後の段階まで至った俗物は、まだいない。
「国内相場が持ち直すのは時間の問題です。自己資金に乏しい怪しげな連中は勝手に潰れるでしょうがね。上流階級は揺らぎません。聖者様の裏の顔を知っていれば、離れる者はいませんよ」
「俺にとっては、聖者が裏の顔なんだがな」
それ以前に、俺自身がほんの少し前まで、その“怪しげな連中”だったのだ。これから破滅に至るであろう奴らを、俺は笑えない。
「治安と衛生状況の改善は、試算以上の効果が出ています」
「おい、冗談だろ。小金を持った素人に解決できるような問題を、政治家連中ずっと放置してたのか?」
「国を動かすほどの資産を小金と呼ぶのはどうかと思いますが……あなたが政治的に無色だったのが幸いしましたね。これまで連携できなかった複数の組織や派閥を取りまとめられたのは、パトロンが“素人”だったからこそです」
「お前、それ馬鹿にしてんだろ」
「とんでもない。これも“聖者様”のお導きあってのこと」
わかった風なことを抜かすローレンは無神論者だ。もちろん、俺もだが。
「複合医療施設の計画概要は読んだ。出資はするが、孤児院の併設が条件だ」
「……乳幼児の遺棄が増えます」
「河原や道端で捨てられるより良い。救えるものは救え」
ローレンはスッと無表情になった。反対を表明したいが、立場も守りたいってときに見せる顔だ。政治に慣れた奴の意思表示は、面倒臭い女に似てる。
「わかってるよ。そのままじゃ俺みたいな穀潰しが大発生すんだろ? 教育も職業訓練も受けさせるさ。孤児でもさらに学ぶ気がある奴には、あれだ。くれてやる……船」
「奨学金」
「それだ。その分のカネも別に用意する。伸びる可能性がある奴は拾え。優秀なら住むところも仕事も用意してやれ」
「基金を設立しましょう。名前は、“サイモンズ”でどうです?」
こいつは、俺が怒ることをわかった上でほざいてやがるのだ。いちいち面倒臭せえ。場末のダイナーみたいに親しげな響きにもイラッとする。
「公の場に俺の名前を出したら、お前のケツに延べ棒を突っ込むぞ」
「まったく……まるで本物の聖者様ですね」
善行は隠れて行え、とかいう聖書の教えか。そんなわけねえだろうが。安全のためだよ。自分の行ってるのが綺麗事なのは当然、わかっている。ただ実際これが、結果を出そうとすると、なかなかに難しいのだ。それが何であれ、誰にとっても幸せなんて選択肢はない。汚れ澱んだクソ溜めで生きてきた人間にとって、周囲が浄化されてゆくのは反発を覚える。更にいえば、恐怖をだ。
幸か不幸か望外の成功を収め、“ニヤケ顔の聖人”と称されるまでになった俺の周りには中傷もあり、妨害もあり、嫉妬も裏切りもある。何回かは危ない目に遭った。俺が危険な目に遭うのは仕方がないにしても、家族に被害が及ぶのだけは絶対に許せない。家屋敷や移動には護衛を付け、セキュリティシステムを導入して厳重な警戒を敷いたが、この上に名前が売れたりすると絶対クズどもに目を付けられてしまう。成功しているときこそ、息を潜めるべきなのだ。
だが、不幸は俺の思ってもみない形で襲ってきた。
「ルーキミア?」
産後の体調不良からなかなか回復しないシェリルに、大きな病院で精密検査を受けてもらった。それが何にせよ、体調不良の原因がわかれば安心できると思っていたのだが。
「……なんだ、それ」
俺だけが呼ばれた別室で、医師からの宣告は混乱した頭にまるで入ってこない。十万人に七人くらいしか発生しない難病。俺に詳しいことはわからないが、血液の病気だという。
「治るんだろ? なあ、治るんだよな!?」
「骨髄もしくは臍帯血から造血幹細胞を移植する方法もありますが、いきなりではリスクが大き過ぎます。まずは抗癌剤治療から始めましょう」
抗癌剤。その言葉で俺はようやく理解する。シェリルの掛かった、血液の病気というのは。
「……癌、なのか?」
「そうです。治療にはある程度の副作用もありますから、覚悟しておいてください」
病室に行くと、シェリルは俺を見た。天使を胸に抱いて、穏やかな表情で。
「サイモン、ひとつ約束してくれる?」
「君のためなら、なんでも。いくつでも」
「生体移植はしない」
ビクリと身を震わせ、俺はシェリルを見る。
「骨髄とか、臍の緒とか、たしかにリスクは大きいと、いっていたけど……でも」
「違うの。問題は、わたしのリスクじゃない」
「え?」
「この国では、お金で買われた幼いドナーたちが、使い捨てに近い扱いを受けてる。そんな子たちから命を奪って、生き延びたくないの」
「シェリル」
「道を誤れば、神の御許に行けない。だから、これがわたしの、最期のお願い」
いままでシェリルが、俺に何かを頼んできたことはない。十一歳のときに出会ってから、一度も。懇願するのも譲歩を頼むのも必死になって説得するのも、いつだって俺の方だ。
彼女は、いわなかったけど。医師の見立てが大きく外れない限り、これがシェリルから俺への、最初で最後の頼みになる可能性が高い。
「闇市の野良犬は、カネのために悪魔に魂を売った」
俺を揶揄する声はずっと聞こえていた。ほとんどが俺に商売を潰され身ぐるみ剥がれた連中だろうが、いってることは間違っていない。だが、それに続く言葉にはどうしても怒りを抑えきれなくなる。
「シェリルも、命を悪魔に売られて、余命幾許もない」
ざまあみろといわんばかりの嘲笑を浮かべるそいつらの顔を見るたびに、怒りと憎しみと絶望で唸り声を上げながら、俺は己の無力さに身悶えていた。シェリルが助かるなら、何億ドルだって出す。俺の命と引き換えにしろというなら、喜んで差し出してやる。
なのに。最愛の妻は、俺の女神は、俺に贖罪すらも許してくれないのだ。
「お願い、笑ってサイモン。わたしは、あなたの笑顔が好きなの」
彼女は、かつての俺を知っている。何かのきっかけで俺がまた闇市の野良犬に戻るかもしれないと危惧している。それは、ほんの些細な選択でしかないのだと、シェリルは理解している。
◇ ◇
この俺が教会に通うようになるなんて、誰が想像しただろう。礼拝堂の隅で背を丸める俺を見て、みな献金皿から小銭のおこぼれでも狙ってるんだろうと笑う。正直にいえば、間違ってはいない。
俺は、奇跡を経験している。初めてシェリルと出会ったのは、教会だった。サツに追われて逃げ込んだチンピラが礼拝堂の隅で息を殺すなか、ステンドグラスから差し込む淡い光を浴びて、祈りを捧げる女神がいた。一目惚れ、なんてものじゃなかった。俺はそのときだけ、その一瞬だけは、心の底から神の存在を信じた。
浅ましくも俺が狙っていたのは、そんな奇跡のおこぼれだ。
シェリルの体調は日を追って悪化し、ほとんどベッドから離れられなくなっていた。彼女も彼女の家族も、いまでは敬虔なクリスチャンになった。付き合いとして、ではあるが、俺もだ。神の声など聞いたことはないが、大きな流れに背いた者の末路は何度も見てきた。どれだけ祈ろうと、自分が神の御許に行けるとは思っていない。ただ、いまの俺に必要なのが、無心に祈りを捧げ許しを請う対象なのだという気はした。
そこに付いたラベルが何であれ、だ。
「あなたに罪があるとしたら、それはわたしの罪でもある。夫婦なのだから、共に背負うわ」
病床のシェリルは俺に、何度も繰り返した。ときおり意識が混濁するのか、古い記憶を現在のように話すことがあった。
俺が誰それと殴り合いの喧嘩をしただとか、賭けレースで親父のボロ車を廃車にしただとか、警官隊の包囲を突破して脱兎のごとく貧民窟を駆け抜けただとか。
「それは、もう十五年も前のことだよ、ハニー」
結局、骨髄移植は拒絶された。臍帯血移植も。彼女の選択は、みんなで幸せになること。誰かの不幸を踏み台にして生き延びることはできない。俺に何かできることはないか。その問いに彼女は答える。いつも、同じ台詞で。
“笑って、お願いサイモン”
◇ ◇
「いや、違うよ。そうじゃないって。ああ、わかってる。わかってるさハニー。この世界の誰よりも愛してるよ、ぼくは君のためになら世界の全てだって捧げグフォッ!?」
俺は店先で病室のシェリルに訴えながら、必死に治療の必要性を説いていた。俺が気配に振り返ると、目の前に呆れ顔のヨシュアが立っているのに気付く。いや、最前から現れてはいたのだろう、彼は首を傾げて出直すと告げ、どこかに消えた。何か用があったはずなんだけど、よくわからない。俺は自分が、余裕を失っていることに気付いていた。シェリルに何かあったら。俺はきっと壊れてしまう。
またしばらくして、現れたヨシュアは俺に花束を渡してきた。変わった色合いの、生き生きとした美しい花。ほのかに甘い香りがして、不思議と気持ちが落ち着いた。
“政治的プレゼンテーションにとって花の知識は必須”だとかで、俺もシェリルと彼女の母親からスパルタ式に叩き込まれた。この国で手に入る限りの草花や園芸種について把握はしていたが、それでもこんな花は見たことがない。
「奥さんに渡してみたらどうだ? それこそ、“君のために手に入れてきた世界にひとつだけの花だ”とかなんとかいってさ」
聞けば、ヨシュアのいる異世界の花だそうだ。
「ありがとう、助かる。こういうものを贈るのは、俺じゃ思いつきもしなかった」
俺は嘘をつく。政治家の……少なくともこの国の政治家の家族に、プライベートで物を贈るなら花は駄目だ。それは贈る側の持てる全てを、さらけ出すことになるから。
しかし、目の前に置かれた花を見て俺は考えを変えた。当然のことだが、それは見たこともない花だった。色味が変わっている。花弁の形も奇妙だ。突き出した距の形も独特で、芳香も花というよりも薬草に近い。なによりも、清楚で可憐で儚げな風情が、シェリルにとてもよく似合いそうだ。
ヨシュアは避難民を移動するとかで、長距離移動用のトレーラーを購入していった。彼は常に、何かと戦っている。俺も、その姿勢を見習うことにした。
ヨシュアの手に入れてきてくれた花を病室に持ち込むとシェリルは大喜びしてくれたが、彼女の母親は、怪訝そうに俺を見た。
「サイモン、これは」
「俺の伝手で手に入れた、“奇跡の花”ですよ。この世界では、これの他には存在しません」
事実ではあるが、シェリルの母親は、ますます不審そうな顔になる。
それはそうだ。俺に植物の知識を叩き込んでくれたのは主に彼女なのだから。その彼女でも知らない花という時点で、その異常性はハッキリしている。
「あなた、これを、どこで」
詰め寄る母親を前に、俺は少しだけ迷う。冠婚葬祭のマナーとセオリー、政治家や官僚の妻子を味方に引き込むための基本的技術と、応用。そのなかにあった、最大最上の方法。
世界でひとつだけの花を捧げる。カネも時間も技術もコネクションも惜しまない、渡す相手にそれだけの価値があるのだと示す最強の献身。
「ここだけの話にしてもらえますか、マダム」
俺は声を落として、シェリルの母親に告げる。
「俺は、悪魔と取り引きしていると噂になっていますね」
何の話かと、眉を顰めながら母親は頷く。
「半分は誹謗中傷ですが、もう半分は、ある意味で事実です。俺はね」
俺は彼女の目を真っ直ぐに見て、告げた。
「女神の加護を受けているんですよ。だから、恐いものなどない。俺も、俺の家族も。誰からも、危害を加えることなどできない。怖れることなど、もう何もないのですよ」
見たこともないその花は、枯れもせず萎れもせずいつまでも咲き誇り、豊かな芳香を振り撒いてはシェリルの病室を奇妙に清浄な空気で満たした。俺の女神は穏やかに笑い、俺も彼女に応えて笑顔を保とうと努めた。
神への祈りは通じたのか、シェリルの数値は安定し、小康状態を維持していた。俺は表舞台に顔を出さず、自分の名前も伏せて政治献金を続けた。俺が放出した資金はセィボレィの政治基盤を支え、彼の発言力を強めた。そこで驕るようならば切る腹積もりだったが、人間的にはともかく政治家としてのセィボレィは尊敬に値する人物だった。彼と彼の派閥は、必要とあらば政治的対立さえも超えて協調し、地域の治安と経済を静かに着実に底上げしていった。それはひとつの奇跡であり、絵空事としか思えないほどの僥倖だったと、俺は後に知ることになる。
地域の医療体制改革に着手したことで乳幼児死亡率が激減し、そこが主因で低迷していた平均寿命が伸び始めた。人身売買による臓器移植も、根絶まであと一歩のところまで来ている。孤児院への寄付も増やして、初等教育を充実させる計画も進めている。次は、若年層と女性の雇用確保だ。それで地域の困窮世帯を大きく減らすことが出来るはずだ。数字に出なければ、次の計画もある。それでダメなら、さらに次の計画もだ。
「愛してるわ、サイモン」
シェリルの病状は奇跡と呼んでいいほどに持ち直し、いまでは週の半分ほどは起きていられるようになった。俺はシェリルの両親から、おかしな称号を得ることになる。
「“ニヤケ顔の聖人”なら聞いたよ、ハニー。俺は君だけの騎士になりたいとは願っているけど、聖人なんて柄じゃない」
「そうじゃないのよ、サイモン。両親はあなたを、“神の錬金術師”と呼んでる。わたしも、そう思うわ。あなたが成し遂げた最大の偉業は、お金じゃない。お金の使い方と、それが齎した奇跡」
どういう顔をしたらいいのか、俺にはわからない。だから、俺はただ笑った。天使のために、女神のために、できることをやるだけ。やり続けるだけ。
その先に皆の、そして俺の幸せがあるのだと信じて。
後にヨシュアから天使に贈られた小さなスプーンが、さらなる奇跡を起こすのだが……
それはまた、別の話だ。