サイモンの逃走
御誂え向きに陽が翳り曇天の空に夕暮れが迫るなか、俺たちは身を隠して屋敷を出る。
裏手にある倉庫からテオが引っ張り出してきたのは、元の色もわからないほど汚れ錆び朽ち果てたシボレー・マリブだった。71年だか72年だかいってたが、俺は知らん。埃と水垢で縞模様になった窓を手でぞんざいに拭い、中年チンピラは運転席に乗り込む。ドアはそこだけボディと色が違う上にホラー映画ばりの悲鳴を響かせ、早くも不安は最高潮に達していた。
そんなわきゃねえんだ。最低には絶対、さらにその下がある。案の定、助手席のドアは固着して開かず、何度か蹴り付けてようやく軋みながら外れた。
「おい」
「大丈夫だって、今夜は降らねえ」
そういう問題じゃねえ、といいかけて思わず笑ってしまう。馬鹿じゃねえか、こいつ。半世紀近く前から、全ッ然、成長してねえ。
セルモーターが長いこと唸っては咳き込んで、死にかけの骨董品はようやくケツから生ガス混じりの青白い煙を噴き上げ始めた。
「このオールドレディは、ちょっとばかり気難しくてな……」
なにがレディだ。こんなもん高齢どころの話じゃねえ。墓穴から掘り起こされて継ぎ接ぎされたゾンビじゃねえか。
「心配いらねえよ、アニキ。走り出したらなかなかのモンだぜ?」
「ああ。タバコあるか」
差し出されたキャメルを咥えて火を着ける。久しぶりの煙は予想以上にキツく、思い切り吸い込むとクラッときた。この秣みてえな味が、高揚した身には懐かしくも心地よい。
「そういや、監視がいるぜ? 警察か国家なんだか局か知らんけど、さっき表に一台裏口に二台、覆面パトカーが見えた」
「たかが三台くらい撒けよ、得意だろうが?」
「おう、任せとけ」
阿呆が気張ってアクセルを吹かすと、銃撃戦みたいなアフターファイアが鳴り響いた。どうしようもねえな。こっそり抜け出すって算段はもう完全になくなった。
「どっちから出るつもりだ?」
「表だ。大通りまで出れば振り切れる」
その自信がどこから出てくるのか聞いてみたいもんだ。テオがアクセルを底まで踏み込み、マリブは派手に尻を振って走り出した。正面の門をリモートで開くと、隙間をこじ開けるように車体を突っ込ませる。門扉に当たったリアバンパーが弾け飛び、バランスを崩して監視中の公用車に引っ掛けそうになった。急ハンドルで助手席から放り出されそうになった俺を、テオが運転席から片手で引き戻す。
「ば、馬鹿野郎てめえッ!」
「文句は後だアニキ、舌噛むぞ!」
直線道路に入ったところでフル加速し始めたが、バックミラーにライトと赤色灯が映る。そらそうだろうよ。こんなん追い掛けてくれといってるようなもんだ。後は我らが中年ドライバーの腕を見せてもらおうじゃねえか。
◇ ◇
周囲は闇に包まれ、静まり返った郊外の暗がりにオーバーヒートしたエンジンが立てる金属音が鳴り響く。
「上手いこと行ったな、アニキ」
「ああ。そう……だな」
たしかに、撒いたといえば撒いた。現に追跡してくる車はない。俺たちは“ワイルド・ウェスト・ミュージアム・パーク”の敷地に辿り着いたところで動かなくなったマリブを乗り捨てた。
「よくここまで保ったもんだ」
「他人事みたいにいってんじゃねえ、阿呆が」
カーチェイスの途中にあちこちから異音が出始め、次から次へと警告灯が瞬き車内に煙と排気ガスが立ち込めてきた。やがて追いすがる公用車が見えなくなってきた頃には加速も減速も利かなくなってハンドルも空回りして。危うく燻製になりかけた辺りでパークのシルエットが見え始めたのだ。
外縁部のフェンスを乗り越えたところで振り返ると、車体からはチラチラと炎と黒煙が上がり始めている。
「追ってる連中からすれば、良い目印だな」
「大丈夫だアニキ、奴らが着く頃には終わってる」
そうかもしれん。問題は終わってんのが相手の陰謀か互いの泥仕合か俺たちの人生か、ってとこだ。
まあ、いい。どのみち夜は始まったばかりだ。




