【出版記念&ご愛読感謝特典SS】「サイモンズ・ロード」前篇
全部ウソだ。俺の人生は。何もかも偽物で、紛い物だ。
薄汚れた露店の店先で、俺は野良犬のように唸る。頭に掛かったマリファナの靄が、怒りと憎しみを歪んだ笑みに変えた。積み重なったしがらみと借金が俺を苛立たせ、暗いところへと追い込む。
「いま客が現れたら、何もかも奪ってやる」
カネも物も誇りも笑顔も、なんなら家族や臓器までもだ。
罪悪感、なんてもんは弱者の泣き言でしかない。だから、そんな感情が自分のなかに生まれるなんて、考えたこともなかった。
あの男と、出会うまで。あの、死に掛けの野良犬みたいな目をした、薄汚れて安っぽいビジネススーツの、おかしな中年男が。俺の店にふらりと現れるまでは。
「ウェルカーんムッ♪」
チョロそうなカモを見付けて、俺は笑う。だが妙な違和感は、最初からあった。焦りと恐怖で蒼褪め汗だくの男は、淀んだような暗い目で俺を見据えてきた。諦めと憎しみが心の奥で風化したような無表情。どこかで見覚えがあった気がしたんだが、しばらくして気付いた。
――ああ、これは俺だ。
かつて鏡のなかから見つめてきた、世の中すべてを蔑み、罵り、憎んでいた能無しの目だ。
「日本円は?」
男の言葉に呆れ顔を見せながら、俺は密かにほくそ笑んだ。警官と兵士以外のジャパニーズは、銃に触れることなどないまま一生を終えると聞いたことがある。これは稼ぎ時だと、俺は信じてもいない神に感謝を捧げた。
最初の取り引きは、すぐに終わった。スパニッシュクローンの1911なんて、こっちじゃ三百ドルもしない。状態はそれなりで整備もしてあるが、足が付かないようにいつ捨てても良い思い入れもない実用品だ。それが山ほどの宝飾品と引き換えに、ほぼ言い値で売れたとき何故か俺は不安になった。
この俺がだ。あるだけ毟り取るのが信条だった闇市の野良犬がだ。
あいつは、何かある。ジャパンでどんだけの修羅場を潜り抜けてきたのか知らんが、どう見ても殺されかけの状況で、笑ってやがった。空元気って風でもない。虚勢を張っている様子もない。底の読めない不気味さが、気掛かりでどうにも落ち着かない。
早く手を切るべき相手だとわかってはいたが、持ち込まれた貴金属に付けられた値が俺に二の足を踏ませた。
その額、実に三百万ドル。鑑定に出した古美術商は守銭奴のコミィ爺さん。奴のことだ、流した先ではその数倍になる。
男には、最初二万五千ドル、次に三十万ドルまで上がったと伝えておいたが、あまり金額そのものを気にした様子はない。貴金属の価値を理解できないというよりも、換金可能な品など望むだけ手に入るから、という印象を受けた。
その勘で、俺は肚をくくる。ここで手を引くような性格なら、闇市で商人なんかやらん。
換金したカネをそのまま俺に預けて、男はボロボロの車と山ほどの古物銃器、夥しい量の弾薬を買い漁った。それは一時期、近隣の相場が混乱するほどにだ。その流れが、俺を巻き込んで近隣都市の政治的経済的な情勢を変えていった。
おかしな話だが、武器市場の混乱によって治安が改善したのだ。
警察幹部への鼻薬を兼ねた献金が効いたのか、市場への新たな武器弾薬の流入は大幅に減少した。末端業者の運転資金が途絶えて、廃業や転業が相次いだ。武力の空白。他地域の業者が食い込んでくるのは時間の問題だが、おそらく数年単位の瀬踏みを経てのことだ。いまの状態で表立って動けば、ケーキの上のゴキブリ並みに目立つ。
ダブつき気味だった手製爆弾も腐りかけの手榴弾も、誰も買わないボルトアクション式の軍用小銃も一気に処分できて、俺の抱えていた不良在庫は一掃された。薬莢に曇りの出た弾薬ごと、嵩張る骨董品の重機関銃まで売れた。溢れんばかりの金貨で、資金は潤沢どころではない。俺にとっては、ここがチャンスだった。そして、分水嶺でもある。
このままクソ溜めの野良犬として、蔑まれ罵られ人目を憚って生きていくかどうかの。
あのジャパニーズが、天使か悪魔かは知らん。でも俺は、死んだ魚のような目をしたあの男に同族嫌悪的な拒絶感と、妙な親近感を抱いていた。アイツは、きっと悪魔だ。それだけに、賭けに出るにはお誂え向きの相手に思えた。
「いいさ。同じ目をした悪魔が、俺を地獄に連れてくんなら。最期まで付き合ってやろうじゃねえか」
俺は死んだ祖父の伝から弱小銀行の頭取に話をつけ、合法的な事業への貸付けに資金融資する契約を結んだ。
「何を企んでる」
頭取の爺さんは、応接室に呼び付けた俺を立たせたまま、胡乱な目で見据えていった。あんまりな扱いであんまりな口の利き方ではあるが、さもありなん。いまは堅気の振りをしてる爺さんも、闇市で資本を作った業突く張りの守銭奴だ。キナ臭い空気を読む程度の勘は残っている。探りを入れてくる目には、わずかに怯えも見て取れた。これが、何かの罠なのではないかと。
「耄碌したみてぇだな、爺さん。決まってんだろ、商売敵の排除だ。俺が慈善事業でもすると思ったのか?」
「……そういうことに、しておいてやる」
爺さんは鼻を鳴らして、俺の出したカネを受け取った。結果が出るのはまだ先だが、定期報告を受けることにはなっている。契約書はない。この街では、大概の取り引きがそうだ。交渉はカネと面子が物をいい、裏切りの代償は全員の記憶に明記されている。そして負け犬からは、どれだけ毟っても良い。
このときはまだ、頭取は俺をカモだと思っていたのだろう。二カ月もしないうちに、蒼褪めた顔で俺の商館を訪ねてきた。何度も頭を下げ、それまでの無礼を詫びた。決算書を捧げ持って、資金の推移と成果を説明し、今後の事業計画と発展的プランを詳細に提示してきた。脅しが効いたのか美味い汁が吸えると踏んだのか。爺さんは忠実な俺の犬になったが、馬鹿げたおまけがひとつ。
頭取は、俺が地域の聖者だと吹聴して回るようになったのだ。
意外な結果に困惑しながらも、俺は謎の男――いまいる場所では“ヨシュア”と呼ばれているらしいジャパニーズ――に次々と銃砲火器を流し続けた。流れては来るが扱いに困る軍用車両もだ。しばらく顔を見せなくなったと思ったら、ヨシュアは大量の建築資材を発注してきた。重機と輸送車両、食品と医療品、衣料と日用品もだ。
奴のいる世界での戦争は、一段落したらしい。そして、そこからの経過はどこの世界でも同じことだ。残敵掃討から非正面戦闘が始まり、それが隣国との軋轢を生み、軍事介入が行われて……まあ、詳しい話までは知らんが、結局その後もヨシュアは血と硝煙に塗れた暮らしを送っていたようだ。
何度か顔を合わせるうちに、男の目は少しずつ確実に穏やかなものへと変わっていった。殺し合いは続いていたようだから、たぶん隣にいた小さな女の子が、奴の心を開いたんだろう。
そういう存在が傍にいてくれるあいつが、羨ましいなと、強く思った。
俺にとって、変化の始まりは、そこだったのかもしれない。
俺はシェリルにプロポーズした。彼女の父親からは鼻で嗤われ、門前払いされた。それでもめげず何度も通うと、彼女の母親が折れて顔合わせの機会を作ってくれた。どうやら最初から俺たちの交際状況を把握しビジネスの推移も観察し、シェリルに対しても手綱を引き締めていたようだ。政治家一家を陰で支える真の実力者。俺にとっては、いつまでも頭の上がらない存在だ。
決戦当日は、応接室での一対一だった。シェリルの父親は政治の場で鍛えた口と眼力で若造をねじ伏せようとでも考えたのだろう。だが、敷地に一歩でも踏み込みさえすれば、野良犬の時間だ。
「五分だけやる。それが最初で最後の……」
「おしゃべりは結構、ミスタ・セィボレィ?」
政敵からはシェビーなんて呼ばれている気取った名字を、俺は無学な低学歴丸出しのイントネーションで発音する。汚いものを見るような目で睨まれたものの、持ってきた札束をテーブルに積んで黙らせた。虫ケラの死骸で稼いだ汚いカネか、などと聞こえよがしの独り言を吐かれたが、怯まず契約書を突き付ける。警察幹部から買い取った犯罪件数の推移もだ。書類を追う目の動きと表情を読む限り、治安状況を把握はしていたようだ。まあ、当然か。
政治家相手に駆け引きをやる気はない。殴るなら正面からだ。
「まずは五百万ドルだ。あんたが、このカネを洗浄しろ」
「……なに?」
さすがにアタマがおかしくなったとでも思ったのか、セィボレィは少しだけ冷静さを取り戻す。
「我が家を、貴様の汚れ仕事に巻き込むつもりなら……」
「巻き込むまでもないだろ。あんたが関わってる公共事業は、どれも破綻寸前だ。契約に面倒な制約も残っている。このままだと任期中に汚れることになる。俺よりも、ずっとな」
表情は変えないまま、セィボレィの背筋がわずかに伸びた。図星か。どこまで全体像を把握していたのかは不明だが、尻に火が着いているという情報は得ていたらしい。
「……わたしは、非合法な取り引きなどしていない」
「ああ、あんたはな。そっちは俺の方で対処する。そのカネを遅れている支払いに当てて、止まっている工事を進めろ。まずは成果だ。利益を求めるのは後でいい」
高利貸しの真似事をする気かと訝しんでいるようだが、その程度の小銭稼ぎがしたいなら“表向きクリーンな政治家”が相手では意味がない。正確にいえば、旨味が少ない。
「回収は、考えていない。返済の必要はないし、用途も詮索しない。必要なら追加の資金も揃える。資材も調達する」
「……何が目的だ。わたしに何をさせようとしている」
何を、か。
復讐の片棒担ぎだ。この街に、この国に、身ぐるみ剥がれて野垂れ死んだ、哀れな能無しのためのな。
それをこいつに教える気はない。利益を与える代償として、存分に利用させてもらう。
「あんたは雇用を作れ。その後は、福祉だ。俺は、裏で出回ってる銃器と兵器を回収してカネに変える」
「ふざけたことをいうな! いま以上の武器が市場にバラ撒かれたらどうなるか、クスリで飛んだそのアタマでも理解できるだろう!」
その通りだ。ただし、売却先がこの世界なら、だ、
「俺が仕入れた武器は、市場に回らない」
「だったら、どこに行くというんだ。神の御許にでも送られるのか?」
阿呆らしいとでもいいたかったのだろうが、セィボレィの言葉は正鵠を射ていた。銃は天に召された。いずことも知れん遥かな世界へと。
「それは俺の仕事だ。口出しはさせねえよ。やるのかやらないのか、いますぐ決めろ」
シェリルの父親は、デスクの上の札束を見た。汚いカネなのは否定しないが、カネはカネだ。しかも、無利子無担保で返済も要求されない五百万ドル。もし上手く回せるのであれば、さっきの言葉通り追加も届けるつもりでいた。
「何か保証でも要求する気か?」
「要らん。無駄に浪費されるなら、アンタとの関係が終わるだけだ。その方が良ければ、好きにしろよ」
「娘は、この件に……」
「おい」
いいかけた言葉に被せる。できるだけ、穏やかにだ。それでも、溢れる怒りが声を硬くした。
「ミスタ・セィボレィ? あんた、“男同士の話”が、したいんじゃなかったのか?」
娘と手を切れとでも脅すつもりで呼び出したんだろうが、当てが外れて残念だったな。俺は静かに、相手を見据えていった。
「この話を受けるか? 答えは、イエスか、ノーだ。能書きも、言い訳も要らん」
意外なことに、セィボレィに迷いはなかった。カネに目が眩んだ、というほど資産に困ってはいない。彼が困っていたのは、後腐れのない政治的パトロンだ。そして、汚れ仕事をこなす、裏切らない駒。
「一度だけだ。お前にチャンスをくれてやる。ただし、街が武器で溢れるようなことになったら」
磨き上げられたマホガニーのデスクに、俺はリボンを掛けた木箱を置く。中身はニッケルフィニッシュのコルトSAA、年寄りには大人気の玩具だ。
「そのときは、俺を撃て」
◇ ◇ ◇
それから先のことは、あまりよく覚えていない。麗しの女神との結婚も、聖人なんていう馬鹿げた二つ名が、すっかり定着したこともだ。
夢心地のまま、気付けば遥かな高みにいた。
ヨシュアとの取り引きは、その後も定期的に行われていた。調達した車両も、最初は民間の非装甲車両だったものが軽装甲車両になり、やがて主力戦車にまでなったが、そこからは積載量や航続距離を求めてくるようになった。
あいつの周りにいる人間と領土とコネクションがどんどん拡大していっているのが手に取るようにわかる。換金可能な金貨や貴金属を見ているだけで、いくつもの文化圏・経済圏を跨いでいるのがハッキリわかった。燃料の供給も行っているから、全車両の航続距離も概算ならば出せる。使用者が分散していることを考慮に入れたとしても、優に数千キロメートル、あるいはそれ以上の距離を移動している。武器兵器弾薬の消費も、総力戦から局地戦というか、非対称戦に変わることは本人の口から聞いた。そこからは、妙なことにヨシュアとガールフレンドのちっこい嬢ちゃんによる個人消費が中心になっているようだ。
それで済んでいるということは、それなりに安泰な状況ともいえるし、ふたりが凄まじい成長を遂げているとも考えられる。嬢ちゃんはともかく、ヨシュア本人と話している限り、それほどの猛者に育っている風には見えないんだけどな。
何度目かの取り引きで結婚したことを伝えると、あいつはこちらで預かっている資金から五万ドルを出させ、それを全部俺のポケットに突っ込んできた。
たかが商売相手の結婚祝いに五万ドル? どこの大富豪だ。
ヨシュアがこの先、異世界で何を求め何を成してゆくつもりなのかはわからん。もしかしたら、先のことなど何も考えていないのかもしれない。しかし、俺は決めた。あいつにはいわなかったし今後も伝える気はないが、俺ができる限りの支援を、でき得る限りの便宜を図ってゆく。ヨシュアは闇市の隅で燻っていた薄汚い野良犬の前に、胸を張って生きてゆくための道を示してくれたのだから。
いまの俺のままでは、できることは余りにも狭く限定されたものでしかない。そのためには、まず俺自身の実力とコネクションを広げてゆくことからだ。
「……さて、と。そう上手くいくわけはねぇけどな」
大丈夫だ。絶対にやり遂げてみせる。いまの俺には、女神が付いているんだから。