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毒を減らして

カール・レーフラー著 黒野千年訳 民明書房刊『今日の神学にとってのニーチェ』よりの抜粋

作者: 黒野千年

 最近、何かと報道で取り上げられるようになった神学者カール・レーフラー。

 だが、日本の神学会ではまったく無名の存在であり、まして一般人でその名を知っている者は絶無である。

 そこでこのほど、民明書房のご厚意により、報道で知られるようになったその主著『今日の神学にとってのニーチェ』を緊急出版することになった。

 本日はその成果を、一部抜粋という形で、ここで紹介することとした。


「存在しない神学者」


 とまで言われるカール・レーフラーの思想の一端を理解する一助になれば幸いである。


XXXXXXXXX


「序章」より


「神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ」


 ニーチェの『悦ばしき知識』の中の一節である。

「神は死んだ」という言葉は、ニーチェとキリスト教との関係をよく誤解させる。ニーチェは神の存在を否定し、キリスト教を人類に仇なすものとみなし、ヨーロッパ文明そのものを否定しようとした……と。

 実際、彼は『悦ばしき知識』の出版と前後してキリスト教への強力な批判を展開しているように思える。

 キリスト教は唯一神であるヤハウェ神に対しての絶対的な服従を求める。だが、ニーチェはそれを教会組織への服従であり、教義に対する一分の批判も許さない妄信であると位置づける。そして、当時のキリスト教徒の盲目的服従を「奴隷精神だ」として非難する。

 さらには、キリスト教の展開する「魂の不滅」を、仏教の「輪廻転生」の思想を援用しつつ、「永劫回帰」だとして攻撃する。すなわち、教会は発展性のない思想を代々反復して信徒に強いるのみであり、未来永劫、同じ事の繰り返しだというのである。それに比べれば、魂の再生を思想の中に取り入れ、生の発展性を教義に持たせた仏教を「精神的に衛生的だ」と称賛する。

 このように発展性に欠け、永劫回帰するのみのヨーロッパ文明の精神を「ルサンチマン」に汚染されているとニーチェは断罪しているように見える。このフランス語は強者への羨望と、へつらいの入り混じった複雑な憎悪感情であり、これが社会的にもさまざまな負の感情をかき立てる。たとえば、ニーチェはユダヤ教に対して、キリスト教以上に奴隷精神を批判する。しかし、その一方で、ヨーロッパ社会において金融・宝飾などの世界で支配的な地位を占めているユダヤ人コミュニティに対するヨーロッパ人一般からの差別感情の吐露を、まさに強者へのへつらいと嫉妬を強く発露させたルサンチマンだと指摘する。

 ニーチェはついには、狂気に至るその瞬間まで独自の概念を発展させていく。こうした奴隷精神を超克するために、神のような絶対的な倫理存在に頼らないことを推奨する。自らの「力への意志」を行動原理とする「超人」に到達すること……それこそが、人類が救われる道であると結論づける。

 この思考の過程は、いわば、神学との決別を志向しているかのように思える。ニーチェの哲学は、否定の哲学であり、虚無主義ニヒリズムであり、それはまさに「神を殺す」行為に相当する……と。

 だが、ニーチェは本当に「神を殺した」のだろうか? 「神は死んだまま」にしておこうとしたのだろうか?

 冒頭に引用した言葉にもある「我々が神を殺した」の「我々」は、ニーチェとその一派ではない。「我々」とはヨーロッパ人一般であり、ヨーロッパ文明そのものが、その奴隷根性によって神を有名無実の信仰の対象に堕落させている。そのことの比喩なのではないだろうか。

 ニーチェが仏教の輪廻転生の思想に共鳴していたことは、注目に値する。それは「魂の再生」の思想であり、「永劫回帰」するだけでなく、「輪廻転生」するなかで、より高みをめざす発展を旨とするからである。

 もしニーチェが狂気に陥らなければ、彼の哲学はまだまだ発展を見せ、そのなかで二-チェは「死んだ神を復活」させたのではないか。彼が提唱する「超人」たちが死せるキリスト教と対決して打ち破り、堕落した文明を支配することで、キリスト教精神の発展的な再生へと至る……そのような道筋を提示したのではないだろうか?

 だとすれば、ニーチェの狂気は一つの悲劇でもある。それはキリスト教神学と哲学との不幸な断絶を生んだ。ニーチェの哲学を政治利用するナチのような存在に、一時はヨーロッパが征服されかかったからである。ドゥルーズが彼の修士論文である『ニーチェ』において、ニーチェが生きてあったなら、ナチこそを弱者であると批判しただろう、と記したことを忘れてはならない。

 ドゥルーズ、ガタリ、フーコーのようなフランス現代思想の巨人たちが、ニーチェを再評価し、彼の概念を独自に昇華させて、彼らの国家論的思想に取り入れ、世界的にも普及している今日、改めてキリスト教神学の立場からニーチェを再評価するのは、思想的に喫緊の課題であると考える。

 そこで、ドイツのキリスト教神学の今日的状況のなかに、ニーチェ的な哲学思想の影響を読み取り、キリスト教神学とニーチェの哲学の再接続を試みることを、本書の目的としたい。


XXXXXXXXX


以上が、『今日の神学にとってのニーチェ』の序章の前半部分である。ニーチェ~現代思想~現代神学の総合的な再評価を試みる野心作であり、神学研究者のみならず、現代思想全般に興味のある向きにも必読の書であるといえるだろう。


なお出版予定日は、平成32年2月30日である。

一応、自分のなかのニーチェに関する知識を総動員し、哲学に関しての情報をボロが出ない程度に粉飾しながら、論文の序文のように作り上げた……


そう、メタフィクションですww


小難しくて笑えなかったらご免なさいww

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