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……結局、眠れなかった。
まだ俄<にわ>か仕込みでも勉強をしていたというのなら、自信を持って朝を迎えることも出来ただろう。しかし、一晩中、拳銃をぶっ放していたなんて、痛すぎて誰にも話せなかった。
(拳銃だって……)
軍に入隊した時に数回、万が一の時のために練習で撃っただけで、それ以来、触ったこともなかったのだ。
「お願いです……。あの人が本当に司祭様であるか調べて下さい」
――深夜。駄目もとで、外の監視者にも陳情をしてみた。
……けど。
「命令に不服があるのなら、この作戦の実行責任者であるギュンター本部長に嘆願なさってください。自分の独断で中止することは出来ません」
予想通りの回答だった。
そんなこと無理に決まっている。夜中にギュンターの自宅に押し掛けることは不可能だし、そもそもギュンターが何処に住んでいるのか、ここにいる誰も知りはしないのだから。
朝一番で、ウェラー教の総本山ローレアンの格式ある祭服をまとったアッシュバルムの兵士達が三台の車で迎えに来た。
ローレアンはアッシュバルムの隣に位置しているのだから、大司教を乗せた車が通過するのは不自然ではない。……けど。仰々しい車列は、ユリアーナを安心させるためのものではなく、ただ不安に陥れるためのものにすぎなかった。
目の下に大きな隈を作っているユリアーナを見た祭服姿の男が同情的に眦を下げる。
「大丈夫ですよ。今回は軽い偵察任務ですから。とりあえず、肩の力を抜いて下さいよ」
「貴方は? えっと……。軍の人ですよね?」
「ああ。自分は貴方がたを送迎する運転手の任を賜りましたハンス=スタンディンと申します。セレスティンまで変装しておりますが、軍人ですよ。北東方面作戦司令本部第一隊に所属しています。こういった仕事は、貴方より経験しているので、お困りのことがありましたら、言って下さいね」
「それは頼もしい……限りです」
「ローレアンの了承は取れているのです。自分はアッシュバルムの兵士ですが、後列の車には、儀式のためローレアンから招いた本物の神父様も乗っていらっしゃいます。強くいきましょう」
「そう……ですね」
ハンスという軍人の前向きな言葉に首肯しながらも、内心ユリアーナは苛々していた。
(そんなこと、私だって、知っているわよ……)
ローレアンのお墨付きがあることは、ユリアーナだってギュンターから聞いていたし、その背景だって容易に想像がついていた。
――ウェラー教の総本山ローレアンもまた、オーネリアに聖地を渡したくないのだ。
セレスティンは、今まで比較的おとなしく聖地の存在を喧伝することもなかったが、オーネリアが手にすれば、大切な聖地を国家発揚に利用されるかもしれない。それは、ローレアンにとっても厄介なのだ。だから、まだオーネリアよりも与しやすい、アッシュバルムに協力する。……が、もしもばれてしまったら、知らないと白を切る。そういう腹なのだ。
自分が捨て駒であることは、ユリアーナも分かっていた。
……だけど、それにしたって、現実は余りに痛すぎた。
(……お願いだから、ハンスさんこそ、私の側にいて下さい)
悲観して涙目にはなっても、さすがに、泣き喚いて縋ることも出来ずに、ユリアーナは瀕死の微笑を浮かべて、溜息をつくばかりだ。
周囲の視線にうながされて、ユリアーナは渋々車の扉を閉めて、席を詰めた。
近年「エレリオーサ」と呼ばれる透明な鉱物をすり潰して、燃料にする車が増えている。
この鉱物の特徴は、とにかく燃費は良いが、速さが出ないということだった。
(これは、長い旅になりそうだわ)
黒塗りの頑丈そうな車は、外見の割に内部が狭い。
先に乗り込んでいたのは、相変わらず見た目だけは麗しい青年レイティアだった。
丸二日ほとんど眠っていない目に、満面の笑みと、真っ赤な衣装が眩しすぎた。
しかし、完璧な容姿を持つ彼の口元には、微かにパン屑がついていた。
「ほら。ユリアーナさんも食べたら? どうぞ」
目が合ったら、いきなり固くなったパンを差し出された。
(コイツの……)
この青年の根拠のない余裕と自信めいたものは、一体何なのだろう?
絶対、セレスティンに行っても、自分の正体はばれないという自信があるのだろうか?
バレれば、レイティアだってただでは済まないのに……。
「私は、お腹がへっていませんから」
そっぽを向いて知らんふりを決め込んだが、口とは裏腹に派手にお腹が鳴ってしまった。
「…………あ」
お互いに無言になった。
(見てる。見てるわ。みんなが憐みの眼差しで私を見てる)
ユリアーナは、明け透けないレイティアの眼差しと、運転席で何も言わないハンスの圧力に耐えかねて、赤面しつつ、おずおずと片手を差し出した。
「あの。それ、少しだけもらってもいいですか?」
「うん」
掌にぽんとパンを置かれて、ユリアーナは口元に寄せると無言で食べ始めた。
それを合図にしたかのように、車が急発進する。
砂煙を立てながら、見慣れた街並みをすっ飛ばして行った。
東に位置しているセレスティンに行くには、ユリアーナが配属されていた北東の小都市も通過していくだろう。整備されていない道は、凶器にも等しかったが、気分が悪くなる前に、ユリアーナは意識を手放してしまった。そう。――この状況で、眠ってしまった……のだ。
「えっ。……私?」
―――起きているつもりだった。……なのに、一体、どうして……?
はっとして、目をぱちりと開けると、眼前に広がっていたのは荒野だった。
建物一つない砂塵の舞う大地を、車がガタンガタン音を立てて走っている。
ハゲ山の後ろから、わすがに橙色の太陽が覗いていた。
……あれは夕陽だろう。
(一体、私は何時間眠っていたのかしら? ……最低だわ)
「あっ、おはよう。ユリアーナさん」
「えっ?」
ふと横を見ると、レイティアの顔がユリアーナのすぐ隣にあって狼狽した。
万が一にでも、この男に凭れながら寝ていたとしたら、失態どころの騒ぎではない。
「……レイティア……司祭。その、私……」
「うん。ユリアーナさん。疲れていたんだね。よく寝ていたみたいで良かった。昨日は徹夜だったでしょ。正直、大丈夫かなって思ってたんだ」
「すっ、すいません。本当にごめんなさい」
主に、この青年のせいで眠れなかったわけだが、恨み言を口にしても仕方ない。
ハンスにもぺこぺこと頭を下げてから、ユリアーナはごしごしと目を擦り、上体を起こした。途端に、焦げたソースの甘辛い匂いが鼻を刺激する。
レイティアは、やはり何か食べているようだった。
「あれ? もう夕食の時間ですか?」
寝ぼけながら、よくよくレイティアの手にしているものに目をやれば、彼が手にしているのは七面鳥の丸焼きのようだ。一体、どこでそんなものを手に入れたのか。
――いや、それより何より……。
「レイティア司祭。聖職者は、肉を食べてはならないという戒律はご存知ですよね?」
「はい?」
レイティアは首を捻っている。……知らなかったのか? ……本当に、そうなのか?
「でも、……買ってくれたよ」
「当然ですよ。一応、ここでは貴方が一番偉いんですから、口答えできる人間なんていないんです」
「そうなの?」
「そう……なんです」
おもいっきり目が覚めた。
こいつは、全大陸の聖職者を舐めているのか?
ユリアーナが静かに体を戦慄かせていると、運転手のハンスが視線だけこちらに向けた。
「でも、神父様だって、たまには羽を伸ばしたいでしょう。これからまた大変なお仕事をされるわけですし、今日だけは特別でいいんじゃないですか?」
「今日だけって……」
ユリアーナは、レイティアを遠慮くなく睨みつけた。
この青年は、しょっちゅう肉を食べているのだ。ユリアーナには本能的な勘で分かる。
なおも退かないユリアーナだったが、ハンスの方がはるかに大人だった。
「まあまあ。明日にはセレスティンに着きますから」
「もう着くんですか?」
「隣国ですからね。最短距離で行けば一日で着きますよ」
「……たった一日で?」
「どうしましたか?」
ユリアーナは、こめかみを押さえた。仕事中、セレスティンの領地は目にしていたが、もう少し距離はあるものと考えていた。
(……早すぎるわよ)
どうせ、速度がでない車だからと、最初から嘗めていた。
(……もうそこまで、距離が縮まってしまったなんて)
最悪、車中で聖書でも読んでようと思ったが、本当に時間がなくなってしまった。
唇を噛みしめて、眠ってしまったことを心底悔やんでいると、顔のすぐ横に七面鳥があった。
「食べる?」
レイティアだった。
(コイツって奴は……)
「いりません」
懸命にレイティアから距離を取るが、元々定員二人の狭い後部座席で、意味のない行動なのは分かっていた。どんなに間を取ろうとしても指一本入る程度しか距離は作れない。
レイティアは、あくまで我が道を行く人間らしく、窓を開けて風を受けていた。
「でも。ユリアーナさん。食べてた方がいいよ。明日には着けないかもしれないんだしさ」
「えっ?」
丁度、ハンスとユリアーナの声がはもった。
「だって、ほら……」
レイティアが指を差した方向に、ユリアーナが視線を向けようとした直後だった。
――ガタンッと、激しく車体が傾き、大きく座席も揺れた。