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(それは、どういう意味?)
「これだけじゃ、分からないかな。まあ、つまり、新訳の聖書は僕の誕生に合わせて作られたものなんだ。現教皇の偉大なる所業というわけ」
何処か皮肉めいた言い回しで、わざとらしくおどける。
こういう話の切り出し方をしてきたのは、レイティアのなかで教皇に対するいろんな感情が渦巻いているからなのだろう。
「意外に知られていないことだけどね。ローレアンの教皇庁には、いろんな部署がある。科学や歴史、言語、様々な分野の天才が集まってくるんだ。ウェラー教の為なら、どんなこともするという、素晴らしく敬虔な教徒達が最高の技術力を発揮して作り上げた発明品が僕。……それこそ、聖書を変えてしまうくらいの最高傑作だと聞かされて育てられたよ」
レイティアは淡々と語ったが、ユリアーナの顔からは、みるみる血の気がひいていった。
「……作られた? レイティア大司教が?」
「もちろん、僕はちゃんとした人間だよ。血も赤かったでしょ? だけど、人より違うふうに、少し細工されたんだ。僕の声と聖書の文言が合わさった時、奇跡が起きるようになっている。君が見たあれは「洗脳装置」そのものなんだ。幸い、君は自我がしっかりしていて、僕が何かするのではないかという先入観を持っていたから、かかりにくかった。もう少し僕が読んでいたら、光の章でなかったら、危なかったかもしれない」
「だから……」
我知らず、ユリアーナの双眸からぽたぽたと涙が零れた。
――すべての辻褄が合った。レイティアは誤魔化してはいたけれど、嘘をついていたわけではなかった。
「だから、貴方は、聖書を読めないのだと、私に言ったのですね?」
「読んでも良かったけどね。読みたいなら、旧約でも何でも読めばよかった。だけど、旧約の文言が新訳に入っている場合もあったりしてね。選別してたら、ややこしいんだ。結果、読まないのが一番という結論に達したってわけ」
レイティアは両手を頭の後ろに置いて仰け反り、背後の格子窓から真っ青な空を仰いだ。
「教皇は僕をとても可愛がってくれたよ。今も、あの人に憎しみがあるわけじゃない。だって、教皇は僕がいれば、戦争を終わらせることができるんだって、純粋に信じてるだけなんだから。でも、僕は知ってる。いくら僕が聖書を読んでも誰一人救えない。むしろ、都合良く人を操っているだけなんだって。そう、気づいてしまった。気づいてしまったら、もう駄目だった」
――誰一人、救えない。
その結論に達した時のレイティアは、深い絶望を味わったに違いない。
正しいと思っていた世界が崩れた瞬間……。
彼はどんなことを思ったのだろう?
「それからは、その……いろんなことをしたよ。お酒も飲んだし、お肉も食べまくったし、煙草も吸ってみたり、賭け事もやってみたかな。戒律破ったら、本当に地獄に落ちるのか試してみたくって。あっ、だけど、まだ女の人には手を出してないからね。――誓って」
「念を押さなくても、いいですから」
「じゃあ、そんなよそよそしくしないでよ。取って食おうなんて思ってないから、座って」
レイティアが自分の隣をぱんぱん叩いた。ユリアーナは涙を拭い、その言葉に従う。
「どうして、君が泣いてるんだい? 調子狂うな」
「私にも、分かりません」
「別に、僕は可哀想じゃない。可哀想なのは、僕の言葉に従ってしまう人達のほうだから」
「――貴方は、フローラ妃にも、聖書を読んだのですね。だから……?」
「……そっ。読んじゃったんだよね。うっかり……さ」
レイティアは、苦笑と一緒にうなずいた。
艶やかな黒髪が寝台の上に広がっている。衝動が抑えられずに、ユリアーナはその髪にそっと手を置いた。
「僕は、彼女にひどいことをした。会いたいって思ったけれど、僕も妙な肩書がついて、忙しかったし、枢機卿としての僕で会いに行ったら、かえって記憶がよみがえって、残念な結果になりそうだったからね。出来れば、偶然を装いたいと思ったんだ。でも、今思うとそれも口実で、ただ僕が、ローレアンから逃げたかっただけなのかもしれないね」
「――それで、貴方は偶然、アッシュバルムとローレアンの密約、軍事計画を知った?」
「その通りだよ。ユリアーナさんは頭良いね。これは利用できるって思ってさ。生まれて初めて家出したんだ。適当にはぐらかして、転がして……。僕は色々情報を持っていたけど、ここまで上手く運ぶとは正直思ってなかった。だけど、ようやく、居場所が出来たような気がして嬉しかった。ヴォルフ君も、テオやカイ君も、陛下も……面白い人たちばかりだ。ローレアンって意外に個人主義だし、温かみってないんだよ。僕もほら、ある意味、異端な存在だからさ」
「大司教は……」
窓から差し込む光が、寝台に横たわるレイティアを神々しく染め上げていた。
「…………セレスティンを、助けたかったんですよね?」
「どうかな。僕、そこまでお人好しでもないけど……」
レイティアの柔らかい髪を撫でながら、ユリアーナは複雑な気持ちになった。
彼のことを知っているようで、まるで知らなかったのは、ユリアーナの方だ。レイティアではない。
「だって「エレリオーサ」を採掘したのは、レイティア大司教じゃないですか……」
「オーネリアとローレアンは、セレスティンに「エレリオーサ」が眠っていることを突き止めていたんだ。それなのに、セレスティン人の方が知らないって、おかしくない? 僕は教えてあげただけ。何がオーネリアを焚き付けているのか、原因も分からなかったら、最初から勝負になんてならないと思ったから……。助けになるような行動でもないさ。むしろ、知ってしまったセレスティンは、これからが大変になる」
ユリアーナは窓の外に目をやった。
蒼天の下、いつもと変わらない景色が流れている。
今までのことが何もなかったかのように……。
これからの展開を拒むように……。
大通りの人の流れ。車の渋滞。市場の活気。
――そして。
ユリアーナは、静かに目をつむった。
「でも、オーネリアの特使に聖書を読む必要はなかったでしょう。自分の身を危険に晒してまですることじゃなかった。これから貴方だって、大変になるかもしれません。だって、私、アッシュバルムにも貴方の正体を話してしまったから……。貴方はもう」
「いいよ。別に。どのみちバレるんだ。僕も駄目だった。偽名がいけないなんて嘘。その気になれば、名前を捨てることもできたし、聖職者をやめることだって可能だった。結局、僕も教皇に洗脳されている。だけど、やったことに関しては、後悔なんてしないつもりさ。これで良かったんだ」
ユリアーナが額に置いていた手に、レイティアの温かい掌が重なった。
「まだ道の途中……。帰るつもりもない。ユリアーナさん。君と同じなんだよ。……僕も」
そして、声にならない沢山の言葉を埋めるように、力を込めてきた。
まるで、自分の居場所をユリアーナに刻みつけるように、強く握りしめる。
「――――壁を、壊したかったんだ」
自分の周囲を取り囲む、強固な壁。
どうにもならない、積もり積もった不条理で築かれた高い壁。それを木端微塵に壊したかった。
レイティアは、ローレアンの遥かに深い底で。ユリアーナは、軍という冷たい闇の中で……。
場所は違えど、どうにもならなくて。同じように足掻いていた。
「よく、頑張りましたね」
「君もね」
ユリアーナはベールを脱ぐと、そのままレイティアと向き合うように寝台に横になった。
「疲れましたね」
「……でしょう?」
「腕、痛みませんか?」
「もう平気だよ」
「良かった」
レイティアはさきほどユリアーナがしたように、優しくユリアーナの髪を撫でてくれた。
ユリアーナはその感触が心地よくて、瞳を閉じる。
また涙が零れて、寝台を濡らしてしまうのではないかと心配になりながら、しばらく、そうしていた。
――そうして。
レイティアが健やかな寝息を立てた頃、ユリアーナはゆっくりと上体を起こした。
(あんな凄いことを病み上がりでやってのけたんだから、当然疲れてるわよね。レイティア)
「ありがとう」
言うと、ユリアーナはレイティアの額に軽く口づけた。
レイティアは、びくりともしなかったが、それで良かった。
「どうか、フローラ妃とお会いできますように……」
名残惜しさを断ち切るように立ち上がると、ユリアーナは再びベールをかぶる。
「私、まだ……壊してないのよ。壁。――だから、行ってくる」
そそくさと部屋を出て、廊下に出ると、ヴォルフが神妙な面持ちで立っていた。
「あの……」
言いにくそうにしているのが分かったので、ユリアーナは精いっぱいの笑顔を作った。
「分かっています。見てましたから。不審な車が停まっていますね。中にいる人は、アッシュバルムの軍人です」
ユリアーナは、レイティアの部屋から一部始終を見ていた。
――アッシュバルムが動いた。
背広姿のハンスの姿が車の中にあるのを、ユリアーナは窓から確認していた。
ユリアーナが願った通り、軍事的衝突は起きなかったけれど、テオやヴォルフにまで、ユリアーナは正体を知られているし、軍からの命令は何一つこなせていない。上層部から処罰されても仕方なかった。
役立たずは、いらない世界なのだ。
「どうして? アッシュバルム軍は、あんなに堂々と姿を現したんですか?」
「あえて、目立つように来たんですよ。私が逃げられないようにするためです。それと、アッシュバルムの密偵だと、誰にバレても良いということです。覚悟をしろと……」
「シスターユリアーナ」
強く袖を引かれたが、ユリアーナは顔を横に振った。
「ご迷惑はかけられません。大司教にもヴォルフさんにも……。この国にも」
「しかし、せめてレイティア大司教に……」
「駄目です。これは、私の問題ですから。ほら、私は、元いたところに帰るだけですから。心配なんていりませんよ」
ユリアーナは嘘をつくのが下手だから、上手に騙すことができたのか分からなかったが、きっと大丈夫だろう。
自分ではもう引き留められないと悟ったのか、ヴォルフは待ってて下さいと言うと、一旦、何処かに消えて、再び戻って来た。その手には、ユリアーナが存在自体忘れていた銃があった。
「本当は、私の方で処分させてもらおうと思っていました。貴方には、これは似合わない」
「そうですね。自分でもそう思います」
「どうか、神のご加護がありますように……」
ヴォルフが心底心配そうな顔で、十字を切ってユリアーナを送り出した。
怖くはなかった。だって、レイティアも言っていた。
――後悔はしない……と。
ユリアーナは、アッシュバルムにとっては使えない密偵だったが、自分のしでかしたことに後悔はしていないのだ。
(きっと、大丈夫)
ユリアーナは、支給品の一つだったガーターホルスターに、拳銃を忍ばせると、そっと大聖堂を後にした。




