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――あれは、何だったのだろうか?
ユリアーナが見た奇跡のような光景。
結局、テオとカイはもちろん、他の兵士達が唖然とする中、オーネリア軍は粛々と引き上げて行ってしまった。
多分、オーネリア軍の兵士にとっても、意味が分からなかったに違いない。
レイティアは、「彼らはただ脅し目的に親書を持参しただけ」と伝えたが、レイティアの奇跡の業を目撃していない彼らは、それを鵜呑みにするしかなかった。
そして、親書の内容は、極秘であることが当然なのに、レイティアがぺらぺらと喋ってしまった。
――体の弱い愛娘の里帰りの許可と、エズワルド国王の平和的な退位を勧めるもの……だったらしい。
文章は、至極丁寧に書かれていたそうだが、要は、強制的にフローラと離婚させて、エズワルドからはセレスティンの統治権を剥奪し「エレリオーサ」をオーネリア単独で採掘したいという一方的な思惑のようだ。
エズワルドが気弱な王だと情報を聞いていたオーネリア王は、軍勢を見ただけで、エズワルドが震えあがって、降参すると踏んでいて、でも、一方で交戦になっても構わないと思っていた。その選択を、今回の作戦の責任者であった先程の特使達にまかせたのだろう。
(……一応、一時的にでも戦争は阻止できたわけだけど)
レイティアの術にかかったオーネリアの特使たちは、今頃、国王に何と報告しているのだろう?
いろんなことが気になる。
でも、それを聞いたら、レイティアに迷惑がかかってしまいそうで、ユリアーナは固く口を噤んでいた。
(どうせ、そんな私の心の葛藤なんて、この人にはバレバレなんでしょうね……)
――案の定だった。
「疲れているってわけじゃなさそうだね。ユリアーナさん」
レイティアは大聖堂に帰還するや否や、ユリアーナについて来いと言い渡した。
しかし、向かった先は自室だ。
「疲れているのは、大司教でしょう。ヴォルフ司教補や、教徒の皆さんとも挨拶がそこそこで、自室に戻るなんて、らしくないですよ」
「早く、君と二人きりになりたくてね?」
「……へっ?」
どきり……とはしたけど、ユリアーナはレイティアの軽口には、悲しいほど慣れていた。
「良かったですね。今、この部屋には、私と大司教の二人だけのようですけど?」
「うん……。まあ、人数的には二人だけどね。さすが、ユリアーナさん。いつものユリアーナさんで、僕はとっても嬉しいよ」
本当に嬉しいのだろうか……。
レイティアは涙目だった。
ユリアーナがレイティアの私室に足を踏み入れるのは、決して初めてのことではない。
だが、いつも傍らには誰かがいて、特にレイティアの看病は、ヴォルフや他の神父と交代で行っていたので、常に大勢の人と一緒だった。
こうして本当に二人だけになったのは、初めてのことだ。
さすがに、レイティアから指摘されるとユリアーナも緊張してしまう。
居心地の悪さにユリアーナが室内を見渡すと、彼には似合わない難しい書物が壁と沿うように作られた高い書棚に所狭しと並べられていた。
きっとこれらはレイティアの所有物ではなく、前大司教の持ち物だったのだろう。
大聖堂の尖塔の中。貴賓室の上の階に設けられた広い部屋が代々の大司教の私室だ。
本が山となっているせいか、あまり広さは感じられない。中心にぽつんと天蓋つきの寝台が置かれていて、主にレイティアの私的空間は、寝台だけなような気もした。
重そうな祭服を引きずって、寝台までやって来たレイティアは、スプリングを試すように、弾みをつけて、仰向けに横になった。
「癒されるねえ。凄い気持ちいいよ。やっぱり、大司教の寝台はさすがな寝心地だね。ユリアーナさんも試してみる?」
それは、つまり二人で寄り添って眠れということなのか?
(この人のことだから、深い意味はないんだろうけど……)
でも、たまに予想もつかないことを仕掛けてくることもあるので、恐ろしかった。
「……私は……いいです」
丁重に辞退すると、レイティアは機嫌を害したふうでもなく、あっさり承諾した。
「そう。じゃあ、また今度一緒に寝ようね」
「はっ?」
……今度があるのか?
意味が深すぎて、耳まで赤くしたユリアーナだったが、レイティアは無関心に寝台の上でごろごろ転がり始めたので、きっと初めから、他意なんてなかったのだろうと反省した。
だけど、ふざけた口調で話し始めたのは、思いもよらないことだった。
「――聖書が、二十年前に新しくなったのは、君も知っているよね」
「ええ。私は新訳の方に親しみましたから……」
「……僕の年齢は、二十歳なんだ」
どくんと、ユリアーナの心臓の音が跳ねた。




