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「おいっ。ちょっと待て。嬢ちゃん。危ねえぞ!」
「シスター!」
背後でテオとカイが呼んでいたが、ユリアーナは濃紺の修道服を翻し、裾を持ち上げて走り続けた。
兵士たちはあっけにとられて、ユリアーナの姿を見守るだけだ。
無理もない。
まさか修道服の小娘がアッシュバルムの軍人とは、思いもよらないことだろう。
(ほとんど備品整理ばかりだったから、もう体が言うこときかないけど)
聖エラレナ教会の近くまで来てから、ユリアーナはようやく息を整えた。
(ついて来るなって言われたら、余計について行きたくなるのが普通じゃないの?)
そうはいっても、以前のユリアーナだったら、きっと黙ってレイティアの言うことに従っていたかもしれない。
――関わることが面倒だったから……。
しかし、もう今はいても立ってもいられないのだ。
だって……。
(貴方はオーネリアの目的を知っていたの。知っていて何がしたいのよ。レイティア?)
ユリアーナは、爆発しそうな心臓に手を当てた。
扉の前に左右に分かれて警護している兵士二人に、十字を切って挨拶をする。
誰もユリアーナのことを疑っていない。純粋な修道女と信じている。
ユリアーナは人差し指を唇に寄せて、黙っているようにと兵士たちに目配せした。
兵士たちが立っている場所から階段を数段のぼり、純白の教会の入り口にやって来た。
極力、気配を消して両開きの扉の左側を少しだけ開ける。
祈るように目を凝らした、緋色の絨毯の先……。
そこには、ごく当たり前に講壇に立つレイティアと、オーネリア王の特使達がいた。
まったく違和感がない。
むしろ、遥々やって来たオーネリア国王の遣いを、セレスティンの大司教自ら、聖ウェラーの聖地に案内している。自然な流れだった。
――しかし。 ユリアーナにとっては違和感しかない光景だった。
あのレイティアが「聖書」を持っていたのだ。
……一体、いつの間に持って来たのか?
それとも、元々この教会にあったものなのか、ユリアーナには知る由もないが……。
しかし、読めないと言い張って、口に出すことはおろか、手に持つこともなかった聖書を、彼は当たり前のように手にして、しかも頁を広げている。
涼やかな眼差しは、いつものおちゃらけているレイティアではなく、大司教と名乗るのにふさわしい威厳と圧倒的な存在感を放っていた。
(これが……。レイティア大司教?)
姿形は一緒だが、同一人物とは思えない。レイティアは清廉な聖職者そのものだった。
「今日は、遠路遥々有難うございました。オーネリア国王陛下の親書は、責任を持って、私がエズワルド国王陛下のもとにお届けいたしましょう。両国に何があったとしても、すべての国民は等しく、聖ウェラーの赤子。せっかく聖地ケレンにいらっしゃったのです。神のご加護が皆さまにありますように、私から祈らせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「これは願ってもいない。大司教様に祈ってもらえるなんて光栄です」
特使たちは口ぐちにそう言い、レイティアは微塵の歪みもない笑顔でうなずいた。
「では、今日は光の章第八十五章を」
(…………えっ?)
ユリアーナは瞬きを繰り返した。
……それは、先日牢に放り込まれた時にユリアーナが読んだ聖書の一説ではないか?
そうして。
レイティアは朗々と「光の章」を読み上げた。
「神は光の中に現れ、汝を救わんとする。清らかな行い、良き人の教えを守り、我欲を捨てよ。教えを貫く者に、神は無償の愛を捧げる 神に祈りを捧げ 悪しきものを退けよ 神は汝を救う 聖なる神の御名において ――汝は絶対なる神の僕なり」
レイティアの声は綺麗で、澄んでいて、何処か耳に懐かしくて、涙が出るほど愛おしくて、体の底が熱くなる、奮い立たせられるような声だった。
(…………神様?)
聖書からは光が吹き出し、教会中が金色に染まる。
神話の中でしか存在を知らなかった「天使」が白い羽根を可憐に動かし、宙を旋回した。
色とりどりの花が祝福の嵐になって吹き荒れる。
――それは、まるで天国。
こんなに近くに天国があったのか。
……錯覚?
いや、現実の世界だった。
(こんなに素敵な世界、見たことがない)
胸を弾ませていると、レイティアが講壇から、うっとりとしている男達の前に回り、甘い声で囁きかけた。
「――速やかに、撤退するんだ。誰にも何も危害を加えてはならない。そして、二度とセレスティンに入らないように。オーネリア国王に伝えなさい。セレスティンに手を出すとウェラー教全体を敵に回すことになる……と。いいね?」
男たちは焦点の定まらない視線、弛緩しきった顔で、何度もうなずいた。
「よろしい」
レイティアは聖書を閉じて片手で抱えると、ゆっくりと教会から出て来て。
――そして。
「えっ?」
扉の前で、その場にしゃがみこんでしまったユリアーナを、簡単に発見してしまった。
「…………どうして、ユリアーナさんがここにいるの?」
「すっ、すいません」
ユリアーナは、ぼんやりしながら辛うじて謝った。
「……その様子。もしかしてっていうか、もしかしなくても聞いちゃったんだね?」
レイティアは確信をこめて、両手で顔を覆うユリアーナを見下ろしていた。
「まったく、テオとカイ君は一体何をやってたんだろうね。こんな可愛い女の子をムサイ連中の中歩かせるなんて。役立たずな。いや、僕がもっと手を打っておけば良かったのか」
「本当に、すいません。レイティア大司教。私の軽い好奇心で……。ごっ、ごめんなさい」
「ふーん。…………おかしいな。ユリアーナさんには記憶があるなんて?」
レイティアは真摯に独り言をつぶやいた。
「ねえ。こっち見てくれない?」
「それは、嫌です」
今、レイティアの顔を見たくなかった。
きっと、自分でもびっくりするような恍惚とした瞳を向けてしまいそうで、怖かった。
「ひどいよ。ユリアーナさん。君にだけには、そういうことをしたくなかったから……。来ないでくれって頼んだのに」
「そういうことって?」
「見てたのなら、分かるはずだと思うけど?」
「ああ、大丈夫です。何をしたのかちゃんとは分かりませんでしたが、私は引っかかっていませんから。催眠術とか強い方だと思いますし、少し経てば、まともに戻りますから」
何が大丈夫なのか分からないまま口にして、でも、ユリアーナは自分の足腰が立たないことを知った。
「ええっと。ごめんね。ユリアーナさん。今のは少し経っても、まともにならないんだ。半永久的にこれの影響は続くという……」
「ええっ!? そうなんですか!?」
だったら、もう二度とまともにレイティアの顔が見られないかもしれない。
(会った途端に、膝をついて頭を下げてしまいそうだわ)
驚愕のあまり、顔を上げたユリアーナは、だけど、しっかりとレイティアと目を合わせてしまった。
力強い眼光。瑠璃色の瞳がユリアーナを凝視していた。
レイティアは音もなく、その場にしゃがむと、突然ユリアーナの顎を持ち上げる。
そのまま数瞬、じっとなっていたが、やがて、顎にかけている手の力が強まった。
(…………何?)
これから彼が何をするのかさっぱり分からなかったユリアーナは、そのままなすがままになっていたが、しかし、刹那レイティアが目を瞑ったことを知り、更に形の良い唇が自分のもとに近づいてきたことに気づいた時……
「何してるんですかっ!」
我に返って、レイティアを後ろに突き飛ばした。
「いたたたっ」
後ろにひっくり返ったレイティアは、扉を開けて出て来た酩酊状態のようなオーネリアの特使にも踏まれて、悲しい展開を迎えていた。
「病み上がりの僕に、酷い仕打ちだよね。これって……?」
「……だっ、だって。いきなり、あんなことするから」
「照れてるの? だけど、これで分かった。……君は大丈夫だ。今までこんなこと一度もなかったんだけど、君流の言葉を使うのなら、……君は引っかかってない」
「今のは、私を試したのですか? でも、あんな手荒な方法じゃなくったって良かったじゃないですか。もう少し、穏便に」
こんなんじゃ、心臓がいくつあっても足りない。
虫けらのように横たわっているレイティアに手を差し出しながら、ユリアーナは目を伏せた。恥ずかしいと思っている自分を知られたくなくて、そっぽを向いたら、ユリアーナは恐ろしい事態を直視する羽目となった。目前にカイとテオが腕組みして突っ立っている。
「何だよ。続きはまだかよ。待ちきれねえぜ。おい。早くしろよ?」
「肉食、酒と来て、次は女色といったところか。枢機卿殿?」
更に、辺り一帯、兵士だらけだった。
観衆の目は、ユリアーナとレイティアの二人に集中している。オーネリア軍の監視は、どうなっているのだろうか?
「あれ。カイ君。見張りをしていたんじゃ?」
「どういうわけか、オーネリア軍が退却を始めましてね。最後まで見届けたかったのですが、こちらも気になったので……」
つまり、レイティアは特使以外にも聖書を読んでいたということなのだろう。
(なんて、手回しの良い……)
「嬢ちゃんを気にして追いかけてきたら、突然、何始めるのかと思ったぜ。俺は別に止めないし、むしろやれって勧める方だけど。でも、あんたもさ。時と場所はわきまえろよ」
テオに「時と場所をわきまえろ」と言われたら、もうおしまいなような気がした。
しかし、レイティアはいたって前向きだった。
「なーんだ。ここまで皆にうるさく言われるんだったら、ちゃんと、見せつけておけば良かったね。ユリアーナさん」
「……って、なんで貴方の脳内ではそう変換されちゃうんでしょうね。レイティア大司教」




