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「いやっ!」
平手を振り上げて、後ろを見返すと、両手を挙げて降参の姿勢を取るレイティアがいた。
「…………あっ。レイティア…………大司教?」
夢なのではないかと思うほど、彼の姿は神々しく懐かしかった。
「本物ですか?」
「偽者に見える? それとも幽霊だったりして?」
レイティアは、肩を竦めて笑った。
「ごめん。そんなに驚くとは思わなかったんだ。ユリアーナさん、怒った?」
「とんでもない。ただ、嬉しかっただけで。……あっ、レイティア大司教、いえ……レイティア枢機卿かしら? それとも、猊下?」
「しーーっ」
言うや否や、レイティアはユリアーナの口元に人差し指を立てた。
「いやいや、やめてよ。大司教でいいよ。枢機卿だなんてヴォルフ君にばれてみなよ。本気で肖像画とか書かれちゃうから」
「……それも、そうですね。大司教」
「うん。……って。いや、ちょっと。待ってよ」
レイティアは長ったらしい赤い衣の袖で腕を組むと、真摯にユリアーナの顔を凝視した。
「えっ?」
ユリアーナは、頬を赤くして、それでも目をそらすことなく瑠璃色の瞳を見つめ返している。
――と。
「そうか。ユリアーナさん。だったら、やっぱり呼び捨てにしてよ。その方が僕は嬉しいな。試しに、「おはよう。レイティア」って言ってみて。鼻血が出るかもしれないけど……?」
……ああ。痛い。
それは、いつものレイティアだった。そういえば、こんな奴だった。
レイティアは、何も変わっていない。変わったのは、ユリアーナの方だ。
(この人をこんなふうに想う日が来るなんて、思いもしなかったな……)
「……あの。レイティア大司教」
「やっぱりツレナイなあ。ユリアーナさんは。でも、それがユリアーナさんなんだよね」
「…………心配したんですよ。大司教」
……本当に。
(本当に、怖かったんだから……)
ユリアーナはハンスと別れてから、初めて下を向いた。
(……どうしよう)
涙が零れてしまいそうだった。
(何で、いつもそうやって、私が弱くなっている時に、この人は私の前にいるのかな?)
張りつめていたものが一気に弾けて……。
目前でぽかんとしている青年に抱き着きたくなる。だけど、それはできなかった。
(私はレイティアに、酷いことをしてしまった)
自分の正体を隠して、安泰だった地位を放ってまで、レイティアはセレスティンの大司教に化けていたのだ。絶対、自分の正体を口外したくなかったはずなのに……。
ユリアーナは、よりにもよって、アッシュバルムの軍部に告げ口をしてしまった。
「あれ。ユリアーナさん。どうしたの?」
「…………おはよう」
目を真っ赤にして、ユリアーナは顔を上げる。
潤んだ瞳で見上げると、逆に目を丸くしているレイティアがいた。
「……えっと、その。おはよう。ユリアーナさん」
「おはよう。レイティア。…………これで、いいですか?」
にっこりと微笑みかけると、急にレイティアが顔をそらして、しゃがみこんだ。
「不意打ちを放ってくるなんて。ユリアーナさんったら」
「はっ?」
何を言っているのかさっぱり聞こえなかったユリアーナは、レイティアに手を差し伸べた。
「大丈夫ですか? まだ病み上がりですし、少し横になってた方が?」
「いや、せっかく教徒のみんなと、ヴォルフ君から逃げてきたんだ。フローラ妃のもとにオーネリア国王から手紙が届いて七日以上経っている。そろそろ何か国境で起こる頃でしょう。とりあえず、陛下が車を手配してくれるって話だから、今頃、裏道に迎えが来てるかもね」
「もしかして、オーネリアとの国境近くに行くのですか?」
「そうだよ。陛下から手紙が届いてね。フローラ妃に叱られて、王様辞めるのやめたって」
「……はあ?」
「多分、そうなるだろうと思ってたけど、エズワルドは退位しない。つまり、ドンパチ大歓迎ってことさ」
「…………そう……ですか」
ユリアーナの声は我知らず、沈んでいた。
個人的にエズワルドが降参しないのは、有難かったが、大国オーネリアを相手に勝てるはずもない。
こうとなっては、アッシュバルムも危ないかもしれない。
もっとも、たかが小娘一人、ユリアーナがどう言おうが、アッシュバルムは動く時は動くだろうが……。
「大丈夫だよ。ユリアーナさん」
「……でも」
「まだ何も始まっちゃいないからね。陛下も皆も、兵が来るって聞いただけで、実際本当に来るかどうか分からないんだ。一応、フローラ妃が回復したって、オーネリアには手紙書いたらしいし、これで、言いがかりをつけられる理由は消えたでしょう。それに、オーネリアだって、何の断りもせずに攻めては来ないよ。一応、特使くらいは出してくるはずさ。――狙いはそこ」
「相変わらず、貴方が何を言っているのか、私には……」
「一緒に行こう。ユリアーナさん」
「えっ?」
「ここに君を置いておいたら、それはそれで危険が多そうだ。だったら、最前線でも、僕の側にいてくれた方がまだいい」
言うやいなや、レイティアはユリアーナが出していた手を乱暴に掴んで、すたすたと裏門に向かって、歩き始めた。
振り回されているのか、振り回されたいのか、ユリアーナには自分が分からなくなっていた。




