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「アッシュバルムの司教の件ですが、彼は軍事秘密を極秘に手に入れたわけではないのです。レイティア大司教は元々、その計画を知ることができる地位にいたのです」
「……知っていた?」
「ええ。そうなんです。カイ騎兵隊長は、聖職者名簿にレイティアの名前がないと、レイティア大司教を捕えに来ましたが、載ってなくて当然なんです。彼は各国に配属している司教でも司祭でも何でもなかったのです。思い出して下さい。レイティア大司教はフローラ妃殿下にお会いしたいとおっしゃっていたじゃないですか?」
「覚えています。ただ自分は、嘘がバレないよう虚勢を張っただけと思っていましたが?」
「……あれは、事実なんです。彼はオーネリアの姫君に直接口が利けるほどの地位にいるということです。異国の王族と自由に言葉を交わす権限を持ち、事前にアッシュバルムとローレアンの密約を知り得る立場の人間……。アッシュバルムに該当する人間がいないのなら、自ずとローレアンの高位聖職者ということに限られてきます」
「……教皇……特使?」
さすがに唖然としたらしい。
ハンスは微かに唇を動かした。
普通なら聞こえないような小声を、ユリアーナはしっかり聞き分けて、静かに首肯する。
「聖職者名簿に名前が載らないのは、将来の教皇候補だからです。教皇は神の代理。そういった名簿に御名は載せません。レイティア=キャライは、正真正銘ローレアンの枢機卿。セレスティンの大司教職よりも、叙階は遥かに上なんです」
――枢機卿。
その権威ある言葉に話しているユリアーナ自身が驚倒しそうだった。
――教皇の助言者。
――高級聖職者。
ウェラー教を統べる者たちにだけに許された位階。
「しっ、しかし、さすがに若すぎますよ。普通は、有り得ません」
しばらく、呆然としていたハンスが慌てるように言い放った。
「私もそう思いましたけど、でも、これは事実のようです。セレスティンの王の前で本人が認めてました。もし、それでも疑われるなら、ローレアンに問い合わせてみて下さい」
にべもなくユリアーナが言い放つと、ハンスは咽るように苦笑した。
「是非、それを最初に自分に報告して欲しかったですね。事実なら、とんでもないことだ」
「レイティア大司教が秘密にしたかったそうなので……」
「それで? 彼がここにいるから、セレスティンは安心だと、貴方は言いたいのですか?」
「いけませんか? 次代の教皇が危険な土地にたった一人で来るはずないですから……」
ユリアーナは緊張しすぎて、冷たくなった拳を握りしめた。
安直だろうが、何だろうが、知ったことではない。
やりたいようにすればいいと、レイティアは言っていたはずだ。
「無理ですよ。ユリアーナ嬢。貴方は甘すぎる。貴方が身を投げた世界はもっと残酷なのです。貴方は何も分かってない。彼が枢機卿であったとしても、それが戦争を回避できる条件にはならない。もし、オーネリアとレイティアが手を結んでいたら、どうするのです?」
「誓って、そんなことはありません」
「誓うようなものが、貴方にあるのですか?」
ハンスは長く深い溜息を吐いた。
そして、ジャケットを捲ると重たそうな拳銃を易々と片手で持った。
何気ないふうにして、銃口をユリアーナに向ける。
「貴方は嫌々ながらも、ここに来てしまったのです。子供の遣いで来ているわけではないのですよ。自分も、貴方と同じ経験を積んで今ここにいます。いい加減、目を覚ましなさい。自分は、今ここで貴方を即刻殺しても良いという許可ももらっているのです」
そうして、速やかに、撃鉄を鳴らし、引き金に手をかけた。
ユリアーナは、丸腰である。
端っから、抵抗する術もなかった。
諦めて、目を瞑ろうとして、しかしそれでは駄目だと、ユリアーナは逆に目を見開いた。
「でも。ハンスさん。今の私になら、誓えるもの……あるんですよ」
……あの時。
ユリアーナが銃を向けた時、レイティアは笑った。
それは、ユリアーナのことを、レイティアが信じていたからだ。
――大丈夫。
ハンスは撃たない。
ユリアーナは、心の片隅に感じとっていた。
ハンスはユリアーナが捕まって、軍の秘密を漏らされてしまうことよりも、ユリアーナの体の方を案じていた。
――心配していた。
少なくとも、あの晩、ユリアーナを殺す気などなかったのだから……。
(……今は、違うけど)
もしかしたら、次の一瞬、いとも容易く、引き金を引くかもしれない。
それも、想像はしている。
だって、彼の言う通り、ユリアーナは、甘い考えで、アッシュバルムの侵攻を阻止しようとしている。 彼が上層部に報告するかどうかは分からないが、ユリアーナの考え一つで、揺らぐような軍部でもない。だけど、大きな戦争を招くような報告なんて絶対にしたくなかった。
「逆に問いますけど、ハンスさん」
「何でしょう?」
「私を撃って、その先に何があるのですか。アッシュバルムの平和? それとも世界の?」
「…………えっ?」
「答えられませんか?」
ユリアーナはしばらく、ハンスと見つめ合い、そして、軽く会釈をすると、前だけを見つめてハンスの前を素通りした。
「失礼します」
(いいわよ。撃つなら、撃ちなさいよ)
本当は、とてつもなく怖い。
その証拠に、手も足も唇すらも、震えっぱなしだ。
一歩一歩がとてつもなく、重く、長く感じる。
鼓動は、意識を失うのではないかというほど、早くなっている。
でも……。振り返らないし、絶対に下も向かない。
甘い考えだって、子供の遣いだって、嘲笑されたって、罵倒されたって、殺されたって、かまわなかった。
たとえ、一瞬先に銃弾が体を貫くことになったとしても、凛と胸を張って前進する。
そして、這ってでもレイティアのもとに帰るのだ。
レイティアが身を挺して護ってくれなかったら、ユリアーナの命はなかったのだから。
……きっと。今までのユリアーナだったら、ハンスに謝罪を続けて、命惜しさに、知っていることをすべてぶちまけただろう。
(……神様。不思議なことってあるのね)
公園の出口に、ユリアーナが差し掛かった時、小さな舌打ちが耳に届いたのと同時に、ハンスの気配が消えた。
だからといって、そう簡単に安心ができるはずもないけれど……。
(もしかしたら、あの場で撃たなかっただけなのかもしれない……)
それでもいい。でも、出来ることなら、まだ死にたくはない。
張りつめた気持ちを抱えたまま、ユリアーナは街中を彷徨い、人手の多いところばかりを歩いて、ようやく大聖堂の裏手から、住まいのある離れに入った。
――刹那だった。
「ひっ!!!」
突然、左肩を掴まれた。




