3
――翌朝。
小鳥の囀りを耳にして、ユリアーナはふっと目を覚ました。
(また。……うたた寝してしまったのね。私)
ずっと聖書を読み続けていた。そうしたら、レイティアに、少し眠れと言われた。
……それから意識がまったくない。
(こんなんじゃ、軍人どころか、人として駄目だわ)
ユリアーナは、レイティア側の壁に寄りかかっていた体を起こした。
鉄格子の高窓から、朝日が差し込み、ユリアーナの頬を照らしている。
(この部屋、窓、あったのね……)
窓だけではなかった。
窓の下に、小さな寝台があったことを、ユリアーナはこの時になって初めて知った。――本当に、昨夜は必死だったのだ。
「レイティア大司教? 起きていらっしゃいますか?」
欠伸を堪えながら、ユリアーナは軽く壁を叩いた。
(レイティア大司教?)
――返事がない。
「喋れないのなら、軽く壁を叩くだけでもいいので、レイティア大司教お願いします」
――しんと、静寂だけが広がっていく。
隣の部屋は物音どころか人の気配すらなかった。
「レイティア大司教! どうされたのです。返事を! お願いします!」
立ち上がって、ばんばんと壁を叩き始めた時……。
「可愛いなあ……。やっぱり」
予想だにしていなかった方向から、耳になじんだ声が飛んできた。
「えっ?」
首を横に向けると、格子の外に真っ赤な男が愛想良く手を振りながら、立っていた。
昨日より、だいぶ調子が良いらしい。 依然、顔色は悪いが、声には張りが戻っていた。
「おはよう。ユリアーナさん」
「えっと、おはようございます。あの、どうして大司教がそこに? いや、まず傷は平気なんですか?」
「ああ、平気。元々かすり傷だし、君の処置が早かったおかげだよ。さあ、君もおいでよ」
途端に、看守が手際よく鉄柵を開けて、外に出るようにユリアーナを促す。
「レイティア大司教。これは一体、どういうことなんでしょうか?」
「僕達、頑張って脱獄しなくても、釈放ってことみたい」
――やっぱり、脱獄するつもりだったのか?
レイティアなら、実現不可能でも、やりかねないとは思っていたが……。
「どうして、急に釈放になったのでしょうか?」
カイがレイティアとユリアーナを捕えたこと自体は、間違ったことではない。
実際、ユリアーナはアッシュバルムの間者なのだから……。
「まず、そこから出たら? ユリアーナさん」
「あっ、すいません」
レイティアから差し出された左手に気遣いながら手を乗せ、導かれるままに牢を出ると、細い通路には、もう一人、上質の背広をきっちり着こんだ壮年の男が姿勢良く立っていた。
「この度はカイ騎兵隊長の独断で大変なご迷惑をおかけいたしました。国王陛下直々にお二人に謝罪したいと仰せでございます。今から、客間にお連れしても宜しいでしょうか?」
「エズワルド……国王陛下?」
あの気弱そうな国王が、カイのとった行動を覆したのか?
ユリアーナが呆気にとられていると……。
「……行こっか。ユリアーナさん」
どさくさに紛れて、レイティアがユリアーナの手を再び握っていた。
「は、はい」
どうして、こう……。
この青年は、さりげなく、こういうことをしてくるのだろうか?
(別に、他意があるわけじゃないのよ)
レイティアは、フローラ妃が好きなのだから……。
(それに神父だって言ってたんだし、神父は恋愛禁止なのだから、変に意識しないことだわ)
それでも、その手を振りほどくほどの強い意志もなくて、ユリアーナは赤面してうつむきながら、レイティアと一緒に歩いた。
そして、地下から螺旋階段をのぼって二階。
磨き上げられた木目の床を、こつこつと歩いていると、突き当りに客間はあった。
「太陽の間」と呼ぶのだと、従者が教えてくれた。
一体、何人の客を収容するのか分からないほどに、天井が高い広い部屋だった。
レマエラ大聖堂は、荘厳ではあるが、実際聖職者の修行場でもあるので、内部は極めて質素に造られている。貴賓室も小奇麗にはされているが、機能的な造りだった。
しかし、やはり王家の装飾は派手で華麗だった。
昨日エズワルドが装いを質素にしたのだと豪語していたのもうなずける。
(まるで、舞踏会場……みたいだわ)
部屋の二か所に、日差しを浴びて宝石のように輝く巨大なシャンデリアが下がっている。
四角い白と黒を交互に組み合わせした変わった模様の床に、長方形の机が置かれていた。
先にその机の前で座っていたのは、昨日会った時とは色違いの赤い外套を纏っているエズワルドだった。レイティアとユリアーナの姿を確認すると、立ち上がり軽く頭を下げた。
「今回は本当に悪かった。レイティア大司教は怪我をされていたのに、カイも無茶をして」
「別にいいですよ。こっちにも非があったんから。それより、僕、相当くたびれた格好になっちゃってるけど、ここに来て大丈夫なのかな?」
呑気にレイティアが答えると、固い表情だったエズワルドが初めて微笑した。
「急かしたのは私だ。ちょっと、忙しくなりそうだったからな。構わない。座ってくれ」
「陛下がいいなら、僕はいいけど」
「すまないが、お前達は下がってくれ」
レイティアとユリアーナが向かいの席に座ったところを見届けて、エズワルドは早々に人払いした。机にはレイティアとユリアーナの為に、温かいパンとスープが並べてあった。
「口に合うかは分からないが、朝食を用意させた。是非、召し上がってくれ」
「おおっ。おいしそうだね。お腹ぺこぺこだっから、助かるよ」
普通は朝の祈りを捧げてから、食事を始めるものだが、レイティアは軽く手を組んだだけで、食べ始めていた。……まったく。普通の国民より、信仰の薄い男なのかもしれない。
「たった一日見なかっただけなのに、随分と緊迫しているね。陛下?」
「レイティア大司教も、目の下の隈が濃い。傷が痛むのか?」
「ははっ。隣の部屋に美女がいたんだ。落ち着いて眠れるわけないでしょう」
「ちょっ……」
いつも通りのレイティアに面食らう。
(軽口叩くのに、私を使わないでよ)
じとっと睨みつけると、レイティアはさらっと「本当のことだもの」と言い返した。
「二人を見ていると、妃が恋しくなるな」
「浮かない顔をしているね。フローラ妃の病は癒えないの?」
パンを口の中に放り込みながら、レイティアは問いかけた。レイティアが妃のことを微塵も意識しているように見えないのは、演技力が抜群だからなのか……。
ユリアーナが困惑していると、エズワルドも難しい顔をしていた。
「快方に向かっているとのことだが、このままでは、心の病になるかもしれないなあ……」
「もしかしてさ。オーネリアに何かされそうなの?」
その言葉は適当だったのか、それとも計算されたものだったのか……。
じゃがいものスープを飲み干して、お腹を叩くレイティアに、エズワルドが何でもないような口調で告げた。
「ああ。義父上が見舞いにセレスティンにやって来るそうなのだ。まずは先遣隊を五千差し向けて、義父上は後の軍に続いていらっしゃるようだ」
「はっ!?」
今、とんでもないことを耳にしたような気がしたが、寝不足が見せる夢なのだろうか?
「ははっ。それは、大層な見舞いだ。城に入りきらないでしょう?」
レイティアの答えに、ユリアーナは自分が聞いたことが嘘ではないことを思い知った。
「いやあ、昨日フローラが病を押して貴殿が仰ったことを手紙に書いてくれたのだが、オーネリアには届かぬだろう。結局、妃の病など義父上以外はどうでもいいのだから」
「……それは、困ったね」
「ああ。困った、困った。テオはさっさと手勢を集めて、国境付近に直行したらしい。あと数日は猶予もありそうなんだがな」
「…………ちょっと、待って下さい」
今日の天気を語り合うように、二人があっさりと語っているから、麻痺してしまいそうだが、今の会話が示唆していることって……?
「それって、オーネリアが戦争を仕掛けてくるって、そういうことなんじゃないですか?」
スプーンを置いて、顔面蒼白になったユリアーナを平然とエズワルドが見下ろした。
あまりの恐怖心で、おかしくなってしまったのではないだろうか?
カイが書いた台本を覚えられないと、涙ぐんでいた男と同一人物には見えない。
「私が国王の座を捨て、城を空け渡せば、そんなことにはならんだろうが……」
「そう。陛下、国王辞めるの?」
「まあ、辞めても、最悪フローラに頼み込めば、命だけは助けてもらえそうなのだが……。どうしようかな。ちょっと迷い中なんだ」
「……迷っちゃ、駄目でしょう」
セレスティンがオーネリアに占領されれば、アッシュバルムへの近道を作られてしまう。
国境付近の沿岸部のみに集中していた小競り合いが内陸部のセレスティンを舞台に展開していくかもしれない。
――今までの勢力図ががらりと変わってしまうのだ。
当然、アッシュバルムも黙っていない。セレスティンが頼んでもいないのに、援軍だと称して、セレスティンに軍事界介入を仕掛けてくるはずだ。
「駄目か?」
「いいも悪いも……」
あの強大なオーネリア相手に抗戦してくれとは言えないが、アッシュバルムのためにも何とか、オーネリアを黙らせて欲しかった。
だけど、レイティアは食後の紅茶を啜りながら、他人事のように淡泊に言う。
「いいんじゃない。陛下だって、人間なんだし、とことん迷って迷って、最後に適当に結論を出せばいい。問題なのは結論じゃないんだよ。迷った時間の方。どんな結果が待ってても、受け入れる覚悟があれば、あとは、どうなったっていいんだ」
「有難う。レイティア大司教。やはり貴殿からは、私と同じにおいがするな」
エズワルドは肩を揺らして笑うと、隣の椅子から見覚えのある四つ折りの紙を出した。
「それで、大司教。私は五連敗がどうしても悔しくてな。もう一勝負願いたいのだが?」
「ええっ。また、双六やるの?」
「陛下は、本気なんですか!?」
「もちろん、私はいつも双六で勝負する時は本気を出している」
(そういうことじゃないんだけど……)
ユリアーナが呆れ果てているのに、エズワルドはあっけらかんとしている。
空気をあえて読まないのは、お互い様ということらしい。
「貴殿が勝ったら私の秘密を話す。貴殿が負けたら貴殿の秘密を一つ教える。……嫌か?」
「まったく。仕方ない国王様だな」
傷口を撫でながら、レイティアがユリアーナに視線を向けた。
「ユリアーナさんは、僕の隣に、いてくれる?」
変な人だ。
……どうして、ユリアーナにそんなことを聞くのだろう。
きっと、レイティアと離れられないのは、ユリアーナの方なのだ。
ユリアーナは、たとえようのない甘い空気に眩暈を覚えながら、小さくうなずいた。




