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セレスティンの牢は、思っていたほど居心地が悪くなかった。
罪人自体がそんなに多くないのか、それともユリアーナ達に価値を感じているのか……。
少なくとも、ユリアーナが物心つくくらいまで過ごした実家の部屋よりはマシだった。
「レイティア大司教。大丈夫ですか?」
「うん。僕は平気だけど君の方は良かったの? こんな所、女の子が入るとこじゃないよ」
「私は慣れているので、大丈夫です。レイティア大司教」
反応があったことが嬉しくて爽やかに答えたら、珍しくレイティアは困った様子だった。
「いや、慣れちゃまずいでしょ。あとさ、僕もう大司教じゃないから、呼び捨てでいいよ」
「いいえっ。まだ大司教です」
「うーん。まっ、君がそれでいいなら、止めないけど」
敬称なしで、異性の名前なんて呼んだこともないユリアーナだ。
名前で呼べと許可されたところで、心の準備が必要だった。
「まったく、何でこんな所までついて来ちゃったのか。君は悉く僕の想像の上をいく」
「だけど、大司教? 私は結局、貴方の役に立ってないですよ」
……もどかしかった。
連れて行ってくれと懇願して、ユリアーナは地下牢までレイティアと一緒にやって来た。
だが、男女が同じ牢に入ることは許されなかった。
隙間なく積み上げられた煉瓦の壁に耳を寄せて、隣の独房にいるレイティアの様子をうかがう。レイティアは、ユリアーナの独房の向きの壁に寄りかかっているようだった。
はあはあと、荒い息が聞こえる。
傷口が熱を持ち始めているようだ。
(熱が高いのかも……?)
ユリアーナは、壁の前で両手を組んで神に祈った。レイティアが心配で仕方なかった。
(……だって、私のせいなんだもの)
あの時、ユリアーナが銃なんて構えなければ、ヴォルフが勘違いして銃を撃つこともなかった。
更に、レイティアがユリアーナを庇わなければ、こんなことにならなかったのだ。
「……ごめんなさい」
「また何で……。謝るの?」
「私がヴォルフ司教補に撃たれれば、良かったんです」
「どうして?」
「貴方は必要な人だから。……私なんかより、ずっとずっと」
それが、みんなにとっても、一番良かった。
こんな怪我さえしていなければ、レイティアがあっさり、カイに捕まることはなかっただろう。
きっと、何処に行ったって、生きていける人なのだ。
上手く逃げ果せることができたに違いない。
それを、今まで認めることが出来なかったユリアーナが愚かだったのだ。
(何で、私じゃなかったんだろう?)
逆にユリアーナがレイティアの立場だったとしたら。同じことが自分に出来ただろうか?
……レイティアのように、他人のため、自分の身体を投げ出す勇気を持てるのだろうか?
(そんなもの、私にはなかった)
それを思うと、ユリアーナは苦しくて、やるせなくなる。
「あの、ユリアーナさん。勘違いしないでね? 僕はただ気が付いたら、君を庇ってただけで。……その、前科があるから、分かってくれないかもしれないけど、今回に限っては、打算とか、恩を着せようとか、そんなこと少しも思っちゃいないからさ……」
「ええ。分かっています。レイティア大司教」
ユリアーナは、素直に壁の前で頭を下げた。
「私に罪の意識を植え付けないようにしているんですね。本当にありがとう」
「……いや、一応、僕本気なんだけど……。まさしく、自業自得というやつ……かな」
熱っぽい声が、ユリアーナの涙腺を刺激する。
連行される馬車の中で、少しだけ傷口を消毒したが、応急処置しかしていない。こんな衛生状態の場所で数日も過ごしたら、破傷風になってしまうのではないだろうか?
「だからさ。気にしないでってことだよ。ユリアーナさん、悪いのは、僕なんだ。配慮が足りなかった。君のこと、知ったかぶりするだけで、何を知ってたというわけでもないのに……」
「だけど、私は貴方の言う通りですから。図星をさされて、逆上しただけ。……最低だわ」
思い返して、自己嫌悪に浸っているとレイティアは軽く笑い飛ばした。
「何言ってるの。忘れたの? 僕は、君のように思い通りにいかない人と出会ったのは初めてだって言ったじゃないか。銃を向けられたのは初めてだったけど、それも悪くないと思ったよ。興味深いね。ずっと近くにいて、見ていたくなる」
「…………もしかして、そういう趣味がおありなんですか?」
「君はまた随分と面白い発想をするね。口説かれてるって、自覚すらないの?」
ユリアーナは顔を赤く染めた。
(今は、それどころじゃないのに……)
レイティアの言動に振り回されないように、姿勢をただして冷たい床に正座した。
「……あの。一つだけ教えて頂けませんか? レイティア大司教」
「いいよ」
ユリアーナは今までずっと気になっていたことを、ようやくちゃんと聞くことが出来た。
「どうして、貴方はセレスティンに来ようと思ったのですか?」
「えっ? 何かと思えば、それ……か」
レイティアが含み笑いをしているのが分かったので、ユリアーナは暫時、回答を待った。
やがて、呟かれた一言は、何となくユリアーナが予期していたものだった。
「……僕は、フローラ妃殿下に会いに来たのさ」
「妃殿下に?」
まさか本当にそんなことが目的で、大司教に成りすましていたとは……。
出会って間もないころのユリアーナだったら、まったく納得できない理由だっただろう。
「そう。妃殿下に会いにきたんだ。彼女とは色々あってね。もう一度会いたかったんだ」
「それだけ? 他にはないんですか?」
「ない……と言えば嘘になるけど。そうだね。具体的な理由はそれだけかな。彼女が幸せなのかどうか確かめたかった。大司教の方が会いやすいと思ったけど、ご病気なんてね」
「そんなにまでして、大司教は妃殿下に……?」
たった一人の女性に会う為だけに、レイティアは命がけで、裏工作までしてセレスティンに来た。
そこには、政治的な意図も、駆け引きも、含むところなんて一切なかったのだ。
(そんなに、フローラ妃殿下が好きだったんだ……)
ユリアーナは心の底で、軽い失望感を抱きながら、わざと明るく振る舞った
「じゃあ、どうして? さっき、カイ騎兵隊長にそれを話さなかったのですか。少なくとも、こんなふうに捕まることはなかったはずなのに?」
「勘弁してよ。こんな恥ずかしいこと。君にだって気取られたくなくて、流してたのに、あんな堅物になんて話したくないよ。それに、ここに長居する気も、さらさらなかったんだ」
「えっ?」
「だけど……。即刻、脱出しようとしても、今はもう、そう簡単にはいかないかな。がっかりだ。僕、意外に体が弱かったみたいだね。声が……出……なくなっちゃった……よ」
ただでさえ熱で掠れていたレイティアの声が語尾に行くにしたがって、遠くなっていく。
「……レイティア大司教?」
怖気が背筋を走って、ユリアーナは、石壁に擦れるほど耳を当てた。
レイティアは、呼吸が更に苦しくなっているようだった。壁に寄りかかっていた背中が、ずるずると落ちて、牢の暗い床に埋もれて行くのが分かった。
「返事を! 返事をしてください。大司教」
ユリアーナの必死の声にも、まったく応答がない。
「看守を……」
立ち上がり助けを呼ぼうとしたユリアーナだったが、ようやく、か細い声が返って来た。
「大丈夫。平気だよ。ユリアーナさん。ただちょっと、眠かっただけなんだ」
「……ああ。良かった」
ユリアーナは、ほっと胸を撫でおろした。
――だが、次の瞬間にはもう怖くなっている。
(私に、できることって何もないのかしら?)
レイティアの近くにいることも、傷の手当もできない。ユリアーナは、悉く無力だ。
(何か、ここにいて、この人の役に立てることは……?)
ふと、視線を床に落とすと、自分が着ている濃紺の修道服が見えた。
――今、自分はシスターなのだ。
(さすがに、讃美歌は無理だけど……。これなら私にもできる)
ユリアーナは十字を切り、力を込めて両手を組んだ。口をついて出たのは、聖書の一説。
子供の頃、預けられた教会で初めて教えられた章だった。
「………………神は光の中に現れ、汝を救わんとする。清らかな行い、良き人の教えを守り、我欲を捨てよ。教えを貫く者に、神は無償の愛を捧げる 神に祈りを捧げ 悪しきものを退けよ 神は汝を救う 聖なる神の御名において」
「…………光の章……か。懐かしい」
レイティアの声は枯れていたが、楽しげだった。
「新訳の光の章第八十五章。新訳聖書は光、風、土、水、火の五章からなっていて、初めて教会に来た子供たちは、最初に光の章を読まされる。短い章だから、覚えやすいんだ」
「…………はっ?」
ユリアーナは、目を丸くした。
「大司教。……やっぱり、貴方は、聖書が読めるんじゃないですか?」
「いや、読めないよ。だけど知らないわけじゃない。極力、覚えないようにしてるけどね」
「……今のは屁理屈ですよね。明らかに?」
「本当だって。僕は本当に読めないんだ。だから、君にはすぐに、白状したじゃないか」
――知ってるけど読めない。
――そこそこ暗記はしているけれど、口には出したくない。
「私には貴方の言っていることが難しくて、意味が……分かりません」
「ごめんね。今の僕には、実践するほどの体力がなくてさ」
「……実践する? ……体力?」
――大丈夫だろうか……?
元々、レイティアは普通の感覚では推し計ることの出来ない人だが、熱のせいで本当に変になってしまったのではないか。呆気にとられたユリアーナに、レイティアは甘えた。
「ねえ、ユリアーナさん……。そのまま、……続けてくれない?」
「…………レイティア大司教、本当に大丈夫なんですか?」
やけに素直で、気持ち悪い。
しかし、ユリアーナの心配をよそに、レイティアは言った。
「君の声を聞くと、落ち着くんだよ。だからさ、そこにいてよ。ずっと……」




