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「ようこそ。ユリアーナ=ベル君。私が君をここに呼んだのは他でもない。君の真面目な仕事ぶりと、敬虔な信仰心を知って、是非直接会ってみたいと思ったからだ」
「それは、大変……光栄でございます」
窓際の机でふんぞり返っている小太りの男に対し、ユリアーナは冷ややかに頭を下げる。
濃緑の軍服の詰襟に星の勲章が三つ。
毛髪がないので、安直に年齢を推測出来ないが、男の年齢は、五十を過ぎているはずだ。
――ギュンターカスパル本部長。正式には北東方面作戦司令部本部長である。
ユリアーナの所属している北東方面の責任者であり、作戦を立案実行する作戦司令部の本部長も兼ねている。ユリアーナはこの男を見たことが一度しかなかった。
ほとんど、こうして本部の椅子で座っているのなら、体も肥えるはずだろう。
……だから。この男がユリアーナの仕事ぶりを知っているはずもない。
ただ単に、入隊書類からユリアーナの誕生日を知っていただけのことなのだ。
「同期のほとんどは家庭に入ってしまったが、君は日々真面目に仕事に励んでいるようだな。……が、しかし、君の仕事は後方支援。物資の補給が主な仕事だ。七年も同じ仕事を続けているのは正直物足りないのではないかね?」
「いいえ。滅相もない。私は不器用な人間なので、失敗をよくします。この仕事は変化のないものですが、大変責任のあるものとして、これからも頑張っていきたいと思います」
「謙遜しているのか。可愛いことだ」
――謙遜って? ユリアーナはすぐに後悔した。
(……本音なんだけど、最初から私の言葉なんざ聞いてないのよね)
ここに呼ばれたこと自体が、死刑宣告と同義なのだ。
ユリアーナが何を喋ろうが、結論ありきで話は展開している。
直立不動のまま、脱いだ外套を握りしめ、もはや石像のように固まっていると、温かい日差しによって、スキンヘッドが際どく発光しているギュンターが振り返った。
「私はね。君に活躍の場があることを知った。君だって、このまま備品を補給するだけで、人生を終わらせたくないだろう?」
(それで、良いんだけどね)
面と向かって、人殺しをするくらいなら、ペンの一本でも補給し続けている方がマシだ。
しかし、ギュンターは肉の塊のような顔を神妙に曇らせて、机上で両手を組んだ。
「君は幼少時、教会に預けられたと聞いた。ウェラー教の教義には造詣が深いようだが?」
「……造詣は深くありませんが、聖書は読んでいました」
「二十年前に聖書の内容が大きく変わったことは知っているかね? 我々の世代は旧式の聖書なら諳んじることが出来るのだが、新訳は正直よく分からないのだ。新しい教義に深く接しているのは、二十歳以下の若者だ。君は当然、新訳を読んだ世代だろうな?」
「よく分かりませんが、聖書に「新訳」とは書かれていました」
「それは大変よろしい。君を推薦したのは正解だった。君は今日から、北東方面作戦司令部第一隊所属だ。よろしく頼むよ」
「はっ」
何とも、無駄に栄転してしまった。だったら、旧訳だったと嘘をつけば良かったのか。
(失敗した……)
バカ正直に答えてしまったではないか。誕生日だけでなく、経歴まで調べているとは最悪だ。ギュンターの言う通り、ユリアーナの両親は健在ではあるが、家庭は貧しく、子供を養うことが出来ないと感じた両親は、ユリアーナを教会に預けたのだ。以来、ユリアーナは両親と年に一、二度会う程度の付き合いしかしていない。
(親しい身寄りがいないのは、大きな弱点よね)
真っ先にギュンターに目をつけられたのは、そういうこともあるかもしれない。
ユリアーナがいなくなっても、文句を言う人間は誰一人いないのだ。
虚ろな目で、自分が歩んできた半生を振り返っていると、一人興奮しているらしいギュンターが机をどんと拳で叩いた。
「そこでだ。君も知ってのことだと思うが、我がアッシュバルムは宿敵オーネリアとの戦争状態に入ってから、二十年になる」
「……はい。今年で二十年ですね」
「……二十年。異常な事態だ。君もそう思うだろう? しかし、オーネリアは愚かにも版図拡大の手を緩めることなく、近年では我が隣国セレスティンを攻略しようと企図しているらしい」
「セレスティンですか?」
「そう。聖地ケレンを含む歴史だけは長い小国だ。北東にいた君ならよく知っているだろう?」
「ええ。仕事中、天気の良い日はセレスティンの領土が見えていました」
(ああ、そう。次はセレスティンなんだ)
オーネリアも、凝りもせずによくやるものだ。
ギュンターの部屋の壁に、これ見よがしに貼ってある世界地図をユリアーナは睨んだ。
半島の南端で、アッシュバルムとオーネリアの領土が接している。
だから、オーネリアはアッシュバルムにとって隣国であるのだが……。
一方で、アッシュバルムの北方では、セレスティンと隣り合っている。
小国セレスティンをまたいで、オーネリアがあるのだ。
(複雑すぎて嫌になるわ……)
――つまり、アッシュバルムは、オーネリアに、セレスティンを取られたくないのだ。
やられる前にやってしまえ……。そういうことだろう。
「……聖地を奪ったら、国民が勢いづくのでしょうか?」
「それもある。何しろ、セレスティンの王は即位して三か月だ」
「そうですか」
――それは大変だ……と、他人事のように、適当に聞き流していると、見えているんだか、見えていないんだか分からないようなギュンターの細い目がじっとユリアーナをとらえていた。
「ウェラー教は、世界でもっとも信者数の多い宗教だ。我がアッシュバルムの国教でもあり、セレスティン、オーネリアもまた同様だ。我らが言語を同じくしているのも、同じ宗教を支えに生きる者同士だからだろう。つまり、聖職者を疑うことは、自身の信仰を疑うことに繋がる」
「……どういうことでしょうか?」
「セレスティンの国立大聖堂においては、代々ウェラー教の総本山。ローレアンの司教を大司教として迎えている。新たな王が立ったことにより、老齢の大司教は引退されるとのことで、すでにローレアンに帰参した。現在ローレアンに大司教を寄越すように、願い出ているそうだ」
「もしかして……?」
ギュンターは口の端に悪い笑みを浮かべた。
「まさか。君の思い違いだ。ユリアーナ=ベル君。いくらなんでも君を大司教として送りはしない。大体、ウェラー教の神父は原則男だ。すでに我国の方で神父様を用意している」
「……そ、そうですよね」
――焦った。
前線に送られるだろうと覚悟はしていたが、たった一人で大司教に変装して行って来いって言われたら、どうしようかと思った。さすがに、そんな不信心をしてしまったら、ユリアーナを引き取ってくれた教会に申し訳が立たない。
――しかし、ほっとしたのもつかの間だった。
ギュンターは、おもむろに机の引き出しから一冊の本を取り出すと、ユリアーナに渡した。この装丁は見覚えがある。ユリアーナが持っているのは、古ぼけているが……。
「―――聖書?」
「そうだ。今から二十四時間、君に時間を与えよう。その間によく読み込んでおくんだ。二十四時間後に、君は大司教の補佐役のシスターとしてセレスティンに出立するのだよ」
「………………はい?」
……耳がおかしくなったのだろうか?
(シスターって、……私が?)
シスター=修道女。神に誓いを立て、教会で集団生活をし、毎日世界の安泰と平穏の祈りを捧げ続ける。我欲を捨てて、神の姉妹になるということだ。
そんな信心がユリアーナにあったのなら、最初から軍になど入ってなかっただろう。
「君はセレスティンで王や側近に近づき、セレスティンがオーネリアに阿るのか、徹底抗戦なのか。その目で確認して来て欲しい。君の報告如何で我が国の未来が変わる。責任は重大だぞ」
「えっ。あの……」
(心の準備もないままに、明日には隣国に入れってこと? ちょっと、待ってよ)
戸惑うユリアーナを置き去りにして、立ち上がったギュンターは軽く手を叩いた。
「……お連れしろ!」
「はっ!」
ギュンターの突然の命令にも、外で待機していた兵士は機敏に返事をする。
急に、扉の外が慌ただしくなった。
「一体、何を?」
「ユリアーナ=ベル君。安心したまえ。総本山であるローレアンとはすでに密約を交わし、素知らぬふりをしてもらう運びとなっている。そう簡単に発覚することはない」
「えっ? あ、はい」
一応、うなずいてみたが、何がなんだか、まったく分かっていない状況で、不安も恐れも生じるはずがない。途方に暮れていると、次の瞬間、扉をノックする音がした。
「お連れしました」
「よし。入ってもらえ」
ギュンターが大きな体を窮屈そうに折って、胸の前で十字を切る。
どうやら、相手は聖職者のようだ。
ギュンターの態度が柔らかくなったのは、そのためだろう。いくら相手が密偵の片棒を担がせる下っ端神父とはいえ、この大陸に住む人間にとって、聖職者は礼を尽くさなければならない対象だった。
ユリアーナも軽く頭を下げ、十字を切る。
――そうして。
彼の登場で、世界が一変した。
衛兵に先導されてやって来た青年は、簡素で色のない空間を瞬時に艶やかに染め上げた。
真っ赤な祭服に純白の肩章。漆黒の髪色と穢れのない瑠璃色の瞳は、神が造りあげた最高傑作に見えた。神に仕えるべくして、生を受けたような男でも女でもない中性的な美貌。
(こんな人間が、存在していて良いの……?)
ユリアーナと同じく絶句しているギュンターを一瞥した青年は、満開の花が咲いたような微笑を浮かべたかと思うと、花の蕾のような唇をゆっくりと開いた。
「……どうも。初めまして」
綺麗な声だった。この澄んだ声で、神の祝福を受けることが出来たのなら、本当に幸せになれるかもしれない。……だけど。
次の瞬間、あっけなくその聖なる世界は瓦解した。
「おおっ! これはまた素晴らしい。我らが神に感謝致します。いやあ、素敵なお姉さん。貴方にお会いできて、僕は幸せです。……で。お姉さん、貴方のお名前、何て言うの?」
「はっ?」
ユリアーナは突然、青年から手を握られて面食らった。
「な、な、何?」
聞き違いではないかと疑うほど、今までの清い雰囲気とは違う。おちゃらけているのだ。
「…………司祭さま!」
咄嗟に不審に気付いたギュンターが眉を顰めて咳払いしたが、青年はギュンターの顔など見ようとはせず、ユリアーナの顔ばかりを見ている。第一印象とは打って変わって、神父の衣装をまとっているだけのただのナンパにしか思えなかった。
「何をされているのです。司祭さま。我々は貴方のお名前を、知りたいのですが?」
「ああ、そうだったね。僕の名はレイティア=キャライ。レイティアでいいよ。おっさん」
「……お、おっさん?」
「だって、僕、貴方の名前知らないし。……で、お姉さんの名前は?」
「わ、私は、ユリアーナ=ベルと……」
「ユリアーナ。良い名前だ。こんなに美しい人を見たことがないっていうか、教会はジイサンの巣窟で、退屈でさ。すんごい嬉しいよ。これから末永く仲良くしましょうね」
「レイティア司祭!」
とうとうギュンターが青筋立てて、声を荒げた。