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(まったく、レイティアの奴。どうしてくれようかしら?)
大体、毎日の祭儀だって、聖書が読めないレイティアが行うことなんて到底無理だから、ヴォルフが代理を務めているのだ。純粋なヴォルフのおかげで、すべてが成り立っているのだから、もっと彼に感謝しなければならないのに……。
(アイツは祭儀の時だって、寝てるようなものなんだから、遅刻するなんて言語道断よ)
祭壇前の廊下に集まっている沢山の信者たちに逆らうように、扉に向かって歩き始めた。
怒りのままに、ずんずんと体重を地面に落として進むユリアーナだったが……。
意外だったのは、漏れ聞こえてきた信者たちの会話だった。
「おや。今日も大司教は不在らしいな」
「遅れて来る方に、賭けでもするか?」
「どうせ、街で美味いものでも食べ過ぎて、動けなくなってるんでしょう?」
「俺は、居酒屋で懺悔を聞いてもらったぞ。酒代は払わされたが……」
…………一応、レイティアは、セレスティンの民衆に好かれてはいるみたいだ。
でも、やっていることは醜聞以下である。
(アイツは一体、街で何やっているのよ……)
そして、そんな破戒僧であるレイティアを、責めることなく受け入れてしまっているセレスティン人とは一体?
大聖堂を出ると、すでに人の波はなかった。祭儀の開始を伝えるパイプオルガンの音が響いている。今から参列する教徒もいないだろう。
大聖堂の前の大通りを抜けて、とりあえずレイティアが徘徊してそうな市場に行こうと、ユリアーナが目的を定めたとき、見覚えのある大型車が市場の傘をなぎ倒して、大聖堂目がけて、走り込んできた。
「わっ!」
呆気にとられて大聖堂の前で佇んでいたユリアーナは、危うく轢かれるところだった。
(あの大きなタイヤで乗り上げられたら、人間なんて簡単に吹っ飛ばされるわ)
――丁度、大聖堂の真ん前。ほんの少しタイヤが歩道に乗り上げた格好で、車は急停止した。こんなことをやらかす輩は、ユリアーナのごく身近な人間に限られている。
「まったく、何やっているんですかっ! テオ歩兵隊長! レイティア大司教!」
ユリアーナは、感情がはちきれんばかりに叫んだ。
――ガタン! ……と、まるで、ユリアーナに返事をするように、車の扉が足蹴で開く。
「はっ……?」
しかし、ユリアーナの視界に飛び込んできたのは、普段の真紅の祭服の裾ではなかった。
(何、あれ?)
レイティアは、全身真っ黒だった。頭から足の爪先の隅々まで黒かった。よろけながら、路上を歩くと、ぼたぼたと泥が落ちた。瑠璃色の瞳だけは無事だったので、ユリアーナは辛うじてレイティアだと認めることが出来たのだ。
「…………何、やってるんですか?」
ユリアーナは、とっさに鼻をつまんだが、幸い無臭のようだった。
「だから、言っただろう!」
怒鳴りながら、運転席から上半身真っ黒なテオが飛び出してきた。
レイティアよりは、被害が少なかったようで、顔は綺麗なままだった。
「セレスティンには温泉はないんだよ。火山がないんだから!」
「…………えっ?」
こんなに汚れて帰ってきたので、よほど重大な事件に遭遇したのだと思っていたユリアーナだったが、何てことはなかったようだ。
「あの、温泉って、何のことでしょうか?」
「あ、いや……。シスターユリアーナじゃないか。まあ、これは、その」
テオは、今更ユリアーナの存在に気づいたらしい。
あんなに叫んだのに、聞こえていなかったのは、泥水が耳にまで入ったのかもしれない。
「――それで。温泉とは何のことだと、私はうかがっているのですが?」
ユリアーナにじっと睨みつけられて、逃げられないと悟ったらしいテオは早口で喋った。
「レイティア大司教が、セレスティンに温泉ないのが悔しいから掘るって言ってさ。皆で掘ってたら、なんか、まあこんなことになっちまったんだ。俺の手下たちはよ、川で洗い流せって言ってきたけど。大司教は夕方の祭儀があるだろ。だから、ひとまず帰って……」
「温泉ですか。そういえば、大司教は温泉がどうのって、おっしゃっていましたよね?」
ユリアーナは、恐ろしいほど、冷静な自分の声に我ながら驚いていた。
「まあまあ。ユリアーナさん。とっ、ともかくさ。夕方の祭儀のためにこうして飛ばしてきたんだ。とりあえず参加しなきゃね。へへっ」
レイティアが母親に叱られることを必死で避けようとしている子供のように、ユリアーナから距離を取り始めていた。
しかし、彼が体を捻った拍子に、粘り気を含む泥がユリアーナの方に飛んでしまった。
「……あ」
二人して、同時に声をあげた。
「……ユ、ユリアーナさんの好物って何かな。そろそろ誕生日プレゼントとか欲しくない?」
レイティアが必死に機嫌を取ろうとしていることが分かったから、ユリアーナは振り上げた拳を下ろさなかった。頬についた生温かい泥を無表情で拭う。
「私の誕生日は、もう終わりました」
「あっ、そうか。じゃあ、感謝の印ということで……」
「レイティア大司教」
不毛な会話をきっぱりと打ち切り、ユリアーナは深呼吸をすると、昂る感情を制御した。
「夕方の祭儀は始まっています。そんな格好で参加など出来るはずがないじゃないですか」
「そっ、だよね。じゃあ、もう間に合わないかなあ」
「間に合わずとも、ちゃんと湯殿で洗い流してきてください」
「はい」
レイティアは、素直にこくりとうなずいて、次の瞬間、唐突に祭服を脱ごうとした。
ユリアーナは目を剥いた。
「ここで、服を脱がないっ!」
「はっ、はいっ!」
「湯殿は裏! 急いでください」
ユリアーナは肩で息をしながら、大聖堂の後ろを指差した。
「了解っ!!」
さすがに負い目があるのだろう、テオがレイティアを担いで大聖堂の裏門に走って行った。
(私には、アイツの思考がさっぱり分からないわよ。……ただの露出好きだったら、どうしよう)
順調すぎて怖い日々の暮らしだが、火種はすぐ目の前にあるようで仕方ない。
眩暈を覚えて、こめかみを押さえていると……。
「……ユリアーナ嬢」
「えっ?」
後ろから声をかけられたと感じて、ユリアーナは振り返った。――しかし、誰もいない。
「こちらですよ」
その落ち着いた声にうながされて、横を見ると、一台の乗用車。
若草色の車の運転席の窓が開いていて、眼鏡の男が顔を出していた。
眼鏡が邪魔していたが、ユリアーナに「嬢」をつけて呼ぶ人間は一人しかいない。
「貴方は……?」
「お久しぶりです。ユリアーナ嬢」
車を運転していたのは、半月前に別れたきりのアッシュバルムの軍人ハンスだった。
服装が別れた時とは違いきっちりとした背広姿で、髪色も金髪。顔つきもまったく別人のようだったので、一瞬誰だか分からなかった。
ハンスは矢継ぎ早に話し出してしまいそうなユリアーナを制して、助手席に顔を振った。
「とりあえず、乗って下さい。お話があります」




