6、石の魔術師
イワンと別れた後。
千尋は虎の背に乗りながらシャンゼリゼ通りを東に向かって進んでいた。
よく晴れた日曜の昼間ということで通りには観光客や地元民で賑わいをみせていたが、日本のような込み入った道路事情と違い、歩道の幅が広く保たれているためそれほど混雑した様子はない。
多少の進路変更を取りながらも、全力に近いスピードで駆けていく。
道行く人からの悲鳴や怒号が耳に入ってくるが、千尋はそこに意識を割こうとはしない。彼の目に映るのは気絶した学長を抱えながら逃げる細身の青年。自分と同じく選考会で選ばれた『フィッツファミリア』の臨時メンバー――カステル・リッチの姿だけだった。
丸まると太った学長を、ひょろ長い手足で抱えながら軽々と連れ去っていく。自分に結界を張りながら(他者に感知されにくくする術式だろう)、痕跡を残さないように走っている。その身のこなしを目に収めているだけで相当の手練れであることがわかる。
その背を追いながら――とはいっても、逃げるカステルの後ろ姿を直接捉えているわけではない。相手はすでに視認できないほど遠く離れているが、千尋にはその現況が手に取るようにわかるのであった。
式鳥――鳥の形を模した式神の一種。
上空を飛びまわる数十羽の鳥が、狙った獲物の姿を映像として千尋に送りつけているのだ。
原理的にはステラが施したパペットちゃんへの術式と大差ない。しかしその練度はまるで違う。
ステラのように、いちいち紙に手書きで書き写しているわけではなく、式神を用いる際に使用する術式言語――『ト学式』を式札に直接魔素で焼きつけて使役しているのである。この方が多少アバウトでも、術者のイメージ通りに動いてくれる場合が多い。
これだけでもパペットちゃんよりはるかに高性能だが、千尋の場合そこからさらに条件を上乗せしている。
完全に自立起動型として動けるようにしているばかりか、自分で昆虫などのエサを採取して魔素(人間にとっては術を発動させる際の、言ってみればただのエネルギー源だが、使役された式神からすれば生命エネルギーの元になる)に変換できるように組み込んでいる。そうすることによって、より長く現世に召喚し続けることができるのである。
さらに、敵に発見された時や、攻撃への対応パターンもいくつか付け加えている。
使役した虎――式獣の背に乗ったまま探っていると、浮かび上がる映像の中に一つだけ気になるものを見つけた。背後からステラが追いかけてくる映像だった。
犯人というよりは自分を追っているような走り方……。その前方には不気味な人形が必死に手足を動かして走っている。背丈は二十センチほどしかないが、成人男性よりは速いだろう。
その様子を監視している式鳥に干渉し、距離を近づけて人形に焦点をあてる。
状況から判断するに、この人形はステラの持ち物だと考えるのが妥当。そして彼女が『エンフィールド家』の人間ということから鑑みるに、この術式は元々死体を操る西洋の死霊魔術が原点となっているはずだ。
なら、使役式として用いられる言語にも想像がつく。微に入り細を穿つような細やかさを追求したト学式とは違い、大質量の物体を力技で動かすことを目的とした、シンプルさを追求した言語――恐らくスペクトル言語が用いられているはずだ。その証拠に、術式の完成度(動きの制御)はお粗末だが、それなりに速さを実現している。
二時間ほど前からずっと自分のことを監視していた気味の悪い人形。
特に害はないと判断できたためここまで放っておいたのだが……。
思えばステラもこそこそしながらずっと自分のことを見てきていた(気付いた回数、四十三回)。持ち場を放棄してまで何をやっているのだろうとちょくちょく目で追っていたわけだが、まさかあんなバレバレな監視をするわけないだろうし、監視だとしたら自分を見張っている意味がわからない。
「……………………」
二秒ほど頭を悩ませたが、彼女が何を考えているのか想像することはできなかった。
念のために一度振り切っておくかと、通りを左折してその姿を隠す。細道をいくつか抜け、大通りに復帰したところで人形の目をまいたことを確認する。
そうこうしているうちに、前方を走っていたカステルが足を止めた。場所はコンコルド広場の中央、クレオパトラの針と呼ばれるオベリスク(四角形の断面を持った、上方に伸びた石柱)の前。
自身の結界を解いて、小太りの学長を地面に放り投げる。その衝撃で学長の目が覚めたようだ。
カステルはこれから何をするつもりなのか――などとは考えなかった。
そもそも千尋がカステルを追ってきたのは学長を助けるためではなかったため、そんなことを考える必要がなかったからだ。
すぐに現場に到着。
千尋は送られてくる映像を頭の片隅に追いやり、その場に降り立った。自分の目でひょろ長い男の姿を捉える。
カステル・リッチ。背丈は一七〇センチほど。短く切りそろえられた金髪に、エメラルドグリーンの瞳。清潔感のあるシャツと肌に張りつくようなパンツを上手に着こなしている。
デザイン関連の職についていそうな先端性を感じさせるが、彼が演出するのは間違っても人を喜ばせる類いのものではないだろう。命を刻んで表現することしかできないテロリストに、千尋は気配を殺すこともなく近づいていった。
「やあ千尋。思ったより早かったね。まさかこんなに早く駆けつけてくるとは思わなかったよ」
驚いている様子はない。すぐに追っ手に見つかるものと想定していたのか、単に緊迫感のない彼の性格が原因なのか……。どうでもいい。
千尋は黙ったまま人差し指を上空に向ける。釣られて顔を上げたカステルは、
「なるほど……。あれが東洋の式神というやつかい? よくできてるね。逃げることに必死で全く気付かなかったよ」
上空で旋回している鳥を見て答える。その間にも無警戒に近づく千尋を見て、
「おっと、ストップだ千尋。それ以上近づいたらこのおじさん殺しちゃうよ?」
「ひぃっ……」
学長の首に背後から短剣を押し当てる。人質と対峙する格好となってしまったが、
「好きにすれば。用があるのはあんたの方だし」
「怖いこと言うね。僕が言うのもなんだけど、このおじさんたちの身の安全を守るのが君の仕事だろう? いいのかい、殺しちゃっても」
「好きにすれば」
全く表情を変化させずに答える千尋に、
「ふ、ふざけるな! おい小僧。お前、今回の警備の一員なんだろ。だったらワシを助けろ! ワシにもしものことがあったら今回の警備全員が責任を取らされることになるんだぞ! そうなったらお前の立場も悪くなるぞ! この業界で生きづらくなるぞ! いいのか?」
大声でがなり立てる学長のラルド。これには後ろから取り押さえているカステルも苦笑い。
「あららら、思った以上にクズでよかったね、千尋。これなら安心して見殺しにできるんじゃないかい?」
「や、やめろ! なんでだ! そもそもなんでワシが殺されなきゃならん!」
「なんでだって? 別に意味なんてないよ。適当に偉そうな人捕まえて殺すことに意味があるんだから」
「殺すことに意味だと!?」
「そう、それがテロリズムってやつだろ? わかりやすく言うと、あんたの命と引き換えに協会に喧嘩売ってるわけさ」
「な、なんのためにそんなことをする」
「なんのためって……、うーん、そうだなぁ。まぁ、言ってもいいか。答えはね、腕利きの魔術師を狩るためだよ」
意味がわからないと首を振る学長。構わず続ける。
「僕らくらい有名な犯罪組織になっちゃうとさ、定期的に来るんだよ。協会から派遣されてくる魔術師ってやつが。そいつらぜーんぶ殺しちゃったらどうなる?」
「ま、まさか、魔術師全員を殺して協会を潰すつもりか……!?」
「馬鹿なの、お前。何その壮大な計画。一体何年かかるんだよ」
二回りは年下の『ガキ』からの無礼千万な物言いに、怒りで額に血管が浮き出る学長――だったが、状況が状況なだけにここは堪えてその理由を問い返す。すると、
「よりランクの高い魔術師を誘い込むためさ。魔術協会なんて古くさい体質でやってるところは、メンツってもんを三度の飯より大切にする連中だからね。世間体を気にしたり協会内部の派閥争いで優位に立つためにも、優秀な魔術師ってのをたくさん送り込んできてくれるんだよ。そういう奴っていうのは、大概人の知らない希少な術式を備えていたりするからね。そいつを奪うためさ」
それを聞いて顔色が変わるラルド学長。
「希少な術式……。やはりお前『アルカナ』のメンバーだったか」
「ふーん。『アルカナ』が術式収集に走ってるってあんた程度の人間にも知れ渡ってきたか。ちょっとストレートにやり過ぎたかね……。まあいいや。僕の知るところじゃないし。あっ、僕は『アルカナ』のメンバーじゃないよ? その下部組織の人間なんだけどさ、これが毎月のノルマが結構きつくてね。全く、上司に扱き使われる俸給生活者ってのも大変だよ」
やれやれと、首を振って苦労者アピール。
ここまで黙って事の成り行きを見守っていた千尋。
「『石の魔術師』は来てるの?」
尋ねると、カステルは意味深長な笑みをみせた。
「なるほど……、やっぱ君の狙いは『あの御方』だったか」
「やっぱ?」
「いやいや、君の事情についてそんなに詳しく知っているわけではないよ? ただ連れが話していたのをちょっとばかり耳にしただけさ。六年前の仕事の話をね」
ピクリと反応する千尋。カステルは続ける。
「彼、悔しがっていたよ。あと一歩のところで目的の物を取り返し損ねたってね。あのガキさえ仕留められればとかブツブツ言っていたけれど、君だったんだね、千尋。三上と聞いてもしやと思ったが、そうか。それで『あの御方』を狙ってここまで来たわけか。なるほどなるほど」
シニカルな笑いを浮かべて、一人納得した顔をみせるカステル。
「それで、まだきちんと保管してくれているよね?」
「何を」
「何をって、察しが悪いなぁ。今の話聞いていたらわかるだろ? 君があの村から持ち去った、『生命の魂源』が書かれた呪術書だよ」
一拍置いた後、
「一部はね。半分以上はあんたたちの手元にあるんだろ」
あっさりと認める千尋。カステルも特に目新しいリアクションを返すでもない。鎌をかけたわけではなさそうだ。
「確かに、半分以上のページは僕たちが回収することに成功したよ。でも去年どっかの馬鹿が『アルカナ』の管轄する保管庫に盗みに入ったみたいでさぁ、持っていかれちゃったんだよね。まぁそのうちの半分はうちの警備が取り返したみたいなんだけど、残りは……ね。つまり、三分の一は『アルカナ』、三分の一は君、そして残りの三分の一をどっかの賊が今も後生大事に抱えているってわけさ」
「……………………」
「というわけで、残念だったね、千尋」
「何が」
「何がって、呪術書の手掛かりを求めて『石の魔術師』を探していたんじゃないのかい?」
「いや、別に」
「なら単純に復讐が目的だったというわけか。だったら二つの意味でやめておいた方がいいよ」
「二つの意味?」
カステルはフッと鼻を鳴らすと、
「一つは、君の父親の遺体は今もうちの組織が管理している。遺体といっても全身石化しちゃってるけどね」
「……………………」
「もう一つは、『アルカナ』が管理するその呪術書の在り処は、今は『石の魔術師』しか知らないってこと。これがどういうことかわかるかい?」
「さあ」
「さあって、つれないなぁ。その歳で冷めすぎじゃないかい? ここまで言えばわかるだろ。『石の魔術師』を殺しちゃえば呪術書の在り処がわからなくなるし、君の父上の石化も解いてやることができない。石にしちゃったのは『あの御方』だからね」
何も答えない千尋。カステルは、小刻みに動く学長を押さえているのがわずらわしくなったのか、力一杯後頭部を殴って気絶させる。そのまま学長を地面に放り投げると、空いた手を広げて話を続けた。
「ここで君に朗報だ。チャンスをやろう。奪われた呪術書を探し出し、君が持っている呪術書とセットで僕のところに持ってくれば君の父親の遺体を返してやってもいい。もちろん石化は解いた上で『生命の魂源』で生き返らせた状態でね」
「……………………」
「都合が良すぎると思うかい? でもそこは安心してほしい。僕は『あの御方』に気に入られているからね。きっと聞き入れてもらえると思うよ。というのも、『あの御方』はどうしても生き返らせたい人がいるみたいなんだ。それさえ済んじゃえば、多分後のことはどうでもよくなっちゃうだろうからね。つまり僕の裁量次第でどうとでもできちゃうってわけ。どうする? こんなにいい話はほかにないよ?」
敵の言葉だ。どんな話を持ちかけられても疑惑は拭い去れないだろう。ましてや千尋にとって願ってもない内容。怪しいことこの上ない。
普通ならまず乗らない提案ではあるが、それを突っぱねるにはあまりにもその内容は魅惑に満ちていた。
だからこそ考える。
騙されているのではないかと思いながらも、まずは考える。リスクとリターンを見極め、こちらからもいくつかの項目を要求し、承諾を取り、たとえ騙されていたとしても不利にならないように取引の場を整える。そこまで敵を引きつける算段をするために、普通の人ならまずは考える。
そう。普通の人であれば――。
「断る」
千尋は即答した。
軽く目を見張るカステル。
「断る? 意外だね。まあ僕たちは相容れない存在だから? 信じられないのも無理はないと思うけど、少しくらい考慮する時間を設けてもいいんじゃないかい? 二分くらいなら待ってあげるよ」
「あんた勘違いしているよ」
「勘違い?」
「『生命の魂源』は死者を生き返らせる術式ではない。確かに、『蘇らせる』ことは可能だが、それは人とは似て非なる者。その術を行使するのには術者の魂が必要だし、扱われている術式言語にも四諦式が用いられている。これはト学式をベースに作られた言語だから、三上家という基盤が崩壊した今、その式を扱えるのは今では僕しかいないし、『石の魔術師』のために使ってやるつもりもない」
「君以外に使える者がいないか……。なら、君のお姉さん、三上千影を人質にとって交渉してみるというのはどうだろう。これならこちらの要求に応えてくれるんじゃないのかい?」
「千影はもう死んだよ」
「嘘はいけないなぁ。三上千影は今も生きているはずだよ。この六年間、彼女を保護してきたのは他の誰でもない。君なのだから」
「ふーん、ずいぶん詳しそうだね。誰がそんなこと言ってたの」
「さっき話した連れからさ。呪術書の一部を持って、君が姉と一緒に逃亡した話は連れから聞いているからね。そこからさ」
「そう。なら知っているはずだよ。六年前の『あの事件』の時、姉の千影は瀕死の重傷を負っていた。例えあの場で治療していたとしても、あの傷では助からなかった。あんたたちから逃げ切ってからとなると尚更さ」
「千尋、だから嘘はよくないよ。いや、この場合、嘘というより本当のことを話していないだけか。うん、確かに千影はあの傷では助からなかっただろうね。逃亡の途中で死んでしまったのかもしれない。でも、その彼女を君が生き返らせたんだろ? 『生命の魂源』を使って」
「……さっき言ったけど、その術を使うには術者の魂が必要だって言ったでしょ。なら、僕が今ここにいる理由はどう説明するつもり?」
「それこそ嘘だね。魂が必要といっても、それは術者のものでなければならないわけではない。ほかに生きている人間で代用することはできるはずさ。必要なのは死者に入れる魂だけ。そう、死んだ直後に石化させ、魂を封じ込めた亡骸であってもね」
「……………………」
カステルはフッと笑うと、
「それよりも『生命の魂源』が『ただ』死者を生き返らせる術式ではないって、じゃあどんな効果があるんだい? 僕はそっちの方が気になるよ」
「答えるつもりはない」
「そう。なら父親はどうする? 君の言うように、その術がただ死者を生き返らせる術式ではないのだとしても、血の繋がったお父さんであることに変わりないだろ? 自分の手に取り戻したいって考えるのが人情ってものじゃないのかい」
千尋の答えは、
「好きにすれば」
それは、ここに着いた当初、学長を殺すと言ったカステルに向けて放った一言と、何一つ変わることのない冷たい響きだった。
「なるほどなるほど。君にとっての父親とは、それほどの価値もない存在というわけか。まぁ君が嘘をついているという可能性もあるけど、念の為に訊いておくよ。呪術書でも復讐でも、ましてや父親を取り戻すことが目的でないのなら、なぜ君は『あの御方』……『石の魔術師』を狙うんだい?」
言い直したのは語弊が生じないように気を配ってだろう。だが、ここではその配慮にあまり意味はなかったようだ。
「いつまでそんな白々しい演技を続けているの? さっさと素顔をみせなよ、『石の魔術師』」
それを受け、わずかにカステルの動きが止まる。
「ふーん、いつから気付いていたんだい?」
とぼけるつもりなどないようだ。
「途中から。あんたこっちの話に食いつきすぎなんだよ」
最初から千尋は疑っていた。それが確信に変わったのは今の会話の中に出てきたカステルの言葉からだった。
『――確かに千影はあの傷では助からなかっただろうね』
現場にいなかったはずのカステルが千影の傷の深さを知っているはずがないのである。
自分の失言に気付いたのか、単に千尋の勘の良さを賞賛しているのか、カステルはおどけたように両手を広げる。
「ふっ、いやいや、まいったね。六年前のあの時から見違えるように成長したじゃないか。血は争えないってやつかね。もしくは……まぁいいや。無駄話に花を咲かせるのはお互いにとってメリットは少なそうだ。千影のことはさておき、少なくとも君は四諦式を読み解くことができるのだろう? ならこちらとしてはそれだけで充分だ。君が持っている呪術書の残りも手にすることができるしね」
「渡すと思ってるの?」
「自発的に渡してもらえそうにはないようだね。でも千影はどうだろう。君の命を取引の材料に使えば急いで駆けつけてくれそうじゃないかい?」
「やってみなよ」
「そうさせてもらおうか」
その言葉を合図に、二人の動きがピタリと止まる。コンコルド広場を行き交う人々のざわめきが……、次の瞬間悲鳴に塗り替えられた。