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その人の名は狂気――influence panic――  作者: 無道
第5章 誰が為の正義
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無き姿を捜す者

 千羽と別れた後、俺は夕餉の配給をもらいに行った。

 元は自衛隊員用だった食堂は、六時前と比較的早い時間帯でも、避難してきた多くの市民が席に座り、各々の食事にありついている。


「王馬和彦。夜の分の食事をいただきにきました」

「将棋の兄ちゃんか。ほら、今日の分だ。持っていきな」


 食料の受け渡し口にいた顔見知りの隊員から食料が載ったトレーを受け取る。高尾という老年のこの隊員は、俺のことをよく「将棋の兄ちゃん」と呼ぶ。以前に理由を訊いたら、どうやら苗字の王と馬から来ているらしかった。

 トレーの上には、二枚入りの乾パンと一口サイズの缶詰のコーン。そして申し訳程度に賞味期限の切れたオレンジジュースが置かれていた。


「……昨日よりまた減りましたね。大丈夫なんですか?」

「正直な所マズイな。一ヶ月以上ここに閉じこもってんだ。若いのが暇さえあれば外に食料を探しにいってるが、百人単位の飯を補える施設なんてもう残っちゃいねえ」

「……暴動の心配とかはないんですか?」


 声を潜めて周りを見ると、二、三十人いるとは思えないほど食堂は静かだ。こんな情勢だとはいえ、一応ここでは安全を約束されている。だというのに、まるで引火しそうな爆弾のように、少し刺激すれば破裂しそうな剣呑な雰囲気は、食事で団らんというには程遠い。


「……分からねえ。だが、このままじゃそれが起きねえとも限らねえ。山中の奴も何か対策を考えているらしいが間に合うかどうか……」


 山中というのは、現在この駐屯地に残る自衛隊を束ねるトップの人だ。国中が混乱に陥り、ここにいた大半の人も家族や恋人の元へと離れて行った中で、市民の為にと残ってくれた十六人の隊員。その中のさらにトップというのだからさぞ人徳のある人なのだろう。

 その後高尾さんといくつか言葉を交わし、終わると早々に食堂を出た。あんなところにいてはオチオチ落ち着いてごはんも食べられない。どこか外の空いてるところで食べようかとフラフラ歩いていると、後ろから「あの!」と呼び止められた。

 振り返るとそこには中学生くらいの顔見知りの少女がいた。つくづく今日は知り合いに逢う日だな、と内心思う。

 肩口で切り揃えられた黒髪に、まだ顔に僅かな幼さを窺わせる少女、及川千尋は、緊張した面持ちで口を開いた。


「王馬さん、ですよね? あの、私のこと覚えてますか? 以前に一度だけお会いしたんですけど」

「あの雨の日だろ? あれだけ衝撃的な出会い方して忘れられないさ。弟の方は元気にしてるのか?」

「あ、はい。おかげさまで。正直、最初は良い印象は無かったんですけど、円さんたちには本当に良くしてもらって……」


 言われて俺は彼女の姉弟が俊也たちと一緒に生活をしていたことを思い出す。そして複雑そうに笑う千尋を見て、次に彼女が訊こうとすることにも大体見当がついた。


「それで、王馬さんに聞きたいことがあるんですけど……」


 千尋は言い辛そうに視線を彷徨わせ、何度か口を開いたり閉じたりする。

 何も言うな。俺は心の中で一人ごちる。このまま当たり障りない話をして別れることが出来れば、その顔を苦痛に歪ませずに済む。

 だが、やがて意を決したように口を引き結ぶと、こちらを真剣にまっすぐ見上げた。


「あの……、と、智也さんは、本当に、な、亡くなったんですか?」


 勢いづいて聞いてきたわりに、後半は怖々とした様子で問うてくる。

 その問いに、俺はどうやって返すか悩むが、やはり最後はありのままに伝える事に決めた。彼女はもう子供扱いされる立場ではない。ならば気遣いも遠慮もなく、ただ事実を伝えるのが俺の務めだろう。

 俺は心に渦を巻く様々な気持ちを孕んだ感情を出来るだけ表に出さないよう、淡々とした口調で問いに答える。


「他の人からも聞いたはずだ。八代智也という人間は死んだ。そして奴は、それまでに多くの人を苦しめ、殺めてきた。あの時死んで然るべきだったと、皆思ってる」


 血の気が引くとはこんなのを言うのだろうか。暗い顔にそれでも一筋の期待を含ませていた千尋の顔が、見る見る内に絶望した表情に変わった。ちくり、と心が痛むが、こればっかりは遅かれ早かれ味わうのだ。避けて通れない道である。


「…………そんな。円さんにもそう言われたけど、あの智也さんがそんな人だなんて、信じられない。智也さんは、強くて、優しくて、気さくで、厳しいけどやっぱり優しくて、飢え死にしそうだった私と功にご飯をくれて……あの日だって、感染者に包囲されて、今にも死にそうだったところを、智也さんは命がけで助けに来てくれて……!」

「それが智也(やつ)の思惑だ。無償で人を助け気遣い、そいつの信頼が最高値になったところで手酷く裏切る。俺たちだってそれであいつに仲間を一人殺されてる。君たち姉弟も、あいつの獲物だったに過ぎないんだよ」

「そんな……」


 俺の言葉を発する度に、目の前の少女は刃で切り裂かれるように目に見えて傷を負っていく。

 事実は話した。これ以上無暗に彼女を傷つける必要もない。俺は踵を返し、千尋に背中を向ける。


「八代の事は忘れろ。結局あいつはもうどこにもいない。早く乗り越えて姉弟で生きていくことを考えないと、この世界は生きていけないぞ」

「……けど……でもっ……!」


 背中越しに聞こえた呟きは、やがて涙声へと変わる。慰めることなんてしないし、する権利もない。ただ俺は、ここにはいない奴の事を、心の中で恨んだ。


「死んだあとまで人にこんな仕事押し付けて苦しめやがって……。やっぱりお前は最低だ」


 食料不足、それによる暴動の危険性。ここだっていつまでも安全だとは限らない。

 そんな時に彼女を守ってくれる王子様(あくま)はもういない。これからは、自分で自分を護るしかないのだ。

 そんなことを考えていたちょうど三日後。遂にこの駐屯地を揺るがす事件が起きた。


読んでいただきありがとうございます。

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