疑惑
二階は服屋や装飾品店などが並ぶフロアだった。二階は窓もなく、電気も付いていないので、かなり暗い。先ほど灯の警告を聞いたうえでこれは、流石に不安になる。
「あの、すみません。懐中電灯、つけてもよろしいでしょうか?」
それは俊介も感じていたのだろう。しかし、俊介の提案は、男にやんわりと断られる。
「悪いな。ここに逃げてきた人の中には、ショックで明るい所に行くと叫び声を上げてしまう人もいるんだ。精神状態がかなり不安定でな。あまり刺激したくないんだ」
「PTSDの一種ね……。確かに、そうなっている人がいてもおかしくないわ」
医者をやっていた茜さんは納得したように言う。すると珍しいことに、灯が口を開いた。
「ここにはあなたの他に何人くらいの人が避難しているの?」
「――」
そこで最前列を歩いていたらしい男の足音が止まる。不審に思った俺たちも同じように立ち止まると、暗闇の中でもはっきりとこちらを見る視線を感じる。
「……今喋ったのは、後ろのキリッとした娘かい?」
その声は一見穏やかなものだが、その裏に潜むわずかな興奮の声音に、俺たちは反射的に忌避感を覚える。何か、危険な捕食者が、こちらを品定めしているような感覚。
「――ええ、そうですが、それが何か?」
流石に、答える俊介の声音にも緊張が灯る。だが、次の瞬間にはまたも男の不気味さは霧散していた。
「……いや、そうか。すまない、ちょっと知り合いと声質が似てたからね。けど、ただの思い過ごしだったようだ。――質問に答えよう。今、ここに避難している人は全部で八人。そのいずれも俺以外は女性で、感染者に対抗できる力を持ち合わせていない。だから、さっきも俺だけが君たちを見張ってたってわけだ」
スラスラと喋る男の言葉に、嘘偽りは感じない。至って自然な受け答えだ。だが、それでも俺の中では彼への警戒心は緩まない。それどころか、前より刻一刻と強くなっていた。
そうして歩いていると、徐々に目が慣れて、目の前の光景がはっきりと見えてくる。今なら、数メートル先を歩く俊介の後ろ姿までも明確に見えるようになっていた。
やがて角を曲がりフロアの壁が見えたところで男は足を止める。男は、足元をガサゴソさせながら話しかける。
「こっちも人数が多いうえ、ここ以外に食料を確保できるアテがなくてな、悪いがそっちに提供できるのは缶詰と水が十ずつと、十キロの米一袋だ。それでも構わないか?」
「ええ。元々無理を言ってのお願いですから。それに、それだけでも十分に一週間以上は保つでしょう。ありがとうございます」
提示された量は、六人で分けても十分な量だった。特に、鍋とコンロさえあれば久しぶりに白米が食べられるというのは、最近はずっと缶詰だけ食べていた俺たちには嬉しいものだった。
「おお、マジかよ米だぜ! 久しぶりに白米が食えるのかよ!」
「白米なんて食べれるのいつ以来かしら!」
これには明雄や茜さんも弾んだ声を上げる。だが、灯だけは依然として態度を変えない。
「でも、十キロの米を持ちながら移動なんて現実的じゃないわ。途中で感染者に襲われたら、これだけの食料を持って逃げることなんてほぼ不可能よ」
「あ……、そ、そうよね……」
「ちぇっ、それくらいなんとかなるだろうよー」
冷や水を浴びせるような灯の指摘に、茜さんは露骨に気を落とす。目の前のご馳走が遠のいていくようなイメージを彼女は感じているのだろう。明雄もぶつくさ文句を言うが、灯は取り合わなかった。
「持っていくのは水と缶詰だけで良いと思うわ。和彦も、それでいいでしょう?」
「――あ、ああ」
突然話を振られた俺は、中途半端な返事を返す。灯の奴、なんで俺なんかに確認してきたんだ。リーダーは俊介だっていうのに。
「話はまとまったか?」
話が途切れたところで、男が待っていたかのように口を開く。いや、実際待っていてくれていたのだろう。男の問いに俊介は頷く。
「はい。お米の方は遠慮して、缶詰と水だけ頂戴しようと思います。折角のご厚意を、すみません」
「気にするな。嬢ちゃんの言う事は理に適ってる」
それから、男に渡されたものを、分担して各々のリュックにしまい込んでいく。それら全てを詰める頃には、背中にずっしりとした重みを感じるようになっていた。
「それでは、僕達はそろそろ行こうと思います。色々とありがとうございました」
「こんな情勢だ。別に気にするな。出口まで案内しよう。帰りは、俺たちが外に出るときに使ってる裏口から出て行ってくれ」
「分かりました」
そのまま、俺たちは男を先頭に歩き出す。米は手に入らなかったとはいえ、当分の食料を得た俺たちの足取りは軽い。
「リュックが重いってのも、たまには悪くねーな」
「ふふ、そうね。後は、しばらく拠点に出来そうな場所が見つかればいいんだけど……」
「と、とりあえず、郊外の方なら感染者も少ないし、ま、まだ荒らされてないコンビニとかがあると思います……」
「――皆。そういう話は、もっと安全な所に出てから話しましょう」
後ろで明雄、茜、円の三人が、今後について話し合っていると、灯がそれを止める。その言葉の意味には、前を歩く男への露骨な警戒心が含まれており、周りの雰囲気が途端に重くなる。
「灯ちゃん、仮にも食料を分けてくれたんだから、そんな言い方しなくてもいいと思うわ」
「そうだぜ灯。あいつはそんな悪い奴じゃねえ。俺の第六感がそう言ってやがるから間違いねえよ」
「……」
たまらず茜さんと明雄が諫めるが、灯の方から返事は帰ってこない。その頑なな態度に、更に場の雰囲気は悪くなりそうになるが、その流れを止めたのは、驚くことに、男自身だった。
「別に気にしてないよ。外の治安の悪さは俺も知っている。アンタ等も、まだ若いのに色々見なくていいもの見ちまったんだろ」
「いえ……、あの、すみません」
俊介は、少しバツの悪そうにしながら礼を言う。男は歩きながらひらひらと手を振った。
気が利く人だな、と思う。この時ばかりは、こんな人を俺は疑っていたのかと、さっきまでの自分を恥じ、反省した。
――だが、すぐに、俺のその考えは間違いでは無かったことを確認させられる。
それは、弛緩した空気が流れていたところに飛び込んだ、灯の鋭利な一言だった。
「――じゃあ、なんでさっきとは違う道を進んでいるの? さっきはこんな道、通って無かったわよね?」
「――え?」
俺たちの足がピタリと止まる。男も立ち止まるが、何故か何も言い返してこない。
流れる沈黙。その空気に耐えられなくなったのか、明雄が代わりに答える。
「そ、そりゃお前、帰りは裏口から出るってさっきあの人が言ってただろ。だから、さっきとは違うルートで――」
「それでもまずは一階に下りるでしょう。なのに、この人は、さっきの道で右に曲がればすぐエスカレーターだったのに、迷わず左を進んだわ。構内図にはあそこしか二階へ行くルートは書いてなかった。これは確かよ」
明雄が全てを言い終えないうちに灯はそう告げた。ここまで来ると決定的だ。俺たちは、自然と男から距離を取り始める。
――その瞬間、男はこちらへ向かって疾駆する。
『ッ!?』
物凄い瞬発力だ。一瞬でこちらへと肉薄した男は、先頭にいた俊介に拳を放った。気がする。何しろ暗いうえに男のモーションが速すぎたため、俺の眼では捉えきれない。
「ガッ!?」
鈍い打撃音と共に俊介がよろめく。その後すぐに放たれた蹴りで、俊介が横の服屋に吹き飛んだ。
「俊介!?」
突然の事態に頭が回らない。そんな中で、灯の声だけがはっきりと耳に届いた。
「気を付けて! あいつは――狂った側の奴よ!!」
暗闇の中、俺は男が嗤ったような気がした。
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