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ボルテクス  作者: やしろ
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3――刻喰い / 4――刻の狭間 / 5――焦げた渦

      3――刻喰い


 黒い男に触られている両方の肩が突然感覚をなくしたように思えて自分の体を見回そうとすると、そこは家の裏などではなかった。家も人もなく、地面や空さえ存在しないぼんやりとした空間だった。

 確かにそこに立っているはずなのに、何かを踏んでいる感触がない。すべてがぼやけていて、色すらない世界だ。

 ミクはそこで一筋のもやっとした光が遠くから伸びて来ているのを見た。こちらからも泳ぐようなゆったりした動きで近づいていくと、光はその場に留まり、くるくると糸巻のように回ってかさを増し膨れあがった。じっと見つめているとそれはやがて人の形になって、見覚えのある黒い男となった。ただし、全体的に透けている。

「よォ」

 黒い男はよく見ると、その瞳は黒ではなく暗紫色をしていた。髪は墨のように真っ黒で、後頭部の辺りでくくって背中に長く垂らしていた。膝下までたっぷりと覆う黒いコートの下は、グレイのシャツ。胸元には、見覚えのある黒光りする石の首飾り。腰のあたりでシャツを編み縄が飾り、その下から覗くのはグレイのズボンに黒くごつい革靴。全身を暗い色で統一しているわりに、何故だか派手な印象を受ける。

「…タマ」

 呼ばれた男はがくっと頭を下げた。

「タマはやめろ…」

「早く、タキセが…」

 男はミクの前に手を翳し、制止するような動きを示した。

「落ちつけ。ここでは時間は進まないんだ。焦っても何も変わらねェ」

 ミクは男が刻喰いであったことを思い出し、とりあえず急かすのを止めて深呼吸をした。

「そうそう、冷静に行こうや。いいか?良く聞いとけよ?俺の本当の名は、オズマ」

 『オズマ』そう言われた瞬間、その言葉だけ不思議な音を持ったように感じた。

「契約だ、チビ」

 男、オズマは右手を差し出して来た。握手を求めるような動きに応じると、手が重なった瞬間、男の手がまたもやっとした光の筋にもどって、ミクの手に巻き付いた。

「うわ…っ」

 ミクがのけ反ると、逃げることを許さないように光は二の腕まで巻き付く。慌てて目の前の男を見ると、オズマの姿は先程の向こう側が透けて見えるようなあやふやな状態でなく、しっかりとそこに存在していた。オズマは手を離したが、すでにその手は光ではなく普通の手で、ミクの腕に巻き付いていた光もいつの間にか消失している。

 ミクが自分の腕をまじまじと見つめていると、オズマは小さく笑った。

「契約は完了。『結』んだ」

 ミクはオズマをぼんやり見つめた。お尻から首までの背筋にかけて、暖かい流れが一本通ったような気がした。

「おめェの魂と俺の尻尾を結んだんだよ。おめェが繰り師を辞めるまでこれは解けねェ」オズマはふわりと宙に浮いて見せた。

「ところで、繰り師になったおめェに相談だ」

「相談?」

「俺の名前はその筋じゃ有名でな。敵が多い」

「敵って…」

「ィエンラの魔術師とかな」

 そういえばタキセから、精霊教とィエンラ教は戦争をしていたと教わった気がする。

「俺の繰り師になった奴らの中に、俺の名前のせいでィエンラの魔術師に殺された奴がいる。だから、名前を隠すことにしてンだよ」オズマは苦虫を噛み潰したような顔をする。

 ミクは心の中で(だからタマなのか)と思いついた。タキセのタと、オズマのマ。安直だが、タキセらしい気がした。それに、なんだかんだ似合ってもいる。

「…おめェ今何か失礼なこと考えたろ」

「…別に」

「嘘つけ!『結ぶ』とな、何となく分かンだよ!」

 それは便利なような、不便なような。

「とにかくおめェ、仮の名前考えろ。タマはなしだ」

 タマは駄目。じゃあ…

「…クロ」

 黒いから。

「なんか…タマと大差ねェな。却下」

「クロ」今度は強く言ってみた。

「……おめェもタキセと変わらねェ頑固もんだよ」

 深々と溜息をついたオズマ改めタマ改めクロは、ミクの方に再び手を伸ばしながら「まァ、タマよりはマシか」と呟いた。

「それじゃ初仕事だ、チビの繰り師。繰るぞ」

 ミクは迷いなくその手をとった。すると突然、こちらを押し潰そうとするような強い圧力が全身にかかり、息ができなくなる。

「落ちつけって。ほら、もう楽だろ?」

 耳元でクロの声がして恐る恐る目を開けると、そこは白く薄ぼやけた所だった。さっきまで居た所と似ているが、ぼんやり度は下がった気がする。上と左右にはどこまでもそのはっきりとしない白い空間が広がり、下には見渡す限りの河が流れていた。

「河…?」

「まァ、そう呼ぶ奴もいる」

 クロは河を指差した。二人の足元一面に広がるのは、様々な景色や人々が入り混じった映像の流れる、刻の大河だ。

「今俺たちが浮いているのは、時間の外側。あの河の中が時間の内側、つまり普段俺たちがいる世界だな。今見えているところが現在で、ずっと上流に行けば行くほど過去になる」

 クロは流れが迫って来る方に指をスライドさせた。

「未来は?」ミクはクロの顔を見上げて聞いた。

「未来には行けない。あやふやで、映像がまだ固まってねェんだ。行こうとしてどんなに遠くに進んでも、実際は今いる現在の場所から動けてないってことになる」

「過去は、どんなに昔でも行けるのか?」

 クロは軽く肩を竦めた。胸元の首飾りが鬱陶しく動く。

「行こうと思えば、どこまでもな。果てまでは行ったことねェけど。ただ、過去に遡るうちに、どんどん映像は暗くなって、硬くなる」

「どういうこと?」ミクは眉を顰めた。

「要は過去になればなれほど、その時間に入りにくくなるってことだ。俺は力が強いから、かなり昔にでも飛びこめるけどな」

 さり気なく自慢したクロに返事はせず、ミクは質問に集中する。

「それで、タキセを助けるにはどうしたらいい?」

「タキセが歪みに触る前に、歪みを正す。ただ…」

「ただ?」

「あの歪みの暴走は、普通じゃねェ。おそらく魔術がからんでる」

「魔術って…ィエンラ?」

「多分な。前にもああいうことがあった。最近ちょっかいかけて来なかったから、忘れてたぜ。俺らは罠にかかったンだよ、罠に!」

クロの舌打ちを聞き流し、ミクは唇に親指を当てて少し考えた。

「それじゃ、ィエンラの魔術がかかる前に、あの歪みをどうにかすればいいんだ」

「ん?いやまァ、そうだな…」何故かクロは歯切れが悪い。

「そうだなって…クロも同じ考えだったんじゃないのか?」

「…いやほら、けっこー腹立ったから、ちょっと仕返しでもしてやろうかと思っててよ」

「仕返しって、どんな?」一応聞くだけ聞いてみる。

「魔術師が罠をかけるトコに待ち伏せして、シメてやンだよ」

「いつ魔術師が罠仕掛けたか分かるのか?」

「そこはほら、歪みが現れた時間から、現在まで見張ってだな、」

「あの歪みって、いつ出来たんだ?」

「歪みの気配を辿れば分かる。過去の歪みを処理する時はな、出来たての頃に行くのが鉄則だ。被害が少なくて済むからな」

「でも見張るって…何日もあのプミラ林見張ってなくちゃいけないってこと?」

「安心しろ。どれだけ過去で時間を使っても、現在に戻れば時間は経過してない状態だ」

 クロは胸を張って自信たっぷりに言ったが、ミクは早くタキセを助けたいというこの焦りを抱えながら何日も同じ場所で待機しているなど、耐えられる自信がなかった。

「…面倒くさいから、やっぱりさっさと処理しよう。歪みが出来た時にすぐに処理すれば、そもそも罠をかける歪みがなくなるんだし」

「おめェ、本当に繰り師なりたてか?いっちょまえに意見しやがって」

 クロはぶつくさ言いながらも下の映像に視線を落として、ミクにも見覚えのある風景を指差した。深い青色の冬の海が揺らめいている。

「あそこら辺が、カロマイだ。これから歪みの気配を辿りながら潜るから、おめェしっかり捕まってろよ?もしはぐれたら、二度と元の時間に戻れないこともあるからな」

 言うが早いか、隣の黒い影は呪いの歪みのように、あるいは逃げ水のように揺らいでからぐいぐいとその体の形を変化させ、お馴染みの黒い狼の姿になった。

「どっちが本当の姿?」

(どっちもだ。ほら、背中に乗れ)

「分かった」

 大きな狼の背は、ミクが跨いでもまだ大人一人分くらいなら軽々と座れる広さで、あとは捕まる場所さえあれば乗り心地が良いと言えた。ミクは少し悩んだ末に狼の首に手を回した。顔がふさふさした黒い毛で埋もれ、くすぐったい。

(落ちるなよ。行くぞ)

 狼は体重を感じさせないふわっとした動きで、真下に向けて飛んだ。けっこうな速さで移動しているはずだが、風を切る感覚は全くない。おかげでミクはしっかりと目を開けていることが出来た。

 狼は海の映像の上で留まり、そのまま真横に少し走った。時々何かを確かめるように速度を落とし、辺りを見回す。やがて飛びこむ地点を決めたのか、再度降下を始めた。何も言わなかったが、おそらく呪いの気配が途切れる地点を見つけたのだろう。

 映像に飛びこむ瞬間は、水に飛び込む感じと似ていた。水面が跳ねたり冷たく濡れたりするようなことはないが、潜った瞬間に体に圧力がかかる。ぎゅむぎゅむと押しつぶされるような感覚が、少し苦しい。狼はそんなミクの状態を察したのか(絶対手を離すなよ)と念押しした。薄々気づいてはいたのだが、どうやらこの刻喰いは口の悪さの割に若干過保護なようだ。

 飛び込んだ先に広がるのは、先程『外』から見下ろしていた暗い色の海だ。その上空を狼は駆けた。空を飛ぶという初めての経験に、ミクはそれまでの状況を忘れて目を輝かせた。やはり風は感じなかったが、目の前の黒い毛並みはかなり風圧に靡いている。不思議に思って片手で自分の髪に触れると、いつもより触るという感触が薄い気がした。思わず髪に触れていた手を凝視し、手の向こうに黒い毛並みが見えることに気が付いた。

「…透けてる」

(手ェ放すんじゃねェって言ったろ!)

 クロの注意に慌てて首に腕を巻き直した。

(過去の時間では、人間の姿は幽霊と似たようなもんだって言わなかったか?おめェがこの時間の中で俺の体以外に触れるもんは何もねェ)

 クロは海を飛び越え、カロマイの港を飛び越え、プミラ林の上空まで来てようやく速度を落とし、ゆっくりと降下した。

 狼の足が地面に着くのを確認してから、ミクはその背から滑り降りた。

 見覚えのあるプミラの林。しかしその奥には、あの歪みの姿は見えない。

「歪みが出来る前の時間?」

(そうだ。歪みが出来た直後でも良かったンだが、細かい時間の調整は難しいからな)

 ミクは記憶の中にあるプミラ林と何ひとつ変わりのない景色を見回した。

「刻喰い…その、分離体だっけ?繰り師と契約してない、はぐれ刻喰い?そいつが時間を勝手に喰うことで、呪いが出来るんだろ?」

(あァ。繰り師のいる刻喰いは意識がしっかりしてるから、時間を喰う時も穴が空かないように上手に喰う。だが分離体は喰い散らかすだけだ。だから時間に穴が空いて、歪みが出来る。そういう過程を知らない人間が、呪いとか言いだしたんだ)

「じゃあ、これからここに分離体が来るんだな」

(まァな)

「その分離体を止めることはできないのか?」

 狼はちらりとミクに横目の視線を投げた。

(出来なくはねェが、おめェにゃまだ無理だ。かと言って、繰り師抜きで分離体をどうにかすんのも難しい)

 それきり会話は終わり、二人はその場でプミラ林を見張り続けた。良い天気の昼間で、林の中の木漏れ日も陽気だ。ミクが何気なく過ごして来たカロマイでの日々と、何ら変わりはない。これからこの場所に呪いがかけられるなんて、実際にあの歪みを目にしていなければとても想像がつかなかっただろう。

時折林の横の街道を、こちらを気にした様子もない人々が行き交う。狼は木の影に隠れているし、今のミクは幽霊みたいなものらしいから、向こうからは姿が見えていないのかも知れない。

「クロ、俺の体…」

 言いかけたところで、クロがフンと鼻を小さく鳴らした。

(誰かこっち来るぞ。隠れろ)そう言って、ミクのチュニックの裾を噛んで引っ張った。人に姿が見えないのなら隠れても意味がない気がしたが、狼に引き摺られるがままに木

の影に隠れた。

 しばらくするとクロの言った通り、林の奥から人影が現れた。陸馬の手綱を引き、灰色のコートのフードを目深にかぶっている。大きな垂れ耳を持つ陸馬は、体中の長い栗毛がかなり汚れていて、その茶色い瞳にも疲労が見てとれた。四つまでしか馬と触れあった経験のないミクだったが、首を垂れて足を引き摺るようにして歩く陸馬に深い同情を覚えた。

遠く薄れた記憶の中での陸馬たちは、もっと生き生きとした存在だった。馬追いの父に、飼っていた陸馬に乗せてもらったこともあったが、あんなに砂と汗で汚れ、ゴワゴワとした毛並みではなかったはずだ。ミクはろくでもない持ち主を木の影から睨んだ。

 灰色のコートの男は、フードの中で青い目をぎょろりと光らせていた。顔は青白く、顎が細い。背丈はそれなりに高いようだが、コートの上からでも分かるくらいに痩せぎすの体だった。少し猫背で、とぼとぼと歩いている。体格から気弱そうな印象を受けたが、項垂れた陸馬の手綱を幾らか乱暴に引くその動きに、ミクは認識を改めた。きっと自分より弱い者には尊大な態度をとる、短気で神経質なタイプに違いない。

 横に控えていた黒い狼の姿が揺らいだ気がしてそちらを見ると、クロは人間の姿に変わっていた。その視線があまりに鋭いので、ミクはあの男に何かあるのかと、再度そちらに視線を戻す。

 よく見ると、男は手首に飾り玉を幾つも重ねて巻いていた。

「…魔術師だ」押し殺したようなクロの声が、かろうじて耳に届いた。

 フードの男は立ち止まって落ちつかない様子で辺りに視線を巡らせると、プミラの木に陸馬の手綱を結びつけた。すると突如男の肩の辺りで霧のような白い影が発生し、それを見た瞬間クロの体に緊張が走るのが分かった。

「おい!おめェ!」

(えぇ?)ミクは度肝を抜かれた。

ミクには隠れろと言ったのに、自分は怒鳴りながら男の前に飛び出したのだ。しかしもっと驚いたのは男の方で、ビクビクとした態度で振り返った。青いギョロ目は上目使いになっている。

「な、なんでしょう?」

 どうやらクロの姿は過去においても人の目に映るようだ。クロからの許可は出ていなかったが、ミクもこっそり木の影から出て後を追った。

「ここで何してやがる?」

「わ、私は商人でございます」男は陸馬のわき腹に下がっている荷物を指差した。

「商人ん?」口をひん曲げながら目を細めて睨みつける様は、どこぞのチンピラのようだ。

「は、はい。北の町ドイトルの商人です。衣類を扱っております…」

 男が必死で説明をしているその肩の上で、白い霧の塊が大きくなっていく。

「チビ!」

 突然呼ばれ、弾かれたように顔を上げる。

「こっち来い!俺の後ろにいろ!絶対離れンじゃねェぞ!」

 ミクは考える前に指示に従った。あの白い霧を目にした時から、何やら嫌な予感がしていたのだ。

 駆け寄るミクを見て、男は大きく目を見開いた。

(あれ?オレの体見えてる?)

 だがその目に映る驚愕を見てとって、普通に見えているわけではないと理解した。

「と、刻喰い…!」男はミクを見てのけ反った。しかしすぐに顔を引き締めて、クロの顔を睨み上げた。

「では、お前は繰り師か!何故ここに…ッ」

「ハズレだ」クロは冷たく言い捨てた。

「俺の方が刻喰いだ。そうだろ?ローガン」

 聞き覚えのない名前をクロが口にすると、男は泡でも吹き出しそうな顔になり、その肩の上に漂っていた白い霧が一気にぼわっと膨れ上がった。

 霧はあっという間に人の形を形成した。宙に浮かぶ、白いコートの男だ。

「久しぶりだ。何十年ぶりか?…オズマ」男はにっこりと微笑んだ。

 背はタキセと同じくらいか。見た目には四、五十代に見える。白髪まじりの頭は丁寧に後ろへ撫でつけられ、端整とも言える顔立ちに上品な笑みを浮かべていた。目尻の皺は人の良い印象を演出し、子供好きで親切な紳士といった感じだ。しかしひねくれ者のミクの目は誤魔化せない。ミクの目から見ればこの男は自己愛の強い、気持ちの悪い奴に違いなかった。子供好きどころか、自分の目的のためなら平気で他人の存在を踏み躙るような危険な臭いがする。

 ローガンと呼ばれた男は、クロのコートの横からこちらを観察している焦げ茶色の瞳に注目した。

「その子が新しい君の繰り師か?随分若いな。名前は?」

 笑顔で問われたが、ミクは口を引き結んで答えなかった。そんな自分をコートの裾で隠すように、クロは少し横に移動した。

「誰が言うかボケ!」

 ローガンは肩を竦めて見せる。

「やれやれ、相変わらず下品な奴だ。まぁいいさ。名前なんて、そのうち分かる」

 そう言って笑ったその瞳の、なんて胸糞悪いことか。ミクはクロの口調なんかより、よっぽどその瞳に宿るものの方が下卑ていると思った。

 ローガンはコートの下に着る白いシャツと淡い碧銀のベストを、優雅な手つきで整えた。

「今、その子にとっての過去にいるんだな?ということは…我々の企みは成功したということか。大方、不用意に歪みに手を出して使いものにならなくなった繰り師を助けるために来たんだろう」

「おめェ、まさか…」

 頭上でクロの険呑な声が絞り出された。

「予想を言ってみるか?おそらく正解だと思うぞ」

「おめェ!性懲りもなくィエンラにつくつもりか!」

「つくも何も…もともと私はィエンラの者だ」

「あの歪みは…おめェが作ったんだな?」

 ローガンは小馬鹿にしたような笑顔でパンパンと拍手をして見せた。

「正解だよ!すごいじゃないか!正確には、これから作る予定なのだがね。数十年会わないでいるうちに、少しは頭の回転が速くなったみたいだな!」

 ミクの目の前で、クロの拳がいっそう硬く握られた。

「…ここに歪みは作らせねェ。おかしな魔術もかけさせねェよ」

「無理だよ。だって私はただ、食べればいいだけだからね」

 ローガンは軽く両手を開いて見せた。

「させっか!」クロが飛び出す。

「ジヤン、あの子を」

 ローガンの呟きは、フードの男への指示だった。男は素早く手首に巻いていた飾り玉を手にとって握りしめ、何やら口の中でぶつぶつと呟き始めた。ハッとクロが振り返った時には、ミクは体が動かなかった。

「あ、れ?」

 全身に力が入らず、視界がぼんやりとしていく。もともと透けていた自分の体が、もっと希薄になっているのに気付き、首を傾げた。まるでこのまま周囲の空気に溶けてしまいそうな感じだ。

「クッソ!」

 クロは悪態をつきながら進路を変更し、ジヤンと呼ばれたフードの男に向かって拳を放った。男は呪文に集中していたせいか、クロの攻撃に気付く間もなく顎に強烈な一発をくらって倒れ込んだ。気を失ってピクリとも動かない彼の背後で、ローガンが笑った。

「いつもお前はそうやって弱点をさらす。繰り師など使い捨てにすればいいものを…ほら。歪みは完成してしまったぞ」

 ローガンの姿は景色の中で滲むように見えた。彼の目の前に歪みが発生してしまったからだ。歪みの向こうでローガンは、クロの悔しそうな顔をじっくりと眺めた。

「だが、ジヤンがいなければ魔術の発動は出来ないな…仕方ない。また別の魔術師を使うとするか」

 そう言うと、ローガンの姿が、一回り小さくなったように感じた。ミクは目を瞬かせたが、錯覚だろうか。同じ見た目なのに、何かが先程までのローガンと違う。

「ローガン!まて!」クロの張りのある声が飛んだ。

「また近いうちに会う気がするな。今度は何十年などという長い期間を開けずに。楽しみにしているよ、オズマ」

 ローガンの姿は歪みに飲み込まれるようにして消えた。

 歪みを睨みつけるクロは両の拳を握りしめていたが、やがて我に返ってミクの方に駆け寄った。

「大丈夫か?チビ!」

その場に跪くと、ミクの肩や頭、腹、脚をポンポンと確かめるように触った。

「うん、たぶん?」

 ミクも自分で確かめるように両手の平を自分で見つめ、握ったり開いたりを繰り返した。先程のような不安定な感覚はなくなっている。

「…そうか」

 クロはふぅっと息をついてその場に座りこみ、自分の前髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。

「ごめん。オレのせいで取り逃がしたんだろ?」

 クロはパッと顔をあげ、一瞬だったが苦しそうな表情をした。

「違う。あんな大物が相手だとは思わなかった俺が悪い…」

「ローガンって奴も、刻喰いなのか?」

「あァ…いや。分離体だ。逃げる前に、そこの倒れてるヤツとの契約解いて行きやがった」

 ミクの頭に、先程の違和感が甦った。

「契約解くと、体が小さくなったように見えたりする?見た目は変わってないのに、違う感じがする?」

 どう表現して良いか迷いながら聞くと、クロはその顔をまじまじと見つめた。

「おめェ、契約の気配が分かるのか?」

 そんなもの、分かるはずない。

「知らないよ。ただアイツが消える前に、何か小さくなったように見えたんだ」

 クロはミクの言い分に「おめェ、やっぱりタキセより才能あるわ」そう言ってから、自嘲気味に笑った。

「…ローガンは、俺と同じくらい強い。分離体になってもあれだけ自我がはっきりしてンのが、その証拠だ。だがあれだけ強いのに、精霊院でなく魔術師側についてやがる厄介な奴だ。しかも力が大きすぎて、普通の繰り師じゃ無理矢理結んで捕まえることも出来ねェ」

 クロは立ち上がって、倒れたままのフードの男を見下ろした。

「だがまァ、今回は歪みに魔術がかけられるのを阻止出来ただけでヨシとすっか。普通の歪みなら何とかなるだろ」

 ミクの胸に小さな希望が湧いた。

「じゃあ、タキセの腕がなくなるようなことはないんだな?」

「あァ」

 クロはミクから視線を逸らし、プミラの林に生まれてしまった歪みに視線をやった。ミクからはその表情は見えない。

「とっとと、歪みを閉じちまうか。おめェの初仕事だな」

 クロは振り返り笑って見せると、人差し指でちょいちょいと招く動きをした。

「歪み自体は大きいから、油断は出来ねェ。簡単に説明すんぞ」

「うん」

 ミクはクロの隣に駆け寄って、最早見慣れてしまったプミラ林の歪みを一緒に見やった。

「俺がその辺の時間を喰って、歪みの中に喰った分の時間を突っ込む。それから、ここ一帯の時間を安定させる。これが流れだ。喰う間、お前は俺の手ェ握ってろ」

「…手?」

 ミクが聞き返すと、クロはこちらを見ずにガシガシと頭を掻いた。

「…別に手でなくてもいいんだが、喰う時は繰り師に触れている方がコントロールしやすい。今回は歪みが大きいから、喰う時間も多い。下手してもう一つ歪みを増やすなんてこたァしたくねェからな」

「ふぅん」

「喰った時間を歪みの中に突っ込むのは簡単だ。問題はその後。ここら一帯の時間を安定させるのは、おめェの仕事だ」

「…どうやるの?」

 聞くと、クロはう~んと唸って腕組みをした。

「……俺ァ繰り師じゃねェからなァ…どう説明すっか」

 と、その時後ろでザッと地面が擦れる音がした。二人が振り返ると、フードの男が体を起こすところだった。

「「「……あ」」」

 三人の声が綺麗に揃った。

 男は慌てて周囲を見回したが、彼の味方はすでにこの場にはいない。

「ローガンなら消えたぜ」

 事実をクロが伝えると、ずり落ちたフードから覗いた男の細い顔が悲壮に染まった。両手で空中を掻くような動きをしたかと思うと、ガクッと肩を落とす。しかし、唐突に男はその体を跳ね上げた。

逃げようと陸馬に駆け寄る男の数倍素早い動きでクロは彼の襟首を捉え、男は「ゲッ」と蛙を無理矢理鳴かせたような声を出した。

「コイツに手伝ってもらうか」

 クロはにこやかに微笑んだが、それは男を更に怯えさせた。

「なっ…何を…ッ」

 クロは男の襟首を猫の子を持つようにして引き摺り寄せ、その蒼白な顔を笑顔で覗きこんだ。

「手伝ってくれるよな?歪みの処理」

「ば、馬鹿なことを…ッ!何故俺が…」

「立場が分かってねェようだ」

 クロは男の腹に拳を叩きこんで、襟首を解放した。地面に倒れ込んだ彼の脇にしゃがみこんで小首を傾げる。

「…今すぐ、おめェをあの歪みに放り込むことも出来ンだぜ?」

 男は咳込みながらクロと目が合った瞬間に体を硬くさせた。上手く身動きがとれない様子の男に対し、更に脅しをかけるようにしてその顔を覗き込むクロ。ミクはその様子にとっても見覚えがあった。

(…カツアゲ)

 路地裏や夜の酒場前の道で、たまに見かける光景だ。こんなベタな脅しをするとは…精霊のくせに。もっと神秘的な展開を期待する自分が間違っているのだろうか。

「おい、チビ!コイツが手伝ってくれるってよ!良かったな」

 清々しい笑顔の横で、中年の男の顔が泣き出しそうに崩れている。少しだけ、可哀相になった。

「さァ、ジヤンくん…だっけか?おめェ曲りなりにも刻喰いと契約してたんだから、精霊使いの素質あるンだろ?時間の安定はおめェに任せたぜ?」

「え…?それ、オレがやるんじゃないの?」

「見て覚えた方が早い。それに、おめェが頑張ってる横で邪魔されンのはごめんだ」

 少しがっかりしたが、失敗するのも邪魔されるのも嫌だったので、しぶしぶ納得する。

「そいじゃ、やるか!来いよチビ」

 ミクを呼びつけながら、クロはゆっくりとさり気なくジヤンの足を踏んだ。

「……ッ」

「立てよ、ジヤンくん。逃げようなんて考えンな?もう分かってっと思うが、俺ァあのローガンと同じくらいの能力がある。逃げ出したおめェの目の前にでっけェ歪みを作ることも簡単ってわけだ」

 ジヤンは返事をせずに、項垂れたままゆっくりと立ち上がった。

 ミクはジヤンの足を踏んづけているのと反対側に回ってクロの手をとった。

「始めるぞ」

 クロは空いた方の手の平を上にして、軽く前に突き出した。すると、プミラ林が潮風の向きとは関係なく、震えるようにしてさわさわと動き出す。眩暈のように視界全体が揺らぐような感じがしたが、ミクはクロの手を握りしめることでその違和感を無視した。

 前方に翳されているクロの手の平を横目で見ると、そこにはかすかに光る渦があった。

(喰うって、口から食べるわけじゃないんだな)

 そういえば先程のローガンも、喰う時には両手を開いていただけだった。

 いつの間にか林の中の揺らぎは消失し、クロはジヤンの靴の上にある自分の足に少し体重をかけた。顔を顰めた彼に向かって「時間を足したら、すぐに安定に入れよ」と、低く唸るように言った。

 クロは手の中の渦を歪みの中心に放った。すると、歪みはそれまでの移ろいをやめ、ぐにゃりとその円形を崩す。ミクは歪みの暴走を思い出して少し後ずさったが、それを留めるようにクロが手をぐいと引き寄せた。

 クロの顔を落ち着きなく見上げると、視界の端に目を瞑るジヤンの顔を捉えた。

(…目ッ)

 閉じていて平気なんだろうか。もし彼が自分の身を守ることを選ばずに、このまま何もしなかったら…

「よく見とけ」

 耳元でクロの低い声が響き、ミクは歪みの動きが緩やかになっていることに気が付いた。

「タキセはよく、空間の安定は地面を均すのに似てると言ってたな」

「地均し?」

「デコボコを失くす感覚だとさ。集中するために、コイツのように目を閉じてやる奴も多い。俺にはよく分からん」

 歪みが外からの干渉を受けて蠢く様子は、生き物が死んでいく様によく似ていると思った。足掻いて、でも押さえつけられて、潰されていく。ミクは自然と自分も目を瞑った。

 歪みの方に、意識を向ける。閉ざした瞼の向こうで、不自然な穴が瘡蓋によって塞がるようなイメージを感じる。

 ずぶずぶ、ずぶずぶ…そんな音が聞こえてきそうだ。

(あぁ…埋めて、塗るんだ)

 瘡蓋よりももっと綺麗に滑らかにした方がいい。そう、剥げた塗料の上に新しい塗料を重ねて、綺麗に均して。そういえば潮の浸食を防ぐために『海鳴き亭』の看板にペンキを塗るのを手伝ったっけ。綺麗に、綺麗に、全体が滑らかになるように…

ペンキを塗り終えた達成感に満足気な息をつきながら目を開けると、二対の視線を感じた。

「おめェ…」

 クロが小さな息を吐くようにして言うと同時にジヤンが隙をついて足を引っこ抜き、そのままよろけながら身を翻した。ウロウロと所在なさそうにしていた陸馬に跨り、夢中で手綱を振り回す。突然の指示に驚いた陸馬の小さな嘶きと共に、男の姿は遠退いて行った。

「逃がして良かったのか?」

 ミクが聞くと、クロは呆れたような視線を逃亡者に送って「あァ」と返す。

「あんな小物、逃がしたところでどうってことねェよ。それに教団にもどったとしても、キツイおしおきが待ってるだろうしな」

 クロは人の姿であるはずなのに、獰猛な獣のような笑みを浮かべた。だがミクが少し体を引いてこちらを見ているのに気付き、慌ててそれを引っ込めた。

「…それよりおめェ、出来るじゃねェか」

「…何が?」

「自覚なかったのか?後半はほとんどおめェが安定させたんだぞ?」

 もしかして、あのペンキ塗りの感覚だろうか。そういえば目を開けた時に『塗り終わった』と感じた。

「あんな感じでいいの?」

「出来てるから、いいんじゃねェか?」

 クロが顎でしゃくった先には、もう歪みは存在していない。ミクは喜びよりも安堵を覚えた。

「…良かった」

「良くやったな」

 頭を掻きまわされ、ミクは少しだけくすぐったそうな顔をした。

「これであとは、タキセのとこにもどるだけ?」

 ミクが聞くと、クロは潮風に吹かれた髪の影で口元を少し引き締めた。

「……いや。もう一つ、手伝ってもらいたいことがある。本当はしちゃいけないことなんだけどな」

「…何をするんだ?」

 直感で、タキセの為を考えてのことだろうと思った。それなら、してはいけないことでも躊躇などしない。決意に満ちた視線を受けて、クロは小さく笑った。

「今歪みを閉じたことで、タキセが腕を失くすことはなくなった。ただ、それだとタキセがそもそもカロマイに来ることもねェんだ」

 ミクはクロが何を問題にしているのか分からなかった。ただ、希望の中に濁った水が一滴混入したような気がした。

「…どういうこと?」

「歪みは発生したが、すぐに俺たちが処理した。となると、カロマイに歪みが出来たことを精霊院は知らないわけだ。繰り師のタキセがカロマイに来る理由がねェだろ?」

 それの何が悪いのか分からない。ただ、タキセがアレナや自分と出会わないことになるだけだ。訝しげなミクの様子に気づいたクロは、コートのポケットに手を入れて背を丸めた。とても人間くさい動きだ。

「ローガンの野郎の言葉はムカつくけど、本当なんだよ。繰り師ってのは…使い捨てだ。刻喰いとの契約がなくなると、繰り師は繰り師でなくなる。しかも一度契約を解いたら、同じ分離体と魂は結べねェ。その後他の分離体と契約するか、普通の精霊使いになるかは、そいつの技量によるが…正直タキセは才能がねェ」

 クロの言葉をゆっくりと咀嚼した後、肩から下の力がだらんと抜け落ちた。

「それって…」

 つまり、ミクはタキセからクロと繰り師の資格を横取りしたことになるのだ。繰り師でなくなったタキセは、これからどう生きていくのか。そんなことは考えもしていなかった。

「勘違いすンなよ?おめェが悪いわけじゃねェ」

 クロは不安そうに自分を見上げるミクを真っ直ぐ見降ろした。

「そもそも俺が気まぐれでヤツを繰り師にした。大した才能がないのは分かっていながらな…俺の責任だ」

 目を逸らしたクロは、とても苦い顔をしていた。頬が引き攣っている。

「俺は…俺と会う前のタキセに、繰り師以外の道を与えてやりてェ。ヤツの意見も聞かずに勝手なことだけどな。おめェ、手伝って…くれるか?」

 再び視線を合わせたクロは、何だか迷子の子供のようだった。自分に自信が持てなくて、不安で堪らない、そんな表情だ。いつもはあんなにふてぶてしくて口も悪いだけに、同情を誘う。

 ミクは、じっくり考えた。もうこれ以上タキセに酷いことはしたくない。だが、何が一番タキセの為になるのか分からない。

 繰り師としての道を歩まなければ、腕を失うことにはならなかった。繰り師でなくなるという事態にもならなかった。だけど、その選択を自分が決めていいのか?

(タキセの幸せって、何だろう)

 ばぁちゃんが死んだ時にも、同じことを考えた。その時にはじぃちゃんという存在を思い出したけれど…

「あ…」

 ミクの脳裏に浮かんだのは、アレナのはにかむ顔だった。

 繰り師であってもなくても、歪みを閉じた今、あの二人が出会うことはない。それなら、

「クロ、提案がある」

 片眉を上げたクロに、ミクは絞り出した思いつきを伝えることにした。


 結界に囲まれたグリア王国の北側を覆うように聳えるミロド山脈は、多くの水を南に広がる大地に提供している。つんつん尖った山頂近くの山肌は一年を通して常に雪を被っており、春になると流れ出す雪解け水とあちこちから溢れる豊富な地下水は、綺麗な川を何本も作りだす。やがて合流した川は大河となり、東のノンテス河と西のウルスス河という国土を潤す二本柱として存在していた。

 河の周囲には町や村がその恵みを受け、ウルスス河の西に位置する首都の周囲もまた農業だけでなく経済の中心としても潤っていた。

 しかし首都から遠退くにつれ、小さな町では増える人口に食糧を含めた物流が追いつかなくなり、貧富の差が生まれている状況があった。特に近年はウルスス河の氾濫や内陸部の干ばつによる不作という不幸が続いたために、国の対応が追い付かず人々の生活は荒んだ。

 首都からそう遠くない所に位置するファニラは、ウルスス河の氾濫による被害を最も強く受けた町だ。家々の復興もままならない上に元々首都からの物流に頼る町であったため、不作による農家の収入減と物価の高騰は、失業者や浮浪者、孤児を量産した。また、餓死者も。

 一時期は首都からの商人が所狭しと店を並べていた広場には人気がなく、地元のバザーで賑わっていた大通りにもぽつんぽつんと数える程度の露店が寂しげに佇むだけだ。それも売るのは古ぼけた衣服や金物であり、食糧を売る店は存在しない。露店に食べ物を並べようものなら、目をぎらつかせた浮浪者たちによって奪われるからだ。安物を高く提供する酒場や食堂には常にチンピラ崩れの用心棒が配備されており、近づく物乞いは容赦なくその餌食になった。

 細い棒のような手足を持つタキセも、ウルスス河の氾濫で亡くなった父が営んでいたパン屋が潰れた時から貧困層と呼ばれる部類に入り、満足に腹を満たすことがないまま背丈だけがひょろひょろと伸びていた。

 母は幼い頃に病気で亡くなっている。パン屋を手伝うという名目で家に借り住まいをしていた女とその子供はいつの間にかタキセの義母義兄となり、父が亡くなった後のパン屋を引き継いだ。しかし材料もろくに手に入らず、パン作りの腕もいまいちな二人に店を続けることなど出来なかった。父の見よう見まねで唯一売り物としてのパンが作れるタキセに二人が頼ることを良しとしなかったのも、理由の一つかもしれない。そもそも子供が作るパンを高い金を払って買う人間はいないというのが、二人の一致した意見だった。

 タキセは彼らの意見に素直に納得した。筋が通っていたし、それなりに二人を慕っていたからだ。

「タキセ!」

 酒瓶の転がる汚れた室内に、義母の怒声が響いた。ところどころ擦り切れた毛布の敷かれた寝台で昼間から寝そべる義母は、白髪交じりのぱさぱさの髪を掻き上げた。

「酒を買って来な!」

 タキセは俯いて、硬く握りしめた自分の拳を眺めた。

「……お金が、なくて」

「ないなら働け!本当に頭の回らない子だよ」

「昨日の給料はもうないし、今日の分はこれから働かないと…」

 床に吸い込まれていく声が小さすぎて、義母は「聞こえないんだよ!」と酒の空き瓶をタキセに投げつけた。瓶は勢いよくタキセの腕に当たってゴロリと床に転がる。奇跡的に割れなかったことに安堵しながら、タキセは少しだけ大きな声で同じ言葉を繰り返した。だがそれで義母の機嫌が良くなるはずもない。

「買えないなら、盗んできな!」

「…そんな」

 タキセが顔を上げると、義母の痛んだ髪がぶわりと広がったような錯覚を目にした。

「盗むまで帰って来るんじゃない!」ヒステリックな叫びと共に寝台から体を起こす。

 タキセは慌てて家の外に出た。あのまま大人しくその場に立っていたら、髪を引っ張られたり顔を殴られたり腹を蹴飛ばされたりしていただろう。

 タキセは足早に家の前の通りをあてもなく歩いて、溜息をついた。酒場の仕事は夕方から朝まで続くというのに、これでは家で寝ることも出来ない。

 今にも崩れそうな掘っ建て小屋が立ち並ぶこの通りには、タキセたちのようなその日暮らしの者が集まっている。それらの家には屋根はあるものの扉はなく、時折ぼろ布を代用している家が目につく程度だった。

家の前で死を待つように虚ろな瞳で空を見上げて座りこむ人々、堂々と他人の家に入り込んで略奪を行う者、僅かな食糧を奪い合って血まみれになり、体力の尽きた体で新たな獲物を探すギラついた目の者…加えてこの辺りにはいつも何かが腐ったような臭いと人々の汗の臭いが立ち込め、何処に居ても気分が良くなる要素などなかった。

 タキセは淀んだ臭いを空きっ腹に入れないように呼吸を浅くしながら、今やこのファニラの半分を占める貧民街を抜けた。その先は汚れた水路に囲まれた広場だ。広場には色々とまともではない店が軒を連ねているが、貧民街の者でそれらを利用する者はほとんどいない。単純に金がないからだ。だが、例外もいる。

 タキセは見覚えのある無精髭を広場の片隅に捉えた。

 太い眉の下にある細い目は、義母とそっくりの形をしている。背中を丸めてニヤニヤ笑いを浮かべる様子は、見ていて気持ちの良いものではない。店の外壁にもたれかかるようにして無精髭を撫でる男は、もう何日も姿を見ていない義兄だった。

 義兄は、胸元を大きく開けたシャツに体のラインが良くわかるピッタリとしたスカートを身につけた女の赤毛に、指を絡ませた。女は甘えるように義兄の肩にしな垂れかかり、その厚い唇を歪めて笑う。その笑いはタキセにとってはかなり不快なものなのだが、義兄にとっては魅力的に映っているようだった。

 タキセはおずおずと二人に近寄って、義兄の名前を呼んだ。

「あぁ?」それまでのニヤニヤ笑いが止んで、まるで汚い物を見るような視線がタキセに注がれる。

「あ、あの、義母さんがお酒を買って来いって。でももうお金がないし…」

「俺が知るかよ!」

 脳天に響く怒鳴り声に、タキセはビクッと体を震わせた。義兄だけでなく、女も蔑んだ目でタキセを見る。

「あの女はお前が何とかしとけ!どうせ自分じゃ働かねぇんだ。そのまま飢え死にさせといてもいいぜ」

 何が可笑しいのか、義兄と女は高い声を上げて笑った。タキセは耳に響くその音が怖くて思わず後ずさり、踵を返した。

 義兄は大工見習いの仕事をしていたが、いつの頃からか家に帰らないようになった。今は何をしているのか知らないが、女を買う金があるということはどうにか稼いではいるのだろう。この町には時折、タキセにはどう見ても働いているようには見えないのに、突然大金を手にする義兄のような者がいた。しかしそのお金が家に入ることはない。

家に居た頃からタキセを苛めることを楽しみとしているような義兄だったが、それでも彼の姿が日常の中にないことは寂しかった。しょんぼりとしたタキセは空腹で体が思うように動かず、腐臭の漂う路地裏に座り込んだ。

 義母と義兄はよく似ていた。顔立ちよりも、いつも苛々している様子が。

義母は義兄が帰って来ないことが寂しいのだし、義兄は義母が母親らしくないことが寂しいのだ。お互いがお互いの期待に添わないことに怒っている。タキセはそのすれ違いを埋めたいとは思っていたが、その日の食糧を確保することと義母の言い付けに従うことで精一杯だった。

タキセの手元には丸銅貨一枚すらない。いつものことなのだが、義母に命じられた酒の調達が出来そうにないので、家に帰るわけにもいかない。せめて酒場で働いて日給を貰って酒を手に入れてからでないと、後々酷いことになると分かっていた。

タキセの普段食べるものと言ったら、夜に働く酒場の客の食べ残しが主で、あとは物乞いたちと競争するようにして町の中心地で裕福な家から出たゴミを漁った。おかげでタキセは十二にもなろうというのにガリガリで、いつも足元が覚束ない。無愛想だが他の大人たちよりは同情的な酒場の主人がたまに恵んでくれる食事だけが、彼の楽しみだ。

路地裏から見つめる広場に、寂しそうな風が埃を連れて通り過ぎた。薄ぼんやりとした灰色の空は雨を降らせるわけでもなく、日の光で地面を暖めてくれるわけでもない。

お腹が減りすぎて腹が痛み、タキセはギュッと両膝を引き寄せて丸くなった。食べ物を探す気力もなく、やたらと疲れていて動きたくない。このまま少しここで眠り、夕方になったら酒場に行って仕事の前に店主に何か食べさせて貰えるようにお願いしよう。そう思って、膝の上に頬を預けた。

広間から路地裏へ僅かに入る日の明かりがふいに陰り、タキセは目だけでその原因を探った。黒いふさふさした毛が近づくのに気付いて、大義そうに首を起こす。

 広場を背にして立っているのは、見た事もない黒い大きな大きな狼と、その横にちょこんと佇む自分よりも小さな少年。黒い狼は黒く光る石の首飾りをしていて、何だかお洒落だ。だがどちらも哀しそうな瞳をしていて、可哀相だと思った。

「…どうしたの?どこか痛いの?」

 聞くと、小さな少年は小さく首を振り、狼はゆっくりと瞬きをした。

 狼は小さな袋を銜えていて、タキセの目の前に突き出した。タキセが思わず手を出すと、その中に暖かく柔らかい感触のものが収まった。しかも、良い匂いがした。食べ物だ!

 タキセの頭から思考が吹き飛んで、殆ど無意識に中のものに食いついていた。袋の中身が焼き立てのパンであることに気がついたのは、食べ終わってからだった。

 せめて一言断ってから食べれば良かったと、恥ずかしく思って少年と狼におずおずと目を向けると、そこに責めるような視線はなかった。ただ、やっぱりあの哀しげな瞳があるだけだ。

(おめェは、何がしたい?)

 黒い狼が聞いた。狼が話すことを不思議に感じたが、何故だかあまり驚きはなかった。

「したいこと…そうだなぁ、お腹いっぱい、食べたいな」

 まさか今食べたパンだけでは足りないなんて言えなかったが、今のタキセにはそれが正直な気持ちだった。

(何か将来、やりたいことはねェのか)

 限られた環境の中でタキセが描く理想は、一つだけだ。

「パン屋になりたい、かな」

 もっと大きくなったら、もっといっぱい稼いで、いつか自分の店を開くのだ。亡くなった父のように。

(おめェが望むなら…)

 言いかけた狼の横で、少年がそれまで引き結んでいた口を開いた。

「カロマイに来ない?」

「カロマイ?港町の?」

 少年は頷く。

「カロマイの酒場で働くんだ。アレナって女の子が、きっと助けてくれるよ。それで、お金を貯めてパン屋を開くんだ。『海鳴き亭』を継いでくれたら…もっとありがたいけど」

 タキセにとっては突拍子もない話だった。なんで彼らは自分にそんな提案をするのだろう。タキセは小さな少年を見つめた。自分と同じくらいに細い手足は、彼くらいの身長であればまだしっくりくる。しかしその体は向こう側が透けて見えるような時があり、もしかしたら彼はこの世のものではないのかもしれないと感じた。

「君は、幽霊?精霊?」

 聞いたものの、少年は困ったような顔をしただけで、返事はしなかった。

「パン屋にはなりたいけど、僕が今いなくなったら義母さんと義兄さんが困るから…」

(おめェがいようがいまいが、あの二人は変わらねェ)

 辛辣な狼の言葉は、タキセの胸を貫いた。

 あの二人には、自分は必要ない。なら、誰が自分を必要とするのだろう。

「で、でも、二人ともとっても可哀相なんだ。父さんが死んで店がなくなって義兄さんが出て行ったから、義母さんは寂しいんだよ。義兄さんだって、義母さんが寂しがるのを見ていられないだけなんだ…それにね、僕が働かないと義母さんはもっと寂しくなるし、」

 言葉を紡ぐのに必死で自分がどんな顔をしていたかなんて意識もしていなかったが、少年の方はその猫のような瞳でこちらの思いを正確に読みとったようだった。

自分と彼の顔は全然違うのに、不思議とこの少年がしている必死で泣くのを堪えるような表情は、今自分のしている顔と同じだろうと思った。心の奥を覗く鏡があるのなら、きっと今の自分と彼はそっくりに違いない。それなら、少年を可哀相だと思うことは自分を可哀相だと思っていることになるのだろうか。タキセが不思議な心持ちで少年を見つめると、彼はこちらに向けて意を決したように口を開いた。

「タキセに、来て欲しい。カロマイには、タキセのことを大好きになってくれる人がいる。本当だ」

「僕に、来て欲しい…?」

 少年は力強く頷いた。

「でも、カロマイまでの行き方なんて…」

(首都に行け。そこからカロマイ行きの馬車に乗るんだ)

 そう言うと狼の姿が揺らいで、瞬きする間に黒いコートの男の姿に変わった。驚きに目をぱちくりさせていると、男はタキセには価値の分からない高そうな首飾りを外して、突き出した。

「おめェにやる」

「え?え?」

「まずはこれを売って、腹いっぱい食べろ。売るのはこの町じゃなくて首都にしろよ?それからもう、あの家には帰るんじゃねェ」

「……どうして?」

「帰ったら、この宝石は盗られる」

「そんなこと、ないと思…」

「盗られる」男は強調した。溜息混じりに前髪を掻き回してから、タキセを見降ろす。その視線は口調とは反対に優しい。

「おめェは不器用でお人好しだからな。頼むから、カロマイに着くまででいいから、自分のことだけ考えてろ。人を疑え」

 無理矢理手に握らされた首飾りは、力が入りにくいタキセの手には重く感じる。きっと高価なものに違いない。それにしても、会ったばかりなのに何故自分のことをそんな風に言うのだろうか。

「僕、頼りない?」

 男はすぐさま「ない」と太鼓判を押した。

「タキセのことが心配なんだ」

 密かにショックと受けたタキセを見てとり、男の言葉を庇うように少年が呟いた。

「どうしても、タキセに来てほしいし、無事でいてほしいんだよ」

 男の代弁のような流れで言ったが、それは少年自身の言葉でもあると思った。

「…どうして心配してくれるの?」

 男と少年は顔を見合わせた。男はすぐにそっぽを向いて頭を掻いたが、少年はもじもじしながら「タキセが好きだからだよ」と口を尖らせて言った。上目使いの視線が落ち着きなく泳いでいるのを見て、思わず口元が緩んだ。

 彼らの自分に対する願いの裏に、何があるのかは分からない。だけど、その言葉は本当だと思った。そしてそれを信じることが自分の為になることなのだと、もう分かっていた。



       4――刻の狭間


 プミラ林がピンク色に染まり、潮風は木々の間を滑らかに通り抜けて行く。日の光の暖かさを期待出来なくなるこの時間帯まで、狼と少年は林の中に佇んでいた。

 カロマイに、以前とは違うタキセが居ることはもう分かっていた。今のミクの中には、タキセと共に酒場で働いた記憶があるからだ。タキセはアレナと自分が叔母夫婦に引き取られる前に、すでに『海鳴き亭』の住み込み従業員として働いていた。タキセもアレナも、彼らの本当の子供のように育てられており、皆とっても仲が良かった。自分を除いて。

 ミクの中では、繰り師として出会ったタキセの記憶は霞んでいた。まるで夢の中の出来事のようだ。でも夢ではない証拠に、自分の隣にはクロがいる。

「これで、良かったのかな」

 控えめに、もう何度目かになる疑問を口にして、ミクは冷えた手を擦り合せた。吐く息も白く、薄紅色の空に吸い込まれて行く。

「……精霊院の支部に、一度顔を見せておいた方がいいだろうな」

 クロの提案で、『過去』にタキセを担ぎこんだ際に訪れた精霊院支部に向かう。

町の入り口に構えた小さな家は以前来た時には気が付かなかったが、花のない花壇で囲まれていた。戸口に掛けられている水色のペンキを塗った看板には見覚えがあるはずなのに、どこか余所余所しい。

この精霊院支部に滞在している色白のぽっちゃりした精霊使いの女は、ミクのことを町の酒場の子供として知っていた。勿論、プミラ林の歪みのことも繰り師としてのタキセのことも記憶にはない様子であり、ミクが繰り師になった件についてはクロが適当な説明をした。

「たまたまそこの林で歪みを見つけて、そん時このチビが居たんだよ。素質もあるし丁度いいから繰り師にしといた。歪みも閉じといたぜ」

 クロはタキセの名前を口にはしなかったし、過去を変えたことについても一切語らなかった。別に口止めをされているわけではないが、ミクもあえて補足はしなかった。

「あと、ィエンラがうろついてたから追っ払っといた」

「ィエンラが?」女精霊使いは、顔を顰めた。

「あァ。大方歪みに魔術をかけようとしたンだろ」

「歪みに魔術を?そんなこと出来るの?」

「前にそれをやられたことがある。歪みが暴走してえらいことになった。精霊院に警告しておいた方がいい。一緒に分離体までいやがった。途中で契約ブチ切って逃げやがったけどな」

「分離体!魔術師と一緒に?」女は高い声を室内に響かせた。どうやらかなり珍しいことらしい。

「しかも、ローガンだ」

 渋い顔で吐きだした名前に、女は眉を寄せる。

「ローガン、ローガン…って、あのローガン?」またしても高い声を張り上げる。

 口をパクパクとさせる女の驚きに、ミクは首を傾げた。あの白い刻喰いは有名人のようだ。

「アイツが出て来ると、ロクなことがねェ。性懲りもなくィエンラに味方してやがるしな。しかも魔術師の中に精霊使いの資質があるヤツがいるってのも、問題だ」

「……そうね。精霊院に報告するわ。ファクトル聞いてた?お願い出来る?」

 女が空中に向かって声をかけると、室内の空気が動いた。天井から床に向けて緩やかな風がうねり、白っぽい人影が上半身だけで彼女の横に現れた。

(聞いてたよ。行ってくる)狼の時のクロと同じで、声なき声が響く。

「至急で頼むわね」

(言われなくても)

 顔立ちは整っているように思えたが全体的にぼやけて見えるので、はっきりとはしない。

 人影は一瞬微風を巻き起こして、消えた。

 目を見開くミクに、女は微笑む。

「精霊を見たのは初めて?」

 あれが精霊なのか。お化けみたいだったが、うっすらと光っているようにも見えて神秘的だった。

「…俺も精霊だぞ」

 主張するクロに、女は肩を竦めて見せた。

「そんなに姿をはっきり見せてたら、説得力がないわ」

 ミクは心の中で同意した。クロは精霊らしくない。断言できるほどには精霊を知らないので、言葉には出さなかったが。

「支部に勤める精霊使いは、必ず風の精霊を従えていないといけないの。今みたいに、伝達しなきゃいけないことがあるからね」

 つまり、風の精霊は伝達に使えるらしい。

「そういえば、家族にはもう繰り師になったことは伝えてあるの?」

「いや、これからだ」クロが答える。

「そう…何か困ったことがあったら、何時でも言ってね。精霊院に行く時には準備も手伝うし」

 女が膝を折ってミクに微笑み、ミクは少しのけ反りながら反射的に頷いた。その動きに、何故だか女は更に笑った。

「そうそう、名乗らなくてごめんね?私はレヴィオナ。よければ『海鳴き亭』まで行って、私から家族に説明しましょうか?」そう言って、ミクからクロへと視線を移す。

 クロは考える風に首に手を当てた。

「…そうだな。その方が話は早いだろうな。頼むわ」

「分かったわ」女は一つ頷いた。

 ミクはクロを見上げた。『海鳴き亭』にはタキセがいる。会わなくていいのだろうか。物言いたげな視線を受けてクロは片眉を上げ、口の端を歪めた。意地の悪そうな笑みだったが、本心はきっと違う。ミクは視線を外さずにいたがやがてクロが軽く首を振ったので、それ以上の追求をやめた。

「それにしても、こんなに人と見分けのつかない刻喰いは初めてだわ」

 レヴィオナは興味深々といった様子でクロににじり寄った。

「ねぇ、その髪切ったら伸びてくる?」

「伸びるわけねェだろ。人間じゃあるめェし」

「でも、髪型は自由に選べるんでしょう?」

「…少しはな」

「じゃあ、その髪一房もらえない?」

「……嫌だ」

「いいじゃないの。研究に使いたいのよ」

「大人しく院の仕事だけしてろよ」

「普段は暇なことが多いのよ。おかげで研究の時間が確保できるから、この仕事を選んだんだけどね」

「聞いてねェ!…なんだ、その手のナイフ」

「だから髪を、」

「嫌だっつってンだろ!」

 クロはナイフを手にしたレヴィオナによって、壁際まで追い詰められた。

「おい、チビ!後でな!」

 言うが早いか、クロの姿は煙のようにフッと立ち消えた。

「…ちッ」

 レヴィオナの舌打ちを聞いて、ミクは精霊使いに変わり者が多いというクロの言葉を思い出し、少し納得した。

「じゃあミクくん。これからお家に行こうか」

 レヴィオナはずっと穏やかな笑顔だ。…ナイフを手にしている時も。

「…今、店が忙しい時間だから、明日にする」

 ミクの発言に、レヴィオナは軽く目を見開いた。俯き加減のミクを少し見つめた後、小さく息を吐く。その顔を盗み見たが、決して呆れとか失望とかそういった表情ではなく、やたらと優しげな笑顔があった。

(…タキセに似てる)

 ミクは切なくなった。

「じゃあ…明日の朝に、伺うわ」

 落ち着いた声に安堵して、ミクは小さく頷いた。


 『海鳴き亭』は開店時間をとっくに過ぎていて、店内は冬場だというのに男たちの熱気ですでに生温かかった。木の床が以前よりも綺麗なのは、毎日閉店後にタキセが掃除をしているからだ。

 がちゃがちゃ、ざわざわ

いつも通り騒がしい店内には、客の間をせわしなく動き回るエイカとアレナの姿があった。アレナはミクの姿を捉えると、責めるような視線を向けた。それはミクだけが知る過去と、変わらない視線だ。

文句を言われる前に開店時間に間に合わなかったことを二人に謝って、厨房に入った。厨房に入ってすぐに、以前見られたテーブルと椅子の傾きがなくなっているのが目につく。タキセが直したからだと、今のミクは知っている。

 厨房では、ブルドとタキセが肩を並べて談笑しながら調理に励んでいた。タキセは繰り師であった時と違って質素な薄い布地のチュニックを着ており、髪は襟足が少し長い。見慣れているはずの彼の姿が、異質に感じる。

「…遅くなってごめん」

 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声をかけると、それでもタキセは気付いて笑顔で振り返った。

「おかえりミク!」

 タキセの声でミクの存在に気付いたブルドが「遅いぞ」と一言。

「まぁまぁ。子供は時間忘れるくらい遊んだ方がいいよ」

「…まったくお前は暢気だな」

 ブルドは苦笑した。『過去』の無愛想なブルドからは考えられない柔らかい表情だ。

(タキセがいるといないで、変わることと変わらないことがある)

 アレナの自分に向ける視線は変わっていない。そして、タキセは店にとって欠かせない存在だった。

(あぁ…そうだった)

 ミクは『思いだした』。

 カロマイにアレナと二人で来てからずっと、アレナをタキセに盗られたような気がしていたのだ。二人はずっと仲が良く、ミクはいつもいじけた思いで日々を過ごしていた。普段のミクはやっぱりひねくれ者で、港のばぁちゃんが亡くなるまではばぁちゃんに本を読んでもらうことだけが楽しみで、『過去』には素直になれたタキセにも、可愛げのない口しか利かなくて…

 ミクは混乱した。タキセの為に何でもしたいという思いと、何でコイツの為に自分が苦労をしなくてはいけないんだという思いとが、腹の中でぶつかりあって、吐き気がした。

「…ミク?何だが、顔色が…」

 心配そうなタキセの表情を見ているだけで、混乱は激しくなっていく。その笑顔も、自分に向けられる心配も、全てがミクを責め立てた。

「ミク?」

 ミクは走り出していた。店内を一直線に駆け抜けようとして、椅子や客にぶつかってよろけたところに、アレナの「きゃっ」という短い悲鳴が聞こえた。彼女の腰に頭をぶつけてしまったのだ。ミクは尻もちをつき、一方のアレナはこらえたものの少し瓶の中の麦酒を溢してしまった。

 赤いエプロンに小さな染みが出来るのをぼぉっと見ていると「何やってんのよ、あんたは!」と叱責が飛ぶ。のろのろと顔を上げてから、やっぱり上げなければよかったと後悔した。そこにあるのは、あの視線だからだ。

「遅く帰ってきて、ろくに仕事もしないつもり?」

 分かっている。アレナに悪気はないのだ。ただ、出来の悪い弟をどうにか良い子にしようと思っているだけだ。でも、今のミクにはそれを受け止めるだけの余裕がない。

「……そんな目で見るなぁ!」

 ミクの声は思ったより大きかったようで、一瞬店内に静けさが降り、視線がこちらへ集まる。ミクは視界の端で、厨房からタキセの髪が覗くのを捉えた。おおかた様子のおかしい自分を心配して追いかけようとしていたのだろう。

 元々他人の視線に敏感な方だったが、ミクはごちゃごちゃした頭の片隅で今が一番、人から意識を向けられることが恐ろしいと思った。

 酒場の人々の困惑、タキセの心配、アレナの怪訝、その視線の全てが自分を押し潰しにかかろうとしているようで、目の前がくらくらした。

 ミクは急いで立ち上がり、めちゃくちゃに腕を振りながら店を飛び出した。色んな所に体をぶつけた気がしたが、そんなことは全くどうでもよかった。

外を走ると風の当たる顔がやたらと冷たく、自分が泣いているのに気付いて情けなくなった。

 自分が一体何をしているのか、何をしたいのかが分からない。

 目的地もなくただ一心不乱に駆けていると、途中で体がふわりと宙に浮いた。どんどん地面が遠ざかっていき、ミクは手足をばたつかせた。

「暴れンな」

 低い声の主が自分の体を小脇に抱えていることを知って、ミクは体の力を抜いた。どこかの家の屋根の上に体を降ろされ、ミクは膝を抱えて丸くなる。いつの間にか狼の姿に変わったクロが、こちらの体を巻き込むようにして横になった。

(タキセに会ったか)

「……ん」

 驚いたせいか、涙はもう止まっていた。

(元気そうだったか?)

「うん」

(なら、いい)

 二人はその場に一つの生き物のようにして固まる。

空は完全に日の光を追いやって、闇の中にあった。雲がミルクを溢したように薄く広がり、月や星々の光を遮っている。たまに思い出したように風が細かな手を伸ばし、ミクの髪と狼の黒い毛をからかうような動きでぞんざいに揺らした。

二人が沈黙を共有しながら夜風に晒されていると、近くで息を切らす音が聞こえた。屋根の上から見下ろした通りには、暗闇の中を走る青年の姿があった。

(どうすんだ?会いたくないなら、別に…)

 クロが最後まで言う前に、ミクは「降りる」と掠れ声で言った。

「ミク~!」

 タキセが大声で呼んでいる。闇の満ちる町なかをキョロキョロと見回して、また叫ぶ。上着も羽織らず、チュニックの袖も厨房で調理をしていた時のまま、肘まで捲くりあげている。

 狼は屋根の上に伏せた。背に乗れという意味を受けて取りミクがそこに跨ると、路地裏に降ろしてくれた。ミクが背から降りるとすぐにクロは身を翻し、闇の中に消えて行く。それを見送ってから大通りに目を向けると、呆気にとられたような顔で固まっているタキセがいた。

 タキセの視線はミクの後ろに向けられており、彼が狼の姿を一瞬でも捉えたことを示していた。

「ミク、今の…」

 ミクが何も言えずにいると、タキセは視線をミクに移し「あぁ…」と体中の力をいっぺんに抜いたような声を出した。

「ミク…そうか、ミクだったんだ」

 心臓が少し不規則に動いた気がした。何か言おうと思ったが、口が糊づけされたように動かず言葉が出てこない。

 タキセはゆっくりと歩み寄って、膝を折った。しゃがんで目線を合わせてくれるのは、いつものタキセの癖だった。

「今まで気付かなかった。でも、あの黒い狼を見て思い出したよ。どうやってか分からないけど、昔俺にカロマイへ行けって言ってくれたのは、ミクとあの狼なんだろう?」

 タキセは「違う?」と首を傾げた。優しい口調に優しい目は、ミクをまたあの混乱に陥れようとしている。

「ち、ちがう、オレ…」

 どうして否定したのか分からない。とにかくこの場から逃れたかったが、ミクはどうしても聞かなくてはならないことがあったので、何とか理性を総動員させて踏みとどまった。

「本当に違う?」

 タキセは、今度はからかうように言った。自分の推測が真実であると確信しているのだ。

「……タキセは」

 ミクは歯の間からかろうじて声を絞り出した。

「いま、しあわせ?」

「うん!」

 間髪いれずに笑って言う。

「あのままファニラの町に居たら、もしかしたら死んでたかもしれない。あの二人がどうなったか気にはなるし、いつか様子を見に帰ろうとも思ってる。でも…カロマイに来なかったら、義父さんにも義母さんにもアレナにもミクにも会えなかった。家族が居て、仕事があって、酒場ではパンも作れる。ミクのおかげだよ」

 タキセはミクの顔を覗きこんだ。

「ありがとう」

 ミクは息を詰まらせ、俯いた。それ以上タキセの顔を見ていられなくて、また走り出してしまう。タキセはミクの腕を掴もうとしたが、ミクはそれを勢いよく振り払った。クロがタキセに会わない気持ちが少し分かった気がした。

 タキセの足音が後ろから追って来ないことに安堵と後ろめたさを感じながら、ミクは水色の看板が掛かる扉を見つけて、中に転がり込んだ。物音に驚いたレヴィオナが奥の部屋から飛び出して来たが、目を赤くして荒い息をつくミクを確認し「泊まってく?」と聞いてくれた。余計なことは一切質問しない。

 ミクはレヴィオナから視線を外した。優しくされることを怖いと思うなんて、自分はどこかおかしくなってしまったのではないだろうか。

 突然黒い狼が寄り添うようにしてその場に現れたので、思わずミクはその首にしがみついた。

「タキセに、お礼言われた」

(……そうか)

「お礼、なんて…いらない。だって、酷いことしかしてない」

 狼は返事をしない。

「今、幸せだって…ほんとうに?だって元の家族を捨てて来て…」

 狼が目配せをしたので、レヴィオナは何度か心配そうに振り返りながらも、奥の部屋に戻っていく。それを確認してから、狼は声を伝えた。

(過去を変えるってのは、そういうことだ。あるべき可能性を潰す。タキセに…生きてて欲しかったんだろ?)

「……でも、分からない。何が一番良かったのか」

(そんなの、俺だって知らん。だけどな、何度同じことが起こっても、俺はタキセを助けた。おめェはどうだ?)

 ミクは狼の首に回した手を少し緩めた。

「……オレも。タキセが死にそうなら、助ける」

(じゃァ、もう深く考えンな)

 長い沈黙の後で、ミクは震える手で黒い毛をギュッと掴む。

「……過去を変えたことが、怖いだけじゃない。タキセが…」

 その先は言葉に出来なかった。この狼にまで軽蔑されたら、もうどうしていいのか分からなくなってしまう。

(オレ、タキセが嫌いだった)

 アレナと初めて『海鳴き亭』に入った瞬間、タキセとアレナは『過去』の時のように見つめ合った。そしてそこからは、ミクの存在なんてあってないようなものだった。タキセはミクにも優しかったが、ミクはそれが嫌で仕方なくて、タキセに嫌がらせをしてはアレナに怒られていた。

 あの視線でアレナに怒られる度、タキセに優しくされる度、食卓を囲む時に自分以外の皆が笑顔であることに気付く度に、ミクはタキセをどんどん嫌いになった。食事に毒でも入れようか、厨房の包丁であのいつもの笑顔を傷つけてやろうか、それとも…

 また吐き気が襲ってきて、その場にもどしてしまった。毛を汚してしまったのに、狼は怒らない。

(おめェは、どうしたい?)

「ど、どぅ…?」

(このまま今すぐ精霊院に向かうか?それでもいいぞ)

 狼の姿が、涙の向こうで滲んでいる。ミクはこみ上げてくるものと戦いながら、目の前がぐるぐるとするのを感じた。タキセ、アレナ、エイカ、ブルド。タキセが家族と呼ぶ人たちの顔が浮かぶ。でもその中にミクはいない。こんな汚い気持ちを持つ者はあの幸せな『海鳴き亭』に入ってはいけないのだ。

「クロ…」

 ミクは細い声で刻喰いの名前を呼んだ。かくんと横に垂れた首から上には、人形のような白い顔が乗っかっている。

「オレ…」口の中で、音を擦り潰すように転がした。


 フォリア村は何の予告もなく、トレスト集団に襲われた。略奪、殺傷、強姦、放火、そういった恐ろしく醜悪なことが理不尽に行われ、人々は抵抗と言える抵抗も出来ず、ただその災厄に飲み込まれた。

 その日、家族の中で最初に異変に気付いたのは父ロットだった。

 ロットが馬舎の掃除と餌やりを終えて食卓につくと、湯気の昇る朝食をすでに子供たちが囲んでいた。一生懸命父親が来るまで食べずに待っていた子供たちは彼の姿を捉えると期待に目を輝かせ、ロットはその様子に苦笑した。

 小皿の中にあったオリーブの蜜漬けを一つ摘まんで口の中に放り込むと、年少のミクが舌足らずな口調で「あ~!食べちゃだめぇ!」と非難した。頬っぺたを膨らます長男をからかうことに成功したロットが笑っていると、長女のアレナが「ミクの好物だから、先に食べちゃ駄目でしょ」と、母親そっくりの口調で言った。

「行儀の悪いお父さんね」

 にこにこしながら焼き立てのパンを運んで来た母シダが席につき、食事開始の許可がおりた。

 飢えた陸馬の如き勢いで、子供たちは朝食を平らげていく。気持ちが良い食べっぷりに満足しながらロットがパンを手にとると、ミクが口をもぐもぐと動かしながら膝の上に置いていたらしい一冊の本を父親に突き出して見せた。先日行商人から買った『季節の精霊たち』という子供向けの本だ。

「父さんこの続き読んで」

「ミク!口の中に物を入れてしゃべらないの!食事に本を持ってくるのも駄目!」

 母親顔負けのアレナの叱責に、ミクは迷惑そうに顔を顰める。

「姉ちゃんうるさい」

「ミク!」

「はいはい、二人とも喧嘩は食事の後でね」

 シダからミクと同列に扱われたアレナが弟そっくりの不満顔を作ったので、思わずロットは噴き出した。

「父さんきたな~い」

「父さん!」

「ロット!」

 三人からお叱りを受けてしまい、ロットは肩を竦めて見せた。

「ミクはその本が好きなのか?」

「うん。オレ精霊使いになる」

「ミクには無理」横から口を出すアレナの反応は冷たい。

「なんで!」

「良い子じゃないと精霊使いにはなれないの!悪い子は刻の精霊の呪いがかかっちゃうんだから」

 ツンとしたアレナの物言いにミクは口をぱくぱくさせたが、丁度良い言葉が見つからないらしく、結局反論を諦めてむっつりとスープを口に運んだ。

「二人共、もし精霊を見かけたら母さんに教えてね」

 シダの言葉に二人は少しばつが悪そうに、そして恥ずかしそうに「うん」と頷いた。

 ロットが微笑ましい気分でスープを啜ろうとした時、遠くで馬の荒々しい足音が聞こえた。それも集団で、あまり訓練もされていないような乱れた足音だ。妙な胸騒ぎがして立ち上がった父親を、子供たちが不思議そうに見上げた。

 ロットが窓の外を覗くと、村の入り口の方で砂埃がもうもうと上がるのが見えた。その時いつくも重なった悲鳴のような声が食卓を突き抜けた。

「お前たちは家の中にいろ」

 ロットは顔を引き締めて家を出た。

 子供たちは父親の出て行った扉を不安そうに見つめながら、自然と母親の傍に寄り添った。シダは子供たちの背中を優しくなでながら、やはり扉を見つめた。

 悲鳴は増えていく。時折怒号も混じる。物が壊れる音もする。馬の足音は分散しながら近づいて来る。

 シダは子供たちの手をとり、奥の寝室へ引っ張った。

「いい?絶対にこの部屋から出ちゃ駄目。ベッドの下に隠れていなさい」

 今まで見たことのない母親の厳しい表情に、二人は反射的に頷いた。

 それからすぐにシダが家を出て行く音がして、二人は顔を見合わせた。どちらも似たような情けない顔をしている。

「なにがあったの?」ミクが聞く。

「分かんない。でも、言われた通りにしよう」

 アレナとミクはベッドの下に隠れた。高さは寝そべったアレナの体がギリギリ通るくらい、広さは二人入ってもまだ余裕があった。木と埃の臭いに包まれながら、二人は外の音に耳を澄ます。

 悲鳴は断続的に聞こえた。音から分かるのは、どうやら複数の男たちが村の人たちに暴力を振るっているということだ。

「やめろ」「うるさい」「助けて」「黙れ」「許して」「殺せ」「どうか…」

 どどぅ、ばき、ずしゅ、ぼこ、どかどか、ずずん

 耳を塞ぎたかったが、聞こえてくる音しか情報がない。カタカタ震える体を寄せ合って、姉弟は息を押し殺しながら恐ろしい音に耐えた。

 やがてこの家の扉が蹴破られた。入って来た男は二人。「朝飯時だもんな」「うまそうだ」などといった会話の合間に、くちゃくちゃと咀嚼の音がする。そしてその食む音は近づいて来て、この部屋の戸も乱暴に蹴り開けられた。

「何だ、何もねぇな」

 そう言った男の背に「馬舎があるぞ!」と声がかかった。

「本当か?」

 男は戸を開け放ったまま、部屋を出て行った。

 小さな心臓がどこどこと音をたてている。どちらがどちらの音だか分からない程の速度だ。どちらともなく、お互いの汗ばんだ手を握った。

 馬舎の方で陸馬の嘶きが聞こえる。強引に連れ去られていく陸馬たちの足音とともに、男たちの足音も遠ざかった。しかし安心する間もなく足音の一つが馬舎の方に引き返し、干し草の上に何かが放り投げられた。

 まだあちこちで悲鳴は続いていたが、その後この家の周りにはもう人が近づく気配はなかった。

 どのくらい時間がたったかは分からないが、アレナが「焦げ臭い」と口の中で呟いた。パチパチという音と目の前を漂う白い煙が、アレナの予想を確信に変えた。

「燃えてるっ」

 アレナはベッドの下から出ると、後からミクを引っ張りだした。

「逃げなくちゃ!」

「でも、母さんはここにいろって…」

「ここにいたら焼け死んじゃうよッ」アレナは半泣きで言った。

 二人は裏口から外に出て、目を見張った。炎の赤に包まれた家々。空高く吹きあがる煙。逃げまどう人々を笑いながら追いかける男たち。

 アレナは家を振り返った。燃える馬舎からの飛び火が、すでに家の屋根や壁といったあちこちで暴れ始めている。もう家の中には戻れないが、逃げるにしてもあの恐ろしい光景に飛びこまなくてはならない。

「父さん、母さん…」

 立ち尽くすしかない二人の横で、先程までにぎやかに朝食をとっていたはずの家が燃えていく。ぐしゃん!と炎に包まれた馬舎の屋根が崩落し、火の子が飛び散る。二人はそれを避けて少しだけ家から離れた。

 茫然とするミクの横で、アレナはきょろきょろと辺りを見回した。そして馬糞を入れておく野壺に気が付いた。ミクの手を引いてその木蓋を外し、普段では考えられない力で弟を持ち上げその中に押し入れた。続いて自分も滑り込むと、苦心しながら蓋を上に被せる。

 馬糞の臭いに、目と鼻がつんつんと痛む。食事の邪魔をされた羽虫が微力ながら二人を攻撃したが、それどころではない。二人は騒ぎが収まって両親が迎えに来るのをひたすら待った。

 過度の緊張によって眠気という素敵な逃げ場も失い、狭い空間の中体勢を変えることもままならず、限られた空気も薄くなっていく。とうとう吐き気と気絶の狭間に立った時、アレナは蓋を開けることに決めた。というより、もう限界だった。

 湿った木蓋をゆっくりと慎重に少しだけ押し上げ、ずらす。新鮮な空気を堪能した後で、僅かな隙間から外の様子を確認した。そこから見えるのは、あちこちで漂う煙。耳に入る音といえば炎が燃え盛る音だけで、もう悲鳴は聞こえなかった。人や馬の足音も、しない。

 しばらくおかしな音がしないかどうか耳を澄ませた後、アレナは木蓋を押しやって外に出た。周囲に人の気配はなく、目に映る景色は昨日までとまるで違う。

 ふらふらと何かに操られるようにして歩き出すアレナを、野壺の中からミクは見ていた。

 二人の家は元の形を想像出来ないくらいに黒い残骸となり、まだ所々で小さな火が最後の足掻きとばかりにパチパチと生意気な音をたてていた。

 アレナが家の前の通りを見ると、そこには赤黒く染まった土の上に倒れる人の姿があった。知った顔だったが、名前は思い出せない。どこの家も燃えたり崩れたりと似たり寄ったりの在り様で、通りにはまるで道しるべのように遠くまで人がぽつぽつと倒れていた。中には折り重なるようにして倒れている人もいた。

 全く現実感のないその様子を見物しているうちに、倒れた人の中に両親がいるかもしれないと思い当たり、アレナは血相を変えて手当たり次第に倒れている人々の顔を確認し始めた。

 雲の切れ間から差し込んだ日の光がアレナの頬を赤く染める頃、それを見つけた。父は村の入り口で、母は三軒先の家の前で衣服を赤黒くしていた。その体は冷たく硬く、動かない。顔には苦痛と悲しみが張り付いている。どこにそんな力があったのか自分でも分からなかったが、アレナは衝動的に二人の体を順番に家の前へどうにか引き摺って来て、一緒に寝かせた。そして、そこで初めて弟の姿が見えないことに気が付いた。

 慌てて家の裏の野壺を覗くも、そこにミクの姿はない。アレナは両親を探す時よりも焦りながら、ミクの姿を探した。両親が生きていないかもしれない不安は、あれらの物音を聞いているうちからあった。でもミクは、さっきまで生きて自分の隣に居たのだ。

「ミクぅ!」

 拳を握り締めて叫ぶが、返事はない。燃え滓となった家の中にも、隣の家にも、その隣の家にもいない。

「ミクうぅ!」

 ダダを捏ねるようなその声を、ミクは村外れで聞いた。村を彷徨ううちに倒れている陸馬を見つけ、生きているかどうかを確かめていたのだ。だが焼けた柱の下敷きになっている陸馬は、小刻みにしていた息を先程止めたところだった。

 ミクは煤のついた陸馬の顔を優しく撫でてから、立ち上がった。

「姉ちゃん」

 呼ばれているから、行かねばならない。踵を返したところで、視界に黒い影が舞い降りた。今までそこには、何もなかったはずなのに。

「誰?」

 黒い影は大きな犬だった。ジッとこちらを見つめている。その物言いたげな視線に、ミクは首を傾げた。

「…オレを食べる?」

(だから…誰が喰うかよ)

 黒い犬は頭の中に話しかけてきた。ミクは犬に気安さを感じ、恐る恐る近づいた。

(…おめェ臭ェぞ)

「さっきまで馬糞の中に居たから」

 犬は少し後ずさった。仕方ないことなのに、失礼な犬だ。

「犬さんは、」

(犬じゃねェ。狼だ)

「狼さんは、あいつらの仲間?」

 あいつらとは、村をこんな状態にしていった酷い奴らのことだ。

(馬鹿言え!一緒にすンな)

「そう…」

(おゥ、チビ)

「なに?」

(……いや…)

 狼はミクの頭の中で口ごもって沈黙すると黒い体を膨れ上がらせ、一瞬のうちに人の姿になった。そしてミクの小さな体を軽々と片手で持ち上げた。まるで父さんのような力強さだったが、その正体が黒い狼だったと考えると疑問が湧いて来る。

ミクは頭に浮かんだ予想を口にした。

「もしかして、精霊なの?何の精霊?」

「…刻の精霊の仲間だ」

 ミクはその言葉に怯んだ。

「それって…オレが悪い子だから、呪いをかけに来たの?」

「違ェよ」

 黒いコートの男はフッと笑った。

「俺は、おめェの時間を喰いに来た」

「喰いに?あ、聞いたことあるよ!それって刻喰いでしょ?呪いを食べる良い精霊だよね」

「良い精霊、ね…」

 男は薄っすらと笑っていたが、それがとても寂しそうに見えたので、ミクは心配になった。

「大丈夫?どこか痛いの?」

「…おめェはタキセか」

「タキセ?」

 ミクが再び首を傾げたところで、姉の声がまた聞こえた。泣き声まじりの、可哀相な声だ。

「姉ちゃんが呼んでるから、もう行くね」

「あァ…」

 男はミクをゆっくりと地面に降ろしてくれた。名残惜しく感じながら、ミクはそのやや目つきの悪い顔を見上げた。

「母さんに、精霊を見たら教える約束してるんだ。でもその前に姉ちゃんに教えてあげる。いつも意地悪だけど、何か泣いてるみたいだし」

「そうだな…」

「また会える?」

「あァ、すぐに」

「ほんと?じゃあ、またな!」

 手を振って駆けだしたミクは、疲れた足を引き摺って村外れにやって来たアレナに力一杯抱きしめられた。

「姉ちゃん?苦しい…」

「あんた…どこ行ってたの!」

「うん、今精霊に会ったんだ」

「精霊?」

 弟を解放したアレナは、まじまじとその馬糞と煤で汚れた顔を見た。

「そこに居たんだよ」

 ミクの指差した方には、焼け焦げた柱の下敷きになる陸馬の姿があるだけだ。もしかしてショックで少しおかしくなってしまったのかもしれない。アレナはそう思い、今度は少し優しく彼を抱きしめた。

「…本当にいいのかよ」

 木の影で黒い男が、自分の後ろで無表情に佇む九つのミクを振り返った。

「うん」

 彼らの視線の先で、姉弟はゆっくりと未だ煙の燻ぶる村に向けて歩き出した。繰り師と刻喰いは手を繋いで、注意深く二人の子供を見ている。

「過去を変えた方が早い。おめェを育ててくれるところをどこかで見つけて…」

「過去は、これ以上変えない。それに…オレがカロマイじゃない別のところで育ったら、オレのカロマイでの記憶がなくなる」

「おめェが九つで繰り師になることは変わらねェんだぞ?同時に、これまでの記憶も少しは戻ると思う。こんだけ一人の人間に関わる過去を弄ったのは初めてだから、どこまできちんと記憶に残るかは…はっきりしねェけどよ。まァ、契約を解くなら別だが」

「自分がしたこと、ちゃんと覚えてないといけない。繰り師のタキセを忘れるなんて、出来ない。タキセが覚えてなくても、オレはタキセを死なせかけた。オレ、馬鹿な子供のままは嫌だ」

(すごいな…こんなキレイごと)

 本当は、怖いだけのくせに。汚い自分が大切な人の記憶に残ってしまうことが。自分がしでかした酷い出来事を忘れてしまうことが。

 クロの説得は自分を心配してのことだと分かっているから、嬉しかった。でもミクには、それに甘える資格はない。

「…五年は長いぞ」

「……うん」

 これからやることに意味などない。それを分かっていながら、この作業をやると決めていた。

 この悲惨な状態の村でアレナと再会を果たした瞬間からの、ミクが居た時間を消す。それで、誰の記憶にもミクは残らない。現在流れる時間までの約五年間、ミクに関わる全ての時間をクロが喰うのだ。

「喰い過ぎちまう」

「その分、歪みを埋めるのに使えばいいよ」

「国中の歪みがなくなるな」

「そしたらもうオレたち、要らないね」

 ミクの口元が薄ら笑いを浮かべた。まだ五年間の始まりでしかないのに、すでに葛藤を嘘の感情で押し込めることに成功した子供を見降ろし、クロは眉根を寄せた。



       5――焦げた渦


 レヴィオナはその日、昼過ぎあたりから奇妙な違和感を覚えていた。原因は分からないが、経験上精霊使いとしての勘であると気付いていた。

(なんだろ?…ま。いっか。こういう時って、原因を探っても分からないのよね~)

 こういう大雑把なところが気難しい精霊使いたちの集まる精霊院ではやっていけない理由なのだが、レヴィオナにとってそんな些細なことはこの海辺の町で風と時間の研究に没頭することに比べれば、考えるのも馬鹿馬鹿しい。

 有難いことに港町カロマイの住人たちは、レヴィオナの存在を正確に理解してくれていた。

 彼女の専門は風。大型の嵐が来たらある程度漁場を守ることはあっても、歪みが生じたり大規模な天災があったりしない限り、住人たちがこの精霊院支部という名の借り宿を訪ねて来ることなどまずない。

 結界に守られたこのグリア王国に属する精霊使いとして一番大事なことは、いわゆる『呪い』の対処だ。どんな精霊使いであろうと、歪みを一時的にでも押さえる結界術と遠くへの情報伝達が可能な風の精霊魔法が使えなければ、支部への派遣は許されない。しかしレヴィオナがカロマイに派遣されて早十年。未だこの地で歪みが報告されたことはなく、平和な日々が続いていた。

 カロマイは気候も穏やかな方だ。冬場は海風がきつくなるし、日照時間が夏場に比べてずっと減るものの、別に自分は光や火や植物の精霊とは無縁なわけだから、彼らのような日光を好む精霊にブツブツと文句を言われることもない。レヴィオナの相棒である風の精霊ファクトルはどちらかと言えば冷たく荒々しい風の方を好むようであったので、むしろ冬に向かって機嫌が良くなるくらいのものだ。

 レヴィオナは夕日の射し込む出窓に目をやった。そこには精霊院のある故郷アカルディの植物が、小さな鉢植えに収まっていた。

アカルディはカロマイよりも北にあるくせに日照時間はここよりも長い。しかし一年を通して雨量が少なく、朝夕の寒暖差が激しいせいでろくな植物が育たない。そのため、植物は生き残りをかけて賢く進化した。その一つが、窓辺に飾られているアリィと呼ばれる果肉植物だ。

アリィは外から取り入れられる最低限の水で、その葉の中に最大限の水分を貯め込む。気温の変動に強く根も太くしっかりしているため、ちょっとやそっとのことじゃ枯れたり倒れたりしない。

レヴィオナは環境に力強く適応しているこの植物が好きだった。しかもこのアリィはまるで自分のようにマイペースで、何年かに一度しか花を咲かせることはない。咲きたい時に咲くという、何とも自由な性質なのだ。

だが強い日差しと戦ってきたその体には、カロマイの気候は物足りないかもしれない。もし自分が植物の精霊と会話する能力があったのなら、そのことについて聞いてみたかった。

(…今からでも、出来るかな)

風と時間の研究の合間に、趣味のような形で植物に語りかけるのも悪くないかもしれない。もしかしたら、ファクトルが拗ねるかもしれないが。

いつも可愛くないことを言う相棒が拗ねる様を想像して笑みを浮かべながら、レヴィオナは可愛い薄ピンクの鉢植えに似合わない堂々としたアリィの葉を撫でた。ツルツルとしたその表面に、オレンジ色の光が滑り落ちて消えた。もう夕暮れも終わる時間だ。

冬の初めのこの時期は比較的天気は良いが、じきに北東から吹く風が灰色の雲を大量に連れて来るだろう。時に冷たい雨、時に潮の混じる雪を降らせて、住人たちを困らせるのだ。

背を丸め冷たい風から逃げるようにして足早に歩を進める住人たちと、その横を悠々と飛び回るファクトルの姿は対照的で、毎年レヴィオナを楽しませていた。

(レヴィー)

 まるで思考から抜け出たように、自分の契約精霊が愛称で呼んだ。

「どうしたの?ファクトル」

 ファクトルは契約をしてはいるものの、基本的にその行動は自由だ。契約者である自分の呼び声に応えられる距離にいれば何処に居ようと彼の勝手。それはレヴィオナが精霊院の上層部に顔を顰められる考え方の一つだった。

 いつものように何処ぞへ遊びに行っていたと思われるファクトルは、陽炎のように揺らぐ体を家の扉から半分こちらに出す、という普通の人が見たら悲鳴を上げそうな格好でこちらを見ていた。

(誰か来る)

「お客さん?珍しいわね」

(お客…か分からないけど。刻喰いが一緒だ…強い奴)

「……それをはじめに言いなさいよ」

 レヴィオナは思わず眉間に手を当てた。

 精霊たちの基準と自分たち人間の基準は少し…いや、かなり違うところがある。もう慣れたと思っていても、日常の些細な会話で再認識することも多い。

 しかし刻喰いなど、精霊院で学んでいた頃に合同授業で一緒になるか、あるいは院で時折見かけたことがある程度だ。

「何か、あったのかしらね」

(歪みが発生したとか?)

 ファクトルの言葉を吟味する。ここに赴任してから、とんと結界術など使っていない。しかし刻喰いが精霊院支部に来るとなれば、やはり歪みに関連した用件があるのだろう。

 考えたところで推測に過ぎないので、とりあえずレヴィオナは机の上に出しっぱなしにしておいた夕食の食器を片づけることにした。

(まだ片付けてなかったの?)

「…煩いわねぇ」

(だから恋人も出来ないんだよ)

「…………う・る・さ・い・わ・ね・え」

 低い声を絞り出しながら睨んでやると、ファクトルは実体のないふわふわと揺れる白っぽい肩を竦める真似をした。いつの頃からか、こういった人間くさい動きをするようになったのだが、大概そういった仕草はレヴィオナをからかう時に多用されるため、あまり素直に楽しめるものではなかった。

 悔しい気持ちを押し留めながら食器を水場に放りこむと、扉がコンコンと鳴った。

「は~い」

 少し緊張しながら駆け寄るが、扉が開く様子はなかった。きちんと招かれるまで入らないような、律儀な性格なのかもしれない。

 仕方なくこちらから扉を外に押し出すと、そこには鋭い牙を持った大きな黒い獣の顔が…

「ッきゃ―――!」

(うるっせェ!)

 声は狼が発したものだ。そのことに気が付いて、レヴィオナはおそるおそる牙を覗かせたままの狼の顔を見た。

「……もしかして、精霊?」

(他にしゃべる狼に心当たりでもあンのか?おめェはよ)

「…随分口の悪い精霊だわね」

 おかげで冷静になれた。

「あなた刻喰いね?」

(あァ)

「繰り師は一緒じゃないの?」

 精霊院支部に訪ねて来るなら、精霊使いとの対応は主である繰り師が行うのが普通だ。レヴオナが首を傾げていると、狼が動物らしくない表情で溜息をついた。

(レヴィー、下見なよ)

 ファクトルに促されて視線を下に向けると、そこには黒い帽子を被った小さな子供が立っていた。

「…わ!……と、ご、ごめんなさいね」

 慌てて無礼を詫びるも、子供は帽子の影に顔を隠したまま一言も言葉を発さない。

 レヴィオナは周囲をキョロキョロと見回したが他に人影はなく、こちらの疑問を察した刻喰いが(コイツが繰り師だ)と言った。

 少しの沈黙の後で、レヴィオナは「とりあえず入って。寒いから」と、好奇心を隠した大人の対応をした。

 通常繰り師は、精霊使いの素質を持った子供たちが精霊院で学んでいる最中に繰り師の資格の有無を教師に見出され、繰り師専門の勉強を始める。そして実践で分離体を捕獲し、契約してはじめて繰り師となるのだ。

一般教養と精霊魔法と繰り師の技について学べば、どんなに才能があったとしても表舞台で活躍するのに最低三年はかかる。それも子供であれば一般教養が必要な分、尚更時間がかかるのが普通だ。

 目の前にいる帽子で頭をすっぽり覆った少年は、どう見ても七、八歳くらいだ。レヴィオナの想像する繰り師像からは程遠い。

 物言いたげな視線を狼に向けると、狼は無言で体を変化させた。見た目を大きく変えることが出来るのは、能力が高い証だ。

精霊というのは人間と違って、その体を構成するものの密度によって能力の高い低いが決まる。残念ながらファクトルはそこまで高位の精霊ではないから、お化けのような揺らぐ見た目のままで、少なくともレヴィオナが生きている間はそう外見が変わることはないだろう。

 体の密度が濃ければ濃いほど、人間からの視覚認知もしっかりとされる。黒い狼は一瞬で黒いコートを羽織った黒髪の男に変化したが、どちらの姿でもファクトルのように体の向こう側が少し透けたりふわふわと揺らいだりすることはなかった。ここまで能力が高い精霊なら、おそらく精霊使いの資質がない人間の目にも楽々とその姿が映ることだろう。

「え―――と…」

 何から聞こうか迷っていると、少し目つきの悪い、先程まで大きな狼だった男が口を開いた。

「狼のままだと部屋が狭くなっちまうからな。この姿の方がいいだろ?」

「お気使い、どうも」

 精霊とはこんなに気の回るものだっただろうか。普通の人間を相手にしているような感覚だ。

 ファクトルは強い精霊を相手に委縮しているのか様子を窺っているのか、無言でレヴィオナの背後に控えていたが、しばらくして姿を消した。

「どうぞ椅子に掛けて」

 レヴィオナは部屋の隅にあるソファを示した。購入した当時は薄ピンクの可愛らしい色だったのだが、十年という月日を経て大分くすんできてしまっている。座り心地も最近はいまいちだったが、買い換えるのも面倒くさく、そのままにしてあるものだ。

 男と少年は静かに勧めに従い、その間にレヴィオナは「ちょっと待っててね」と暖かいお茶を用意することにした。男の方は精霊だから飲み食いはしないだろうが、少年の方には必要だろう。服の上からでも分かる細い手足にはもっと栄養を巡らすことが大事だろうし、ろくに脂肪もないその体では、すぐにでもカロマイの冷たい潮風に体温を奪われてしまいそうに思えた。

 お湯が湧くのを待つ間、レヴィオナは二人の話を聞くためにソファの横へ木の椅子を引き摺ってきて座った。

 男はレヴィオナを見て軽く眉を上げ、少年は俯いている。未だ帽子をとる様子はなく、その顔も隠れたままだ。

 レヴィオナは経験上分かっていた。精霊使いなんかになる子供は、多かれ少なかれ皆どこか面倒なのだ。精霊院にいた頃の自分や自分の同級生たちを思い出して苦笑しながら、まず警戒心を解こうと努めることにした。

「私はレヴィオナ。さっきまでそこに居たのは風の精霊ファクトル。私はカロマイに赴任して十年になるんだけど、残念ながらこれまで恋人が居たことはないの」

 自虐ネタにかけてみたが、少年に反応はない。何故だが刻喰いの方が「あ―――」と眉間を押さえて気まずそうな声を出した。

「わりィ。変な気使わなくていいから」

 変な気とはなんだ。恥のかき損だ。

 思わずレヴィオナは下唇を突き出して、男をねめつけた。

「…悪かったって。オレはクロ、コイツは……あ―…ミクロ」

「似たような名前なのね」

「……趣味だ」

 何がどうなれば、契約する者とされる者が似た名前になることが趣味になるのか。

 レヴィオナはハッとした。

「…ッまさかあんた……」

「…まさか、何だよ」

 男の目が座っている。

「……なんでもないわ」

 男は深い溜息をついた。

「まァ、言いたいことは分かる。街中をこの姿でコイツと歩くと、まず人買いか変質者に間違われるしな」

 成程。だから先程は狼の姿で居たわけだ。

「でもさっきの姿でも、目立つことは目立つんじゃない?」

「仕方ねェだろ。イメージ保つのは難しいンだよ。数百年かけてやっと二種類の姿だぜ?」

 男は言い訳をした。確かに精霊にとって人の目につくような姿を保つということは、それなりの精神力を使う。その姿が複数あるだけで、しかもどちらも人間が触れるようなしっかりとした実体を持つことは、かなり凄いことなのだ。

「ごめんごめん。それで、ここに来た用件は?呪いの報告は私が赴任してから一度も受けてないけど、やっぱり歪みについてのことかしら」

 探るように言うと、男は難しい顔をした。

「…急ぎの用件と、そうじゃない用件がある」

 勿体ぶった言い方だ。レヴィオナはそういう言い回しをする男は――女でも―――好きじゃない。

「用件は?」

 強い口調で急かすと、男はこちらのかすかな苛立ちを感じ取ったように本題へ入った。人の感情の機微にまで気をはらうなんて、かなり奇特な精霊だ。

「たまたまそこの林で歪みを見つけて、そん時このチビが居た。素質もあるし丁度いいから繰り師にしといた。歪みも閉じといたぜ」

 レヴィオナは軽く目を見開いた。

 驚きの理由一、自分の気が付かないうちに、カロマイに歪みが発生していた。理由二、分離体の方から契約を持ちかけて刻喰いになるなんて話、聞いたことがない。理由三、こんなに小さい子供が何の知識もなく、契約したてで歪みの処理を成功させた。

 どこから疑問を持ちかけようか考えていると、男はその思考を見事に邪魔してきた。

「あと、ィエンラがうろついてたから追っ払っといた」

「ィエンラが?」レヴィオナは反射的に顔を顰めた。

 ィエンラといえば、昔から邪教と言われてきた魔術教団だ。自分たちの使う魔術こそが人の生きる道を示すものだと言い張り、実際にグリア王国の歴史的な幾つもの戦争の火種となってきた。自分たちの教えに従わずに反抗的な態度をとる村や町には容赦をしないことで有名で、近年ではカロマイからノンテス河を北に行ったところにあったフォリア村が、ィエンラの支持するトレスト集団によって壊滅したことが記憶に新しい。確かこのカロマイでも、五年前の襲撃から逃れて来た村人が何人か居たはずだ。しかしその恐ろしい教団が、歪みに何の用があるというのだろう。

 視線で問うたレヴィオナに、男は陰鬱な表情を見せた。

「大方、歪みに魔術をかけようとしてたンだろ」

「歪みに魔術を?そんなこと出来るの?」

「前にそれをやられたことがある。歪みが暴走してえらいことになった。精霊院に警告しておいた方がいいぜ。一緒に分離体までいやがった。途中で契約ブチ切って逃げやがったけどな」

「分離体!魔術師と一緒に?」レヴィオナは高い声を室内に響かせた。

 精霊使いが使うのは精霊魔法、繰り師が刻喰いを使うのも、精霊魔法。だが魔術師は魔術を使い、それは精霊魔法とは根本的に違うものだ。そして魔術は勉強すれば多少は誰にでも出来るが、精霊魔法は素質がないと絶対に使えない。魔術師がもし分離体との契約を成したとしたら、推測出来る理由は二つ。

 精霊使いの素質のある魔術師がいるか、魔術で精霊を操る術を彼らが生み出したか、どちらかだ。

「しかも、ローガンだ」

 渋い顔で黒い男が吐きだした名前に、レヴィオナには聞き覚えがあった。

「ローガン、ローガン…って、あのローガン?」またしても高い声を張り上げる。あまりの驚きに、口をパクパクとさせた。

 お伽噺の類だと認識していた。ローガンとは、六百年ほど前に起きた精霊暴走の引き金となった魔術師の名前だ。刻の精霊の力を盗もうとし、暴走に巻きこまれて自らも精霊の一部となってしまった愚かな魔術師。その後彼の意識は精霊に混じり分離体となって結界内のどこかを漂っていると授業で習ったが、まさか実在するとは。

「アイツが出て来ると、ロクなことがねェ。性懲りもなくィエンラに味方してやがるしな。しかも魔術師の中に精霊使いの資質があるヤツがいるってのも、問題だ」

 どうやらこの刻喰いは、魔術師の中に精霊使いの素質がある者がいるという説を押しているようだった。それにその言葉から察するに、ローガンと同じくらい古くて力のある精霊であることが窺える。

 レヴィオナは相変わらず帽子の下に顔を隠してじっとしている少年に、一瞬だけ視線を走らせた。ローガンと対峙するだけの能力を持つ刻喰いに見込まれたということは、この子にもそれなりの素質があるということだ。だがそれは、この子が今後ローガンのような強大な精霊に立ち向かったり、普通の繰り師では扱えないような大きな歪みの収拾にあたったりと、危険な仕事をこなしていかねばならないことを示している。この、小さく細い体で。

レヴィオナは深い同情を覚えたが、それを自分が言葉にしたところで何になるだろう。自分は平和な港町に赴任したただの精霊使いに過ぎないのに、目の前の感情に駆られて無責任な励ましをしたところでこの子の救いにはなるまい。

「……そうね。精霊院に報告するわ。ファクトル聞いてた?お願い出来る?」

 空中に向かって声をかけると、室内の空気が動いた。天井から床に向けて緩やかな風がうねり、隠れていた姿を現す。

(聞いてた。行って来る)声なき声が響く。

「至急で頼むわね」

(言われなくても)

 ファクトルも自分と同じ感覚ではないにしても、事の重大性は分かっているはずだ。心なしか口調も硬かったように思う。

 静寂が訪れた室内に、こぽこぽと控えめな音が響いた。

「お湯が湧いたみたい。お茶淹れるわね」

 大人しくソファで待つ繰り師と刻喰いは、会話もしない。普通契約したてであれば、もう少しお互いに興味があるものじゃないのか。もしかして関係が上手くいっていないのか。

 余計な心配をしながら、レヴィオナは滅多に使わない来客用の茶器に、裏庭で育てて乾燥させておいたハーブを使用したお茶を淹れる。

 このハーブが、少しでも可哀相な少年を癒せればいい、そんな勝手なことを思った。

 少年はお茶を受け取ると、はじめて「ありがとう」と小さな声を出した。

「どういたしまして」

 すっかり嬉しくなって、レヴィオナはずっと聞きたかったことを口にした。

「その帽子はとらないの?」

 一瞬、少年の体に緊張が走った気がした。

「……頭を、出したくないから」やはり小さな声で言う。

「こんなちっこいうちから髪を気にしてたら将来ハゲるって言ってンだけどな」

 刻喰いが茶化すと、少年は素早く「ハゲるかよ」と返した。息はぴったりだ。どうやら関係が上手くいっていないわけではないらしい。レヴィオナは胸を撫で下ろした。

 きっと帽子をとらないことにも、何か事情があるのだろう。少年が言いたくないなら、言わなくていい。精霊使いなんて皆変わり者だから、この程度のことは無理に聞きだす必要もないだろう。

「…急がない方の用件だけどな」

「ん?」

 そういえば最初にこの男は急ぎの用件とそうでない用件があると言っていたが、すっかり忘れていた。

「コイツを精霊院に連れて行く。準備を頼めるか?」

 レヴィオナは「もちろん」と快諾してから、ふと疑問を抱く。

「ご家族は?」

 家族の許可をもらってから精霊院に行くのは当然だ。しかし、もし資質を見出されるより先に契約をしてしまったのなら、説明が少しややこしくなるかもしれない。そういう時には、担当地区の精霊使いの出番となるのが筋だろう。

 密かにまだ見ぬ少年の家族の説得に意欲を燃やしていると、男は「コイツは孤児だ」とレヴィオナの使命感に水をかけた。

「…そう」深くは聞くまい。

「ほとんど無一文に近い。悪いが金と着替え、食糧も準備してもらえると有難い」

 レヴィオナは胸を張った。

「任せて。それも支部の仕事ですからね」

 子供の服を用意するのは手間取るかもしれないが、やってやれないことはない。そのための精霊院からの年間受給だ。

「明日には一式揃えてみせるわ。今日はもう休んで?…あ、夕食まだなんじゃない?」

「あァ…そういやまだだな」

「私の残りでよければすぐに出せるけど」

「頼む」

 全てのやり取りは刻喰いがしている。健全ではないような気がしたが、どこか保護者然とした男の対応を微笑ましくも感じた。

 レヴィオナが台所へ引っ込むのを確認してから少年は「食事…五年ぶり」と呟いた。鼻歌交じりで食器を手にする彼女には聞こえない。

 テーブルに夕食を並べると、刻喰いは外に出て行ってしまった。「人が飯食うの見たくねェんだよ。俺が食えねェのに」と精霊らしくない言葉を残して。

 やっぱり少年は無愛想なままだったが、パンを口に運んだ瞬間、口元に穏やかな笑みが広がるのをレヴィオナは見逃さなかった。

「…美味しい」

「そう!全部食べていいからね!…残り物だけど」

 苦笑すると、何故か少年は笑みを引っ込めてしまった。

「ご、ごめんね?残り物嫌だった…?」

 少年はパッと顔を上げて「違います」と、今までで一番勢いのある声を出した。一瞬だったが、目が合った。大きな猫目にどこか見覚えのあるような気がして顔を凝視してしまうと、少年は慌てて顔をまた下に向けた。

「……美味しいです」

 もう一度ボソッと言い、一噛み一噛み確かめるようにしてゆっくりと食事を進めた。

 けっこう可愛い顔をしているのに、どうして隠すんだろう。頭に傷があるとか?顔に火傷の痕があるとか?孤児だというし、いや孤児でなくても、他人に言いたくないような事情の一つや二つあったところで、何の不思議があるだろう。

レヴィオナはやっぱり深く追求することなく、今夜は一つしかないベッドを彼に提供し、ソファで自分が寝るべきだろうな、などと考えた。そして密かに、今後こういうことがあった時のために来客用のベッドを購入することに決め、その為に受給を使う許可が降りるかどうかを真剣に考えた。


 翌日、刻喰いと繰り師はレヴィオナが超特急で用意した荷物を受け取るやいなや、すぐに出発を告げた。

 町の入り口で、一頭の毛並みの良い陸馬が好奇心旺盛な目をキョロキョロとさせていたが、背中に荷物を括りつけられると、少しだけ嫌そうに顎を逸らした。

 プミラ林がしゃらしゃらと音を立て、レヴィオナと共に彼らの旅立ちを見守っている。

「もう少し、ゆっくりしていけばいいのに」

 レヴィオナは本心から言ったが、彼らはすぐにでも精霊院に行きたいのだと言って誘いを断った。

 日が海側に傾きかけたその地平線の向こうで、暗い色の雲が押し寄せて来ているのが見える。もうすぐ冬本番だ。

「…夜は寒いわよ?隣町まで大分あるのに…」

「いや。陸馬を用意してもらったから、夜までに着くだろ。色々悪かったな」

「いいのよ。たまにはこれくらいのことがなくちゃ、平和過ぎる港町じゃ呆けちゃうわ」

(…本当に呆ける前に、契約は解いてよ)

 憎たらしい口調が頭に響き、レヴィオナは空中を注視した。

「ファクトル!早かったのね」

(至急だろ?)

 鼻でも鳴らしそうな言い方だ。

(ィエンラとローガンの名前が出たら、みんな目を丸くしてた。面白かったよ)

「それは、見てみたかったかも」

 ファクトルは旅支度を終えた二人の方を向いた。

(…あんたたちの名前を出しても、誰も知らなかった)

「まァ、そりゃそうだろ。成り立てだからな」クロが肩を竦める。

(でも上の人たちは、ローガンを見て彼だって分かる刻喰いは限られるって、言ってた)

「まァ……俺も大分年寄りだからな。ってか、あっちが名乗ったンだよ」

ファクトルは無言でクロを見る。

「ファクトル?」

 不穏な空気を感じてレヴィオナが声をかけると、ファクトルはそっぽを向いた。

(…別に、おれたちに迷惑かけなければ、何でもいいけど)

 クロは苦笑してから、宙に浮く風の精霊をからかうように見上げた。

「おれたち、ね…まァ、出来るだけ迷惑はかけねェようにするさ。それこそ、精霊暴走みたいな迷惑はな」

「な…え?え?」

 訳が分からずファクトルとクロを交互に見るレヴィオナに、ファクトルは溜息でもつきそうな様子で頭を大げさに落として見せた。

(…レヴィーは、鈍い)

「は?何よ!いきなり…」

(こんな化け物みたいな刻喰い、あっさり家に入れないでよ。おれ喰われるかと思ったじゃん)そう言い捨て、姿を消してしまう。

 レヴィオナはおそるおそるクロを振り返った。

「……そんなにすごいの?あなた」

 クロは片眉を上げてみせただけだ。

 精霊が精霊を食べるという話は、ないわけではない。自分の力を強くするために共食いをするのだ。ただし、基本的には風は風、火は火といったように、同じ属性同士に限られるから、ファクトルが言ったことは冗談なのだろう…と、思いたい。

「さて、行くか」

 クロが少年の頭にポンと手を置くと、帽子の下で小さな顎が頷いた。

「お世話になりました」

 呟くように言って、ミクは陸馬の鼻先を撫でる。陸馬は彼を気に入ったようで、甘えるようにその鼻先を幼い顔に擦りつけた。少しだけ黒い帽子がずれて、少年は迷惑そうな顔でそれを直す。

「気をつけてね」

 本当に色々と心配だったが、それだけ言うに留めた。しかし少年は見透かすように胸の前で重ねられたレヴィオナの手を見て「はい」としっかり頷いて見せた。

「チビ、持ち上げンぞ」

 言うと同時にクロが少年の体を軽々と持ち上げて、陸馬の背に乗せる。彼は少しバランスを崩したが、すぐに体勢を整えて手綱を取った。片手で優しく栗毛の背中を撫でると、陸馬は嬉しそうに「くぅ」と鳴いて、垂れさがった大きな耳をパタつかせた。

「クロは乗らないのか」

「疲れたら乗る」

 人間とは体の構造が違うのだから単なる運動で疲れるはずもないのだが、少年はそれを分かっているのかいないのか、何も言わなかった。

「じゃあな」

クロが軽くこちらに向けて手を上げ、少年は少し会釈をした。歩きはじめた彼らを、レヴィオナは小さく手を振りながら見送った。

少年は彼女の視線を背中で感じながら、手綱を握りしめて横目でクロを見る。

「狼になれば?」

「そしたらコイツ怯えて暴れンぞ」

 クロが拳で陸馬の背中を軽く小突くと、陸馬は歯を向いて威嚇した。

「な、なんだコイツ!おめェには懐いたのに…ッ」

「嫌われたんだろ」

「さらっと言うな」

 ブツブツ文句を言う刻喰いと陸馬に跨る小さな繰り師の姿が、少しずつ街道の向こうへ遠ざかっていく。

「…元気で」

 レヴィオナは二人には聞こえない音量でポツリと言ったが、ふいにプミラ林から吹きぬけてきた風によってその声は流されていった。

 レヴィオナの姿が見えなくなるのを確認してから、クロは馬上のミクを見上げる。

「二人には…」言いかけてやめたクロに、ミクは帽子の影から大きな目を向けた。

「もちろん会わない。だいたい、昨日まで五年も顔見てたんだし…いや、十年か」

 体は相変わらず小さく、顔立ちが変わったわけでもないのに、ミクの表情からは以前より更に子供らしさが抜け落ちたようだった。

 過去の中で過ごした五年は、これまで長い時間の中様々な経験をしてきたクロでさえ、ちょっと厳しいものだった。自分の存在を自分で消すというのは、一体どんな気持ちなのだろう。最初の一年くらいは時折泣き出したり塞ぎ込んだりしていた少年は、何時の頃からか殆ど無表情になっていった。たまに変化があるとすれば、気晴らしにクロと冗談を言い合って皮肉気な可愛くない笑みを浮かべる程度だ。

「そういえば」

ミクが街道の先を見つめながら声を出す。

「一度もクロは止めなかったな」

「…始める前に聞いただろ。本当にいいのかって」

「そうだっけ」

「あァ…止めてほしかったのか?」

「いや」

 少し沈黙があって、クロはミクの口元が薄っすら笑みに歪んだのを見た。

「オレたち、共犯だな」

 目元は帽子に隠れていて見えない。

「……おめェ、その帽子まだとらねェのかよ」

「まだ知り合いに会う可能性がある。もしあの人に似た子供がいたなんて噂になったら、あの人はオレを探すだろ。もちろん、あのお人好しもそれに協力するだろうし…そしたら五年が無駄になる」

 ミクは他人事のように言った。口調からも体の動きからも、感情が読み取れない。契約しているのだから何となく感情が伝わり合うのが普通なのだが、最近はそれもあまり感じない。

 クロは溜息をついて、自分の前髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。

「クロのせいじゃないよ」

 こちらを見てもいないくせに、見透かすように言った少年に舌打ちを返した。

「あァ…共犯なんだろ」

「うん。最初から、共犯だ」同意のはずなのに、小さな小さな声だった。

 最初とは、どこが最初なのだろう。ミクの時間を喰い始めてからか、あるいはタキセの過去を変えてからか。

「クロは精霊暴走の時からいるんだな」

 先程の話を聞いていたのだろう。蒸し返したミクに、しれっと「ありゃ冗談だ」と返す。しかし聡い子供がそこで流されてくれるには、一緒に居た時間が長すぎた。

「もしかしてクロは、ローガンが精霊を暴走させたって時に近くに居たんじゃないか?」

クロは沈黙を返した。それと肯定をとり、ミクは続ける。

「それなら、もしかしてクロは…」

「そこまでだ。まだ知らなくていい」

「そう?」

 飄々とした態度が憎たらしい。ミクの予想を聞いてみたい気もしたが、そしたら自分が説明せざるを得なくなる。

クロは「そのうち嫌でも知るだろォよ」と、負け惜しみのように言った。五年分の自分の過去を見続け消してきたミクに今、これ以上負担になる材料を与えたくなかった。どれだけ平然を装っていても、この五年で成し遂げた大きな仕事を九つの子供が完全に乗り越えているとは考えにくい。

 クロは精霊だ。少なくとも、今は。だから主である繰り師の決定に異は唱えても協力はする。後々繰り師本人が苦しい思いをすると分かっていても、それを本気で止める術はないのだ。しかも自分が過去を変えるという実例を見せた手前、言葉での説得など意味がなかった。

 何度も繰り返して来た後悔を、また今回も苦く噛み締める羽目になってしまった。

 繰り師が自分を共犯だというのは、間違いではない。普通の精霊や精霊使いと違って、刻喰いと繰り師は繋がっているのだから。

 ミクはクロの思いなどまるで気が付いていない様子で「そういえば」と暢気に振り返った。

「クロって、他の精霊食べるのか?」

「喰うかボケ」

 ミクは小さく笑った。

「レヴィオナさんの精霊が言ってたから。本当に食べるのかと思って」

「風の精霊を喰ったところで、腹壊すだけだ」

「腹壊すのか?」

「ものの例えだ。喰ってみようともおもわねェよ。あれはあっちが勝手にビビって言っただけだ」

「クロは他の精霊にビビられるような奴なんだな」

「…その言い方だと、まるで俺が嫌われ者みたいだな」

「そうは言ってない。だけど、たまにチンピラみたいだもんな」

「……うるせェ」

 軽口を叩く元気を見せるなら、多少の面白くない言動も許そう。

「精霊院はどんなところ?」

 ミクがおもむろに聞いた。クロは記憶を手繰り寄せ、首都の外れの乾燥地帯に聳える精霊院を思い浮かべた。

「…そうだな。おかしなところだ」

 一言で説明するのは難しい。どんな外観でどんな人間が集っていて、皆何をしているのか。それは行ってみれば分かることだ。親切でないクロの説明に、ミクは文句をつけるどころか、納得したように頷いた。

「それなら、今までとそんなに変わらないな」

 確かに、この国は変なことばかりだ。精霊暴走以来、歪みの発生とその修復が繰り返され、結界内の時間の流れが正常なものなのかどうかも分からない。そもそも、過去に繰れるような存在がぽんぽん居る時点で、おかしい。だが、過去の中に長くいると容易に心のバランスを崩してしまう者もいる中で、それらをおかしいと言い切るミクに、頼もしさも感じた。たとえそれが虚勢だったとしても。

「あァ、そうかもな」

 ともあれ、少年はこれから先のことに目を向けている。そのことにひとまず安堵して、クロはやや歩調の速くなった陸馬の横に速足で追いついた。

「ペース速くねェか?」

「そうかな。クロが遅いんだろ」

「…浮くぞ」

 一応精霊なので、飛んでついて行くことも可能だ。

「…人目引くから、やめて」

 ミクが嫌そうに言ったので、ちょっとした勝利を味わう。

 街道の地面は過去に通った人間の多さを思わせるように硬く踏み固められていたが、彼らの視界に現在人影はない。冬に向かう港町に用があるのは、近くの町や村を行き交う行商人くらいだ。それも今の時間から街道をうろつくような、野宿を覚悟している物好きなどいないだろう。この季節に野宿をするのは、下手したら命とりだ。それでもクロは、レヴィオナの心配を上手く煙に巻いて出発を優先させた。ミクが早くカロマイから離れたいと強く望んでいるであろうことは、彼が何も言わなくても分かっていたからだ。 

背中に控えめな夕日を浴びて、前に長く伸びた三つの影が重なっている。まるで黒いシミがゆらゆらと何処までもくっついてきて、恐ろしい不幸へと誘っているかのようだ。

 ミクは陸馬に乗る経験が四つの頃のみというわりには手慣れた様子で馬を扱い、馬上で姿勢良く前を見つめている。西日のせいでその横顔は完全に暗い影で霞んでいた。

 彼の嘆きはとっくに見えないところへ閉じ込められてしまっている。いつかそれが噴き出した時、その攻撃が彼自身に向かうのではなく、自分に向かえばいい。

 クロは体のあちこちから滲み出て来る無数の不吉な違和感に蓋をして、軽快な足取りの若い陸馬に歩調を合わせた。



 精霊暴走を止めた英雄セドの刻喰いであったとされる精霊オズマは気まぐれで、他の分離体と違い自ら素質のある者に契約を申し出ることがしばしばあった。しかしオズマと契約した繰り師たちはいずれも短命で、ィエンラとの抗争の果てに亡くなることが多かったとされている。

 当時のィエンラ教祖ローガンの精神を核とする分離体がィエンラに味方をしているように、オズマは過去の歴史を鑑みるに、精霊院に協力的だ。彼が精霊暴走に巻きこまれた人間の精神を核としているという可能性については、未だ定かではない。彼自身の口から当時のことを聞きだした者がいるとすれば歴代の繰り師たちのみであるだろうし、また彼らが詳細について語った記述はどこにもないのだ。

 ローガンがこの国の結界内のどこかを漂っているように、オズマもまたどこかで次の主となる繰り師を探しているのだろう。今後、彼らが出現するのがいつになるのかは分からない。しかし言えるのは、彼らが歴史の表舞台に立つ時には必ず大きな争いが起きているということだ。過去の文献を分析するに、それは彼らの精霊としての能力が高いからというだけでなく、他の精霊に対する影響力が大きいことが関係している為だと推測される。

 オズマの三代目繰り師ルテオは、東部戦争でィエンラからの暗殺により亡くなっているが、この時もィエンラ側にローガンの影があったとされている。

 歴史を見守る者としては彼らのような強大な力を持つ分離体に会って話を聞いてみたいものだが、彼らが姿を現すことで国が乱れるとすれば、その思いは許されないものなのかもしれない。しかし精霊院とィエンラ教団との対立に終わりが訪れる日が来るとすれば、その鍵は我々精霊使いや魔術師たちなどではなく、刻の精霊の欠片である彼らが握っているように思えてならないのだ。


                 グリア王国史考察 刻喰いの章より


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