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ボルテクス  作者: やしろ
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1――港町で / 2――繰り師

 新生国歴1483年、精霊使いラコイは己の死んだ娘を甦らそうと刻の精霊を呼んだ。

 彼は優れた精霊使いであったが、当時まだ刻の精霊は我がグリア王国の精霊院にとっても未知の存在であり、その行為は非常に危険かつ愚かなものだった。伝承ではラコイは邪まな精霊に心を奪われて刻の精霊の研究を行ったとされているが、最近の一般的な学説では、当時のィエンラ教祖ローガンが悲嘆に暮れるラコイに近づき、禁忌の法を示唆したと推測されている。

 先の章で述べた精霊院に敵対する邪教ィエンラは、国の中心に近い立場で優遇される精霊使いの存在そのものに批判的だ。彼らにとって精霊は自然に在るべきで、その精霊を使う精霊使いたちは自然に逆らう傲慢な存在である。人間は人間の手で物事を成すことが道理であり、人間がその知恵でもって行う魔術こそが最も国に重宝されるべき力だというィエンラの主張は、彼らが誕生してから今日まで全く変わっていない。

 しかし時間を操る能力を持つと言われる刻の精霊の力は、そんな彼らが精霊院相手に一気に形勢逆転を図れるだけの能力を秘めている。精霊の力に頼ることを良しとしない立場であるはずのィエンラの教祖がただならぬ興味を抱いたとしても、何の不思議もない。

 精霊魔法と魔術をどう組み合わせて刻の精霊を呼んだのかは諸説あるが、とにかく刻の精霊は首都郊外にあったラコイの家に現れた。その時にどのようなやり取りがあったのかは、やはり推測の域を出ない。しかしそこでかの有名な『精霊暴走』は確かに起こった。何らかの理由でラコイの支配から逃れた刻の精霊は混乱し、己を呼びだした術者であるラコイとローガンを飲み込んで膨れあがったのだ。

 暴走が起きた場所が郊外であったのが、不幸中の幸いだったと言えるだろう。郊外に住んでいたどのくらいの人間が犠牲になったのか正確な人数は不明だが、暴走により発生した刻の歪みが首都を襲う前に、異変に気付いた精霊院が首都内の国民の避難を指示する時間があったからだ。

 暴走を止めたのは、はぐれ者の精霊使いセドだった。セドは膨れ続ける歪みの中から刻の精霊の核を見つけ出し、暴走に巻きこまれた者たちの精神が入り混じるその精霊体を引き裂くことで暴走を鎮めたが、散り散りになった刻の精霊の欠片は各地へと飛び去った。しかしそれらが空間の浸食を始めるであろうことは容易に想像がついたため、精霊院はグリア王国を結界で囲い込むことにより、それ以上の飛散を防いだ。

  分離体と呼ばれるその欠片たちは年月をかけて固有の意識を持ち、一個体の精霊として認識されるようになった。セドは中でも非常に力の強い分離体を支配下におくことに成功しており、それは初めての繰り師と刻喰いの誕生でもあった。

 精霊使いと契約した分離体は刻喰いと呼ばれ、主を持たない分離体の暴走や各地に発生した空間の歪みを処理するのに必要な存在となった。これを成す精霊使いは刻喰いと共に時間を繰る能力があることから繰り師と呼ばれ、精霊使いの中でも特異な存在として現在も認識されている。


                           グリア王国史考察 精霊使いの章より

  



       1――港町で


ミクはチビの痩せっぽちで、気難しい。今年で九つになるのだが、実際の年齢よりも幼く見えるのは発育不良気味の体型と、その猫のような目が小さい顔の中で幅をきかせているせいだろう。黙って遠くから見ていれば女の子のようにも見える繊細で可愛らしい顔立ちなのだが、その瞳を覗きこめば、その口調を耳にすれば、たちまち見た目よりもずっと可愛げのない子供であることがばれてしまう。

ミクは神経質で警戒心の強い子供にありがちな、独特の勘を具えている。騒ぎを起こしそうなおかしな輩は一目見ればすぐに分かるし、人の顔色から本心を見抜くことにかけては天下一品。加えて偏屈な老人のように頑固であったので、子供と思って気安く対応する者には容赦のない軽蔑でもって対応するのが常だった。

ミクが思うに、その日の朝は少し空気がさわさわとしていた。こういった、言葉では説明が難しく自分にしか分からない根拠のない感覚も、お得意の勘の一つだ。胸騒ぎとまではいかないまでも、いつもとは違う日になる、そんな予感がした。

ミクと姉のアレナは、ノンテス河の河口にある港町カロマイから上流に向けて二日くらい遡った所にあるフォリア村の出身であったが、五年前に村がトレスト集団と呼ばれるならず者たちの襲撃に遭い、両親を失った。だが彼らは幸いにしてこのカロマイで『海鳴き亭』なる酒場を営む叔母夫婦に引き取られ、子供のいない彼らを手伝って、まずまずの生活を送れていた。

朝一番にミクが起きてすることは、水汲みだ。

店の厨房の勝手口から出てすぐに共同井戸があり、そこから毎朝水を汲む。朝日が出たばかりのこの時間は、人が少ないので並ぶことなく仕事が出来る。ミクの場合、隣人たちと顔を会わせたくないというのが主な早起きの理由だったが。

姉のアレナは今年の夏で十六になり、立派に大人の仲間入りを果たしていた。それでなくともミクとは正反対に、明るく社交的なアレナだ。叔母夫婦の営む酒場の看板娘として、十分な働きをしていた。

一方ミクは、一歩間違えば立派な穀潰しだ。自分の能力の範囲内で出来ることを探さなければ、居場所が獲得できないような恐怖が常にあった。

だから、朝は水を汲むのだ。

手の平にぐいぐいと桶の金具が食い込む痛みを我慢しつつ、何度か往復して台所の大きな瓶になみなみと水を満たす。こうしておけば、開店前の料理の仕込みの際に困らない。

ミクは桶を台所の水場の前に、逆さに置いた。そしてその上に乗ると、水に浸けてある昨日の洗い残しの椀や皿を濯ぎにかかった。酒場の閉店は遅いので、疲れ切った叔母は最後の客が帰った後によくこうして洗い物を明日に回すのだった。別にやれと言われたわけではなかったが、これを片付けておけば後々叔母が楽になる。

冬に片足を突っ込んだこの時期は、正直水仕事をするのは辛い。だが、いつも真っ赤でガサガサとした手を動かし、文句を言うでもなくくるくると働く叔母を少しでも楽にするためには、このくらいはしておかなければならなかった。

水場を囲う石板が腕の体温を奪い、水に浸した手と共に痛覚を刺激する。水から上げた木の食器類を乾燥させるために石台に立て掛けた時には、すっかり肘から下の感覚はなかった。

両方の手を擦り合せながら台所を出て隣の部屋に入ると、そこはまだ酒気がたっぷりと残る店内だ。とはいうものの、酒の臭いが消えた店内というのを経験したことがないので、もしかしたら昨日今日の臭気ではなく、長い年月をかけて木の壁や床に沁み込んでいるものなのかもしれない。

ミクは店と外を繋ぐ扉と、二つある窓を目一杯開いた。それから外の物置に行って箒と桶とぼろ布を持って来ると、掃除にとりかかる。叔母夫婦が起きてくる頃には、店内を昨日の開店前と同じ状態にしておきたかった。

昨日は幸い、暴れた客はいなかったようだ。時々椅子を壊したり、壁を傷つけたりする迷惑な輩がいるのだが、今日は店内に破損個所は見当たらない。

目立った汚れは閉店後に叔母夫婦が綺麗にしておくのだが、食べかすや飲みこぼしは必ず毎日残っている。それを放っておくと文句を言って値切ろうとする客がいるし、店内が嫌な臭いに満ちて客足が遠のいてしまう。ここへ来たばかりの夏、叔母が体調を崩して一日掃除が出来ない日があった。それだけで、実際先に挙げたことは起こったのだ。

ミクが床の木板にこびり付いた頑固な油の塊と格闘していると、後ろから「ミク」と声がかかった。しゃがんだまま振り返ると、ミクと同じ焦げ茶色の髪と同色の猫目を持つ姉が目を擦りながらこちらを見ていた。起きがけらしく、背中まで伸びた髪はあっちこっちにうねっている。

「おはよう。今日も早いね」

「…はよ」

「今ご飯温めるから」

 そう言うと、アレナは手にしていた赤い紐でちゃちゃっと髪を適当にまとめ、奥の厨房に消えた。

 しまった。今日は釜戸に火を入れておくのを忘れた。

 姉の後ろ姿を見て気付いたが、もう遅い。自分でやると決めた朝の仕事がこなせなかったことに、下唇を軽く噛んだ。

 厨房を覗くと、気配を感じてアレナが振り返る。

「今日はわたしが火をつけるよ」そう言って、火打ち石を手にした。

 ミクはありがとうともごめんとも言わず、掃除にもどった。その小さな背中を見て、アレナは彼に聞こえないくらいの小さな溜息をついた。

 ミクが自身で納得するまで床を磨いてから掃除用具を片付けていると、へこんだ腹を刺激する良い匂いが鼻先をすり抜けた。朝食はいつも前の日の売れ残りで、昨日は確か定番メニューの一つ、小麦パンと巻芋のシチューだった。ミクの鼻も、それを確信していた。

 ミクは口の中に唾が溜まるのを感じながら、一度店内を通って階段の裏にある小部屋に入り、簡素なベッドの足元に乱雑に置かれた一冊の本と上着を手にとった。本はチュニックの下からズボンに挟むようにして背中に入れ、その上から上着をいそいそと羽織る。起きてすぐに羽織らなかったのは、掃除の最中に汚してしまう恐れがあったからだ。洗濯物が増えた時の姉のがっかりした顔は、あまり見たくない。

 台所に入ると、アレナが椀にシチューを盛り付けたところだった。

「どうぞ」

 促されると同時に、台所の中央にある少し傾いた木のテーブルにつく。椅子も同じように傾いており、右に体重をかけている時はいいのだが、少しでも左にお尻を乗せるとガタンと危険な角度に落ちるため、いつも右寄りに座る癖がついていた。

 テーブルについてすぐにミクは、巻貝のような形をした可愛らしい芋の浮いたシチューをスプーンも使わずに口の中へ何回かに分けて流し込み、呆れて見ていたアレナの手から乾いた小麦パンを一つくすねて口にくわえた。同時に席を立つと「ミク!」とアレナが険しい目を向けた。

 ミクは一瞬パンを口から外した。

「ごちそうさま」

 再びパンを口にねじ込んで、勝手口からするりと抜け出す。後ろから姉のぶつくさ言う声が聞こえた。いつものことだった。

 ミクは井戸を左に回って、店の前の通りに走り出た。

 酒場と宿屋と娼館がひしめくこの辺りは、カロマイの中で一番人通りの多い場所だ。グリア王国の東南、ノンテス河の河口に位置するこの港町は、南に浮かぶマイマイ諸島へ出入りする海船が作られる唯一の港でもあった。首都がマイマイ諸島と本国陸地の出入りを制限しているせいで、限られた商人と漁師、それに国のお役人らしい人間しか船を利用する者はいなかったが、それでも交易の拠点として他の町や村に比べてこの町に人が多いのには違いない。ミクはここよりもずっと人気のなかった生まれ故郷のフォリアを思い出しながら、パンを飲み込んで鼻をひくつかせた。

四つまでしかフォリアで暮らした記憶はなかったが、この港町を通り抜ける潮風の匂いを嗅いでいると、自分の居場所はここではないと強く感じる。フォリアの村の中は常に、干し草と馬の匂いがしていたから。

 軽い砂埃を上げながら朝日に照らされた道を走ると、いっそう潮の匂いが強くなる。視界の端に青く煌めく海面を捉えると立ち止まって呼吸を整え、ゆっくり歩きだした。時々アレナの機嫌が悪いと走って追いかけて来ることがあるのだが、これまでの経験上、港まで出てしまえば深追いしないでいてくれると知っていた。

 ミクは港へ続く通りを見回す。この町で面白いと感じるのは、色んな人間が行き来するということだけだ。

 平坦に続く道の先は、港に向けて緩やかな下り坂になっている。港と町を大雑把に区切る石垣の間を抜ければ、そこはもう船着き場だ。今の時間は釣り船が漁に出てしまっているため、大きな船が一隻停泊しているだけだった。その船の上では、人相の悪い男たちが樽や布袋を担いで行き来していた。冬になればマイマイ諸島への海船の出入りは殆どなくなる。おそらく今泊っているこの船が、今年最後の交易を担っているのだろう。しかしいつも思うのだが、どうして船乗りというのは悪人面が多いのか。

 甲板の上でせわしなく動く、体格の良い男たち。それを遠くから見つめる女がいた。年は二十代前半くらい。地味な服装を見るに、商売女ではなさそうだ。それにその瞳の哀しそうなことといったら…

(恋人でも乗ってるのか)

 ミクには関係のないことだが、ついつい人々の立ち居振る舞いなどからそういった想像をしてしまう。

 路地裏では、おそらく昨日一緒に楽しんだであろう船乗りと商売女が親しげに顔を寄せ合ってクスクスと笑っている。一瞬見ただけだが、男の方は本気で女の方は演技のように思えた。

 道の端で荷造りをしている商人は、仏頂面だ。大きな布袋を肩に担ぐと、港から遠ざかっていく。布の表面をブツブツと変形させているのは、マイマイ諸島特産の豆か芋だろう。どうやら仕入れが納得いくものではなかったらしい。

 ミクは船着き場から少し離れたところにある倉庫群の間へ入りこみ、他人の事情に想像力を使うのをやめた。日の光が遮られた細道を奥に進めば進むほど、古い倉庫になっていく。新しい倉庫は石造りだが古い倉庫は木造りで、倉庫というよりは掘っ建て小屋と呼ぶに相応しい出で立ちだった。

 ミクは日当たりの悪い地面に散らばっている腐りかけた木片や古びたロープをひょいひょいと避けながら石垣の行き止まりまで入り込むと、長年潮の浸食を受けて今にも崩れ落ちそうなぼろぼろの小屋の戸を開いた。

「ばぁちゃん」

 ミクは室内に声をかけてから、若干しなっている木戸を静かに閉めた。

「いらっしゃい、坊」

 ノックもせずに入り込んだ子供を叱るでもなく、高く不安定なしゃがれ声がミクを迎えた。声の主のばぁちゃんは、小さな椅子に腰かけていた。

狭い室内は暗く湿っていて、少しカビ臭い。一つしかない小窓からほとんど日光が入らないためだ。家具と呼べる物は木の空き箱の上に毛布を敷いた寝台と、やっぱり木の空き箱のテーブルに、ばぁちゃんが座る丸椅子だけだ。この寒いのに、釜戸も火桶もない。

 大分昔に漁師だった夫に先立たれたばぁちゃんには子供がなく、他に親戚もいない。昔は繕い物で小銭を稼いでいたそうだが、今は手が利かずにそれも出来ないため、漁師たちからおこぼれをもらう生活だった。カロマイは賑やかな港町だが、木箱のテーブルの上に置かれている何も入っていない木の椀を見ると、ミクはこの町が更に嫌いになった。

「ちょっと待ってて」

 ミクは部屋の片隅に置かれた桶を手にすると、ばぁちゃんの返事を待たずに外へ飛び出した。口元をひん曲げながら石垣をよじ登り、駆けた。一番近くの井戸に着くと、近所のおばちゃんたちがぺちゃくちゃとしゃべりながら、水をのろのろと汲んでいた。

 その大きなお尻の群れを睨みつけると、ミクに気が付いたおばちゃんたちは顔を顰めた。

「あら『海鳴き亭』の…」

「こんな所で水汲みなの?」

 ミクは「倉庫のばぁちゃんの分」とだけぶっきらぼうに言い捨てた。何だか気まずそうな、それでいて不快そうな表情を浮かべたおばちゃんたちは、それでも優先的に水を分けてくれ、ミクは礼も言わずに足早にその場を去った。おばちゃんたちのひそひそ声が背中に礫のように注いだが、無視した。

 石垣を降りる時には水を溢さないよう注意が必要だった。桶を足元に置いて先に自分が飛び降り、慎重に重くなった桶を下に降ろす。

 息を切らして帰って来たミクを、ばぁちゃんは立ち上がって出迎えた。

「冷たい水でごめん」

 自分の朝食を暖かいうちに持って来ることも出来たが、以前それをやったらばぁちゃんは何故かひどく傷ついた顔をしたため、それ以来水汲みくらいしか手伝いはしていない。

「…すまないね」

 ばぁちゃんはしわくちゃの顔を、もっとしわくちゃにした。ミクは目をそらして「別に」と言い捨てる。ばぁちゃんは何故だか小さく笑った。

 桶に入った水を椀ですくってあげると、ばぁちゃんはゆっくりとそれを全部飲みほしてくれた。椀をテーブルに置くと少し胸を押さえ、前屈みになる。

「ばぁちゃん?」

 ミクが顔を覗きこむと、ばぁちゃんは皺に隠れた細い目で微笑んだ。

「何でもないよ。今日も、本を読むかい?」

「うん」

 ミクは頷きながら背中にしまっておいた一冊の本を取り出し、ばぁちゃんの座る低い丸椅子の横に腰を降ろした。

テーブルの上に置いた本の表紙には『季節の精霊たち』との題名が大きく柔らかな筆跡でうねっており、挿絵もついていて子供向けの本であることが窺える。本を開くと中の文字もやはり大きく、目の悪いばぁちゃんでも読めるくらいだ。

 ミクは読み書きが得意ではない。というのも、故郷フォリアでは両親の教育方針で読み書きを教えてくれていたのだが、カロマイに来てからは姉のアレナも叔母夫婦も店が忙しく、ミクに構っている暇などなかったのだ。学校なんてものも首都にしか存在しないし、その子供がどの程度の教育を受けるのかは両親次第というのが、地方の町や村では普通のことだった。大人であっても下っ端船乗りや農夫たちであれば、読み書き計算が出来ないことなど当たり前だ。

それを踏まえれば、馬追いをやっていたミクの両親は珍しい部類と言えるだろう。酒場の子供は計算が出来、宿屋の子供は計算と読み書きも出来る。だがそれは家を継ぐために必要に迫られて学ぶだけなのだ。ミクも簡単な計算なら叔母とアレナに教わっていたが酒場では読み書きは特に必要でないため、今日までうろ覚え程度の能力しかなかった。

 倉庫のばぁちゃんは文字は書かないものの、簡単な文章なら読める。ミクは唯一手元に残った親の形見でもあるこの本の全部を、一人では読めない。だから何度もばぁちゃんに読んでもらうことで、限られた文章ではあるものの読み書きを覚えているのだ。ひねくれ者で友達のいないミクにとって、それは楽しい時間だった。

「…生命を司る精霊は様々な生命を循環させることでもって、世界を満たそうとした。しかしそれには、刻の精霊の力が必要だった」

 ばぁちゃんがゆっくりと読み上げはじめると、ミクはその横っちょの床に座り込みながら、一緒に文面を目で追った。

「刻の精霊は生命の精霊に、季節をつくることを提案した。生命の精霊は誕生の象徴となる、春の精霊を生んだ」

「ばぁちゃん、精霊って本当にいるのか?」

 読みを中断されたばぁちゃんは、穏やかに目を細めた。

「精霊使い様たちがいるからね。精霊だっているさ」

「ばぁちゃんは、精霊使いに会ったことある?」

「おや、坊は知らないのかい?この町にも精霊院の支部があるんだよ。そこに首都から使わされた精霊使い様がいるんだ」

「本当?会ってみたいな」

「そのうち会えるさ」

「繰り師にも?」

「それは……」

 ばぁちゃんは返答に困った。

「精霊がいるなら、刻の精霊もいるだろ?それなら刻喰いも、繰り師もいるよな」

「刻喰いも繰り師も、恐ろしいんだ。あまり口にしちゃいけないよ」

 ミクは小首を傾げる。

「なんで?」

 ばぁちゃんを困らせたくはなかったが、知りたいという欲求はなかなか止められないものだ。

「刻の精霊の暴走からこの国を守っているのが、刻喰いと繰り師なんだろ?姉ちゃんも叔母さんも、全然精霊の話に詳しくなくてさ。オレ、知りたいんだ。本当に結界ってあるの?」

 ばぁちゃんはミクの強く光る猫目を見て、小さな溜息をつく。それから視線を宙にやって、どこか遠くの、違う世界を見るようなぼんやりとした目をした。

「結界は、この国をすっぽりと覆っているんだ。マイマイ諸島の向こう側には、どんな船でも行けないよ。行こうとしても、弾き返されてしまうんだよ」

「それって、精霊使いたちが張った結界なんだろ?」

「そう言われているけどね。昔、刻の精霊が力を暴走させ、その力からこの国を守るために精霊使い様が結界を張ったんだ。だけど、それを恨んだ刻の精霊が、呪いを残していったんだよ」

「呪い」

 ミクは復唱した。呪いの話であれば、両親からも姉からも聞いている。子供たちが言う事を聞かなかい時に『悪い子には刻の精霊の呪いがかかるよ!』とのお決まりの言葉があるのだ。

「呪いって、手や足が持って行かれるってヤツだろ?ばぁちゃんは、呪いにかかった人見た事ある?」

 ミクの質問に、ばぁちゃんは無言で目を伏せてしまった。聞いてはいけないことだっただろうかと、ミクは焦った。

「…その、呪いを治めて回ってるのが、繰り師なんだろ?繰り師が、呪いを食べちゃう刻喰いを連れていて…」

「手足だけでなく、体全部を持って行かれることもある」

「え?」

 ミクは口を半開きにしてばぁちゃんの顔を見上げた。ばぁちゃんの顔には勘の鋭いミクにも読み取れない、のっぺりとした表情があった。

「わたしの夫はね、呪いに連れて行かれたんだよ。仲間の漁師がね、マイマイ諸島のあたりで船ごと消えるのを見てるのさ…もう三十年も前の話だけどね」

 連れて行かれるとは、何処にだろう。ばぁちゃんは細くて掠れた声をだんだんと小さくしていき、終いに本をパタンと閉じた。

「坊、悪いけど今日はここまでだよ」

「…でも、まだはじめの方だ」

「具合がね…あまり良くないんだ」

 ミクはいつも小刻みに震えている枯れた手を見つめ「分かった」と不承不承頷いた。

 立ち上がるばぁちゃんに手を貸しながら、寝床である木箱まで一緒に歩く。ばぁちゃんは確かに疲れた様子で、力なく木箱の上に横になった。上からぼろぼろの綿入れを掛けてあげると、かろうじて聞こえる程度の音量で「ありがとうよ」と言った。

「ばぁちゃん。オレ、夕方にでも何か元気になる食べ物持って来ようか?」

 ミクは遠慮がちに聞いた。また要らないと言われるかもしれないが、何よりばぁちゃんが心配だった。

 ばぁちゃんはミクに背を向けたまま、ヒュゥと息を吸った。

「……坊。もう、ここには来ないでおくれ」

 ミクはゆっくりと言われたことを理解し、まるで心臓を鷲掴みされたかのような胸の痛みを感じた。

「ど、うして?」

 思ったよりも掠れた声がでる。どこかばぁちゃんの声と似ていた。

 霞みのかかったようにぼんやりとした視界の中心でばぁちゃんの背中は動かず、返事もない。それは間違いなく拒絶の意志が汲み取れるものだった。

 ミクはその後どうやって小屋を出たのか覚えていない。ミクの過ごす一日の中でばぁちゃんと本を読むことは、いつの間にか大切な宝物のような時間になっていたのだ。

 細い脚を引き摺るようにして歩く。自分が地面を睨みつけていることに気付いたのは、町外れにあるプミラ林の入り口に着いた時だった。

 冬の初めの今の季節だと葉の落ちた木が目立つものの、木立の間に遠慮がちな日の光が差し込む様子には、この森にも精霊が住んでいると言われてもおかしくないくらいの現実感のない美しさがある。潮に強いプミラの木々は冷たい海風が吹き抜けるのを平然と受け止めており、その凛とした様も見る者の心を揺さぶる理由であると思われた。

 林の奥を見つめながら、ミクはどうしようもなく消えてしまいたいような気持ちに襲われた。赤茶けた太いプミラの木幹に背を預けると、ずるずる地面に座り込む。足元にはツンツンとした太い針金のような深緑色と茶色の混じった落ち葉が敷き詰められていた。

 ミクは手にしていた『季節の精霊たち』の本を開き、そこら辺に落ちていた小枝を拾って、書きとりを始めた。ばぁちゃんのおかげで、初めの方の文字なら殆ど読める。

「は…るの、せいれい、は、じぶんたちの、うんだ、いきもの、を…」

 書きとりと一緒に出て来る声は、最初は震えていたものの、冷えた潮風を頬に受け続けるうちに段々と落ち着いていった。プミラの葉をどけた空間に顔を見せている地面には、自分の下手くそな字が躍っている。それを見つめているうちに、何故だか鼻の奥がツンとした。

 潮風がしゃらしゃらとプミラの葉を揺らす中、薄い木漏れ日と木立の影が折り重なる林の奥から発せられる不自然な気配に気がついた。強い力で硬いものを力任せに捻じ曲げるような、そんな気配だ。

 ミクは顔をあげて林の奥を凝視した。すると、まるで熱い夏の日に見える逃げ水のような歪みが、プミラの枝と枝の間に揺れた気がした。ミクは胸騒ぎがして反射的に立ち上がった。                                               

歪みが浮かんだと思われる方からは一瞬で視線を逸らしていたが、頬や首筋にその気配を確かに感じる。それを見に行こうと思う好奇心よりも、近づいてはならないという本能からの警告の方が勝った。

 ミクは本をたたんで小脇に抱えると、林を振り返ることなく町の方へと踵を返した。


 ミクは半ば上の空で、料理の仕込みを手伝うべく『海鳴き亭』にもどった。

 叔父のブレドが午前中に仕入れを行うと、その日使う分の食材が厨房のテーブルの上に山盛りとなる。それを手分けしてやっつけていくのだ。

 庭で叔母エイカが町の養鶏屋から買った鶏を絞め、血抜きをしている。鶏は血を抜いて羽をむしった先から、厨房のブレドに手渡された。調理を担当するのは主にブレドなのだ。

 見た目によらない夫婦だと、未だにミクは思う。逞しい体つきに厳つい顔のブレドは料理に繊細な味付けをするし、決して体の強くないどこか気弱そうなエイカはこうしててきぱきと鳥を締めていく。ミクとアレナが勤しむのは主に、野菜の皮むきやパン作りだ。

 厨房で下準備をしているとブレドの邪魔になるので、ミクとアレナは暴れる鶏を難なく押さえつけるエイカの横で今日のスープに使う根菜類の処理をしていた。ミクが皮を剥いて水につけた裸の野菜を、アレナが適当な大きさに切っていく。

「字は大分覚えた?」アレナが小さな包丁を手に聞いた。

「まだ、あの本の文字がだいたい分かるくらい」

「そっか。まだあの港のおばぁちゃんに教わってるの?」

「…うん」

 もう来るなと言われてしまったけれど。

 アレナは両親から簡単な文章までなら教えこまれていたが、それをミクに教えることはなかった。

今の生活に文字が必要ないというのと、店の手伝いをする以外は洗濯をしたり服を作ったりと忙しいせいだ。そのことについてミクに少し申し訳ないと思っているようだったが、同時にミクの勉強が趣味のようなものだと思っている節があった。実際に今の生活に必要のないものなのでそう受け取られても仕方がないのだが、ミクにしてみれば両親の方針に逆らうような気がしてどうも釈然としない。しかしお世話になっている叔母夫婦を出来るだけ助けたいと思っているアレナの気持ちも分かるため、それを責めるようなことはしなかった。

「あんた、年の近い友達とかいないの?」

 大きなお世話なのだが、アレナは時々こうしてミクに干渉してくる。

「いない」

 きっぱり言うと、小さな溜息が聞こえた。自分の弟に年の近い友達がいないことは、アレナにとって落ち込むことらしい。

「いないと駄目?」

 聞いてみると、アレナはミクの方を見もせずに「駄目ってことはないけど…」と歯切れ悪く言った。

「あんた酒場で働いてるんだから、もう少し愛想良くしなさいよ。今はまだいいけど、大きくなってもその仏頂面じゃ、売り上げに関わるんだから」

 大きくなってもこの酒場で働いているんだろうか。ミクには想像がつかない。

「そしたら、出て行くからいいよ」

 思ったことを正直に言うと、アレナの頬に垂れた髪の間から覗く口元が引き攣って見えた。

「…あんたって、どうしてそう……」

 続きは言わずにアレナはもう一度、今度は大きめの溜息をついた。

 二人は仲が悪いというわけではなかったが、あまり意見が合うということがない。別の人間だから当然なのだけれど、こうして並んで座っていても今のように会話は弾むことなく終わる。故郷のフォリア村に居た頃はもう少しマシな関係だったような気もするが、今更そんな前のことを持ち出しても仕方がない。

 ミクが黙々と芋の皮を剥いていると、エイカが調理の手伝いに入ることを告げて厨房へ消えた。しばらくしてアレナの手が止まったので、自分の皮剥きの速度が遅かったせいで彼女の仕事に追いつかれてしまったかと焦ったが、顔を上げるとそうではないことが一瞬で分かった。

片手に包丁、片手に芋を持ち、顔を強張らせている姉が目に入る。

「アレナ!」

 庭先には害虫がいた。本物の虫と違って言葉を話すが。

「邪魔をしてすまない。でも、君に会いたかったんだ」

 やや前傾姿勢でそう訴えた小太りの男は、隣町の町長の息子だ。今年の夏に一度この港町に遊びに来て以来アレナを気に入ったらしく、時折こうしてちょっかいを出しに来る。

「く、クレントさん…」

「その呼び方は堅苦しいから、ティゲンと呼んでくれよ」

 大げさなアクションで腕を振る男に、ミクは冷ややかな視線を投げた。だがこういった類の男には、ミクの眼力攻撃は通用しない。何が根拠か知らないが、自分に自信がたっぷりとあるから、他人に軽蔑されることなど想像もしていないのだ。

「クレントさん、何か御用ですか」

 アレナの方はさすがに露骨な嫌悪を表したりしないものの、その声は硬い。

「君に贈り物があるんだ。どうしても、今日渡したくて…」

 小太りの体を金糸の刺繍が入ったコートに押し込めている男は、警戒心からやたらと背筋を伸ばしているアレナの前まで来て、小さな箱を突き出し開けて見せた。

 箱の中身は赤い宝石のついたネックレスだ。

「あの…困ります。受け取れません」

 アレナが断ると、男は理解できないという風に、やはり大げさに首を振った。

「どうして?君に似合うと思って、君の為だけに選んで来たんだ。受け取って貰わないと困るよ」

 困っているのはどう見てもアレナの方だったが、男はかまわず笑顔でアレナに迫る。アレナはやや身を引いた。その時、男の横顔にぴちゃんと水が飛ぶ。

「あ、すみません」

 しれっとミクが言った。皮を剥いたばかりの芋を、わざと乱暴に水の中に投げ入れたのだ。もちろん、男に水が跳ねることを承知の上だ。男は顔の水を指で拭きとり、泥まじりの水に濡れたそれを見て瞳に怒りを宿した。

「何をするんだ!相変わらず失礼な子供だ!」

 他のアレナのファンは、ミクにこんなことは言わない。彼女の身内を悪く言って、彼女に嫌われたくないと思うからだ。だがこの男は違う。基本的に自分のことにしか頭が回らないのだ。

「すみません」もう一度言って、ミクは男を睨んだ。

ちなみにミクの睨みをきかせた時の目つきの悪さといったら、そこいらの下手なチンピラよりも迫力がある。体が小さいせいで威力は半減しているものの、普段人と対立することもなく暮らしている臆病者一人脅かすくらいの力はあった。

 少し後ずさった男は、子供に臆したきまりの悪さを隠すようにべらべらと話し始めた。

「…君の弟といったら、本当に可愛げがないね!ほんの少しでいいから、君を見習うべきだよ!とにかく、僕は君にこの贈り物をもらって欲しいんだ!このネックレスは僕の気持ちそのものなんだよ」

 だったら、尚更いらない。そんな突っ込みを心の中でしながら、ミクは皮剥き作業に戻った。

「えっと、でもこんな高価なもの、私にはもったいないです」

 アレナは控えめに言う。ミクを叱る時には容赦がないくせに、どうして他の人間には毅然とした態度がとれないのか。

「君がこのネックレスの価値に値しないはずないだろう!」

「クレントさんは私を買い被ってます」

「そんなことはないよ!アレナ、何度も言うようだけど、一度僕の家に遊びに来ないか?この酒場に出てくる料理なんかよりもずっと豪華なものを食べさせてあげる。君が望むなら、ネックレスだけでなく指輪も用意させるよ」

「あ、あの…」

「僕は君に何でもしてあげたいんだ。分かってくれるよね…」

 にじり寄る男に、のけ反るアレナ。男の鼻息がかかりそうな距離だ。

ミクは無言で厨房に引っ込んだ。男の笑みを含んだ視線と、姉の非難がこもった視線を感じたが、かまわない。すぐに戻ってくると、手にしていた桶を男の足元にひっくり返した。

 びちゃびちゃびちゃッ

 赤い塊と液体が飛び散り、生臭い空気が庭に広がった。その原因が地面に撒かれた臓物であることを男が認識するのに、少し時間を要した。

「すみません」

 一応、先に謝っておく。内臓の海の中に混じる幾つかの鳥の頭が、ころんと転げた。

「な…な、」

 現状を把握出来た後でも、それに見合った言葉が出てこない様子だ。

「内臓は肥料になるんです」

 そんなことを男が聞きたがっているわけもなかったが、ミクは続けた。

「もう少し撒きたいので、どいてもらえますか。服が汚れても弁償出来ない」

 淡々と言って、桶の中の残りの臓物を彼に向かってかけるふりをする。反射的に体を引いた隙を狙って「姉ちゃん」と姉に声をかける。

「仕事が進まない。開店に間に合わなくなる」

 ミクのしかめっ面に少しだけ傷ついたような顔をしたアレナは、遅れて怒りの湧いてきたらしい赤い顔の男を上目使いに見た。

「クレントさん、弟は少し雑なんです。申し訳ありません。ですが、今は店の準備に大事な時間なので、お帰り頂けますか?」

 丁寧だがきっぱりとした対応だ。しかし男は尚も食い下がった。

「だ、だが、これを受け取ってもらうだけなんだぞ!」

 ミクは桶をその場に転がし、男の手にする箱を奪い取った。

「な…ッ」

 目を白黒させる男の前でわざと大きな音を出しながら箱の蓋を閉じてやると、無言で男のズボンのポケットにそれを捻じ込んだ。そしてそのままアレナの横にどすんと腰掛け、再び皮剥きの作業に戻る。

「何のつもりだ!お前~…」

 男がミクに掴みかかろうとしたところに、アレナが止めに入った。

「すみません、すみません!クレントさん、どうか…」

 しかし折角の仲裁も、ミクの「早く帰れば?」の一言で台無しになってしまう。

 男はアレナを押しのけ、ミクの胸ぐらを掴み上げた。そして次の瞬間、小さな体を地面に叩き落とす。

「無礼にもほどがあるぞ!アレナの弟だと思って甘く見ていれば…ッ」

 更に蹴りが飛んで来たので、ミクはその足を掴んだ。すると男は簡単に体勢を崩して尻もちをつく。ミクは立ち上がり、目線の高さが先程と逆になった。

 男は細く小さい子供を見上げ、目を見開いた。羞恥と怒りで最早顔は赤黒い。

 ミクは男から視線を逸らすと、やはりそのまま定位置にもどり、皮剥き作業に戻った。

「本当に分からないの?」

「は…ッ?」

「自分が迷惑かけてるって」

「なにィ…」

「クレントさん!」

 再度攻撃体勢になった男に、アレナの強い声がかかった。責めるような視線で眉を顰めた彼女を見て男はばつの悪そうな顔になり、何やらこちらまで聞こえてこない声でもごもごと口の中で呟くと、足早にその場を立ち去った。

 静かになって良かった。ミクが安心していると、横からアレナの視線を感じる。

「…ミク」

 怒りと哀しみが混じる視線だ。そして、こちらを責めている。

「なに」

「もし、あの人がこの店を潰そうとしたらどうするの?もし、怖い人たちを連れて来たらどうするの?」

 言っていることは分かる。でも、だったらミクが行動する前に自分で何とかすればいいではないか。ミクは苛立ったので、そのままそれを伝えた。

「そう思うなら、自分で何とかすれば」

 姉は下唇を噛み締めた。その表情を見て自分の言ったことを少し後悔したが、こちらの方が正しいと思っていたので、撤回はしない。

 二人は野菜に八つ当たりをするような力のこもった動きで、会話もなく作業を続けた。ミクはその後で庭先に広げた鳥の臓物を一人で掃除する羽目になり(しかもブレドには怒られ、エイカには哀しそうな目をされた)、それを手伝う気のないアレナを少し恨んだ。

 夕方の開店と同時に『海鳴き亭』は忙しくなる。仕事を終えた造船場の男たちが一気に傾れ込むからだ。

 ミクは主に、テーブルの間をちょこちょこ動き回って客の注文をとっては料理の皿を運ぶ役目を担っている。メニューが限られているので、注文を忘れるというミスは少ない。

姉のアレナは麦酒の入った瓶を持って、客席に注いで回る。ちなみにこの時お尻を触る者がいた場合、別料金を請求するという決まりごとが自然に発生していた。言いだしたのはアレナのファンの常連客たちで、余所者がけしからん真似をした場合にはそうやって脅しをかけ、金をふんだくる寸法だ。(金は店ではなく、脅しとった男たちの懐へちゃっかり入る)

 酔っぱらいというのは、無様だ。いつもミクは冷めた目で店内と厨房を往復していた。どいつもこいつもヘラヘラと絞まりのない顔をして、ろくでもない話に花を咲かせては姉や客引きに来た商売女たちにちょっかいをかけている。

 ミクが大忙しとなるのは、夕飯時から男たちに酔いが回り始める時間までだ。はじめは叔母が料理運びを手伝ってくれるのだが、そのうち料理が追いつかなくなるので叔母も厨房に引っ込んでしまう。

時折酔った男たちに頭を掻きまわされたり酒をかけられたりして邪魔をされ、怒鳴り散らしたい気持ちを押さえながら、ミクは何とかピークを乗り切った。皆腹が満たされれば、後の楽しみは酒と煙草だ。出番はアレナが中心となる。

「ミク」

 エイカが手招きをするので厨房に入ると、目尻の皺を少し深めて「ご飯食べちゃいなさい」と言った。同時に椀に入ったスパイスチキンをブルドが無言で差し出す。ごつい指先から椀を受け取り、手づかみでそれを頬張った。

「パンもあるぞ」

 逞しい背中から太い声が降って来て、ミクはテーブルの上のパンに視線を移す。

「今日もお疲れ様。あとは適当に休むんだよ」

 叔父の筋肉質な背中を見た後だと更に線の細く見える叔母の控えめな笑顔を見て、ミクは頷いた。叔母のエイカは優しい人だが、どこかミクに余所余所しい。姉のアレナとは実の親子のように仲が良いのだが、おそらく子供らしくない無愛想なミクをどう扱えば良いのか分からないのだろう。一方叔父のブレドは、こちらに何の関心もないようだった。出来たての食事を提供してくれるということは、嫌われてはいないのだろうが。

 ミクは一気にチキンとパンを平らげると、チキンの入っていた椀に水を注いで喉に通し、食器の重なる水場に用済みのそれを放り込んだ。

叔母夫婦の背中に「ごちそうさま」と小さな声をかけ、ミクは店内にもどった。背後で何か物言いたげな視線を感じたが、振り返ったところで何の意味もない気がした。

 ミクはいつも姉のアレナが仕事を終えるまで、大抵店内の片隅でまどろんでいる。客が少なくなるにつれ、時折本気で姉にちょっかいをかけてくる奴がいるのだ。そんな時にミクが店内にいると、アレナは「弟を寝かしつけないといけないから」とか「弟に夕飯を食べさせないといけないから」などと、自分を口実にして誘いを断ることがあった。眠くなるまでの間、そういった事態に備えて待機しているのも別に苦ではない。ミクは酒臭く煩いこの空間が好きではないが、たまに面白い情報が耳に入って来ることもあるので、退屈もしない。

 店内の厨房側の壁にはややお粗末な棚があり、そこにはカップがまばらに伏せてある。その下には麦酒の樽や簡易ゴミ箱が置いてあるのだが、食器棚を守るようにして佇むカウンターテーブルのおかげでその存在は客の目に触れることが殆どない。時折アレナやエイカが酒の補充に訪れる以外に近寄る者が少ないこのカウンター席の端っこが、ミクが自分で勝手に決めた特等席だ。

 ミクはカウンター席の壁際で足をぷらぷらさせ、親指を唇に当てながら何となくぼんやりと店内を見回していた。昼間にばぁちゃんから言われたことをまだ気に病んでいたが、そこから注意を逸らすような話が後ろの席から舞い込んできた。

「呪いが出たってよ」

「またまた」

「いや、ほんと。プミラ林の奥で歪みを見た奴がいるんだよ。幸い五体満足で帰って来たらしいけどな」

「精霊院支部には連絡してあんのか?」

「その歪みを見た奴が駆け込んだってよ。そろそろ繰り師が刻喰い連れてやってくるんじゃねぇか」

 男たちの低い声に耳をすませていると、横から元気の良い声が「何のお話ですか?」と割り込んだ。

「おう!アレナちゃん。もう一杯くれや」

「はい!」

 そちらを見ずとも目に浮かぶ満面の笑みで、アレナは男たちのカップに麦酒を注いだ。

「アレナちゃんは呪いの話、知ってるか?」

 アレナはきょとんとして見せた。して見せただけだ。隙のある対応の方が、男が喜ぶと知っているのだ。もうすっかり名実共に酒場の看板娘である。

「呪いって…刻の精霊の呪いですか?」

「おうよ。この町にもついに現れたってさ。歪みが」男はそう言うと、さっき連れの男に話したのと同じ内容を倍は誇張して得意げに話してみせた。

「アレナちゃんは繰り師って見たことあるか?」

 アレナは後ろで括ってある長い髪を揺らして首を横に振った。

「一応刻喰いってのも、精霊の部類に入るらしいからな。繰り師も精霊使いには違いないらしいぜ」

「刻喰いを連れているかいないかだけの違いですか?」

「聞いた話によれば、繰り師は精霊を支配する精霊使いと違って、刻喰いと魂で繋がってるらしいぞ」

「魂が繋がるなんて、ゾッとするよな」

「繰り師って、どんな人なんでしょうね」アレナが無邪気に言い残し他の客の声に応えてその場を去ると、男たちはすぐに話題を変えた。

「アレナちゃんは本当に可愛いよなぁ。明るくて良い娘だし」

「器量良しってのは、ああいう娘のことをいうんだろうな」

「あぁ。嫁に来てもらいたいね」

「お前じゃ無理だ。やめとけ、やめとけ」

 勝手なことをのたまう男たちの会話は、もう聞くのも馬鹿馬鹿しい内容になってきたので、ミクは耳から注意を外した。

 エイカが厨房から顔を覗かせ、アレナを呼んだ。今度はアレナが夕食をとる番なのだろう。麦酒の瓶を叔母に渡したアレナは「疲れてない?叔母さん」と気遣った。その言葉にエイカは嬉しそうに破顔して、大丈夫と答えた。ああいった台詞が自然に出て来るのであれば、きっとミクも叔母から寂しそうな視線を受けなくてすむだろうに。頬杖をつきながらそんなことを考えていると、店の戸が静かに開いて冷たい風が入りこんだので、ブルッと身を震わせた。

戸口の前には外から入って来た人影がある。飲み始めるには少し遅い時間で、もう店内には常連客しか残っていないのだが、これから夕食を頼む客の可能性もある。ミクは疲れた体をカウンターから起こして、煙草の煙の充満する白っぽい空気の向こう側に目をやった。

「どうも今晩は」

 何だか間の抜けた男の声が響き、少しだけ店内がそちらに注目して静かになった。

 中肉中背の男は妙によたよたした足どりでミクの座るカウンター席の左隣に腰かけると、人の良さそうな顔に困ったような笑みを浮かべ、厨房に向かって声をかけた。

「すみませ~ん。何か食べ物もらえますか?」

 どうやら自分の出番のようだ。ミクは男の横顔を見ながら「今日のメニューはスパイスチキンと豆スープと玉ねぎパン。全部食べる?」と聞いた。

 男は思いもよらないところからあがった声に驚いてこちらを見た。

「あれ?えっと…」

 困惑を読んで「オレここの酒場の子供」と無愛想に言い放った。それを聞いた男は不快そうな顔をするでもなくふにゃりと笑った。

「そうなんだ。じゃあ、全部頼むよ~」

 ミクは内心、なんだこの気の抜ける奴はと思ったが顔には出さず「了解」と短く応えて椅子から飛び降りた。

「麦酒もいる?」

「あ、お願い」

 厨房に顔を出し新客の来訪と注文を伝えると、ブルドは無言で用意を始めた。アレナはチキンを口に頬張りながら「この時間に?」と目をぱちくりさせた。

 ミクがカウンターでカップに麦酒を注いでやってから厨房に戻ると、その間にブルドが底の浅い二つの椀の中にスープとチキンを盛り付けていた。ミクはチキンの椀の方に小さな玉ねぎパンを二つ捻じ込むと、テーブルの上に放置しておいた盆の上に乗せて男の元へ運んだ。

「はい」愛想なしの接客だったが、男は食事を見て幸せそうに笑った。

「ありがとう!助かるよ。朝から何も食べてないんだ。強行軍だったからさ」

 何が強行軍だったのか、なんて、ミクは聞かない。会話の糸口というものに無頓着なのだ。

 男はミクの無関心を気にかけもせず、夢中で食事を貪った。とはいえ決して下品な食べ方ではなく、船乗りたちのような粗野さは感じられない。ミクがぼぉっとその食べっぷりを見ていると男は視線をよこし、目を細めて笑った。何だかそれだけで子供扱いされたような気がして、反射的にそっぽを向く。

 ミクがカウンター席に座りなおしてほどなく、男は綺麗に完食していた。

「いい食べっぷりね。麦酒をもう一杯どう?」

 エイカが瓶を掲げて見せると、男は「お願いします」と爽やかに笑った。

 ミクが厨房に食器を片づけようとすると、男はまたしても「ありがとう」と笑いかけた。ミクは全身がぞわぞわした。

厨房からもどる途中で、ふと違和感に思い当る。エイカと談笑する男の顔を凝視していると、いつもの勘が働いた。

 朝「いつもと違う日になる」気がしたのは、きっとこの男のことだ。

 ミクは男を観察した。

 年は二十歳前後くらいか。金髪に優しげなダークグレイの瞳で、その顔つきも穏やかだ。人好きのする笑顔に、相手の警戒心を解いてしまう語り口調。羽織っている黒いコートは薄汚れているものの、生地が厚くて高そうに思えた。瞳と同じ色のズボンを黒い頑丈そうなブーツに詰め込んでおり、そのブーツもやはり土で汚れてはいるものの、高そうだった。背中に背負ったままの大きな煤けた荷物は、彼が遠くから来たことを物語る。

 ミクの視線に気づいた男はちょいちょいとこちらに手招きをしながら、同時に脇で控えていたエイカに「この辺りで呪いっぽい現象はありますか?」と聞いた。とても自然に出て来た言葉だったが、一般の人間にとって呪いという単語はあまり自然に出るような類のものではない。

 エイカはポカンとして男の顔を見返し、それから苦笑した。

「いやだ、お客さん。からかっているのね」

男は笑顔を引っ込め、首を傾げた。

「あ、あれ?ここカロマイですよね?」

 何をすっとボケたことを。エイカの表情に困惑を見てとり、ミクは半眼で男を見上げた。

「ここはカロマイだよ。呪いのことなら、後ろのおじさんたちに聞いた方が早い」

 男は少しびっくりしたようにミクを見てからまた「ありがとう」とあの爽やかな笑みをくれた。教えなければ良かったと、一瞬思った。

 もう殆ど泥酔状態にある男たちの話がどこまで信頼出来るものかは分からないが、男は真剣に彼らに声をかけ、ミクは呆れ半分に聞き耳をたてた。

「すみません、呪いについて聞きたいんですけど…」

「呪い?プミラ林に出たってよぉ」

「プミラの林はどこにありますか?」

「でもレッグの奴が言うことだから、どこまで本当か妖しいぜ?」

「あの…プミラの林は、どこに…」

 泥酔した男たちとの意思疎通に四苦八苦している男に、ミクは冷ややかな視線を送る。

(変なやつ)

 きっとこの第一印象はこの先変わらないだろうと思った。

「叔母さ~ん。夕食いただきました。私代わるね」

 深夜に関わらずアレナが元気に厨房から戻って来た時、振り返った男とアレナの視線が合った。その瞬間、ミクは今まで感じたことのない、何か決定的なものを目撃したという確信が胸の中で生まれた。それも、やや不愉快な。

 アレナは猫目を軽く見開いて、少し頬を紅潮させた。その視線を追って男の方を見ると、こちらも頬を赤くしてぼぉっとしている。麦酒二杯しか飲んでないくせに、もう出来上がっているような顔色だ。

 金縛りにあったかのように動かない黒いコートの背中に、男たちが絡んだ。

「どうしたんだ?」

「アレナちゃんに見惚れてんのか?」

 茶化した男たちも彼の顔を覗きこんだ瞬間、その言葉が事実であることに気が付いた。

「おいおい…」

 問題は、アレナの側も彼と同じような有様であることだ。ただじっと見つめ合う二人の邪魔に入ったのは、男の脛に入ったミクの軽い蹴りだった。

「…っ」

 小さく体を跳ねた男の様子に我に返ったアレナが「ミク!」と非難の声と共に、弟を睨みつける。ミクはそれを無視して男に幾らか攻撃的な眼差しを向けた。

「名前は?」

「え…あ、タキセ…です」

 名前を聞いたアレナは胸の前で意味もなく手を重ね合わせながら、ミクを叱ることに意識を移した。

「どうしてあんたはいつもそうなの!人を蹴ったりしちゃ駄目でしょう!」

 赤くなったままの頬を見れば、照れ隠しに言っていることは明白だった。ミクは子供っぽくない動作で肩を竦めて見せた。

「タキセさん。これ、オレの姉ちゃん。アレナ」

「これって、あんた…」

「アレナさん…」

「い、いやだ…呼び捨てでいいんですよ」アレナは上気した頬を両手で包みこんだ。

 見ているこちらの方が恥ずかしくなるやりとりだ。

 面白くないのは、周りの男たちも一緒だった。これ見よがしに咳払いをしたり、アレナに酒のおかわりを要求したりと忙しい。タキセと同じテーブルについている男が、彼の腕を肘で小突いた。

「おい、兄ちゃん。お前余所もんだろ?何しにここに来たんだよ」

 先程の気安い様子から一変、男の態度は今にも胸ぐらを掴みかねないくらいに険呑だ。

「えっと、何しにって…呪いを解きに来たんです」

 タキセの返答に、周囲は残らずポカンと口を半開きにした。

「あ、言い忘れてましたけど…俺繰り師です。精霊院から呪いをどうにかするように言われて派遣されました」

 驚愕、懐疑、嘲笑、再び懐疑の順番で店内に大きな思考がうねり、ミクは少し気持ち悪くなった。だがそれ以上にタキセの言ったことに興味を抱く。

「本当に繰り師?」

 タキセはミクに笑顔をおとす。

「そうだよ。正式になってからまだ日は浅いけどね。一人で呪いの処置にあたるのは、これが初めてなんだ」少し照れくさそうに、でも誇らしげにタキセは言う。

「じゃあ、刻喰いは?一緒なんだろ?」男の一人が聞いた。

「今は町を見て回ってるんです。あいつ、人が飲み食いするのを見るのが、あんまり好きじゃないから」

 精霊に好き嫌いをはっきり言うような感情があるのか。ミクは驚きながら質問しようとしたが、男たちの声の波に負けてしまった。

「噂は本当だったんだな!プミラ林に、呪いはあるんだ!」

「しかし本当に繰り師が来るなんてなぁ…」

「兄ちゃん本当か?初めて見たぜ!」

 一つのテーブルに、わっと店内中の人が集まる。厨房からも騒ぎを聞き付けたエイカとブルドが顔を覗かせた。そんな中アレナの顔を見上げると、その表情にははっきりと寂しさが窺えた。ミクは親指を唇に当てて少し考えると、アレナの赤いエプロンをつんつんと引いた。

「話したいなら明日にすれば」いつものようにぶっきらぼうに言う。

 アレナは一瞬その顔を羞恥に染めたかと思うと、次に苛立ちを浮かべた。

「あ、あんたね…」

「邪魔になるだろ」

「じゃ…」

 言いかけて、苛立ちだっていると思われた表情が今度は泣きそうに崩れる。

「どうしてそう……優しさってもんを持ちなさいよッ」

 言い放って、サッと踵を返した。厨房へ駆け込むその姿を半ば茫然と見送る。

(優しさ?)

 今タキセを男たちから解放するのは難しいし、アレナだって仕事中だ。寂しげな顔で佇むよりも明日改めて話した方が良いと思っただけなのだが、それは優しさではないらしい。では、何が正しい優しさなのだろう。

 厨房を見つめるミクの背に、物言いたげな視線がかかる。ゆっくり振り返ると、男たちの中心にいるタキセと目が合った。タキセはアレナの入った厨房ではなく、ミクを見ていた。その瞳には、これまでミクが見たことのない、穏やかだが切ない光があった。何故だか妙に落ち着かない気分になり、ミクはやや大げさな動きで視線を逸らして、とっとと寝てしまうことにした。


 翌朝は珍しく海から朝靄が発生し、外の景色をいつもより幻想的に見せていた。

 ミクは勝手口を開けたとたんに白い靄が侵入したのが面白く、少しその場で腕を大きく掻き混ぜて遊んだ。それから今日はきちんと釜戸に火をつけて、次に水汲み、そして店内の掃除と順序良く行う。アレナが起きて来た物音には気付いていたが、昨日の彼女の捨て台詞が気になって自分から声はかけなかった。

 粗方掃除が終わって用具を物置に突っ込んでいると、勝手口のあたりで話し声がした。この時間に起きるのは自分とアレナしかいないし、こんなに朝早くに世間話をしにくる住民もいない。何となく足音を忍ばせて近寄ると、煤けた黒いコートが目に入った。

(アイツ…)

 昨日の繰り師を自称する男、タキセだった。白い靄に囲まれながら、アレナと声を弾ませて会話をしている。昨日遅くまで飲んでいただろうに、こんな朝早くからアレナに会いに来るとは余程彼女を気に入ったのだろう。

「本当に繰り師なの?私初めて会った」

「あんまり数が多くないから、無理もないよ」

「プミラ林に呪いが出たって、本当なの?」

「この町の精霊使いが調べてくれた話によると、本当らしい。これから調べに行くつもりなんだ」

「危なくないの?」

「繰り師だからね。大丈夫だよ」心配そうなアレナの声に、穏やかな口調が重なる。ミクは(格好つけ野郎)と心の中で毒ついた。

「それと、君の弟…」

「ミクのこと?」

 心臓が跳ね上がった。アレナの硬い声からして、未だに昨日のことを引き摺っているようだった。ミクの方も気にしているので、お互い様だ。根に持つのは血筋なのか。

「ミクは、どんな子?」

 なんでそんなことを聞くのだろう。ミクは居た堪れない思いで、そのまま聞き耳をたてる。

「ミクは…そうね、いつも何を考えているのか、よく分からないの」

 声が低くなり、悲しそうな様子が伝わる。色んな人に言われてきたことだ。アレナにも、何度となく言われたこと。それなのに、どうして今だけこんなに息が詰まるほど苦しい思いを感じるのだろう。

「何を考えているのか分からない?」

「そう。やっていることは普通の子供と変わらない気もするんだけど、目つきとか言う事とか…変に大人びていて、たまに怖いの。叔母さんもそう言ってた」

 アレナの言葉は、熱い鉛となってミクの胃にねじ込まれた。お腹が、重い。

「時々、私や叔母さんのことを嫌いなんじゃないかって思うの」

 ミクは無意識に握りしめていた両方の拳から、だらりと力を抜いた。

「会ったばかりの人にこんなこと言うなんて…ごめんなさいね。何だかあなた、話しやすくって」

「いや、いいんだよ」

 ミクは静かに踵を返した。もうこれ以上彼らの会話を聞く気は起きず、霧の先に見つけた物置の横に生える雑草を意識的に踏み潰した。

 朝ご飯はまだ食べていなかったので、腹がぐうぐうと限界を知らせている。だがアレナの暖めたご飯を食べに行くことは、惨めな気がして出来なかった。そもそも、店で掃除をしていたはずのミクに会話が聞かれることは予想していなかったのだろうか。それとも、

(聞かれても、構わないと思ったのか)

 アレナはミクが彼女たちを嫌っていると疑っていたが、彼女の方がミクを嫌っているのではないだろうか。ミクは喉がぎゅうと押しつぶされそうな感じがした。泣きたい気分だったが、不思議と涙は出てこなかった。

 ミクは大通りをとぼとぼと歩いた。朝日の町を照らす範囲が広がるほどに、周囲でふわふわ漂っていた靄がまるで逃げるように薄くなっていく。気温の上昇とともに、靄は消えてしまうのだ。

どこへ行こうと考えた時に、頭の中でばぁちゃんの優しい顔が浮かんだが、もう家には来るなと言われたことは忘れようもなくミクの胸の内に刻み込まれていた。

 自然と足は町外れへと向かい、プミラ林の入り口に引き寄せられるようにして佇んだ。村から街道に出て行く行商人が、ミクの影に気付いて一瞬だけこちらに注意を向けたが、すぐに急ぎ足で通り過ぎた。

(…もし)

 もし昨日見た歪みが呪いであるなら、その中に身を投げてみるとどうなるのだろう。そんな考えが湧いてきた。

 アレナの言葉は、自分への拒絶だ。あの家ではきっと自分は不快の種で、ばぁちゃんからも見放されて…要は、ミクは誰にも必要とされない存在なのだ。

(呪いの中に入ったら、どこに行くんだ?ばぁちゃんの旦那は、どこに消えたんだろう)

 ここ以外なら、どこに消えてもいい。死んだっていい。でも死体を晒すよりは、綺麗さっぱりどこかへ行ってしまう方が良いと思った。アレナはあんな事を言っていても、自分の死体を見たらショックを受けるだろう。そういう人なのだ。ミクの死というより、身内の死という事実を嘆くに違いない。

 ミクが覚悟を決めてプミラ林に踏み込むと、やはり昨日と同じように林の奥で逃げ水のような歪みがゆらゆらと揺れているのが目に入った。あそこに真っ直ぐに突っ込んでいけばいいのだろうか。手や足を半端に持って行かれるのは嫌だから、一気に行った方が良いだろう。

 ミクは歪みに対する本能的な恐怖を何とか無視して、地面を蹴り助走に入った。

 歪みはどんどん近付く。あと少し。もう目の前…

 ぐん!

 突然襟首が後ろに引かれ、首が絞まった。そして次の瞬間、背中から後ろの地面に叩きつけられる。

「…ぅッ」

 目を瞑って呻いたミクの体に、圧し掛かるものがある。

「……え?」

 目を開けると、黒い毛がふわふわと風に揺れていた。

 その動物は前足の片方でミクの腹を踏みつけていた。

「な、なに」思ったよりも動物には重みがなく、腹に圧がかかっているにも関わらずすんなりと声が出た。

(死ぬ気か)

「え?」

 頭の中に声が響いた。ミクは周りを見回したが、自分と自分の上に乗る動物以外の生き物は目に入らない。

いつの間にか靄が完全に消えているプミラ林の枝の間から差し込む朝日がまともに顔にあたって、眩しい。目を細めたミクに、黒い動物は鼻面を近づけた。

(死ぬ気かって聞いてンだよ)

 乱暴な口調が、やっぱり頭の中に響く。男の声だ。ミクは冷静に考えた結果、目の前の黒い動物に話しかけることにした。

「今話したの、お前?」

(俺以外に他いねェだろうよ、チビ)

 チビは本当のことなのだがムッとして、ミクは動物の脚を跳ね返す勢いで懸命に起き上がった。動物はあっさりミクの上から退いて、こちらを覗きこんだ。

「……犬?」

 黒いふさふさの長毛に覆われた動物は鼻が長く耳はピンと立っていて、大きな口からはだらりと赤い舌を垂らしていた。長い尻尾は胴体よりも更にふさふさの毛を纏っており、思わず枕にしたいという欲求を掻き立てる。その体はミクの三倍くらいありそうなかなりの大きさだが、サイズを無視すれば姿形は犬に見えた。しかもその首周りにはじゃらじゃらとした首飾りが巡らされ、黒光りする石か宝石(ミクには判別がつかない)が我も我もと主張している。犬のくせに。

 犬は知性の宿る黒い目を不快そうに細め、鼻の頭に皺を寄せた。

(どこが犬に見えンだよ!どう見ても狼だろォが)

「……狼見たことない」

 犬、いや自称狼は少し首を傾げた後(まァ、それじゃ仕方ねェか)とあっさり納得した。

(ところでよォ、チビ。おめェあれが何か分かって突っ込もうとしたのかよ?)

 黒い狼?は景色の歪んだ空間を顎でしゃくって見せた。

「あぁ…うん。呪いだろ?」

(…おめェ…ありゃ、触った途端に体が消えっちまうンだぜ?)

「あ、やっぱりそうなのか」

頭に声は響いてくるが狼の口は動かないので、どうやってしゃべってるんだろう、などと暢気に考えながら適当に返した。

 狼は舌を口の中にしまって、低く唸った。今度は頭ではなく耳に響いてくる音で、迫力がある。

もしかして、食べられてしまうのだろうか。少し恐怖が湧いた。痛いのは嫌だ。

「オレを食べる?」試しに聞いてみた。

(食うかボケ!)

 すぐさま返ってきた答えに、きょとんとする。

「…なんだ」

(なんだとはなんだ!ちょっとがっかりしてンじゃねェよ!)

 やたらと威勢の良い狼だ。

 話す動物というのは珍しいが、特にそれを追求するくらいの興味は湧いてこない。どうやらミクが歪みに飛びこむのを放置はしてくれないようだし、食べるわけでもなさそうだ。となれば、用はない。

「……じゃあ」

 狼がいなくなったのを見計らって、また来ればいい。そう思って立ち上がると、チュニックの裾をおもむろに引かれ、その場に尻もちをつく。

「痛って…」

(なァにさらっと帰ろうとしてンだよ!まだ話は終わってねェ!)

「終わってないの?」

(ねェよ!そこ座れ!)

 何だか面倒なことになりそうだ。しかしどうやら狼の方が力もありそうだし、きっと足も速いだろう。ここは言う事を聞いておいた方が無駄な体力を使わなくて済みそうだった。

 ミクは大人しく膝を抱えて狼の正面に座った。

(だいたい、こっちが一生懸命やりたくもねェ呪いの処理にあたってるっつうのに、おめェみてェなチビが呪いで消えたとなっちゃァ精霊院がまたうるせェこと言い出すだろうが!これ以上こっちに面倒事増やすような真似してンじゃねェよ、チビ!)

 ミクはウゥ~という低い獣の唸り声と頭の中で響く怒声を同時に聞きながら(チビって二回言った)と密かに数えた。しかし、それ以外でも気になる単語があった。呪いの処理、精霊院。そして昨日タキセは何と言っていた?


『じゃあ、刻喰いは?一緒なんだろ?』

『今は町を見て回ってるんです』


 酒場の常連客とタキセとの会話が浮かんだ。ミクは「刻喰い?」と自信のなさそうな小さな声で聞いた。すると狼は顎を逸らしてフンッと鼻を鳴らし、ついでに胸も逸らして(まァな)と答えた。

「もしかして、タキセってやつの…」

 推理の続きを始めたところで、後ろからプミラの落葉をぎゅ、ぎゅ、と踏みしめる音が近づいて来たので、振り返った。

 人の良い顔をした金髪の男が、落ちついた色の目を見開いてこちらを見ていた。

「あれ?」ミクを見て首を傾げる。ミクは思わず目を逸らした。

 狼はのっそりと体を動かし、タキセを見上げた。

(おゥ、タキセ。今このチビが呪いに飛び込もうとしてよォ)

 何て余計なことを言う狼だ。そんなことを言ったら、この男はきっと…

「えぇ?どうして?何があったの?」

 全く予想通りの表情と言葉。ミクは舌打ちしたい気分だった。

「あんたには関係ない」淡々と言って立ち上がる。

「ちょ…待って!」

 足早に去ろうとしたミクの腕を、タキセがぐいと引いた。この繰り師と刻喰いは、人を引きとめるのが趣味なのか。苦々しい思いでミクは立ち止まらざるを得なかった。

「ミク、だよな?俺さっき君のお姉さんと話してたんだけど」

(知ってるよ)

「君、けっこう人見知りするだろ?」

(放っておけよ)

「あんまり他の人には、自分の考えてることが分かってもらえないんじゃないか?」

(関係ないだろ)

「君、精霊使いに向いてると思うんだけど」

(……は?)

 最後の言葉の意味が分からずに、ミクは思わずタキセのにこやかな顔を凝視した。

「君は、精霊使いに向いてるんじゃないかと思って」

タキセはもう一度言った。

「繊細で勘が良過ぎて、大人からは距離を置かれる」

 タキセの指摘に、ミクは再びそっぽを向いた。だが先程のような強い反発心は、不思議と湧いて来なかった。

「実はね、こういうスカウトも俺たちの仕事なんだ」タキセは悪戯っぽく笑う。

「スカウト?」

 自分を?

「そう。向いてると思う。な?タマ」

 タキセが同意を求めたのは、黒い狼だ。狼はまた低い唸り声をあげた。

(まァ精霊使いなんざ、みんな変人だからな…タマって呼ぶな)

「タマって名前なのか?」

(ちがう!)

「本当は別の名前があるんだけど、使わない方がいい名前だから俺があだ名をつけたんだ。可愛いだろ?」

 はたして可愛さは必要なのだろうか。

(……勝手にしろ)狼はケッ!とそっぽを向く。諦めの窺える態度から察するに、きっと何度もこんなやり取りがあったに違いない。

「精霊使いになる気、ある?」

「…でもオレ、精霊の声とか聞いたことない」

「俺だってなかったよ」

(威張るな!おめェは単に才能がないだけだろォが!)

「あははは」

(笑ってる場合かよ…ったく)

 怪訝そうな顔でやりとりを聞いているミクに、タキセは穏やかに笑いかけた。

「分かりやすく話すよ。とりあえず座らないか?」

 タキセは自分から地面に尻をつき、プミラの木に寄りかかった。ミクも素直にそれに倣い、二人を見守るようにしてタマ?も地に横腹をつけて丸くなった。

「何から説明すればいいかな?」

(俺に聞くな、ボケ)

 本当に口の悪い狼だ。しかしタキセはそんな扱いには慣れているようで、軽く肩を竦めるだけで文句は言わない。

「精霊使いにはね、生まれつき精霊の言葉を聞く能力があってスカウトされる人もいるし、勉強してからなる場合もある。勿論、素質がなければ無理だけど」

「オレ、素質ある?」

 タキセはミクにしっかりと頷いてみせた。

「だって、今まさに精霊の声を聞いてるじゃないか」

「えっ…」

 自分でも思ったより子供っぽい声が漏れた。

(この姿の俺の声が聞こえるってこたァ、少しは素質があるってこった)

 そうだ。刻喰いも精霊だった。

「じゃあ、他の人にはこの…タマの声は聞こえない?」

「素質がなければね。大半の人にはただの大きな犬にしか見えないよ」

(タマって呼ぶな!それと犬でもねェ!)

「精霊使いの勉強は、どこでやるんだ?」

「首都の外れにある精霊院でやるんだよ。呪いの一件が落ち着いたら、家族の人の許可をもらって俺が送っていってあげるよ。勿論、君に行く気があればだけど」

(無視するな!)

 ミクは頭がぼぉっとなった。何の幸運だろう。この町に居場所はなく、さっきまで死を覚悟していたというのに。

「お、オレ……」言葉がまとまらないままに声を出し、沈黙してしまう。しかしタキセはダークグレイの瞳を優しく細め、そんなミクの頭を撫でた。

ミクは息を呑み、硬直した。酔っぱらってもいないのに、自分の頭を撫でるなんて…そんな大人がいるとは。

「大丈夫。上手くいくよ。俺だって何とかやってるんだから」

(本当にな。精霊院で学んでも、他の精霊の声は聞けなかったもんな、おめェは)

「タキセは…タマの声しか聞けないのか?」

(だからタマって…ッ)

「そうなんだよ~」タキセは恥ずかしそうに後ろ頭を掻きながら「俺はちょっと反則なんだ」と苦笑した。

「反則ってどういうこと?」

「タマは俺が見つけたんじゃなくて、タマが俺を見つけたんだ」

(…普通精霊使いは使役する精霊を自分で捕まえて、その身体に名前を刻みこむんだよ。刻喰いも基本は同じ。こいつら繰り師が俺みたいなのを見つけ出して、名前を刻む。だけど俺らは普通の精霊と違って、時間の流れに引っ張られやすい)

「要は、逃げ出しやすいってこと。だから刻喰いを捕まえたら、名前で縛るだけじゃなくて、その身体と繰り師自身の魂を結ぶんだ。タマの場合は、変わり者でさ。自分から勝手に俺の魂を結びつけたんだよ」

「自分から捕まった?」ミクが黒い狼に問いを投げると、彼は鼻先をツンと上げて見せた。

(捕まったんじゃねェ。俺の場合は、俺がコイツを使ってやってるンだよ)

「まぁ、そうなるかなぁ」タキセはあははと暢気に笑った。

 ミクは胸の内に漠然とした疑問が湧いて来た。

「ばぁちゃんは、刻喰いと繰り師が危険だって言ってた。普通の精霊や精霊使いと、どう違うんだ?刻の精霊の呪いを治めるんだから、危険なはずないのに…」

 タキセと狼は顔を見合わせた。

「普通の人はあんまり知らないことなんだけどね。刻の精霊の暴走は、一人の精霊使いと魔術師が起こしたんだ」

「魔術師?」

(ロクでもねェ野郎さ)

「昔、自分の死んだ娘を生き返らせたいと思う精霊使いがいたんだ。その精霊使いは、どうにか時間を過去に戻して娘が死なないように出来はしないかと思って、刻の精霊に接触しようとしたんだ。ところがそれを魔術師に知られてね。魔術師は精霊使いを滅ぼして国を乗っ取るために、刻の精霊の力が欲しかったんだよ」

 ミクが今までに聞いたことのない昔話だった。我知らず前に身を乗り出した。

「それで?」

「魔術師は精霊使いに協力した。でも魔術師の目的は魔術で刻の精霊を支配することだったんだ。魔術をかけられた刻の精霊は混乱して、魔術師も精霊使いも飲み込んで暴れたんだ。でも当時の精霊使いたちがそれを何とか食い止めようとした」

「それが、結界?」勢いこんだミクの予想に、タキセは少し笑う。

「残念。ちょっと違うな」

(精霊使いの一人が、暴走してる刻の精霊の核を説得したンだよ。それで暴走は治まったが、色んな人間の意識が自分の意識に混じり合っちまってる状態に耐えられなくなった刻の精霊は、分裂した)

「沢山分裂して、それぞれが意識を持ち、個体の精霊になったんだ。それが、刻喰い。繰り師を持たない自由な奴は分離体って呼んでる。でもって、分離体が逃げないように、国の周りに結界が張ってあるんだ」

 ミクは目を丸くした。てっきり刻喰いも他の精霊たちと同じように、昔から自然にいるものだと思っていた。

「刻喰いは、名前の通りに時間を食べる。存在を縛っておかないと勝手にそこら辺の時間を食べちゃうんだ」

「時間を食べる…?」

(例えばお前がパンを食べる。その後俺がパンを食べた間の時間を食べる。そうするとどうなる?)

ミクは頭を捻って考えた。親指を唇に当てて難しい顔をする。

「いつもタマはその例えを使うよね」

(分かりやすいだろ~が)

「答えは、パンを食べた記憶がなくなる」

タキセは悩むミクに正解を伝えた。

「記憶が…?」

「ミクは、パンを食べてないことになるんだよ」

「じゃあ、パンはどこへいったんだ?」

(パンを食べたことは事実だから、お前の腹の中だ)

「あ、そうか。時間を食べる前の事実は変わらないんだな」

「その通り」タキセは嬉しそうに言った。

「でも事実は変わらなくても、パンを食べた記憶がないなら、またパンを食べたくなるよな?」

 ミクが言うと、狼は感心したように鼻を鳴らした。

(おめェより筋がいいんじゃねェか?このチビ)

「そうかも」

 タキセは怒った様子もなく、陽気に笑った。

「刻喰いが勝手に時間を食べると、空間に歪みが生じるんだ。それが、呪いの正体。それにミクが言ったように、未来が変わることもある。パンを食べたことを忘れて、もう一つパンを食べちゃったりね」

 タキセはプミラの木々の姿を揺らめかせる『歪み』を見やった。

「あれに触ると、こっちの体が時間の狭間に飛ばされるか、もしくは体が歪んで元に戻らなくなる。だから歪みを閉じなくちゃいけないんだ」

「どうやって閉じるんだ?」

「自然に待ってても閉じるんだけどね。でも大きさによって塞がるのに何年もかかる場合もある。今回は町の近くだし、早く閉じた方がいいだろうね。刻喰いに適当な時間を上手に食べてもらって、その分の時間を歪みにあててもらうんだ…う~ん。言葉じゃ上手く説明できないな」

「オレ、見ててもいい?」

「え?駄目だよ。たまに失敗して、尚更歪みが広がる場合もあるんだから。下手したら俺たちも巻き込んで町全体が歪みの暴走を受ける可能性だって、ないわけじゃない」

 成程。ばぁちゃんが繰り師も刻喰いも危ないと言った理由がこれで分かった。

 ミクは最後の質問を口にした。

「繰り師の勉強はどうやるんだ?」

「まずは精霊院で勉強することだね」タキセは悪戯っぽく笑うと、立ち上がって大きく伸びをした。

「…さて。呪いの噂が本当だと分かったことだし、まずは支部に報告かな」

(今閉じればいいじゃねェか)

「俺、初の一人任務だよ?一応歪みの規模を知らせて、一人でやっていいか聞かないと怒られるよ」

(情けねェやつ!)

「仕方ないだろ~?思ったよりけっこう大きかったし」

 タキセにつられてミクも歪みを振り返った。さっきまで飛びこもうと思っていた歪みは、そこだけ景色が渦を巻き、異質な気配を放っている。

「ミク」

 呼ばれて振り返ると、頬を染めたタキセが自分よりずっと目線の低いこちらを上目使いに見ていた。

「あのさ、アレナって何か好きなものあるかなぁ?」

「はぁ?」思わず剣のある声になってしまった。

「いや、ほら!ミクを精霊院に連れていくのをお願いしなくちゃいけないしさ!それにすごく親切にしてくれたから、お礼もしたいし…」

 タキセはしどろもどろになって両手の指をこちゃこちゃとさせる。

(……なんだってンだ一体?気持ちわりィな)

 心底嫌そうに言った狼の言い回しが可笑しかったので、ミクは口元を緩ませた。


 昼間のうちに精霊院の支部に行って来たらしいタキセは『海鳴き亭』の開店時刻の前にちゃっかりと店内に居座っていた。

 ミクは幸い今日のメニューの下準備である野菜の皮むきを早めに済ませていたので、堂々とタキセの隣で滅多に聞けない精霊や国の歴史についての話を聞きだそうと、彼を質問攻めにしていた。

「昔あった戦争のこと知ってる?」

「あぁ、知ってるよ。ミクはィエンラって聞いたことある?」

「確かノンテス河の上流の、ずっと北の方に広まってる宗教だろ?」

「そう。ィエンラは昔からある魔術を信仰する宗教でね、このグリア王国は精霊教を国の宗教に定めているから、それが原因でよく戦争が起きたんだ」

「魔術って精霊魔法とは違うの?」

「全然違うよ。精霊魔法は精霊の助けを借りて行うけど、魔術は全部人間の力と、儀式で行う。俺も詳しくは知らないけど、催眠術みたいなものもあるらしい。その力で布教をしたとも言われてる。トレスト集団なんかが良い例で…」

「トレストって…オレと姉ちゃんの村を襲った奴らだ」

 ただのならず者と思っていた奴らの後ろに、まさか宗教があったとは。

タキセは同情するような目をミクに向けた。

「そうか。知らなかったよ。思い出させてごめんな」

「ううん」ミクは即座に頭を振った。昨日までならタキセのこんなに優しい態度にも難癖つけて反発しただろうが、今は不思議とそれが心地良いと思えた。

「何であいつらは、村を襲ったりするんだ?」

「トレスト集団は、あぶれ者の集まりだ。行く場所のない者にィエンラが居場所を与えて、自分たちこそが力があって正しいって思いこませてるんだよ。そして、時には暴力で布教する。自分たちの教えを受け入れない村や町は、色んな方法で攻撃されるんだ。主に交易の妨害なんかでね。村そのものに火を放ったり略奪を行うのは……彼らが布教と言い張る方法の中でも、最も酷いものの一つだと思う」

 では、その最も酷いことをフォリア村はされたわけだ。

ミクはタキセと話しているうちに、どんどん自分の視界が開けていくような気がした。物事をただ知っているのと、その背景まで解っているのとでは、全然違うのだ。もっと色んなことを学びたいという欲求が、体の底から湧きあがってくる。

「あら、随分仲良くなったのね」

 厨房から姿を現したアレナは、ミクとそっくりな猫目を少し潤ませながら頬をピンク色に染めている。いつもより彼女の周りの空気がキラキラと輝いて見え、ミクは初めて目にする姉の『重症』ぶりにやや面食らった。だがそれを超える『重症者』が隣にいた。

「あ、アレナ!」

 ピシッと背筋を伸ばしたタキセは顔全体を上気させ、裏返った声とぎこちない動作で周囲に感情をダダ漏れにした。

(これが繰り師かぁ――…)

 ミクは半眼でカウンターテーブルの上に頬杖をつき、成り行きを見守った。

「あの、君に渡そうと思ったものがあって…」

「なぁに?」

 なんだこの、聞いたことのない甘ったれた声は!

 ミクはテーブルの上に突っ伏したが、自分たちの世界を作り上げてしまっている二人は全くそれに気付かない。

「ミクに聞いたんだ。その…君が好きな花だと聞いて…」

 タキセはパッと赤い大きな花を一輪、アレナに差し出した。何故か強く両目を瞑っていたが、そんなことは気にせずにアレナは顔を更に輝かせた。

「ガーベラ!この季節に?」

「だから、一輪しかないんだ。ごめん」

「そんな!十分よ…ありがとう!」まるで自分が花にでもなったかのように、ぱぁっと笑顔を咲かせる。昨日同じように彼女へ贈り物を持って来たクレントに対する反応と比較すると、物凄い違いだ。

「でも、不思議。もう冬になるのに…」

「繰り師だからね。本当はしちゃいけないんだけど、無理して一輪だけ夏から採って来たんだ。どうしても、君にプレゼントしたくって」

うっとりと花を見つめるアレナの顔を、うっとりと見つめるタキセ。さらにうっとりとアレナはタキセを見返して……もう限界だった。

 そそくさと厨房に逃げ込んだミクに、珍しくエイカとブレドが駆け寄った。

「ミク、あの人がタキセって繰り師なの?」

「一体どういう奴なんだ!繰り師は危ない仕事じゃないのか?」

 ミクは目を白黒させた。タキセが現れたことで、どうやらミクの生活は色々なところで豹変してしまったらしい。

「あ、う…」言葉につまる自分を、熱心に見つめる二人。ミクは自分の頬っぺたが熱を持ち、真っ赤に染まるのを感じた。

「た、タキセは良い奴…繰り師の仕事は危ないみたいだけど…」

「やっぱり危ないのか!」ぶつぶつと文句を言い続けるブレド。

「でも素敵よね。旅の繰り師と恋に落ちるなんて…」と、まるで自分が当事者であるかのように瞳を潤ませるエイカ。

 一体何がどうなっているのか。恋愛とは当人たちだけでなく、周りの人間にも大きな影響を与えるのだということを、ミクはしっかりと学んだ。

 その日の酒場は開店と同時に、今までにはない混沌とした空気に満たされた。

 ちらちらと視線を交わし合うタキセとアレナを見て、歯噛みする男たち。微笑ましげにそれを見守るエイカと、たまに店内へ目を光らせては、不機嫌そうにむっつりするブレド。色んな感情がせめぎあって、正直ミクはかなり疲れていた。

 男たちは食事よりも酒が進むようで、今日はアレナとエイカが二人で客の間を行ったり来たりしている。反対にミクは早々に仕事が尽きてしまい、暇だった。

 いつも通り夕食を食べると就寝の許可が出たため、今日は店内で周囲を観察するのではなく外に出ることにした。 

「はあぁぁ…」

 外気は冷たく、溜息は白い。真っ暗な夜道を照らすのは、深夜まで営業している店の明かりだけだ。夜空には星々が主張し合い、疲れに拍車をかけた。

(よォ。酒場の給仕ってのは、そんなに疲れるもンか?)

 突然頭の中に響いた声に驚いて周囲を見回すと、闇の中から同色の狼が音もなく姿を現した。

「あ…タマ」

(だからタマじゃねェって!)

「他に呼び名知らないし」

(くそ…タキセの野郎。もっとマシな呼び名つけろよな…)ぶつぶつと悪態をついた狼は、ミクの隣に尻っぺたをついた。

「…タキセさ、姉ちゃんに一言もオレが精霊院に行くこと言ってないんだけど、覚えてるよな?」

 狼はフンと鼻を鳴らした。

(忘れてンだろ、どうせ)

「えぇ…」

(明日もう一回せっついとけ)

 何だか本当に…何なんだ。

「そういえばタキセ、ガーベラ持って来たんだ。夏から持って来たって言ってたけど、繰り師ってそんなことが出来るのか?」

(あァ…)狼は非常に嫌そうな声を響かせる。

(正確にはタキセじゃねェ。俺が持って来たンだよ!ったく…)

「どういうこと?」

(繰り師は刻喰いと一緒に、過去の時間に行くことが出来る。ただし、過去に行くと繰り師は…人間の体は、幽霊みてェに実体がなくなンだよ)

 ミクは説明されたことを少し考えた。

「…つまり、タキセはタマと一緒に過去の夏に行ったけど、タキセは花に触れないから、代わりにタマが花を取って来たってことか。タマは過去の時間で幽霊にはならないんだな」

 隣で狼が小さく頭をもたげた気配がした。

(おめェ…理解が早ェな。繰り師の才能もあるかもしれねェ)

「でも本当はやっちゃ駄目なことだって言ってた」

(そうなんだよ…)狼は再び嫌そうに言った。深い溜息でもつきそうな様子に、ミクは思わず笑いそうになって慌てて口元を引き締めた。

「…どうして駄目なんだ?」

(過去は変えるなってのが、精霊院の決まりだ。変えざるを得ない時もあるが…基本的には呪いで受けた影響を直す以外に、過去に干渉しちゃいけねェ。刻喰いにも実体をとれる奴ととれない奴がいてな、俺は特別優秀だから実体がとれるだけじゃなくて過去のものにも触れちまうんだ、これが。それをタキセの野郎まんまと利用しやがって…ッ)

「じゃあ断れば良かったのに」

(……まァな)

「タキセに弱いんだ」

(おめェ……ガキのくせにガキらしくねェな)

「よく言われる」

 さらっとミクが返すと、少し沈黙が落ちた。また人に嫌われるような発言をしてしまったようだ。威勢の良い狼に嫌われるのは寂しい気がして、ミクは横目で狼の鼻先を見つめた。すると狼もこちらを横目で見て鼻を鳴らした。

(…精霊使いには、変わった奴が多い。普通の人間の中じゃ、爪弾きにされるような奴の集まりだ。おめェみてェなガキらしくない奴も、大勢いる)

「それは……」

 想像してみて、ミクはうんざりした。自分と同じような、ひねくれ者の集団…

「すごく嫌だ」

 顔を歪めながらきっぱりと言ったミクを仰ぎ見て、狼は頭の中で(そうだろうな!)と弾けるように笑った。



       2――繰り師


 タキセはどうやらミクの精霊院行きについて、完全に忘れたわけではなさそうだった。

 翌日、開店に向けた料理の下準備が終わり酒場の厨房が一息ついた頃に現れて、アレナの物言いたげな熱い視線に何とか負けることなく、ミクの今後について提案をした。

ミクに精霊使いの素質があるという話に対し、アレナも叔父叔母も懐疑的だった。何せその素質とやらは、目に見えるようなものでもない。だがタキセの人徳だろうか。自分の刻喰いの声をミクは聞くことが出来ると懸命に主張したあたりで、三人は彼を信じることにしたようだった。

 手放しで喜ぶというようなことはなかったが、最後にはアレナも叔母夫婦も精霊院で勉強をすることに概ね了承してくれた。もしかしたら、一切の生活のお金を国が出すという説明が大きく影響したのかもしれない。

生活に苦労することなく、働く代わりに勉強をするという今よりも恵まれた環境にミクをやるのだから、罪悪感なく厄介ばらいが出来て有難いくらいなのではないか。しかし意外なことに三人は「それでいいんだね」と心配そうにミクに念押しをした。

(心配、するのか)

 昨日死のうと思ったことが、全く馬鹿馬鹿しく思えた。根拠もなく勝手に皆から嫌われていると思って孤独に浸って、今となっては恥ずかしい。しかし、この町に馴染めていないのは事実であり、ミクを思いとどまらせる決定的なものは特になく、今後も馴染む予定はなかった。

 ミクは別れを告げたい人が、一人だけいた。港のボロ小屋に住むばぁちゃんだ。もう来るなとは言われたが、世話になったのだから最後の挨拶くらいはしておくのが礼儀だろう。

 その日も天気が良かった。冬目前のカロマイは、大抵毎年天気がいい。いざ冬本番になると港の空は一面灰色の雲に覆われ、気温も一気に冷え込む。今が冬に向けて食糧の貯蔵や冬物の衣類を揃える最後の機会なのだ。

 ミクはこれからの自分の将来を思って、少し浮かれた気分だった。晴れた昼下がりの陽気がそれを後押しするように体を暖める。海風も穏やかで、この季節にしては過ごしやすい気温を吹き飛ばすようなことはなかった。

 数日前までは毎日そうしていたように平坦な港までの道のりを歩き、船着き場が見えたところで緩やかな坂を下る。

周りの景色は変わらないが、以前とは違ってミクはばぁちゃんに拒否されている。それを無視して訪ねるのだから、少し勇気が必要だ。

ミクは薄い水色の空を仰いで深呼吸をした。浮ついた気分を引き締める必要があった。それから石垣を抜けて、倉庫群に紛れて…そこで何やらその日の陽気には似合わない、暗く湿った空気に覆われたような気がした。その不安を掻き立てるような淀んだ空気は次々と胸の内に入り込んできて、やがて体の隅々を言いようのない不安で支配した。

その感覚はミクの手足に時間の止まる魔法をかけたようで、まるで自分の体ではないかのように動いてくれない。しかしミクは、それが思い込みであると気が付かないほど幼くはなかった。

ミクは自分を押し留めようとする不吉な予感を振り切って走り出した。ばぁちゃんに良くないことがあったのだと、確信していた。

「ばぁちゃん!」

 木戸を壊すくらいの勢いで開けると、いつもと同じカビの臭いに混じって何やら嗅ぎたくない嫌な臭いがした。

 室内は暗くて、小屋の壁の隙間から入る外の光程度では中がよく見えない。

 ミクは手探りで室内唯一の小窓を開けると、振り返って息を呑んだ。頭のてっぺんから血の気が引いていって、冷たい手の平がおかしな汗でじわりと濡れた。

「ばぁちゃん?」掠れた声を零し、木箱の上で人の形に盛り上がる綿入れに近づく。

 呼んだ時から、あるいはこの部屋に入った時から、もうここに『ばぁちゃん』がいないことに気づいていた。

 綿入れから僅かにのぞくしわくちゃの顔は穏やかだったが、薄暗がりの中でも分かるくらいに血の通っていない色をしていた。

 小窓の方を向いて赤ん坊のように丸くなるその姿を、いやに冷静に観察する。

こんな寒い部屋で、独りきりで、いつの間に息を引きとったのだろう。そういえば最後に会った時、胸を押さえていて具合が悪そうだった。それなのに本を読んでくれて…もしかしたら、自分が無理をさせていたのだろうか。そこまで考えて、唐突にミクは自分が持ってきた食事を拒否した時のばぁちゃんの顔が頭に浮かんだ。とても悲しそうなその表情は、きっと…

(オレに同情されたくなかったんだ)

 自分は人よりも他人の気持ちに敏感だと思って、調子に乗っていた。思い返してみれば、ぜんぜん…

(ぜんぜん、無神経だ、オレ…)

 人の気持ちが分かることと、その気持ちを思いやることは別なのだ。アレナの言う通り、ミクは優しくない人間だった。

 息苦しくなるくらい寂しい気持ちが体の中を駆け巡ったが、ミクは冷静であるように努めた。自分には泣き喚くような権利なんてない。寂しいなんて、自分勝手な気持ちだ。悲しくて切なくて惨めだったのは、ばぁちゃんだ。ばぁちゃんのためでなく、自分のために泣くのは失礼だと思った。だってばぁちゃんは、同情なんてして欲しくなかったんだから。

 ミクは静かに小屋を出た。港から酒場に帰る道で、ぐるぐると考える。もっと自分が優しかったなら、ばぁちゃんが喜ぶことをきちんと出来ていたかもしれない。だけど一体何がばぁちゃんの為になることだったのだろう。

(食事は持って行ってもいらないって言ってた。でも水を汲んだらお礼を言ってくれた。せめて…火をおこしてあったかいお茶でも入れてあげれば良かった。もしかしてオレが来るのも迷惑だった?でも…笑ってくれてたし、本を読むのも嫌そうじゃなかったし……でもでも、嫌そうじゃないからって、本当にばぁちゃんが迷惑じゃなかったかなんて、もう分からない)

 そう、もう分からないのだ。

 頭から降り注ぐ日光は、小屋から出た時点でおかしな具合に冷えていたミクの体を暖めたが、そんなものは慰めにならないどころか逆に苛立ちの材料になった。せめて天気がもう少し悪くて、日の光が見えないくらいに空が曇っていたなら、もっとばぁちゃんの気持ちに寄り添うような気分になれたかもしれないのに。

ミクは鬱々とした思考をやめて、まるで幽霊のように『海鳴き亭』の厨房に入り込んだ。

「ミク?今日は港の方に行かなかったの?」

 姉の明るい声がかかって、ミクは俯いたまま「ばぁちゃん、死んでた」と小さく知らせた。

 厨房の空気が凍りつき、ミクはその冷たい空気に自分が弾き飛ばされるかのように感じた。

「だ、誰かに知らせた?」

 頭を横に振ると「知らせなさいよ!」と怒声が飛んだ。

 奥に居たエイカとブレドが騒がしく動き始めた。「知り合いの漁師たちに知らせて…」「確か身内のいないおばちゃんよね」「造船場から棺に丁度いい木板をもらって」「一体いつ亡くなったの」行き交う言葉は頭の上を素通りしていく。

 ふと自分の顔に影がかかったので視線だけ上げると、哀しげなアレナの顔があった。

「…泣かないの?」

 だから、泣く権利なんて、

「仲良かったんじゃないの?泣いてあげなさいよッ」アレナは勢い良く踵を返した。

 泣いてあげる…泣くことは、ばぁちゃんの為になることなのだろうか。もう、いないのに。

 胸の中に大きな暗い穴が開いた気がした。昨日消えてしまいたいと感じた時と同じような、虚しい切なさが穴の淵に蠢いた。

(もしかして…ばぁちゃんも、死にたかったのか?)

 寂しいという類の気持ちは、きっと人を死なせることが出来る気がした。でもばぁちゃんが本当は何を考えていたのかなんて、知る術がない。

 ばぁちゃんの葬式はなかった。身内がいないので、多くの漁師が海へ埋葬されるように、ばぁちゃんの小さな体を入れた棺も漁船に乗せられて港を離れた。

 冬のはじめで咲いている花もなかったので、棺の中には何も贈り物は入れられなかった。一瞬ミクはばぁちゃんと読んだ自分の唯一の本を入れようかとも思ったが、押しつけがましい気がして出来なかった。

 漁船を見送るのは、ごく僅かな人数だった。そしてそれも漁船が豆粒くらいの大きさになるまでの話で、皆すぐに日常へもどっていく。人が死ぬというのは、こんなにもあっけなく、当たり前のことなのだ。それなのに女連中は涙を拭い、啜り泣きを響かせた。

 やっぱりミクの目に涙は湧いてこないため、アレナに顔を覗かれる前にその場を立ち去った。背中に突き刺さる視線は、そのアレナのものであると分かっていた。間違いなく、自分を責めているのだ。優しくなくて情のないミクを、軽蔑している。

 ミクは早いところ、精霊院に連れて行ってもらいたかった。昨日以上に色々と耐えられない気分だった。

 自然と足は街外れのプミラ林に向かっていた。精霊院に行けないなら、やっぱり歪みに飛び込んでもいいと思った。

(まァた性懲りもなく、呪いに近づこうとしてンな)

 呆れた声の主を探すと、林の中から大きな黒い体がのそりと姿を見せた。ゆっくりとした動きなのだが、愚鈍な感じはしない。隙のない綺麗な動きに見惚れていると、狼は首を傾げた。

(どうした?)

「…うん」

(何がうん、なんだよ?おめェは本当に訳の分からんガキだな)

 狼の口の悪さが、心地よい。

「オレ、訳分かんない?人と違う?」

 狼はまるでミクの体の中まで見透かすように目を細めて凝視した後、尻尾をゆったりと振りながら近づいて来た。

(言っただろ。精霊使いの素質がある奴は、みんな変人だ。おめェもな)

「どこが変?」

 狼は唇を開いたり閉じたりしながら、耳をピクピクとさせた。

…困っているのだろうか。

「別に答えなくていい。…タキセは?」

(…今から呪いを押さえるから、そろそろ来るはずだ)

「そう」

 呪いの収拾の見物は昨日断られていたが、やはり見てみたい気がした。どうせ、他にすることもない。店の手伝いにも行きたくはない。それに精霊院に行くなら、繰り師と刻喰いの仕事を見ておいても損にはならないのではないか。

 欲求の正当化を成した後、ふとミクの頭に僅かな可能性が過ぎった。

「過去に行くって、オレにも出来る?」

(なんだ、突然?)

「ばぁちゃんに、聞いてみたいことや、してあげたかったことがあるから」

 具体的に何を聞いて何をするのかは考えていなかったが。

(だから過去に行った人間は、幽霊みたいなもんなンだって。普通の人間の目には見えねェし、見えたとしても触れねェ。それにそもそもおめェは繰り師じゃねェから、無理!)

 それもそうか、と納得する。

「じゃあタキセに頼んで、ばぁちゃんと話してもらったり…」

 だが、何を話すというんだろう。

(一体そのばぁちゃんってのは、なんなんだ?)

「さっき死んでたばぁちゃん」

 全く答えになってない。

(…さっき?おめェよ、)

 狼がミクの顔を見上げた。アレナのように、泣かないことを責めるだろうか。ミクは少し肩をすぼめた。

「あ!ミク!」

 林の奥から張りのある声があがり、声の主は「また来たのか~」とのほほんとした表情でミクを迎えた。

「タキセ…過去に行ける?」

(あ…馬鹿!)

 狼が舌打ちでもしそうな勢いで毒ついたが、タキセはもうミクの話を聞く体勢にあった。

「どうして?」

 優しい顔だ。どうしてミクがそんなことを言いだしたのか、その理由を聞いている。きっとその理由がミクにとって重要であることを知っているのだ。ミクは安堵のあまり泣きそうになって、懸命に息を呑んでそれを堪えた。

「あのさ、」

 ミクはよくよく考えた末に、具合の悪かったばぁちゃんに本を読ませたことを謝りたいとだけ伝えた。

タキセは宙を見つめて「う~ん」と思案してから膝を折って屈むと、ミクに目線を合わせた。

「別に謝らなくていいんじゃない?きっと迷惑じゃなかったよ」

「えぇ…?」我知らず、不満そうな声が出てしまった。

「一人暮らしのおばぁちゃんのところに子供が出入りして、本を読んでもらうことが迷惑なんてないよ、きっと」

「そうかな…?」

 その時、頭の中に閃いたものがあった。

「そうだ…じぃちゃんだ!」

 叫んだミクに、タキセと狼が首を傾げる。

「ばぁちゃんの旦那は、呪いに巻きこまれていなくなったんだ!じぃちゃんが生きていたら…きっとばぁちゃんはあんなに寂しくなかった」

「つまり、おじいさんを生き返らせて欲しいって?」

(タキセ!)狼の声が鋭く頭を突く。

 タキセは仰ぎ見る狼の方に、悪戯っぽく笑って見せた。

「いいじゃん。たまには、こういうの。俺好きだな」

(好きとか、そォいう……)

 双方の様子を窺いながら、ミクは昨日の狼の言葉を思い出して、ばつが悪くなった。

「ごめん。やっぱりいい」

「どうして?」

「だって、過去を変えちゃいけないんだろ?」

 タキセはきょとんとしてから、合点がいったように笑った。

「あぁ!タマから聞いたんだ?そうそう、変えちゃいけないんだよな~」

(…おめェ、軽いな)

「でもさ、それにも一応条件があるんだよ」

「条件?」

「過去は変えちゃいけないし、特に人の生き死になんてそもそも変えられるようなものじゃない。だけど、呪いが関わっている場合は別なんだ。な?タマ」

(…まァな。ただ死んだんだったら何も出来ねェが、呪いが関わっていれば……そのジィさん、運がいいな)

「いや、運は悪いと思うけど…」タキセは苦笑しながら身を起こす。伸びをした彼を見上げて、狼は少し嫌そうに(やるのか?)と聞いた。タキセはにこりと笑う。

「うん。呪い処理の、準備運動にね」

 ミクは茫然とした。駄目でもともと、くらいのつもりで言ったのだが、まさか実現しそうだなんて。

「おじいさんは、どこの人?」

「あ…港で漁師をやってて…マイマイ諸島の周辺で漁をしてる最中に呪いに巻きこまれて、船ごと、体全部持って行かれたって…」

「ふんふん。どのくらい前か分かる?」

「確か、三十年前…くらい?」

 タキセは顎に手を当てて、何やら口の中でぼそぼそと独り言を呟いた。

「マイマイ諸島…三十年……うん!多分いける」

「ほ、本当か?」

 こんな少ない情報で、会ったこともないじぃちゃんを救えるというのだろうか。

「うん。マイマイ諸島周辺で呪いが確認された情報は限られるからね。カロマイに来る前に、多少ここの歴史を勉強しておいて良かったよ。あそこの海上で呪いが確認されたのは、過去三回。そのうち被害が出たのは一回だけ。そのおじいさんのことじゃないかな。タマ、辿れる?」

(俺を誰だと思ってる?)

「はいはい」タキセは愉快気に笑ってから、不思議そうに見上げるミクの頭を撫でた。

「行って来るから、少し離れててな」

 言われた通りに後ろ歩きで何歩か下がると、黒い狼がタキセの足に絡みついた。タキセがその頭に触れた瞬間、二つの体が周囲の景色に溶け込むようにして立ち消えた。

(繰ったんだ…!)

 刻喰いと共に繰り師が時間を繰る瞬間を、目の当たりにしたのだ。今ごろ、本当に三十年前の海上にいるのだろうか。

ミクが驚きに目を見開きながら周囲をきょろきょろとしているその時、タキセと狼は周囲がぼんやりと霞んだ白い空間に浮いていた。その足元には、様々な景色がゆっくりと流れていく映像が見える。森、町、行き交う人々…その中に海を見つけて、タキセは覗きこんだ。

「あそこら辺だよな~…」

(おめェ…何無償で働いてンだよ)

 タキセは自分の横でむっつりとした顔で浮いている狼を見て、失笑した。

(笑ってンじゃねェよ)

「だって、面白いし」

(ったく…お人好しが)

「ミクがさ、俺の小さい頃に似てるからさ」

(おめェはあそこまで偏屈じゃなかっただろ)

「うん、まぁ…ミクの方が頭は良いよな」

(否定はしねェ)

「してくれよ」

(出来ねェよ)

「あの子は繰り師になるよ。そんな気がする」

(また根拠のねェ勘か)

「まぁね」

タキセは海の映像を凝視した。

「それじゃ、未来の繰り師のために働きますか」

(……仕方ねェな)

 初めも終わりも見えない、ただ一つの方向にゆっくりと進んで行く一面の映像の中、二つの影は迷いなく頭から突っ込んでいった。


 林の中に誰もいなくなったのを確認し終えたミクは、ただ茫然とその場に立ち尽くした。胸の中には不安が渦巻いている。

 誰にも迷惑はかけたくなかったはずで、それはばぁちゃんの一件で強く反省したはずなのに、こうしてまた勢いで人に迷惑をかけている。笑顔で簡単にミクの願いを聞いてくれたタキセが、不思議だった。

(良い奴だ)

 思わず頼りたくなってしまう。きっと人を裏切るとか誰かを馬鹿にするとか、そういうことが思いつかないような性格なのだろう。

(アイツなら…)

姉ちゃんを任せてもいい。自分よりずっと優しくて、ずっと傷つきやすい姉ちゃんを、きっと笑顔にしてくれる。自分には出来ないことだ。

ミクを見るアレナの、寂しそうな顔やがっかりした顔、それにあの、軽蔑の眼差し…思い出すとお腹が重くなる。何となく自分の腹を撫でていると、目の前の空間が歪んだ。

「……!」

 息を止めて目を凝らすと、先程消えたばかりの二つの体が徐々にはっきりと現れた。

「タキセ!」叫ぶと、こちらを見て彼はにっこり笑った。

「大成功」

「ほ、本当に?」

(これっくらいで失敗するかよ)

 傍に駆け寄ると、また頭を撫でられた。

「おじいさんは、船で港に帰ったよ。どれくらいそれから生きたかは寿命によるけど…」

(まァ、あんまり期待すンなよ)

「あ……、あ」

 さっきまで重いものが詰まっていたはずの腹の中が熱くなって、その熱が一気に喉まで込み上げてくる。

(あ?)

「あり、がとう…」

 ミクはかあぁっと顔を真っ赤にした。勿論感謝や喜びがあったのだか、それ以上に人に礼を言うことに慣れていないのだ。

(お、おゥ)

 どうにも照れくさくなり、ミクは勢い良く振り返って、そのまま走り出していた。

 細い手足が子鼠のように一生懸命動いて遠ざかる様子に、タキセはにこにこした。

「…っかっっっわいいなぁ~!やっぱり、アレナの弟だよな。恥ずかしがる顔がそっくりだよ~」

(おめェな……)

「真っ赤になっちゃってさ。アレナもあのガーベラを受けとる時、あんな顔だったんだ…潤んだ目が輝いてて、でもちょっと俯き加減でさ、」

(この…色ボケ野郎)

 やり取りが噛み合わない繰り師と刻喰いを置いて、ミクは全速力で走った。走っている途中で、行き先は港と決めていた。

 じぃちゃんが生きて戻ったのであれば、ばぁちゃんはきっと前より寂しくなかったはずだ。

 息を切らして額に汗を流しながら飛ぶように駆けて行くミクを、町の人々が訝しげに見送る。もし彼らの中にミクをよく知る者がいたら、こんなに必死な彼の様子を見るのは絶対に初めてに違いなかった。

 通常のルートを行くのがもどかしくて、軒を連ねる家々の間を突っ切り、おばちゃんたちの井戸端会議の横をすり抜けて、石垣を飛び越えた。すぐ目の前に現れた小屋は、見覚えのあるボロボロの風体だった。ミクは緊張しながら木の戸に手をかけた。すると、

(あれ…?)

 記憶にないはずの映像が、頭の中に巡ってきた。

 昨日までは、室内には寝台の木箱とテーブルに見たてた木箱、それに腐りかけた丸椅子と小さな桶しかなかったはずだった。しかし今ミクの頭の中に現れた映像は、それに火桶と箪笥が追加されていた。テーブルも木箱ではなく、きちんとテーブルの形をしたものだったし、寝台には木の脚が付いていた。

 ドキドキしながら戸を開けると、やっぱりカビ臭いが広がっており、中には誰もいなかった。寝台の上には見覚えのある綿入れが乱雑にたたまれている。

 ミクは波打つ心臓を押さえながら小屋を出た。足早に船着き場の方へ向かうと、漁からもどった男たちが船から網に入った魚を降ろす中に入っていく。

「あ、あの!」

 ミクの上ずった声に振り返った男たちの顔は、ぽかんとしていた。それはそうだろう。いつもこちらから声をかけても無愛想な顔でろくに返事もしなかった気難しい子供が、自分から話しかけてきたのだ。 

 一気に注目をあびたミクは、顔を赤らめながら必死に先を続けた。

「ば、ばぁちゃんは…?倉庫に、住んでた……」

「あぁ」男の一人は、合点がいったように頷いた。「安心しな。きちんと棺は流してきたから」その言葉に、ミクは少なからずショックを受けた。

(やっぱりばぁちゃんは死んだんだ)

 しかしミクは更に言葉を続けた。目的は、ばぁちゃんの死を確認することではない。

「あの、ばぁちゃんの旦那が死んだのって、いつ?」

 男たちは互いに顔を見合わせた。

「いつだったかなぁ…」

「十年くらい前じゃねぇか?」

「あぁ、確か病気でな。何年か漁に出られなくなって、それからだ」

 十年。病気。それなら、ばぁちゃんは少しは以前より寂しくなかっただろうか。

「ばぁちゃんに、子供はいた?」

 生前、子供はいないとばぁちゃんは言っていたけれど、もしかしたらと思ったのだ。呪いから生還したじぃちゃんとの間に、以前はいなかった子供が生まれていたとしても不思議はないではないか。しかしミクの口からするりと出たその質問に、男たちは困惑した。

「なんだ。知らなかったのか?あの夫婦にゃ子供はいなかったよ」

「でも、夫婦仲は良かったよなぁ」

「そうだな。じいさんも、ばぁさんが看病の末に身取ったんだ。じいさんが逝っちまってからは寂しそうだったが…お前が孫みてぇなもんだったんじゃねぇか?」

 思いもよらないくらい、男の口調は穏やかだった。海の男なんて皆、粗っぽい連中だと思っていたのに。ミクは腹の中でぐるぐると回る色んな感情を落ち着かせながら笑った。

「ありがとう!」それだけ聞けば十分だったので、礼を言う。

 立ち去るミクの細くて小さい背中を見送り、男たちはまたぽかんとした。

「あのガキ…笑うんだな」

 ばぁちゃんの寂しさがなくなったわけではない。多少短くなっただけだったが、ミクは満足していた。少しだけでも、ばぁちゃんに迷惑をかけた償いが出来た気がしたのだ。

(タキセとタマのおかげだ!)

 ミクは、今度は嬉しさから飛び跳ねるように駆けだした。まだプミラ林に彼らはいるだろうか。このことを知らせて、もう一度お礼が言いたい。

 にやにやしながら走るミクの様子は、さぞかし奇妙なものだっただろう。やはりじろじろとすれ違う人々に見られたが、普段あれほど嫌だった人の視線が、今は全く気にならなかった。

 体の限界を気にせずに全力で走ったおかげで、全身がぽかぽかと温まっていた。体中を巡る血の流れに、心までも満たされる気がした。

 プミラの林の中をきょろきょろ見回していると、二つの影を視界の端っこで捉えた。

「タキ―…」

 呼びかけようとして、途中でやめた。何やら彼らが集中しているような気がしたのだ。

 もしかして、もう呪いの収拾に当たっているのだろうか。ミクはゆっくりと彼らの気を逸らさないように、忍び足で近寄った。あんまり近くで見ていると迷惑かと思ったので、少し離れた場所で見守ることにした。

 タキセと狼は歪みを前に、何やら話しこんでいた。

「けっこう大きな歪みだよな」

(俺にかかれば楽勝だけどな)

「そうでしょうとも」

(それより、おめェの方は平気なのかよ?無駄なところで力使いやがって…)

「無駄じゃないだろ?」

(……さァな)

「じゃ、始めますかね。早く終わらせて、アレナに会いに行かないと」

(……はぁ…)

 ミクの視線の先で、狼の大きな黒い体がぶれた。まるでゴムのように縦に横に伸び縮みしたかと思うと、その形をぐんと縦に引き延ばし…ミクは目を疑った。いつの間にか黒い狼は姿を消し、タキセの隣には彼より頭一つ分くらい背の高い、黒ずくめの男が並んでいたのだ。

 長い黒髪を一つに束ね、タキセと視線を交わす。その黒い瞳を見て、ミクは彼が狼と同一人物であると理解した。

 タキセが軽く頭を垂れ、その横で黒い男が彼の肩に手を置き、空いた方の手を歪みに伸ばす。するとその瞬間、歪みが更に歪んだ。ぐるぅりと強い力でねじ曲げられるように、今までよりも大きな円を描き始める。

 まるでパン生地を引き延ばしているかのようだ、とミクは思った。

 潮風と、それによって揺れる葉擦れの音しかしない中、静かに、だがしっかりと作業は進んでいるようだった。しかし、突然男が弾かれたように手を歪みから引いた。

「離れろ!」

 割れ鐘のような声がびん!と響いて、ミクは思わずのけ反った。視界の中でタキセが身を伏せ、黒い男が横に飛退く。その前で円形に渦巻いていた歪みがぎゅるんと元の位置にもどったかと思うと、波に揉まれる海藻のようにもぞもぞと動きながら大きさを増していった。しかも時折、蛇が舌を出すが如き素早さで、あちこちからヒュッと細長い手を伸ばす。まるで周囲のものを捕まえようとするかのような動きだ。歪み自体もぶくぶくと広がり続け、二人はじりじり後退し、やがてこちらに向けて駆けだした。

「なんだこれ!」タキセが叫ぶ。

「知るか!」男が返した。その声はやはりあの黒い狼のもので…なんて目の前の出来事を茫然と認識しているうちに、黒い男の方と目が合った。

「バッカやろ…何で居ンだよ!」

「えぇ?ミク!」

 二人の目が大きく見開かれる。ミクがぱくぱくと口を動かし何か言う前に、二人は同時に「逃げろ!」と叫んだ。ミクに異論があろうはずもなく、後ろを向いて駆けだした。

 混乱のために途中で何度か躓きそうになっていると、二人の男に追いつかれた。

「おめェはまったく…!」

「仕方ないって!ミクが戻って来るって予想しとくべきだったんだよ」

「そりゃそうだが…ぅおっと!」

 黒い男が慌てた様子で頭を屈めた。

「おいおい…広がるの早過ぎねェか?」

 男の言う通りだった。生き物のように蠢く歪みは、相変わらずひゅんひゅんと腕を伸ばし、林の中を浸食していく。予想もしていなかった事態への恐怖に、思わずミクは振り返った。

「馬鹿!立ち止まンじゃねェ!」

 立ち止まったつもりはなかったのだが、黒い男から罵声が浴びせられた。と同時、体が斜め前に勢い良く突き飛ばされた。

「……!」

 声もなく地面に転がるミクの意識の片隅で「タキセ!」と叫ぶ悲痛な声が聞こえた。

 ミクはハッとして懸命に起き上がり、後ろを確認した。

「た…ッ」声はそこから出なかった。

 どうして目の前が赤いのか。どうしてタキセの腕は、変な形をしているのか。

 タキセの左肩がなくなっていた。肩の膨らみがないのだ。肉と皮で繋がる左の二の腕を右手で押さえており、右手の指の間から溢れだす赤い色は、否応なしにミクの目を釘付けにした。視線の先で膝をついたタキセの体を、駆け寄った黒い男が乱暴に担ぎ上げる。

「とにかく逃げろ!」

 その言葉は、ミクに向けられたものだった。

 ガクガクと震える足から地面に崩れ落ちそうなミクを、黒い目が厳しく射抜く。

「走れ!」

 ミクは男の言葉に従って、無我夢中で走った。とにかく、黒い背中とその上で揺れるタキセの青白くなった顔を追った。一瞬ミクと目があったタキセは、申し訳なさそうな顔で力なく笑った。薄い唇が「ごめん」と動いたのを見て、ミクは息が止まりそうになった。

 一心不乱に林を駆け抜けて町に戻ると、黒い男は水色のペンキが塗ってある看板の下がった小屋の扉を蹴り開けた。中でぽっちゃりした色白の女が、顔だけこちらに向けて目を丸くしている。

「結界張れ!プミラ林だ!」

 黒い男の怒鳴り声で、一切を承知したように女は小屋を飛び出した。

 次に男はミクを振り返ると「医者!」と鋭く怒鳴った。ミクはまるで猫に狙われた子鼠のように小屋を飛び出した。その場に蹲って泣き喚きたかったが、今はそんな場合じゃない。

 もうこの通りを走るのは、今日は何回目になるのだろう。

 ミクは砂埃をたてながら、全力疾走で宿屋が立ち並ぶ一角にある家の扉に、体当たりをするようにして転がりこんだ。

「助けて!」

 ミクの悲鳴のような声に、奥から出て来た髭の医者が呆気にとられた顔で駆け寄った。

「ど、どうしたんだ?どこを怪我したんだ?」

 どうやらミクの顔や腕に点々とついている血液を見ての反応らしかったが、ミクはもどかしげに地団駄を踏んだ。

「オレじゃない!早く来て!」

 医者はミクに見覚えがあった。昔熱を出した時に面倒をみたことがあったし、『海鳴き亭』の奥さんはあまり体が強い方でないから、何度か家に訪問したこともあった。医者は、普段ほぼ無表情な少年の興奮した様子に内心度肝を抜かれながら、すぐさま診療用具を持って家を出た。

 ミクは医者の手首を強く掴むと、ぐいぐい引っ張って道を戻り始める。

「こ、こら!引っ張るんじゃない…ッ」

 医者は自分の腹のあたりまでしか背丈のない子供に手を引かれて前屈みになり、時折転びそうになりながら後に続いた。

 血飛沫のついた顔で走るミクと、その後ろから慌てて続く医者の様子は只事ではない。目撃した町の人々はその様子に驚き、ミクがどこの誰かと気付いた者は、すぐに開店準備中の『海鳴き亭』に向かって走った。


 ミクのやるべきことは、医者を連れて来た今の時点では何もなかった。騒ぎを聞き付けた町の者が数人医者の助手のような役割を務め、寝台の上にぐったりと横たわるタキセの周りを右往左往していた。

「呪いにやられたのか…!」

 医者の舌打ちまじりの言葉は入口の真横で茫然と立つミクに向け、大きな刃物となって突き刺さった。

 大して寒くもないのにぶるぶると震えるミクの横に、腕を組んだ長身の黒い男が立った。男は壁に背中を預けて嘆息した。彼が羽織る黒く長いコートには一見目立った汚れはなかったが、至近距離でよく見れば肩から腕にかけて濡れた血で光っているのが分かる。壁につけている背中側にも、恐らく同様の染みがあるに違いなかった。

「おいチビ」

 呼ばれて、ミクはまるで盗みの現場を見つかったかのように大きく肩を跳ねた。男がそんなミクの頭頂部を見つめて口を開こうとした瞬間、部屋の扉が乱暴に開いた。

「ミク!タキセ…ッ」

 その声は間違いようもなく、アレナのものだった。黒い男の視線の端で、ミクの震えが一段と大きくなる。

 弟と同じ焦げ茶色の長い髪を振り乱し、落ちつきなく室内に目を走らせたアレナは、真っ白なタキセの顔を捉えて短い悲鳴をあげた。そして近くにいる小さな頭を見つけると、その血飛沫のついたままの顔に目を見開き、その場に崩れるようにして膝をついた。

「あ、あんた怪我は…」

 ミクは弱々しく首を振った。

「いったい、何が…」

「……れが」

「え?」

「オレが悪いんだ!」

「…え?」

 ミクはぎちぎちと音がしそうなくらいに両手を握りしめ、頭を俯けたまま声を絞り出した。

「オレが呪いを治めようとしてるとこに行ったりしなけりゃ…ッ」

「お…」黒い男が口出しをする前に、アレナの「どういうこと?」という低い声がミクを打った。

「オレ、遠くからタキセが呪いを治める様子、見てて…でも呪いが広がって、タキセはオレを守って、う、腕を……」

 ミクが最後まで言う前に、アレナの手が宙を切った。

 パァン!

 思い切り頬に平手が決まったミクは、横に吹っ飛んだ。

「お、おい」黒い男がミクを助け起こそうとする。 

アレナはもう何も言わなかった。のろのろと顔を上げたミクの目と同じ色の瞳は、暗く冷たかった。男の手の中で、支えていた細い肩が硬直した。

アレナは赤いエプロンを翻してタキセの横たわる寝台に駆け寄り、目から大粒の涙をこぼした。

「腕を切り落として傷口を焼くぞ。だが、すでに大量に血を失ったこの状態でそれに耐えられるかどうかは分からん」

 医者が頭を大きく振ると、アレナは自分も血の気を失った顔に、絶望的な表情を浮かべて両手を硬く組み合わせた。

 床に尻をついたまま虚ろな目で空中を見つめるミクの腕を、黒い男は強引に引いて立たせた。

「…呆っとすンな。おめェ、タキセを助ける気あるか?」

 一瞬間を置いてから、ミクはすがるような目で男を見上げた。

「…助け、られる?」

「来い」

 男はミクの腕を持って引き摺りながら、外に連れ出した。ざわざわとした人垣を作る野次馬をかき分け家の裏手に回ると、腰を折ってミクの目を見た。

「しっかりしろよ。よく聞け」

 ミクの目には怯えがあったが、それでも小さく頷いた。

「あのままだと、タキセは死ぬ」

 ミクは息を止め、また激しく震えだした。男はそれを押さえつけるように、両肩をがっしりと掴む。

「俺はアイツに死んでほしくねェ。おめェもだろ?」

 何も言わずに見返すミクの目に肯定を見てとって、男は「お前が繰り師になるんだ」と繋げた。

「…え、」

「さっきのじいさんの件とは違う。じいさんは体ごと持っていかれたから、歪みに盗られた時間を取り戻すだけで全身無事に帰ってきた。だがタキセは体の一部を持っていかれたから、その一部を取り返しても、腕が元にくっつくわけじゃねェ。だから、過去を変える。タキセが死ぬ前にな。死んでからだと、過去を変えても生き返りはしねェ」

「か、過去は、変えちゃいけない、って…」

「例外はあるって言ったろォが。今がそれだ」

 その答えに、ミクはうろうろしていた視線を男の目に定めた。

「…どうすればいい?」

「これから俺はタキセとの契約の『結び』を解く。それから、おめェと『結ぶ』。それで契約は成立だ。あとは俺に合わせてりゃいい」

「わかった」

 言っている内容は半分くらいしか分からなかったし、何をするかは想像もつかなかったが、タキセを助けられるならなんでもいい。

 大通りから聞こえてくる人々の煩い話し声が、グッと遠くなった。



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