おととなる
土常小学校のチャイムが鳴る。その音は千光寺山に、山頂の私立美術館に、中腹の家々に反射して、海を越え向島まで響き渡っていく。かつて志賀直哉が書き綴った情景は、形を変えながらもここに生きている。車の音、船の音、自転車の音、行き交う人々の足音が、尾道を象徴していると篠本陽平は考えている。
彼は千光寺山頂の展望台から、夏の朝の光に照らされる尾道を見下ろしている。遮る物が何も無いため、遥か下界の街の音がよく聞こえる。尾道は音の街だ、篠本は心の中でそう呟く。
ばうばう。
背後を見やると雑種犬が二匹、ちょこんとおすわりしていた。荒い息を吐きながら濁り無い瞳でこちらを見てくる白ブチと黒を、篠本は相手にしない。山頂近くに住む老人が放し飼いにしているのだ。人懐こい二匹は、餌か何かを要求しているのだろうが、人のペットに餌付けをするほど篠本は常識が無いわけではなかった。
ポケットをまさぐり、餌の代わりに煙草を取り出す。火を付けて、展望台の手すりに寄りかかり、尾道に背を向けて、ゆっくり煙を吐き出す。
一吸い、二吸い、篠本が吸う度に煙草は短くなっていく。犬達は煙たいだろうが、未だに彼の足元を離れない。やがて彼は諦めたように、順番に頭を撫でてやった。彼は昔から、犬に好かれやすい体質だった。
ふと白ブチの瞳に映る自分の姿が目に入った。髪はすっかり伸びきり、まるで売れないバンドマンのようだ。髭はもともと薄いから目立たないものの、これでは社会人失格である。
そこまで考えて苦笑した…いや、もうとっくに失格していたな、と。
* * *
篠本陽平は小学校2年生の時に親の仕事の都合により尾道に越してきた。広島市からやってきた彼は地元の子供達にとっては都会っ子だったが、仲間はずれにされることなく、尾道の穏やかな人々に囲まれて、幼少期を、少年期を過ごした。
彼の家は千光寺山の麓にあった。細い道を越え、階段をいくつも登った先にある赤い屋根の家だ。彼の父は観光雑誌の仕事をしており、観光名所である尾道に居を構えることが夢だった。駅に行くにも一苦労の新居に妻は不満を並べていたが、篠本自身はまるでジブリ映画のようだと気に入っていた。
篠本は毎朝細い道を走り、階段を駆け上がったり飛び降りたりして土堂小学校へ通った。サッカーをするのもやっとの狭いグラウンドが、山に張り付くようにして建っている狭い校舎が、彼の学び舎であり遊び場であった。
学校が終わるとすぐに、彼は地元の友人達と出かけた。毎日毎日飽きもせず魚を釣り、フナムシを追いかけ、路地を駆け抜け、虫を捕り、犬や猫と戯れて遊んだ。
* * *
連絡船が波をかき分け、土堂港に停泊する。タラップが岸に下ろされると、自転車に乗った高校生達が我さきにと国道二号線目掛けて走り出す。やや遅れて、車と歩行者が船を降りる。そのペダルを踏み込む音が、エンジンの音が、靴がアスファルトを踏みしめる音が、風の音や蝉の声や色んなものと交じり合いながら、山頂にいる篠本の元まで届いてくる。
ほどなくして、乗客をすべて降ろし終えた連絡船はまた別の乗客を乗せて土堂港を出る。そして向島港に停泊していた連絡船とゆっくりすれ違い、尾道と向島を繋ぐ航路を紡ぐ。通勤の、通学の足として、船は行き交う。繰り返し、繰り返し。
日が昇るにつれて、千光寺公園には観光客や犬の散歩に来た地元の人が増えていく。こんな高いところまで登ってくるとは健脚なことだと、彼は自分のことを棚に上げて考える。
先程まで篠本の足に寄り付いていた雑種犬達は、散歩中らしきコーギーと戯れている。そのコーギーを連れたおばさんは、商店街の雑貨屋の店主だ。篠本は犬達がじゃれあう様子を見届け、すっかり短くなった煙草を携帯灰皿に押し込んでから、展望台を降りた。
千光寺公園は、山の頂上を整備した公園である。駅前から登ろうとするととてつもない急勾配だが、回り込めば車で登ることも可能である。
篠本はというと、いつもその急勾配な道から登り降りしていた。山頂の東にあるロープウェー側の階段を下り、文学の小道と名付けられた山道を歩く。瀬戸内の乾いた日差しを木々が遮り、暑さがやわらぐ。それでも太陽は彼を汗まみれにするのに十分なほど厳しかった。木の根や岩を避け、蝉の鳴き声の中を歩いているうちに、彼は千光寺に辿り着いた。岩の階段を下りて本堂へと上がると、ちょうど僧正が賽銭箱を出したところであった。ポケットを漁り、レシートと一緒にくちゃくちゃになっていた小銭を、数えもせずに賽銭箱に突っ込む。願い事をしたわけではない。ただそうしたかっただけだ。訳も無く、歳に似合わない衝動だった。
しばらく休憩して、また下山を再開する。
本堂を背にして石段を降りると、何人もの観光客とすれ違った。彼らは、彼女らは、尾道の風景を見るために展望台を目指して山を登る。きっといい景色が見えますよと、篠本は心の中で語りかける。
階段を、一歩一歩踏みしめてしっかり下っていく。少年の頃は疲れ知らずの足で縦横無尽に駆け回っていたが、もう二十六歳になって久しい彼にそんな元気は無い。ただ翌日に疲れを残さないよう、身体をいたわりつつ下りる。
やがて山の中腹にある広場についた。登山に疲れた観光者の憩いの場であり、林倭衛の写生地でもあり、猫集会の場でもある広場だが、餌遣りが終わってしまったのだろうか、すでに猫の姿は見えなかった。少々残念な気持ちになりつつも、篠本は下山を続ける。
手すりの無い階段を下り、やがて彼は看板の前にたどりつく。南、尾道市街。東、志賀直哉旧居。逡巡して、彼は東の、細い路地へと足を向けた。
* * *
篠本には小冒険をともにする、仲の良い友人達が居た。彼らは連れ立って遊びに出かけ、時に喧嘩をしつつ、少年期をともに過ごした。
「おばちゃん!いつもんやつちょーだい!」
「ワシも!」
「ウチもー」
商店街の精肉屋で一個五十円のコロッケを買い、軒先のベンチに座って三人並んで食べた。
「ごぉらクソじゃりども!船ば触るな言っちょるじゃろ!」
「にっげろー!」
「「わー!」」
港に停泊していた漁船に乗り込もうとして見つかり、三人散り散りになって逃げた。
「蝉って食えるらしいぜ」
「ほんまけ?」
「ウチやらんけんね!陽平言いだしっぺじゃけやりんさいよ!」
山を駆け回って虫籠いっぱいの蝉を持ち帰り、親を卒倒させた。
二十年前のことである。まだ小学校と、家庭と、尾道だけが世界の全てだと思っていて、その世界の全てが彼に優しかった頃の話だ。
* * *
篠本は無遠慮に引き戸を引く。ガラスサッシががたがたと音を立て、来訪者があることを家の主に告げる。
「はーい………って陽平やないの。えらい早ようから元気じゃねぇ」
奥の部屋から飛び出してきた女性もまた、篠本に無遠慮な言葉をかける。
「えらいご挨拶じゃな。今日は客として来ちょるんじゃけん、客扱いしろぃ」
そう言いながらポケットをまさぐるが、レシートしか出てこない。舌打ちをして、先ほど賽銭箱に有り金の全てを入れたことを思い出した。
「えーてえーてお金なんか、お茶入れてくるけん待っとき」
女性が再び奥に引っ込むのを見て、篠本は黙って土間に備え付けられた椅子に座る。彼の目の前には志賀直哉の著書や関連書籍、新聞記事などが並んだ机が鎮座しているが、今更それを手に取るようなことはしない。尾道で育った彼にとって、この志賀直哉旧邸はただの遊び場であった。
ふと足元を見ると、三、四歳ほどの男児が立っていた。男児は顔をしかめて篠本に言う。
「ようへい、くさい」
ぐうの音も出ない。
「ほんと陽平煙草臭いわぁ、さっさとやめんさいよ」
お盆に麦茶を載せ、先ほどの女性がポニーテールを揺らしながら戻ってくる。男児は篠本から小走りで離れると、その女性の膝元にしがみついた。
「………やめよう思うてもやめられんのじゃ、煙草はそういうもんじゃけん」
篠本は女性からグラスを受け取ると、ヤニ臭い口で麦茶を飲む。カラカラと氷が音を立て、季節が夏であることを主張する。
一息ついて、部屋を見回す。へたれたクッションばかりの椅子、本や記事の切り抜きが置かれた机、地元イベントや展覧会のポスターが貼られた壁、その向こう側に受付があり、女性と男児はそこでくつろいでいる。受付の右手に志賀の居室があるが、篠本のような地元民は何ら興味を持たない。昔の彼にとってここはただのクーラーの効いた休憩室であり、それは今も変わっていないようだった。
* * *
志賀直哉邸は、20年前も今と何ら変わらない民家であった。クッションがあり、ポスターがあり、受付があって、志賀の部屋も、何一つ変わっていない。
「あら、よぉ来たねぇ」
受付の女性が星谷の祖母であったことが、今と違う唯一の点だった。
「おばあちゃーん」
篠本は物心ついてから祖父母に会ったことがなかったため、仲睦まじい星谷達が羨ましかった。
星谷の祖母は、志賀邸を休憩場としか思っていない孫娘とその友達を、それでも歓迎していたようだった。海で、山で、路地で遊び疲れた篠本達にジュースをやり、たまに観光客の相手をする、それが星谷の祖母の日課であった。
ある日のこと。
篠本達は椅子に座り、缶コーラを飲みながら志賀直哉を訪れる旅行者を眺めていた。尾道で生まれ育った星谷と小原だけでなく、篠本もまた広島から出たことがなかった。学校では都会っ子として仲間の中心にいた彼だが、標準語を話す本物の都会人の前では大人しくする他なかった。
「ほんもんの都会人ブチかっこよない?」
ある時、小原がそう言った。
「うちも思うー!標準弁使いよるけん、テレビみたいじゃ」
篠本の記憶では秋頃の出来事であった。色付き始めた紅葉が、志賀邸の軒先で揺れていたのを覚えている。
二人が話しているのを聞いて、彼は子供ながらにもやもやとした感情を覚えた。ほんもんの都会人。小原は悪気なく何気なく使っただけだろうが、学校では都会っ子都会っ子と持て囃されている篠本にとって、その言葉は無視出来ないものであった。あいでんててぃのそうしつだ。テレビで聞きかじった言葉を、篠本は口の中で呟く。
ぐっぐっとジュースを飲み干し、そんな気分を晴らすように勢いよく立ち上がる。
「休憩終わりじゃ!釣り行くけぇ竿持って港集合な!」
小原も星谷も、自らの言葉が棘となって篠本に刺さっていることに気付いていないようだった。彼らはその後も変わりなく小冒険を共にしたが、彼らの間に生まれた歪みは年月を重ねるごとに大きくなっていった。
* * *
今年で三歳になる星谷の息子と遊んだあと、篠本は志賀直哉旧邸を後にした。階段を下り、塀に囲まれた細道を歩き、目元がよく似た星谷親子が、軒先でまだ手を振っているのを見届けて、千光寺へと続く坂道に戻ってくる。陽はすっかり高くなり、行き交う観光客も増えた道を、篠本は坂の下の商店街の方へと歩き出した。
山の麓を走る線路の下を潜ると、ちょうど電車が彼の頭上を通りすぎるところであった。轟音が耳をつんざき、土埃が降り注ぐ。子供の頃はこのタイミングを見計らって線路下に潜り込んだものだが、今考えると何が楽しかったのだろうか。わざわざうるさくて汚れる場所に行って………若さだろうか。
線路を潜り、国道二号線を渡ると、もうそこは商店街のアーケード内だった。照明は光量不足で昼でも薄暗く感じてしまう。観光客は物珍しそうに辺りを見渡しながら歩いているが、篠本や地元の人々は迷いなく歩く。様々な人が混じり合っているように見える商店街だが、二者の違いは明確に表れている。
篠本は商店街を西に歩く。
髪の薄い店主が経営する小さな薬局を、帆布や陶器がひしめく土産屋を、煤けた看板のラーメン屋を、銭湯を廃業して観光客向けの入浴製品を販売するようになった雑貨屋を、揚げものの匂い漂う精肉屋を、文鳥やインコや九官鳥が騒がしくさざめくペットショップを、閉店ののぼりを掲げた小さな土産物屋を、眉間に皺を寄せた老人が店番をする刃物屋を、志賀直哉の著書をもじった店名のパン屋を、学生旅行者に人気のゲストハウスを、資料館に改装した旧商工会議所を、そしてそれらの店の数と同じくらいのシャッターを通り過ぎ、やがて町家を改装したモダンな喫茶店の前で立ち止まった。細長い店内の客入りがまばらであることを確認すると、彼はドアベルを鳴らしながら店内に入る。
「………おお陽平け、らっしゃい」
黒いエプロンを身につけた小原が、コーヒー豆を挽きながら篠本を出迎えた。ゆったりとしたブラックミュージックが流れる店内の、一番奥のカウンター席に篠本は腰を落ち着ける。
篠本が注文を告げる前に、小原はすっとブラックコーヒーを差し出す。篠本は驚かず、湯気をたてるそれに口をつける。
一息ついて、篠本はコーヒーの水面に目をやる。幼いころは背伸びの道具として飲んでいたブラックを、いつからか本当に好きになってしまった。この喫茶店が変わってしまったように、俺もまた変わってしまったのだ、いや、「しまった」なんて言葉はマイナスすぎて使いたくない。しかし、それ以上に相応しい言葉を見つけることが、彼にはできなかった。
* * *
中学校に入学して、その他大勢の少年と同じように篠本にも反抗期というものが来た。家出を繰り返し、友人の家を泊まり歩き、学校に行かない日が何日も続くこともあった。同じような反抗期を過ごした父はそのうち収まるだろうと踏み、妻にそっとしておくように告げた。
かくして自由を手に入れた篠本だったが、彼が屋根を借りる場所は決まって小原家であった。
「おっす」
「うわまた来たんけ、ビビるけん窓から入んなゆーちょるじゃろ」
篠本が小原家にいると知っているからこそ両親も彼の家出を責めないのだが、果たしてこれが家出だと言えるのかということについては、他ならぬ篠本が最も疑問に感じていた。
「スマブラ持ってきてやったけん、こまいことぁええじゃろ」
しかしそれでも彼は家を出る。上手く表現出来ない衝動が身体の中を駆け巡るのを感じては、夜な夜な静かに眠る尾道を歩き小原家にたどり着いた。
「陽平ピカチュウ使うん禁止な、ワシ勝てんけん」
そうして二人で、たまに星谷も交えて三人でゲームに没頭するのが、中学生になった彼らの日常だった。
いつしか坂道を駆け回らなくなった。いつしか釣り竿をしまったっきりになった。いつしか虫に触れなくなった。
勉強して知識が増える度、行動範囲が広がって世界が広くなる度、出来ないことが増えていった。
こうやって日々をつまらなくしていって、どこにでもいるようなありふれた大人になるのだと、中学生の篠本は感じていた。
* * *
カップの底に黒い汚れがこびりつく様を眺めながら、篠本は煙草を取り出して口にくわえる。しかし火をつける前に、カウンターの向こうから伸びてきた手にそれは奪い取られた。
「どアホぅ、ここぁ禁煙じゃ」
小原はそう言いつつさり気なく自分の胸ポケットにセブンスターを押し込む。篠本も小原も、共に吸い始めたころからこの銘柄を愛煙していた。
篠本は取り上げられた煙草を諦めてコーヒーのお代わりを頼む。待っている間にモノクロの色調で統一された店内を見渡して、そこかしこから標準語が聞こえてくることに気が付いた。備後弁でも、広島弁でも、関西弁でもない。
「今日は観光客がぶち多いのぉ」
コーヒーを注ぐ小原にそう言うと、彼はカウンターに置かれている雑誌を指して答えた。
「陽平のオヤジさんのおかげじゃけん」
篠本は席を立ち、自分の父親が発行している観光雑誌を手に取る。カラフルな文字が踊る表紙をめくった五ページ目に、この喫茶店が載っていた。席に戻り、コーヒーをすすりながら全体を流し読む。写真、グルメ、ホテル、土産物、史跡、イベント…かつて出版社に勤めていた篠本の目から見ても、文句のつけようのない文章、レイアウト、構成だった。亀の甲より年の功とはよく言ったものだ。長年培ってきたセンスと、尾道に越してきてから築き上げた近隣住民との信頼関係が、この一冊に凝縮されていた。
「………えーな」
「えーじゃろ」
二人は生まれ育った尾道を、篠本の父が手がけた雑誌の中から眺めていた。
* * *
歳を重ねるごとに篠本の家出癖は治まっていったが、その衝動は形を変えて彼の胸の中で膨らみ続けた。尾道東高校の教室からしまなみ海道を見下ろすとき、商店街を自転車で走り抜けるとき、自室のベッドに寝転がるとき、何気ない日々を過ごす一瞬一瞬に、彼はその衝動が全身を湧き上がるのを感じていた。
この街を出たい。
「陽平ー進路調査ん紙センセイが出せぇ怒っちょったで」
高校2年生になって、小原はクラス委員に、星谷は生徒会になりそれぞれ忙しい日々を送っていたものの、三人は相変わらず連れ立って遊んでいた。小原は飄々とした態度で、星谷はポニーテールを揺らしながら、篠本と行動を共にしていた。
「ああそうじゃったな」
スマンなと言いつつ、篠本は小原に進路調査票を渡す。何気なく、悪気なく小原はそれを覗き、そして驚きの声を上げた。
「お前東京行くんけ!?」
ずっと決めていたことだった。きっかけはきっと、小学生のときに聞いた小原の言葉だが、それはあくまでもきっかけにすぎない。彼にこの決断をさせるに至ったのは他ならない彼自身だ。
広島から来た半端な都会人じゃなく、『ほんもんの都会人』になりたかった。外で遊ばなくなったのはそれが田舎臭い遊びだと思っていたからだ。
小さい小さい尾道から出て、もっと広い世界に出たかった。家出癖はその衝動の表れだ。
「………」
小原は尚も何か言いたげにしていたが、チャイムがそれを遮る。篠本は彼の視線を無視して席に戻り、東京の大学へ進学するべく授業の準備をした。
* * *
喫茶店を出たあと、篠本は駅前に来ていた。再開発の波を受け、駅前には複合商業施設や交流館が立ち並んでいる。かつての自分はこの開発をどう思っていたのだろうか。田舎が観光客を呼ぶためにみっともなくあがいているだとか、都会の真似事をしているだとか、きっとそういう考えだったはずだ。しかし社会というものを経験した彼にはもう出来ない考えでもある。雜誌社で働き様々な業界を見てきた彼には、企画を起こすためのコストや労力などが感覚的にわかってしまう。スレた高校生が抱いていた感情なんてものは、ただの世間知らずでしかなかった。
彼は真新しい駅から視線を外し、先ほどまで歩いていた商店街に目を移す。あのアーケードの中に軒を連ねる店々は、子供のころからやっている店を探すことの方が難しいだろう。シャッターを閉ざした店もある、小原のように代替わりの際に新装開店した店もある、全く別のテナントが入った店もある。駅舎と同じようにこの商店街も、時代に合わせて変わっていった、いや、変わるしかなかった。生き残れた店と、生き残れなかった店があった、それだけのことなのだろう。
篠本は桟橋に向かって歩く。陸と島に挟まれた海道は何時も通り穏やかに凪いでいる。平日の昼日中ではあるが近所の老人達が釣りに来ていて、彼はしまいっぱなしになっていた釣竿のことを思い出した。
船着場としての役目を終えた桟橋にはベンチが備え付けられている。これも駅舎の開発に伴って設置された、観光客向けのものだ。篠本はそこにどっかりと座り込む。
瀬戸内の海は雲が少なく、風も無い。波音も潮の香も穏やかな海域は造船には持ってこいの場所で、呉や倉敷のように尾道も造船業が盛んだった。世界大戦が終わり、日本が敗戦国となったことで造船の時代は終わりを告げたが、尾道の人々は観光業に活路を見出し、方向転換することで生き残った。かつて尾道の人々を支えていた向島の造船所は、今観光資源となって尾道の人々を支えている。
篠本は尾道港のベンチから向島を眺める。造船所のクレーンが3つ4つとそびえ立ち、その向こうの山肌に張り付くようにして家々が立ち並ぶ。西に視線を移せば灯りの点っていない灯台がこじんまりと収まっているのが見え、東に視線を移せば行き交う連絡船とその遥か向こうに架かる尾道大橋が見える。駅舎や商店街のように変わらざるをえなかったものもあるが、この景色は、昔から変わっていない。クレーンが瀬戸内の空にむかってすっくと立ち、家々が立ち並び、船が波をかき分ける。
篠本はベンチから向島を眺める。
* * *
高校三年生になって、篠本は意識的に三人一緒にいる時間を減らした。気が向けば家に行き遠慮なく遊んでいた仲だったが、勉強だなんだと理由をつけて家に行かなくなった。家業の定食屋を継ぐ小原も、県内の大学の指定校推薦を目指す星谷も、相談もせずに東京へ行くと告げた篠本の変化に気づき心配していたが、彼は気づかないふりをして受験勉強に没頭していた。
篠本の両親は彼の東京行きに反対はしていなかった。母親はさりげなく大阪の大学を進めることもあったが、父親がそれを説得していたようだった。観光の仕事をしているからこそ、尾道で一生を過ごすことがどれだけ難しいかということを理解していたのだろうと、篠本は今になって思う。
しかしその時の彼は、尾道に居を構える親のことが理解できていなかった。広島市内から来ただけで都会人と持ち上げられ、かえって都会にコンプレックスを抱くようになってしまった彼は、尾道という片田舎に住むことを決めた両親のことを半ば軽蔑していた。両親だけでない、彼は幼馴染である小原や星谷のことも軽蔑するようになっていた。こんな田舎で、何もないところで一生を終えるなんて馬鹿みたいだと、本気でそう思っていた。
夏が過ぎ、秋が過ぎ、受験戦争が本格化するにつれて、彼は自分と同じような県外組と勉強をするようになった。そして小原や星谷とはますます疎遠になっていった。
狭い尾道を出て、広い世界を見て、都会の大学に通って、東京の街で遊んで、首都で働くようになる、十八歳になったばかりの彼は、本気でそう思っていた。
* * *
連絡船が土堂港から出港する度にチャイムがなる。そのチャイムがごく稀に土堂小学校のチャイムと混ざり合い、不協和音を奏でて尾道中に響き渡ることがある。篠本はその不協和音に顔をしかめながら起き上がった。頭をがしがしと掻きながら辺りを見渡して、ようやく自分が寝ていたことに気づいた。夏の長い陽が傾き、瀬戸内海を赤く染め上げている。昼も食べずに長い長い昼寝をしてしまったことに、腹の虫が盛大に抗議の声をあげている。
篠本は錆び付いた頭を動かすためにベンチから立ち上がり、背伸びをする。エビぞった姿勢のまましばらく空を見上げて、そして立ちくらみを起こして再びベンチに舞い戻る。二十半ばの男がどっかりと腕を広げて港のベンチに座る様は中々異様だろうが、そんな眩暈と戦う彼に声をかける人物がいた。
「よっ、おっさん」
「………抜かせ、ワシがおっさんならお前はババァじゃ」
篠本は振り返らず、海に顔を向けたまま星谷の軽口に答える。
「レディになんて口聞くんねアンタは」
レディ。篠本は首をひねるが、二十年近く幼馴染をやってきて、彼女のことを女扱いしたことがてんでなかったことに思い当たる。
星谷はベンチを回り込んで篠本の隣に腰を下ろす。
「冗談に決まっちょるじゃろ、なんね、東京にツッコミも置いてきたんけ」
風の無い尾道の港では、星谷の長いポニーテールは揺れない。篠本の昔の記憶では彼女が髪を揺らす姿が浮かんでくるのだが、あれはきっと風によってではなく、星谷自身が走り回っていたからなのだろう。大人になった彼女のまとめ髪が揺れることはきっともう少ないのだろうと、篠本はぼんやり考える。
「宏太はどしたんじゃ」
篠本は星谷の息子がいないことに思い当たる。彼女は食品で溢れるエコバッグを抱えているが、いつも手を引いている息子の姿が見当たらない。
「寝ちゃったけんお母さんに見て貰っちょる。その隙に買い物」
「なるほど」
そのまま二人で海道を眺める。夕陽が傾くにつれて、行き交う船はその数を減らしていく。凪いだ海をかき分けて人々を帰路へと運ぶ連絡船。これから漁場へ向かうらしい漁船。何かを運んでいる小型タンカー。尾道が夜に染まる度、数少ない家々が灯りを灯す度、灯台の灯が回る度、狭い海を渡る船の音は聞こえなくなっていく。
「………えーな」
「何が?」
無意識の内に呟いた言葉を、耳ざとい星谷に拾われる。篠本は連絡船を下りて、徒歩で、自転車で、車で家路を急ぐ人々の音に耳を傾け、聞こえないふりをした。
「なんね、もう」
冗談をスルーされ、聞き返した言葉も無視された星谷は少々ヘソを曲げてしまったようだった。重たいエコバッグを持ち上げて、潮風で錆びたベンチから勢いよく立ち上がる。
「帰るっ」
ベンチに深く座ったまま首だけ振り返ると、星谷は足を投げ出すようにしてずんずんと歩いていくところであった。それは機嫌の悪い時の星谷の癖であり、まだ変わってなかったんだなと篠本は懐かしい気持ちになる。
「………千枝ー」
その懐かしい気持ちのまま、首だけ後ろに向いたまま、商店街に向かって歩く星谷に呼びかける。
「なんねー」
アーケードの逆光で彼女の表情は見えないものの、きっと昔のように口を尖らせて拗ねた表情をしているのだろうと、篠本は思った。
「呑みに行こーやー」
* * *
猛勉強の成果か、篠本は全国的にも有名な東京の私大に合格した。尾道東高校始まって以来の成果らしく、担任も校長も諸手をあげて喜んでいた。頑張りなさい、頑張れよと肩を叩かれた彼は、ただ殊勝に頷いていた。
合格してからも彼の生活は慌ただしく、引越しの下見や家具の用意や入学手続きなどで忙殺され、小原や星谷らとゆっくり話せたのは卒業式当日だけであった。
「寂しゅーなるのぉ」
「うそこけ、んなこと思っちょらんじゃろ」
春の日差しで温まった体育館の壁に寄りかかって、三人は軽口を叩きあっていた。
「ウチがおるじゃろー」
「お前かて福山大じゃろ、地元民としての気合が足りんのじゃ」
小原も星谷も尾道に残る。篠本は東京に行って、そのまま向こうで就職して、もう戻らないつもりだった。この三人が揃うことはもう少ないのだろうと、彼は感じていた。
「えーじゃろー福山も尾道も東京に比べたらどんぐりの背比べじゃ」
「ちゃいますー尾道は唯一無二なんですー」
二人がいつものように冗談を飛ばし合うのを横目に見ながら、彼は卒業証書の筒をクルクルと回していた。耳をすませば別れに涙する生徒たちの声が、校舎のあちこちから聞こえてくるが、篠本達はいつも通りだ。湿っぽい話が似合わない彼らは、卒業式でも何も変わらずいつものように遊んでいる。
「久しぶりにスマブラでもやろうや」
学び舎の壁から背を離し、篠本は言う。名残惜しい気持ちがないわけではなかった。しかし東京に行くと決めた本人がそんなことを言ってはまるで示しが付かない。気持ちを押し殺して、いつもの口調でそう言った。
「えーで、あとでワシんち集合な」
「ウチ着替えるけん三十分後ね」
そのあとはいつものように遊び、いつものように小原家でご馳走になり、いつものように解散した。大仰なお別れ会を開くようなこともなく、至って普通に篠本は彼らと別れ、そのまま上京した。
* * *
尾道の夜は静かだ。寺や史跡、風景が主な観光資源である街は、早い時間に観光客も街も眠りについてしまう。商店街はシャッターを下ろし、船は港に繋がれ、人々は遊ぶ場もない街から帰路に着き、ただでさえ静かな街が更に静かになる。起きているのは灯台と猫、それに夜更かしな大人達だけである。
その夜更かしな大人達は小原の喫茶店に集まっていた。
「うちは喫茶店じゃ言うたじゃろ」
店主である小原は、不機嫌そうに言いながらも手際よくツマミをつくる。卵焼きや砂肝、塩キャベツなど渋い料理が洒落たテーブルの上に並ぶ。
ひとしきり料理が出揃い、小原もエプロンを脱いで卓に着く。三人は缶ビールをグラスに注ぎ、高く掲げて誰ともなく乾杯の音頭を取る。
「「「かんぱーい」」」
行き交う人もなく、灯りだけが寒々しい光を放つアーケードに声が響く。
彼らの宴会は平和に進んでいった。酒を飲み、昔の話に花を咲かせ、ツマミを食べ、ご近所さんの噂話をし、星谷は息子の愚痴を、小原は客の愚痴をこぼしつつ、遠慮も何もいらない幼馴染達は時間を忘れて語り合った。
時計の短針が二周する頃、ぽつりと小原が呟いた。
「ほんに………よぉ戻ってきてくれたのぉ陽平」
篠本はウイスキーをちびちびと傾けながら彼の呟きを聞いていた。
「お前がおらんのぅなってから暇で暇でしゃーなかったけん、またゲームでもしようや」
小原は酒に弱い。篠本が尾道に里帰りしたのは数えるほどしかなく、三人で酒を呑んだのも三回ほどしかないが、いつも先に寝てしまっていた。首まで赤い小原は、グラスを片手にうつらうつらしている。
「そうじゃのぉ………また………釣りに………」
小原はもごもごと呟いた後、机に突っ伏して寝てしまった。彼の手からグラスが滑り落ち、テーブルをごろごろと転がってビールの水たまりを広げる。
「あーあーもーホントにこいつは」
篠本は琥珀色のウイスキーを飲みながら、星谷がテーブルを片付けるのをただ見ていた。手際が良いのは昔からだったか、それとも一児の母となったからか、などと考えながら酒を呑む。
星谷はついでとばかりに洗い物を片付け始めた。食器同士が擦れ合う音がキッチンから響いてくるのを聞きながら、篠本はグラスを傾け続ける。秒針が回り、分針が回り、短針がゆっくりと回る。篠本は星谷が再びテーブルに着くまで酒を呑み続けた。
「どうする陽平?ショウほっといて帰る?」
机に肘をついて、星谷はだらしなく口を開けて眠る小原をつつく。んが、と間抜けな声を上げる彼を、篠本は無表情に見つめて言う。
「………えーわ、起きるまでワシが見ちょくけん、千枝はもう帰っちょき。宏太が起きたら面倒じゃろ」
「そ、じゃあ遠慮なく」
篠本はテーブルに残された枝豆を見つめながら言う。星谷が帰り支度をするときも、椅子を引いて立ち上がるときも、ドアベルを鳴らして外へ出ようとするときも、星谷が篠本に向けて話しかけるときも、顔を動かさなかった。
「陽平、ウチもな、あんたが戻って来てくれてよかったって思っちょるけんね…それだけ」
ドアベルの余韻が店内から消えたころ、ようやく篠本は顔を上げた。そして真新しい天井を見つめながら、やはり尾道の夜は静かだ、などと考えていた。
* * *
篠本は幼少期とは別の方法で大学に馴染んでいった。広島弁と関西ノリを武器にして、サークルやゼミやバイト先で自分の立ち位置を作っていった。
ケータイに登録された東京の友人のアドレスは、一ヶ月で尾道の友人の数を上回った。複雑怪奇な東京の路線図も、スマートフォンのアプリを駆使して乗りこなした。頭痛と吐き気を催すような通学ラッシュも、段々慣れていった。
東京での居心地が良くなる度に両親や幼馴染と連絡をとることは無くなり、帰省の回数も減っていった。最後に帰ったのは卒業間際となった四年生の正月だった。
「寂しゅーなるのぉ」
「うそこけ、んなこと思っちょらんじゃろ」
いつかしたような会話をしつつ、彼らは小原家の定食屋で鍋をつついていた。鍋の熱気とアルコールとで上気した顔に笑みを浮かべつつ、小原は続ける。
「結局東京も行けんかったしのぉ、ワシらも働き始めたらいよいよ会えんくなる」
篠本がかつて抱いていた軽蔑の念は、東京で過ごすにつれて薄くなっていた。いつもこうだ、と彼は思う。いつか抱いていた感情は、その時は激しい衝動になって行動を起こさせるけど、いざ行動を起こせばあっさりと消えてしまう。年だけ無駄に重ねて、精神はまるで成長しない。
「なんねそのウチも入ってるみたいな言い方」
口を尖らせて拗ねた口調で言う星谷にビールを次ぎながら、小原が茶化す。
「千枝はええのぉ、永久就職たぁ気ままなご身分で」
篠本の就職が決まったころ、小原から電話があった。それぞれ自分の近況を話し合った後、小原が神妙な声で告げたのは星谷の結婚話であった。
『はぁ!?嘘じゃろいくらなんでも』
『こんなくだらん嘘つかんわい。福山のバイト先の先輩らしいぞ、もう婚約もしちょるらしい』
篠本はその時、自室の窓に写る自分を見ていた。苦虫を噛み潰したような、熱い物を一気飲みしたような、なんとも形容しがたい顔をした男が東京の街に浮かび上がっていたのを覚えている。
『寂しゅーなるのぉ』
あの時も小原はそう言っていた。小原の精神も成長していないようで篠本は少し安心する。星谷が家庭を持つ覚悟を持って、そのうえ小原にも置いてかれてしまっては敵わない。かつて田舎で一生を過ごすと見下していた二人に先を越されてしまうわけにはいかなかった。
『おぉそう言えばうちなんじゃけどな、多分来年からワシが店長になるけん、サービスしちょいちゃる』
そしてその思いも、すぐに小原の言葉によってかき消される。
『………オヤジさんとうとう腰めがしたんけ』
ごつりと窓に額をぶつける。成長していないと、今さっきまで思っていた小原にも追い抜かされた。篠本が東京の大学で遊んでいる間に、星谷は家庭を持つ覚悟を、小原は店を背負う覚悟を決め、未来へと歩き出していた。
『いや、なんちゅーか………胃癌、みたいでな、じゃけん、ワシが継ぐことになった』
いつのまにか置いていかれている。東京で、日本の中心で暮らし、流行の最先端を追う雜誌社から内定を貰った篠本は、それでも焦った。東京へ行って、良い大学から良い会社に入って、立派な社会人になって故郷の皆にいいところを見せたいという、古い昭和のような考えを持った篠本は、故郷の幼馴染が彼より早く社会人として自立していくことにただただ焦りを覚えていた。
『………正月にそっち戻るけん、お見舞い行くわい』
その時の彼にはその言葉を吐くのが精一杯であった。
篠本は小原が継いだ食堂を見渡す。脂ぎった壁や煤けた天井はお世辞にも綺麗とは言い難いが、彼にとっては心の底から落ち着く光景だった。だったが、
「改装してカフェにするたぁ思い切るのぉ」
篠本の言葉に星谷も頷く。
「そーじゃね、ウチらの憩いの場じゃったのに、もったいない」
鍋の火加減を調節し、具材を追加して、合間に飲み食いをしながら、小原はほろ酔い顔で答える。目尻は下がり、首元まで真っ赤の、いつもの顔だ。
「ワシかてな、ワシかてこの店潰したくないんじゃ。ほいじゃがな、観光客なしで生きてけるほど、尾道に力はないんじゃ」
その言葉で篠本は黙り込んでしまう。外に出たからこそ尾道がどれだけ田舎なのかがわかっていたし、感情論で話すほど子供でもなかった。
黙々と鍋をつつく篠本の言葉を代弁するように、星谷が口を開く。
「頭で理解してても、感情は止められんけんね、寂しー言うぐらいは許してよ」
そうだそうだと心の中で擁護しながら、篠本はグラスを傾ける。尾道を捨てた自分には発言権が無いと思っている彼は、ただ心の中で呟く他ない。
しゃーないのぉと笑っている小原が一番つらいのだろう。しかし当の本人はそんなつらさをみじんも感じさせず、赤ら顔で笑う。
「そーじゃ、今のうちに写真撮りゃせんか?記念じゃ記念、撮りまくるけん」
篠本はその時の写真を持っていない。東京へ帰る時にどこかに紛れて無くしてしまった。彼は四年経った今でも、そのことを悔やんでいる。
* * *
篠本は酒を呑む。
静かな店内では、テーブルに突っ伏して眠りこける小原のいびきと時計の針の音だけがやけに大きく聞こえる。
卓上にわずかに残された枝豆を、時折思い出したようにつまみながら、篠本はただただぼんやりと酒を呑む。
かつて皆で鍋を囲んだ定食屋の面影は、もうどこにもない。カウンターも取り壊し、外壁も内壁も塗り直し、小洒落た家具を取り揃え、観光誌やネットで大々的に宣伝し、お洒落な観光客向けの喫茶店へと変貌している。
篠本はその喫茶店で酒を呑む。
ただ静かに酒を呑む。
* * *
働き始めてから、篠本は帰省することができなくなっていた。来る日も来る日も仕事に追われ、たまの休みはひたすら疲れを癒すだけ。会社を出る時間が二十二時より早くなることは滅多になかった。
それでも篠本が仕事を続けていられたのは、ただの意地であった。家庭を守る星谷に、店を守る小原に、負けたくないという意地だった。社会人として遅れを取っている分早く出世しなければ、郷里の仲間に示しがつかないという意地だった。勝手に東京まで出てきて、おめおめと帰れないという意地だった。
ただひたすら食らいついた。栄養剤を飲み、キーボードを打ち、ぼやける目で校正をし、記者について現場を回り、接待の後も会社に戻って資料を作り、同期が先輩が辞めた穴を埋めるために休日出勤を繰り返し…負けたくないという、子供じみて漠然とした意地のために彼は働き続けた。
二年、三年と、篠本は脇目も振らずに働いた。部下ができ、重要なプロジェクトを任されるようになった後も、彼の無茶な働きぶりは止まらなかった。郷里から届いた星谷の出産の知らせと、小原の店の新装開店の知らせは、彼を急かすのには十分すぎた。意地に油を注いで、彼はよりいっそう仕事に打ち込んでいった。泊まりこみも増やした。給料は仕事の疲れを癒すためだけに使われていった。案件を片付ける度に、もっともっとという渇きが彼を突き動かしていった。
ある時、篠本はふと限界だと感じた。
何かきっかけがあったわけではなかった。仕事は順調だった。スマートフォンアプリの開発プロジェクトは上手くいっていた。ミスもない、不安要素もない、関係各社との連携も取れていた、部下が使い物にならないということもなかった。実家から彼を心配するメールが届いたわけでもない、幼馴染達から新たな連絡があったわけでもない、尾道を旅する番組を見たわけでもない。ただ、もう無理だと感じた。何が無理なのか、身体か精神か。それすらも判然としない。ただコップに水を注ぎすぎて溢れただけなのか、コップにひびが入っているのか、それとももう割れてしまっているのか。
それを感じたのは、鳴り止まない電話が響き渡る課の、書類がうずたかく積もっている自分のデスクに腰掛けている時だった。彼は拙劣な筆跡でたどたどしく退職願いを書き、そのまま課長のデスクに提出した。上司も同僚も考え直せと言ってきたが、誰一人彼を心配する者はいない。あぁ、自分は仕事だけでしか、彼らと関わっていなかったんだと思うと、無償に悲しくなった。彼は皆の静止を振り切って会社をよろよろとまろび出た。
気が付くと篠本は自分のアパートの玄関で立ち尽くしていた。どこをどう通って帰ったかも定かではない。持っていたはずのバッグも見当たらない。会社を出たのは昼前のはずだったのに、部屋の中には真っ赤な西日が差している。ふと汗をだらだら流していることに気がついて、今が夏であることを知った。
緩慢な動作で靴を脱ぎ、亡者のような足取りで廊下を抜け、部屋にたどり着き、ベッドに崩れ落ちる。ばふんとホコリが舞い、部屋中を漂う。思えば布団を干したのはいつだろう。掃除をしたのはいつだろう。役目を果たしていないキッチンにはクモの巣が張り、ベッドの周囲だけが獣道のようにホコリが積もっていない。部屋中に栄養ドリンクの空瓶が散乱し、うずたかく積もっている。まるで生活感のない部屋。本棚は押し込められた資料で溢れていて、漫画の一冊も見当たらない。寝巻きとスーツ以外は着ることがないから、クローゼットも固く閉ざされたまま。
篠本は自分の部屋の惨状を、まるで他人事のような目で見ていた。
そして悟った。負けたんだ、と。
* * *
わずかに残っていた酒やつまみを片付け、小原を二階の寝室に運んだ後、篠本は夜の尾道を散策していた。
シャッターを下ろした商店街は、閉店した店も、生き残っている店も平等に静かに眠っている。オレンジ色の灯りに照らされた路地から、キジトラ猫がのっそり、のっそりとやってきて、我が物顔でアーケードの中央に寝転がる。篠本は猫を避けつつ、シャッターに挟まれた商店街を西に進んだ。
アーケードを抜けると、右手には国道と近畿鉄道が走っている。昼間は行き交う人々を支える二者も、丑三つ時は休んでいるようだ。線路脇から虫の音が聞こえてきて、秋がそう遠くないことを篠本は知った。
アーケードを抜けると駅前はすぐそこだ。国道を越えた先に丸い花壇のある広場があり、外装の綺麗な駅舎があり、街に不釣り合いなほど大きな商業施設兼観光案内所がある。左を向くと、篠本が昼寝をしていたベンチがあり、潮風で錆び付いた桟橋があり、静かに静かに揺れる連絡船があり、海道を越えた向こうが向島だ。向島のクレーンはライトアップも終わり、その巨躯を暗闇に向けて堂々とそびえ立たせている。かつて尾道を支えた造船所も、島に張り付くようにして建つ家々も、夜のしじまの中でひっそりとしている。灯台がゆらりゆらりと回る遥か向こうで、しまなみ海道がぼんやりと白い光を放っているのが見えた。
にゃー
背後を見やると、先ほどのキジトラが篠本の後をつけてきていたようだった。かれはしゃがんで首元を二三度撫でてやってから、また立ち上がって歩き出した。
国道沿いに少しだけ東に戻り、歩道橋を渡って線路をまたぎ超える。しまなみ海道と同じ白い光をした街灯が、歩道橋の中央を陣取っている。通る者もいない線路の上を歩いて山に近づく度に、潮の香りは薄くなり、虫の声が大きくなっていく。尚も猫は、彼の後ろをついてきていた。
歩道橋を下りて、そのまま細い坂道に入る。車庫の無い家が、身を寄せ合うようにして並んでいる。細い路地に面する細い玄関の数が、尾道に住んでいる人の数を物語っている。小さい街でひっそりと眠る人達の中を、篠本と猫は縫うようにして歩く。
* * *
篠本が尾道に帰ってきたのは、退職から三日もしないうちのことであった。
彼は上司や同僚の着信でいっぱいになったケータイを捨て、篠本は実家へ帰る準備をした。栄養剤の空箱を捨て、無用になった資料を捨て、わずかばかりの家具を売り払い、退去手続きも済まし、空っぽになった部屋を見て、今まで何をやっていたんだろうと、少しだけ泣いた。
意地ばかり貫いて、何も残らなかった。
何に負けたくなかったのか、今では全く分からない。
何をしたかったのかすら、あやふやになってしまった。
何も無い部屋で一夜を明かしてから、篠本は朝早くの新幹線で尾道へと向かった。かつて衝動と情熱をもって上京して来たときの気持ちを、彼はもう思い出せなかった。品川駅をゆっくりと出る七百系の車窓から見た東京は、ただの薄汚れた街としか思えなかった。この街に憧れて、この街にしがみついて生きてきた八年は一体なんだったのかと頭を抱えながら、窓に切り取られた風景を流し見ていた。
篠本は浅い睡眠を繰り返し、駅に着く度にぼんやりと目を覚ましながら西へと揺られていった。横浜を、長い静岡を、名古屋を抜け、車内が関西弁に満たされていくのを感じながら、三重を、京都を通りすぎていった。やがて新大阪に着いて、駅弁を買ってホームを渡り歩いて、別の七百系に乗り換えた。味も分からない高い弁当をもそもそと口に押し込んでいる間に、篠本は再び列車に揺られていく。
長い長い旅を終えて、ようやく彼は新尾道駅に着いた。利用者の少ない寂れたホームを出て、垢抜けない田舎じみた標語を掲げた駅前からバスに乗る。聞き慣れた福山弁のアナウンスを耳にして、帰ってきたという思いが沸いた。利用者の少ない車両は、篠本と数人の乗客を乗せて市立大学、工業団地、記念病院を回ってから、ついに尾道駅に到着した。
四年、篠本は尾道に帰らなかった。たった四年かもしれないが、中学校も高校もゆうに卒業可能な年月だ。男子三日会わざれば刮目して見よと言う。街は、どうだろうか。少なくとも篠本は、尾道の変わりように目を見張った。
駅は綺麗に立て直され、すぐ隣には大きな商業施設が建てられている。そして若い観光客がカメラやケータイ片手にそこかしこをパシャパシャと撮影している。駅前にはロードバイクを組み立てるスペースが整備され、観光案内所には色とりどりのパンフレットが並び………彼の知っていた、死にゆく観光地である尾道はそこには無かった。
篠本は駅前のバス停から歩き出した。錆びた桟橋に設けられたベンチを見て、塗り直された連絡船を見て、駅前の精肉屋が小洒落たレストランに変わっているのを見て、アーケードをくぐって商店街に入った。呆然と歩く彼の目に最初に飛び込んできたのは、小原の実家だった。送られてきた写真で見たことはあったが、こうして自分の目で見るのとでは全く印象が違った。地元の人しか来ない、油に汚れて煤けた定食屋の面影はどこにも無い。道玄坂にあってもおかしくないような洒落たカフェが尾道の古ぼけたアーケードの下に収まっている光景は、まるで下手な特撮のはめ込みを見ているかのようだった。小原の喫茶店だけではなく周りの店も、まるでジグソーパズルのピースが欠けたように、変わってしまった店がぽつりぽつりとあった。
浦島太郎のような気分だった。仕事漬けになっている間に、幼馴染だけでなく時代にも置いて行かれたのだろうか。もしかしてもう自分のことを知っている人はいないんじゃないか。
「おぉ陽平!戻ってきたんけ!」
篠本の下らない妄想は陽気な福山弁によって遮られた。視線を戻すと、カフェのドアを開けて店主である小原が飛び出してくるところだった。
「どしたんじゃ何も連絡せんと急に帰りおって」
四年振りに会う小原はだいぶ大人びていた。全面改装という大役を終え、父の看病も続け、そんな彼が大人びないはすがなかった。元々精悍だった顔立ちは落ち着きと風格を備えていて、篠本はそんな小原を見てこいつには敵わないなと思った。
「辞めてきてやったけん帰ってきたんじゃ。それよりなんか食わせてくれや」
四年間使っていなかった福山弁は、自分でも驚くほど自然に流れ出てきた。しかし、表情はどうだっただろうか。上手く、笑えていただろうか。
彼の言葉を聞いた小原は、少し驚いた顔をしたもののすぐに彼を店に招き入れた。そして一言「ツケじゃけん」とだけ言って優しく笑った。
その小原の笑顔を見て、篠本はやはり敵わないなと思った。
* * *
篠本と猫は夜を歩く。
坂を上り、
階段を登り、
路地を潜り、
家を過ぎ、
小学校を過ぎ、
古刹を過ぎ、
寄り道をし、
脇道をし、
回り道をし、
篠本は猫を連れて歩く。
やがて彼は赤い屋根の家の前で立ち止まった。
キジトラは篠本を見上げてにゃあ、と鳴いたのちに、彼を追い越して歩いていく。
篠本は、猫が路地へ入っていき、その尾がするりと闇に溶けていくのを見送ってから、鍵を回し、玄関のドアをゆっくりと開けた。
* * *
篠本は、小原から連絡を受けた星谷と、その息子である宏太とテーブルを囲んでいた。宏太は母の裾を掴んだまま俯いて、何もしゃべろうとしない。
「えらい大きなったのう、もう三歳け」
コーヒーをすすりながら、篠本は呟く。眠気覚ましに飲んでいた安物の缶とは全く違う、芳醇な香りが彼の鼻をくすぐる。栄養ドリンクや即席麺で鈍っていた彼の舌には贅沢すぎる代物だった。
「陽平のくせによう覚えちょったねぇ」
星谷が笑う度にポニーテールが揺れる。昔よりだいぶ短くなったそれを見て、篠本は懐かしい気持ちになった。
「お前、今旦那さんどこにいるんじゃっけか」
しかしやはり、星谷は昔とは違う。小原が大人びて貫禄を持ったのと同じように、彼女もまた大人の余裕とも言うべきものを身につけていた。言葉の節々や所作、髪型や服装、そしてなにより息子を見守る目が、それを物語っている。
「シンガポール。一年じゃけ、社宅も引き払って実家帰ってきたんよ」
「優雅なご身分だこって」
しかし篠本と話すときの彼女はいつも通りだった。軽口を飛ばしあい、遠慮もいらない気楽な関係。変わっていくものがあるのと同じように、変わらないものもあった。
「ウチはあんたとちゃうんですー育児しながら志賀記念館でパートやっちょるんですーニートと一緒にしないでくださいー」
小原がくれたような触れない優しさというものもあるが、星谷がそうするように無遠慮に茶化すのもまた、優しさだった。
「おぉ、おばあさんと一緒け」
篠本は昔を思い出す。小原と星谷と三人で、毎日のように遊びに出かけた記念館のことや、星谷の祖母がくれた炭酸の、甘く舌に突き刺さるような感触や、幼い小原のあどけない笑顔や、今より長かった星谷の髪の揺れる景色を。
目を閉じて、また目を開けたら、自分はまだ小学五年生で、季節は夏で、時間は早朝で、眠い目をこすりながらラジオ体操に出かけて、終わったらハンコをもらう時間も惜しく虫取りに出かけ、昼ご飯を食べてまた遊びに出かけて、釣りを鬼ごっこを、かくれんぼをドロケイを、汗だくになりながら三人でしている。またあしたと言って別れ、晩ご飯を食べながら明日は何をしようかと考え、肩まで浸かりなさいと怒られながら風呂に入り、今日の思い出と明日の楽しみに目を輝かせながら布団に入る。そんな気がした。
「まぁコネで雇ってもらっただけなんじゃけどね、お給料も雀の涙じゃし」
もちろんそんなはずはない。篠本は二十六歳で、身分は失職者で、そんな夢を見る程度には大人だった。過去に思いを馳せる程度には、大人だった。
「それでもワシとは大違いじゃ」
篠本はそう言って笑う。星谷は宏太の頭を撫でながら、ふざけた口調で言う。
「そうじゃねー、ニートじゃもんねー」
篠本のマグカップが空いた隙を見計らって、小原がおかわりを注ぎにくる。一言礼を言って、彼は再び芳醇な香りに酔いしれる。
「そいじゃが、オヤジさんにはなんて言ったんじゃ。勝手に帰ってきて、なんも言われんかったんか」
湯気の漂うコーヒーサーバー片手に、小原が問いかける。先ほどは何も言わない優しさを持っていたはずなのに、星谷に引きずられて彼も無遠慮になっている。しかし篠本はむしろそのことに、昔のような親密さを感じて嬉しくなった。
「………そいえばなんも言わんと帰ってきてしもうたわ」
篠本のその言葉に小原も星谷も目を丸くする。しかし一番驚いていたのは他でもない篠本自身である。そう言えば、実家よりも幼馴染と連絡をとっていたことの方が多い四年間だった。
「お前なぁ………ツケといたるからさっさと家帰れや」
「やっぱり陽平は抜けちょるねぇ…変わってなくて安心したわ」
そして半ば追い出されるような形で、その日は喫茶OHARAを後にした。
* * *
玄関を開ける。近隣の住民と、寝静まっているであろう両親に配慮して、なるべく静かに開けて、閉める。くたびれたスニーカーを脱いで、靴箱に入れて、リビングへと通じるドアを開ける。
「おう、おかえり」
リビングのソファに座って、膝の上にノートパソコンを置いて、カタカタとキーボードを叩いている篠本の父が、静かにそう言った。
「おう、ただいま」
篠本は父と同じように、ぶっきらぼうに返事をする。ちらと手元を覗くと、観光協会のHPが見えた。父の皺だらけの指がキーボードを叩く度に、少しずつレイアウトが、文章が組み立てられていく。
「………そこ、明朝じゃない方がええじゃろ、見栄えが悪い」
父の大きな肩越しに画面を覗き込み、指差して指摘する。父は指を止め、まじまじと画面を見つめたあと「…それもそうだな」と呟いて書体を吟味し始めた。
篠本はそんな父を尻目にキッチンへと歩く。麦茶とコップを持って戻ってきて、父が選んだ書体を眺めながら、コップに注いだ麦茶を飲み干す。
父は昔から、深夜に仕事をすることが多かった。夜中布団の中でふと目を覚まして、いいアイディアが思いついたと呟いてリビングに向かう。布団に取り残された篠本と母は、その度にうっすらと目を覚まして、あぁいつもの癖が出た、と思うのだった。
「………」
彼はめっきり皺とシミが多くなった父の横顔を見ながら、昨日のことを思い出していた。
* * *
突然の帰宅に、母は驚きを隠せない様子であった。取材中の父に電話をかけ、篠本を問い詰め、何はともあれご馳走を作ろうと買い物へ出かけ、慌ただしく駆け回る。四年振りに会う母の姿は想像していたよりも随分と老け込んでいて、篠本もまた驚きを隠せなかった。
そうこうしているうちに、古びた玄関を開けて家長が帰ってきた。父は慌ただしく夕飯の用意をする母と、四年間合わなかった息子の顔を交互に見つめて一言「おかえり」とだけ言った。
卓を囲んで夕飯を食べている最中も、しつこく詳しく問いただす母とは正反対に、父はただ黙々と箸を進めていた。
その表情からは、息子も妻も何も読み取ることは出来なかった。
* * *
唐突に仕事を辞め、何も言わずに帰省してきた息子に対し、父は何も言わなかった。地元を飛び出し、おめおめと逃げ帰ってきた息子に呆れているのか、哀れんでいるのか、それ見たことかと笑っているのか。
「陽平、ここはどうしたらいい」
麦茶を片手にぼんやりとしていると、父から声をかけられた。白髪が増えた父の頭越しに、指差された箇所を見る。
「これは、こうしてじゃな………」
麦茶とグラスを置いて、ノートパソコンを受け取る。つい一週間前まで東京の高層ビルの中で行っていた作業を、尾道の小さな家の中で再現する。キーボードを打ち、言葉を並べ替えて、より見やすいHPに作り変える。
カタカタとキーボードを叩く篠本に、父が声をかける。
「俺もな、東京で仕事をしてたんだ」
篠本の指が止まる。尚も父は、言葉を続けた。
「まぁ、お前と同じだよ。都会に憧れて、上京して、仕事して、鬱になって、帰ってきて、母さんと出会って、結婚して、お前ができたんだ」
篠本は黙って聞いていた。ゆっくりキーボードを叩きながら聞いていた。
「いつかこうなるかもしれないとは思ってた」
篠本の指が段々と動きを鈍くする。
「止めても無駄だとも思ってた………お前は俺に似ているからな」
そして父は、篠本の頭に手を置いてこう言った。
「おかえり、陽平。頑張ったな」
ずっと聞きたかった言葉だった。
誰かに褒めてもらいたくて、認めてもらいたくて頑張っていた。東京で錦を飾って、いつか帰省したときに、すごいなぁと、よくやったと言われたかった。もう二度とその夢は叶わないだろうが、こうしてわかってくれる人がいるというだけで、
篠本は、滲んだ視界を晴らすために目元を拭って、一言、ただいまと呟いた。
* * *
朝焼けに照らされた尾道渡船が、チャイムと共に港を出る。海をかき分け、凪いだ水面に波を起こしながら、狭い海道を横切る。向島からやってきた連絡船とすれ違い、一際大きな波を起こす。篠本はその尾道の光景を、ファインダー越しに覗いていた。
帰省から一週間、彼は父の会社で働いていた。雜誌社で培った技術とコネを使い、イラストレーターや印刷業者を一新し、自らもカメラマン兼Webデザイナーとして活動し始めた。今日は、カメラマンとしての第一歩である。
「ようへいすげー」
尾道を写真で切り取る作業を続ける篠本に、宏太が話しかける。小さな小さな彼は、海に落ちないよう星谷にしっかりと抱き抱えられている。
「宏太ー、あんまり褒めると調子に乗っちゃうからダメよー」
その抱き抱えている星谷はいつも通り、篠本に軽口を叩く。
「そうじゃぞ宏太、こいつこの前までただのニートじゃったけんな」
店の制服を着た小原が手すりに寄りかかりながら笑う。
篠本は入ったばかりの会社で、早くも一つの企画を任されていた。曰く、『地元民が紹介する尾道の超穴場スポット』というものだ。早速資料をかき集め、今までのどんな観光誌にも載っていないような穴場を探そうと、幼馴染に協力を依頼したのが一昨日のことだった。
「もうニートちゃうけん、そう言うのやめーや」
文句を言いながら、彼はシャッターを切り続ける。小原の姿を、星谷の姿を、宏太の姿を。
やがて船は向島の港に停まる。タラップが下ろされ、車が、自転車が、向島の地を踏みしめて走り去る。篠本はそれらを写真に収めてから、船を下りる。
港付近の造船場の写真を撮りながら、篠本達は港の西にそびえ立つ山を目指す。車道を外れ、軽車両しか通れないような細い道を登り、やがて舗装されていない山道に入る。何度も来た道だった。身体はこの道を覚えていたが、昔のように駆け上がる体力は彼らにはなかった。岩を避け、息を荒くし、宏太が一人で先に行かないように注意しながら山を登る。
十分ほど登って、ようやく彼らは山頂にたどり着いた。巨岩があちらこちらに点在し、その割れ目から、北の尾道が、南のしまなみ海道が垣間見える。篠本は、岩に切り取られた風景を、自らのカメラでまた切り取り続けた。
「ここは変わらんのぉ」
小原が、山の斜面に埋もれる鳥居を撫でながら言う。
「まぁ、誰もこんなとこ来んしのぉ」
篠本は、そんな小原を撮りながら答える。
「ウチは好きじゃけどねぇ」
星谷は宏太を抱き上げて、巨岩に刻まれた仏図を見せながら言う。
「ワシもじゃ」
篠本は、そんな二人を撮りながら答える。
三人はしばらく無言で、思い出を探しながら山頂を歩き回る。腰掛けてジュースを飲んだ拝殿や、潜り込んでかくれんぼをした岩の隙間や、意味もなく叫んでみた対岸の尾道や、雨宿りをした祠を眺めて、歩き回る。
「ようへいつまんない」
シャッターを切り続ける篠本のズボンを掴んで、宏太が文句を言い始めた。篠本はカメラを下ろし、しゃがんで宏太に目線を合わせ、腰を掴んで一気に抱き上げた。
「すげー!たけー!」
宏太は大喜びだった。篠本はそのまま宏太を肩車し、岩の上に登り、自分達が住む尾道を、対岸の向島から、普段よりずっと高い位置から見せてやった。
「やっほーーー!!」
宏太が尾道に向かって叫ぶ。彼の幼い舌っ足らずな声は、向島の錆びた造船所を越え、青空にそびえ立つクレーンを越え、凪いだ狭い海道を越え、行き交う連絡船を越え、錆びた桟橋を越え、観光客で賑わう駅前を越え、古びたアーケードを越え、街を横切る国道と線路を越え、猫がまどろむ家々と坂道を越え、山の中腹に張り付く土常小学校を越え、宝珠が煌く千光寺を越え、尾道の空へと溶けていく。声は帰ってこないとわかっていても、何度も繰り返し繰り返し叫ぶ。
「やっっっほーーーーー!!!」
いつのまにか小原が彼の横に立ち、宏太よりも大きい声で尾道に向かって叫んでいた。口の横に手を当て、大きく息を吸い込んで、帰ってこいと声を上げる。船の音、波の音、風の音、車の音、自転車の音、街の音に負けないように張り上げる。
「やっっほーーーー!!」
そんな二人を見て、星谷も岩を登り尾道に向かって叫び出した。三人分の声が、向島の荒神社から尾道に向かって旅立っていく。篠本は、この光景をカメラに収められないことを残念に思いながら、自分も負けじと声を上げた。
四人の声が、尾道の音となる。
了