ラーニングインセイン
雪を払い取ったその先に、たくさんの食べるべきコケが生していることを、教える前に彼の母親は狼に喰われてしまった。母が四肢を咥えられ、八つ裂きにされているうちに、彼は蹄で雪を蹴って湖畔から森の方へと逃げていった。一度ふと振り返ったときに、鼻の頭を赤く染めた狼と目が合ったが、狼はペロリと舌を出して曇った息を吐いただけで、追ってくるようなことはしなかった。木々を避けるようにして、彼は森の奥深くへと跳んで行った。走り終わってから、右の角の付け根が痛むことを気に留めた。彼はそこら中の匂いをひたすらに嗅いで、しばらくの間立ったままで、目を閉じて、音がする度に跳ね起きながら眠った。
しばらくして、彼は首を上げた。鼻の冷たさに顔をしかめながら、彼は来た道を戻って行った。来るときより慎重に、足の付け根をぎゅっと膠着させた状態で歩いた。少し経って、彼は森を抜けた。先ほど自分がいた湖のほとりには、赤いぐずぐずの、シャーベット状になった母親の中身が、塗りたくられるようにしてそこにあった。立派な角と真っ黒な目玉だけが、喜劇的な切なさで、そこにあった。
しばらく彼は呆然とするつもりで母親を探しに来たのだが、残骸を見つけてから、その気持ちは徐々に失せていった。自分の中に噴出してくる気分はどれも、どこかポーズ的で、嘘だった感じがした。それよりも、見晴しの良すぎるその場所で、自分が再び狼に見つかってしまわないだろうかと、それだけが心配になった。彼は再び森へと向かって行った。向かって行くうちに、後ろに狼が迫ってきている気がしてきて、彼は出来る限り急いだ。息が苦しくなるまで駆けた。
それからずっと彼は孤独だった。腹が減ったが、雪を齧ると口の中が焼けつくようになって、身体も冷えた。角の付け根はいつまでたっても痛んだ。彼はそこらに生い茂った木々に青い葉がなってやしないかと捜しまわり、雪の被膜の上に雑草や、レミングなどの小動物の姿がないかと目を走らせた。身体がふらつくと蹄が沈みこんで冷たい思いをしなければならなかったが、まっすぐ立とうとしても、見えている物の方が勝手に曲がって転回した。角を煩わしいと何度も思い、木々にぶつけて折ってしまおうとしたこともあったが、ぶつける度に、頭の中には、何かとんでもないことが起こる予兆のような物が押し寄せてくる感覚が起こった。
最初の二日は空腹が目立ったが、その後はむしろ喉の渇きが彼を苦しめた。風を凌ぐことができる林に身をひそめながら、彼は目を瞑って、春から夏にかけての、生暖かい風の匂いを思い出した。凍りついていない湖の、浅瀬で飲んだ水の味を思い出した。冬の明けを知らない彼にとっては、その光景はもう二度と眺めることのできないものとして、強く輝いて映った。あの場所は一体どこへ消えたのか。なぜこのように寒い場所に自分は移動してきたのか。自前の毛皮にうずくまるようにして風を防ぎながら、彼は轟々とうなり続ける吹雪の音をどこか遠いものとして聞いた。
彼の夢枕には母親がよく立った。それは彼を孤独から救済することはできたが、雪の冷たさから救い出すことはしなかった。夢うつつでも寒いものは寒かったし、吹きすさぶ白い風は強いままだった。母親が喋る言葉を、彼の耳は聞き取ることができなかった。母の声は、彼のよく知る優しい、温かい声ではなくなっていた。低く囁く声を早回しにしたような、不透明さがそこにはあった。彼はそれを理解することを早々に諦めた。ただその音がしている限り母親はそこにいるのだと考えて目を閉じ、畳んだ前脚の合間に挟まるようにして静かに眠った。彼はそのままの姿勢で耐え続け、数日間、本当に来たかどうかもわからない夜を明かした。彼の幻想の中で、母親はそんな彼の様子をずっと眺めていた。
何度目かの朝に、がらがらがら、という大きな音が空に響いて、彼は驚き顔を上げた。母の姿はどこにもなかった。代わりに、影が走るような森のざわめきと、空に太陽が見えた。風はやっと凪いでいた。
彼は本能的に、逃げなくてはならないと考えた。雪の中で自分のように眠っていた化物が、きっといましがた目を覚ましたのだと思った。彼は立ち上がった。ずっと曲げていた膝が軋むように痛んだ。音のする方角に背を向けて、森を蹴飛ばすようにして走った。音は段々と大きくなっていた。がらがらが近づいてくると凪いでいたはずの風が再び騒ぎ始め、次第に叩きつけるように吹き荒れた。彼は吹雪の凝縮したような獣が自分を追いかけているように思った。
音から逃げているうちに彼は森を抜けてしまった。たどり着いた場所は彼の母親がシャーベットになった件の湖畔だったが、それは雪に埋もれてまったく見えなくなっていた。逃げ場がなく、彼は湖の上を一直線に走った。蹄は、湖の浅い部分でこそ氷を踏み割ることはなかったが、中央にまで来てしまうと湖面は易々と割れた。彼は血管をちぎるような冷たい水の中へと沈む羽目になった。息をしなければと彼は思った。暴れながら水面へ顔を出そうとしたが中々うまくいかず、前脚を掛けた氷は片端からすぐに割れた。水の中で、彼は再び母親の姿を見た気がした。あれだけ求めていた水が口の中へ入ってきているのに、ちっとも嬉しくなかった。
彼が溺れているうちに、がらがらが空からやってきた。がらがらの中からは、四人の男女がせわしく降りてきて、湖の縁に詰めかけた。手にはロープやらカメラやら、救命胴衣やらを持っていた。四人組はそれらの道具を使ってどうにか彼を救おうと頑張った。
彼は数時間かけて、やっとのことで救出された。空腹と喉の渇きと、寒さで身動きができなかった。それを見て四人組は、温かいミルクと毛布を用意した。音のしなくなったがらがらの中で、彼は鼻の頭を撫でてもらいながら胃の中に温かいそれらを流し込んだ。彼は心休まる眠気を感じて気絶するように眠った。彼が目を閉じている間に、四人組は彼が角の根元に怪我を負っていることに気づき、治療を試みた。彼は痛みを感じて度々意識を取り戻したが、その度にぶつりと切れるように眠り返した。
数時間が経ち、彼は見送られるようにして森へと放された。四人組は口々に言葉を掛けてやった。彼がその意味を理解することはもちろんなかったが、声に含まれた柔らかさ、温かいニュアンスを拾うだけの聴力は生まれつき持ち合わせていた。四人組が出発しようとすると、再びあのがらがらという音が辺りに鳴り響き始めた。彼は静かにしていたがらがらが再び威嚇を始めたと思って慄き、森に向かって走り出した。脚にはいつになく力がみなぎり、誰よりも早く駆けた。角の痛みはいつの間にか消えていた。吹き荒れる風が自分の後を押しているような高揚と、全能感を彼は味わっていた。母親のシャーベットは吹き飛ばされ、跡形もなく消え去った。
数日後、彼は死体になって湖のほとりに浮かんでいた。彼の身体にはどこにも異常がなく、角の根元に包帯の巻かれた出血痕がある以外はなんの傷もなかった。足跡の歩幅から判断するに、彼は走ることなく、ゆっくりと歩いて湖の中へと入っていったようである。湖中央の氷は割られていたがその範囲は狭く、暴れたり、上に登ろうともがいたりしたような痕跡は残されていなかった。彼が死んだ日は天候がひどくあれており、空にはがらがらという雷鳴が強く轟いていたそうである。