1章―夏色彼岸花―5
「……おせーよ、ってかお前の助けなんかいらねぇっての。」
千夏を抱えていた黒髪の男が誰に言うでもなく1人呟いた。不思議そうに見上げようとするが、不意に支えていた腕の力がふっと緩められ、重力に逆らわず千夏は地面に落とされた。
不意打ちだったこともあり、思いっきり腰やら肩やらを硬い地面に打ち付けてうっ、と小さく呻いた。
文句を言いたげにさっきまで抱えていた男を睨みつけるも、すぐに千夏のほうが睨みつけられ、萎縮してしまう。
本当に、人形のように無駄の無い、必要最低限の動きをしないため、時々彼が本当に人形なのではないのかと思ってしまう。今も真っ直ぐ千夏の目を見据えて睨みつけて――――、
あれ、と先程との違和感に眉をひそめる。
目が――、青い。
青と言っても、海面のような、太陽の光でキラキラ光る美しいものではなく、どっちかといえば海底。海の底の暗く太陽の光さえ届かない、青が濁った、不安になる先の読めない瞳の色だ。さっきまでは確かに月の色を表現したような綺麗な金色だったはずなのに……。
見間違いだったのだろうか?それとももしかしてさっきとは別人なのか?
物思いに耽っていると、首筋に何がヒヤリとしたものが当たった。
無機質で、それでいて鋭く研ぎ澄まされていて、拭い取ってもいない赤い液体が刀身を鈍く光らせていて。見なくても分かる。千夏の首に向けられているのは先程あの八咫烏を斬り落としたあの刀だ。
あまりの驚愕に目を丸くさせ、言葉を失って息を呑む。
一度は鳴り止んだ脳内の警報が再びうるさく鳴り響いた。
「なん……で……?
助けてくれるんじゃなかったの……?」
遠ざかった死が再び目の前に突きつけられたようで、震え混じりの声で呟く。歯がカチカチと寒くもないのに震え噛み合わさり、肩はそれよりも大きく震えて、自分の体だとは思えないほど勝手に動く。
蒼く濁った双眼は、何も映していない。ただ暗く、底なし沼のように深い闇の色の中に渦巻く明らかな殺気だけは、千夏でも感じ取ることが出来た。
浮かび上がった希望がしぼんで絶望に押し潰されそうになった時、千夏の後ろから聞き慣れない声が聞こえてきた。
「はいはい、そこまでー。
勝手な行動は控えてくれないかなぁ。めんどーなことになってもこっちが困るし。」
今目の前にいる黒髪の男よりも明るく、少し高めのその声は、今の殺気立った危うい空気を切り裂く光のように陽気なものだった。
いや、もう場違いの声色、と言っても過言ではないかもしれない。それくらい、その一言は明るく、拍子抜けするものだった。
足音が近づいてくる。
顔をそっちへ向けることは出来ないが、黒髪の男の殺気が舌打ちと共にふっと消えたのが分かって、どうにか千夏の潰れかけた心が少し元気を取り戻す。
やがて首に向けられた血塗れの刀も、渋々という感じではあったが、千夏の首から遠ざかった。大きく一振り振り下ろして刀身の鮮血をある程度飛ばし落とすと、男は無造作に鞘へと納める。その顔には、不服極まりないとはっきり書いてあったが、すでに興味を失ったように千夏に背を向けた。
「いやー、間に合ってよかった。
すっかり気が抜けきってるけど大丈夫?」
へなへなと体から力が抜けて、今にも倒れそうな千夏に手が差し伸べられた。その手を辿って見上げると、にっこりと口元に弧を描いた金髪碧眼の男の顔が目に映る。歳は黒髪の男と同じくらいか、少し下ぐらいだろうか?地毛なのだろうと思われる金髪は肩にかかる程度の長さで、黒髪の男の髪が癖っ毛なのに対し、こちらは真っ直ぐで線が細い。碧の瞳は少し猫目で、鮮やかなエメラルドを思わせる。
そして何よりも黒髪の男と同じように、人形のように白く、洗練された肌と線の細い端整な顔立ちは、どんな女性もこの人の虜になるだろうな、と千夏でもぼんやり想像できた。
「あのー……、本当に大丈夫?」
いつまでもぼーっと顔を見つめていたのが不審に思われたのか、金髪の男は苦笑しながら千夏の顔を覗き込む。それでようやく我に帰った千夏は、ただコクコクと頷いてその手を遠慮がちに取った。
手を握り、腰の抜けた千夏をどうにか立たせて、服についた土や砂を払ってくれる金髪の男。少し気恥ずかしい思いを感じながら、俯いてされるがままになっていたが、その男の腰に身に付いている物騒なものに目が止まった。
右腰に備え付けられたガンホルダーに納まっている一丁の黒い銃。大きさは普通の拳銃よりは一回り大きいぐらいだろう。
もしかしたら、先ほど八咫烏の軍勢を跡形も無く吹き飛ばした黒い玉を出したのは、この人なのだろうか。普通では有り得ないが。
それがもし本当なら、この人は千夏の命の恩人となる。
確証は無かったが居ても立ってもいられず、土をはたき落とし終わった金髪の男に向かって千夏は勢い良く頭を下げた。
「あの……!
助けてくれて、ありがとうございました!」
いきなりの言動に、驚いたように金髪の男は目を見開く。
やっぱり、この人ではなかったのだろうか、と千夏が恐る恐る頭を上げた時だった。
「……ぷっ、あはははっ」
今度は千夏のほうが面食らってしまう。
ただお礼を言っただけなのに、何がそんなにおかしかったのか、金髪の男は腹を抱えて笑い声を上げている。
「あ、あの――、」
「君、面白いね。
本当に、――――自分が助けてもらったって思ってるんだ?」
笑いが収まって再び目を合わせたその男は、先ほど変わっていない筈なのに別人のようだった。
ニコニコとした好青年だと思えたその雰囲気はうって変わって、笑みは浮かべてるものの、それが嘲笑いだということに気付くのに時間は掛からなかった。碧の瞳には先程まで見えなかった冷徹さが色濃く見え、完全に千夏を見下している眼差しだ。
こっちが本性なのだろうかと疑ってしまうが、芝居には到底見えない。
戸惑いと不愉快さに、眉をひそめる。
しかし怒りを爆発させて声を荒げられるほどの、気力、体力はもう千夏に残っていなかった。それでも負けじと金髪の男の目を見て睨み返す。
「……助けてくれたのは、事実じゃないですか。」
「そうだねぇ、あの雑魚共から助けてあげたのは確かに俺達だよ。でもそれはあいつらの思い通りにするのが癪だったから、結果的に助けてあげただけ。『君自身』を助けようとはこれっぽっちも思ってないから。」
なにそれ……、と余りの勝手な言い分に肩が震える。
そんな単純な感情だけで、私の命は振り回されたってこと?
吐き出せない怒りに手を強く握って拳を震わせる。
助けてくれた恩など今は消し飛び、代わりにどうしようもない怒りと憎しみが心を満たして、平常心ではいられなかった。
「だって、仕方ないじゃん。」
今にも手が出そうな千夏の感情を分かっているのか、敢えて分からないふりをしてるのか、その男の口元には変わらず笑みが浮かんでいる。
しかし、次の瞬間にはふっと笑みが消え、真剣な表情へと一変させると共に、千夏の耳を疑う言葉を発した。
「……君は俺達を殺す危険人物なんだから。」