1章―夏色彼岸花―4
静寂に包まれた夜の住宅街に、1人息を切らしつつも必死に走り続ける足音だけが響いた。
千夏が走るすぐ後ろからは何匹もの、カラスのようで普通のカラスではない、いわゆる八咫烏たちが押し寄せ、もはや1つの大きな黒い塊となって付かず離れず追いかけられていた。
まだ8時にもなっていないというのに、千夏が走る道には人どころか猫1匹見当たらない。
今のところ、頭に響いてくる謎の声の主の言う通りに道を進んでいるのだが、やはりこれは罠だったのかもしれない。周りに立ち並んでいた家々は段々と少なくなり、人気まで無くなってきている。
一時は収まっていた不安と恐怖がじわじわと胸の奥に溜まり、足を止めてしまいそうになる。しかしここで止まったところで、このまま進んだところで死ぬのが早いか遅いかだけ。この頭に響く声は一本の蜘蛛の糸だ。それが地獄行きなのか、天国行きなのか、行ってみなければ分からないが、分からないなら、その一筋の希望に懸けるべきだ。
――……
不意に一方向から鳴り響いていた頭痛と声がふっと消えた。
頭が少しだけ楽になり、速度を緩めて後ろを振り返る。アパートから相当走ってきたのだが、追ってきていた八咫烏たちの姿は見えなかった。撒いたのだろうか?
恐怖から一時的にではあるが解放され、今までほぼ本能で動いていた足が急に重くなり、もつれかかって足を止める。
そこは千夏の知らない公園だった。
目の前のアスファルトが途切れた先には少し大きめな公園があり、公園の向こう側にも道路が続いている。遊具は端に鉄棒や小さな遊具がある程度で、公園の真ん中に圧倒的な存在感を放っている巨大な木が植えられてあった。近くに寄ってみると更にその存在感がよく感じられる。大きさはざっと3階ビルと同じくらいの高さだろうか。枝葉も傘のように360度に広がり、夏の暑い日はこの巨木の下に置いてあるベンチに座ればそよ風が心地よく、とても快適だろうと思える。
それは今の状況じゃなければの話だが。
今のところ辺りを見回してみても八咫烏の群勢の姿は見えなかった。本当に助かったのだろうかと、半信半疑のまま巨木の下のベンチへと恐る恐る腰を下ろす。
既に千夏を導いてきた声も、変な頭痛も、鈴の音も何もかも嘘のように消え、再び静寂だけが辺りに漂っていた。微かに聞こえてくる鈴虫の音色がより一層静けさを引き立たせていた。しかし決して安らげる静けさではない。
これはまるで嵐の前の静けさだ。
それを裏付けるように、静寂を切り裂く鳴き声が轟いた。
普通のカラスの鳴き声だったが、千夏にはそれが今まで自分を追ってきたあの八咫烏だと、存在を認識しなくても分かった。
ベンチから立ち上がり空を仰ぐと、1匹の八咫烏が公園の巨木を囲むように旋回しつつも、千夏に牽制して来ているのが分かる。
その数は段々と増え、巨木の真上の空は真っ黒に塗りつぶされた。もはや千夏にこれ以上逃げ場は無かった。
一度は微かながらも見えていた希望の光が急速に衰えて消えていく様子が脳裏に浮かぶ。代わりに押し寄せるのは絶望感だけしかなかった。もう終わりだ。ここで自分の一生は終わる。
何故こうなったのかも、何が目的で、このカラスたちが自分を追いかけているのかも一切分からない。ただ、このカラスたちに襲われて無事では済まないことは本能的に分かっていた。
八咫烏どもの目が殺気で血走っている。襲いかかって来るのも時間の問題だった。
先程まで誘導してきた頭の中の声も、鈴の音も今はもう聞こえてこない。
「……助けるつもりがあったのなら、最後まで助けてよね……」
聞こえるはずもない声の主に向かって弱々しく文句を放った。
―――何も聞こえてこない。
やっぱりあの声は罠だったか。少しでも期待を持たせておいて、結局は何も無かった。少しでも期待を持ってしまった自分が愚かだった、それだけのこと。そうやって人の心を弄ぶのは『物の怪』の類いの得意技じゃないか。
やがて、黒い群勢のリーダー格らしき八咫烏が大きく鳴いた。それを号令に黒い塊が一つになって千夏へと襲い掛かる。
巨木の木々の間をすり抜け、一直線となって千夏を取り囲む――はずだった。
しかし、それよりも前に千夏の頭上から不意に人の声が聞こえてくる。
「――――のろのろ遅かったが、囮としては上出来だ。」
低音で、抑揚がないがよく響く声。その声は先程まで千夏をここまで導いた声、そのものだった。
はっとして見上げる。巨木の幹、いくつも枝分かれしているその枝元に、月明かりで照らされ微かに認識できる人物がいた。
夜の藍色よりも深く暗い漆黒の髪に、まっすぐ千夏を見下ろす綺麗な金色の瞳。鮮やかな色とは反対にその視線は心が底冷えするほど鋭く冷ややかなものだった。本当に千夏を、囮程度にしか思っていない。黄金の瞳がそれを如実に物語っている。
そして横髪に隠れているものの、左耳には存在感を放つイヤリングが見え隠れしている。どこのものだろうか、千夏が知っているイヤリングとは作りも素材も違う不思議なイヤリングだ。
何よりも、月明かりで煌めく白い肌と彫りが深い整ったその容姿は、本当に人形のようで、洗練されているようだった。
思わず息を呑む。
時間にしたらほんの数秒であるのに、千夏とその男が目を合わせていた時間はもっと長く感じられた。まるでその瞬間だけ他の時が止まったようで……。
そうして木の上の男は視線を外すと手に持っていた刀を構える。その目はあの八咫烏へと向けられ、獲物を狩る肉食獣のように、研ぎ澄まされていた。
一瞬の間――。
張り詰めた空気ごと全てを両断すべく、刀は流れるように真横に一閃を描いた。音もなく、無駄も無く。
キン――、という金属音の後、八咫烏の群勢はど真ん中から真っ二つに引き裂かれたのだった。
中心にいたのは八咫烏の親玉らしき、八咫烏の中でも更に一回り大きい八咫烏。それを見事に捉え、他の何十匹もの八咫烏と共に、綺麗な断面図を現しながら、バタバタと千夏の足下へと落下して来た。どれも即死のようで、落ちてきたものはピクリとも動かない。
リーダー格を失い、勢い良く襲いかかってきた八咫烏の軍勢が、千夏のすぐ頭上で戸惑ったようにわらわらと隊列を乱し始める。ガアガアと先程よりも耳障りな鳴き声を上げ、堪らず千夏は耳を塞ぐ。
リーダーを失ってもなお、何匹かの八咫烏は千夏へと襲いかかってきた。
しかしそれよりも早く、刀を持った男が素早く千夏の背後へと飛び降り、千夏の腹に腕を回して荷物のように抱え上げる。
「えっ、ちょっ……なに!?」
「黙ってろ。」
状況が読めていない千夏に有無を言わせず、雑に脇に抱え、大きく後ろへ飛び退いた。八咫烏と千夏たちの間に距離が空く。刀を持った男は千夏を抱えたまま真っ直ぐ八咫烏の軍勢を睨みつけ、八咫烏の残りの軍勢はようやく再び1つにまとまり始めていた。
千夏を抱える男が、静かに刀を構えた、
――その時だった。
千夏と男の背後から何かが物凄い勢いですぐ横を通り過ぎ、八咫烏の軍勢に命中した。それは濁った黒い小さな球体のようなもので、弾丸とは似ているようで異なっている。何が異なっているかというと、当たったのは1匹だけなのに、その黒い球体は当たった1匹を吸い込み、膨らんで、また1匹、2匹吸い込み膨らんで……という感じに、八咫烏の群勢全てを呑み込んでいくのだ。そうして1匹残らず八咫烏が黒い球体に飲み込まれ、球体は当初の何倍もの大きさに膨れ上がり、そして、
破裂した。
風船が割れる時のような可愛らしいものじゃない。呑み込んだ全ての八咫烏を巻き込んで破裂した為、広範囲に八咫烏の真っ赤な鮮血が飛び散ったのだ。八咫烏は1匹残らず全て絶命したが、その跡は見るのも嫌になるほど無惨で悲劇的なものだった。
余りの有り様に、襲われかけていたのも忘れ、千夏は口を手で覆う。喉の入口まで気持ちの悪いものが込み上げてきて、必死にそれを押し戻す。これ以上は見ていられない、と惨劇の跡から目を閉じて見ないようにした。
助かったんだ――――。
そう実感するにはまだ頭も感情も追い付かず、頭の片隅でそう思っても、肩の力は抜ける気配がなかった。