1章―夏色彼岸花―3
「ただいまー」
人の気配がしないワンルームの扉をくぐると、千夏は誰に言うでもなく口を開いた。
当然帰ってくる言葉はない。しかし今日はもう1人――いや、もう1匹いるぞ、と主張するように、手元に抱えた鳥籠の中の白インコ、るるがピッ、と短く鳴いた。靴を脱ぎ捨ててさっさとリビングに入ると、中央に置いてあるテーブルにその鳥籠をそっと置く。
千夏が現在住んでいるこのアパートは3階建てで、千夏の部屋は2階の階段脇の部屋だ。部屋はクローゼットを入れて8畳、玄関とリビングを繋ぐ廊下に小さなキッチンとその向い手にトイレ、バス共同のユニットバスがある。格安だったから衝動的に決めてしまったが、不便な部分は何かとある。しかも、おしゃれ頃の高校生には狭く感じるところだが、千夏にとってはもしかしたら実家の自分の部屋よりもくつろげるかもしれない。それくらい、この部屋は気に入っていた。
今まで自分以外で音を発するのは、ケータイかテレビくらいだった。それが今日限定ではあるが、千夏以外の声を発する、動き回る存在がいることに、千夏は何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。
かわいいとは、思う。でも鳥籠から出してまでじゃれ合いたいとは思わないし、たまにるると目が合うとまるで知らない誰かに見つめられているような感覚に陥って、思わず自分から目を逸らしてしまう。……何をやっているのだろう。たかが鳥なのに。
「今日だけだけど、よろしくね」
何とかこの部屋の一部として馴染ませるよう、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
まるでその言葉が理解できているかのように、るるはじっと千夏の目を見てくる。その真っ黒な真珠のように丸く輝く瞳に吸い込まれそうで、千夏はそそくさとキッチンに逃げた。
――――……
ご飯と味噌汁、市販で売っていたチーズハンバーグに刻んだキャベツを添えて完成させた晩御飯をちびちび食べながら、ニュースしかやっていない番組をBGMのように聞き流す。
今日は色々なことがあったせいか、すでに眠気が浮き上がってきている。その眠気と一定のリズムで流れているニュースの言葉と音が良い子守唄になって、何度も大きな欠伸が零れた。
しかし次に流れてきたニュースの言葉に、自然と千夏の目はテレビへと向かう。
『――市にある佐竹山の最奥部で3人の変死体が発見されました。遺体に損傷は見当たらず、遺体の1つが子供であることから、家族心中であるとみて、警察は死因などの捜査を続けています。
この山では近年数々の変死体が見つかっており、警察は、被害拡大を防ぐ目的で、現在山への立ち入りを制限しています。』
「変死体か……」
そういえば前に学校の誰かが、近くの中学校で失踪者が出た、と噂をしていた気がする。その子がどうなったのか、それは誰も知らないみたいだ。
まるで神隠しだね、とクラスの子はおもしろ半分に呟いていた。
不謹慎な気もするが、その時は千夏は冗談だろうと思っていたのを思い出す。それとこのニュースに関連性があるとは思えないが、どうにも引っかかる感覚を覚える。
最近になってぽつぽつと現れ始めた不可解な現象。
生憎、千夏には霊感など全く持っておらず、生まれてこの方そっちの類いを見たことがなかった。
感じたこともなかった――はずだったのに。
なんだか今日は背中に気分の悪い悪寒が走る。
「……寝よ。」
朝になれば全てが収まるだろうと、楽観的な考えに無理矢理にでも切り替えた。夕食に使った皿も流し台に置いたまま、7時を過ぎたばかりなのに、千夏は部屋の電気を消す。
辺りが静寂と暗闇に包まれ、視覚の代わりに聴覚が研ぎ澄まされていく。先程まで気にならなかったるるの羽を動かす音や、止まり木を移動する際に聞こえる微かな爪の当たる音までもが、今の千夏には耳障りになっていた。かと言って起きていると何だか妙な気持ちに飲み込まれてしまいそうで。
寝たいのに眠れない。
そんな状況がさらに千夏の不安を掻き立てた。
頭まで布団を被り、全ての音をシャットダウンさせるように耳を塞ぐ。そうして完全に無の空間を作り出すと、あと聞こえてくるのは自分の少し速めな心音だけだった。ゆっくり深呼吸をして気持ちと心臓を落ち着かせる。
しかし、落ち着く気持ちと対照的に、どこからか小さな音が響いてきた。耳は塞いでいるはずなのに……。
その音は段々と大きくなっていく。試しに塞いでた耳を解放させてみるが、音の大きさは変わらなかった。ゆっくりとしたスピードで、聞こえる音が大きくなっていく。
やがてその音の正体は、乾いた綺麗な鈴の音色だと分かる。
チリン――、チリン――。
どこで鳴っているのかも分からない。
ただ、鳴る音が大きくなればなるほど、千夏の頭を押し潰されるような頭痛が襲ってきた。綺麗だなと思えてた鈴の音はやがてこれまで以上に耳障りな音になり、頭の痛さに千夏は呻きながら起き上がった。
頭痛は、まるでそこへ導く道しるべのようにある一定方向が強い激痛を放っていた。そこはワンルームの一番奥に設置されてる窓のほう。
もう何でもいいから、この鳴り響く鈴と頭痛を何とかして欲しい。藁にも縋る思いで、片手で痛む頭を抑えながら、もう片方の手でカーテンを開く。
そこで見たものに、千夏は戦慄した。
窓の向こうに居たのは真っ黒なカラス。
――しかし普通のカラスではなかった。
普通のカラスには有り得ない、両眼の間に生えたギョロっとした第3の目。そして3本の足。そのカラスの大きさは普通の軽くふた周りは大きい。
何よりも、このカラス――、一匹どころか窓を埋め尽くすぐらいの数多の数が、ベランダを占拠してこちらを見ていたのだ。
「ひっ…………!」
現実には有り得ない、見えてはいけないものに、千夏は堪らず声にもならない悲鳴を上げて尻餅をつく。手足はガクガクと震え、逃げたくても首から下が麻痺してしまったかのように自分の思い通りには動かなかった。
完全に抜けてしまった腰を、もがく足で後ろ後ろへと後ずさる。
しかしようやく千夏を認識したのか、ベランダのカラスの1匹が、コンコン、とガラスを嘴で叩いた。ノックなんかじゃない。なぜなら、その1匹を機に、何匹ものカラスが窓を嘴で叩いてきたのだ。
(窓を壊す気だ……!)
ここはワンルーム。しかも格安アパートの。
窓なんて耐久性のあるものではないから、数分としないうちに壊れてしまう。そしたら私は――どうなってしまうのだろう。
他に逃げ込める部屋なんてないし、隣の部屋の人の所へ逃げ込みたくても全く知らない人だ。何故近所付き合いをもっと大事にして来なかったのだろうと激しく後悔する。
どうする……。どうする。どうする。どうする。どうする。
不安と恐怖と絶望に、目尻に溜まった涙が溢れた。
その時、頭の中に、鈴の音ではない、何かはっきりとした音が響いてきた。ぼんやりとしていたその音は鈴の音よりも明確で、音ではなく人の声だ。
『―――っち、――外――へ出ろ――。』
外へ出ろ……?
外にはこのカラスたちが待ち受けているのに、何を言っているのだろう。
罠なのか、助けなのか。
迷っている時間は無かった。すでにカラス部隊によって窓の一部がひび割れており、完全に崩壊するのも時間の問題だ。ただここで終わるくらいなら、全く信用性なんてないが、声の主に従ってみるしかない。少しでも生き残る確率を、自分で選び取るしかない。
窓のヒビが端から端まで届き、大きな音を立てて崩れ落ちると同時に、千夏はアパートの扉に向かって走り出した。