序章―始まりと終わりの悲しみ― 2
「――はっ、はぁっ……くそっ!」
雨に濡れるのも構わず、大きな毛むくじゃらの巨体を必死に前へと動かしながら、大きく舌打ちをした。どこも同じような灰色の壁が続いており、自分が今どこを走っているのかも分かっていない。
だが、出来るだけ遠くへ……、とにかくこの町から離れなければ。
――離れなければ、間違いなく、殺される。
あのフードを被った男の力は桁違いだった。3対1という、圧倒的有利な立場を、あいつは何ということなく覆してみせたのだ。
『俺たちと同類』だとしても、あの力じゃ地位は相当上なはず……。
だが、なぜそんな奴が『ここに』いるのか――。
それにあの顔――、フードを破った時に見た、黒髪蒼眼のあの顔……どこかで見た覚えが――。
はっとして足を止める。
考えながら逃げているうちに、今いる場所は灰色の壁から薄汚れた住居が並ぶ住宅街に変わっていた。ビルも商店も、片手で数えられるくらいしかない上に、家は木で出来ているせいで完全に焼け焦げている。どうやら貧民階級の住宅街のようだ。
家は火事で全焼し、生きてる人の姿も気配も感じない、はず。
なのに、今足を止めた左真横の家から生きてる気配を感じた。
はっきりと。匂いも焦げた臭いに混じって鼻に届く。
人間臭さだ。
人狼は背後を振り返った。
大きな耳を集中させ、鼻を動かし、周辺の気配を読み取る。
先程のあの男は、すぐ近くには感じなかった。
辺りには静寂だけが蔓延している。
この調子で逃げれば恐らく追いつかれることなくこの町から脱出出来るだろう。
森まで逃げてしまえば、追ってくるのも諦めるに違いない。人狼として素早さには当然ながら自負はある。
しかし、戦闘と逃走での体力消費と、元からの空腹に、欲望の方が勝ってしまった。
ゆっくりと、音を立てないようにして一歩ずつ気配を感じる家へと近づく。入口のドアを開けて見たのは、まだ幼い子供を必死に守るように抱き抱えてテーブルの下へと隠れている母親の姿だった。
―――……
雨がだいぶ強くなってきた。
せっかく雨よけに被っていたフードはあの人狼に噛みちぎられ、すでに蓮の黒髪がびっしょり濡れて額に張り付いていた。それを鬱陶しげに掻き上げる。
黒髪と対比してよく映える――藍色に近いかもしれない――澄んだ青い瞳をしきりに動かしながら、まだ雨にかき消されていない最後の人狼の気配を辿っていく。
人狼は少なからず手負いの状態にしてある。生々しい流血は無かったにしろ、壁を突き破る程の衝撃だ。まともに歩けてるほうがおかしい。
まぁ、おかしいもなにも、『ああなった時から』おかしいわけだが。
雨はさらに酷くなる一方だ。地面に落ちては雫となって跳ね返る雨が、まるで滝のような音を立て空から降り注ぎ、地面際には白い靄が見てとれる。
打ちつけられるのは蓮の体も同様で、肉を抉られた肩に雨は容赦なく浸入してくる。痛みは鈍く、ゆっくりと、鼓動に合わせて鐘を打つように叩かれているような鈍痛だったが、今はそれを気にしてる暇などない。
早く面倒な捜索になる前に始末しなければ。
取り逃したなんてことになれば、肩の傷が化膿するのも気にせず、見つかるまでひたすらここ周辺を虱潰しに捜索させられるに決まってる。そんな面倒なこと……、蓮にとってはそれこそ地獄みたいなものだった。
不意に蓮の足が止まる。
今まで辛うじて掬い取れるほどの気配が真っ直ぐ足元にあった筈なのに、止まった先からは何も感じられなかった。雨でとうとうかき消されてしまった、というわけではなく、まるでここで消えた、消滅したというぐらいぷっつりと切れてしまっている。
追っている間ずっと足元ばかりを見ていた蓮はようやく顔を上げる。
周囲の風景はいつの間にか、灰色の壁から薄汚れた住居が並ぶ住宅街に変わっていた。ビルも商店も、片手で数えられるくらいしかない上に、全て大火事で焼け焦げてしまっている。どうやらここは貧しい者たちが寄り添って住む貧民街のようだ。
特定の住居を持たず、雨をかろうじてしのげる程度のテントを寝床にしているものもいたためか、先ほどの中心街よりも黒く焼け焦げて横たわる細長い物体が道の端にいくつも転がっていた。
中心街だけにしても十分過ぎるほどの人間の数はいただろうに……。
しかしこいつらにとってはある意味これが救済になったのかもしれない。
死ぬ勇気も湧いてこないで、毎日をただ生きる為だけに生きている。明日生きられることが生涯の願いとなり、他にやましいものや、願望、希望、欲望など、人間の負の感情が姿を現したところで実現させる術はこいつらにはない。
穢れない、純粋な人間のようでいて、凡人よりタチが悪い。明日を生きるためならどんなことでもする、出来る。追い詰められた鼠のような気持ちで明日への生にとことんしがみつく。
こういう奴らが、ふとした瞬間に目の前に降りてきた一本の蜘蛛の糸に縋りたくなるんだ。
『これ』を好物にしている奴らには、自ら餌になりに来る鴨にしか見えないだろうな。
……血の匂いがする。
木材が焦げた臭いの中に、まだ真新しい鉄臭いにおいが一方向から漂ってくる。
蓮は確信していた。
奴が考えていることなんてたかが知れてる。あいつもまた自分の欲望にとことん忠実なただの獣だ。いや、そうなってしまったのだ。
哀れにすらも思わない。
血の臭いの元となる一つの家へと近づき、半開きになっていた扉を蹴り開ける。焦げてかろうじて扉としての役割を果たしていた扉はとれだけの衝撃で呆気なく金具が外れ、蓮の前へと倒れた。
その扉の音に、テーブルの奥にいた大きな影がびくっと肩を震わせる。
何も驚くことじゃない。足音を忍ばせたわけでもないし、ずぶ濡れになった黒いコートが雨を弾く音は隠しようがない。
半分獣となったこいつにはなによりも聴覚と嗅覚が敏感になっている筈なのに、こいつは扉を蹴破るまで気付くことはなかった。そこまで堕ちぶれたということ、ただそれだけ。
人狼は、今背後に立っている人物が誰なのか分かっていつつもその顔を振り返る。
しかし完全に振り返りきる前に、蓮の刀が人狼の首へと深々突き刺さった。そのままうなじ、喉を貫通して壁へと剣先が突き刺さる。
声にもならない声を上げることもなく、何が起こったのかも理解することなく、最後の人狼の腕はだらりと床に垂れた。
ようやく今日の仕事は終わった。
とにかく気分がだるい。さっきの昂った感情はどこに落としてきたのか。人狼と共に死んでしまったのか、と考えてもいいくらい、今の蓮の中に沸き上がる感情は、ただの"無”のみ。死んでも反射的に小刻みに動く人狼の指や足を見ても、自分が3匹も殺したという自覚すら湧いてこなかった。
突き刺さった刀をひと思いに横にずらして抜き取る。
何か大きな塊が床に鈍い音を立てて落ちたが、目をくれる気もない。刀を出した時と同じように、パチンと指を鳴らしてぽっかり空いた時空の歪みへと血だらけの刀身と鞘を放り出した。
ちゃんと血を拭けやら大事に扱えやら、また煩わしい小言が飛んでくるんだろうな……。
今まで詰めていた集中力と共に重いため息が静寂の中に響いた。
その時、カサカサと衣が擦れる音が微かに聞こえる。
まだ生きてるのかと苛立たしく舌打ちするも、目を向けるとすぐにその正体が何なのか分かった。
動かない人狼の奥、ちょうど物書きや読書ができる少し年季が入った茶色の机の下に、すでに男なのか女なのか、それどころか人間らしい原形も留めていない程、食い荒らされた肉片が転がっていた。その隣にうずくまった小さな人間も、肩や腕に食いちぎられた跡があり、すでに光のない目を伏せめがちに空虚へ向けている。
せっかく火事から生き残ったというのに、運のない人間だったな。
蓮の横の食卓テーブルの中央でただ1つ存在を主張しているように生けられていた花瓶の花の中から、適当なものを1本取り、すでに動かぬ、物言わぬ人間へ向かって投げる。
不安定にひらひら落ちながら、投げられた名もない赤い花は、助からなかった少女の胸に音もなく舞い降りた。
胸の傷を隠すように佇むそれは、まるで血を糧に吸って咲く人喰い花のようで、小さなその花が妙に存在を目立たせているような気がした。
重い足を翻して家を出る。ようやく長い1日が終わったと肩の荷を下ろしかけた。が、聞き慣れない不思議な音に足を止める。
小さいながらも透き通るような音。
か細いながらもよく遠くまで響く乾いた音。
これは……鈴の音?
その音はそう時間が掛からないうちに大きくなり、やがて耳を塞ぎたくなるほどその存在は膨大する。それと同時に今まで感じたことのない不思議な、そして本能的に危険と察知するその存在に、蓮は思わず振り向いた。
鈴の音はあの花を置いた人間、小さな少女の元から聞こえてくる。
「なん……だ……?」
やがて耳を劈く鋭い音へと変わり、器から溢れだしたかのように強く眩い光が全てを飲み込み、身じろぎする暇もなく、その不思議な存在に飲み込まれた。
形は見えない。姿も実体化していない。しかし己を飲み込もうとする光に紛れた巨大な何かに蓮は取り込まれた感覚に陥った。
白い光に包み込まれると同時に、蓮の意識も急速に光に攫われる。この先どうなるのか、この状況は何なのか、何も考えることが出来ないまま、瞼の裏まで焼き尽くす大きな光とは対象に、蓮の意識は暗い暗い闇の底へと落ちていった。