はじまりの雨
先週梅雨入りしたばかりの空は今日も悲しみにくれ、しとしとと地面を濡らしている。松田澪は衣替えをすませたばかりの制服を濡らさないよう気をつけて傘を畳み、バスに乗り込んだ。山間へと向かうローカルバスの利用者は意外にも多く、座席はほぼ埋まっていた。目的地までは二十分弱。立っていればいいか、と吊革を掴んだ澪の耳に、「あの」と遠慮がちな声が聞こえた。
「どうぞ。俺、すぐ降りますから」
声のした方向を見れば、澪とは違う高校の制服に身を包んだ男の子が立ち上がり、自分の座っていた二人掛けの座席を指で示している。席を譲ってくれるつもりらしい。
「えっ、いえ、いいです」
澪は手を横に振って断る。自分は席を譲ってもらうような立場ではないし、同年代の男の子にされると妙に気恥ずかしかった。
(二人掛けなんだから、一緒に座ればいいんだろうけど……)
そう思ったが、自分で提案するのも誘うようではばかられる。
「本当に、すぐ降りるんで」
彼は澪の心情などおかまいなしに、素っ気なく言ってさっさとバスの前方へと歩いて行ってしまった。澪は発車合図に促されるようにして、有り難く座席に腰を下ろす。彼にお礼を言いそびれたことに気づいたのは、目的のバス停が近づいた頃で。降車ボタンを押すため顔を上げた澪は、前方に制服姿を発見して、あっと声を上げそうになった。驚いたことに、彼はまだバスの中にいた。
(すぐ降りるなんて、嘘だったんだ)
バスが水たまりをはね飛ばして停車する。立ち上がった澪は、通り過ぎざまにお礼を言うつもりでいたが、彼は澪よりも先にバスを降りてしまう。同じバス停だったとは、ますます気まずい。だが幸運でもある。傘を差した澪は右手に歩いていく彼の背中を見つけ、小走りで追いかけた。
「待ってください!」
雨音にかき消されないように叫んだら、ちょっと躊躇った後、透明なビニール傘の向こうで彼が首をひねって振り返る。澪の姿を見とめると、驚いたように目を見張った。
「さっき、ありがとうございました」
「……いえ。当然のことなんで」
顔が見える距離まで近づいてから、澪は礼を言う。彼は澪と視線を合わさず、ぶっきらぼうともとれる物言いで言い放った。見ようによっては照れ隠しのようでもある。少なくとも澪は、悪いようには捉えなかった。小さく笑って、軽く会話をつなげてみる。
「レディファースト、ですか?」
「は? いや、別に……まぁ、そういう言い方もあるかもしれないけど」
怪訝そうに顔をしかめた彼は、「それじゃ」とあっさり会話を打ち切り、踵を返した。
(迷惑だったかな)
澪は自分でも気づかないくらい小さなため息を落とし、お気に入りの紫陽花柄の和傘をくるりと手のなかで回した。
別れを告げられたものの、澪の行き先は奇しくも彼と同じ方向だ。澪は彼と十メートルほど距離を取りながらゆっくりと歩く。田んぼ脇の一本道は見通しが良すぎて、先を行く彼の背中は雨のカーテン越しにいつまでも見えている。先ほど振り返った彼も、後ろにいる澪に気づいただろう。
(後をつけていると思われたら、どうしよう)
気にしたところでどうにかなるものでもないので、足下を見て歩くことにした。視界に入るレインブーツは、傘とお揃いの薄紫色。ふくらはぎのリボンがポイントだ。お気に入りの和傘とレインブーツのおかげで、憂鬱な雨の日も澪の心は躍る。
やがて三叉路に行き当たる。左の道の先に男の子の姿が見えた。澪は右手の道を選ぶ。ほどなく、突き当たりに墓地が見えた。
* * *
「最悪だ……」
帰宅して自室のベッドにダイブするなり、辻倉正人は頭を抱えた。
「どうしたのー?」
その枕元から突然の声。正人は殊更驚くこともなく、寝転んだまま首だけを捻って、ベッド脇にちょこんとしゃがむ少女を睨む。
「なな子! またお前は人の部屋に勝手に忍び込みやがって」
正人よりも幼く見える小柄な少女は、無邪気な笑みで対抗する。
「だって暇だったんだもん。で、どうしたの? 何か面白いことでもあった?」
反省する様子のないなな子に、正人はため息を吐いた。
「面白くない。さっき見ちゃったんだよ」
「へぇ、まだ夏じゃないのに元気だねぇ」
なな子はベッドにもたれながら、おかっぱ頭を楽しげに揺らす。
「しかも普通に会話してしまった……」
「やったじゃん! どんなのだった?」
はしゃぐなな子とは対照的に、正人はうんざりしながらバスの中で出会った幽霊を思い浮かべた。
「話したのは女の子だったな。女子校の制服で、お前みたいな髪型をしてた」
「ふうん、かわいい?」
正人は考えるように首を傾げる。思い出す彼女は、紫陽花の傘の下で、初対面の正人に対しても人懐っこい笑みを浮かべていた。
「まぁ、わりと。あと、幽霊にしちゃあ妙にみずみずしいというか……」
「エッチ! 変態! エロ親父!」
「なんで!?」
理不尽な暴言に正人は眉根を寄せる。すると元々愛想のない顔がより凶悪面になる。正人はこの顔のせいで、喧嘩など一度もしたことがないというのに、自分が同級生の女子から「怖い」と言われていることを知っていた。
「気に入られて家まで憑いてきてたりして」
「やめろよ!」
睨み返せば幽霊も逃げ出しそうな顔でありながら、正人は結構な怖がりだ。なのに、昔から普通では見えないはずのものが見えてしまう。怖いので、普段は極力関わらないよう無視をする。しかし、今日のはあまりにも人間めいていて、正人は判断を誤った。前にも何度か席を譲ったことのある相手だったので、まさか幽霊だとは思わなかったのだ。
「家までは来てないと思うんだよな。三叉路すぎたところで後ろ見たら消えてたから」
確認するように口にする。そうだね、となな子が同意してくれるのを期待した。しかし、
「あそこって右の道行ったらお墓だもんね。あっちが家なのかもしれないねぇ」
少女はすました顔で正人の期待を裏切ってみせる。雨に濡れた肩が急に冷える気がした。
* * *
澪は今日も紫陽花の傘を閉じて、バスに乗る。何気なく車内を見渡すと、見覚えのある顔を見つけた。昨日席を譲ってくれた彼だった。相手もこちらに気づいたようで、あからさまに驚いた顔を見せた。ぎょっとした、という表現のほうが的確だ。
(そんなに驚かなくてもいいじゃない)
視線を逸らし、無視を決め込んだ様子の彼に、澪は印象を改めた。昨日はいい人だと思ったのに、今日はひどく感じが悪い。彼の後ろに空席を見つけて腰を下ろす。目的のバス停は昨日と同じ。目の前の彼も、同じタイミングで席を立つ。図らずとも背中を追う形になってしまい、澪は気まずく足下を見つめて歩いた。レインブーツは水たまりに鮮やかな色を落とす。道脇の田んぼからは絶え間なく蛙の大合唱が聞こえてくる。行進曲のようなそれに合わせて、澪は足を進める。
分かれ道。澪は右の道を行き、ひっそりとした墓地に足を踏み入れた。緩やかな傾斜を登り、奥へと進んでいく。そして、一つの墓石の前で立ち止まった。線香も花も用意していない澪は、鞄を傘の柄にかけ、傘は持ったまま器用に両の手を合わせるだけだ。
「あのう」
突然、遠慮がちな声が後ろから聞こえ、澪は振り返る。覚えのある制服が目に飛び込んできた。ビニール傘の下の顔は、先ほど分かれ道で左の道を選んだはずの彼だった。雨音のせいだろうか、近づいて来たことに澪は全く気づかなかったのだ。
「お節介だとは思うし、こんなこと他人の俺が言うのも変なんだけどさ」
彼はどこか言いにくそうに低い声で話す。
「二日も続けて会うとやっぱり気になるし、喋れるたいだから、俺で良ければ話聞くよ?」
不本意そうではあったが、そう提案する声音はやわらかい。席を譲ってくれた時と同じ、どこか不器用な優しさが垣間見える言い方だ。だが、突然声をかけられてそんなことを言われても澪には何のことだかわからない。
(そんなに悩んでいるように見えたのかな?)
墓場で女子高生が一人、立ち尽くしていればそう見えてもおかしくはないのかもしれない。心配して声をかけてくれたのだとしたら、やはり彼は優しい。澪は彼に対する認識をもう一度改めてから、向き直る。
「そんな大げさなことじゃないんです。先月、祖母が亡くなって……」
「それは……ご愁傷様です」
目を伏せた彼は、思った以上に沈痛な面もちをしていて、澪は慌てて首を横に振る。
「そんな顔しないでください。百三歳の大往生で、死ぬときも寝ていてそのまま……。全然苦しまなかっただろうってお医者さんも言ってたし、寝顔みたいに穏やかな表情をしてたんですよ」
澪自身、身内で不幸があるのは初めてで、ひどく動揺していた。しかし、慌ただしく葬儀が終わり、いつもどおりに学校に通う日々が戻ってくると、いつまでも悲しんではいられない。悲しみは過ぎ去るものだ。歩き出せば遠ざかるバス停のように、悲しみを置いて、人は先へと進めるようできているのかもしれない。
だけど、梅雨入りして雨が降り始めると、澪の中で再び祖母の存在が大きくなり始めた。祖母の亡くなった日の前夜、雨の降る夜、祖母は澪に告げたのだ。
(あれは一体、誰のことだったんだろう)
「まいったな、死んだことに気づいてないパターンか」
ビニール傘の彼が妙な独り言を呟く。
「念のために聞くけど君のおばあさんって、パーマのかかった白髪で、薄い紫色の着物をよく着てた?」
澪は今度こそ奇妙なものでも見るような目つきで彼を見た。
「そうですけど、祖母を知ってるんですか?」
お華の先生をしていた祖母は、洋服よりも着物でいることのほうが多かった。さり気なく紫陽花の柄の入った紫色の着物は特にお気に入りで、澪の記憶にもよく残っている。
「若くして死んだのがショックで認めたくないんだろうけど、おばあさんまで一緒に連れ回すのはどうなんだ? おばあさんのほうはちゃんと自覚してるのに、君のことが心配で成仏できないんじゃないか?」
「……何を言ってるの?」
彼の言うことがさっぱり理解できずに、澪は一歩後ずさる。
「だから、君はとっくに死んでて、幽霊になってるってこと」
「は!?」
あまりの言葉に、澪はとうとう声を荒らげてしまった。彼はそれが真実ですと言わんばかりに、真っ直ぐ厳しい目を向けてくる。きつく寄せた眉根は、澪が理解しないのを苛立っているようにも見えた。
(冗談じゃない!)
とんでもない言いがかりに、澪は無性に腹が立ってきた。とても失礼ではないか。
「私はちゃんと生きてる人間です!」
「そう思い込んでるのも多いんだ」
「思い込んでるのはそっちじゃないんですか。幽霊が見えるなんて脅しにもならないわ!」
「おばあさんの特徴は合ってただろ? 思い込みで幽霊が見えるなら苦労しない」
「本当に見えるんだとしても、私は幽霊じゃありません。嘘だと思うなら、ほら!」
このままでは埒があかないと思った澪は、傘を持たないほうの手を伸ばし、勢いのまま男の子の手を掴んで引き寄せる。女子校育ちの澪にとっては、平素では考えられない行動だ。しかし今は、心臓の音を確認してもらう必要がある。そう、思い込んでいた。
後から思えば、幽霊ではないことを証明するだけなら、手を触れさせるだけでよかった。なにも、その掴んだ相手の手を、左胸に押し当てる必要などどこにもなかったのだ。
雨でわずかに濡れた大きな手のひらが、白いブラウスと下着越しに感じられて、決して大きくはない胸が、どくん、と飛び跳ねる。彼のビニール傘が、地面に落ちる。目の前に、顔を真っ赤にして目を大きく見開いた男の子を見て、澪はようやく自分のしていることを自覚した。
「きゃあああああああ!!」
* * *
「辻倉正人。高校二年生」
「松田澪、です。一年生です。あの、本当にごめんなさい」
「いや、それは俺が幽霊と間違えたから、こっちこそごめん……」
雨がしのげるバスの待合室で改めて向き合った二人は、自己紹介と謝罪から始めた。正人の左頬には赤い手形がくっきりと残っている。先ほど澪が勢い任せで殴ったからだ。正人は熱い頬を押さえながら弁解する。
「最初はただのおばあさんと孫の二人連れがバスに乗ってきたんだと思ってたんだ」
「じゃあ、辻倉さんはうちの祖母を見て席を譲ってくれたんですか?」
「うん。おばあさんのことは同じバスで何回か見かけたことあるから。たぶん、墓参りに来てたんじゃないの」
松田家の墓には、澪が生まれる前に亡くなった祖父も入っている。祖母はよく「おじいちゃんに会いに行く」と家を空けていたので、間違いないだろうと澪は頷く。
「バスを降りた後で話しかけてきただろう? その時に松田さんの隣でおばあさんが俺のことを手招きしてたから、そちら側に呼ばれてるんだと思ったわけ。松田さんにはおばあさんが見えてなかったわけだし、冷静に考えれば松田さんにおばあさんの霊が憑いてるってわかったはずなんだけどさ」
(だって怖かったんだもんな)
歩き出すと後ろから憑いてくるし、正人にとっては両方とも幽霊としか思えなかったのだ。その辺りは格好悪いので黙っておく。
「今日はどうしてお墓まで来たんですか?」
「何とかできないかと思って。今日はそれほど不気味な感じはしなかったし」
「そりゃあ人間ですからね」
「ごめん」
素直にもう一度謝る正人に、澪はぷっと軽く噴き出してから、手を横に振ってみせた。
「いいんです。それより、辻倉さんは本当に祖母の霊が見えるんですよね?」
わざわざ体ごと正人に向き直り尋ねる彼女の顔は、先ほどとはうって変わって真剣だ。見たくて見ているわけではない正人は、複雑な表情で頷く。
「だったら、祖母に聞いてみてくれませんか? 亡くなる前の日の夜に、祖母は私に『紹介したい人』がいるって言ってたんです」
「紹介したい人?」
「ええ。私、女子校で、恥ずかしながら一度も男の子と付き合ったことがなくて、だから祖母が、冗談半分だと思うんですけど、いい子がいるから紹介するって言いだして……もちろん本気にしてなかったんですけど、体の弱ってた祖母がその話をしてる時にはすごく生き生きとしてて、あれが祖母との最後の会話でしたし、ちょっと、気になってるんです」
もしも、祖母の紹介したかった相手のことがわかるのならば、一目くらい見てみたい。澪にとっては、そんな軽い気持ちだった。
「なるほど。おばあさんもそれが未練で松田さんに憑いてるのかもしれないな。そういうことなんですが、教えてもらえますか?」
正人は澪の向こう隣に座る穏やかそうな老女に問いかける。澪もそちらを振り向くが、彼女の目に映るのは空席のベンチだけだ。
「ここに、いるんですか?」
「うん。でも、おばあさんは話せないみたいだ。首を横に振ってる。え、あっち? 外? ……なんかあっちのほう指差してるけど、今日はもうやめといたほうがいいかもな」
雨雲で空がずっと暗いので気づきにくいが、すでに日が暮れようとしていた。田舎のバスは最終の時間が早い。
「そうですね。……あの、明日も同じバスに乗ってもいいですか?」
正人が躊躇いなく頷くのを見て、澪の顔が明るくなる。
「ありがとうございます。じゃあ、また明日」
* * *
翌日は昨日までの雨が嘘のように天気のいい日だった。バスに乗り込んできた澪たちに気づくと正人は席を立ち、二人を座らせて自分は吊革を握った。澪は、彼も座ればいいのにと不思議そうに首を傾げる。彼女には隣に座る祖母の姿が見えないのだから当然だ。
「いや、やっぱりなんか、幽霊とはいえおばあさんを立たせるのは悪いというか……」
「辻倉さんは、優しいですよね」
「……いや、ただの自己満足だから」
ほめると途端にぶっきらぼうに顔を背けてしまう。顔はどちらかというと強面なのに、澪には可愛らしく見えてしまって、気づかれないよう小さく笑った。
バスを降りて、いつもの道を歩き出す。昨日は距離をとって歩いていた二人が、まさか隣に並んで歩くことになるとは互いに予想しなかったことだ。三叉路で祖母が指差したのは、左側の道だった。
「辻倉さんは家がこっちにあるんですか?」
「うん、すぐそこ。あの黒い瓦の家」
数十メートルほど歩いてたどり着いたのは、立派な門構えの屋敷だった。白壁でぐるりと囲まれた敷地は、外から見える範囲だけで相当広いのだろうと想像がつく。
「すごいお屋敷じゃないですか!」
「古いだけだよ。荷物置いて行く?」
少し迷ってから、澪は好意に甘えることにした。教科書を詰め込んだ鞄はそれなりに重い。身軽になった二人は、祖母の指示に従い、さらに足を進める。いつの間にか、道はアスファルトから砂利に変わっていた。連なる水田の向こうに時折ぽつんと民家が見えるほかは、人のいる気配がない。歩きながら、澪は気になっていたことを尋ねてみた。
「辻倉さんはなんで幽霊が見えるんですか?」
「なんでって言われても……気づいたら見えるようになってたから」
「怖くないですか?」「怖いよ」
それがあまりにも即答だったので、澪は想わず笑ってしまった。怖いのに、こうして幽霊の導きに従って一緒に歩いてくれる正人はやはり人が良いのだろう。
登山道の入り口に差しかかったところで、二人は足を止めた。澪の学校指定の革靴では厳しそうな登り坂だ。昨日の雨で地面がぬかるんでいるのもマイナスだった。
「今日はもうやめとく?」
正人がちらりと澪の足下を見て尋ねる。
「いえ、大丈夫です。荷物がないので両手が使えますし」
澪はあまり迷うことなく決断する。
「じゃあ、嫌じゃなければ」と正人は徐に左手を差し出した。それが、手をつなぐ合図だとわからないほど澪も初ではない。
「だ、大丈夫です!」
恥ずかしくて反射的に断ってしまったものの、言ったそばから澪はぬかるみに足をとられ、目の前にあった正人の腕を慌てて掴む羽目になった。
「すみません! ……やっぱり、お願いしてもいいでしょうか」
(恥ずかしすぎる……!)
俯いたまま頼んだ澪は、掴んだ正人の腕がかすかに震えていることに気づく。顔を上げると、どうやら笑いを堪えている様子で口元を隠し、顔を背ける正人の姿があった。
「そんなに笑わないでくださいよ」
「……ご、ごめん。嫌じゃなければ、どうぞ」
正人はもう一度手を差し伸べてくれた。嫌だなんて思わない。恥ずかしくて遠慮がちに重ねた手が思いのほか力強く握り返され、胸の奥が震えた。山道を登り始めるとすぐに、そんな乙女ちっくなことは言っていられないのだと気づかされる。二人は汗だくになりながら、しばらくは無言で歩き続けた。
どれくらい登ったのだろう。不意に前方を歩く老女が、こっちこっちと手招きする。道を少し逸れたところに大きな岩があった。
「松田さん、こっちみたいだ」
返事もできず今にも座り込みそうな澪の手を引き、大きな岩を回り込むとそこは――。
「うわあ、すごい!」
疲れて声も出なかったはずの澪の唇から、感嘆の声が溢れだす。視界を埋めつくさんばかりの一面の紫陽花には、そうさせるだけの迫力があった。
正人は澪と、その隣にいる老女を見る。老女は満足そうに笑っていた。どうやらここがゴールで間違いないようだ。ただ、肝心の『紹介したい人』がどこにも見当たらない。
「どういうことなんだろう」
「もしかしたら、祖母はこの景色を見せたかっただけなのかもしれません。祖母も私も、紫陽花が好きだから」
澪の言葉は案外当たっているのかもしれない。隣の老女はゆっくりと頷いている。
「辻倉さん。連れてきてくれてありがとうございます。『紹介したい人』はいなかったけど、祖母の冗談だったのかもしれないし、この場所に来られただけで、私はもう十分です」
軽くお辞儀した彼女は、どこかすっきりとした顔をしていた。
「いや、俺は何も……」
『紹介したい人』は見つからないし、老女も成仏する気配はないし、本当にこれで良いのだろうかと正人は首を捻る。しかし、澪が「そんなことないですよ」と笑顔を向けると、正人の気持ちも幾分か楽になった。
「そろそろ帰ろうか? 日が暮れる」
しばらく紫陽花を眺めて休憩した後で、正人の提案に頷いた澪が歩き出そうとしたときだった。
「危ないっ」
正人が叫んだ時にはもう遅かった。つま足が何かに引っかかり、体が前に傾く。
(あっ……あ、あれっ、痛くない……?)
気がつけば澪は、正人の腕の中にいた。思ったよりもしっかりと筋肉のついた胸板がすぐ目の前にある。
「大丈夫?」
正人に覗き込まれ、澪の頬がかあっと熱くなる。思わぬ急接近と自分のドジっぷりが恥ずかしくて、顔を上げられなかった。きっとそそっかしい子だと思われているに違いない。
「大丈夫です! ありがとうございます」
思わず振り払うようにして体を離したら、正人はすかさず両手を上にあげて降参ポーズ。
「?」
「頼むから殴らないでくれよ」
「もうっ! 殴りませんよ」
澪が怒って右手を振り上げる真似をしてみせると、二人は同時に噴き出した。
* * *
「どうして俺に憑いてるんです?」
朝起きたら、枕元に澪の祖母が立っていた。正人は寝起きの頭を抱え込む。今日が休日なのが幸いだった。混乱したまま飛び起きて学校に行く準備をしなくてもいい。尋ねても、老女はにこにこと人の良さそうな笑みを浮かべるだけだ。やがてなな子が現れて老女のことをあれこれ聞くので、やむなく一連の流れを説明する羽目になった。
「ふーん、それで昨日帰りが遅かったんだ」
ふてくされるなな子を無視して、正人は老女に向き直る。
「そうだ。この際だから教えてください。なんで昨日『あんなこと』をしたんですか?」
『あんなこと』とは、紫陽花を見せるために二人を連れまわしたことではない。
正人は見ていた。あの時――澪が躓いて転ぶ前に、老女は澪の足下に屈んで何かをしていた。あとで地面をよく見ると、草の先と先を結んで作った古典的な罠が仕掛けられていた。澪はそれに引っかかって転んだのだ。
「孫を罠にはめて転ばせるなんて、なんの意味が? 大体なんでここにいるんです? 『紹介したい人』を松田さんに教えたくて彼女に憑いてたんじゃないんですか?」
老女は相変わらず真っ直ぐに指を差す。示された先――正人が自分の背後を振り向くと、庭に続く大きな窓がある。西の方角。
「あっちにいるんですか?」
問いに、老女は静かに首を横に振った。その指先は正人のいる方向を指したままだ。
「ねえ、正人のことなんじゃないの?」
たまりかねたように、なな子が口を挟む。
「何言ってんだよ」
「面識あったんでしょ?」
「……バスの中で何回か会っただけだぞ?」
「んー、なになに? いつも満員のバスで席を譲ってくれて、親切だったと。二人がくっつけばいいなと思って連れ回したり罠を仕掛けたりしたんだってさ」
正人には聞こえない老女の声も、なな子には聞き取れるようだ。通訳された内容に、正人は言葉を失くした。
その時、静かな家の中に、ピンポーンと間の抜けた音が鳴る。惚けて反応できない正人の代わりに、なな子が玄関先に走っていった。
菓子折りを手に持ち、私服姿の澪は大きな門の前で一つ深呼吸。改めてお礼を言いたくて、訪ねてきてしまった。意を決してインターフォンを押すと、はーい、と高い声とともに開いた扉から、少女が顔を覗かせた。
「あの、松田といいます。正人君はいらっしゃいますか?」
(妹さんかしら?)
少女はじっと澪を観察したあと、合点がいったというように、ぽんと手を打った。
「あなた、彼氏候補を正人に探させてた人ね」
「え……?」
「はっきり言って迷惑。超迷惑! 正人だってそう思ってるわよ!」
きっぱりと言われて、澪は頭が混乱していた。沸き上がるのは怒りではなく、悲しみだ。
「なな子! 勝手に出るなって……うおっ松田さん?」
打ちひしがれる澪の目の前に、当の本人が姿を現す。しかも正人は澪を見て明らかに動揺した上に、気まずそうに眉根を寄せる。
(やっぱり、迷惑だったんだ)
先ほど衝撃の事実を聞かされたばかりの正人はどう対応したらいいのかわからないだけだったが、そんなこと澪は知る由もない。
「ごめんなさいっ」
澪は頭を下げ、その場から逃げ出した。
「松田さん! 待って、なんで逃げるっ!?」
追いかけてきた正人にあっさりと掴まって、澪はしどろもどろに弁解する。
「ち、ちがうの。女の子が……辻倉さんにはあの子がいるのに、私が面倒なこと頼んだから、本当に、ごめんなさい! 迷惑だってこと全然気づかなくて……」
「女の子って……え、あ、なな子? あいつまたなんか余計なこと言ったな!」
「怒ってたから、早く戻った方がいいですよ」
「いや、あいつは単に構ってほしくて拗ねてるだけだから、気にしなくていいよ」
「なおさらダメです。彼女のことそんな風に扱ったら、誰だって怒りますよ」
悲しいを通り越したら、今度は腹が立ってきた。無神経な正人の言葉に突っかかるが、澪自身、何に怒っているのか本当はよくわからない。
「ちょっと待って。松田さん、誤解。あれはうちの座敷わらしだから!」
澪を落ち着かせようとする正人の口から、聞き慣れない言葉が飛び出した。
「ざしき、わらし……?」
「そう、座敷わらし。古い屋敷に住む妖怪。あと、松田さんのことを迷惑だとか思ったことは一度もないから」
「そう、ですか……よかったぁ」
澪にとっては妖怪云々に驚くよりも、正人に迷惑がられていないとわかって安堵するほうが先だった。
「それから、さっきわかったんだけど……あー……これはまだいいか」
正人の言いかけた言葉に、澪は首を傾げる。
「なんでもない。幽霊も妖怪も見える俺ですが、これからもよろしくお願いします」
正人に仏頂面で握手を求められ、「なんですかそれ」と澪は思わず噴き出す。そして、ぶっきらぼうだけど優しい手のひらを、そっと握り返した。
この日、彼が告げなかった真実。澪がそれを知るのは、数カ月後、祖母の『紹介したかった人』と初めてキスを交わした後のことである。