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変身

「東欧ツアーの募集広告、ねぇ」


 五反田は吸っていたメビウスを灰皿に押し付け、回されてきた仕様に目を落とした。

 大手とは言い難い旅行代理店から広告のデザインを依頼されたのだが、どうにもピンと来ない。企画書に踊る文言を見ても、ちっとも東欧の国々に行こうという気が起きないのだ。

 無精ひげの生えた顎をバリバリと掻きながら、若手の絹笠翠子の机に企画書を滑らせる。


「キヌちゃん、これ何か知ってる?」

「東欧ツアー? ああ、放出(はなてん)観光さんも始めたんですねぇ」


 地方大学の観光学部を卒業して転がり込んで来たばかりの青臭いひよっこだが、絹笠の情報収集能力は中々のものだ。最近老眼気味なのかパソコンのディスプレイを長時間見ているとチラチラしてくる五反田と違い、ネットの海からいくらでも情報をサルベージしてくる。


「何その「も」って。どういうことよ?」

「地味に流行ってるんですよ、東欧。特に年齢層の高い男性に」

「暇と金を持て余した団塊の世代が神秘体験でも求めてンのかね?」

「どうなんでしょ。ドラキュラ伯爵ことヴラド・ツェペシとか、共産懐古趣味とかその辺ですかね?」

「それじゃあちょっと弱い気がするなぁ」


 絹笠から突っ返された企画書の紙面にもう一度視線を落とす。

 この企画は言わば東欧ツアーの後発組である放出観光から出されたものだ。単純に切羽詰った後追い企画である可能性が高い。ということは、本当の東欧人気の原因は含まれていないのではないか。


「キヌちゃん、ちょっと早いけど昼飯食って来るわ」

「あー 長引きそうなら一本メール入れて下さいね」

「あいよ」


 春物のジャケットを肩に掛ける。

 姿見に映るのはめっきり頭の薄くなった自分の姿だが、これでもまだまだ戦えるはずだ。



               † † †



「……どこも変わったことなんかねぇよなぁ」


 行きつけのラーメン屋でニンニクラーメンを啜りながら、集めてきた東欧ツアーのチラシを一枚ずつ確認する。

 内容はどれも代わり映えしない。折からの円安でどこも苦しいのか、半年前と同じ値段でホテルその他はグレードダウンというのがトレンドのようだ。


 元から東欧観光はあまり人気が無い。見どころはあるのだが、どれも玄人好みだ。英語も西欧に比べて通じにくいとなると、どうしても敬遠されてしまう。


「さて、ツアーの内容は良くなるどころか悪くなっている。ところが人気は上がってるとなると…… 東欧自体の環境に何か変化があったかな?」


 最近ようやく使い方を覚えたスマホで、外務省の海外渡航に関する注意事項から順番に確認していく。一時期に比べると治安も安定したのかもしれないが、これと言ったプラスの材料は見当たらない。

 本当にただの偶然なんだろうか。


「ん? “風土病にご注意ください”だって? こんな文言、前からあったかね?」


 その地域特有の病気である風土病に注意を促す警告は、ままある。

 アフリカの国へ渡る時は予め幾つもの予防接種を受けなければならないくらいだ。

 だが、東欧でそんなに強力な風土病なんてあまり聞いたことが無いような気がするのだが。


 そう思いつつ、先程集めたチラシをもう一度よく確かめる。

 すると、チラシの何処かに必ず“風土病に注意”の言葉が控え目にアピールされてるのが分かった。

 全く意味が分からない。

 これではまるで、


「風土病の方がウリみたいじゃないか……」



               † † †



 放出観光のライバル、喜連瓜破(きれうりわり)トラベルビューの担当者の西河川敷を捕まえることが出来たのは幸運だった。禿げ上がった小汚い五十代前半のオッサンを喫茶店で待つ、というのは苦痛だが、謎を解くためにはしょうがない。


「五反田ちゃん、お久しぶり」


 喫茶店に入ってきたのは西河川敷だった。

 いや、確かに西河川敷のはずだ。だが、何故か西河川敷の頭には在ってはならないものがある。


「お姉ちゃん、冷コーね」


 アイスコーヒーを頼みながらよっこらせ、と向かいに腰を下ろすのは間違いなく西河川敷だ。だが、あの薄かった頭は何処へやら、今は黒々とした草原が彼の頭を覆っている。


「西河川敷さん、それ……」

「ん? 五反田ちゃんはまだルーマニア行って無いんか?」

「ルーマニア?」

「そ、ルーマニア」


 おしぼりで首と耳の裏を拭きながら、西河川敷がニヤニヤと笑う。


「今なら安くしとくから、うちのツアー使えへんか?」



               † † †



「五反田さんのこと、馬鹿だ馬鹿だと思ってましたけど、本当に馬鹿なんですね」

「はい、すいません」


 事務所の床に正座させられて、五反田はさっきからずっと説教され続けている。


「“遅くなるならメールを入れろ”って、確かに私は言いました。それは事実です。だからって、メール一本入れたらどれだけ遅くなっても良いってことじゃありませんよ?」

「……はい」


 いつもはクールな感じの絹笠が腕を組んでぷりぷりと怒っているのも無理はない。

 全く、五反田が悪いのだ。


「まさか、昼飯食べに行ったままルーマニアまで行く馬鹿がこの世の中にいるとは思いませんでした!」




 ワラキア風邪。

 通称、獣化症と呼ばれるこの病気がルーマニアの一部地域で確認されたのは数年前のことだった。

 原因は一切不明。感染経路は空気感染だと言われているが、保菌者が他の地域に出ても感染が拡大しないという性質を持つこの病気は、世界中の疾病学者の注目を集めたが、新聞などではそれほど大きな扱いはされなかった。


 むしろ大きく扱ったのはオカルト紙だ。

 この病気の感染者は月齢に合わせるように二十八日に一度、猛烈な新陳代謝の促進によって、文字通り“獣化”する。

 つまりは全身の体毛が濃くなるのだ。頭髪もその例外ではない。


「だからと言って、わざわざ東欧まで行って病気貰ってくる馬鹿がいますか!」

「いやまぁ、その、好奇心に負けたというか、男のロマンというか……」

「とにかく、病院に行って、それから溜まった仕事を片付けて下さいね!」

「……はい」



 数カ月後、このルーマニアブームはひっそりと幕を閉じた。

 大手製薬会社がある種の血圧降下剤から強力な増毛剤を開発することに成功したからだ。効果は大きく、副作用もほとんどない。

 夢の薬の登場に、日本中の毛髪にお悩みの方たちは、湧いた。



 その一方で、深い傷を負った者たちも、また、いる。


「残酷だよなぁ」


 昼下がりのラーメン屋で五反田は悲嘆にくれている。

 ニンニクラーメンが、食べられない。どうしても身体が受け付けず、吐き気までするのだ。

 好物を前にして箸すら付けられない五反田を絹笠はケラケラと笑っている。


「馬鹿なことした奴への天罰じゃないですかね」


 ワラキア風邪の副作用として、ニンニクが食べられなくなる、ということが明らかになったのは、ブームの去った後のことであった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 短いお話なのにキャラクターが立っていて、さらにお話も面白くて凄いと思いました! 好物を食べられなくなった主人公がちょっと可哀想でしたが;
[良い点] なぜか風土に対する愛着みたいなものを感じました。クスッと笑える感じがよかったです
[良い点] 安定した筆致で紡がれる発想のシュールさ。 クスリとくる笑いをもたらしてくれる。 そこにも垣間見えるオカルト知識。 [一言] もともと人狼と吸血鬼って完全には分離してない存在だったことを思い…
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