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八章 定められた未来へ

             


 空を舞うベアトリーチェを不適な笑みを浮かべて見上げていた創造主は時の瞬きの矛をベアトリーチェの羽根に合わせて、その羽根を突くイメージでしゃがみ込んだ。両膝を一気に伸ばす。その瞬間、創造主は空へと駆けるように跳び上がった。ベアトリーチェはそれを確認すると太陽の子を突き立てて、そのまま、創造主の頭が丁度、通過するであろう中空へと飛び込んだ。

 二人が一カ所の中空に交わろうとする。剣と槍の刃先が鋭い音を立てて凌ぎ合う。どちらも引けを取らずに空中に停止しているように、上からのエネルギーと下からのエネルギーが拮抗する。

 ベアトリーチェは歯を食い縛り、雪と暮らす未来の希望を思った。創造主は唇を横に伸ばした不気味な顔つきを浮かべて、虐められていた過去の絶望を思った。そう強烈な心の言葉を叫ぶと自然と力が漲ってきた。

 ベアトリーチェと創造主はほぼ同時に剣、槍を一端、引いた。そして、数秒の間もないまま、ベアトリーチェは創造主の肩を切り裂く。創造主も負けじと槍を振るい、ベアトリーチェの右膝を切り裂く。

 両者とも痛みに耐えかねて、悶えるような悲鳴を上げて落ちてゆく。落ちてゆく際に血が滴り、右膝から胴体を目指して血が下ってゆくのを感じて、ベアトリーチェは気持ちが悪くなった。それは自分であった部分が欠けて自分に対して拒否反応を起こしているようだった。背中を包むように砂がベアトリーチェを守ってくれた。だが、身体の感覚が薄れて何度、立てという命令を出しても立ってくれなかった。何度も、何度も、命令を出す。出す度に痛みを感じている、泣いて忘れるんだと脳が喚く。砂を握り締めて、悔しさに涙を零しそうになるのを押さえる。

 その間にもベアトリーチェを殺害しようと近寄ってくる荒々しい息と、隠すことのない重々しい足音が響いてくる。それは心臓にまで響いてきた。

 ベアトリーチェの足下にかかしのように縦長い影が揺らいだ。力を振り絞ってその影の持ち主に砂を投げつける。う、という低い動揺を秘めた声と共に影は、ベアトリーチェの足から去っていった。その隙を狙い、跳ね起きる。狙うという的確さを定めずにただ、ベアトリーチェは太陽の子を振るった。無我夢中だった。曇った視界には化け物のように大きな口を開けて、ゲロリーチェと叫び散らす創造主がいた。自分が斬りつけた両足、両腕、首筋といった箇所は真っ赤な赤い線となっていたが、じわじわと線から赤い湖へと変わってゆく。

 勝利を確信したベアトリーチェは機械的な何も感情を映さない顔つきから、本来の子どもじみた甘さの滲むあどけなさを顔に映し始めた。だが、心の奥底ではこれではまた、同じだ! と叫んでいた。だが、身体は定められた運命には逆らえない。身体と精神が一致しない。

 血は容赦なく、何も知らずにそこに在るだけの砂達に襲いかかる。自分から流れるそれを虚ろな表情で見つめていた創造主はふと、ベアトリーチェに向かって笑った。それは人を小馬鹿にする愚かしい表情。

「浅いのよ、ゲロリーチェの攻撃」首筋を摩って、「首筋の傷なんてあと少しで瘡蓋になりそうよ」

 吹き荒れた粉塵を諸ともせずにベアトリーチェの腹部に時の瞬きの矛が突き刺さろうとした瞬間、ベアトリーチェは砂漠の砂を強く蹴り、後方へと退いた。足が砂へと着地する度にずしんとした重みのある痛みが幼子から少女へと成長したベアトリーチェの心を不安にさせた。死の恐怖が心臓の血流を活発にさせる。その駆動音まで耳をすませば聞こえそうだ。そのベアトリーチェを追うようにして、太陽の方角から一筋の炎が向かってくる。炎の大きさはベアトリーチェを十分包むほどある。目で追うのがやっとのスピードに恐怖が身体全体を蝕む。

 知っている。自分は避けられる。残念だったな、ジェーン。

 引き攣った表情を浮かべるベアトリーチェに創造主は満足げに立ち尽くす。人一人を焼死体にするには十分な大きさの炎が誕生日ケーキの柔らかなスポンジに立っている炎のように見えた。今日は自分の誕生日だという事実を今になって思い出した。ふと、自分が一度も誕生日会というものに触れたことが無かった事実に思い当たる。それだけじゃない暖かみのある行事にはほとんど縁がなかった。家族旅行、ピクニック、授業参観、七五三、クリスマス。

 炎がベアトリーチェを執拗に追いかけ回す。辛うじて避けるが、艶やかな着物の裾が黒く焦げていた。定められた時間を狂わせる手はないのかと、墓地とも表現しても差し支えないほど、生命の羽音のない枯れた大地を見回す。だが、砂漠の砂達は何も語らずにそこに在るだけだった。

「俊足とか……言ったっけ? そこそこ使える能力のようね。でも、格が違うの、貴女とは。貴女とは違う存在なのよ」

 呪い殺すような叫びが炎へと飛び火し、いっそう加速させる。その炎は創造主の負を抱えていた。可愛い女の子、きっとみんなからちやほやされたのだろう。幾ら、私が貴女を虐めても誰かがそれ以上の愛を与える。世の中は不公平だ。幾ら、私が神様になっても不公平だった。どうして、私に怯えるの? どうして、仲間外れにするの? まだ、幼子だったウジ虫ジェーンが頭の片隅で児童養護施設の床の傷を指でなぞっている。ウジ虫ジェーンがこちらを凄みのある見開かれた瞳で見て、口を小刻みに動かす。早く殺してよ、と。

「解っているよ、ウジ虫なんかに言われなくとも」

 茫然としていた自分を奮い立たせるように過去の自分に話しかけた。ベアトリーチェに視線を向けると、意外な光景が目に飛び込んできた。いや、意外だと感じているのは瞬きせずに、宙に舞う燃えてゆく着物を見張る肉体的な自分だけだった。精神的な自分は時の書通りとほくそ笑む。

「創造主」

 という声と同時に着物のすぐ横を一陣の風が吹き荒れる。俊足という名を超越した神速とも呼ぶべき太陽の子の一撃が創造主の肺を目掛けて吹き荒ぶ。その風を創造主は意図も容易く、止めようとした。

 歯を食いしばって腹から跳び上がってきた絶叫と共に時の瞬きの矛が、眩しい太陽に吸い込まれてゆく。次は創造主だと身体が無意識に創造主を目指すが、精神は知っていた。既に刃がないと。刹那の間を置いて、刃先の折れた太陽の子が目に映った。絶望が身体の動きを鈍らせる前に激しい痛みを感じた。息とあ、という声が口から漏れた。

 折れた刃先が自分の腹部に突き刺さっている。それを辿ってゆく目と同じくして、刃先の両端から鮮やかな血が染みこんで交わった。視線の先には創造主の赤々しい拳があった。状況を確認した身体を何処か、離れた場所で見守っていた精神が急速に統合されてゆく。創造主と距離を置こうと辿々しい足運びで慎重にゆっくりと遠ざかる。

「武器がないわね。御免ねん」

 軽い口調で創造主が言い、腹に突き刺さった刃先が引き抜かれる。

 激痛が流れ出た。もう、いらないと身体も、精神も叫ぶ。だが、知ってる。まだ、痛い思いをしないといけない。口の中に唾が溜まってきた。もう、すぐだ。

「動けない獲物を虐めるのが大好きなの、だからね。大人しくしてね」

 ベアトリーチェの右足の太ももに刃先が容赦なく、突き刺さった。右足が自分の足とは違う無機質なものがくっついているという不思議な感覚と、荒波のようにうねる痛みを我慢しようとした。その意志に反して、仰向けに倒れた。

「不様ね、ベアトリーチェ? その足ではろくにもう、歩けないでしょう。戦いっていうのはね、すぐに結果が解るのよ。だからね、焦っちゃだめ。そんなに私が憎い?」

 創造主がめそめそと泣いているベアトリーチェの近くにしゃがんで、白い髪の毛を優しく撫でた。髪の毛先まで創造主に怯えていると解るほどの身震いを、憧憬と憎悪を持って眺める。

「違う。僕はお前と違う、ジェーン。僕にはよく解らないけど、お前は憎しみで生きている。僕を虐めて笑顔になろうとしている。僕はお前になりたくない」

「憎い癖に御託を並べるなよ。貴女、昔の私に似ていて無性に虐めたくなるのよ」

 そう、お前だって私と同じように意地悪した人間を一人残らず、殺さなきゃ気が済まないはずだ。創造主は自分の記憶に残る虐めっ子を全て排除した時の記憶を思い出しつつ、そう考えた。


             


 心臓は今にも破裂しそうに早鐘を打っていた。あと少しで僕の幸福だった時間は終わりを告げる。今回も雪と両想いになれなかった。それを望むのは我が儘なのだろうか?

 振り向き、虚ろな視線で雪を確認して心の中で呟いた。どうして心中でしか素直になれないのだろうか? いつものように教えてくれ、雪。けれど、雪は僕を大人とは認めていない四歳のベアトリーチェに見せていた満面の笑みを向ける。四歳のベアトリーチェならば、釣られて笑顔になり、雪の名前を呼んで擦り寄っただろう。僕はどうしてもその笑みが許せなかった。自然と顔がむっとした顔つきになる。それでも雪は四歳のベアトリーチェをあやすような笑顔を浮かべている。

 雪に続いて永遠、了、李緒がいるのを確認した。死ぬのに! どうして僕を見捨てないと僕は叫びたかった。だが、身体が動いてくれなかった。

 不正に現実を変えられない。それは幼い頃からずっと知っていた。いけない事だし、無駄な事なのだと本能が僕に十四年間、囁き続けてきた。それでも僕は叫ばずにはいられない。身体がそれを外に出さなくても。

「ベアを虐めるな」

 と憤怒に満ち溢れた声と共に砂を投球する。砂は僕が与えた力、疾風の効力に米粒よりも小さな砂粒が眼では捉えきれない速度で創造主を目指す。創造主は悠然と構えていた。僕には解っている。既に定められた通り、創造主は雪を小馬鹿にするウィンクを投げる。

 雪は唖然としたまま、その場に留まる。創造主と僕以外の時間は止まった。直ぐさま、僕は創造主の時間を止めようとした。だが、止まらなかった。

「なんでよ! 止まってよ。お願いだから、雪を殺さないで」

「止まるわけないでしょ。貴女の操れる時の流れなんか微々たるもの。私に遠く及ばない」

と言いながら雪へと近づき、雪の頬を舐めた。「うん、良い味。やっぱり格好いい男は良いわねん」

 と言葉とは裏腹の蔑むような瞳が僕の顔を眺めている。その瞳は無言のまま、お前じゃ釣り合わないと言っているようだった。

 急速に頭に血が上ってきた。ゆっくりと立ち上がる。その間も創造主から眼を離さない。創造主はただ、じっと僕が来るのを待っていた。頭の中で何かが弾けるような感触を感じたが、どうでもよかった。眼前にいる創造主が憎くて仕方ない。

 その想いだけを乗せて走り出す。走っている際にレースアップブーツからサバイバルナイフを取りだして、構える。痛みを曝す叫びが自分の口から、自分ではないような鋭敏な声となって発せられる。

 徐々にペースダウンして、創造主へと近づくにつれて走るというより歩くと表現した方が正しい速度まで落ちた。それでも、一縷の望みを託して、サバイバルナイフを両手で握り締め直して振り上げる。

 無情にも、

「うるさい、ちびリーチェ」

 と蠅を叩くように僕の足は軽く足払いされた。倒れた僕の腹の上にヒールの踵が突き立てられた。肌に食い込み、顔が痛みと絶望に歪んだ。雪を意識してお小遣いで購入した黒いワイシャツのボタンとボタンの合間の布にヒールの跡がくっきりと付着した。僕は涙目に純粋な怒りを乗せて、創造主を睨んだ。

「嫌になるわね、リーチェ。時間の仕組みを知る人間はみんな、不幸よ」

 と創造主は小さな子に聞かせるような口調でゆったりと言った。僕が反論しようとした時、夥しい量の血が橙色の砂に落ちた。か細い鳴き声が出てた。僕はゆっくりと視線を雪の腹に向けた。刃先だけの太陽の子が刺さっている。悲鳴を上げようとしているのが解っているのか、雪は僕を見て痛そうに顔を歪めながら静かに、と唇に人差し指を当てていた。

 僕は雪の言葉は大抵、正直に聞く方だ。今は言う事を聞けなかった。ありったけの声を腹の底からただ、雪とだけ歪な音で雪に届けた。

 創造主のヒールを掴み、俊足の地面を蹴る力を応用して創造主の足を蹴り飛ばした。創造主は咄嗟の出来事に対応出来ず、蹌踉めき吹き飛んだ。吹き飛んだ創造主には目もくれずに一目山に僕と了、永遠、李緒は仰向けに倒れた雪の元へ駆け寄る。

「雪、おい! しっかりしろ!」

 僕は雪の前にしゃがみ込んで、雪の腹の痛みを取ってあげたいと摩ろうとした。だが、永遠の手が伸びてきて止められた。永遠は僕の抗議のむっとした顔を見ても、顔色一つ変えずに首を左右に振った。

 雪が死ぬなんてあっちゃいけないのにと、僕は俯いて自分の両拳を眺めた。雪の死に顔を僕は見たくなかった。

「ベアトリーチェ。小さな者。顔がよく見えない。泣いちゃ駄目だ。初めからこうなるって覚悟していた。永遠? そこにいるか?」

 雪の震える手が僕の頭に伸びてきて、ゆっくりと、ゆっくりと老人の歩みのように単調に撫で回した。それは愛する恋人に送る愛ではない。僕はまた、解ってしまった。解ってしまっても嬉しかった。雪に雪の子どもだと思って貰える事実が。

「永遠、ベアトリーチェを。俺達の小さな者を頼む」「嫌だ、雪。お前のベアトリーチェを置いて先に逝くのか」と雪に訴えかけた。だが、雪から僕に答えは返ってこなかった。ただ、虚空を仰ぎ見て、「もっと、成長を見たかったな。過ぎゆく季節と一緒に」とだけ、震える唇でやっと言い終えると目をゆっくりと閉じた。

 僕は一瞬、茫然としたが、次の瞬間には雪を生き返らせなければならないと思い、雪のワイシャツの袖を両手でぎゅっと握り締めて力なく揺すった。

「ベア」と了が僕を呼ぶ声が聞こえる。今は何も応えたくなかった。「ベアちゃんの思う通りにさせてあげよう、ね?」李緒が内緒話をするように誰かに提案した。「ああ」という了の気の抜けた返事と「そうだね」と涙混じりの粘ついた永遠の声が聞こえた。三人が僕と雪から遠ざかってゆく足音が聞こえた。その足音は確かに生を刻んで止まる事がない。

 僕の指先から伝う雪の額の熱は互いに同じ暖かみを持っているのに、何処かで次元が切り離されている。これが死。

 それでも、僕は雪の側を離れられなかった。ただ、雪の瞼が再び、開くのをじっと待つ。

 それ以外の情景は何も映らなかった。両腕の力は抜け落ちてただ、雪の身体の隅々まで触れて、生のある暖かみを探そうとしていた。


           


 俺は親友を結局は利用していたのだろう。だが、それをお前に伝えたところで、きっとお前はいつもの全てを知り尽くしていると言いたげな澄ました顔つきで俺を一瞥すると、了は馬鹿だな。一つの集団というのは利用し、利用されて互いに相互関係を保ちながらでないとバランスが取れないんだと言うのだろう。だが、お前はもう、喋れない。

 死人に口なしとはよく言ったもんだねぇ、本当に。

 李緒と永遠のゆったりとした足取りを追い越して、死に向かって走り出した。でも、ただの死ではない。他の生を全うさせるべく、消費される死だ。そう考えると雪になったみたいで、俺は無性に笑いたくなった。事実、唇が微かに緩んでいる。

 他人からすれば、馬鹿だな、あいつなのだろう。でも、あいつとの友情が俺をここまで生かす原動力になった夢を見させてくれた。

 蹌踉めき立ち上がろうとする創造主に向かって見えない重力の楔を打ち込む。だが、少しずつ、創造主の身体は平衡感覚を取り戻して、俺の方を獣のようなぎらついた目つきで眺めていた。それは必死に品定めしている主婦のようにも見えた。

 視線が創造主へと定まってゆくのを感じた。猛然と創造主の胴に腕を巻き付けると徐々に圧力を掛けた。

「逃げろ、永遠、李緒、ベア。俺がこいつを押さえている間に」

 そう叫んだが、俺の視線には創造主の肩幅の広い肩しか映っていなかった。ベアトリーチェ以外の二人が俺に今すぐ、創造主から離れるように諭す叫び声が聞こえる。俺は心の中で雪に話しかけた。俺もモテるんだぜ、モテモテ雪さんよ。

 創造主の両肩が泣いているように震えている。気でも狂ったのか? と考えようとした時だった。創造主はまるで三流のコントを見て、それが可笑しくて笑っているような奇声を立てた後、不気味な程の無言状態に陥った。

 強がりだと安堵の溜息を吐いた。それと同じくして胸に手が突き刺さっているのが認められた。目を見開いて何度も確認した。それは紛れもなく女性の繊細で長い手だった。それを何度目か、確認し終えると急に辺りが暗くなり、最期に夢のような光景が浮かんだ。

 雪と永遠の間に挟まれて、四歳のベアトリーチェが棒に突いたオレンジ色の飴を舐めていた。それをにこやかに雪と永遠が見つめていた。ベアトリーチェが転びそうになった時、二人の両手がベアトリーチェの腕を優しく掴んだ。

 俺はそれを遠くのベンチに座って眺めていて父さん、母さんと呟きたかった。呟きたかったな……。


           


「汚らわしい腕で私に触らないでよ。これでもお肌には気を遣っているんだから」

 という創造主のヒステリックな声と何かが地面へと激突する鈍い音が聞こえた。

 明らかに異常な出来事だ。何かが変わった事は頭では解っていたが、雪の膝の熱を感じ取るのに僕は忙しかった。その熱が全て、無に帰る前に僕はそれを自分のものにしたかった。

 何もない空は僕を孤独にさせた。僕の頭の下には雪の膝があるのに孤独にさせたんだ。

「今回も僕は救えなかった」

 雪の死を受け入れたくない。受け入れざるを得ないの? と繰り返し、自身に反芻させる。堂々巡りでも塞き止められない思考は流れるがまま。


           


 了が倒れてゆく姿を見て、私と永遠は絶句した。だが、絶句して、そこに留まれない。歪んだ世界はまるで絶え間なく、蠢いている。気を抜いたら倒れそうと心臓はずっと泣き叫んでいた。もう、時間がないと自分に何度も語りかけた。ならば、私達の小さな者を生かすべきだと私はもう、ここに来る前から心に決めていた。それが私の善の感情だから、それが那世家の血だから。

それが私と母を結ぶ糸だから。

 私は永遠の手を突き放す。

「わーちゃん、時間を稼ぎますからベアちゃんとお逃げ下さい」

 早口気味の声が冷淡に聞こえたと感じて言い直したかったが、永遠はその間を与えてはくれなかった。

「李緒、駄目。貴女が一番、生きたがっていた。誰よりも」

「もう、私という存在の時間は終わりのようですから最期は親友、永遠の大切なベアトリーチェに使わせて」

 熱心にただ、親友である永遠の真ん丸としたベアトリーチェに似た優しい澄んだ瞳を見つめた。熱意に折れたのか、どうかは永遠に聞いて見なくては解らないが、永遠は何も言わずに頷いた。

 私は永遠にさよならも言わずに駆けだした。進む事に躊躇い、首を横に曲げた。横目で親友を一瞥する。親友は私とは違う方向へと進んでいた。私は自分に頷いた。そして、親友がどうか私の最期を見ないようにと、心の底で願った。

 私は創造主に向けて掌を突き出した。指と指の間からは同じように掌を突き出している無表情の創造主が突っ立っている。私達は全く同時に天へと掌を捧げて、そのまま振り下ろした。

 間を置かずに、轟音が空を引き裂く。頭上に熱い風が吹き荒れる。創造主の頭上を見て、その熱い風を巻き起こしているのが炎の雨粒だと理解した。その雨粒はまだ、互いの身には到達していない。だが、それも時間の問題だ。避けられる時間も術もない。創造主はどうだろうか? きっと防いでしまうのだろう。だが、そうする事に意味があるように感じた。今なら苦痛に歪んだ引き攣った微笑みではなく、違う微笑みを浮かべられる。

「御祖母様、母様、間違っていませんよね? 心の底から私は」と言葉を切って酸素を吸う。そして、無垢な善意の微笑みを浮かべた。「私はそうしたいと思ったのです」

 赤い光を私は見た。それを見た途端、視界は暗闇に閉ざされた。ただ、それを最期に全身を無数の針で貫かれたような激痛を感じた。

 この痛みが止むのをただ、ただ、待ち、いつの間にか……私は。


           


「援軍も役に立たなかったようね、ベア」

 僕はその満足げな声を聞いて、全身に激しい旋律が駆け巡るのを感じた。震えが止まらない。ただ、その震えをいつも癒してくれた存在である雪に目を向けた。次に心臓を貫かれて目を見開いたまま、息絶えた了に視線を向けた。そして、今も燃え続けている真っ黒な李緒に視線を向けた。視線には絶望以上の憎悪の光が宿った。目の前にいる僕よりも背が遙かに高い山のような女が、僕の大切な人を奪った。

 僕へと駆け寄ろうとして、転んで立ち上がろうとする永遠を確認すると、怒りは義務に変わった。僕が成す義務はただ、一つだけだ。足に義務という絆創膏を貼る。もう、痛みが感じなくなった。代わりに異常な熱さを全身に感じる。汗が黒いワイシャツとレーザーパンツを肌に引っ付かせている。息づかいが急に緩慢になった。

 僕の義務は、

「創造主は僕が殺す」だけだ、と宣言する。「べ」と僕を呼ぼうとする永遠の声を耳にしたが、最後まで聞けなかった。そう、最期まで聞けなかった。繰り返す、繰り返す汗だらけの記憶を否定できない。時間が記憶している通り、僕は永遠の時間を止めて、創造主の時間を浸食し始める。時間が浸食された創造主の動きは緩慢で、今にも動きが止まりそうに見えた。いつの間にか、消えていた羽根は再び、僕の背に生えてきた。背が温かくなる感触と共にゆっくりと僕を雪のいる砂漠から、突き放した。頬に伝う涙がオレンジ色の灯りに照らされていた。流れ零れる涙が雪の閉じた瞼に落ちるのが見えた。しゃくり上げた声で雪に囁く。

「待っててね」

 もう片方のレースアップブーツの底に仕込んであるキッチン用のナイフを両手で握り締めた。ナイフは一度も使われていなかった。柄にはべあちゃんと名前が油性のマジックペンで記されていた。

「永遠お姉ちゃん! さようなら」

「ベアちゃん駄目! 私と一緒に逃げましょう。何処までも、何処までも!」

 その悲壮に満ちた叫び声は風の流れの隙間を縫って、僕の耳元に届いた。俊足によって風と同じ速度を得た僕は自分を守ろうとせずに急降下する。結果は知っていた。それでも、僕はそうする事に悔いはなかった。何度やっても憔悴せずに人生を歩むことができる。雪と共にある人生だから。僕は笑った。精一杯、笑った。弛まなく流れ続ける腹部の出血さえ美しく思えた。まるで葡萄ジュースがコップへと注がれる瞬間のようだ。

 時間が徐々に創造主に傾いてゆくのを感じた。創造主の胸部へと放物線を描くように羽根を羽ばたかせる。

 後数センチで創造主のたわやかな胸にナイフを差し込める。だが、そこでナイフを持つ手に力が入らなくなった。一瞬、何が起きたのか、解らずに、僕は新たな痛みの場所を見入った。右肩と左肩が焼け爛れていた。赤く変色した肉は醜悪な姿と強烈な焼けこげた匂いを放っていた。それでも、もう一度、ナイフを強く握り締めて無我夢中でナイフを投げた。

 僕はもう、戦えないと悟り、雪のところまで羽根を広げて跳び、雪の両手を自分の両手と重ね合わせた。酸素が地球には沢山、満ちているから人は窒息死しないと雪が教えてくれたことがあった。でも、嘘つきだ。僕は何度も息を吸おうとしているのに酸素が入ってこない。こんなのは初めて……いや、知っている。雪、僕も死ぬの? 僕は問いたくて雪の安らかな顔を見つめた。思わず、顔が赤くなって恥ずかしくなった。今の自分は汚らしい。黒いワイシャツの布が張り付いて、その隙間の両肩から自分のものではないような火傷の跡。腹部は赤く染まっていた。レーザーパンツの黒色はいつの間にか、赤黒く変色している。頬も涙でカサカサだ。鼻水も鼻から飛び出している。雪に嫌われちゃう。

「雪……僕を嫌いになる?」

 創造主が何かを叫んでいるがもう、どうでも良かった。霞んでゆく目の前にある雪の顔が見えなくなる瞬間まで、雪の顔を見ていたい。いつも、一緒だった、何度、人生を繰り返しても恋していた。

 僕は創造主を威嚇すべく、睨み付けた。それには応じず、無表情でこちらをじっと見下ろして微笑してから、

「悲恋だったわね。人に愛されない哀れなベアトリーチェ」

 と僕の人生を否定した。僕は遠ざかる砂を踏む音と、急速に近寄ってくる砂を踏む音を耳に通しながら、雪の発する音をなんとか、拾おうとした。聞こえない。重ね合わせた雪の両手からは、依然として温もりが伝わってこない。

 だけども、雪はまだ、そこに在る。

「雪、今度は百回目の出逢いをしよう」

 太陽がお休みする時間に放つ緋色の幕の下で、僕は雪の唇と自分の唇を一つにした。無意識に息をしようとする口が痙攣するように微かに動いた。

 大人のキスはもっと唇を押しつけた方が良いのか? それとも今のように触れあうだけなのか? 雪に聞いておけば良かったと、雪に微笑みかけた。

 徐々に自分の唇を押しつけてゆく。今は自分と雪しかこの世界にいない。もう、雪の瞼しか視界に映らなかった。頭が茫然とする。恋が成就したらもっと幸せになれる、雪?

「ベアちゃん、死んじゃ……駄目。私を置いていかないで、ベアちゃん」

 背後からだと思うが、微かに声を感じ取った。本当に背後からなのだろうか?

 雪の瞼が見えなくなって、雪の唇の味……プリンの味がした。今朝、僕が食べる為に取っておいたプリンが無くなっていたのは雪の仕業か……雪らしくないな。

 瞼が閉じて、次に瞼を開いた時は永遠が映っていた。忘れていたんだね、ごめんね。

 イブイブ、永遠母様。

 永遠母様は良いんだよと微笑んで、僕に手を差しのばしてくれた気がした。

「永遠。大丈夫……お前は」

 僕の大好きな母様、だから、僕の中にあった力が僕の代わりにいつまでも守るから。

 身体がふわっと浮いた。


           


 創造主が嵐が去るようにすっと消えていった後、永遠はベアトリーチェの肩とお尻を両手で梳くって抱え上げた。まるで小さな子のように、両手は永遠の胸元に縋り付いた。だが、それは錯覚だ。偶然、そんなふうに見える位置に両手があるだけ……。小さな指先を眺めていると、悔しさで胸が一杯になった。そんな永遠の耳元に声だけが響く。

「従来の創造主システムでは創造主候補は世界則ち、時の流れが選んだ者のこと」

「何で淡々としているの! 人が沢山、消えたの。なんで選定の儀式なんかを!」

 そう叫んで周囲を見回したが、その声の主は何処にも見当たらなかった。自然と眉間に皺が寄る。

「選定の儀式は創造主のきまぐれだよ。私はそのきまぐれに便乗しているだけ」

「嘘、貴女は嘘を吐いている!」

「ベアトリーチェには特別な才能があってね。時の流れからも見放された。愛されない存在だった。だから、私の野望の為に利用させて貰ったのよ。何処にだって仲間外れの存在はいる。あの可哀想な創造主にしたって太陽ではなかった。仲間外れだったんだよ、いつまでもね」

 喉が鳴る音が耳元で聞こえた。だが、それは永遠の喉から発せられたものではない。

「私は独りぼっちだ。何億年ともいう間、種の生と死のみをただ、見続ける。嫌気が指した。だけど、幾ら創造主が死に世界が変わっても根幹にある時の流れは在り続ける。私は絶望した。ベアトリーチェを見つけるまではね。その子は時の流れさえも崩壊させる特別な永劫破り、太陽の持ち主」

「太陽?」

「そんな険しい顔で睨まないで。貴女にも働いて貰わないと私の望みは成就しないのだから。太陽。太陽の子の真の姿です。創造主候補は太陽の子でのみ、創造主を殺せる。殺した後は次なる世界を形成するエネルギーとなる。なった時、太陽の子は消滅してしまうのですが、太陽は違う。世界を築いた後、時の流れさえも変革させるのです」と言った声の語尾は期待に胸を膨らませるように上ずっていた。正体不明の……と思考しかけた時、創造主と共にいた人物の声に似ていると思い当たった。思考が済んだ時、ベアトリーチェの様子を見るとベアトリーチェの身体が淡く白光していた。「ベアちゃん!」と叫んでベアトリーチェの亡骸を揺らす。「安心して下さい。ベアトリーチェはこれから自分の人生を歩み直すんです。九十九回目だと思いこんでいる人生をね」

「何、これ。一体? ベアちゃんが」

 永遠の両手から離れて、ベアトリーチェは浮かび上がった。ベアトリーチェを包む光はいっそう、強くなり……萎縮して永遠の腹部にすっと消えていった。

 痛みも違和感も感じずにそれが普通だともむしろ感じていた。永遠は自分の腹部を優しく摩る。

「安心して下さい。ベアトリーチェは貴女と貴女の兄の子ですから。だから私がこうして手を下さなければ、産まれなかったんですよ。私の望みの為に貴女には動いて貰うのですから、それくらいの事はします。しばらくはつかの間の母と娘の生活を楽しんで下さい」

「待て。まだ、聞いていない。貴女の望み」

 頭が混乱してどう、感情を表現して良いのか解らずに砂漠の道のない砂だけの地を右往左往する。それでも、それだけは質問できた。

「ずっと、ずっと眠り続ける事です。私はもう疲れた。人間の欲望で染まってゆく世界を見たくなかった。彼らと世界だけになるのを」

 声はそれきり、聞こえなくなった。この先も二度とその何処か救いがたい痛みに帯びた声を聞く事はなかった。

 身勝手だと想いながらもその言葉を否定できなかった。兄達の死を嘆き泣く自分の涙が在るのに気付きながらも、心の半分は産まれてくるベアトリーチェとの生活を楽しみにしていた。提案がふと、頭に浮かんだ。こんな悲劇が起こらないようにこの子の名前を永久にしよう。

「この子はずっと、生き続けて幸せに暮らすんだ」

 永遠の足に一輪の赤い花、彼岸花が踏みつぶされていた。永遠はそれに気が付かず、ルーベリの待機している方角へゆっくりと歩を進めた。

 彼岸花の赤い花びらは熱風に吹かれる。最期の力を振り絞って何処かへと跳んでいった。それは世界が流し続ける血にも似ていた。





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