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七章 親子

           


 蝉が生命を燃やし尽くすまで泣き叫んでいる。それは幸福の叫びなのか、不幸の叫びなのか、永遠には理解できない。蝉の声を日本語として認識できないから。いや、違う。一度も心を通わせないからだ。

 思えば、ベアトリーチェが自分の自室を使っている光景を見たことがなかった。ダーウィンにいる時はいつも、雪と一緒の部屋にいた。無意識に寂しさへの対処法を身に付けていたのだろう。そんな幼子も友達を失った寂しさからは逃れられない。そして、深希が死する原因を創り出した自分を、自分自身が理解していなかったという寂しさからは。

 李緒の祖母 燕は産まれた命の世界には帰って来なかった。季節は夏、八月の熱気が室内を満たしていた。窓を全開にしても、入ってくるのは乾燥した風だ。

 ベアトリーチェは白い丸椅子に座り、虚ろな瞳で窓下に広がる光景を見つめていた。ダーウィンの真っ白だった壁は焦げ後が薄く化粧を施されたまま、痛々しさを物語っていた。その物語がすっと、ベアトリーチェの心に土足で入り込んできた。だが、入りたい放題にさせておいた。入りたければ入ればいい、罰を与えてくれ死者の代わりにと小さなリーチェは半ば、自暴自棄過ぎた感情に囚われていた。

「雑草は強いな、もう生えているね」

 そう言ってそっと、ベアトリーチェの肩に触れようと永遠が手を伸ばした。永遠の瞳にはベアトリーチェの白い髪と、夏風に揺られて雑草達がざわざわと喋り合っている光景が重なり合っていた。仲間達の死をものともせずに景色は立ち直っていた。ベアトリーチェもきっと。

 永遠のピアニストのように長い指先が白い毛先に触れるや否や、幼子の甲高い嫌っと言う低い声が拒絶した。

「今は僕に優しくしないで永遠お姉ちゃん」

 今にも倒れそうな疲弊した声で言い直したベアトリーチェはゆっくりと身体を横に倒した。柔らかな掛け布団が幼子の形に窪んだ。

「いつまで」ベアトリーチェの顔が見える位置まで移動すると中腰になったが、幼子はくるりと向きを変えて永遠の視線から逃れた。それに感情的な怒りを募らせた永遠は一気に捲し立てる。声は届くはずと言わんばかりの姿勢だ。「いつまでそうしているの。死んだ人は蘇らない。前に進むしかないでしょう。食事も兄様がベアちゃんのお口を開けて無理矢理、食べさせないと食べてくれないし。体重、二キロも落ちちゃったんだよ? 自分で窶れているのに気付かないの?」

 永遠の言葉一つ一つが今は死んだような静寂が欲しいベアトリーチェには邪魔でしかなかった。幼すぎる両拳は心がざわざわするアヒルの描かれた黄色いタオルを掴んだ。掴むことで耐えようとした。

「ベアちゃん、兄様に身体を洗ってもらって恥ずかしくないの? それじゃあ、小さな子と一緒だよ」

 そのやんわりとした言葉と、青空から降り注ぐ熱光がベアトリーチェを苛立たせた。熱いし、僕が雪に全部見られて恥ずかしいかって恥ずかしいに決まってるよ! それでも思うように動かない。きっと、永遠お姉ちゃんには解らないんだ! 軽々しく言える! 軽々しく僕の恥ずかしい事を言えるんだ。いつだって僕は雪にとっても、みんなにとってもあの頃の小さな者のままだ。みんなは成長しないから解らない! 何一つ、という苛立ちの中で、少しずつ……それを溶かすように背中の辺りに光が差してきた。その光は微睡みを呼ぶ熱を持っていた。

 ベアトリーチェにはそれが何か解っていた。永遠お姉ちゃんの手だ。日課のように数時間置きに流していた涙が溢れてきた。永遠お姉ちゃんだけが死なずに、自分の最期を見届けてくれる存在である事実を嬉しく思った。だって、永遠お姉ちゃんの死を見ないで済むのだから。

「僕は……もうすぐ死ぬから死ぬ時も」

 優しい永遠お姉ちゃんでいてねと言おうとしたが、突然ベアトリーチェが頑なに握り締めていたタオルが顔に覆われてごしごしと強い力で顔全体を拭った。

「また、妄想? もう止めなさい。ベアちゃん、これは現実よ。人間はね、物を食べないと死んじゃうんだよ、嘔吐してばかりじゃあ死んじゃうよ。お願いベアちゃん」タオルが顔から除かれて、不意を突いたように幼子の視線に永遠の顔が映った。いつもの、「元気になってよ」と励ます言葉がまた、耳元にふっと吹きかけられたそよ風と共に届いた。目元の隈がどれだけ、幼子を大切にしているのかという事を如実に露わにしていた。布団の上にベアトリーチェは胡座を掻いた。

「兄様も私も、ベアちゃんさえ無事でいてくれれば良いの」茫然と永遠を見上げるベアトリーチェの腕を摩り、咳払いをした。「腕も治ったんだから、これからは無茶しないでね」

「僕は弱いから深希を傷つけた。揚羽を守れなかった。燕に無茶をさせた」

 許しを乞うようにベアトリーチェは永遠の両胸を鷲掴みにして、その中央に顔を埋めて号泣した。

 いつもまで経っても小さな者だなと感慨深げに幼子の頭を包み込む。

「ベアトリーチェです。ベア様って呼んで下さい。仲良くして下さい」

「うきゃぁ、可愛いよ。兄様」

 可愛さは昔と変わらないけど、そろそろこうやって抱きしめてあげるのも卒業しないとねという思いが沸き上がる。寂しそうに……けれど、それを傍目には出さずに微笑んだ。

「それでも良いからベアちゃんが幸せだったらなんだっていい。ベアちゃん、兄様のこと好きなんだよね?」

 もう、大人への道を歩みつつある可愛い少女に、永遠は鈴の鳴り響く音に続いて言った。扉の枠に掛かっている風鈴はベアトリーチェに沈黙する時間を与えるべく、鳴りを潜めた。

「へぇっ、な、なんでそ永遠お姉ちゃん!」

 と叫ぶベアトリーチェの声は一ヶ月前の我が儘リーチェが戻ってきたようだ。我が儘リーチェに我が儘言わせずに欲しいものをあげたい気分でいる自分に不思議と笑みが溢れてきた。可笑しい。

「元気になったぁ、小さな者」

 なかなか、戻らない両端の笑窪を歪ませて、永遠は小刻みに震える頼りない声を発した。

「昔の雪みたいな言い方だ」

 本当は雪の冷静な感じが出ていないという不満もあったが、ベアトリーチェは場が白ける発言はしなかった。でも多少、頬を膨らませていた。ベアトリーチェは立ち上がった。永遠よりも身長がまだ、低かった。いつか、追いつく事ができるのだろうか? という憧れさえ抱いた永遠の背が遠く霞んでいる。四歳のベアトリーチェの時に感じた無垢な寂寥感が今の自分にもある……そう、確信した。

どんなに年月を重ねても永遠達の年齢は変わらない。目の前にいる十五歳は十五歳ではない。十四歳であるベアトリーチェがこれから、駆け足で年を経たとしてもずっと、変わらない。けれども中身は違う。

 永遠の背がいつもよりも遠く見えて悲しいくらい、霞んでいる。

 予感がする。何かが変わる沈黙が流れる。その波に身体を委ねる二人。

「永遠お姉ちゃんはいつまでもベアちゃんの」

「もう、小さな子扱いしないからね、小さな者卒業」甘えを拒むように寂しそうに、だけれども何処か、厳格に永遠は首を振った。両端の髪を結わえたビー玉は無数の揺りかごだった。「え、嫌だ!」必死になって少女サナギは永遠(蝶)に縋ろうとした。永遠(偽りの母)の両手が少女(偽りの娘)の両肩を掴んだ。その圧力はただ、優しかった。そして、偽りの母は思った。これだけの悲しみを乗り越えた人間を幼子とはもう、呼べない。だから、もう子どもの時間は終わりだよ! 羽ばたいて、と。「我が儘だな。協力してあげるよ」「兄妹だからね。兄妹だから結ばれない。だからね、兄様の大切な宝物のベアちゃんと兄様がつきあってくれた方が私、嬉しいんだよ。だから元気になろう。人は明日に行くしか道はないんだよ」

 永遠の両手をそっと、撫でた。

 サナギはいつか、空へと飛び立たなければならない……。その空は美しさと醜さを両方、兼ね備えている。それでも貴女は飛べる? ときゅっと結ばれた唇の僅かな隙間から言葉が溢れてきそうだった。

 既にひび割れた幼心という殻から青空が見えた。青空は無限に広がっていた。

 何故か、目の前にイブ(母様)がいるように感じた。いつものようにアニメソングを口ずさんでいた母に両手を振る。「空(明日)へと行ってきます」「もう、良いんだね(過去を振り返り、甘え、立ち止まっても良いんですよ。父様だって許してくれる)」「大人にならなくちゃっ、雪は僕を愛してくれない。守ってくれてありがとう」 心にいつも、潜んでいた母は気付けば、神々しい太陽へと姿を変えて立ち去っていった。

「雪を振り向かせてみせるよ」

 永遠は知った。自分の中にある力から何かが去り、まだ小さいながらも我が儘に光る太陽が代わりに入り込んできたことを。

 眼光に優しさの灯る朱い瞳を持つ少女の背には蝶の如き、羽根があった。それは母からの借り物ではない事をベアトリーチェは知っていた。喜びと哀しみが同居していた。独り俯いて、身体を震わせた。

「あ、でも兄様が普通の趣味だったら、ベアピンチだぁ!」

 わざとらしく、永遠は夏真っ盛りの空に向かって叫んだ。ベアトリーチェは布団の上にある枕代わりのラッコの縫いぐるみを掴んだ。そして、にやりと残忍ぶった微笑みが涙のない顔に過ぎった。

「ベア。それは投げないで、私が死んじゃう!」

 と永遠ははしゃいで見せた。

 ベアトリーチェの顔から血の気が引いてすっかり、青くなっている。ベアトリーチェの足下から血玉がぽつん、ぽつん、ぽつんと落ちる。腹を切り裂くような痛みに顔が引き攣った。

 永遠は静かに駆け寄る。予想は当たるだろうと確信はあったので終始、笑顔だ。向日葵のプリントが付いたスカートを捲し上げた。幼女用のパンツは薔薇よりも赤い血に染まっていた。

「心配しなくて大丈夫。大人になったね、おめでとう」

「めでたくないよ!」

 それでも、涙を流さないベアトリーチェだったが、両足はまな板の上に放置されたお魚さんのようにぷるぷると震えている。永遠は膝を人差し指で押してみた。震えは止まるわけないのだがと舌を出しつつ。


           


 風音が耳へと突き抜け、意識へと吸い込まれてゆくのを心地よく感じる。だが、その風には肉の香りが漂っている。時間様はその風を横へと手で振り払う。

 気持ちよい風が吹いてきたと、創造主は屋上の金網が壊れた赤い色の部位に片足を威勢良く、乗せた。

 ぶしゅ!

 何か張り詰めた糸が重みに耐えかねて、切れる音がした。その音を聴いて、創造主は眼を細めた。なんて本物の音なのだろうか。テレビや劇などの初めから偽物だと解りきった緊張感のない音とは違い、踏む前まで解らないのだ。まるで小さな頃のママンから贈られたクリスマスプレゼントのようだ。これを聞くと、七面鳥を両手で絞め殺した瞬間を思い出が蘇る。楽しかった。

 七面鳥が創造主に言う。

「○○○ちゃんって私達と違って外人なんですもの、英語なんてお得ですよね。さて、劣等生だもんね、私達。受験に向けて勉強しなきゃ」

 その言葉が目障りだったから、まず、逃げないように羽根をもぎ取った。血が水道の蛇口を捻るように緩やかに止め処なく、溢れてきた。やっと、両肩から両腕を切断できた際に浮かべる人間の痛みから逃れるべく、転がり回る情けない姿を見て、吹き笑いしたのと同じ笑みが浮かんでくる。

 私は貴女達と同じ人間だ。私だって仲間に入れて欲しかった、何故、何故、何故……。今の自分はゲームマスターなんだ。恐れるべき事は何もないはずだ。深呼吸をして楽しいゲームを続けよう。

「随分と悪趣味な通知書ですね、創造主」

 時間様は創造主の皮靴に踏まれている赤い肉の塊を不快に凝視した。それらを確認しようとした。まず、創造主の靴に踏みつぶされている部位が胸になるのだろう。片方は健在だが赤く染まっていて何処までが乳房で、何処までが乳なのかがはっきりしない。金網を軸にして海老ぞりになっている。乳の膨らみから判断するに女性だろうが、腰から下が全く存在していない。それもそのはずだ。刺身のようにスライスされた肉が丁寧に女性の下半身があれば、両足が着くであろう床の上にお上品に並んでいるのだから。赤い肉の塊に白い粉が所々あるが、どれも白という色がくすんで見える。時の流れが創造主の生き方を定めなければ、きっと良いコックになったであろう。日本料理が得意そうだ。

 自分よりも背の低い髪で顔全体を隠した時間様の横顔には、何の感情も移っていない。そう悟った創造主の背筋に無数の影がざわざわと下から上へと蠢いてゆくのを感じ、腰を曲げて振り落とそうとした。その影はしつこく纏わし、体温を奪い去った。もう一度、時間様を見た。

 横顔にはベアトリーチェを彷彿とさせる気性の荒そうな笑顔が顔に鎮座していた。時間が凍結した。いや、自分の思考回路が停止状態にある。とりあえず、虚勢を張る。いつだって自分はそれで他を平伏してきた。

「あら、私が悪趣味なのは今に始まったことじゃあないでしょ? 時間様」

「その失礼な物言いもですけどね」

「時の書がこうやれ、と告げているのよ。時というものが全ての物を管理している限り、強制力が生まれて気付かぬうちに、いや、気が付いていても勝手に意志以外の力が働く。それが世界の真の支配者 時の流れの意志。全く、いやぁねぇ」創造主は手にしていた包丁をさほど、気にも留めず放り投げた。包丁は自らの身体に付着している血を絶望に拉がれた絶叫で受け入れ、死を選んだ。薄霧の中に消えたのは最期を誰にも邪魔されない為だ。そんな物になど、興味などない創造主は時間様に言う。「けど、一連のベアちゃん物語は楽しませてもらったわん」

「果たして、もう何度も繰り返された太陽の子による時の流れを破壊する試みは今度こそ、上手くいくのでしょうか」言葉を切り、閃いたとばかり人差し指で宙に円を描きながら「創造主、手加減してベアトリーチェに殺されなさい」

「無理に決まってるし、永久ちゃんに殺されたくないもん。あんな洟垂れチビに殺されて終わりなんて御免よ。太陽の子を真に使いこなしたベアトリーチェなら、それでも良いけどねん」

 そう言い終わらないうちから、創造主は死体の胴体にプレゼントのラッピング用リボンを巻き付けてきつく縛った。リボンは死体の哀れな姿とは似合わず、クリーム色だった。やはり、プレゼントには手紙も添えた方が良い。真心が相手に伝わると考えていた創造主はちゃんとレターセットを用意していた。そのレターセットとシャーペンを羽織っているジャンパーのポケットから取り出すと、早速書き出す。

「生理が始まったベアちゃんへのささやかなお祝いの品を受け取って」

 と自然に手紙の内容の一部が声として、淀んだ空気の中に紛れ込んだ。その純粋な虐め心は思いの外、空気に歓迎されたようで優しい南風がお礼に、と創造主の金の髪をゆらゆらと弄んだ。その間にも取り憑かれたようにペン先は紙の上を滑った。浮かぶのはベアトリーチェの憎悪に溢れた小生意気な顔だ。乳歯を覗かせて、怒りに身を任せ、こちらを吠えている。なんて怖いチビ熊なのだろう。ペン先は終わりに近づくに連れて、ラストスパートを掛けるべく加速した。

 そうして完成した手紙を慎重にクリーム色のリボンと死体の間に挟む。ここで急いで大雑把に行ってしまえば、リボンか、死体に引っ掛かり、手紙が駄目になってしまう。一度、天から降り注いだ言葉はなかなか、元通りにならないものだ。

「よし、さぁ、ベアちゃんのとこに配達しようか」

「いつ?」と暇つぶしに時間様が横やりを入れる。

「プレゼントと言えば?」

 と言った後、喉元が潤ったのを感じた。気分がとてもハイになっている。まるで酒をたらふく飲んだ午後の眠気を誘う陽に包まれている。そんな状況にいるみたいだ。

 屋上の壁に描かれた鼠と虎が互いに血塗れなって、必死な形相で闘う絵画へと死体を近づける。後数メートルで壁に触れるという地点で異変が起こった。虎と鼠は壁から発せられた紫色の光に隠された。その光の中へと死体の身を委ねさせるようにゆっくりと光へと溶け込ませる。だらりと力なく、降ろされた拳が入ったのを紫の光が見届けると、意志があるように紫の光は前触れもなく、消えた。そして、死体も一緒に消えていた。

 創造主は呟く。

「良い旅を。くそババぁ」

 労働の後の汗がきらりと、額から顎へと流れ星のように掠めた。


            


 いつも、冷静に行動しようと心がけている俺がスキップをしているのは自分でもびっくりだ。思わず、本当にそれが自分なのか、と幼子のプレゼントを購入した縫いぐるみ専門店の窓硝子で自分をまじまじと見つめてしまった。プレゼントを脇に抱えていると周囲から妙な目線で見られるのだが、それすら今は自分に何の精神的なダメージを与えられない。むしろ、そういう興味を持っている人間に、今日はうちのベアちゃんが初生理を迎えたのでそのパーティーをするんですよ。それでこいつが(国旗のように両手で空高く掲げて)俺からのプレゼントなんです。前に白熊の縫いぐるみを持っていたので、今度は白いハムスターの縫いぐるみにしてみたんですよ、と誰もが舌を巻く素晴らしいスピーチが可能だろう。

「悪いな、了」

 と言いつつ、眼下に迫る水溜まりを飛び越えるべく、ホップ、ステップを踏み、その勢いを殺さずにジャンプ! した。ベアトリーチェとお揃いのレースアップブーツから足へと生温い水が侵入してきた。それでも気持ちが萎えない。すぐそこにベアトリーチェの喜ぶ顔が在るように終始笑顔だ。

「ああ、俺は今日もアクセが売れなくて、飯に困っていたとこだからよ。ベアちゃんのおかげで飯にありつけるってもんよ」

 その光景を一部始終目撃している頭つんつんの少年、了は何処かやべぇもん見ちゃったよ、と言いたげな死んだ魚の目をしていた。

 ベアトリーチェに贈る大事な大事な縫いぐるみに泥が付いてはいまいかと、丹念に白ハムスターの尻の穴まで確認する。実際には尻の穴などはないが、それくらいの意気込みで、だ。そうしながらも口は別人の口を持ってきたのか? と俺自身に問いたい程に動く。正直言って喧しい。

 呆れてものが言えないと言いたげな溜息を了は仕切りにこちらを眺めてするが、了自身も持っているはち切れそうなビニール袋を振りながら歩いている。

 影など見当たらない広場で野球をしている小麦色の肌の集団、少年達の一人がこちらをにこりと微笑み、帽子を取ってお辞儀をした。俺は実に綺麗に剃られた青白頭だと感心して頷いた。

 少年は俺のだらけた顔を厳つくねじ曲がった眉を前面に押し出した笑い顔で迎えた。口が少し半開きになっている。お前じゃねぇよ、お前の隣にいる可愛い子ちゃんだよ、と言いたげだ。事実、心底ではそうぼやいているのだろう。そんなのお見通しだ。だけどな、お前にも娘が出来たらわかるさ。可愛い俺のリーチェが大人の女性に開花したんだぞ。ほら、坊主頭にも笑顔のお裾分けだ。

 坊主頭の少年が挨拶した麗しの李緒はパーティードレスを着ている。真っ白な染みのない布の海に少年は母性か、純真な恋心を感じたのだろう。その白い海の膨らんだ辺りに蝉が止まった。だが、それに気付かずに下げた頭を李緒はゆっくりと上げる。その遅さに不満を漏らすかのように額からは多量の汗が落ちる。

 蝉が羽根を細やかに動かして、小さな口を震わせている。そこから流れる生命の歌に聴き入るように一瞬、李緒の激しい呼吸が止まった。

「李緒、寝てなくても大丈夫なのか?」

 絵画に向かって喋っている。そんな妄想に囚われた。少年達の威勢の良いドンマイという絶叫にも似た仲間を思いやる声が、暑苦しい夏の一時に色を添えている。そのオレンジ色は現実だった。そう、現実だ。ベアトリーチェをエア・トレインに押し込んだ李緒が胸を掻き毟るように掴んで、倒れたのも現実にあったことだ。現実……その甘酸っぱい蜜柑は李緒に今、熟成した過去という蜜柑の味をゆっくり味合わせる時間を与えている。もはや、李緒の心臓は引退間近の自動車だ。

 青白い肌が陽光を浴びて、健康な黄色い肌に変わる。

 李緒は蝉に驚いて、一歩後ろへと飛び退いた。蝉はさっさと空へと飛んで行ってしまった。

「今更、寝ていても完治するような病気ではないんですよ。母から受け継いだ遺伝ですから、私は受け入れましたよ。だから、悲しくないんです」

 と蝉に驚いた事実を苦笑いで消去して、俺の腕を掴み、そう弾んだ声で言った。

「だが……」重々しい病魔をそんなにも明るい様子で立ち向かう事は自分に出来そうになかった。掌に白ハムスターの縫いぐるみを載せて尻尾を激しく振り回した。「そうかもしれないな」

 ベアトリーチェを守る為ならば、命を投げ出すであろう覚悟が自分に強い口調で言わせた。それが悟られたのか、李緒はベアちゃん愛されてるぅと許可無く、俺の背筋に指で見えない文字を書いた。

 ゆっくりと拳を挙げて、李緒の脳天に降ろした。ふさっとした髪の群れに拳は入っていった。その髪先には確かに生きている暖かみが宿っていた。まだ、大丈夫だ、俺も、李緒も、了も笑えている。ベアは笑えていなかったが、永遠が笑ったと興奮してパーティーの提案と共に電話で話したのだ。だから、生きている俺達はまだ。足の裏は着実にアスファルトを踏みしめている。妙に足が重い。


             


 華やかな紙の輪が幾つも繋ぎ合い、中央でその姿を仰ぎ見ているベアトリーチェにおめでとう、と囁いていた。白い熊の絵柄の暖簾に吊り下がっている風鈴が耳の奥を突き抜けて、脳まで蕩けそうな音を響かせている。

 その音が聞けるのが嬉しいのか、視葉が何回も暖簾を潜っている。視葉はベアトリーチェの古着である花柄模様のレース裾が付いた上衣と黒いスカートを履いていた。主役のベアトリーチェはというと、風鈴の絵が大きく描かれた子供用の着物を着ている。

 二人のチビッコを一瞥してから、雪は場所を提供してくれた甦南に感謝の言葉を述べる。

「今日は貸し切りにして頂いてありがとうございます」

 雪はジーパンのポケットに無造作に突っ込んだ。検査結果を取り出そうとしたが、手が何かに引っ掛かった。吐息を吐いてそれに触れるのは止めた。手持ちぶさたになった手を腰に当てる。

「いえいえ、大丈夫ですよ。」

 甦南のエプロンの裾を弄る手が所在なさげに動いている。永遠と李緒に店のキッチンを貸している事に対してどうやら、不安がっているようだ。

「大丈夫ですよ。永遠が見張っていますから、料理ベタで道具を直ぐ破壊する李緒には片付けしかさせないでしょう」

 雪のやんわりと甦南の不安を躱す声を引き裂くような金属音が客席の裏の木材を用いた扉を突き抜けた。ですよねぇ、と言おうとした甦南の口を締めさせた。この音はなんでしょうか? と永遠に似ためんこい小動物らしき瞳が雪を捕らえる。鼠取りの罠に引っ掛かった鼠と人間の対立図……雪は硬直して、手を自分の手前でひらひらさせた。誤魔化しのポーズ。人間は哀れにも檻に飛び込んだ鼠を寛大な心で逃がしてくれたようだ。

 了がワゴン車で運搬した左右に十人以上着席できる長机の左側に甦南は座った。真ん中の席に堂々と座っているのにも関わらず、身体を緊張で縮ませている。お気の毒にと、雪は小さく呟いた。

 しばらく、たった一脚だけ用意された肘掛け椅子に座って口笛を吹いていたベアトリーチェのテンションを上げる声が部屋中に響いた。その声は低い大人の男性の声だが、ベアトリーチェを包み込むように静かな物言いの声ではなく、明らかにベアトリーチェを玩具にする乱暴な悪ガキじみた声だ。

「おい、チビ共。クッキーが焼き上がったぞ! 喰え、喰え」

 了は両掌に漆塗りのお盆を乗せて、ゆっくりと開けた木製の扉からベアトリーチェへと歩み寄ってくる。勿論、ベアトリーチェと視葉が見上げているのは了ではなく、お盆の上に大名の如く、乗っかっている食べ物達だ。

 左側のお盆には氷をイメージさせる透き通った容れ物に、丸い小豆色のアイスが冷たい息を吐いている。その冷たい息が蛍光灯にまで届く頃には、甘そうな蜜柑色に変わっていた。ベアトリーチェは思わず唾を飲んだ。あれが自分のお腹へと入る。そう未来を予測しただけで生理というのは悪くないなぁと無邪気に微笑んだ。

 その笑みをなんたる笑みか、知らない了はぼそっと、

「赤飯は後から出てくるぞ、ベアちゃん」

 と要らぬ事を口にした。ベアトリーチェは顔をしばし、俯いた。小さく、この猿め、と毒づいた。そして、了に凄む。だが、了はそれが凄みだと気付かずに不出来なウィンクで応えた。ベアトリーチェがなんて、親切な人なのだろうと感激の表情で自分を見ていると、了の頭ではそう認識されていた。

 そんなやり取りが水面下で行われている事には八十センチの幼子には関係がなかった。雪お兄ちゃんと永遠お姉ちゃんの元で暮らす事になった視葉は、日に日に曇りのない明るさを取り戻していった。そんな幼子がお盆を見て動かないはずはない。静かに了へと忍び足で近づく視葉に了は微かに板が軋む音で知っていたが、敢えて何もしなかった。

 ようやく、了の背後へと接近を果たし、猫のように姿勢を低くして両足のバネを活かして跳ぶ。跳んだ瞬間に思わず、にゃーという猫語が飛び出した。視葉は忍び足の時から自分は猫になった気でいたのだ。しかし、人間は猫ちゃんにはなれない。

 視葉の瞳には遠ざかってゆく三角御握りが見えた。具は何だろう、食べたい! という欲求が瞬時に怒りへと変換された。きっと、大好きな鮭に違いない。

「取れないよ、馬鹿太郎」

 と言いながら太郎のジーパンを引っ張った。哀れ、黒いトランクスが少しだけ陽の目に当たった。了もとい、馬鹿太郎は男のトランクスを見せつけるように、視葉へと腰を近づけた。視葉にとっては了はまるでコンクリート壁のように聳え立っていた。それが近寄ってきたのだから溜まらなく恐ろしかった。右足が自然に一歩後退している。

 慌てて、ベアトリーチェが俊足を使い、気配もなく一秒で了の背後へと近づいた。まだ、ベアトリーチェに気が付かない了に武士の情け(武士ではないのだから)も掛けずに、レースアップブーツの底からサバイバルナイフを慣れた手つきで取り出すと逆手に握り、ナイフの柄で了の後頭部を強打した。不意を打たれた了の掌からお盆が落ちる。ベアトリーチェは歪曲の羽根を開眼させて、お盆の時間を塞き止めた。お盆を楽々と手に持つと羽根を空気へと溶け込ませた。お盆の時間は正常に動き始める。

 痛がる了の厳しい剣幕を無視してお盆を運んだ。その後を雛のように視葉がついて行く。変態から逃れて、ベアを姉として自覚し始めたようだ。

「馬鹿太郎の方が似合っている。今日から了は馬鹿太郎だ」

 雛みたいに愛らしい視葉をたった今、認識したようにベアトリーチェは振り返る。視葉の小さな掌と自分の掌を結び合わせた。「お前は今日からベア様の妹だ。ミリアムと名乗ると良い」「はい、ベアお姉ちゃん」「可愛いなぁ、お前は」

 互いの頬に口づけし合う麗しき小さな姉妹の情景をまざまざと見せつけられた了は自分が蔑ろにされているのにツッコミを入れる。

「勝手に人の名前を改ざんして、俺を童話の悪い魔女に見立てて、それから救われたハッピーな姉妹の触れあいを演じるんじゃねぇ。俺は童話の中のポジションでは森の中の木Aなんだよ!」

 あまりの絶叫で肩と胸が上下に揺れ、喉の奥が腫れ上がったように痛い。だが、了はその痛みがある素振りを全く見せなかった。

 ベアトリーチェの隣席にミリアムが席に着くのを確認してから、何の疑問もなく、了に命令する。

「馬鹿太郎、ティーを持ってきてくれたまえ。大急ぎでだ」

 了はそれに従わずにお盆に置いてあったアイスと御握りを二人から離れた位置に配膳するとそのまま、お盆を持って足早に木製の扉の影へと消えてしまった。間もなく、木製の扉が耳に残る騒音を立てて閉まる。それを見届けると、欠伸をしながらミリアムの髪を撫でた。

「ベア様、ミリ様、俺がお容れしましょう」雪がベアトリーチェの肩に手を添えてさり気なく言った。ベアトリーチェは雪の掌をそっと撫でてから自分の肩から離して、席を立った。「駄目、雪はここに座れ」と座れという言葉を強調して雪に命令した。「はい?」何処に座るのか、解らなかった雪はもう一度、自分をよく磨かれた鏡のように綺麗な赤い瞳から眺めているベアトリーチェにそう言った。ベアトリーチェは自分の座っていた肘掛け付きの椅子を指さした。「良いから座れ」「はい」

 忠実なベア様の信仰者である雪は微笑みを絶やさず、ゆっくりとクッションの敷かれた部分に尻を乗せる。乗せた時、自分の両膝の骨が軽い音を立てた。それとは無関係に尻から自分とは異なる温度の高いぬくもりを感じる。そのぬくもりを自分が手にしたような気がして、ベアトリーチェを内に仕舞い込んだ気さえした。その感情を抱くのは社会的に許されない感情と混同される危険性がある。それが頭に大文字となって浮かび上がる。

 ベアトリーチェに恋心を抱いている? 百十センチのチビッコを抱きしめたい? 四歳の幼子だったベアに恋している?

 雪の頭にあるその文字を掻き消してくれたのはさらなるぬくもりだった。

 ベアトリーチェが自分の両膝に飛び乗った。甘い匂いは空気を軽くしてくれた。それが自分の考えなければならないありとあらゆる社会と関わる為の考え方という荷を降ろしたからに違いないと悟っていたが、それすらもどうでも良かった。今は目の前のベアの髪をいつものように撫でて優しく語りかければいいじゃないか?

「あのベア様?」思いとは裏腹に否定的な戸惑いが顔を現した。ベアトリーチェはその戸惑いを知らんぷりして、雪の胸部に歯と歯の間から空気が漏れているようなか細い鳴き声を立ててもたれ掛かった。「安心しろ、座り心地は最高だ! ん、何だ?」羨ましそうにミリアムが着物の帯を握り締めていた。「次は私の番だよ」と掠れる声で遠慮がちに言った。「今日は私が主役だ」これだけは譲れないという感情が素直に声量の高い声として、ベアトリーチェの口から生み出された。「いやっ」と言うミリアムの両腕は自分に意地悪をするベアトリーチェへの怒りでぷるぷると震えていた。その震えはとても愛らしく、ベアトリーチェには思えた。

 目を細めて遠い昨日の自分を思い出す。そう、ミリアムの腕の震えはかつて、雪がアイスクリームという食べ物があると自分に話した時におねだりをするべく、雪のシャツの裾を握っていた両腕を震わせていたのに似ていた。結局、雪は話の通りの白い妖精が寝そべっているように真っ白なソフトクリームを買ってきた。それをクーラーボックスに入れて薄暗い牢屋へと持ってきてくれたのだ。あの時の雪の微笑みは今でも覚えている。父様、ありがとうと口にしてしまったのは恥ずかしかった。一瞬でも父様を彷彿とさせた雪の笑みには勝てないけれども、ベアトリーチェも無償の愛を籠めた笑みで「仕方ないなぁ」と吐息を吐くように言った。

「やった!」許された事が当たり前のように直ぐさま、ミリアムは雪の両膝に飛び乗った。ベアトリーチェの時よりも両膝に掛かる衝撃は強かった。何度もミリアムがお尻を浮かせて、両膝を目掛けてぶつけているからだ。そんな御機嫌なミリアムの耳に両掌をぴったりとくっつけて、「一二三四五、六」と大声で言い放つベアトリーチェ。もはや、こっちのものだとその言葉の意味を問おうとしないミリアム。どちらも雪にとってはまだ、子どもだった。だが、「ベア様、大人ですよね?」と雪は嘯いた。「僕は雪にぶら下がるから良い!」

 意思表示を簡単に撤回して、雪の両肩に両手を回して両足を宙に浮かせた。両肩に乗る重みは自分が九年間、ベアトリーチェと過ごしてきたのだという事実を実感させた。そして、近内にそれが終わるかもしれないのだという事実を雪は知っていた。両眼を瞑り、暗闇に一人の幼子を思い浮かべた。

「最近、おモテになりすぎですよ、控えたらどうですか?」

 そんな背後からの声に雪は現実へと引き戻された。振り返ると永遠、李緒がお盆を両手で持って立っていた。アニメのように高い声だったという特徴から、すぐにその声が永遠から発せられたと解った。

「控え方を教えて欲しいな」

 気のない素振りだったが、雪は反射的に言葉を返した。

 言ってしまいましたね、と言いそうなにやにやした嫌な予感を他者に、この場合は雪に感じさせる笑顔のまま、李緒はお盆を長机のベアトリーチェ、ミリアムの手が届かない席に置くと駆け足でキッチンへと戻ってしまった。

 雪が何か、させられるなとミリアムの耳元で囁きながら、李緒の運んできた味噌汁にずたずたに切り裂かれた豆腐が何丁も浮いている奇怪な料理を観察していると、李緒が紙袋を握り締めて戻ってきた。雪達の席にまで香ばしい味噌の香りが漂ってくるのを李緒はわざとらしく、鼻に溜め込んだ。その様子は自分の料理が完璧だと疑わない姿勢を誰にでも解らせる。だが、李緒以外は味噌の味がもの凄く濃い、きっと配分を間違えたんだという感想を持っていた。

「簡単ですよ。まず、ダサイ牛乳瓶眼鏡を装着! この魔法の帽子も装着!」

 その弾んだ声と共に言葉通りのグッズが李緒の持つ紙袋から姿を見せた。牛乳瓶の底だろうと誰もが共通の意見を述べそうな在る意味で平和的な輪を持つ度のきつい眼鏡と、目が回りそうな程に何周も赤色が帽子の周囲を走り回っている円錐状の帽子だった。雪はすぐにないよ、と手を振り否定した。だが、李緒は真顔から笑顔に素早く表情を変えて、首をちょっこんと可愛らしく傾げて見せた。永遠も悪乗りして李緒の動作を完全に真似た。どうやら、類は友を呼ぶようだ。

「ねっ? って首を傾げられても?」

「雪様、格好いい!」「僕だって外見は気にしないぞ」と口々に競って、ミリアムとベアトリーチェが言うのだが雪はそんなの嫌だった。その姿で街中を颯爽と散策する姿を妄想で再現してみよう……ちょっぴり切なくなった。

 その間にもベアトリーチェはへんてこな帽子を雪の頭に乗せようと躍起になっていた。

 数分間の静かな攻防の末、被らないと僕は泣くぞという大人ではないベア発言により、今雪の頂上には絶対に存在させたくない、あのへんてこな帽子が存在していた。しかも、少し頭を動かす度に帽子が下へと下がり、視界が不明瞭になる。雪は帽子を左手で押さえつつ、箸をゆっくりと動かす。殺人鬼が人体をバラバラにした犯行と同等の豆腐から悪意の湯気が上がる味噌汁の上空を通り越して、永遠が焼いた干物へと箸を伸ばす。箸をナイフのように使い、干物の表面を細かく刻む。その内の一つの身を箸で持ち上げる。この口に入らないか、入るかの瀬戸際が一番、楽しみだった。だが、その至福の時を邪魔する喧しい声が神聖な体内にエネルギーを取り入れる食事という儀式に水を差す。

「何処が大人なんだよ」と了はベアトリーチェを指さして了なりの可愛がり方をする。つまりは意地悪をするということ。その屈折した可愛がりに九年も昔から飽き飽きしているベアトリーチェは雪と同じように干物に箸を伸ばしている最中だった。だが、了の唾が飛んできたので素早く、箸を退けた。幸い、干物にも掛からずベアトリーチェは安堵の表情を浮かべる。

「背の高さ?」「百十センチだけど」

と男性と女性の声色を使い分けて了は一人芝居をする。永遠が了の行動に嫌悪の眼差しを向けていた。その眼差しに気付いたベアトリーチェは「そこ、僕は心が大人なんだ」と了に強い口調で言った。

「それで良いんだベア。心が大人じゃない大人が沢山、いるんだ。道端に平気でまだ、火の点いた煙草を捨てたり、自分が金に困っているからって他者が不幸になるのもお構いなしにコンビニ強盗をやらかしたり、ベアみたいな可愛い子ちゃんを無理矢理抱いたり、自分達の意見が正しいという理由だけで戦争が起こったりな」と言葉を切り、了は自分の母親を思った。了の母親はボランティア活動の好きな母だった。自分を産もうとして死んでしまったという母の死因が自分の胸に胸くそが悪くいつまでも残っていた。それは干物の小骨のようだった。だが、しっかりと母は身も了に残してくれた。産まれなかった自分に対してだ。どれだけ、悪意のない人なのだろうか。だからこそ、了は断言できる。「他人の不幸を撒き散らすよりも他人に幸福を撒き散らす大人になろうぜ。それが本当の大人だ」

「じゃあ、お前は悪い見本だ」とベアは深く考えずに言った。

 そうかもしれないなぁと了は苦笑した。母から貰った在るという事実まで他人の為に無下にしようとしているのだから。だが、それは雪と永遠に父と母の仲の良さを重ね合わせたからだ。そこに雪と永遠の娘のようなベアがいる風景をこれから先も見たいと了は強く願った。それは自分の果たせなかった夢だ。最期に天から落ちる雨水だ。

 ベアトリーチェが干物を食べ飽きて、お薦めの食べ物はあるか? と雪に聞いた。雪はもう、三分間もだんまりしたまま、考えた。血肉になる食べ物は今後の健康状態を左右する重大な事柄だった。期待に胸を膨らませているベアトリーチェに応えたいと雪は李緒の側にあるショートケーキに目を向けた。甘いものは却下だ。ベアトリーチェが自分で食事を取ろうとしなかったから、子どもが大好きな定番の甘いものを毎日、ベアトリーチェの口を強引に開けさせて食べさせていたからだ。ここは辛いものを選んでみようと雪は皿に山盛りに盛られた赤い米粒を厳しく観察する。グリンピースや細かく刻んだ卵焼きがその赤い米の上に乗っかっている事からチャーハンだと認識した。だが、ここで疑問が持ち上がる。

 人類の柔な舌で毒々しい赤に勝てるのか? 舌は痺れないのか?

「禍々しいチャーハンらしき物体Aがあるんだが、食べて害はないのか?」このベアちゃん初生理おめでとうの会(事実、その名称の垂れ幕が天井に張り巡らされている)の料理責任者である永遠に聞いた。永遠は無言だった。その表情は悪いことしたよ、どうしようとそわそわしている幼子にも似ていた。仕方なく、「まず、俺が毒味をします、ベア様」

「駄目だ。雪を食中毒にはさせない。食べるのなら、僕も一緒に食べる」

 と雪の持つスプーンをベアトリーチェの持つ箸が挟んだ。

「こらっ」と、雪とベアトリーチェのやり取りに効果音の如く、李緒の柔らかな声。

「それこそ駄目ですよ、ベア様の代わりは何処にもいないんですからご自分の事を考えて下さい」

 ベアトリーチェの箸を上へと退ける。怯んだ隙をついて雪の箸は怒りん坊の頬のように赤い米を一粒、ゆっくりと挟んだ。米粒からは鼻を劈くような人の食べられる限界を越えているであろう辛みが伝わってくる。思わず、顔を顰めて米粒を鼻から遠ざけた。空気がとても、甘い。はぁーと安堵の呼吸が漏れた。

「こら? こら!」と冗談ではないんだぞと厳しい顔に書いてあった。ささくれ一つ無い指先だったはずなのにその小枝のような指先には何枚もの絆創膏が貼ってあった。雪は自分の大人げない行為が恥ずかしくなり、李緒の充血した両眼から目を逸らした。逸らした先には同じように自分の軽薄さを恥じて、沈黙しているベアトリーチェがいた。「私が真剣に調理したお味噌入りチャーハンを否定しないで下さる?」

 李緒はお咎めなしと言わんばかりの笑顔で雪と、ベアトリーチェに柔らかな口調で言った。雪は箸に捕まった米粒が恥ずかしそうに赤面しているように感じた。その赤面した可愛い米粒を口に含むと、何とも不思議な砂糖の甘さと唐辛子の辛さが調和して、交互に優しく音楽を響かせているようだった。舌は今や、仲良しカップルのコンサートホールだ。

「ありがとう、李緒」

「どういたしまして」

 美味しいと知ったベアトリーチェは小皿を雪の胸に押しつける。全然、大人じゃないなぁと髪の毛を軽く掻き毟ったが、結局ベアトリーチェの小皿の土地には富士山のような形のチャーハン山が建設された。

「ベアちゃん! なんか荷物が届いたけど重いのよ。なんか血生臭いからお魚かもしれない」

 チャーハン山を食べようとした寸前に甦南の喧しい声が聞こえてきた。了が自分のチャーハン山の頂上に白熊の絵柄の旗を立てようと手を伸ばしてきた。咄嗟にベアトリーチェは爪で手の甲を引っ掻いた後、

「雪、行ってくる」と明るい愛想の良い声を発した。とても、三本の白い直線を了の手の甲に描いた人物とは思えない愛くるしい姿のベアトリーチェは肘掛け椅子から飛び降りると、了に「旗を立てるなよ」と声高に言った。「さぁね?」と了は少し戯けて首を傾げてみせる。だが、ベアトリーチェはそれを目にする前に慌ただしく、暖簾先へと走っていった。

 その顔には喜びが満ちあふれていた。自然と顔に笑窪ができる。浮かれている自分を制御できずに何もない場所で足を捻りそうになった。

 甦南が屈んでダンボール箱の封を開けようとしていた。ダンボールは雨にでも濡れたように所々、薄い橙色が濃くなっている。ベアトリーチェはその箱に近づくに連れて、血生臭い匂いを鼻から吸い込んでしまった。それは呼吸をする度に肺へと送り込まれてゆく。送り込まれてゆく度に針でも飲まされているような不快感を秒刻みで感じた。

 ベアトリーチェは急いで雪の元へと戻り、息を目一杯、肺にも両頬にも溜め込む。ダンボール箱のある暖簾先へと、空気を洩らさないように慎重に戻った。そして、ダンボールの中央に貼られたガムテープを一気に剥がした。ダンボールの蓋が観音開きになって、中の物体がベアトリーチェを見つめた。それは孫を見る優しい祖母の眼差しだった。だが、その眼差しの周囲にある非現実にベアトリーチェは絶叫の叫びを店内中に響かせる。

 胴体に在るべき、乳の一房はなく、もう片方も血に埋もれてしまっている。これは人間ではないのだろうか? 首の中央から極端に横へと曲がり始めている。人間ならば、首の中央からこんなにも曲がるギミックを持っていない。これは人間なの? 唇の真っ赤な色がすっかり色が落ちてしまい、イカの肌色だ。歯は剥き出しに見えていた。両眼は何処か優しく垂れている。この目を見る限りでは人間なんだ。そうならば、これは誰だ? 金髪に白髪の交じった髪……。絶句した。

 しばらく、胴体にビニール紐で縛られた便せんを見つめていた。ただ、見つめていたのではなく、密かにその手紙の書き手に呪いの視線を掛けていた。届かないと知っていても、どうしてもそうしたい衝動に駆られた。その間に甦南は慌てて、暖簾の近くにある物置台に乗っかった黒電話の受話器に触れた。指がなかなか、言うことを聞かず小刻みに震えていた。

 ベアトリーチェの止むことのない絶叫に雪を先頭に永遠、李緒、了が足音を立ててベアトリーチェの元へと走り寄った。可哀想に小さな少女の身体は痙攣を始めていた。

「燕! 僕が。また、僕が殺したんだ」

 ビニール紐を外して、手紙を手の甲の中で少しずつ丸めた。手の甲の血管が浮き出て、その血管の一つ、一つが手紙へと怒りの刃先を宛がっている。

 後悔、懺悔、憎悪、喪失……どんな言葉をも今の感情を表せない。ベアトリーチェは今、大いなる叫びの風に身体を引き裂かれていた。

 ただ、立ち尽くして罰を受ける。そんな言葉が脳裏に浮かんだ。

「立ち止まるのか、また?」と背後から雪の厳しい投げかけが突き刺さる。

「僕は」何度も、何度も人生を繰り返し、大切な全てが指と指の隙間からこぼれ落ちてゆくのを何度も、何度も経験し続けた。それは同じように。汗に塗れた自分の指先と指先の隙間の空間を見つめる。そこからはダンボールの濃い橙色が眺望できる。それでも、現実を放っておくことはできないという強い情熱が「闘う運命と!」その台詞となって、ベアトリーチェの背を押す。

 誰にも見えないように便せんを破り、手紙を広げた。ベアトリーチェ以外の人間はみんな、哀れな肉の塊と化した燕に同情の眼差しを向けていた。

 手紙は漢字が多すぎてベアトリーチェは全く理解できなかった。だが、この時ばかりは自分の無知さのおかげで創造主の悪文を理解せずに冷静さを保っていられる。不幸中の幸いだ。

 冷静でいられるのに、心とは反対に身体は悲鳴を上げていた。足下がふらついた。首を垂れる。涙を止め処なく、零している。自分の弱さにただ、歯と歯を強く噛み合わせる。

「そうか……」と雪は呟いた。ベアトリーチェの決意を全て尊重するように、雪の吐息はベアトリーチェの頬に吹き掛かる。「最期まで小さなリーチェを守るよ」

 雪の言葉は真実だった。その真実がベアトリーチェの胸を締め付けた。そう、最期まで雪は思い通りの雪にはならなかった。

 涙は流れ続ける。枯渇する気配を全く見せず、心のダムを満タンにすることもない。ただ、時間のように流れるだけだ。


            


 死体が送りつけられるという事件から約一ヶ月経ち、夏は終わった。耳に残る蝉の音はいつの頃から聞こえなくなり、酷暑という言葉がテレビのテロップからも消えた。事実、携帯電話の液晶表示も九月十日を淡い光で表示している。それを当たり前のように受け入れる事は今年の俺にはできなかった。雲村雪という人間にはもう時間がないからだ。死をイメージするだけで、身体中に冷えるような酷暑を感じた。

 動物園の入場門を指さす小さな男の子が熊さんの門だとはしゃいでいた。その声は生命力に満ち溢れていた。自分にはあの頃は無かった。小さい者、ベアトリーチェの成長を横目で見つめ続けていなければ、俺は知ることすらできなかった。理解できないこの世が楽しくてしょうがないという笑み。羨ましかった。

 だが、自分にはどうしてちゃんと産んでくれなかったの? と息を切らせてこちらへと走ってくる母、甦南に詰め寄れなかった。理性が母だって自分達を必要としていた。ベアトリーチェに向ける子供好きな素振りが何よりの証拠じゃないかと言う。本能が何故! を叫ぶ。何故、産まれなかった! と。

 足音が近づいてくる。

 理性がゆっくりと本能に話しかける。それが重要な事なのか? 確かに中学生だった甦南はお金欲しさから、政治家を相手に身体を重ね続けた。甦南の妊娠を知った政治家は認知する。会えないか? と言って甦南を騙して誘い込み、堕ろさせた。だが、あの時、産まれなかった自分や双子の妹は年こそ、異なってしまったものの今、ここにいるじゃないか?

 足音が近づいてくる。母が手を振っている。もう、あの封筒の中身を見ただろうか?

 自分はこんなにもそわそわしているのに妹、永遠は早速、俺が買ってあげたパックジュースにストローを挿した。ストローを口に含んで勢いよく吸う。唇の肉がストローへと集中している。

「そんなにそのジュースは美味しいのか?」と間抜けな兄を演じる。

「お兄様も飲む? 苺の粒が混入されている苺牛乳!」

 背伸びをして兄に苺ジュースを飲まそうとする妹の構図は、年端の離れたカップルを連想させた。今の服装からそのように考えるのも無理はない。俺はワイシャツに黒いズボン、永遠はいつもの白い制服で、セラーカラーに赤い二重ラインが入っている千習高校指定制服を着ている。おまけに背の差が約三十センチもあるのだから、体裁が悪い。近寄る妹の頬に手を添えて退けた。

 足音が止まった。母は両膝に両手を突いて、何度も荒い呼吸をしていた。長い深呼吸の後、顔を上げて顔に掛かった髪を掻き上げた。苦しげな顔に困惑の色が混じっている顔が一瞬、どうしようか? と迷った後、微笑を浮かべた。そんな戸惑いが俺には、はっきりと解った。それはそうだ、俺と永遠は産まれた命の世界では死産しているという現実があるのだから。

「今日はどうして、私を誘って動物園なんかに? 突然でびっくりしたんだよ。私の代わりにベアちゃんも連れてくれば良かったのに」

 と母は当たり障りのない言葉を口にした。

「何故、俺の誘いを受けたんですか?」

 あれ? 何血迷った言葉を吐いているのだろうと理性が疑問に感じていた。本能は烈火の如く、苛立っていた。理性の説得は聞きそうにもない。

 黙り込んだ母の言葉を待っている際に、喉がからからに渇いているのを感じた。苺牛乳を飲んでおけば良かった。間接キスといっても兄妹間では倫理的に問題はないだろう。永遠が苺牛乳を飲み終わって俺の背後を通って、ベンチの近くにある燃えるゴミ箱へと捨てに行った。どうやら、兄様にお任せの姿勢のようだ。思わず、毒づきたくなる。

「こんな検査結果が送られてきたからですよ。やっぱり、貴方は雲村雪なのですか」

 その声は自分の言っている内容に疑問を感じているのか、酷く怯えていて、確かめるようにゆったりで半疑問系だった。

「信じてくれるんですか?」と咄嗟に言った。

「添付されていた電話番号、円下医師だったけ? 円下医師にも連絡して確認したわ」

「これから話す事を聞いて頂けないでしょうか?」

 動物園のマスコット、白熊君(白熊の本物の毛皮をびっしり付けた着ぐるみを着たどうみても恐ろしい目つきの白熊)が子ども達に風船を配っている。風船は多色多様だった。白色、赤色、黄色、青色、緑色、群青色……。その風船を子ども達が受け取っていた。俺達、大人には理解できない奇声を上げてぴょんぴょんと跳び上がっていた。母親が子ども達を優しい眼差しで見守っている。転んで怪我をしないか、心配だと、その眼差しが子どもに見えない言葉で話しかけているのかもしれない。解る気がした。目の前にいる母の眼差しも昼時の日差しに照らされて鮮やかに輝き、透き通っていた。

 母は当然、静かに頷いた。俺はそれを確認すると動物園のマスコットである白熊君から赤い風船を受け取ろうとしている永遠の手を引いて、母の元へと連れ帰った。振り返ると、赤い風船は空高く舞い上がり、熊さんの門の影へと消えていった。

「ベアちゃんの信仰者としては白熊から有り難い風船を貰わないことには」

 と言葉が尻窄みになった。俺の顔に愉快な笑みなど、一皺も無いことが解って貰えくれたようだ。

「雪。永遠。一緒に暮らせないの!」

 俺の両肩に触れて何度も揺らした。永遠には情の籠もった視線が絶えず、投げかけられる。

「無理ですよ、お母さん。私達は産まれなかった命なんですから」

 永遠は丁寧な口調で苦しげにゆっくりと喋った。

 母はその言葉を惚けた表情で見逃そうとしたが、できなかったらしく、項垂れた。

「永遠、雪はいないはず」

 花火の残り香のようなきめ細かな声が、赤い口紅を薄く引いた唇の隙間から抜けた。

「話しますよ、僕たちが過ごしてきた日々を」

 俺と永遠は園内を巡りながら、母に今までの事を包み隠さず、話した。産まれなかった命の世界で年を取らない事象の中で生きている事実や、ベアトリーチェとの出逢い、選定学園という選定の儀式を受けられる可能性に帯びた者が集まる学園、選定の儀式に際してベアトリーチェから与えられた力、いつか訪れる選定の儀式では一人しか産まれた命の世界に留まれなくて、残りの人間には本当の終わりが待っている事までも話した。選定の儀式の説明をし終わると母は急に立ち止まった。

 立ち止まった母を心配しているのか、オラウータンが長い両手で錆びた金網を何度も激しく揺らしている。その騒々しい音で俺と永遠は話を中断して何事かとオラウータンの檻を見ようと振り向いた。視線を動かしている際に陰気に包まれた母を見つけた。母は永遠と同年代といっても良いくらい幼い容姿をして、顔に皺一つなかった。だが、今の母は眉間に何本も皺を作っていて、大人の苦難の動作をやっと覚えたかのようだ。

「ベアちゃんが選定の儀式の選定者……。雪達のうち、一人しか産まれた命の世界に残れないなんて」

 その言葉は俺達が話した事実を反芻し、情報を自分のものにしようと必死に努力している女学生のようだったが、瞼に浮かぶ涙が違うと否定していた。いつの間にか、自分にも涙が伝染していた。感情というのは伝染する。伝染すると厄介なものだと俺は初めて身を持って知った。指先で何度、涙を掬い取っては、空気へと染みこませても切りがなかった。永遠の顔をちらっと確認するとやはり、泣いていた。俺と違う点は涙を掬い取ろうともせずに立ち尽くし、子どものように大声で泣いている。俺も永遠に見習ってもう、涙をどうにかしようと思うのも止めた。

 親子、三人の哀れな鳴き声を聞いて同情してくれたオラウータンが救急車のサイレンのような雄叫びを上げて、愛情深い瞳で俺達の行く末を観察している。その行く末を違う種とはいえ、猿であったこともある人間が失った感知能力で気付いたのだろう。オラウータンの黒い瞳の中に白い光が浮かび上がった。

 奇異に思っていると不快感を露わにした人々が無言で通り過ぎて行く。何か、いけないものを見たと言いたげだ。誰もが楽しい一時、家族の団らんを記録するべく、記録媒体を肩に掛けたり、ポケットに入れたり、手に持っていた。その記録媒体は多種多様だった。カメラであったり、携帯電話であったり、と。俺達はそれを見てもカメラを忘れちゃったね、等とは言えなかった。暗黙の了解で誰もが賛同していた。それは物質的なものでは捉えられない。だから、今ある家族の心を自分自身の目で記憶しておこう。いつかは身を裂かれるような今を目から心だけを取りだして、比較し合う日が来るのだろうか? 考えるべきではないと、俺は首を振った。

「今日は忘れて楽しもう。家族でね」とただ、希望のみ縋った。

「もう、どうにもならないの?」と母は俺と永遠の顔を見て確認した。涙に濡れた苦虫を噛んだ笑顔がいつもの愛想の良い笑顔に戻ってゆく。雲が晴れ、太陽が顔を出すように。嘘の笑顔である兄妹の笑顔は母には通用しないらしく、可笑しい気分にさせた。「そう……楽しみましょうね、うんと。最期の団欒になっちゃったけどお母さん、嬉しいなぁ」

 俺達は太陽の子なのだから、太陽が笑うとどうしようもなく、愛しく、ずっと一緒に輝いていたと思う。けれど、子どもはいつか、太陽から自立をしなければならない。ふと、太陽の笑顔が翳りのあるものに感じ、守りたくなった。

 俺は母の肩を掴み、自分へと手繰り寄せて歩き出した。ワイシャツの白が母の黒い髪いっぱいになる。母は恥ずかしそうに弱く、俺の頬を叩いたが、否定の意味が籠もっていないことは解っていた。母はこんなにも小さかったのかという感慨が満ちてきた。小さな者であったベアトリーチェの姿を幼い自分の姿へと変換し、思考してみる。

 自分は随分、遠い場所へと来たものだ。


            


 セロハンテープで修復された紙切れがひらひらと今にも飛びそうだ。だが、凄まじい圧力が噛み切れに掛かっていてそれから抜け出せそうにもなかった。早く自由な空に飛びたいと紙切れは何度もひらひらと叫ぶ。

 その紙切れの背にはせんていのぎしきは、くがつとうか、おひるのさんじだよ、と刻まれている。かいじょうはそらにさくさばく。わざとらしい丸々とした字体はベアトリーチェの怒りに一ヶ月ほど前から火を入れさせる十分な嫌がらせとして機能していた。

 腹いせにプリンの殻のカップを踏んだ。だが、ベアトリーチェの体重程度ではプリンのカップは破損しなかった。朝、食べられなかったプリンを今先程、食べ終えたところだった。

「雪、永遠、幸せで暮らしてくれ。さよならだ」

 白いおかっぱは風に煽られて何度もその形を崩していたが、髪には気を向けなかった。遥か下にいる雪と永遠の天辺に目を細め、重々しく別れの言葉を口にした。

 さよならじゃない事は解っている。この後、と思い出そうとしたがベアトリーチェには始まりの記憶と終わりの記憶だけしか前の記憶を引き継いでいなかった。真ん中部分が解れば、ジャン、揚羽、深希、燕を救えた。優しい人ばかりが死んでいった。続く事を知っている自分でも死ぬことが怖いという感情を誤魔化せなかった。それでも誤魔化そうと思い、怖くないと呟き続ける。それを悟られないようにルーベリの黒い鼻を撫でる。

「私は」と反論し掛けたルーベリだったが、幼いベアトリーチェとばかりルーベリが思っていたベアトリーチェがそこにいないと夢から醒めたように知った。目を見張る。

 凛と佇む背筋をぴんと伸ばした姿勢がかつて、ルーベリの所に来ては創造主の暴力に耐えかねて涙し、ルーベリの背で泣き疲れて寝ていた幼子の姿勢なのか? 黒いワイシャツに、レーザーパンツ、ベルトには鎖が備え付けられていて太陽の子が固定されていた。その姿は冷静な人物、雲村雪を彷彿とさせる。着物生地を羽織って冷たい風から小さな身体を守っていた。だが、その着物の生地も子どもらしい模様はなく、背に一羽の揚羽蝶の影が羽ばたいているだけだった。後は一面、ホワイトアウトしていた。その着物を着て似合うのは雲村永遠だろうとルーベリは思考するが、未来のベアトリーチェと永遠とを混同させてゆく自分にはっと気が付いた。

 雲村雪と雲村永遠の愛情は燦々とベアトリーチェの身体に受け継がれていた。ベアトリーチェはまだ、それを本当には知らないとルーベリは思った。太陽の気持ちは太陽にしか解らないように。

「朝、時々ある光景。お腹を空かせて永遠お姉ちゃんがお兄様、可愛い妹をひもじさから助けて下さいという弱々しい声と、扉を強く叩く騒々しい音から始まる今日。僕は好きなんだよ」と嬉々として語るベアトリーチェは危なっかしくも思えて、ルーベリは口を挟む。「ベア様……何故、ベア様でなくてはならないのです。創造主を唯一、倒せる太陽の子の持ち主が」ベアトリーチェの復讐以外に渦巻く感情に気が付いた夜須久はルーベリに向かって銃口を横に振った。ルーベリは首を振ってから石像のように動きを停止させた。「それでね、夜須久、ルーベリ。僕は目を擦りつつ、永遠お姉ちゃんの胴に抱きつくんだ。そうすると永遠お姉ちゃん、本当にしょうもない甘えんぼちゃんだって微笑むんだ。雪がお前もだって言ってでこぴんするんだよ」

 雪と永遠の天辺が園内へと消えてゆくのをベアトリーチェは口を噤んで見守った。叫んで自分も今すぐ一緒に動物を見に行きたいという欲求が渦巻く。昨日、雨で溜まった水溜まりを蹴りつけた。勢い余って、薄い鉄板まで蹴りが届いた。ベアトリーチェは自分の蹴りで唸りを上げた鉄板の声に驚いて身体を少し後退させたが、その音は雪には届かない。

「ベア様、私どもには創造主を打ち破る力はありません。せめて、共に」と夜須久は自分だけの創造主、ベアトリーチェを信頼の眼差しで見つめる。「駄目だよ、夜須久はミリアムを守り通して、絶対に。ミリアムはもう一人の可哀想なベアトリーチェだから」

「ミリアムを守ると誓いましょう、ベア様」ベアトリーチェは夜須久という相棒の実直さを今日ほど、好ましく思う日はなかった。ミリアムはきっと、夜須久の助力を借りて自分がなれなかった本当の大人になるのだろう。羨ましくも、嫉妬した。唇を噛み締め、「もう行って、さよなら、夜須久」と短く別れを告げた。

 夜須久は銃口を上下に動かし、沈黙が印象的なお辞儀をした。だが、もう既にベアトリーチェには夜須久は映っていなかった。自分から遠ざかってゆく小さな背中、その背中は猫背気味で疲労感がのし掛かっているようにも思えた。夜須久はその時、自らの運命を決めた。ベアトリーチェとは反対方向へと歩む。

「ルーベリ、僕を選定の儀式の会場に。空に咲く砂漠へと連れて行って」

 ルーベリの背に飛び乗ったベアトリーチェはルーベリにそう伝える。黒い鼻をひくひくさせて、ベアトリーチェの不安を嗅ぎ取ったルーベリは戯けた口調で言う。

「あいよ、小さなリーチェ。お前の為ならばどんなに離れた地域のおもちゃ屋にだって、時速百キロでかっ飛ばしてゆくさ」

「そうしたら、ルーベリともさよならだね。僕は創造主に反抗し続けるから」

 ルーベリの耳元を飛び回る五月蝿い羽音を立てる蠅をしっしっと追っ払いながら、ベアトリーチェは独り言を言った。それは誰に対してのものではない。ルーベリは自分の八十年という人生の中で、幼いとばかり思いこんでいた若者を何度も送り出してきた。ベアトリーチェもその一人になろうとしている。これが雪との結婚による旅立ちだったら、手放しでに喜んで贈り物一つでも送っただろう。ベアトリーチェの瞳は自分をいつも、絶望の淵へと追い込んできた世の中の理不尽さにせめてもの反撃を与えんとするぎらついた光が宿っていた。それに気が付いていながら、ルーベリは何も言えずに、何者にも束縛されていない空を走る。

 青い空に散っていた若者達が自分の側を走り去っていった。自由を求めて創造主に対してテロ行為を行った可哀想な空熊の若者達、誰しもが世界の大きさを知らずに世界と対等になろうとした。自分と世界。ルーベリはベアトリーチェに一つだけ質問をした。

「創造主は世界の作り手。その母たる存在に牙を向けるのは何故?」

「生きるって事は、誰かに命令されてすることじゃない。みんな、必死なんだ。それを高みの見物を決め込んで嘲笑うあいつがどうしても許せない。世界とあいつだけがここにあるんじゃない」

 ベアトリーチェは自由奔放な揚羽を思っていた。


          


 空に浮かぶ砂の群衆。言葉を換えれば、それは砂漠だ。

 砂漠には死だけが住んでいる。

 雪が前に読んでくれた絵本はそういう一節から始まっていた。まだ、四歳だった幼子はその砂漠の光景が恐ろしくて一晩中、牢屋の前にいてくれと雪に懇願したくらいだ。その後、砂漠に自分が立っている夢を見て、目を覚ましたら床が一面、黄色い水溜まりに浸っていた。ベアトリーチェはあの時に感じた安堵感と屈辱が今になってなんて、子供じみた感情だったのだろうと本物の砂漠の砂に足をもたつかせて、感傷に沈んでいた。

 ルーベリと無言の別れを終えてから既に一時間以上も歩いていた。腕時計はそれをベアトリーチェに無言で教える。その腕時計が止まり木にしている細い枝は、汗でしっとりと濡れていた。太陽に近いからなのか、熱にくるまれた風が優雅に踊っている。小さなベアトリーチェは風と風の合間をダンスの邪魔にならないようにゆっくりと歩を進めるが、風の指先にベアトリーチェの肩がぶつかる。風の怒りで舞い上がった感情の一粒、一粒がベアトリーチェの目に入った。小さなベアトリーチェが両眼を擦りながら歩いている姿はまるで小学生が泣いているようだ。

 ぼやけた景色は透き通った空を映していたが、背の高い人陰が前方に浮かび上がってきた。離れた場所からでも解る人を小馬鹿にした笑顔をべっとり塗った顔をした女、創造主が小学生みたいに怯え竦めているベアトリーチェに手を振った。長年に渡って付き合いがある親友同士のように。

「ベアちゃん? 会場入りが早いのは良いんだけど、折角創造主ちゃんが独りで産まれた命の世界の空気を堪能しているのを邪魔しないでよ」

 創造主という産まれた命の世界でいうところの神の存在に当たる存在は、年に一度しか産まれた命の世界に降り立てない。影響力が強すぎてそれ以上、降り立つ事ができないのだ。そういう事情もあって今日はいつもよりも饒舌だ。

「勝てないって知ってるでしょ? 小学生ちゃん」と言って目を摩るベアトリーチェの真似をした。ベアトリーチェは赤面した顔を否定するように腰にある鎖を解き、太陽の子を握り締める。鼻で笑う創造主の声が口から漏れ、「ほら、そんなの置いて銃をお取りなさいな。今ならお尻ペンペンで許してあげる」

 と創造主はベアトリーチェに向かって、胸と胸の谷間に挟んでいたリボルバーを投げやった。リボルバーは宙で何回転かしてから、砂漠のマシュマロ肌に突き刺さった。橙色の粉がベアトリーチェを咽せさせた。

 何処か、締まらないと感じたベアトリーチェは声の調子を確かめるのを兼ねて、低い鳴き声を発する。

「僕はお尻ペンペンの刑を甘んじて受ける覚悟で、ジェーンに死の世界をずっと、堪能させてあげたいんだ。僕の真心を受け取れよ、揚羽を殺してくれたお礼だ」

 ジェーンという本名は創造主にとって痛みの象徴でもあった。今も階段を駆け上がってくるいじめっ子達の声が聞こえていた。いつも、私を狂気に走らせる! と創造主は苛立ちのあまり、軽い目眩を感じた。前髪と共に頭を押さえる。

「そう……いつもどおり殺してあげる。今度は雪ちゃんとキスをさせてあげない!」

 二人だけの間で通じるいつものように……二人の目線が目まぐるしい高速道路の自動車の流れのように何度も交錯する。それをベアトリーチェの声が破る。

「無理だ。お前はただの時間様の奴隷でしかない。僕はお前に牢屋に入れられたけども、お前の奴隷になんかならない」

 ベアトリーチェは橙色の砂を蹴り、前へと跳ぶ。その背中には蝶のような翼が生えていた。白い毛先が先急ぐベアトリーチェを必死で追いかけている。

 衝動的に行動するベアトリーチェに向かって「だから、精神年齢の低い子はお手玉になりやすい」と口ずさみ、ゆっくりと頭から手を退けた。仮面が外れ、仮面の下の悲壮感漂うジェーンの機械的な顔が姿を現した。


           


 アーチ状の天井からは白い雲と空、太陽が名画の如く、当たり前のようにそこに在る。そして、俺と俺の妹、永遠と母、甦南という人間も当たり前のように、動物園内に在る。

 空には果てがない。俺は掌の隙間から太陽の光を眺めていた。雲と雲の合間には蚊のように小さく見える飛行機がゆったりと空を歩いている。明るい青色の布に包まれた飛行機は希望へとゆくのだろうと、詩人になったように心に詩を描いた。ミントガムを包みに吐き出さずに飲み込んだ時のなんともいえないすっとした透明感を、身体に取り入れた。

 愉快なお面を引っ付けたような動物が長い手足を器用に用いて、一本の木に止まっている。プレートを見てあれがナマケモノと知った永遠は低い感嘆の声を上げた。

 檻の五メートル先にある緑色の手摺りに右手を触れて、左手は真っ直ぐナマケモノを指さしていた。永遠は純粋にナマケモノがそこに在る事を感じている。

「母さん、あれ、ナマケモノって言うんだよね。ナマケモノって言うわりには可愛いよね」

「人間の感覚で考えれば、ナマケモノという訳か……。ならば、人間以上に行動速度が効率的な種が現れたら、人間もナマケモノと称されてもおかしくはない。種による常識は違うだろうしな」

 感覚が違うのであれば、在る事だけでナマケモノは満足なのだろうか? と言おうとしたが永遠の俺を責めるような視線に囚われて、言い損ねてしまった。俺は永遠程度に屈してしまったと思うと悔しくて、永遠の天辺に掌を置いてナマケモノを指さした。永遠は嫌そうな顔一つせずに屈託のない笑みで振り向いた。俺は思わずたじろいだ。

 背後から上品な笑い声が聞こえた。

「ナマケモノでそんなに深く何かを考えられるって雪は頭良いのね」

「母さん、お兄様はベアちゃんの教育係なんだから。おかげでベアちゃん、とっても良い子だよ」

 よし! よく言ったという評価が自分会議の中で結論づけられたので、忠犬のように俺を見上げる永遠の頭をくしゃくしゃに撫でた。撫でながら空を眺めると、家族の幸福に満ちた笑顔の虹が掛かっている気がした。

 今が続けば良いと動物園内に入場し、ここまで来るまでにその言葉は使い古され過ぎて雪はもう、言葉にして口から出す事さえも躊躇った。

「その良い子が不良少女みたく勝手な事してるぜ、ユッキー」

 いるはずのない人物の声が曲がり角を曲がった先から聞こえた。俺は早足で曲がり角を曲がった。もうじき、冬になろうという時期に半袖のTシャツと短パンという格好の了に、ネグリジェという李緒にしては行儀の悪い服装の二人組が立ちはだかった。そのうちの一人、了が雪に向かってウィンクをした。俺は咄嗟に嘔吐する真似をした。

「了、何を? 李緒、歩いて平気なのか?」

 李緒は胸を押さえつつ、声を出すべく、息を吸い込んだ。吸い込み音が耳元まで届いた。それはまるで命の炎の残り滓のようにか細い。蛍の声にも似ていた。

「もう、そんな心配する必要ないですよ、雪さん。選定の儀式はベアちゃんの行動により、めちゃくちゃらしいですよ、ルーベリさんからの情報を元に考えると」

 李緒は激しく、咳き込み、その場にしゃがみ込んだ。李緒を見つけてぱっとつぼみから花びらを開花させるかのような笑顔を浮かべた永遠の表情は跡形もなく、萎んだ。陰湿な表情のまま、李緒の背を摩っている。それでも李緒は激しく咳き込んで、口から細かな唾を飛ばした。

「選定の儀式、今日が?」

 俺は李緒に険しい目を向けた。

「雪の教育で心優しい捻くれベアちゃんに育った馬鹿ベアは死に行ったんだよ。本人はそういう結果になることを承知か、どうか知らねぇけどな」

 了の苛立ちは隠しきれないくらい大きく膨れているらしく、地団駄を踏んでいる。目を凝らして見ると、了のTシャツは汗まみれで肌が透けていた。

 汗まみれで息を整えている了、未だにしゃがんだまま、俯いている李緒。二人には悪いが、と心の中で断りを入れた後、

「俺はベアを助ける。その為ならば命はいらない。李緒、了、手伝ってくれ」と冷然と言い放った。

 了が突然、雪の脇腹を軽く叩き、早口気味に言葉を走らせた。

「雪、即決だな。けどな、俺は雪に行かせたくない。雪と永遠、ベアが仲良く暮らす光景を俺の果たせなかった夢の代わりにして今まで、お前の親友をやってきた。けどな、俺はお前の親友だ。お前の意見を尊重して力を貸したい。何より俺の為にな。矛盾してるか?」

 俺は頭を振り、了に頷く。

「いや、ありがとう。行こう、親友」と俺が言うと、同意するように了は軽くウィンクすると「俺達は最期まで最高の親友同士だったな」

「さて、私の親友はどうする、わーちゃん?」

 ネグリジェの肩紐を直しながら、李緒は自分は大丈夫だという澄ました顔を永遠に向けた。

 永遠は子犬の呻き声のような可愛らしい音を上げた。どうやら、李緒の身体を心配しているようだ。李緒を抱きしめようと両手がぴくぴく動いている。

「決まってるよ。私、ベアちゃんを自分の娘だと思って接してきたんだもの」と李緒を強く抱きしめて、ゆっくりと立ち上がらせた。それから永遠は茫然とする母の横顔を見つめる。「母さん、少し早いけど、大切な娘がいるんだ。行くね?」

 母は娘という言葉に頬を緩ませて微笑んだ。何の不安もない確かな微笑みだった。遠い遠い昨日に置いてきた俺達、大人にはとても真似できない世界の広さを知らなかった頃の微笑みだ。

「娘だったら助けないとね、永遠」と言葉を切って永遠が差し出した手を握り締めた。この出逢いは正解だったのか? と誰かに聞かれたら俺は正解だ。母と子が逢わない理由が何処にあろうか? 太陽と空は親子、切っても切り離せない位置にいるのだ。そんな感慨を持って二人を見つめていた俺の前に母の手が差し出された。「雪、ベアちゃんの気持ちに早く気付いてあげてね」

 母が何を言っているのか理解できなかった。ただ、俺は自分よりも小さな掌に心を惹かれていた。この手の中には自分と同じ遺伝子情報が駆け巡っている。その遺伝子は親と子である証だ。それは何処へ行っても変わらぬ鉄の絆だ。だから、離れよう。いつか、その遺伝子の織り成す果てにある死の世界で逢おう、愛しい母よ。

 俺は唾を飲み込んだ。悲しみを飲み込んだ。上手く飲み込めたと思う。

「さよなら、お母さん、会えて良かった」と永遠。「俺達を産めなかった事を後悔してくれて、ずっと愛してくれてありがとう。行ってきます」と俺は母に別れを告げた。

「いってらっしゃい、私の雪、永遠」

 その凛と佇む太陽はずっと、空に在り続ける。希望という光をどんなに遠くからでも送り続けるだろう。それでも空からは太陽はあまりにも遠すぎるんだ。

 母を残して動物園を去る俺の頬に飛行機雲がすっと、流れた。





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