六章 芽生える殺意
私は迷っている。一つの光明とも呼ぶべき提案と、自分に伸し掛かるリスクを推し量る。そのリスクをまだ、軽視していた時期をふと、思い出した。
それはもう、二年前の明日に産まれた命の世界へと旅立つ日を控えた日だった。夕焼け空の茜色に全てのものが染まっていた。茜色の机に了が彫ったチビ助の身長は百十センチと書かれていた。これを見たベアちゃんが百十一センチと真実をねじ曲げた訂正をした。
「と、これでお前達はベアトリーチェの加護を受けた。創造主のお前達を一瞬で消そうとする意志を無効化する効果もある」ベアトリーチェが壇上の上に胡座を掻きながら偉そうに言った。その壇上の横には潰れたザリガニ宅急便と明記されたダンボールが転がっていた。思わず、「何、にやにやしている李緒。あ、お前、まだ僕の身長が百十センチだって疑っているのか」笑ってしまった。
しばらくすると、雪さんの小さなリーチェは気を取り直して雪の真面目な顔をじっと、観察した。そして、意を決したように喋り出す。
「ベア様の力を有意義に使えよ」その言葉はぶっきらぼうだったが、頬に茜色の雫が伝っていた。「雪達に何かあったら僕が困るんだ」
本当にこの子は可愛いと私は微笑ましく、その涙を見守った。私達は成長というものを体験しないまま、終わるかもしれない。だからこそ、ベアトリーチェの成長を見守ってきた私はこの子には何事もなく、成長し続けて欲しいと願わずにはいられない。私以上にそれを願う親友の永遠がベアトリーチェの身体を持ち上げて、雪に何やら目で訴えかけている。
「ああ、頼む」
と腕組みをしていた雪はもったいぶるように応えた。その言葉を聞いた永遠はすぐにベアトリーチェをお姫様抱っこして教室を後にした。外からベアトリーチェの永遠に甘える声が聞こえた。
小さな者には母親が必要だと、産まれた命の世界論で習った。その知識が頭に思い浮かぶ。私は生きたいけれど、ベアトリーチェにとっては母親のような存在である永遠が生き残った方が良いに決まっている。そう、私の善意が伝えていた。
私の母親である那世優衣は善意の塊だったと私の本能が記憶している。他者にさえ善意の火を与えるほどの善意故に、身体の弱い母は私を産む事に挑戦して、新しい命と一緒に生の扉を閉ざす結果になった。だから、私はいつも、母親譲りの善意に従ってきた。今回もと声にせず、心で呟いた時、心が拒絶した。
ベアトリーチェが成長してゆく過程で永遠とベアトリーチェの母と子のような関係を守る事は、私達の中では暗黙の了解になっていた。それを確認するように静けさに雪が波打つ。
「俺達でベア様と永遠を守ろう。どんなにそれが困難であっても」
蒼いネクタイを指で弾いていた深希が陰気な顔を雪に向ける。
「あたしは……守るのには賛成だけど、」と切ってから挑むような目つきを表した。その目つきだけは顔とは切り離された別人のようだ。「みんなで生きる方法も模索するのを諦めたくない」
私は知らないがどうやら、深希には強い生の固執を呼ぶ理由があるようだ。人一倍、産まれた命の世界論には積極的だった。机に座った深希の地に着かない足の影がやけに印象的に映った。
雪の再確認に了は異存ないようで、産まれた命の世界論の教科書を机に広げて頬杖を付いて読んでいた。彼の緩みきった顔から察するに、煙草の記述を黙読しているのだろう。
「だな」と了は応えて、続くように深希が「そうね」と軽く応えた。私はいつもの悪意は一つもありませんという笑顔を浮かべて「勿論です」と応えた。
その時、私は理解した。これこそが幼子が嫌う偽善なのだと。自分の母親の不可侵な善意の光を娘である私が汚してしまったと、私の心は深い後悔に沈んだ。
「それが不可能ならば、短くても生きたい!」と叫ぶ深希。
「儀式の内容次第では対立するというのか」と呟く雪。
「俺はお前に話したろう。お前の意見に従うぜ」と溜息混じりで言う了。
私は彼らのように本音を語れない。困った者に誰にでも手を差し伸べる那世家の令嬢、那世優衣の娘なのだから。
今も初めて自分の善意と、母の善意とは違う事に気が付いた日を覚えていた。茜色の光が床の傷にアーチを描いていた不思議な光景まで覚えているのだ。
私は試されている。
息を吸い込んで、吐いた。
「皆さんは螺旋階段をお登り下さい」
と私は凛とした声を張り上げた。
私は選んだ。母親と同じ善意に彩られた決断を選んだ。後悔はない。私が選んだ方法ならば、ベアトリーチェの下にみんなを送り届けられる。
「どうやって、避けるんだよ?」と了。
「ベアトリーチェの力でしたら、可能だと思います。産まれた命の世界で死を与えられるのは創造主とベアちゃんだけですから。炎の雨で稲妻を打ち落とします」
煙草箱を地面に放り投げた了の手にその煙草箱を手渡してから、私は早口で説明した。両足が諤々と震えているのが自分で解った。だが、人を殺すのに何の躊躇もなかった。ただ、自分の命が危険に曝されるのには臆病だった。
雪は私の両足を一瞥した後、残酷な沈黙を一瞬、纏った。
「試してみるか、失敗したら黒こげだが。ベアトリーチェが待っている」
やはり、雪は永遠の感情にも気付かず、ベアトリーチェの感情にも気付かずに、二人の恋心を壊すのかと私は落胆した。
「全く、うちのリーダーは小さなお姫様にご熱心なんですね」
嫌みのつもりで言ったのだが、雪はその言葉の意をちゃんと掴まえずに苦笑いした。
「俺らが全員、そうだろう。時期に深希も来る」と了。
「そうしたら、必ず李緒も深希さんの力で追いついてきて下さい」
心配そうに永遠が私の汗ばんだ指先を自分の指先と絡め合わせた。傘と傘がぶつかり合うのも気にせずに私の顔を覗き込む永遠に頷く。
「はい、わかりました」
唐突に雨粒がダーウィンの周囲にある樹木の葉にぶつかるぽつん、ぽつん、という小さな破裂音に混じって、複数の靴音が聞こえてきた。
死体は既に消えて、死に神が十人立っていた。不気味な黒い影顔には感情すら描かれていない。
この原理には見覚えがあった。選定学園の屋上にある虎と鼠が喧嘩しているふざけた絵から一瞬で跳んできたのだろう。望んだ場所に何処へでも飛べるその装置、星屑の翼に創造主の力が加わっている事は産まれなかった命の世界では周知の事実だ。
「ゴキブリか、こいつらは」
と了は肩を項垂れて死に神を拒絶していた。オーバーリアクションだったが、みんなが了の意見に賛成していた。
重々しい空気が漂う。雨だけが軽やかに、自由に踊る。
「私達が通すと思っているのですか」
と死に神の一人が言葉を紡ぐ。
私はその言葉を無視して目を瞑った。神経を研ぎ澄ます。イメージを膨らませる。簡単だ。未来を映画のように心に映写すれば良いだけだ。
その上映時間はたったの一瞬、それだけで世界を変革する力を、ベアトリーチェの力を呼び起こせる。
「通さないでしょうね、だから」
目を開けた瞬間、ベアトリーチェの加護を李緒は認めた。
どんよりとした雲を突き抜けて、天より人一人を軽く飲み込む炎が無数に振ってくる。何人もの、死に神が避けようと躍起になったが遅い。その炎は十人の死に神をあっさりと食べ尽くす。
その間にも死に神は際限なく湧き出てくる。だが、李緒の炎も際限がない。次々に死に神を食べ尽くす。その繰り返しが産まれた命の世界の常識を揺るがす。
炎の雨が死に神を全て灰にした一瞬間、永遠、了、雪は螺旋階段へと駆け出す。見事、螺旋階段へと足を踏みしめた。
「通させてもらいました。代わりといってはなんですけど、私がお相手をしますよ」
途切れ途切れに言葉を吐きたくなる口を叱責した。胸を押さえそうになる掌をぎゅっと握り締めた。まだ、親友の永遠がいる。心臓の発作を悟られたくない。その一心で不適な笑みを自分の顔に貼り付けた。いつの間にか、指していた傘が宙に舞っていた。今朝丁寧にブラッシングした腰まで整然と整えられた茶色い髪が強風に持ち上がる。
「死に神と互角に渡り合うなど何者だ?」
炎を避け続けるのに手一杯の死に神の一人が焦りを見せずにただ、落ち着いた口調でそう言った。
「ベア様の信仰者ご一行です」と私は髪に手を添えて応えた。それと同じくして「または勇者様ご一行!」と階段を駆け上がる親友は私に声を合わせてくれた。
その親友の頭上に稲妻が届きそうになった所を間一髪、炎でそれを打ち消した。振り返らずに親友は走ってゆく。
その先に恋の成就はないというのに。
コーヒーの香りはいつも静の古い傷跡を癒してくれる飲み物には成り得なかった。 静は眠気の訪れない体質だ。もう、一年以上も眠りに就く微睡みを忘れてしまっている。
それだというのに静の瞼は白く霞みがかってきた。いや、コーヒーの湯気が視野全域を包んでいるのだ。
静は自分がいつも以上に覚醒状態にある事に悲しみを覚えた。
髪をかき上げた時、腕に水滴が付着した。それは自分の頬を伝っている涙だった。ずっと、命の恩人である恋下深希を信用していたのに音を立てて崩れてしまった。他ならぬ、深希の裏切りによって。
先日、念入りに掛けたワックスによって光沢を取り戻した床に散らばる破片一つ、一つを力なく確認した。そんな無意味な行為を何度も、もう続けている事実を静自身、知っていた。破片の周囲には深希が全て飲み干すはずだったコーヒーが湖を構築していた。
二度、呻き声が溢れた。
「産まれなかった命の世界から私はやってきました? ベアトリーチェちゃんは選定者で私は選定の儀式に参加して、選ばれれば産まれた命の世界に留まれる。でももう、そんな未来はありません。私は罪を犯しました。死にます?」
機械的に自分の口が深希の述べていた事柄を喋っていた。違う私は口って結構、横に開くんだ……不様だと感想を零した。それとも違う自分が、私が折角用意したコーヒーにも手を付けずに幽霊みたいに突っ立っていた人物は深希じゃないと考察していた。だが、コーヒーカップの欠片を素手で拾い集めている静は深希だと認識する。
あの薄茶色の虹彩を宿す瞳は女性だけを見ていたではないか! あれこそが女性しか愛せない者が理想の女性として選ぶに値する女神の瞳だ。どんなに馬鹿げた話をして、馬鹿げた失笑を浮かべても……。
「ブラックジョーク、どうやら彼女はとんだ裏切りの女神だったようだ」
人体模型であるブラックジョークの膝に頭を載せて弱々しくそうぼやいた。
「一滴……」
親指から血玉がレジの影になった場所へと落ちた。
深希の言葉が灯る。
「何ですか! その人体模型は? 気持ち悪い。当然、人体模型前は可愛らしい女の子なんでしょうね」
「二滴……」
意識が天井へと上がってゆく。魂が身体を抜け出したがっている。血玉はゆっくりと薬指先から滑り落ちた。
また、深希の言葉が灯る。
「ベアトリーチェちゃんっていうもの凄い美幼女の服はこれで良いですよね? 有名女子小学校の制服!」
背中に氷を入れられたような悪寒がしているのに静は微笑んだ。もう、微笑むことしか出来なかった。身体は自分のものではないようだ。自分の周りに余計な肉の塊が付着しているような違和感が在る。
三滴……。声が出ない。
深希。
「多分、あたしが死んだらあたしの情報がこの世界になかった事になるから、静も死んじゃうんだ。助けてごめんね」
数分前の深希の言葉に、今度はコーヒーカップを投げつけるのではなく、優しい言葉を手渡す。
「謝らないで。貴女と出逢わなければ、つき合っていた男に騙されて、無一文の哀れな女という一生で終わっていたわ」
無一文で彷徨っていた私に声を掛けた深希のおどおどとした顔が、今も可笑しくて溜まらなかった。
深希は嘘つきじゃない、裏切り者じゃない……。御免と静はきつく瞼を閉じた。もう、悲しさは消えていた。全てが満たされている。
今はただ、眠れそうだった。睡ればもう、二度と醒めない気がした。
「おやすみ、私の恋下深希」
本当の恋を初めて見つけられましたね。始まりの恋。新しい世界へ一足先に。だから、さよならじゃないよ、世界。またねと自分自身に対して、静はそっと、心にその言葉を収めた。ゆっくりと、ゆっくりと夢へと歩む。
ぼんやりと兄妹を観察してしまった。いつもの癖だと女々しい自分に苦笑しつつもそれを改めようとは了は考慮しなかった。煙草を吸うべく、ジーパンから煙草の箱を取り出して最後の一つを口に加えた。ライターで火を付けようとした。周囲を見渡して止めた。
囲いに挟まれた向こう側では地面をぴょん、ぴょんと飛び跳ねる兎が、了を訝しげに見つめていた。ベアトリーチェにしか懐かない兎、ぴょん子だった。
ベアトリーチェが雪、了と共に建てた空熊の家にはぴょん子以外にも当然、空熊が何十頭も居住しているはずなのだが姿は見えなかった。
その理由は雪の慌てふためいた声で納得がいった。
「ベアトリーチェの服だ」
「お兄様、女性の下着をまじまじと見ない」
ベアトリーチェの女児用パンツを掌に載せている雪の方へと、永遠は今にも飛びかかりそうな剣幕で一歩、踏み出した。
囲いで仕切られた構造である空熊の各部屋以外に、道具を仕舞う倉庫と空熊の食料が主に入った冷蔵庫、そしてベアトリーチェ専用の部屋があった。気むずかしいベアトリーチェが他者をその部屋に入れることは絶対になく、開かずの扉となっていたのだが開いていた。
その部屋の畳の上に赤い染みだらけの黒いブラウスとチェックのスカートが無造作に放ってある。
何を着て行ったのだろうか? という疑問を胸に秘め、了は口論している雪と永遠の中央をさり気なく突っ切って部屋に足を踏み入れた。勿論、革靴は脱いでから畳に上がった。
「ベアトリーチェは家族のようなものだろう、これくらい気にも留めん」「留めますよ。お兄様はそういった常識に欠けてます!」
淡々と釈明する雪と檄を飛ばす永遠の声は次第に見えないフィルターによって除去されてゆく。ただ、了はベアトリーチェの雪への想いの深さに恐れおののいていた。
壁沿いにこの建物を建てたのは九年前の秋だが、それより前の写真も一緒に飾られている。
額縁に入った写真を左側から順に眺めてゆく。
場所は産まれた命の世界にある永遠の部屋だろう。焼き肉パーティーの時に撮った写真のようだ。鉄板の重さに耐えかねて脚が真っ二つに折れたちゃぶ台の隙間には小さなリーチェが寝そべっており、雪が読んでいる人間失格を下から覗こうとしていた。じゅうよんさい、ゆきとぼくという拙い平仮名でコメントが額縁に貼られていた。
身長百センチの小さなリーチェは牛乳瓶を両手で掴んで一気飲みしていた。そんな幼子をしっかり抱き寄せている雪の表情は幸福に満ちていた。十三歳、小さなリーチェと牛乳、早く背が伸びますようにと永遠のしっかりとした字で額縁にコメントが貼られていた。
十二歳……十一歳、十歳、九歳、八歳、七歳、六歳、五歳、四歳と時を遡っても変わらない表情がそこにはあった。小さなリーチェの安らいだ小動物振りと、雪の一点の曇りもない愛情。
もし、ベアトリーチェの想いを一端、雪が受け入れてしまったら? という了の内なる声が、自分の想いの綻びの可能性を指摘しているようだ。
自分は兄に恋い焦がれる永遠と妹を何だかんだ言っても助ける雪の二人が、一瞬でも想いが通うならば生きる意味があったと思っていた。永遠が生き残る為に全力を注げるのにと、苦悩に満ちた顔を表さないように目を固く閉じて両拳を作った。
首をゆっくりと縦に頷かせる。
「ここに来たのは明白だけどよ」と了は振り向いて二人に声を掛けたが未だに「小さな子の下着だから、女性とは見なしません的な狭いローカルルールを持ってるんでしょ」「いや、小さなリーチェは立派な女性だ」という会話が続いていた。了は溜息を吐いた後、「聞いてねぇなぁ」とぼやいた。
「嘘!」「嘘じゃない」
と言い合いに熱狂した兄妹には、笑みが浮かんでいる。
「笑ってるよ、本当にうちの親父とお袋にそっくりだな」
と呟いた時、自分が強く二人に親近感を抱く切っ掛けとなった声が心に溢れ出した。
「産まれなかった理由を教えて欲しい、ベアトリーチェ!」
「理由? ふーん、お前、知らないのか……。まぁ、人それぞれらしいなぁ。よし! 僕のぴこぴこサンダルを舐めたら」と言った四歳の舌足らずチビ助は了の鬼気迫る顔を確認すると落ち着いた口調で「わかった。教えてやるよ」と言い直した。
「神様」
そう当時も思わず、ベアトリーチェに言ってしまったのだ、今のように……。尤も、全てが子どもな幼子の耳にその言葉が入っていたら、神様と呼び続けなければいけなかったなぁと感慨深かった。その後、知ったのだ。自分は血の繋がった兄妹から産まれる予定の命だったことを。母が白血病で自分を宿したまま、死んだことを。
「何? にやついたり、落ち込んだりしているんだ?」
そんな雪のさり気ない了を思いやる優しげな口調が、了を現実に引き戻した。
雪と永遠が一斉に畳の上に佇んでいる了に視線を向けている。恥ずかしさを隠しきれず、照れ笑いをした。
「何でもないです、リーダー。兄妹喧嘩は終了?」
「違うよ、了?」永遠はウィンクをして、「お兄様のしつけです」と兄の肩に自分の頭を載せた。
「育成ゲームと一色短にしないでくれ」と呆れた顔つきの雪。
「ありそうでない育成ゲーだね」
永遠はそう言いながら雪の掌から取り返したベアトリーチェの下着を畳の隅にあった青色のナップサックへと入れた。黒いブラウスとチェックのスカートも入れる。了の視線に気が付いた永遠は寂しそうな目で見つめ返した。完全に血が落ちないことを知って尚、大切にしたいという永遠の気持ちが了に感染して重苦しい気持ちになった。こんな時は煙草が一番だと加えていた煙草に火を付けようとした。
「どんな層に需要が見込めるんだよ、雪様育成ゲーム。煙草」兎のぴょん子が円らな瞳で了を見つめた。ぴょん子は置物のように動かず、お前の行いを備に観察しているぞと言いたげだった。「吸いませんよ、ぴょん子」
根負けした了はライターをジーパンのポケットへと無理矢理ねじ込んだ。
「口が寂しいんだろう、食べるといい」
雪は了にインスタントラーメンを調理してない袋詰めの状態で差し出した。インスタントラーメンの袋には麒麟の親子の絵が描かれており、きりんの親子ラーメンと適当なネーミングだった。了は友人の親切に報いるために受け取るが、文句を言う。
「俺は固形ラーメンをおやつ代わりにしちゃうような何処かのベアちゃんじゃない」
「何処かって……言った意味がないよ」と律儀に永遠も会話に参加してから「ベアちゃんはもう、ここにはいないみたいだね。空熊がいないとすると、選定学園へ飛んでいったんだよ」
永遠はこの意見は是か非かと雪、了の顔を順に見渡す。二人は何の反論もないようで先に歩き出す。ナップサックを背負って永遠は続いて歩き出した。了はそれを確認してから正面を向いた。
「ベアちゃん、プライベートジェット持っていてずるいなぁ」
了はこれから選定学園へと、列車で向かわなければならないと考えると、そう言わずにはいられなかった。すかさず、雪が扉を開きながら、
「空熊をそんな風に呼称をするとベア様の拳が飛んでくるぞ」
だが、了は雪のパフォーマンス混じりの言葉に反応しなかった。代わりに扉の隙間が増える度に、開けてくる外の異様な風景に嫌悪感をべた塗りした反応をする。
「あっちゃあ、見ろよ。一面、向日葵畑だわ」
了が指さした先には一面、野原の筈の風景が骸骨を両肩に鎖で吊した死に神達の群れに占拠されていた。
「随分と骸骨を肥料に用いた不細工草があったもんだな」
雪は永遠の肩を抱き寄せて、険しい目線で不細工草を眺めた。冷静な兄に対して永遠はすかさず、掌から水を育み、槍の形へと水流を固定化させる。妹の目には小さなリーチェを虐めた創造主の仲間として死に神達は認定されていた。今にも斬りかかりそうな勢いだ。了はそんな二人の気持ちを軟化させるべく、加えた煙草を吸って、俺はリラックスしているんだからお前達もそうして余裕を見せろと振る舞おうとした。加えていた煙草が泥濘にぽとんと落ちた。
「あちゃちゃちゃあ」という了の間抜けな声が息と共に外へと逃げた。
「先程も同僚が貴公に告げたとは思うが、望みは一つだけ。雲村雪をこちらに引き渡すのみ。選択の余地はないと見よ」
そう宣言して五十人以上いると見られる死に神の一人が、雪達と死に神達の中央まで脚を運んだ。
雪は苦渋の表情を見せつつも歩き出した。
「お兄様!」「おい、雪!」
と咄嗟に了達は雪を追いかけようとしたが、振り向いた雪の表情はいつもの冷静な雪と変わらなかったので間が抜けた。泥濘の在る剥き出しの大地から草が生え始めた辺りで立ち止まった。
「了、永遠を頼むぞ。手を出したら」と言葉を切って空を平手打ちした。「お尻ペンペンだ」
雪の淡々とした口調には似合わない言葉を受けて了はすぐさま、言い返す。
「俺は聞き分けのないベアちゃんかい」
両手を広げて戯けた。そんな二人を見て永遠は肩を怒らせながら歩き始めた。
「お兄様、行かないで!」と叫ぶ永遠の声は絶望に震えていた。「おっと、駄目駄目」と了は軽い口調で永遠の行く手を両手で遮った。そして、続けて永遠の耳元に厳しい言葉を投げかける。「今、行けば状況は悪くなる」
その間にも了達に構うことなく、死に神達は雪の手に手錠を填めて足早に数を減らしてゆく。死に神の数が多すぎて消えているように見えた。了と永遠は驚いて目を見張った。だが、ベアトリーチェが飼っている空熊とは違う産まれた命の世界にいるヒグマのような体つきの空熊が見えるようになると、それに乗ってきたんだという判明した。少しは気が楽になりながらも雪と離れ離れになるという事態に永遠は戦慄を覚えた。
数分もしないうちに死に神達は全員、空熊に乗り込み終えて、一斉に空熊は出発の咆吼を立て始める。それは大地を揺るがすほどの頭数の遠吠えだった。咄嗟に了と永遠は耳を塞いで俯いた。
風が激しく吹き荒れている。その風は何十頭にも及ぶ勇ましい空熊の脚がもたらした風だった。
一瞬間の強風は空熊達が立ち去ると跡形もなく、消え失せた。後に残ったのは膝を抱えて膝と胴の間に顔を隠してすすり泣く永遠と、友人の消えていった澄み切った青空の先を見上げていた了だった。
しばらくして永遠は自分に言い聞かすように口を開いた。
「創造主のいる選定学園に行くしかない」
了もそれしかない。列車でいけば一時間程で選定学園だと永遠を励まそうとした。だが、列車が運行していない事に気が付いた。
しばらく、了は思考の谷間へと自分を落としてみる。自分達はもう、産まれた命の世界を訪れることは多分、この先ないだろうと知っていた。選定の儀式で選ばれるのは一人だけ。その他の者は消えるのみだからだ。倫理観は既に吹っ切れていた。安っぽい天秤に友人の命を載せるまでもなかった。
「でもさ、この時期はテスト期間だから選定学園行きの列車は運行していないぞ。弱ったなぁ」
とさも何も考えつかないとばかりにぬかるんだ地面に胡座を掻いた。だが、湿り気を感じてすぐに立ち上がった。その瞬間を目撃した永遠は口を大きく開けて笑った。
「その割には」
という言葉のみ、必死の思いで永遠は判別可能な言葉を紡いだ。
「良い方法があるんだ。モラルに反するが俺は元不良って設定だからオーケー」
その口調にはお尻の湿りを帳消しにするほどの自信が満ち溢れていた。永遠はそれが了の人間的な強さからくる自信だと理解して何の疑問にも感じなかった。
数分後永遠が難色を示すであろうことは提案者の了だけは知っていた。
笑っていられるのもそれまでだぜと真剣な顔で悪態をついて見せた。それは内面のものなので伝わるはずがない。
水溜まりが在る。避けて通らなきゃ。未だに残るあたしがあたしに指令を下す。でも、今のあたしは自由だった。あたしは水溜まりを無視して歩いた。冷たい……。
あらゆる事から自由なんだ。
だからこんなことだって出来るんだよ!
あたしは歩道から飛び出した。自動車が急停止する音を耳にして、それを合図に遊園地にあるコーヒーカップのようにその場でくるくると回った。
きゃははははははは、楽しい。死んじゃえ、あたし!
自分以外の誰かがあたしに囁いていた。あたしはそいつの正体を知っていた。何かに心を奪われて落ち込んだ時にいつもやってくるそいつだ。
今のあたしにはそいつと闘う為の武器は何一つなかった。あたしはそいつの言葉が正しいと思った。だってそうじゃないか! 小さなリーチェの友達を助けられなかったんだ、ちょっとしたヘマで。
きゃははははははは、どうお前は楽しんでいるか? 深希。いや、自殺志願者。数多のお前が私の腹の中に収まってきた。お前も来いよ、私の腹へと。さぁ、遠慮はいらないよ?
そいつはあたしの心にそう電報を何度も打ち続けた。溜まらず、あたしは腹を抱えて笑い出した。
「あたしは……」
と言った時、あたしの視界を黒い乗用車の窓硝子が覆った。窓硝子がどんどん近づく。次に視界に映ったのは赤い色と黒い色が交わり、急速にぼやける光景だった。パレットに目を近づけたらそんな光景が見えるのだろうか? とまだ冷静に事態を考えられる自分はそう考えた。
ブレーキ音が耳元で鳴り響いた後、頭がじんじんと痛み始めるのを感じた。このくらいの痛みならば耐えられると思った。だが、それが幻であった事を知った。急速に耐えきれる、耐えられるという区分では表現しきれない痛みが訪れた。
無数の自動車の扉が乱暴に開け放たれる音が聞こえる。確認しようと意思を示したところで既に視界はあたしから走り去っていた。あたしも後へと続きたい、この痛みがあるのならば死んじゃいたいと願い続けた。了が信じている小さな神様ベアトリーチェに祈る。心が少し安らいだ。雪が信仰するはずだ……。そう感想を洩らしたかったが、口の中は何やら挟まっていて開けなかった。歯のように堅いもののようだ。
「おい、君。大丈夫か!」
と声を掛けてくれる若い男性の声。だけど、あたしは呻くことしか出来ない。強く自分はここにいたいと叫び続けなければ消えそうだが、
「もう死にたい。死にたくて仕方ないのよ、死にたくて。ねぇ! 自殺願望よ。あたしを殺して」
あたしはついにそいつの力を求めた。
「誰か、救急車を早く呼べ!」
まだ、生者があたしを助けようと声を大にして誰かを求めている。言ってあげたかった。もう、何もしなくてもいいと。
そいつは直ぐにどす黒い霧になって現れた。
「それはできない。お前を殺せるのはお前と、運命だけだ」
皮肉屋を気取ったそいつはあたしの心が崩れてゆくのを見下ろしながらそう簡潔に言った。
「おい、何で車を急発進させたんだ?」
「うっせーよ、おっさん。ぶーぶの走る場所だろうが。歩行者は狭苦しい歩道をのろのろと歩いてりゃ良いんだよ。轢き殺されて当然!」
勇敢な生者が口の悪い若者と口論になっているのが聞こえる。周囲からも口の悪い若者を非難する声が上がっていた。
何で? とあたしは首を捻りたかった。けども、首は一ミリも動かない。全身が熱に侵されたように熱かった。
あたしを殺したのは貴方じゃないよ、と言ってあげたかった……。
「あたしはあたしを殺す。ベアトリーチェ、これで償いになるかな?」
「ああ、ごちそうさまでした。次の食料でも探すか」
あたしの心の部屋の床があたしの立っている所だけになったのを確認して、黒い霧の自殺願望はあたしの身体から抜け出した。それから間もなくして、あたしの脚は宙に投げ出され、混濁の海へと深く落ちていった。
ただ、最後に疑問が胸に過ぎった。
あたしは何のために在ったのだろうか? ねぇ、誰か教えてよ!
永遠達を炎の雨で援護しつつ、産まれなかった命の世界に送り出した後も、無数に何にもない空間から現れてくる死に神との攻防は続いていた。最初のうちは李緒の圧倒的な炎の前に死に神達は為す術が無かった。李緒自身も勇ましい震えを全身に受けながらも、ベアトリーチェ自身が最強と称える力を大いに不適な笑みを持ってして自画自賛していた。
李緒の身体が健康体であれば、このまま圧倒し、死に神は撤退を考えていただろう。だが、死に神課の職員は誰もが残忍な殺人鬼だった。獲物の体力を呼吸で判断する事など造作もない。それを知らぬ李緒は切り抜けられると何度も自分を励まし続けた。
死に神は的を外れ始めた炎を軽々と避ける。ただ、汗一つ掻かずに李緒が止まる瞬間を狙い定めるような様相を見せ始める。
「炎の雨、聞いた事がありますよ。世の災いと呼ばれたベアトリーチェ最高の能力。その火に触れたものを必ず、焼け死ぬ」
そう言って李緒の喉元へと一人の死に神が槍を定めて、飛びかかる。
李緒の意識は雨を掻き消す炎の群れに囲まれて飛びそうだった。ふらっと身体が倒れ掛けたところへ運良く、槍が空を通過していった。槍の捌いた空気音を李緒は耳元に聞き、意識を覚醒させる。
「心臓よ、保って! 永遠がベアトリーチェを!」
迎えに行くまで、と言うまで息が保たなかった。炎を呼び起こす指先の軌道のみが正確だった。自分を殺し損ねた死に神の背骨に炎を横に薙ぎ、灰へと姿を変えさせた。炎のみが地面にへばり付く。
李緒の背後には既に自分の背の何倍ほどもある炎が、壁のように背伸びしていた。飛び火してダーウィン内にある火災探査装置から火災を知らせるけたたましい音が建物外へ聞こえてきた。その音が非現実感を与え、李緒を死の恐怖から遠ざけ始めた。
ただ、自分の呼吸のみが近い。
汗が流れ出てくるのを李緒はハンカチで拭った。そして、死に神という目標に向かって炎の雨を降らす。
「火事だ! 火を消せ!」
という男性の声が炎の壁の外側から聞こえてきた。李緒はその声の存在には何の反応も示さず、四方から刀を握り締めて自分へと向かってくる死に神達に炎の報いを与える。だが、一人を取り逃がしてしまい、肩に刃筋が掠めた。
李緒の心臓は大袈裟に反応し、李緒をしゃがませた。すぐに死に神の刀は容赦なく、李緒を狙う。
絶命の瀬戸際にも似た悲鳴を上げて李緒は駆け出す。がむしゃらに脚を動かす。既に退路が断たれた今、死に神で塞がれた先にある螺旋階段を上るより他になかった。
分の悪い賭だった。いや、賭にもなっていなかった。
「あの建物には子どもも住んでいるぞ。この時間帯だと子どもが取り残されている可能性がある。何としても助けるんだ」
ベアトリーチェの事だろうと、李緒は死に神の攻撃をわざと外した自分の周囲へと降らした炎で防ぎながら思った。
一直線に進む李緒の通った道は炎の道と化してゆく。
道を塞ぐ死に神達の胸元に地面に転がっていた傘を突き刺し、そこへ炎を注ぐ。声も出さずに倒れた死に神の黒い顔を容赦なく、踏みつけた。螺旋階段へと足を掛ける。
「しまった! 取り逃した」
「我々はこちら側の星屑の翼へと急ごう」
口々に悔しそうに死に神達はそう言って螺旋階段の脇を通って、李緒の身長の三倍はある塀を登り始める。窪みを探してはそこに手や足を掛ける姿は野蛮そのものだった。今更ながら李緒の心に過去の死の恐怖が巻き上がってきた。
死に神の脅威が去ったと李緒は安堵の溜息を吐いた時、心臓は激しく波打った。李緒の足取りを停止させる。心臓部を両手で押さえて何度も息を吐き、吸うを繰り返す。だが、ちっとも良くならなかった。
ふと、李緒はある事に気付き、それを確かめるべく天を見上げた。
「あ」
そんな絶望の声を洩らしても、もう遅かった……。
光が目を射貫いた。少し間を置いて稲妻が李緒へと迫ってきた。螺旋階段は人一人がやっと歩けるくらいの横幅しか無く、避けるには飛び降りるという選択しかない。未だに死に神が闊歩する下へと飛び降りることに、李緒の心が激しく難色を示した。固まる。
そして、せめて死ぬ瞬間は目に焼き付けたくないと目を瞑った。
「かあさん」
そんな声が自分の口から出たことを驚きながらも、それを誇りに思った。
死の余韻に浸る事無く、唐突に李緒の意識は途切れた。
ベアトリーチェは白い空熊の毛布のような弾力を頬で味わっていた。このまま、寝てしまいたいという眠気に襲われながらも精神は怒りの炎を燃やし続けていた。ベアトリーチェが昔、飼育係をしていた空熊の住処の近くを流れる川で身体を洗い、服を清潔なものに着替えた。勿論、怒りに震えていた幼子にはそんな回り道をしようなんて頭は持ち合わせていなかった。全て、白い毛並みの空熊を統べる長であるルーベリの助言によるものだった。そのルーベリの背に乗ってベアトリーチェは今、空の景色を睨み付けていた。
産まれた命の世界にも存在していた富士山が目に入り、平和の象徴であった揚羽の戯けた表情をふと、ベアトリーチェは頭に思い描いた。すっかり枯れ果てたと思っていた涙が再び、栓が壊れたように流れ出た。
「先程の格好はみっともなかったですぞ」
「急いでいたのだ。服に気を遣っていられない」
小さなリーチェは一年前に自分が着ていたねずみ色の繋ぎがぴったりだった事がショックで、胸元の生地を摘んで悲しそうに眺めた。
「それにしてもどういう心変わりだ。創造主と闘う事を恐れていたのに」
ルーベリの黒い鼻を遠慮無く、ぴたぴたと触れながら言った。ルーベリはわざと鼻息を荒くして、幼子の悪戯から逃れようとするのに忙しい。ルーベリの隣を飛んでいた若い空熊が苦笑して口を開く。
「食後の運動という理由でまた、ベア様の後任である飼育員の少年が殺されるために拘束課に連れて行かれた。もうこれ以上、傍観者ではいられません。誇り高き空熊の一族が臆病者と影で罵られるのにも憤慨している者も多かったのです」
その少年をベアトリーチェは知っていた。ベアトリーチェを悪魔と罵る始終、自分より小さなベアトリーチェを恐れている可哀想な少年だった。何度も小さなリーチェは誤解を解こうとしたが、その度に理解してもらえず、結局……解り合えなかったのだ。もう、創造主に殺されただろうと静かに目を閉じて、少年の魂の安らぎを願った。
考えてみれば、自分はいつも無力で状況に流されるだけの幼子だと苛立ちを覚えた。太陽の子を持ってしても勝利を得られるのか、とふいに不安になった。
ベアトリーチェの辛い気持ちを察せない風は冷たく、毛皮のない人間にはきつい強風だった。
耳には風の叫び声だけが喧しく響いた。
レースアップブーツにはいつものナイフではなく、雪の写真が入っていた。寂しさと恋しさが入り交じった激しい痛みに耐えかねて空熊の住処でそうしたのだった。
心に写真の映像を思い浮かべる。
ワイシャツからはだけた雪の黄色い肌がベアトリーチェの心臓を激しく脈動させた。溜まらなく、雪の肌に触れたくなり、ベアトリーチェはゆっくりとルーベリの白い毛皮の上に倒れ込んだ。
ルーベリは幼子の自分の耳を掴む握力の脆弱さを理解していた。いつものような一晩で産まれた命の世界の半分程、飛べる速度を出さずにゆったりと飛んだ。
だが、小さなリーチェにとっては不服だった。それは自分が足手まといになっているようで気が引けたのだ。そう思うことこそが、幼子故の愛らしさだ。
途中、李緒が廃棄された選定学園の先輩から譲り受けた林檎園が姿を見せた。その瞬間、激しい音を立てて小さなリーチェの腹部は、林檎がお腹に入ると予測して整理し始めた。それに逆らうにはまだ、ベアトリーチェの年では無理だった。すぐに空熊一行の飛行コースを低く設定させる。
林檎園を抜けた時にはルーベリの隣を付き従うように飛んでいる若空熊の背に林檎が沢山乗っかっていた。さらにベアトリーチェの周囲を林檎が囲んでいた。全部、食べるつもりだと乳歯が覗けていた。
その乳歯は既に林檎の汁を滴らせていた。
「林檎が美味しい。まだ、まだ、食べるぞ。今日はゲロ吐いてお腹が空っぽなんだ」
「ベアトリーチェなんて下品な言葉を使っておるのじゃ。まるで了のようですぞ」
そう言われたベアトリーチェの身体が一瞬にして凍り付いた。食事中に平気で屁をしたり、煙草の煙を口や鼻から途切れなく噴出させる了と一緒にされたのでは堪らない。可愛い顔は険しくなった。それですら、可愛くなってしまうのだから、空熊達は笑うしかなかった。
「笑うな! それでも誇り高き空熊か!」
数分の間、幸福の空間がベアトリーチェを中心に築かれた。空熊達は自分達のお姫様、思いやりのある小さなリーチェを誰もが慈しみたいと心の奥底で幸福を噛み締めた。
だが、幸福とは得てして、短命である。
「来ましたぞ、死に神課の連中に、武器課の連中に、拘束課の連中に、終末課の連中、戦闘のエリート揃いです」
その声を合図にベアトリーチェは幸福を惜しみながらも自ら、手放した。手から離れた林檎は幼子の囓り後から透明な汁を吹き出しつつ、森へと風に煽られて墜ちてゆく。わずかな時間で森と同化した。少なくともそのように幼子の潤んだ朱い瞳には映った。そして、真っ直ぐ前を向いた。
既に何頭かの白い空熊は自分達の進行方向から攻めてきた黒い空熊、産まれた命の世界のヒグマに似た空熊に乗った黒顔の死に神課の役人、冷たい有機物の武器の姿をした武器課の役人、鎖で自分の身体を戒めている背広姿の拘束課の役人や、空を歩いている甲冑を着込んだ終末課の役人と闘っていた。
ある空熊は勇敢にも役所最強と謳われる終末課の役人の甲冑に噛み付いたが、硬度の高い甲冑を前に、岩をも砕く空熊の牙は折れてしまった。折れた牙先を終末課の役人が空熊の脳天に突き刺した。勇敢な空熊は森の中へと消えていった。
他の空熊達も善戦しているとは言い難かった。全身が武器の武器課に対して空熊達は飲み込んで消化しようとしたが、腹を破られて所々で血肉を曝す。
「リーハ、チャーナ、スサリ!」
と倒れた仲間の名前を叫んだまだ、幼い空熊は怒りに全身の白毛を逆立たせて吠えた。それはベアトリーチェの心に深く突き刺さった。
跳部夜須久を握り締めて、引き金を引き続けていた。夜須久の特性である追尾性のある弾丸でも、無数にいる役人達に有効な損害を与えられなかった。ただ、一人確実に役人を殺害できる良い攻撃だが、それは帳面の紙を一枚破る行為にも似た途方もない作業だと夜須久もベアトリーチェも焦りを感じていた。
ベアトリーチェは焦りのあまりに近くにいた黒い空熊へと飛び移る。それに跨っていた死に神の額を打ち抜いた。また、別の黒い空熊へと素早く飛び移る。
「相棒! この方法では危ない! 先程と大差もない」
「でも少しは早い」
白いおかっぱ頭が風に乗ってきた役人の血で赤く色づくのも気にしない。ただ、激しい殺意のみが小さな身体を包んだ。だんだんと殺害する、命を奪う、記憶を消去する、存在を否定する、それらの狂気と分類されている禁忌を禁忌と思わなくなる。小さなリーチェは追尾性のある弾丸のように役人を殺す。世界から追放する。
槍の形をした武器課の役人にぶら下がった。案の定、幼子の体重に耐えきれなくなった槍はバランスを失って、高度を下げる。幼子達の下には予測した通り、甲冑に身を包んだ終末課の役人が茫然と立っていた。躊躇わず、唇の両端を横へと大胆に広げて、ベアトリーチェは自分がぶら下がっている槍を役人の頭に突き刺す。
ぷしゅーという音と共に幼子は血の噴水装置と化した頭上へと着陸した。直ぐさま血の噴水装置を蹴って、黒い空熊へと乗り移ろうとする。
宙を跳ぶ。その幼子の意志が届かない瞬間を狙って、銃の形をした武器課の役人が引き金を引く。
渇いた音が鳴り響く。血のジュースで乾きを癒すべく。
これで勝利したと仕掛けた役人達は思ったのだろうと、無傷の幼子は黒い空熊の上で墜ちてゆく銃の形をした武器課の役人達を見下した。
何が起こったのかは解らないまま、墜ちてゆく銃の形をした役人達は自分の身体を貫通している自分達の弾丸を見て、跳ね返ったんだと最期に理解した。
太陽の子の幼子を守る衝撃波は既に幼子の思うがままに操れた。そうする事が出来るからやってみろという自分に勇気が満ち溢れていた。だから、実行したのだ。まるで自分に起きた出来事には感じなかった。
全てが軽い……。幼子はまた、一つ罪を重ねて、黒い空熊から空へと身を投げた。空熊を殺さないのは大好きな永遠おねえちゃんが全ての空熊の種と友好関係にあったからだ。多分、大切な空熊を人質に取られて、この戦に参加させられているのだろうと幼子にも想像できた。元々、空熊は理由無き戦いを好まない生物なのだ。
ベアトリーチェはルーベリの背に戻ってくると、すぐに四方を見渡して状況を確認する。役人達が落下してゆくよりも白い空熊達が血を滴らせたまま、墜ちてゆく方が目に映った。戦いが常ではない空熊と戦闘訓練を受けている役人達とでは歴然たる差があった。幼子は自分が空熊を戦いに巻き込んだ事実を後悔して俯いた。
「後悔しておるようじゃな」百八十度回転したルーベリの優しい顔立ちが幼子の前に現れた。体力を消耗して膝を付いている幼子は「僕は……そら」と言葉を紡ごうとした。容赦なく吐き気が襲う。仕方なく、口を紡ぐ。「それでも見るんだ。今ここで起きていることを!」いつもベアトリーチェに甘い好々爺から放たれる厳しい言葉を耳にしたベアトリーチェは、反感を隠さぬ眼でルーベリを睨み付ける。それでもルーベリの眉間の皺の数も、眉の吊り上がった状態も変わらなかった。「能力があっても、なくともベアトリーチェは小さなリーチェだ。出来ることと出来ないことがある」
肉体が衰えたというのを如実に表している目元の皺がその言葉を強く印象づけた。
ベアトリーチェの体力が回復するまで幼子を守ろうと考えているのだろうか、空熊達は役人達に身体ごと突っ込んでいく。幼子は低い悲鳴を上げた。
ベアトリーチェに向かって放たれた弾丸をかつてベアトリーチェの子守をしてくれた年配の雌空熊が壁を作って、最後まで守り続けた。
「小さなリーチェ、この世界では死なないんだ。泣くんじゃないよ。私達と違って成長する生まれた命の世界の人間は死ぬから気をつけな」
一番、傷が浅かった雌空熊の一人もそうベアトリーチェに言い残すと力尽きて、重力のあるがままに落下した。落下した者が全てに物と成り果てていると小さなリーチェでも理解できた。だが、これは死に至る痛みではない。けれども、ベアトリーチェはルーベリの背を何度も叩いて懇願する。
「叔母様達を助けて、今なら間に合う」
悲痛な言葉にルーベリは力なく、首を横に振って応えた。幼子は気が遠くなりそうになった。だが、金属と歯が触れあう音や銃弾が肉を貫通する音、断末魔の悲鳴がそれを許さなかった。心は憎しみで一杯になった。
「相棒、それは無理な注文だ。それより闘うぞ、最後までな」
隣で浮かびながら正確に役所仕事のように、かつては同僚であった者に弾丸を撃ち込んだ。
「最後……まで?」
夜須久の言葉を幼子は舌の上で吟味した。それは口に含んではいけないものだった。憎しみで一杯になっていたはずの心を誰かが鷲掴みにした。
「この戦力差では小さなリーチェを逃がすことは出来そうにないですな、夜須久」
「脱出ルートを構築しようと、私と空熊数頭で切り開いてみたが無駄だった。囲まれている」
幼子は青い顔をしたルーベリと同僚を殺害しながら会話する夜須久を見た。大人達は死が怖くないのだろうか。自分はこんなにも怖いのにと、両足を震わせながら見た。
青空という画用紙は、愚か者達の茜色の絵の具で満たされていた。その絵の具はたらたら、と下へと広がる。すると見るに堪えない波を生み出し始めた。それは必死さ。どうしようもない必死さ。
ベアトリーチェを生かすだけを大人達は最初から考えていた。この不幸で小さな復讐鬼は彼らにとって可愛い、可愛い小さなリーチェでしかないのだ。
作業着のお尻のとこに不快な湿りを感じ始めた。それでも、僕は心臓から火が灯っているような熱さを感じても、痛みを感じても平気な振りをする。
だけど、僕は本当に何処も痛くない。でも、痛い。ちくちくする。
そういう時は心が痛んだよと四歳の頃、雪から教わっていたのを記憶が教えてくれた。この痛みの正体はいつも僕の隣に住んでいる奴だ。忌々しい奴だ。
「僕は死ぬの?」
嫌だ! 僕は……まだ、死なないはずなのに!
独りぼっちの頃は死んでも良いって思った。揚羽を思うと、雪を思うと、僕の心に熱風が吹きすさぶのを感じた。いつの間にかペガサスの口から刃が生えた聖剣、太陽の子を握り締めていた。
死ねない! から、ルーベリの背から飛び降りて太陽の子を一閃、振るう。振るった方向にいた役人が喉元を押さえながら白目を向いた。口から泡を吹いた役人は森の中へと落ちる。
ルーベリは太陽の子の力に驚きの表情を隠せなかった。僕はルーベリが頭の回転が速いのを知っていた。太陽の子が肺の時間を止めたのに気が付いたのだろう。その位の芸当ならば回数制限はないようだ。
ルーベリの背に戻ると、得意げな表情を浮かべた。創造主の手下である役人達に太陽の子の刃を向けた。
「ベアちゃん! 元気? かなりぼろぼろみたいね」と今、尤も聞きたくない声が空中に響き渡った。恐らくは鏡の機能を使用して声を伝達させているのだろう。「時の書の通り、ついこないだまでオムツを履いていたベアちゃんには太陽の子を使いこなせないみたいね」
「時の書?」
「あら、知らないんだ? ベアちゃん? いいわ、辿り着いたら逢わせてあげるよ、大魔王にね」
大魔王という事は創造主の暴力的な力以上にとんでもない奴がいる。両肩が重くなった。それでも創造主に対する恨みの念は変わらないと雲一つない空を睨んだ。
「言われなくても創造主を」言い終える前に真正面の空が歪んでそこから、黒い空熊に乗った死に神課の二人と、その二人に縄で拘束されて二頭の空熊の真ん中に雪は足場なく、宙ぶらりんになっていた。まだ、意識がないようで気を失っている。「倒す? なんで! 雪!」
その言葉に雪は反応して、僕に優しく微笑んだ。生意気ばかり言ってしまった僕にいつものように微笑んでくれた。
「殺すって言いなさい! 少なくとも私はゲロリーチェちゃんの大切な者は全部、殺してあげる。揚羽のようにね! 怒ったのなら私に奥義を見せなさい。プリーズ、ゲロリーチェ」
挑発してくる創造主の頭に今すぐ、太陽の子の刃先を沈めたい衝動に駆られる。まだだベアトリーチェという声と、見せつけてやれという声に板挟みになって、僕はペガサスの口から飛び出した刃先を見つめていた。
正しい答えなんて解らなかった。だから、一番強い感情に身を委ねた。静かに力を解放する呪文を口ずさむ。それは人の発する言語ではなかった。不気味な発音の節々に口笛を交える。「罠だ! ベア様、ベアトリーチェ!」という雑音が聞こえたが関係ない。ただ、太陽の子から伝う力が光の繭になって全身を包んでゆく。
永久ちゃんという声と、優しい石鹸の香りがした。
僕は繭の中で時が満ちたことを自らに伝える。
「歪曲の羽根、開花」
思ったより大人びた声が、自分の口から解き放たれるのにびっくりした。
その動揺を抑える間もなく、白光が晴れる。背中がむず痒かった。その理由は外の光が漏れていくのと同時に解った。胴体を包むように角のない四枚の羽根が在った。その羽根を自分の意志で開いた時、羽根から淡い光がこぼれ落ちた。
前後する羽根の動きから蝶の羽根だと判断した。
妖精である僕に羽根がある事は考えるまでもなく、当たり前なのだが今の今まで自分の羽根を感じた事がなかった。
僕は嬉しくなって胸を張って周囲を見渡す。
周囲は色を無くしていた。白黒しか画像が表現できないテレビがあるのを液晶テレビの番組で知ったが、肉眼でたった二色の世界を目の当たりにしたのは初めてだ。
白と黒という単純な色には奥行きがあった。色の明るさや濃さが部分部分異なっていた。それを観察していると、僕は李緒の屋敷にあったイルカのにゃーがプールの水面から跳び上がっている水墨画を思い出した。
いくら奥行きがあっても色の少ない世界はもの寂しかった。
それに……
「空を飛んだ、ベアトリーチェが?」と驚く雪の声はとても遅く再生されていて、驚いているようには感じられず、滑稽だった。
「動かない? 身体が!」と恐怖に震える役人達の声も、動きも緩慢だった。こんな相手が揚羽の仇だと思うと尚、憎悪が心に降り積もった。
「なんじゃ、これは?」というルーベリのくぐもった声で、緊張しきっていた僕に笑みをもたらしてくれた。僕はその表情のままに雪の顔とルーベリの顔を交互に見た。
「安心してルーベリ、雪。これはベアトリーチェが支配する時。産まれなかった命の世界に流れる創造主の時を少し殺したからベアトリーチェしか動けない」そう言葉にした時にはもう、完全に僕以外に動ける者はいなかった。全てが停止していた。空を飛んでいる鳥が磔にされたように止まっていた。その鳥の瞳は何処か遠い僕の知らない所を目指しているような気がした。僕はそんな輝かしい瞳を持っていた子を知っていた。また、荒波が僕を襲う。「どうした? 苦しい? 揚羽はもっと、苦しかったんだよ? 窒息しなさい」
と言った。喉を押さえもせずに泊目を向いている役人の一団から一人を無作為に選んで、その大きな剣を両手に構えた男性を観察する。当然ながら声さえ発せないで、呼吸無しの無音だった。彼の命を繋ぐ物は全て、彼の身体にあった。そう、僅かな時間だけ生きられる岸壁に、彼はしがみついているだけだ。
「揚羽だって息苦しかったはずだよ」
そう言った僕は溜息を深く吐いてから、男性の顔をまた、観察すると顔が反対意見を述べているような気がした。
「だが、それも一瞬? って顔をしてるね。でも! もう、揚羽はベアちゃん号には乗れないんだ。僕とアイスクリームを交換し合うことだって! これから、僕と中学校に通えないじゃないか!」
「中学にあの子が……揚羽。君は本当にベアトリーチェの親友だった」
僕は雪とルーベリや空熊達はただ、動けないようにしているだけにしていた。だから、雪の嘆きの声が聞こえてきた。雪はやはり、僕をよく解っていた。本当に揚羽は親友、竹馬の友とも言って良いくらいの存在になり得た。いや、だったんだ……。
ここまで何度も流した涙がばっーと堰を切って流れ出した。涙を両腕で拭いながら、僕が創り出した時間を溶かしてゆく。雪達の時間は完全に創造主の支配下に戻したが、役人達の時間は違った。完全には溶かさずにそのまま、僕の時間を固定した。
しばらくすると骨が軋む音が周囲から聞こえてきた。それは最大級の恐怖が訪れる前の合唱だった。
「ああ、痛いんでしょう、役人さん」と僕は淑女らしい穏やかな笑みを浮かべて、屈強に強制的に挑もうとする者を歓迎する。「それはね、こういうことだ」
と言ったタイミングと僕の時間、創造主の時間の間に役人達の身体が押しつぶされるのはほぼ、同じだった。
トマトを押しつぶした時のように頭の天辺から役人達は血を流し始めた。その亡骸達は僕の時間の効果がまだ、続いているせいで空に浮いていた。
「僕は幼いから創造主の時を完全に殺せないんだ、創造主様。こっちがオリジナルの奥義 破壊の檻」
「頭の良いガキね、あんた悪魔だわ」
そう言ってからこの檻と僕がいた最悪な悪臭漂う檻とを掛けた皮肉であったことに気づき、創造主は人目を憚らず爆笑した。
部下が死んだというのに労いの言葉も掛けないなんて……と、僕は人間性の欠落した悪魔に恐怖を覚えた。理性が怯えている、本能も怯えている。創造主と闘ったら殺される。
「悪魔に言われたくない」
だけど、僕は強がって見せた。
「リーチェの奥義は打ち止めじゃないかな。奥義を撃ってくれた悪魔さんからのご褒美! 次は私の奥義を見せてあげる。ごらんなさい、圧倒的な絶望を」
「え」その一言しか言葉を発せなかった。後は口が糊付けされたように堅く閉ざされてしまった。羽根のむず痒さと、背と羽根を繋ぐ感覚が麻痺してゆくのに気付いた。何とか堪えようと必死に羽根をばたつかせた。
けれども太陽の子の力が乏しくなった僕には為す術がなかった。僕は時間の流れ、常識の流れに耐えきれずに森へと落ちっていった。
僕は必死に雪と心に言葉を描いた。落ちるまで何度、何度、愛しい名前を描けるだろうか。そうだ、数えてみよう。
ベアトリーチェが落ちてゆくのを雪はまざまざと見る。身体は既に空中へと投げ出されていた。長い縄を腕に括り付けたまま、ベアトリーチェだけを目指して強風に挑み続ける。
強い眼差しが、意志の力が一瞬という尺度を限りなく引き延ばしてゆく感覚は生暖かい。雪の身体を熱い血が駆け巡ってゆく。脳は必要以上に情報を製造する。その中に母親の記憶があった。
窓から流れ込む五月の緑風に優しく包まれた喫茶店、みゃあなん♪でのやり取りが鮮明に頭の中に描かれてゆく。
「雪君には何としても守りたい人っている?」
甦南は娘である永遠の軽々しい微笑を浮かべて、テーブルに砂糖の入っていないコーヒーと熊の形に切り抜いたクッキーの乗っかったパフェをそっと置いた。パフェを食べるはずの小さなリーチェは雪の肩に寄り掛かって寝息を立てていた。その寝顔に陽光が差し込んでいて白い肌を神秘的に引き立てている。
「あります、妹の永遠とベア様です」
ベア様と言った時、雪はベアトリーチェの額に浮かぶ汗をハンカチで拭い取った。それに反応して小さなリーチェの眉がぴくりっと跳ね上がった。
「小さな女の子に様付けってまるでその子は雪君のお姫様ね」
いつも兄をからかう永遠の言ったお姫様という言葉を甦南が使った。雪はやはり、この物腰の柔らかい、何処か永遠の無邪気さに悲壮感をブレンドした顔立ちの女性が母親なんだと再認識した。自分は一番、幸福な産まれなかった命かもしれないと雪は甦南に愛想笑いをした。ベアトリーチェが物惜しげにもぐもぐと口を動かしてるのを見てもそう思った。
雪は風が自分の頬を下から上へと通過してゆくのを感じたが、その瞬間、下から上へ、右から左、左から右へと通過する風の圧力をも感じた。それは複雑と呼べた。自分の心も複雑だったがある一点の方向のみを目指している。自分にそう言い聞かせる。くそったれの雪! お前の大切な……
「信仰しているんじゃない。俺にとってベアトリーチェはお姫様なんだ! 俺は姫様の騎士でありたいだけだ、リーチェ」
もぐもぐと蠢いているリーチェのプチサイズお口にパフェのクリームとプティングの乗ったスプーンを近づける。リーチェという囁き声で雪の声だと判断したのだろうベアトリーチェは緩慢に口を開く。ベアトリーチェは雪に気付かれないように薄めで雪の喉を見上げる。喉の形の整った出っ張りは純真な恋心を唸らせた。雪がコーヒーを飲む度に上下する喉をも愛しく思えた。それも雪の一部なのだから。
今もベアトリーチェは薄めでぼやけた雪の青ざめた顔を見ていた。やっぱり、偽りのない誠実な雪……。これが最後になっても良かったかもしれないと思う。でも最後はキスで終わりたい、今までのように。
「その時、俺は命を投げ出してでもベアトリーチェを救わなきゃって思ったんです」
みゃあなんのエプロンを外して正面に座った甦南に、雪はベアトリーチェは遠い親戚の子どもで最初に合った時から雪に懐いていたと嘘を話した。懐いていた事は確かだった。
「それが正解かしら、雪君。ベアちゃんはどうなるの? その子も女の子なんですよ?」
「ベアトリーチェは誰にも渡しませんって言う日が来るんだろうな」とコーヒーを飲もうとカップを傾けてもコーヒーの液体は口に触れない。「でも、嫌だな」と無理矢理、取り繕う。変な顔になってしまった。
「ただ、ベアトリーチェを離したくない」
とつい、本音を言ってしまった。その本音を聞いたベアトリーチェは雪のワイシャツごしの肩に口づけをした。顔を擦りながらしたので、本人は気付かれないだろう。
「その心は?」
「それよりもおかわり下さい?」
「その心は?」
「おかわり……」カップを甦南に渡そうとするが、やんわりと首を振って断られる。まるで永遠の兄甘えが乗り移ったかのようだ。「解りましたよ。でもね、解らないんですよ」
青だけの世界は外界の情報を遮断して、何者をも近づかせない。だが、雪とベアトリーチェは迷い込んでしまったようだ。
不思議と意識は静まらないと二人はやけに冷静に互いを見合いながら考えた。安心感さえもあるのは感覚があまりの恐怖で麻痺しているからだろうか……。人の死の準備はこんな静寂を伴うものなのかもしれない。
「雪、ずっと一緒に居て」
雪がいるから何百年も生きられたんだ。
雪に向けてベアトリーチェは手を伸ばした。
「ベアトリーチェ、ずっと一緒に居て」
小さなベア、君を子どもらしく笑顔のままに育てるから。
小さなお姫様に雪は手を伸ばした。
二人の両手は繋がり合い、気持ちはすれ違った。だけど、二人は錯覚した、繋がりあったと。
これで終わるのか、小さなリーチェ?
終わらないよ、まだ。僕は死ねない、死ねない、死ねない。雪と永劫に結ばれない!
ベアトリーチェの朱い瞳から涙が溢れた。雪はそっと拭ってあげたかった、いつものように。
目を覚ました李緒は目を擦り、辺りを見渡した。まず、自分は何故か、迷彩服柄のズボンとノースリーブのシャツを着ていた。脇から胸の形や、一部がチラリズムしている。恥ずかしくなった。了の餌食に成りかねない服装だ。
「李緒、夜明けの山をドライブしねぇか」
と言われそうだ……。羽織る物を探さなければならない。
背後には螺旋階段への門があり、前方には空熊を遊牧する草原が広がっていた。左右には柵が設けてある。空熊は飛行できるので、私有地と公道とを区別する為であろう。遠方にはみずぼらしい空熊舎が見える。看板に白空熊牧場と記載されていた。
「ここは天国でしょうか? 何やら知っているとこに似てますけど」
視界に見知った人物が佇んでいたので戯けた。その人物は皺の寄った顔には似合わず、機敏でまだ、若々しく見えた。迷彩服を着込み、両肩にライフルを背負っていた。帽子を深々と被り、いつもよりも厳しく思えた。
「それならば、わたくしにここが何処か、説明して下さらないかしら、李緒」
「祖母様」「はい、李緒」李緒の祖母、那世燕は孫の前で微笑むような平和な顔を持ち合わせてはいない。常に自分の中に住まう何か、とてつもない怪物と闘っているように眼光が鋭い。笑っている時でさえ油断しない。「私はまだ、若いですから三途の川を渡るのでしたら一人で渡って下さい」
当然のことながら李緒の戯れは通用せず、ぎくしゃくとした空気が孫と祖母の間に流れた。その時間を無駄にせずに燕はライフルの状態を確認する。ここへ来る前に階段で遭遇した稲妻には触れなかったようだ。あちらこちらに傷はあるが、この傷は数々の歴戦を耐え抜いてきた勲章のようなもの、誇りだ。
「おふざけにならないで下さい」
そう言いながらも燕は孫が生存しているのを喜ばしく感じ、ライフルを向けて戯けて見せた。
「祖母様、孫の李緒ですよ、銃を向けないで下さい」からかっているのだろうけど、目がやりそうなので、李緒は両手を挙げながら苦笑した。「ここは産まれなかった命の世界です」
「天空の上にこんな場所があるなんて何やら素敵ですね」
「素敵なんかじゃありませんよ。ここは産まれる事を強く望んでいた命が長い旅の果てに辿り着いた産まれなかった命の流れる先なんですから」
そして、ここは産まれなかった命達が創造主から役を貰って、演じる場でもある。それ以外に魂を保つ方法はなかった。いわば、奴隷だ。だが、それが普通で、疑問を持つ事は異常として排他される。産まれた世界にはそれがないと信じていたが、ただ前提が変わるだけで排他という結果は変わらなかった。
社会というコロニーである程度の自由と束縛を押しつけられて生きる産まれた命の世界と、役を演じていれば仲間外れにはならない産まれなかった命の世界。
何処かに素敵な場所があるのだろうか? そんな憤然とした疑問を今は蹴飛ばした。雪達と合流しなければならない。だが、その前に……。
「羽織るものを下さい。祖母様だけ上も迷彩なのは狡いです」
「若いときは多少のワイルドさは必要ですよ」とウィンクする燕。
「そのままの勢いで過ごして、年寄りの冷や水にならないように気をつけます」とライフルを一丁、渡された辛辣な口調のお嬢様李緒。
吉村は青々とした空を見て、今日も平和だなと思った。それもそのはずだ。創造主の退屈凌ぎがなければ、酷い状況にはなりはしない。吉村は青い制服が自分の身体に窮屈なのに気が付いた。プラットフォームへと続く石階段を毎日、上がっているし、今も上がっている。それを一日に何十回と繰り返しているのに何故だろう? と頭を捻った。膨れた腹部に手を添える。
「今日も愛妻弁当か、吉村」
同僚の鶴瀬が吉村の腹を軽く叩いてから振り向いてそう言った。鶴瀬は使い古した革製の鞄と、駅前にあるコンビニエンスストア、りゅうりゅうのビニール袋をさげていた。
「うらやましいだろう、鶴瀬。お前も早く妻でも迎えろよ」
吉村は背伸びして、ビニール袋の中身が蕎麦(三百五十円)と緑茶のペットボトル(百五十円)だと確認してそう言ったのだ。
「それはないんだわ。俺、一生独身って役所からそういう役だっていう通知をもらっているからな」
何とも思っていないという風に笑ってみせる鶴瀬だったが、その笑いは吉村自身も自分の顔に浮かべたことのある表情だった。突然の結婚通知を断ると束縛課に逮捕され、廃棄課に処刑される未来しかない。だから、絶望をこうやって友人と会話できるだけありがたいという希望に被せた。その笑いだ。だが、自分にはもうすぐ、本当の幸福が訪れる。それも子どもを産んでも良いという通知が届けばだが……その子どもは自分の子ではなく、役を逐わされた赤の他人だ。だが、本当の妊娠のように産まれてくる。全ては創造主のあるがままに……。
吉村はズボンのポケットに入れている携帯電話を握り締めた。幸福を下さい、と。
「選定学園の生徒になれば良かったなぁ」
鶴瀬は何の深い考えもなく、そうぼそっと言った。だが、吉村はその言葉に過敏な反応する。二番線へと向かう鶴瀬の肩を引っ張り、無理矢理こちら側を向かせる。
「止めろよ、あんな恐ろしい所。世の災いって呼ばれているベアトリーチェが、地下室で飼育されているって話だぜ。暴れ出したら喰われるぞ」
吉村の不規則な息が頬に掛かるのを感じて、鶴瀬は全くこの感情屋は昔から変わらないという安堵に、肩を上下に動かして戯けてみせる。
「馬鹿、真剣に捉えんなよ。今更、役は変わらないよ。動き出したエア・トレインが止まらないのと一緒だ。今日は俺、真湖駅方面だ」
そう言って、鶴瀬は二番線の黄色い白線の前に立って、自分が運転する予定のエア・トレインの来る方角を眼を細くして観察した。旧時代の遺物である線路は二年前に解体され、線路の設置されていた箇所は雑草が生えていた。だが、エア・トレインの着陸には支障はないだろう。それは空熊にしか備わっていない浮遊袋(浮遊袋は空熊を自由自在に鳥のように羽ばたかせる臓器)という臓器を各車に積み込み、空熊の生きた脳を利用してそれらを統括し、その脳をパソコンで管理しているからだ。
「俺は世界市役所方面だ。貧乏くじだ。俺、死に神って苦手」
吉村は弱々しく今にも倒れそうな声で自分よりも背が高く、逞しい肉付きの背に向かって発した。
「得意な奴なんているのかよ。いるとしたらベアトリーチェ級の化け物だな」
「違いない」
吉村は連中の黒塗りの訳の分からない顔を思い浮かべて、鼻に皺を寄せた。ほとほと、連中は人を殺す以外、頭にはなく、それを嬉しそうにトレイン内で話すのだから始末に負えない。それも生々しくだ。
吉村は三番線に停車していた水色と白の爽やかな二線が何度も交差してジグザグを描いているエア・トレインを眺めた。今日はこいつか……と口に出さず呟き、ポケットの中にある小さな灯火に触れた。運転車両の扉の縁に右掌が触れた。左手には赤いスカーフで包み込んだ愛妻弁当と購入したばかりの黒い鞄が握り締められている。頭の中で忘れ物がないかと確認する。ないはずだ。身体をエア・トレイン内へと進ませる。
扉が低い唸り声を立てて、閉まる。
すると、待ちくたびれたとばかりに大あくびをして、吉村の前を淡いビー玉付きのゴムで左右に黒髪を結わえた少女が横切った。少女のあどけない顔立ちと背の低さから十四歳くらいと考えたが、胸に視線をやるとその年にしては日本人離れした大きさだ。頭を捻り、困惑の表情を浮かべた。
「私も死に神は嫌いですね。でももっと嫌いなのは創造主です、吉村さん」
「あんた、誰?」
「美少女エア・トレインジャック犯 とわたん」
吉村の喉元に噴水のようにとわたん? の手から流れ落ちる冷水が当たる。ひんやりとしていた。まるで井戸の底水だ。
「とわたん?」
困惑と馬鹿にした表情が交互に芽生えている吉村というエア・トレインの運転手を観察して、まだ私の怖さを理解していない事に気が付いた。小娘では到底、手品レベルでは出来ない魔法を構築するべく神経を研ぎ澄ませる。右掌の水の圧力をそのままに……左掌から水の圧力を放て!
勢いよく、飛び出した水流は容赦なく黄色い花びらの美麗な向日葵が浸かっている花瓶を見るも無惨な欠片へと代え、そのまま、勢いは衰えずに灰色の壁を数ミリ削る。どうやら、兄様とベアトリーチェと離れて兄様譲りの冷静さが翳りをみせているらしい。だが、効果はあったようだ。吉村は弁当の包んだ赤い包みと黒い鞄をすっと、手から落とした。顔は一瞬に血の気を無くしている。茫然と私を見ていた。その視界は虚ろだ。
「動かないでこのとわたんビームは鉄をも砕くんだから!」
駄目押しの台詞を言い放った。
右腕に三歳くらいの女の子を抱えて、了が戻ってきた。その顔は苦渋に満ちている。女の子はきょとんとしていて自分の身に何が起きたのかを理解していないのか、あるいは恐怖のあまり思考が停止してしまったのか大人しい。
私は了に手招きして、了の胸部が届く距離にまでくると、その胸部を容赦なくぶん殴った。了は身じろぎ、一つしない。
「可愛い人質なんて取らないでよ、まるでゴリラよ。そうだ、今日からゴリランにしな」
「いや、ゴリランじゃねしぃ。ともかく、この子以外の乗客は降りたぜ。それによ、俺とお前は犯罪を犯しているんだぜ。幾ら、雪やベアトリーチェの命を救うっていう大儀があってもそれは変わんねぇ。交通手段がないからって犯罪は犯罪。もう、手を抜かないでやり切るしかないだろうよ」
強い眼差しで私を凝視しているポニーテイルの女の子は体格に合わないシャツとシャツに隠れそうな半ズボンといった服装だ。両頬が真っ赤で可愛らしい。このくらいの女の子がそんな眼差しを見せる事に私は微かな同情を覚えた。
憎しみ……自分を破滅に追い込むほどの憎しみ。四歳児のベアトリーチェと今のベアトリーチェが隠すことのない憎しみ。
「それでもベアちゃんはこんなの許さない! 兄様だって許さない! だから……」
ただでさえ、憎しみという負を抱えている女の子に重圧を与えたくなかった。私は吉村を放って、了から女の子を掻っ攫った。そして、女の子をそっと、床に降ろした。
吉村に命令して扉を開かせようと考えた時だった。
「お姉ちゃんにもお兄さんがいるの? 私にもお兄さんがいたし、ママ、パパがいたの。でもね、私が車にごっつんこしちゃうってお知らせが来てね。それからいなくなったの、みんな」
静かに私を見続けている黒い瞳は、私を見ているのではない。非力な自分と共に復讐を果たしてくれる同士を見ているのだ。この世界で本当の死を与えられるのはベアトリーチェと創造主しかいない。どんなに致命傷を負っても、いずれは回復するように創造主の掌にある。復讐すべき相手は創造主。何とも途方もない修羅の道だろうか。その道をまだ、足下の覚束ない小さなアンヨで歩んでいる……。
「え?」無駄だろうと思うが私は聞こえない振りをした。だが、女の子は直ぐさま、私の膝に爪を立てて怒りを露わにした。「創造主に壊されちゃった。もう、直せないの。お姉ちゃん達、創造主を壊す人でしょ。視葉、嬉しいの。視葉も仲間に加えて!」
言葉を紡ぐ度に爪が肌へと食い込んだ。痛みを感じたが、折れる訳にはいかない。ベアトリーチェの顔と視葉の童顔が重なる。
「駄目だよ!」「どうして!」「お姉ちゃんは正しくないことしてるからだよ」「創造主だって壊した。正しくない!」「違うよ、創造主が世界のルールなのよ。だから、創造主は正しい」
私は乱暴に視葉のシャツの襟を掴んだ。視葉は激しく左右に身体を揺さぶり、尚も抵抗し続ける。扉を開閉する壁に設置された緊急用のレバーに触れようとしたが、腕を了に強く掴まれた。了は怒りに震えて、唇を小刻みに動かしていた。
「おい、降ろすなよ、そいつを。降ろしたって、創造主に決定づけられたクソみたいな未来が待ってんだ。こいつに与えられた明日は最悪だ」
了の主張を理解した。ここで視葉を降ろせば、創造主の用意した浮浪児としての未来がまた、始まるのだ。そう考えてからよく、視葉のシャツを見ると目立たない肩の端や、脇に汚れがあった。多分、この子なりに必死で洗ったんだろう。この子はベアトリーチェと同じ両親のいない境遇にいる子なんだ。
「ゴリラン君の言う通りだ、ほら、見てくれよ」
生気のない哀れな声を発した吉村の手には液晶が開かれた携帯電話があり、それを私達の眼前に見せつけた。
―中絶通知書
残念でしたん。あんたはお子様を授かりませんでした。これからも私の可愛いお人形でいなさい。そうすれば、私の気が変わるまで生かしてあげる。ばぁーい♪
創造主―
この文面が使い回すしだという事実は産まれなかった命の世界の民ならば誰でもが知っていた。
「結局、正しい事が幸福に繋がるなんて論理は成立しない。俺とこの子を創造主退治に加えてくれよ」
「結局はそうなるんだろうけど……」顔面を小刻みに震わせて、充血した瞳を隠す事無く吉村は自分の希望する回答を与えてくれるのを辛抱強く待っている。このままだと感情が爆発しそうだと、吉村の頬から流れる涙の礫が語っていた。視葉の動かない透き通った黒目が私も、と語っていた。だから、私はどうしようもない復讐者達に敬意を表する。「やる気満々ね、解ったわ」
私はそう二人に言ってから、背後の扉に背をもたらせた。緊張が一気に抜けた。無邪気な復讐者 視葉も私と同じようにした。吉村はにやりと少年のようなしてやったり! という笑顔を浮かべて運転席へと座る。既に起動状態であるパソコンを操作した。すると数秒もしない間にゆったりとエア・トレインが浮かび上がってゆく。
どん! どん! どん! どん!
「発砲? 役所の人間か! 興味ねぇんじゃなかったのか」
どん! どん! どん! どん! という音が再度、聞こえた。運転席にいる吉村以外の者は警戒に満ちた険しい目でそこら中を探る。視葉は燃えるゴミ箱が設置されている壁の中を調べた。鼻を摘んで嫌そうな顔を私に向ける。了は床を女性にお茶を持ちかける時のように丁寧に観察していた。私は天井をゆっくりと眺めていたが、無数の穴を発見した。その穴から刃が生えて、見る見るうちに輪切りに天井の一部が足下に落下してきた。そんな漫画みたいな! と思っている間に我が親友、那世李緒とその祖母、那世燕が華麗に両足を揃えて埃一つない床へと着地した。但し、二人が破壊した天井の一部がある。
「わーちゃん、親友を置いて行くのは酷いでしょう」
という言葉よりも、お年を召された燕が恐らくは死に神から強奪したのであろう大剣を軽々と担いでいる姿に開いた口が閉じず、茫然とした。
しばらく、間を開けて、私の目の焦点が迷彩柄のズボンに茶色いカーディガンを羽織った李緒と合った。
「おお、美少女エア・トレインジャック犯 りったん。逢いたかったぞぉ」「逢いたかったぞぉ」
私と李緒はしばしの別れがどれほど、辛かったのかと表現すべく、大袈裟に抱擁した。李緒には口が裂けても言えないが、李緒の肩に付いた余肉が顎に触れて、四歳のベアトリーチェと行った遊園地にある休憩所で巨大なボールと戯れた感触を思い出した。ぷに、ぷにっ! と。
「自己紹介の後、雲村雪とベアトリーチェの救出。その後、ベアトリーチェが騒ぐだろうから創造主退治という流れになるけど、よろしいでしょうか?」
年配者である燕がそう口を開くと、みんなが静かに頷いた。
自己紹介をした後、しばらく互いの好きな食べ物や、嫌いなスポーツ等といったたわいもない話題で盛り上がった。選定学園(別名は世界が産まれる地)が近づくに連れて、吉村以外は小窓や扉に設置された窓から外をまるで興味が惹かれるものがあるように見続けていた。静寂を壊すのはパソコンが放熱する音だけだった。
得体の知れない緊張を解せずに、それがどんどん自分へと満ち足りてゆく。
そうじゃない、と私は木々を眺望する。ただ、緑色は平和を象徴していた。そこには争いもないように感じた。だが、目を凝らすと白い空熊や役人達が落下するのが目に映った。「白空熊! ベアトリーチェ!」と私は無意識に言った。顔面が扉の窓へと密着するような自分と扉の窓とのスペースのみを確保して、ベアトリーチェを探す。すぐにベアトリーチェ……そして、兄様を目に捕らえた。急がなければならない! 私は数歩、背後に跳ぶと同時に水流を放った。水流は当然とばかりに扉を押し流した。その破裂音に近い音にたじろぎ、私のした所業を確認すると、
「寒いじゃねぇか!」了が叫んだ通り、冷たい暴風が容赦なく襲いかかる。風は了のつんつん頭を平らにしていた。「お姉ちゃん! 凄い! 不思議パワー?」何処かで聞いた事のある名称を発して騒ぎ立てる視葉の頭を撫でて、李緒が「あれは水の圧力で、魔法ですよ」と答えた。「状況を報告してくれ、運転でキーボードから手が離せない!」と吉村が叫ぶ。燕だけが状況を把握しているように黙り込んでいた。
「もうすぐで私の兄様と、可愛いお姫様が釣れるわ」
案の定、水の中にベアトリーチェと雪を引き連れて、途中でUターンして水流は戻ってきた。勢いは止まらず、反対側の扉をも押し流して水流は地上に流れていった。ずぶ濡れのベアトリーチェと兄様という釣果に視葉と吉村以外の乗組員は満足していた。
気を失ったベアトリーチェを両手で包んで足を伸ばし、壁に背を持たれて座る雪が吉村や視葉に自分とベアトリーチェの紹介をしてようやく、視葉と吉村も微笑みを浮かべる。
兄様に包まれて寝息を立てる幼いベアトリーチェを一瞥すると、私は何だか苛立った。似合いすぎる。
ベアトリーチェは途方もない闇の中をとぼとぼと、と歩いていた。何処までも黒一色か、と溜息を吐こうとした時だった。頭上から淡い光が落ちてきた。
その光がベアトリーチェの小さな薬指を止まり木にすると喋り出した。
「揚羽を守れなくてごめんね、やっぱりあたしは泥饅頭だ。自由に飛べる蝶と、優しいお兄ちゃんとお姉ちゃんのいる幼いあんたみたいな子の友情を壊してまで生きる権利はないよ」
「よく解らないけど、僕は本当は深希に生きて欲しいんだ。死ぬな!」
「知ってたよ。ただ、死ぬ機会が欲しかったんだ。泥饅頭が死ぬに値する場所が、時が欲しかったんだ」
そう言い残して、ベアトリーチェの身体へと淡い光は吸い込まれていった。その光が声なき声で囁いた。ベアトリーチェに力を返すよ、と。その声は安らかだった……。
ベアトリーチェは瞼を開いた。すぐ、目に映ったのは雪の床に投げ出された両足だった。それだけを材料に安全だと決めつけた。
「深希が……深希が死んだ。僕が死ねって言ったから。僕が、僕が」
ひく、ひくとしゃくり上げるようにして号泣する小さなリーチェをお前のせいじゃないと包み込もうとした雪の手を退けて、目にも止まらぬ速さで小さな頬を燕は平手打ちした。
「命をなんだと思っているんですか! 少なくとも以前の貴女はそれを理解していたはずです」
「祖母様」と李緒が非難の視線を浴びせるが、燕は浴びせ返した。「ベア大丈夫か?」という雪の優しい言葉も「甘えさせるな、雲村雪」と燕は言い、突っぱねた。
「貴女が殺したのよ、ベア。でもね、それを裁く法律はないわ。ベアトリーチェの介入か、創造主の介入がない限り、深希を覚えている者もいない。どう自分を裁く?」
「僕には裁けないです。僕は一生、苦しむしかない」
燕の毅然とした言葉は深く、心に杭を打ち込んだ。ベアトリーチェは怯え、仁王立ちする燕の様子を見上げ観察する。しわくちゃの顔が石膏のように硬そうだった。
「そうよ。命を何かで補うのは不可能です」
深希の命を奪った喪失感が幼子の心に暗い影を落とすが、幼子の純粋な復讐心を汚す事は何者にも出来ない。ベアトリーチェは気落ちしそうな心を奮い立たせるように「今は後悔の時じゃない」と何度も呟き、涙を擦り、それでも流れるので無視した。
「僕は……命を奪う」それが誰の命か、解った燕は心苦しそうに頷いた。止められない衝動を誰もが一つや、二つ飼っている事を燕は長い人生で学んでいた。「僕は創造主を殺す」直ぐさま、小さな赤い唇から放たれた。まるでぶかぶかな長靴を履いた幼子だ。それを笑い飛ばせない自分は間違っているのだろうか? と雪はベアトリーチェの白い髪にそっと口づけした。
ベアトリーチェは跳ね立つと、座っている雪に
「ありがとう、雪!」と泣いていたのが嘘のように元気よく言うと、早次に「そこのベアちゃん信仰者! エア・トレインを創造主とこにぶっけろ!」と運転席に座る吉村に叫ぶ。まだ、甘みのある幼い獰猛な声を聞いた吉村は咳払いをして「俺?」と険しい表情を作った。誰が身体に合わない作業着を着た子どもの言うことを聞くものかと憤怒したが、永遠がその子どもをベアトリーチェと呼んでいた事を思い出すと「殺さないでくれよ。エア・トレインを世界が産まれる地に衝突させるからね、おちびっちゃん。しっしまった。殺される!」
と顔を両手で隠してゆっくりとベアトリーチェの項辺りを見ようとした。あまりに小さかった為、赤い瞳をまじまじと見てしまった。
ベアトリーチェは吉村の暴言には気付かなかったのか、中腰になって視葉にお姉さん風を吹かせていた。
「そこの幼女。お前は弱いから待機」いきなり、額にでこぴんを喰らわされた視葉は不服そうに「幼女?」と不思議そうに言った。
ベアトリーチェは跳部夜須久を呼び寄せる。そして、扉の方へと向かい、風の靡いている北側へと口笛を吹いた。そのメロディーは森の熊さんだった。真剣に吹いている姿はただの子どもの遊びにしか見えないが、雪は知っていた。そのメロディーが白い空熊の長であるルーベリを呼ぶ事実を。自然と引き締まった顔立ちが朗らかになる。
すぐにルーベリがやって来て、ベアトリーチェはその背中に飛び乗った。暴風が幼子の艶やかな額を露わにする。
「雪、僕は先に行くよ! ルーベリ、高く飛んで」
「承知しました、ベアトリーチェ様」と雪。
「相棒、俺はエア・トレインを援護する」と言って跳部はエア・トレインに残った。
ルーベリは幼子が落ちやしないかといつものように冷や冷やと内心では心配しながら、幼子の自分を奮い立たせる雄叫びに合わせて、速度を上げてゆく。森を一瞬で過ぎ去り、眼下に広がる牧場の草原もただの緑色にしか区別できない高速でかっ飛ばす。目指すはもう目と鼻の先にある選定学園の六階の東棟の端、創造主の部屋だ。
選定学園の外装は塔だ。堅い石で覆われた塔は何者もの攻撃をも通さなさそうだ。幼子は速度を落とす命令を下さない。微かではなく……確信があった。自分の力に貫けない物は存在しないと。
案の定、外壁を踏切の遮断棒を破壊するように粉々に粉砕した。ベアトリーチェは攻撃の意志を示さなかった。必要無かった。太陽の子の持ち主を守る防衛システムである衝撃波がそれを成した。
白鳥が水を啄むようなゆっくりとしたクラッシックが流れている。波紋を無数に湖に響かせるが如く、幼子が二人(一人は幼子の知っている誰よりも背の高い長い金髪の女性、もう一人は面識のない白髪で顔の隠れた女性だが胸の無さに親近感を覚えた)のうち、金髪の創造主の喉を太陽の子を握り締めて身体から離そうとしたが、創造主は口を厳かに開き、ゆったりと微笑んだ。まるで力の差は歴然たるもので飯事にしかならないと。それに気が付いた幼子は深追いの一撃を突く。だが、細い腕は掴まれて、汚れのない白刃は創造主の首の皮に接吻するに留まった。
一瞬、純粋な凄みが衝撃となった。必死に可愛らしい円らな朱い瞳で、自らの意志で選んだ復讐すべき対象である創造主を睨む小さなリーチェの百十センチの幼児体型にそれは余すところなく伝わる。あまりの恐怖に両眼を瞑り、左手を頭の天辺に置いた。右手も置きたかったが、凍り付いたように自由に動かなかった。
「派手な登場ね、ゲロリーチェ。風が気持ち良いわね」
幼子の細腕を掴む指先一つ一つに力が加わった。ベアトリーチェは骨を圧迫されて苦痛に顔が歪みそうになった。だが揚羽の自由奔放な仕草を思い出すと痛みが徐々に消えた。それが左手に拳を作らせて、振り下ろさせた。
拳は創造主の脇腹にのめり込んだ。
何ともなかったように幼子の白い髪を撫でる。撫でた掌でベアトリーチェの背中を引っぱたいた。呻き声が口から漏れるのを聞くと満足したように、創造主は幼子を投げ飛ばす。そこら中、血と人間の臓器の肉で散らばった床に背中から落ちる前に、背中部分の衝撃波を増幅させて床へと放つ。僅かに身体が上がったのを確認し、中空で身体を起こしてレースアップブーツで床を踏みしめる。水気のある音がした。ルーベリが話していた自分の後を継いだ飼育係だと思うと込み上げてくる同情の念を覚えた。その感情からきた僅かな幼子の黙祷の時間を妨げる靴音が部屋中を包み込んだ。
ベアトリーチェが視線を上げると、白い髪に覆われた紅色の瞳が眼前にあった。知らない人間に自分の朱い瞳を覗き込まれているのに、ベアトリーチェは恥ずかしさに萎縮した。
「久しぶり。この時間の周期では初めましてになりますか。時の管理者の時間です」
その淡々とした口調に悪意はなかった。だが、創造主以上の威圧感が穏やかさに内包されているのを、子ども特有の優れた警戒心でキャッチした小さなリーチェはすぐに退いた。靴底にある雪の写真が叫ぶ勇気を与える。
「お前が黒幕か! 僕には解る。お前がそこの雌猿よりも格上の猿だろう」
「私は中立です。ただ、見守るために存在しています。尤も太陽の子の力を一パーセントも引き出せない幼子では、太陽になれない出来損ないに適わないでしょう」
その口調に腹を立てた様子もなく、まるで侮辱混じりの言葉を風に撓る木々のようにいなしている。この不気味な存在は何だろうと、険しく時間と名乗る人物を眺める。時間の腰には鎖に繋がれて、
「太陽の子!」
が淡い光を放っていた。幼子の手にする太陽の子にはない虹色の輝きだ。
もはや、それを見つけてしまっては幼子も臆病風に曝されるしかなかった。自分でも気付かないうちに後退りしている。苛立った。その苛立ちを払拭させてくれる騒々しい機械音が部屋に開いた不格好な穴を目指して、徐々に大きくなってくる。思わず、顔に希望が灯った。
幼子が開けた大穴からエア・トレインがゆっくりと入ってきて着陸する。創造主はよくもまぁ、と独り言を言いながら拍手をした。その拍手はベアちゃんお仕置きショウにご来場頂いたお客様への律儀な挨拶だった。
「太陽の子は時に近い者が振るう。創造主は怯えているようですよ、永久? 完全ならですけど」
僕は永遠お姉ちゃんじゃない! と強い怒りを内に秘めながらも、中立と立場を口にする誰よりも強い時間に攻撃するのは馬鹿のする事だと決め込んだ。八つ当たりのように創造主に向かう。
その時、誰かの舌なめずりをする音と「まだ、足りない。何度、繰り返しても同じ」というおぞましい悪霊の如き、地鳴り声が耳に入った。
一瞬、ツンデレべあというからかう在りし日の死人の声を聞いた。首を振り、幻聴を否定する。俊足を使用しなければ、時の瞬きを構えた創造主には万に一つ、勝利の可能性はない。
時の瞬きは創造主の手中で鋭利な矛先をぎらぎらと輝かせる。銀色の龍と金色の龍が長い柄先から何度も絡み合い、啀み合うような瞳で双方、矛先まで上り詰めていた。
幻聴が呼び起こす罪の重さに耐えようとする幼子の声とは、別の力で動いていると錯覚するくらい、人外の速度で創造主に衝撃波を撃ち込む。同じように見えない力でその衝撃波は意図も容易く、相殺される。
相棒、跳部夜須久が無言のまま、ベアトリーチェの窮地に援護の射撃を始める。火薬の厳つい音がほぼ、絶え間なく、続く。それが切れたらこの世から追われるかのように……。
創造主が弾丸を凌いでいる隙にさらに加速する。目を開けていられないほどの風に煽られる。身体の節々が幼子に危険を知らせるように冷や汗と痛みの予感を脳に伝える。
止まれない!
捕らえた! 矛先を振り払おうとした。だが、それはびくともしない。おかしい、何かがおかしい。恐怖心がひしひしと幼子を締め上げると、同時に細腕が掴まれた。
目を開くと、時の瞬きが何もない中空で固定されていた。時の瞬きはびくともしていない。太陽の子の奥義である歪曲の羽根と同じ小範囲の時間操作だ。
その大胆な使用法に驚愕している幼子の両頬を挟むように片手で掴み、創造主は猫撫で声を放つ。
「同等の力でも幼女の身体能力と頭脳じゃあ、幾ら挑んでも勝てない。世の中、厳しいんだなん、げ・ろ・り・ー・ち・ぇえええ」力が加わるのを感じたベアトリーチェは「止めて、僕の腕を折らないで」と喚き散らして、掴まれていない左手を拳に変えて創造主の腹部を懸命に叩いた。叩く度におかっぱ頭がゆらゆらと揺れる。
「相棒を離せ! 年増!」
跳部夜須久が創造主の高い鼻をへし折るべく、引き金を引く。低い爆発音に怯えずに、創造主は子守歌を歌い出した。
「子どもは夢を見て心を育てる
心を育てた子どもと子どもはいつか、愛の夢を見る
愛の夢は正夢となって新しい夢追い人が生を受ける
愛という羽根ペンで綴られる無限の物語
子どもは夢を見て心を育てた」「懐かしいでしょう? 永久?」
創造主に向かっていたはずの弾丸が虚しい音を周囲に披露して、その醜態を床へと曝す。跳部夜須久にはもう、創造主に立ち向かう術がなかった。それでも、奇跡を信じて、彼は必死に相棒と叫び続ける。
「ベア様! 創造主!」と雪の言葉と共にトランプのジョーカーが創造主へと向かう。「止まってくれ」と了の指が地面へと降ろされる。それはオルガンを両手で激しく弾く凄みにも似ていた。それが重力の変動を呼ぶ。「水の圧力」と永遠が掌から刃のように鋭い水を発生させ、光陰矢の如く、飛ばす。「何処まで人を虐め倒すの!」と胸元を押さえながら李緒はありったけの炎を天空より降らせる。四人のベアトリーチェ信仰者達の思い思いの英断はほぼ同時期だった。だが、その英断をたった、一叫びで粉々に粉砕される。
「蠅の分際で!」
と創造主は獣のみたく吠える。創造主に向かうトランプも、重力変動も、水も、炎も在らぬ方向へと軌道を曲げた。
創造主が我を取り戻して細腕を解放した時には、ベアトリーチェの腕は変な方向へと曲がっていた。心の中で弱い人間は所詮、強い人間の玩具になるしかないとほくそ笑んだ。
「腕が腕、僕の腕がおかしくなった。雪、僕、の腕、このまんまなの。痛いよ」
半狂乱気味に幼子は変な方向に垂れた腕を見つめて、右往左往し始める。だが、その足取りは雪を目指していた。ぼやけた視界の先には両手を広げたまま、駆け寄ろうとする雪。
「ベアちゃん、まだ、続きをしましょうよ。それともそんな気が起きないのなら」「雪達に手出しはさせない」
ベアトリーチェは咄嗟に雪と創造主の間に立ちはだかって、両手を広げて通せんぼした。その表情は涙に濡れて哀れなほど、弱々しいが唇はきゅっと固く結ばれている。ふいに創造主はそんな姿がかつての自分に重なるのに気が付いて、足を止めて瞼を二度擦った。それでも、そこにいるのはウジ虫である自分だった。
「僕はまだ、ここでは死なない。お前にどんなに意地悪されたって」「私はまだ、屈しない。あんた達にどんなに意地悪されたって」
ベアトリーチェの言葉に続く幻影の声が無性に創造主の唇を震わせる。黙れ、ウジ虫! と吠えたくて仕方がなかった。
「そうよ、死なない」
その言葉とほぼ、一緒に時の瞬きがいとも簡単に宙へと投げ出された。燕の手にはライフルが握り締められていた。創造主が油断していたとはいえ、それをやってのけた人物、燕に誰もが賛美の眼差しを贈る。だが、創造主だけは低く唸った。
「人間」
「逃げなさい、ベアトリーチェとその信仰者達。人の命を誰かの思惑で簡単に決定される世界を変えなさい」
既に時の瞬きは創造主の手中へと一瞬にして移動しており、数秒前の状態に元通りだった。
燕の凛々しい判断に一早く、動いたのは孫の李緒だった。ベアトリーチェの両脇に腕を通して、軽々とエア・トレイン内へと運び去ろうと一気に血染めの床を走り抜ける。
「僕は……誰ともさよならしたくない。離せ! 李緒」その言葉と幼子の両足の抵抗に「駄目」と冷淡な言葉が降ろされた。「李緒?」「祖母はずっと、悪夢に魘されていたんです、世界という悪夢に。解放させて上げて」「そんな、どうして深希も、揚羽も、簡単に死ぬんだ! 僕はまだ、死ねないのに。みんな、いなくなっちゃ、いや」
幼子には全てが解らなかった。創造主に死を与えたがっていた自分も、簡単に死んでゆく人間達の理由も……。ただ、死ねない自分に強い嫌悪感を抱いた。
創造主は眼前にいる命知らずな老戦士の名誉に免じて、エア・トレインを見送った。老戦士の装備は貧弱だ。ライフル一丁……。だが、瞬時にライフルの銃口部で時の瞬きを宙へと捌いた腕力は並みではない。人間にしては! と美酒の如き、幸福感が充ち満ちてくる。何度経験しても嬉しいものだ。
「さよなら、小さなリーチェ。貴女の恋が叶いますように」と老戦士は呟く。
「無謀な人間、経緯を表してベアトリーチェのお仕置きはお終いにしてあげたわよ」
「まるで自分が人間ではない言い方ですね。貴女、ただの人間でしょ」
「私にも人間だった頃はあった。そうね、私の名は」
ウジ虫。
だから、世界を壊してやったんだ。かつての創造主を八つ裂きにして自分が世界を作り替えたんだ。その名前が私に力と屈辱をもたらしたんだ。創造主は、ウジ虫は未だに自分に助けを乞うクラスメートの言葉を忘れはしなかった。それどころか、胸の奥で常に再生される。それが押さえきれない苛立ちを与え続けた。
「○○○ちゃん、私が悪かったから私の両足と両手を返して! 痛い! もう殺虫剤を髪に掛けたり、集団リンチしないから許してよ!」と叫んでいるよ、ウジ虫? 苛立ち? さぁ、目の前の人間で鬱憤晴らしだ。