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五章 不幸の粒子を振り払う小さな指先

        


 床がガタガタと揺れる。ベアトリーチェは苛々していた。頭上に痛みを感じて何度も両手で摩る。咄嗟の事に両手で頭に蓋を出来なかった。ベアトリーチェはさらに苛々した。

「ただ、扉を何度か、蹴っただけなのに。豚猿め」

 小さなリーチェは微かな音量に声を縮めて毒づいたのだが、バスの運転手は真ん丸の醜い顔を怖々と歪ませて、最後部席に寝転がって肘を付いているベアトリーチェを睨んだ。咄嗟に両手で頭に蓋をする。そのださい格好に満足して深く頷いてから前を見て、正しい運転をし始める。

 運転手の噛むガムのくちゃ、くちゃという不愉快な音とバスが細かい縁石に乗り上げる鈍音と混じって幼子の耳に入り、また苛立たせる。

 乗っている客には見えないリボルバーの跳部夜須久がベアトリーチェの頭上に漂っていた。あまりに気持ち良さ気に浮いているように幼子には思えたので、引き金部位を小指で弾いた。だが、身じろぎもせず、言葉も発しなかった。さすがは相棒の友人が殺されるかもしれないと淡々と喋った事はあると思いつつ、ベアトリーチェはアニメ・ゲーム専門店チワワに揚羽がいることを祈る。

 ベアトリーチェの小枝のような腕に填められた永遠に借りた薄い革の腕時計を確認する。午前八時を指していた。

「ベアトリーチェ、そういう創造主の命令が死に神課へと伝わり、本日の十時に貴女の大切な人を殺害する計画のようです」

 何度も聞かされたタイムリミット 午前十時。その時間が憎たらしく思えてきた。何度、心底で時間という概念を自分の両足のレースアップブーツに忍ばせているナイフで引き裂いたことか、と拳を強く握り締める。握った拳はとてもじゃないが、勇ましく見えない。それでも、幼子の叫ぶ声は勇ましくバス内に響く。

「何故! 今になって! 僕に伝えろと創造主が言ったのか!」

 何事か、と顔を向けた背広を着た短髪の二十代後半の優男がベアトリーチェを小動物のような目で見つめてきた。直ぐさま、幼子はそっぽを向く。

 他のバス内に乗っていた携帯電話を必死に弄る男子中学生、夜は明けたというのに眠り続けるスーツを着込んだ頬に皺のある女性、興味深いものでも路上に落ちているかのようにじっと窓を見入る太った女性は自分の今やっている事で精一杯のようだ。

 臍を曲げたベアトリーチェはこれ以上、跳部に対して何も言えなかった……。幼子は姿勢を正して、窓の外を見た。

 窓の外には命に関わるような重荷を背負っていない人間達がそれぞれの人生を謳歌していた。パーマを髪全体に掛けた老婆が八百屋の軒先に並べられている人参、南瓜、茄子、ジャガ芋などを経験豊かな黒い瞳で吟味していた。

 幼子の沈黙が語る。この人が生きていられるのは創造主のおかげだ、この世界を作った彼女の功績だ。だけど、跳部が僕を裏切ったのも……。

 ベアトリーチェは窓枠を両手でぎゅっと握り締め、世界が歪んでいるのに窓を見続けた。蛇のように波打つ歩道を幼子と同じくらい年代の中学生の少女が手を繋ぎ合って歩いていた。怒りを一端、心の思考保管所へと置いて、その少女達を幼子と揚羽に置き換えた。揚羽との会話は何年も口ずさんできた詩のように紡がれる。

「雨、降らないと良いよね?」

「揚羽、お前は雨、降ったら……シャワーだ、と叫んで傘を放り出すだろう。考える意味ないじゃないか」

「眠そうだね。もしかしてちゃんと勉強してきたんだ、私はしてないよ。揚羽だもの」

「雪に教えてもらった。永遠お姉ちゃんは相変わらず、戦力外だ」

 ふと、この会話には実現性がないことに気が付いた。一つはベアトリーチェが学校教育を受けていないこと。もう一つは……。

「僕は……平仮名しか雪に教わらなかったんだ。嫌がるんじゃなかった、学ぶことを」

 幼子自身の欠点をそう、呟いた。

 そして、ベアトリーチェは再び、沈黙へと籠もったがそう長くは続かなかった。始まりと終わりを記憶している幼子は、創造主と対峙した時の自分に溢れていた感情が尋常でないほどの絶望に燃える痛みを、心に宿していた事を思い出した。その感情を九十九回も体験していると考えた途端、背筋に冷たい汗が何筋も流れ落ちて黒いブラウスが肌に張り付くのを感じた。

 僕は揚羽を救えないのか? いや、ベア、違う。僕はそれを覚えていないじゃないかと、唾液で潤った唇から言葉のなり損ないの空気が出るだけで途方もない肩にのし掛かる絶望感を軽減してはくれない。

 涙が後から、後から溢れ出す。

 すっとベアトリーチェと幼子の覗いていた窓に今まで、姿を消していたかのように黙っていた跳部が間に入った。

「小さなリーチェ、私の意志で創造主裏切り、貴女へとつきました。役所へ提出した辞表願いも今頃、受理されているでしょう。泣かないで下さい私と貴女で何とかしましょう」いつもの丁寧なお役人口調だったが、言葉一つ一つを掌で掴んでみても優しさに溢れている。それは十分絶望を軽減してくれた。笑顔が溢れてきたベアトリーチェは跳部を自分の胸に抱き寄せた。ありがとうという聞こえない言葉に載せて。

「遅くなった事は申し訳なく、思います。計画実行日時を知るだけでも大分、時間が掛かってしまいました」

 跳部は照れずに、平常心を保った丁寧口調で話し終えた。

 跳部を手放し、自分の腕に填められた手錠の先にあるお気に入りの白い子猫の縫いぐるみを抱き寄せて、その頭上を噛んだ。安心を縫いぐるみから補給してベアトリーチェは喋り出す。

「創造主に逆らったら殺されるぞ、跳部は雪達のようには能力を分け与えていないから僕の加護は受けられない。消去されるぞ……」と言葉を切って跳部を睨み付けた。「一瞬で」

 跳部の身体は横へと激しく揺れた。それでも良い、と伝える相棒に小さなリーチェは複雑な想いを感じた。

 ありがとう、それとも、ごめんなさい。感謝、謝罪。

 幼子の純真な言葉はリボルバーである跳部の姿が見えない為か、面白いなお前とでも言いたげな男子中学生の残酷な微笑みに曝された。

 太った女性が何処へ行くの? 最近は物騒だから。私は怪しくないよ、夫が警官なのよ。だからついね、と親しみやすい笑窪付きの笑顔で幼子に話しかける女性の残酷な親切心にも曝されるのであった。

 目的地はバスが混雑していなければ、三十分程で到着するのだが、午前八時という時間帯は丁度、通学や出勤の時間帯と重なっていた。幼子が一人で独占していた最後部座席にもその余波が訪れた。

 ベアトリーチェを真ん中にして、黒帯で結んだ柔道着を両膝に置いて座る角刈りの筋肉隆々の男性が左に、麒麟の手作りアップリケが糊付けされたエプロンを着た眼鏡の女性が右に座っていた。ベアトリーチェは苛々と足を何度も揺らしていた。それに気が付いた眼鏡の女性に大人しくしてようねと猫なで声で注意され、緑色の飴を貰った事から保母さんだろうと推測した。

 仕方なく、沈黙を守り続ける幼子に跳部は銃口を赤いスイッチに向けてから

「ベアトリーチェ、チワワへは次のバス亭で乗車ですよ」

 と知らせた。同時に甲高い音の後に、次のバス亭で停車致しますというアナウンスが中年女性の声で流れた。とても、素っ気ない声だった。

 ベアトリーチェが赤いスイッチを押そうとした時にはもう、跳部がスイッチを押していた。ベアトリーチェを覗き見てにやにやしていた男子中学生は不思議そうに首を捻っていた。その顔があまりにもう、間抜け面だったのでベアトリーチェは腹を抱えて笑った。無邪気な悪意の微笑み。

 そんな悪意を土台に元気を取り戻した幼子は立ち上がった。停止したバスの少し後部へと下がるような振動に足をもたつかせながらも、両足を暴走した馬車のように回転させる。保母さんにバス内では走ってはいけませんと注意されたがベアトリーチェは後ろ向きに走り、あかんべぇをした。そして、前方を向いて走り、肩に掛けていた兎のポーチから二百円を取り出した。

「お嬢ちゃん、子どもは何処まで乗っても百円だよ」

「僕は大人だ」

 と弾んだ声で、酒臭い息を吐く運転手に言った。さも、それが当然のように小さな掌が握り締めた二百円は料金箱へとパイナップルの絵が印刷されたお子様用切符と共に消えていった。そんな大人なベアトリーチェの持ち金は後、六十円だった。使うつもりのないへそくりは含まれていない。毎月、雪からは千円をお小遣いとして貰っているベアトリーチェにとっては二百円は大金なのだ。だが、今の小さなリーチェには些細な事だった。

 三段ある段差を両足揃えて飛び越えて、鮮やかに歩道へとお尻で着地した。じんじんと襲いかかる痛みと周囲の人間達が大丈夫? と皆、顔に書いたように立ち止まる人々の視線とバスの運転手の大人はそんな事しねぇーという不機嫌な声に幼子は激しく自尊心を傷つけられ、赤面した。それをチェックのスカートに付いた砂埃を叩くついでに気合いに満ちた声ではじき飛ばす。

「行こう、跳部! 僕と一緒に揚羽を助けるんだ!」

「変わりましたね、小さなリーチェ」

「僕は僕だ」

 相棒のリボルバー、跳部夜須久にそう答えたのだが、内心では揚羽の無駄な元気が自分にも感染してきたなと思っていた。

 バスがバス停を出発する排気ガスから逃れるようにすぐさま、走り出したベアトリーチェの傍らを飛びながら飛部は感慨深そうに低い声で言う。

「出逢った当時は創造主に口だけでしか反抗できない吠えるだけのチビッコでした貴女は……。肝心なところでいつも臆病だった」

 ベアトリーチェはその相棒の声に弾む息の合間に深く頷いた。

 そして、感謝する。無理難題を押しつけては困らせてきた相棒の跳部に、自分の欲しい愛とは違う子どもに与える愛をくれる雪に、寂しい時に一緒に寝てくれる清潔な母の匂いがする永遠に、時々山へと連れて行ってくれる了に、沢山洋服をくれる深希に、人間味のある矛盾した善意を持つ李緒の善意に、一人で来ると無料でご飯を食べさせてくれる甦南に、ケーキと子どもの相性について抗議してくれたジャンと三島に、アニメのDVDを沢山見せてくれる燕に、見ず知らずの保母さんの心遣いに、

「人間はどうして、良い奴だけになれないんだ」

 声は捻くれていたが、間違いなく小さなリーチェは他人を許し始めた。

 その心の扉を開けてくれた揚羽が自分に手を差し出している気がした。それに向かってベアトリーチェは走る。手に持った白い日傘の重量も、自分の体重も、永劫に続く大切な人たちとの別れに生じる重さも今、一時忘れて小さなリーチェは産まれたままの身体のみで軽やかに揚羽のみに続くレールを走っている気さえした。


           


 微笑みながら、走る私の小さな相棒の顔を眺めていた。あの時と違って赤みのある肌からは生きる喜びをありありと表現しているような汗が噴いている。絶望を何の灯り無しにひたすら、歩んでゆくだけの機械的なお人形が今や、親友を救うために奔走している。

 これが人間なのか。変われる……。何度でも変われる。それが人間なんだ。進化も、退化も自由自在。

 私には望めないものかも知れない。今も、昔も私は利己的な有機物だ。人間ではない。

 そう思いつつも、私は親戚同士で集まって子どもの成長を報告し合う人間の一人のようにベアトリーチェとの記憶を懐かしく感じていた。

 あんな負の記憶を私は懐かしがっているのだ。思わず、失笑してしまったではないか!

 

 当時の私は今と変わらず、武器課の職員だった。給料のほとんどを自分の身体のパーツを購入に使用して、密かに社宅の鏡の前でポーズを決めているようなくだらない人間だった。今に思えば、何の為に出世を覗いていたのかも解らずに、ただ出世が目的になっていた。だが、当時の私はそれが解っていなかった。出世の為に創造主に毎日、話しかけては媚を売り、一ヶ月に一回は高価な物を贈り続けた。その甲斐あってか、創造主に私の名前、跳部夜須久を覚えて貰った。実に十年掛かった。

 それからある日の日曜日に私は創造主に呼ばれて、何故呼ばれたのかも解らずに創造主の背後をついて行く。選定学園の廊下をひたすら、歩く。緊張のあまり、もう一時間歩いた気さえした。

 唐突に聳え立つビルのような背中が喋り出す。

「駄目なあんたには相応しい相棒を用意したから、まぁ、クソリーチェちゃんと頑張ってみてよ」

 どうやら、私の見解は間違っていたようだ。暴れ出した死者の魂を世界から消去する為に呼ばれた際に、死者の尻穴を撃ってしまい興奮をさせて死に神課の人間を六人失うはめになった事件などの数々の失態が創造主の目に止まったからだろう。

 それを知って私の身体は左右に小刻みに震えた。恐怖という言語を通り越して、血祭りという言語が目の前で踊っている。それが今や、私の視線をぼやけさせているのだ、きっと。

「数々の失態を挽回する機会を与えて下さり有り難うございます」

 とりあえず、この言葉を喋る以外に選択肢はなかった。無理に選択肢を増やして喋ろうものならば、創造主の逆鱗に触れるだろう。後は創造主様のなされるがままに……。

 創造主は彼女らしくない穏やかな表情を浮かべて跳部の方に振り向いた。

「いや、いや、あんたに全て、責任があると考えているんだったら貴方は今頃、ここにはいないから。必要ない」

 いつもなら、見たくもない悪魔色の金髪が天使色の金髪に見えた。その穏やかな表情と共鳴するようにゆっくりとした歩みは心地の良い甲高い音を奏でている。

 ほんのわずか数分で立ち入り禁止の札付いたチェーンが行く手を塞ぎ、その先に下り階段がある場所へと着いた。

「さてさて、到着」

 と嬉々とした舌なめずりと共に少女のように高質な声が、私と創造主しかいない静けさのベールに包まれた場を弄ぶ。まるで悪戯好きの女児が浮かべる楽の感情剥き出しの様相。

 それに相応しく、札を支えるチェーンを腕に絡め取り引き裂いた。札は支えの力を失って、哀れな音を立てて床に転がった。その札に興味を映すことなく、創造主は下り階段へと歩んだ。

 階段を下った先にはまるでコピー機で同じ原本を印刷したような牢屋が左右対称に並んでいた。それが私の目先の続く以上に続いている。

「まさか、囚人ですか!」

 と歩きながら言葉にしてみたが、実感が湧かなかった。どの牢屋も物家の殻だったからだ。

 だが、創造主は歩みを止めることなく、早足でどの牢屋にも目をくれない。

「ある意味。そうよ。どの世界にも存在してはならないガキよ」

 創造主がそう喜びに震える声で言った時には私と彼女との距離は相当離れていた。何故、そんなにも急ぐのだろうか、という疑問さえ浮かんできた。その疑問に答えるように創造主は一部屋の牢屋の前で立ち止まり、中腰になった。

「さぁ、ご対面!」

 私がその牢屋の手前に辿り着いた瞬間を見計らって創造主は叫んだ。創造主の叫びが牢屋中に響くが牢屋の中にいる女児は微かに胸元を動かして息を吸ったり、吐いたりしているだけだった。それは最低限の生命維持だった。そこに意志はない。

 女児の姿は無地のタオルで局部と胸部を隠しただけの格好だった。局部を包んでいるタオルは黄ばんでいて、尿と糞の強烈な悪臭を放っていた。その悪臭が風によって私のところまでやってきた。思わず、私は背を向けた。だが、この状況を分析してみようという好奇心が再び、私を女児の闇に輝く赤い瞳と対峙させる。

 白髪のおかっぱ頭が今にも風に吹き飛ばれそうなくらい脆弱な意志でそこに存在していた。

「母様……」

 母様という女児の囁くような弱々しい声がちっぽけな私の即席正義感に火を付けた。

「こんな事が許されるのですか、創造主様」

「何のこと?」

 柵に繋がれた女児の腕を銃口で指した。そのか細い線のような腕は肘の外部へと折れ曲がっていた。無理矢理自然な骨折だとも感じつつも私は声を荒げる。ちっぽけな即席正義感は自分の死の恐怖さえも忘れさせてしまうようだと、今の私は思い出しては若気の至りに苦虫を飲まされる。

「この子の腕が在らぬ方向に曲がっているじゃないですか!」

「だから? それが悪いという博愛主義って奴? 平和主義? それともつまらない人間が生み出した倫理観を信仰しているの?」創造主は牢屋の柵の下に取り付けてあったベアちゃんの餌と赤い色のペンキで記入された木箱からポップコーンを取り出して、ポップコーンを上空に投げてキャッチする。空飛ぶポップコーンの粒を女児の真ん丸とした目が無言のまま、追っていた。「ああ、倫理観様、私にどうか、メシアをお与え下さい」

 創造主は幼子の額にポップコーンを投げる。幼子は額を両手で守ろうとしたが、その動作は緩慢なもので到底、間に合わなかった。ポップコーンが幼子の額にバウンドして地面に落ちる前に、小さな手が咄嗟にそれを掻っ攫った。爪先近くの白い肌にあるささくれから血が流れているにも関わらず、投げられ続けるポップコーンを食べ続ける。表情は以前として虚ろだ。

「名前はベアトリーチェ。聞いたことくらいはあるでしょう。産まれなかった命と産まれた命の間に産まれた異端児」

 私は息を飲み込んだ。世の中には侵してはならない領域というものが、何処にでも存在するものだ。今、目の前に頭、胴体、足、腕といった可愛らしいミニチュアサイズの女児が侵してはならない領域を越えた先にあるものの一つなのだ。それは疎ましく思うには不自然すぎる程の痛々しさが内包されていた。

 あの可哀想に折れ曲がっている腕をもう一度、見入る。

「この子は痛みを感じていないのですか」

 痛みを痛みとして感じず、ポップコーンを食べ終えた女児はお前達には用はないと言わんばかりに黒い染みの地図が描写されている牢屋の堅い剥き出しのコンクリートに寝そべった。

「感じているんじゃないかなん。でもね、痛いって言葉を吐いたら今度は足を折るって脅してあげたのん」創造主は大きく振りかぶって寝そべっている女児の丸まった背中にポップコーンをぶつけた。それでも女児は振り向かない。創造主は陽気に口笛を一吹きする。「人間は脅迫に弱いのよ。科学という魔法の如き行為を行う為には深く考えるって必要だけど、諸刃の刃ってことがよく解った」

 そう言って、それを実践するかのように柵に繋がれた幼子の腕を片手で圧迫した。創造主の手の甲が赤くなっている事から相当、力が加えられている。だが、女児の白い絹のような腕の色はずっと、その色を保っていた。

 創造主は検証が失敗に終わった事に不機嫌になり、柵を蹴り飛ばした。微かに柵が揺れた。その振動から逃れるように女児は顔を背けた。感情はそこにはない。身体が痛みに対して、反応しうる当たり前の事を自動で処理しているようだ。

 思わず、私の口は早口に動き出す。

「貴女の言う事を聞かせるのにそれ以外の方法もあったはずです。可哀想に。君、大丈夫か?」

 はっとする私の姿を始めて感情らしい感情を出して確認している。きょとんとした顔は普通に町中にいる無害な女児だ。一体、何歳なのだろうか? 身体の大きさからして三歳か、四歳だと思うが。

「い、何でもない」

 か細い声が何かを言いかけたが、すぐに首を振って否定した。

「逆らうの? 世界は誰のもの、創造主さんのものでしょう。それでも逆らう?」

 創造主のぞっとする声が身体全体に浴びせられた。私がどう考えようと創造主の中では私が答えては良い答えは、

「いいえ」

 と言うしかない。

 既にその流れを知っていたかのように創造主は背を向けて、私とベアトリーチェから離れていった。

「お利口。じゃあ、後は二人で今後の仕事について話してね」

 こちらを振り向かずに片手を大袈裟に上方向へと伸ばして、左右に振った。私の視界から見えなくなるまでそうしていた。

 恐怖の対象者がいなくなって、私とベアトリーチェは深い溜息を吐いた。それは身体に溜まってしまった悲しみで汚染された空気を吐き出す行為だ。

 静寂の間を破ったのはめそめそと泣くベアトリーチェの声だった。その声は何度も母親を呼んでいた。折れた腕に手を添えて、苦痛に顔は歪み、止め処なく涙を流している。

 想像してみる。自分がベアトリーチェと同じ立場にあったら、と。針を刺したような憎悪が身体を渦巻いた。だが、その憎悪は偽物で両手を沿えて掴んでいなければ、すぐに飛んでしまうような代物だった。ベアトリーチェは憎悪を胸に溜め込んでいるに違いない。

「お前もどうせ、僕を虐めるんだろう?」

 冷たい視線が私に投げかけられる。私は嫌、違う……君の味方だと言ってあげたかったが、そこまで私は狡猾な性格ではない。

「私は君と一緒に仕事をする事になった世界市役所武器課の跳部夜須久だ。宜しくお願いします」

 私は身体全体を折り曲げて新しい小さな同僚に挨拶をした。何処か、滑稽な動作であったのか、笑われてしまった。けらけらと壊れた玩具のように笑う女児の口からは細やかな乳歯がお行儀良く並んでいた。

「面白いよ、跳部。僕は無償でお前との仕事を屑女から言いつけられている。だけど、お前となら楽しめそうだ」

 やれやれ、今度の仕事は汚らしいお嬢さんを保育するベビーシッターの仕事らしい。私はわざとらしく、肩を竦めた。

 この時の私はベビーシッターの方がましだったという事を全然、理解していなかった。とはいえ、それは己の人生を何度も繰り返し、反復していなければ解らないだろう。それも鮮明にお望みの場面を記憶していられれば……だが。

「とんだ芝居上手なお嬢さんのようですね、貴女は」

 お嬢さんというのはせめてもの嫌みなのだが、ベアトリーチェには通用していなく、自分の脇の匂いを嗅いでは嗚咽している。まるでその行為を楽しんでいるように微かな笑みを浮かべていた。

 だが、私の視線に気が付くと、一変してお堅い表情を精一杯、造りながら何処かぎこちなく、立ち上がった。身体が四方に揺れていた。足下が定かではないのだ。

「あいつは目が節穴なんだ、遠い昔から」

「遠い昔?」

 遠い昔、というからには五年以上、昔を指すのだろうが、どう見ても推定百センチ以下のチビッコにそれ程の時間が流れているとは思えなかった。それでも、お嬢さんなのだからしっかりとお喋りの相手をしてやろうと真剣に身構えるが、その自分の真剣さに思わず、吹いてしまった。

 お前は何歳なんだ? まさか、その格好で三十歳とか言うのか! クレイジーガールだ、と罵る言葉が頭に浮かんできては興味本位にその言葉をぶつけて反応を探れ、と脳が命令を下すのを必死に我慢した。自分にはイメージというものがあると、私は何度も言い聞かせた。

「僕は九十九回目の人生を送っているんだ」そう言いながらやけに御機嫌でボロ布を一枚敷いただけの寝床を捲って銀時計を見入る。その銀時計はベアトリーチェの部屋とは別世界の輝きを持っていた。私が見た限りではブランドものの時計だ。純銀で構成されている。「尤も、絶対に信じないと思うけどね」

「自分のボケを潰すなんて律儀なお嬢さんですね。ところでその時計は貴女のものではないようですが、ど」突然、喋り出したベアトリーチェに私の声は遮られた。仕方なく、口を閉じた。「雪が来るんだ。こんな僕でも雪は可愛いって言ってくれたんだ。お返しに僕が填めている時計の事を褒めたらくれたんだ! なんて良い奴なんだ」喋り終わり、自分の話に陶酔しきって雪なる人物の腕時計に何度も口を付ける。それをキスという愛情表現だと小さすぎる恋愛覚醒者は知っているのだろうか……。あまりの大胆な行動に私は呆れた。「別人ですね、貴女」また、嫌みを言ってやった。どんな内容の仕事をするかは知らないが、左遷されるより酷い内容に違いない。わくわく公園でアイスクリームを作る中年男性に代わって拳銃と女児のコンビが作り、上手く作れない女児を慰めつつ完璧なアイスクリームを作るとか、そんな内容だ。「お前には関係ない、拳銃」

 今度は嫌みが伝わったようでベアトリーチェは嫌な奴を見るように険しくなった。険しいという表情に可愛さが混じってしまうのは本来の威嚇の目的を剥き出しにするよりも、怒っているのにそれでも可愛いという保護欲を掻き立てるポイントを作って置く事で対象者に同情して貰おうとでも思っているのだろうか。だが、私は絶対、アイスクリームの作り方を教えてやらない。仕事を放棄して惰眠を貪ってやる

 私が当然の怒りを覚えている間、ベアトリーチェの朱い瞳は希望で輝いていた。その輝きは私の身体にはどうにも合わないらしく、胃痙攣を起こしそうだ。

「今日は永遠という妹を連れてくるそうだ。洋服とか色々と持ってきてくれるらしい」

 ベアトリーチェは自分の汗と油で肌にへばり付いた髪の毛を両手で梳かしながら、私に自慢した。

 はっはっははは、可愛らしいなぁ、子どもはなんて、言えるか。こんなのが私の新しい相棒では困るので世の中で一番大切な摂理を説く事にした。

「世の中には利益にならない事をする人間がいるようですね」

 ベアトリーチェの髪を梳かす手がぴったりと止まった。

 私は見えない言葉の糸を痩せ細った胴体に絡めた。それを確認してにやり、とほくそ笑む。

「どんなに善人の仮面を被っていてもその方にも何かしらの目的があるのでしょう」

「そんなことない」案の定、人生という言葉を知るにはまだ、心が成長しきっていない小さなベアトリーチェは動揺し、身体全体を微かに痙攣させている。だが、何の変哲もない天井を見上げた瞬間、身体を停止させた。荒々しい呼吸音は私の立っている場所まで聞こえてきた。それだけがベアトリーチェの激怒を表していた。ただでさえ、真ん丸な瞳を太陽の光を浴びて輝く満月の如く、潤わせている。「雪は僕の、僕が初めて好きになった人間なんだ! 今も昔もずっと以前の僕も」赤い月から滴り落ちた雫は何度も、ベアトリーチェが人差し指で触れている唇に落ちる。唇は透明な雫に濡れる度に生の赤みを蘇らせた。「この唇が覚えている」

 囁き声には力強さが息づいていた。その力強さは本来、小さな少女が持ち合わせるには不似合いなものだった。直感だが、信じるに値する。このような酷い仕打ちを小さな少女に課すのは……赤い月の熱に見え隠れする才覚にあるのだろう。

 人を魅了し、自分に興味を惹かせる月の魔力。

 天才と凡人の違いは特殊な分野において、スポンジが水を吸収するようにその分野の知識を吸収する事ではない。そう、この月の魔力なのだ! その者がどんな状況に置かれていても宿す月は輝き続ける。

 

 今(揚羽を死なせまいと槍構える赤い瞳)も昔(相棒だと認めさせた朱い瞳)も、輝いている。この輝きを綻ばせる者が世界にいるのだろうか?


 ベアトリーチェの身体は小さいが故の特性を存分に活かしていた。ごった返す街中を縦横無尽に駆ける。目の前にいる障害物(人間)の合間を抜けた。時には柄の悪い高校生の背中にぶつかってかつあげされそうになったが、通りがかったリュックを背負った太った男性が間に入って助けてくれた。ちゃんとお礼を言ってまた、駆け出す。天空を走るペガサスの如き、自由さで駆ける。赤信号を何度も無視した。

 圧縮された時間がベアトリーチェの走る速度に対応して徐々に解凍され、距離が長くなっているのでは、と思わせる。

 辿り着いたチワワの隣にある時計屋の屋根に設置されたみずぼらしい時計を見上げると、時計は八時三十七分を指していた。思ったよりも時間が経っていなかった事実にベアトリーチェは安堵して、その勢いを自動扉に向かって跳び上がるというエネルギーに変換させた。

 自動扉はベアなんかとごっつんこは嫌だね、と言いそうな反応速度で左右に身体を分離させた。両足を揃えて、身体に似合わない大剣を握り締めた緊迫した顔つきの少年キャラクターが起用されたマットへと華麗に着地した。得意げに両手を広げて胸を反らす。

 こうすれば、小さなリーチェの望む事が起きる。

 周囲のエプロンを着込んだ店員や、性別年齢が幅広い客から温かい拍手が送られた。

 どんな状況でも自分に与えられる賛美は嬉しいとベアトリーチェは思ったが、すぐにそうしてしまった事への後悔が身体中に蔓延してきた。揚羽が危ないというのに何、意味のない事をしでかしているんだ、と自分を心の中で責める。爪を立てて腕をぎゅっと握り締めた。すぐに赤い傷跡となって罰の印は現れた。その印がベアトリーチェを許してくれる気さえした。

 その事に気付かずに来店した小さなお客様に対して、店員達は拍手をした後に丁寧にお辞儀した。

「いらっしゃいませ」

 と男性の太い声と女性の細い声がこんがらがって耳に届いた。すぐさま、ベアトリーチェは言い返す。

「いらっしゃいました」

 そして、白い傘を指したまま、揚羽の姿を探すべく店内を練り歩く。気持ち急ぎ足で。

 店内はミミルちゃんというベアトリーチェにそっくりな女の子が所狭しと、等身大ポスターという形で各フロアに必ずと言っていいくらい存在していた。アニメやゲームのポスターが壁際に貼ってある階段を二段跳ばしで両足ジャンプする度にすれ違う人々からミミルたんのコスプレイヤーだ、ときゃきゃ言いながら、携帯電話で写真を勝手に映された。その時にも憎たらしいミミルが微笑んで

「今度、私が主役。いつものミミルの妄想ではありません。リアルです。ですが、大きなお友達的には非現実です、ふっ」

と言っていた。時間があれば、ポスターを一つ一つ、破って回りたい衝動に駆られた。

 店内を走り回っている際にベアトリーチェはある事に気付いた。店内のレイアウトは足を運ぶ度に、完全に入れ替わっているのだ。つい一週間前にはミミルをここまで強調してはいなかった。

 永遠がベアトリーチェにその理由を語ってくれた事がある。お客様は通販でもお買い物を出来るのだから、他店と違う商品の展開をさせていかないとすぐにマンネリな気持ちになってしまい、二度とお店に顔を出さなくなる。人間にさえ、代わりを求められる時代になってしまったのだから、物質なんてあっと言う間だと寂しそうに呟いていたのを思い出した。

 レースアップブーツの中から、雪に貰った手つかずのお年玉袋から一万円を取り出した。その一万円を握り締めながら、永遠お姉ちゃんが発売日だけどお金が無くて買えないよ、と喚いていた子犬が主人公のアクションゲームらーりなの冒険を手に取ってカウンターへと足を運んだ。

 幸い、カウンターは混雑していなかった。混雑していたら諦めなければならないところだった。これで永遠お姉ちゃんが喜んでくれると思うだけで、自分の悲しい状況が和らいだ。

「ミミルたん、いらっしゃい」

 今日、何度も目に否応なく、映った白いおかっぱ頭のミミルが媚を売るような微笑みを浮かべるエプロンを着た男性がそう、ベアトリーチェに言った。間違ってもミミルではない。幼子は不愉快になりながら、持ってきたらーりなの冒険のパッケージをその男性、都茶重の黒縁眼鏡に向かって放り投げた。

「お前、随分とキャラが変わったな、医者の息子。ここに汚染されすぎてやしないか?」

 折角、幼子が投げてやったパッケージを真顔で受け止めて、それをカウンターに置いた重に言った。

 間違いなく、現代医学でも治癒不可能な熱に侵された重は自分の後ろにある商品棚から大量にある中身の入ったらーりなの冒険をカウンターに置いて、素早くレジを操作した。

「そうだねん、五千円になります」ベアトリーチェは値段を偽物のパッケージから既に確認済みだったので、カウンターに置かれた帽子を目深に被った汗臭そうな学ラン男風の人形に一万円札を強引に握らせていた。それを重が手にとって自分の方へと一万円札を寄せてから何気なく言う。「写真を撮らせてくれたら、二千円にしてあげるよ、お兄ちゃんが」

 ベアトリーチェは自分が猛獣の檻に隔離されているような不安を覚え、重の掌にあるレシートとおつりの五千円札を奪い取った。

 重の顔を見ずに自動扉へと駆けだした。

「達者でな、刑務所で」

 という言葉を未来の誘拐犯に残した。

 気を取り直して揚羽の次に居そうな場所を頭に思い浮かべた。いつも、ベアちゃん号を走らせているスーパーはるさめ。何処へ行くのかもまだ定まらないうちに走りながら、その行き候補を否定した。スーパーはるさめは午前、十時に開店するからだ。まさか、開店前のスーパーはるさめの駐車場で遊んでいるはずがない。そう考えたベアトリーチェの頬は緩んだ。揚羽なら、ありそうだ。

 結論からいうとそれはなかった。

 スーパーはるさめの広々とした駐車場で血の固まりかけた膝と真っ白な膝にそれぞれ、手を添えながら前屈みのまま、息を吐いては吸うを何度も繰り返す。身体中の酸素を総入れ替えして、次の揚羽の居そうな場所へと走る為に新鮮な酸素がもっと必要だと、同年代よりも異常なほどに未発達な身体が声にならない咆吼を上げている。

 自分でも驚いていた。何処にそんな了並みに破天荒な力が残っていたのか、と。

「何故、こんな事になった! 解っていたはずだ。創造主の陰湿な性格を! お前は誰よりも! 僕は他ならぬベアトリーチェなのに」

 膝にじんとした痛みをまだ、感じる。数分前に犬を連れた若い女性とすれ違う際にその犬に吠えられ、バランスを崩して転倒してしまった時に傷を負ってしまった。その膝の痛みが創造主の計略であるかのように思えて、幼子は痛みを堪えて上体を起こした。

 既に日傘は手元にはなかった。走るのに邪魔だったのでドラッグストアの空き缶を入れるゴミ箱の穴に突き刺してきた。

 薄革の腕時計は午前九時六分を指している。

 迷ってはいられないと何処かへと走り出す。

 肌がひりひりとした痛みに包まれてゆくのを感じた。全ての人々に等しく光を与えてくれている太陽がそれを引き起こす原因だった。

 顔を歪めた。視界が透明な世界へとすり替わろうとしている。

 これで何度目だろうと、幼子は途切れそうになる意識を奮い立たせた。

 下半身にまったく力が入っていない。感覚が掴めない。幼子は街路樹に肩をぶつけても、自転車置き場の自転車の群れに転倒しても、諦めなかった。

 輝かしい未来の幻影だけが幼子を支えていた。それを無意識に歌のように口ずさむ。跳部はその間、一切無言を押し通した。

「あの日が来る前に創造主を倒す。揚羽が見守る中、雪と結婚して幸せな生活を送って最期は終わるんだ。本当の終わりを迎えるんだ。その時はみんな一緒に終わるんだ」


             


 何処を見ているのか、解らない小さな相棒を中空から眺めるしかなかった。この時ばかりは人間であれば良かったと強く思った。

 人間であれば、涙を流して同情の余韻に浸る事も、同種の友人として慰める事も出来ただろう。

 それらが出来ないのだ。私は所詮、創造主の力の固まりであるリボルバー。夏の一時に鳴く蝉の一鳴きに過ぎない。

 だから、本当の私は死というものに対しての苦痛を全く感じない。死には苦痛があるというのを知ったのは書物や映画からだった。それをただ、真似ているのだ。

 涙も流さず、頬の擦り傷から滲ませて、黒地のブラウスの肩が次第に真っ赤に染まってゆくのに気付かずに健気なベアトリーチェは走り続けている。

 そして、幼子はベアトリーチェという物語に正当なエピローグとして、本当の死を所望している。

 そんな人間を私は見たことがなかった……。

 人間になりたい、という願望が私の脳裏に浮かんできた。片思いのように強烈な独り善がりの感情だった。

 

 いつしか、全身に痛みを感じていた。

 僕は絶対に揚羽を助けたい。多分、助けられないと僕の記憶が教えてくれる。けれども、僕自身がそれを肯定する事を許さない。

 交差点ですれ違う人々は誰もが幸福そうな影のない笑顔を大切な人に浮かべていた。その大切な人というカテゴリーの中に多種多様な愛が潜んでいた。父親の小麦色のがっしりとした腕に包まれて父親の髭を弄くっている少女、学生服を着込んでズル休みした事に何の引け目なく手と手を繋ぎ合う男女、赤いリボンを髪に飾った小さな女の子が白い大きな犬に引っ張られながら歩いている。

 それらの人々と顔がほんのちょっと、合っただけで僕は顔を背けて、自動車が創り出す波と排気ガスの耐え難い悪臭に咽せそうになった。

 拒絶したのに彼らの放つ愛の響きが僕を苦しませた。

 突然、自動車が一声にクラックションを鳴らし始めた。それが交差点の中央に立ち尽くす僕への非難の声だと、周囲を見回して赤信号に気が付いた。既にあの幸福の交差点は何処かへと消え失せていた。

 足が痺れていたが、まだ動けると無理矢理、感覚の無い足を動かした。とろとろと歩くしか出来ない僕を責め立てるように自動車のクラックションと運転手の罵声が僕の弱った心を突いた。

 やっと、安全な向こう岸へとたどり着いたのだが、そこで溜息を吐こうとした時に右方向から携帯電話を片手に背の高い短髪の男の運転する自転車に轢かれそうになった。だが、後ろから腹部を抱きかかえられて、僕は難を逃れた。

「危ねぇ、とこだったなぁ」

 僕を助けてくれたのは、警察帽を目深に被った警官だった。警官という堅い職業にも関わらず、髪を女性のように長く伸ばした眉間に皺を寄った男だ。ベアトリーチェはこの男は機嫌が悪いという予測を深い皺から読み取った。すぐに両手を頭に乗っけて防御の姿勢を取る。

「怒ってんじゃないんだぁなぁ。怒ってないよ。お兄さんはこんな顔なんだ。それよりもお嬢ちゃん、病院行った方が良い。傷だらけだよ」

 腕や足等を見回したが、既に血は固まっていた。行かなくても良さそうだと判断した。例え、血を出しても行かなければならない、揚羽のところへ。

 警官が分厚い手を僕の腹部から離したのを見計らって何も言わずに走り続けた。後方からは警官の心配そうな声が聞こえる。

「大丈夫かい、本当に! お嬢ちゃん」

 全力疾走は長く続かなかった。それでも止まらず、徐々に走る速度が落ちてゆくのを体感していた。首を左右に動かし続ける。揚羽の姿は何処にもない。

「創造主」

 憎しみを込めて呟いた後、急に足が動かなくなった。喉から異物が押し上がってくるのと同時に耐え難い吐き気を感じる。両手で唇の周囲を押さえた。押さえた事による効果はない。味噌汁色の唾液に包まれた未消化の米粒、豚肉の欠片、緑色の米粒よりも細かいキャベツ、細かくなった豆腐が口から飛び出した。

 僕は人目を気にせず、吐くしかなかった。止まってくれと何度も願いながら泣いた。

 今まで黙っていて視界にすら、入らなかった相棒である跳部の身体が僕の行く手を塞いだ。跳部の表情は解らないが、今の奴はきっと険しい顔つきなのだろう。

「もう体力の限界だ。能力のない身体ではもう、限界だ! ここまでにしろ!」

 叫んだ跳部の思いやりを僕は受け取ることが出来ない。

「いや」僕は跳部の身体を押しのけて前へと歩む。「知っているだろう、僕の初めての同い年の友達なんだ」

 自分の中から全てが出尽くすまで止まらないかのようにゆったりと流れ続けるゲロに構わず、僕は歩き続ける。薄い黄土色の液体が道路へと染みこんでゆくのが俯いていると、はっきりと認められた。

「だが、人には限界がある。身体を見てみろ」もう、既に見ていた。永遠が自分のバイト代で奮発して買ってくれた新品の黒いブラウスは、血入りの味噌汁が描かれているみたく変色しているし、きつい味噌汁と胃液の混じった匂いがこびれついている。雪が時計の次に僕にくれたレースアップブーツは完全に爪先が破れてしまっている。レースアップブーツの大きさとは不格好な小さな指先が覗いている。了の繕い方が甘かったとも思ったが、もう何年も履き続けてきたのだ。寿命なのだろう。所々、革本来の美しい土色が損なわれて薄くなっている。この靴と共に走ってきたんだ今回も……まだ、さよならはしたくない。チェックのスカートの裾部分にもゲロが付着していた。「それでも、走るのか?」

 周囲の人間の声が僕の心を陵辱する。

「なに、あの子……汚い。親はどんな育て方、しているのよ!」と二十代の女性の声。

 親の顔を覚えていない。ただ、母様は永遠おねえちゃんに似ていた。だから、永遠おねえちゃんを密かに母様って呼んでいた。永遠おねえちゃんを侮辱されたような気がした。

「うわ、こっち来るなよ。汚らしいガキだな」と三十代の男性の非難する声。

 僕は汚くない。みんな、可愛いって言ってくれる。

「味噌の匂い? 何、この匂い?」と十代の女性のげらげらと笑う声。

 頭の悪い猿は早く絶滅すればいいんだ。僕や雪達みたいな苦しみを味わっていないから社会は無知な猿を生み出すんだと、僕は言い返してやりたかった。ほとんど、今朝のテレビで禿猿が偉そうに話していた内容のアレンジなのだが、気に入っていた。

「あの子、具合が悪いの? お母さん?」と幼い声が聞こえた。すぐ後に母親の鋭い声が聞こえる。「美紀ちゃんには関係のないことよ」

 違う。関わりたくないからだ。僕だったら助けただろうか……迷子の僕を助けた揚羽のように!

 ただ、揚羽が微笑んでくれればいい、僕にもう一度。そんな思いが、それでも走るのか? と心に山彦になって響く声を破る決意を奮い立たせた。

「僕は我慢強いだ、知っているだろう?」

 腕で唇を何度も拭いて、ゲロで粘ついた手で拳を作った。その際に耳に残る嫌な音を聞いたが気にならなかった。

 格好良くの結果なんて……いらない!

 ただ、がむしゃらの結果が欲しい。

 追い風に乗るように足を風に乗せた。思ったよりも身体が軽い。

「知りません。貴女は我慢弱いですよ、小さなリーチェ」

 走り出した僕の隣で嬉しさを隠そうとしない揺れ幅の広い声が聞こえた。

 僕の姿を見て、人々は僕を避けてくれるようになった。モーセが海を真っ二つにして道を造ったように、僕はゲロを吐いて道を造ったのだ。


              


 創造主は時間の書と名付けられた黄ばんだ書物を片手に歓喜に震えていた。今彼女の中にあるのはお祭り前に沸き上がってくるわくわく感だ。その前夜祭とも呼べるベアちゃん奮闘祭を楽しんでいた。普段の薄暗い部屋をこの日だけの為にリフォームした。壁紙は空気が清潔そうな雪山の壮大さで飾った。床は畳を敷いた。一応、これからやってくるベアトリーチェが日本人であると考慮したのだ。

 これから、起こる事が記されている時間の書が読むだけで教えてくれる。それは創造主が時の流れに漂っていた書物を発見したから可能なのだ。それさえも既に決定づけられていた。創造主さえも時に踊らされている。彼女はそれが我慢できなかった。だが、今は感謝している。素晴らしい祭典のチラシを無料で配布してくれたのだから。

「あら、今朝のメニューはショウガ焼き、豆腐入りの味噌汁、ご飯、多分牛乳。可愛い姿になっちゃってクソベアトリーチェちゃん」前よりも立派な金の縁付きの鏡に映る哀れなベアトリーチェの姿を観察した。「この場合はゲロリーチェちゃんか!」

 そう言った後、丸い白テーブルに載っている牛乳を飲んだ。創造主は唇を舐めて、彼女のいる選定学園、別名世界が産まれる地付近にある牧場の搾り立て牛乳の味を貪った。近頃は味が落ちたという悪評が立っていたが、その通りだ。

 ベアトリーチェが牛の世話をしていた頃の方が上等なミルクを抽出できた。また、飼育員を公開処刑してから、産まれなかった命の世界に来たばかりの命達から新しい飼育員役を選ぼうと思案した。創造主はショウガ焼きを箸で掴み、焼き具合を確認する。懸念した通り、肉には赤身の部分が多かった。顔を顰めた。

 創造主の食事の用意は選定学園の生徒である永遠にやらせていたのだが、選定の儀式が始まってからはベアトリーチェと同じ年代の少年にやらせていた。

「あの少年……寮茄君だったけ? 殺すしかないわね」

 創造主は壁に背をもたらせて、こちらを射貫くような目線で見ている背の高い女性に目配せした。

 女性はそれには応えずに無言で歩き出す。

 女性の容姿は忌々しい半分、愛らしさ半分を創造主にもたらしてくれるベアトリーチェに似通っていた。朱い瞳に、硝子のように細やかで白い肌、おまけに胸の無さまでそっくりだ。だが、無力な幼子とは違い、女性には明確な力があった。その力を誇示するかのように歩く度に、女性の腰に鎖で結ばれた空想上の生物であるペガサスの彫刻の口から突き出た刃が煌めいていた。

 その剣の名は太陽の子。いずれ、ベアトリーチェが手にする定めにある聖剣と同種。

 その聖剣から発せられる白光のせいで、食事を続ける気力を失ってしまった。視線を白いテーブルの上に向けると、自分が持っていたはずの箸が味噌汁に浮かんでいた。

 沈黙という空気が創造主を縛り上げ、恐怖を無制限に自動構築する時間を与えた。

「もうすぐ、貴女は私と対等の力を得る」恐怖を自分の側へとやってきた女性に悟られないようにわざとらしく、言いながら目線は女性ではなく、ゲロを吐きながらも懸命に前へと進む幼子の映った鏡に注がれていた。「時間には誰も逆らえない! 解っているのに! この恐怖! この絶望感が私を悩ませる!」

 そう知っていた。知っているんだという言葉を何度も反芻する。

 太陽の子をベアトリーチェが手にしても自分に傷の一つさえ刻めない真実を曲げられない。何も反論しない女性の様子を見れば一目瞭然だった。

 無理矢理に笑顔を作り、創造主は箸を味噌汁の海から掬い上げた。

「なんてね、当たらなきゃ意味無し」尚も無口を気取るいけ好かない女性に言葉を向けた。それでも女性は何も喋ろうとしないので創造主は早口に言う。「太陽の子なんて立派な名前じゃなくて、幼女の戯れと解明すれば。ちびリーチェにぴったり」

 太陽の子を幼女の戯れと改名した時、女性はふいに俯き加減の目線を上げて、創造主の目を見据えた。感情の見えない女性の瞳は多量の白い髪の毛に遮られつつも、その一点だけ捉えて動こうとはしなかった。

「私は誰の味方も致しません。時の書の主が貴女を選択したのも誰の意志も問わぬ、時の流れの命ずるまま」

「ベアトリーチェそっくりに言われてもね」

「あの者は我が流れに近い者。それ故、似る」

「気に入らないわ」創造主は頬杖を付いて言った。「流れを決めるのは誰でもありません。一瞬のみ選択肢を絶対のものにする力時の瞬きを持つだけの存在、時の奴隷、それが貴女であり」その言葉の先を創造主は聞きたくなかった。太陽の子を手に出来なかった出来損ない。それに比べて幼くなければ、ベアトリーチェは時そのものを飲み込む存在と成りうる器という忌々しい言葉がいつものように続くだけだ。咄嗟に創造主は椅子から立ち上がって狂ったように拳を挙げる。「戦いましょう。傷つけ合いましょう。永劫に終わらない貴女の苦痛に華を沿えてあげる為に、一度は見逃してあげたベアママから貴女を盗んだんですもの」思い出したように言葉を添える。「早く大きくなるのね」

 その大人らしくない言葉に女性は溜息を吐いたと創造主は考えていたが、女性としてはただ、息を吐いただけだった。

「時間様はいつも、私の味方な癖に」

 と創造主は勘違いの嫉妬心を剥き出しにさせた。

 時間様と呼ばれた女性は旧時代の異物である創造主には興味なかった。女性の求めているのは自分を終わらせてくれる存在だった。歴史上、太陽の子を所有した者が歴代の創造主に勝利した事実がないと時間様は知っていた。それが故に期待している。

 太陽の子の力に飲み込まれない潜在能力の開花を! もう、時間という概念にひび割れが生じている。そのひび割れはベアトリーチェという矛盾を産んだ。

 創造主が食事に夢中になっているのを尻目に時間様は願う。

 その為に本当の自由をくれるベアトリーチェを何度も同じ時間へと送り続けた。

 自らを裁くことのできない時の囚人の唯一の叫びが部屋に広がる混沌へと墜ちた。


              


 あたしは大学へと行くのが気が重かった。何故ならば、成績の振るわない学生を集めた強化プログラムが今日から一週間、始まるからだ。

 歩道を歩きながら、何度も余計なお世話だ! と愚痴った。勿論、声を張り上げて言えば、たちまち周囲の人間から変人の認定を下されてしまうので囁く程度の音量だ。到底、心のもやもやが取れるはずもなく、今では霧のように心を覆っている。

 気持ちを切り替えようと、缶コーヒーを購入するべく自動販売機の前に立った。ジーパンのポケットから小銭を取り出したが、掌を開いて確認すると十円玉が七枚しかなかった。

「今日はそんなについていないのか」

 こんな日はベアトリーチェと揚羽の戯れを観察して元気を取り戻したいと自称、美少女研究家の恋下深希は思った。だが、それを試行する時間はなかった。腕時計は九時五十九分を指している。

 昨日、立てた計画が予定通りに進んでいれば、自分は大学の食堂で朝食を食べているはずの時間だった。それが狂いに狂ってしまっている。まず、起きた時間が八時三十分だった。これにはびっくりだ! という表情を浮かべながら起きたあたしは、すぐに着替えた。薄化粧を済ませると前日に枕元に用意しておいたショルダーバッグを肩に掛けて出かけた。少々、起きた時間は問題だが、急げば間に合うと顔はにやついていた。そんなに楽観視するなとタイムマシンが定価二十万円で市場に溢れていたら警告してあげたいと、今は後悔していた。まさか、自分がいつも、通っている通学路で人身事故の為に通行止めがなされているなんて。

「歩行者も通れないなんて、どんな事件だよ」

 と独り言を言いながらとぼとぼ、と歩き出した。

 せめて、美少女が何処かにいないかと目を忙しなく、動かした。だが、あたしのお眼鏡に適う美少女はなかなか見当たらない。目にするのは背広を着た中年サラリーマンとか、生意気な中学生とか、風呂敷を右手に携えた腰の曲がった老婆とかだった。

 ここでも不幸の余波が、と項垂れた。そして、顔を上げた時、ついにあたしのお眼鏡に適う美少女を発見した。

 首筋まで伸びた髪に褐色の少女という容姿は肌の黄色い日本人が数多く闊歩する街道にあっても大変目立っていた。

 日本人……。おそらく揚羽は純粋な日本人ではないのだろう。だが、その疑問はずっと、あたしの中に仕舞っておくつもりだ。誰にだって触れられたくない劣等感は存在している。それをまざまざと見せつけられたら、大抵の人間は潰れてしまうからだ。

 貴女の劣等感を発見していませんと、あたしは笑えているだろうか?

 犬の手提げをさげた褐色の少女は片側だけ、外跳ねしている髪を何度も、整えようと手で梳っていた。きっと、大切な出来事が少女のすぐ未来に訪れるのだろうとあたしは微笑んだ。もう、大丈夫だ。この微笑みの松明を灯している限りはと判断してもう一度揚羽に視線を戻した。

 凍り付いた。ここ(産まれた命の世界)にいるはずのない者がいる。

 その者は骸骨を両肩に鎖で括り付けていた。それは彼……もしくは彼女が初めて殺害した人間の骨と二番目に殺害した人間の骨だ。彼ら、もしくは彼女達……死に神にはそうする事によって武運を祈る風習がある。同時にその骸を付けている事によって一人前になった証と成している。

 顔は黒く塗りつぶされていて表情からは性別は愚か、感情すら見抜けない。

 危ないよ、揚羽!

 その一言があたしの口から発せられない。ただ、死に神と平和に日々を営む人々が同じ街道を歩いている事実に凍り付いていた。

 そうしている間にも、死に神は間違いなく揚羽を殺す為にゆっくりと揚羽へと近づいてゆく。

「ここで注意事項です。世界市役所の人間は僕たちと違って姿見せ許可書を持っていないので、市役所の人間を見つけても公共の場では無視しましょう」

 二年前の産まれた命の世界に出発する時のベアトリーチェの注意事項の一部が頭を過ぎった。正確にはベアトリーチェは文字が読めないので、雪が耳打ちする声をベアトリーチェが後からオウム返しに言っているだけだ。

「でも!」

 あたしは後ろに大きなポケットをくっつけた白いワンピースを着た揚羽をじっと、見据えた。

「無視しましょう」

 耳に掛かる雪の息が掛かる度に威厳に満ちた顔が崩れてゆくベアトリーチェの顔が、思考の嵐の真ん中に言葉が浮かんだ。

 あの笑顔はどうなる? どうするんだ、あたし?

「君がもし、その命を価値のない命だと判断して身を投げ出しても俺は必ず、君を助ける。意味のない命なんてないから」

 男性の声だ。初恋の人から言われた言葉だ。そうだ、大切な人は助けなくてはならない。自分が助けたいと望んでいるのならば! そうだよね、雪。そうすれば、 

 後悔する事は……

 足に全神経を集中させてあたしに睡っている力を解き放つ。

 ない!

 緑葉に埋もれたアスファルトを踏みしめた。

「助ける」

 と勇ましく蹴りつけたアスファルトは妙に柔らかく、あたしの足を揚羽からほんの少しだけ遠ざけた。

 滑った……という結論が頭に浮かんだが、

「な、どうして!」

 とあたしは迫り行く緑葉とは顔から接触したくないが故に、両手をアスファルトに突いた。間に合わず、顔以外の全てが緑葉と接触した。湿った葉から、水分があたしの衣服へと移ってきた。葉はあたしの視界の中で風に煽られて残念でした、とせせら笑っている。

 水の冷たい感触よりも、もっと冷たい感触が、凍てつく声が、あたしの耳に届いた。それは人間の声なのだが犬や猫が喧嘩している叫び声に聞こえた。それを追うようにして、人々の只ならぬ怒号と悲しみに満ちた叫び声が、平和だったはずの世界を包み込んだ。

 結果は解っていた……。死に神課の連中は残忍な奴らで構成されている。

 普通の人間には見えない死に神が、自分の所業を確認するように肉塊の海を何の感慨もなく、眺めている。

 揚羽は何処へ、消えてしまったのだろう? 目に移っている無数の物体は何だ。不条理の世界は一つとしてないのだから、それが揚羽だ。

 あたしは揚羽! と言おうとしたが、それは自分の耳を通して、自分が確認しても言語には成り得ていなかった。そんな鳴き声を立てて、あたしは揚羽に駆け寄ろうとした。

「揚羽! 揚羽! 揚羽! 揚羽!」

 肉の塊へと駆け足で走っていく小さなリーチェが叫んだ。その叫びは人々に同情の言葉をもたらした。

「可哀想によく解らないけど……お姉ちゃんなのかしら?」

 という言葉を筆頭にしてオウム返しにただ、お姉ちゃんという立場を人々は思い思いにアレンジする。

 妹さん、お友達、部活の仲間、知り合い、従妹、腹違いのお姉さん……とよくもまぁ、そんなに出てくるものだ。

 人々は口に出さずとも期待していた。

 さぁ、可哀想な、可哀想な幼女よ。私達に悲劇という名の名画を見せておくれ。お代は君への同情で支払おう。

 彼らは立ち止まって揚羽だった物体を、遠巻きからそう見ているに違いなかった。

 心の中で人を信じる心が否定した。

 ならば、立ち去るなり、警察を呼べばいいじゃないか!

 誰一人としてベアトリーチェを助けようとしない。これが世界の真実なの……とあたしは絶望した。絶句した。

 産まれてこなくて正解だったんだ。こんな醜い世界!


           


 僕は間に合わなかった……。

 深希が僕から与えた力を行使したのに気が付いた時は間に合ったと思った。後は死に神課の連中を始末すればいい。そうすれば、これをゲームとして見ているはずの創造主は揚羽から手を引くはずだった。

 だが、目の前にある光景はなんだ……。ばらばらじゃないか! いや、まだ揚羽は生き返せる。まだ、揚羽のパーツはそこら中に散らばっている。

 集めなきゃ! 僕が一欠片も残らずに集めなきゃ!

 僕は血の海に浮いている揚羽のパーツへと駆け寄った。何人かの猿が僕を止めようとしたが、振り払った。

「邪魔するな、猿」と荒々しく言って鎖に繋がれていた子猫の縫いぐるみを、最期に行く手を塞いだ雌猿に喰らわせた。それでも止めようとしたが僕の方がそれよりも早かった。僕は尿、糞、唾液、胃液等の匂いが入り交じっていて所処、黄色や茶色が朱と交わっている海に膝を付いた。ぬるっとしたが嫌な気分にはならなかった。悪臭だって気にならない。「揚羽! 大丈夫、僕は君を嫌わない。親友じゃないか」

 揚羽が恥ずかしがっているはずだから、僕は慰めの言葉を、揚羽の唇に掌を載せて言った。

「ベアトリーチェ、逃げてゆくぞ!」

 その言葉の意味は知っていた。だが、どうでもいい。死に神課の者に用はなかった。今は揚羽を直してあげるのが僕のしなきゃいけない、唯一のこと。

 だから……

「何! うるさい!」

 邪魔しないで、跳部!

 僕は揚羽のさげていた犬の手提げに揚羽を詰めようとした。まずは揚羽のパーツを一カ所に集めなくてはならない。揚羽のパーツを一つ、一つ丁寧に拾い上げる。心臓の鼓動をもう一度宿す胸部、もう一度僕と共に走ってくれる足、もう一度僕に笑いかけてくれる頬、さらさらだねと僕の髪を優しく撫でてくれた手、僕との思い出を共有している眼孔を拾う。僕は妖精だから治癒魔法が使えるんだ。永遠おねえちゃんのプレイしているゲームの妖精さんも使えたんだから僕にだって。

 揚羽を詰める予定の犬の手提げを逆さにした。余分なものが揚羽を汚さないようにとの僕なりの配慮だ。逆さにした瞬間、中に入っていたラブレターが風に呷られて、街路樹の下の地面へと着地した。

 僕は血でラブレターが読めなくなると考えて、自分の黒いブラウスで両手を拭った。ラブレターの封を乱雑に開封する。

 そのラブレターが僕もちっぽけな人間だと教えてくれた。

 もう、揚羽に会えない。僕の親友は君だけなのに。涙が溢れた。声は出ないのだけども涙だけは溢れる。涙には苦しみを和らげる効果があると、雪から聞いた事があった。でも、今は苦しみに留まって欲しい。

 この苦しみも揚羽なのだから!

 もう一度、親友からのラブレターに目を通す。


 やっほ! やっほ!(山彦効果) 大親友のベアちゃん、こんにちはっす!

 ベアちゃん、ずっと黙っていた事があるんだ。言葉じゃ説明しにくいから手紙にしてみましたラブレターバージョンです。

 揚羽は黒人と日本人のハーフという奴でそれが原因でいじめられている女の子です。ベアちゃんと釣り合わないとずっと、思っていました。

 けど、けども! 友達を融合させて凄くした親友でいたいんです! だから告白しました。こんな揚羽ちゃんでもずっと親友同士でお願いします。

 ちっぽけなわたしでは駄目かも知れませんが……。


「僕は平仮名しか読めないんだ、御免……」揚羽の瞳に覚束ない口調で語りかけてから鼻を啜った。けれども、鼻水が滝のように流れてきた。まるで揚羽と共有した時間の門を固く閉じるように流れてくるのだ。僕は叫ぶ、枯れ細った声を大にして叫ぶ。「揚羽。でもね、君がいじめられていたって解った。きっと、僕に助けて欲しかったんだな」

 仰いだ空はいつのまにか、濁った白い雲に覆われていた。鼻水で詰まった鼻先に湿った匂いが悪臭に混じって入り込んだ。

 雨だと、僕は思った。

 それと同時に僕の頭上を生暖かい水滴が掠めた。雨から揚羽を守るべく、両手に持てるだけの揚羽の欠片を胸に抱き寄せた。

「ベアトリーチェ、あたし……」

 戸惑ったような声の主が解らなかった。一巡した思考の後に深希だと判断した。全身を怒りが駆け巡った。その余熱は憎悪と嫌悪を産んだ。

 僕は心の底から、恋下深希を憎む。

「お前は助けられたはずだ! 揚羽を! お前が代わりに死ねばいい!」

「うん、そうするよベアちゃん」

 良い心がけだと、僕は唇の両端を緩めた。

「そうしろ」

 僕は両腕に揚羽の確かな暖かみを感じながら茫然と立ち尽くした。

 解っていた。あの憎悪はこれだ、と……。

 ならば、揚羽を失っても僕はまだ、足りないというのか。唇が小刻みに揺れる。

 雨は僕の身体を濡らし続けていた。傍観者の猿共は知らん顔をしたり、僕の哀れな姿を携帯の撮影機能で撮影するものさえいた。

 やがて、来た警察が揚羽を連れ去ろうとした。僕は揚羽が寂しくないように自分の腕と手錠に繋がれた子猫の縫いぐるみを外した。

「ユキ、揚羽を頼んだぞ」

 と子猫の耳を甘噛みをした。揚羽に、と若い警察官に手渡した。若い警察官は一瞬、困惑した表情を見せたが、気持ちの良い笑顔と共に承諾してくれた。

「君の話も聞きたいからパトカーにお友達と一緒に行こう」

 若い警察官は路肩に停車してあったパトカーに目線を向けたが、僕は首を振ってから走り出した。

 縫いぐるみのユキと離れるのは初めてだったが、寂しいとは感じなかった。寂しさという感情を越えて憎しみが先立っていた。

 大丈夫、ユキは寂しさから僕をいつでも守ってくれたんだから。お風呂に入る時やトイレに入っている時までも。立派な騎士だ。


           

 

 始まっていた。僕にいつも、新しい力を与えてくれた僕と同じアルビノの女性が僕の目の前にいて両手を広げている。それが幻だということは解っていた。その幻は常に僕の前方にいる。

 走る度に頭痛と一緒にゆらゆらと視界が揺れている。それでも僕はダーウィンの敷地内にある庭へと急ぐ。

 僕が予想したとおり、産まれなかった命の世界へと繋がる螺旋階段は壊されていなかった。創造主は僕に会いたがっている。拳に力が籠もった。庭に設置された大きな砂場、周囲の視線から庭を遮っているブロック塀、誰かが忘れていった蒼いボールといった憎しみとは関係のないものを睨み続けて、眼球が飛び出そうだった。

 無言で幻の女性に語る。

 早く、揚羽と同じ目に創造主を合わせる素晴らしい力を僕にくれ! 今度こそは創造主を殺してやる。

 まだ、憎悪が十分ではないとでも言いたげに幻の女性は微笑していた。

 お前も僕を虐めるのか、とその女性に飛びかかろうとした。だが、それは実行されなかった。

「何をしに行くんだ僕の小さなリーチェ」

 と言う雪の猫撫で声が聞こえたからだ。僕はさながら、きまぐれな猫が飼い主に擦り寄るように右足を微かに動かした。そうしている自分の憎悪の感情と雪に構って欲しいという甘えの感情が心に同居してしまっている。

 気付いて僕ははっとした。

 揚羽が殺されたのに悔しくないのか! としゃがんで、何度も雑草の生い茂った地面を殴った。少しでも揚羽の痛みを共有するように、数々の時間を共有したように。

 口元ではいつしか、揚羽が創造主に殺されたと、呻きにも似た醜悪な声で何度も繰り返している。

 何度目か、拳を振り上げた時、雪の手が僕の腕を掴んだ。それでも僕は目の前にある雑草が横倒しになった地面を睨み付けた。まだ、血が滴り出てないじゃないか。

 僕は必死に腕を動かそうとするが、動かなかった。上歯と下歯を摺り合わせてさらに力を加えようとした。

 僕の耳に僕以外の泣き声が混ざっている。びっくりして、立ち上がって振り返った。

 雪が泣いている。僕より六歳も年上の物静かな男が泣く姿を初めて知った。顔を暖炉の火のように真っ赤に燃えたぎらせていた。その炎に近寄っただけで一瞬にして灰にされる危険性のある殺意が籠もっていた。それは無差別に見開いた雪の瞳から放たれていた。僕は新たな雪の一面を逃さないようにその瞳を見つめていた。殺意の炎に怯えるどころか、僕は惹かれている。眉間に寄った皺を解すように眉間から鼻先へと、雨によって揚羽の血が落ちた手を滑らせた。両手は簡単に解けたのだ。

 しばらく、雪の傘の下で僕と雪は茫然と立ち尽くしていた。雨で濡れた心を怒りの炎が渇かしてくれたが、身体の冷えが心を凍り付かせた。

 身体が痙攣のように一度、震えた。雪が僕の髪をハンカチで拭きだしたのを合図に僕は口を開いてみる。

「僕は創造主を殺す」

 何の感慨もなく、その言葉は口から出たが、言葉が言葉として産まれた瞬間……僕は殺意を持った。憎悪ではなく、明確な殺意。アナログではなく、デジタルに創造主が僕にナイフで刺されて息を絶え絶えにさせている映像が鮮明に浮かんだ。

 笑う。

 雪に頬を拭いてもらいながら、場違いな笑みを浮かべていた。両頬は笑窪に場所を取られて外側へと後退りしている。

「無理だ」と雪は呟き、僕の肩に両手を載せて雪の鼻先が僕の髪に埋もれた。頭上に温かい感触を感じた。「無理じゃない! 僕には!」

 と叫んだ。こんなにも頭の中で創造主が簡単に死んで行くのに、僕に殺せないはずがない。

 僕は力を求めて、幻の女性に目の焦点を合わせる。

 ありがとう、これで殺せる! 殺せるぞ、揚羽、喜べ! と唇がその言葉を言いたげに震えた。女性が両腕でペガサスの口から飛び出した刀身を持つ剣を抱きしめているのだ。

 僕がその剣を欲しいのに気付いたのか、女性は淡々と喋り出す。

「再び、世界を変える為の力を与えよう……。時の流れがなすがままに資格が降りた」

「僕には力がある」

 雪にそう言った途端、両肩を載せているだけだった雪の両手が僕の目の前で結ばれた。

 差し出された剣の名前は不思議と僕の頭に入ってきた。太陽の子、と。

 だが、雪が両腕で創り出した愛情の檻がそれを取らせることを躊躇わせた。

 女性は僕の胸に剣を押しつける。剣には鼓動があった。生きているみたいに刀身から心音が聞こえる。それに驚愕している僕を置いて女性は語る。

「求めよ、更なる力を。雪を守るだけに生み出された疾風、」四歳の僕は僕の世界を守ってくれる唯一の存在、雪を誰にも渡したくなかった。同時に雪を傷つけようとする者が、自分を傷つけている者がいるかもしれない事が恐ろしくて仕方がなかった。そんな止め処ない恐怖の霧は今も僕の夢に繰り返し出てくる。正夢になった時、守る力が必要だったんだ。どんなに離れていても物を素早く、投げつけていじめっ子に損害を与える力を望んだ。「雪と共にいつまでもいられない悲しみから生み出された俊足、」雪が自分と共に死ぬと雪に出逢う前から知っていた。五歳の僕はまだ、足が今よりも速くなれば、雪とずっと一緒に居られると思い込んだ。だから永遠に駆けっこが早くなる方法を教えて貰った。それはゴールを見失わないで懸命に走ること。「人を殺害する痛みから生み出された炎の雨、」選定者と廃棄者の仕事を無給でこなし、その過程で人を殺害した。生じる罪悪感に苛まれては、永遠と雪の間で僕は二人の手を握り締めて何度も泣いていた。殺さなければ、雪と永遠を創造主に奪われてしまうと言い訳がましい言葉を口ずさんでもいた。

 僕は女性の言葉に続いて力を得た瞬間の事を思い出し続ける。それは苦悩の再生だった。

「海中に逃げた廃棄者を取り押さえるべく生み出された水の圧力、」

 その力を得たのは七歳の時だった。これまで何の査察も入らなかったのに創造主の鶴の一声で査察が決まった。査察の内容は廃棄者としての僕の働きぶりだった。水面上に逃亡してしまった廃棄予定の人間を僕はただ、立ち尽くして見下ろすしかなかった。当時、僕は泳げなかった。そんな僕に対して創造主は携帯電話ごしに失敗したら雪と永遠を殴り殺すとラップ調に楽しげに言った。僕は新しい力、水の圧力で廃棄予定の人間を水圧で圧迫死させた。その日は僕の八歳の誕生日だった。

 全てが終わった後、創造主は僕におめでとうと言って、さも自分はとても良いことをしたというような毅然とした態度だった。

 それを思い出しただけで僕の瞳は女性の持つ剣へと吸い寄せられた。ペガサスの眼は僕の心を見透かすが如く、鋭い目つきだ。いつもの僕ならば、後退りしただろうが今は何も怖くない。

「空熊を助けようとして創造主と対峙した際に生じた重力の楔、」空熊に跨って、言葉を喋る空熊の群れと空を駆けていた時、空熊の赤ちゃんが誤って選定学園へと突っ込んでしまった。ただ、突っ込んだ部屋がいけなかった。創造主の部屋だった。僕は慌てて、重力の楔で創造主を足止めしようとしたが効かなかった。その日の晩、僕が育ってた空熊の赤ちゃんは創造主の手によって焼かれて僕の口に無理矢理、押し込まれた。

 どんな事があっても、創造主とは本気で闘うなと言われ続けてきた。雪から、了から、永遠から……そして、自分の孫を無惨に殺された空熊の村長であるルーベリからも。

「我が子、ベアトリーチェ。よくお聞き。世の中には諦めねばならぬ事がよくあるのじゃ。それは生きてゆく為には必要な臆病さだ。自分を見定めよ」

 そのルーベリの声が僕に女性よりも早く言わんとしている事を言わせる。

「僕の親友、揚羽の最期の意志が生み出した剣を僕は受け取る」

 女性が深く頷き、徐々に消える。白い髪に隠れた瞼が優しく垂れ下がるのを僕は見た。女性の抱いていた太陽の子は宙に浮いていた。それが雪にも見えるのか、僕の胴体を握り締めて身動きを取れなくした。

「僕は君を失いたくない」

「それは何としてだ?」

 雪は唾を飲んでから、

「僕と永遠の子として、だ」

 と冷静にゆっくりと言葉を紡いだ。

 その言葉が僕を怒らせたとも知らない雪は、僕の動きを拘束していた両腕を解いた。直ぐさま、雪の脇腹を平手打ちした。手が頬に届かない自分の身長差と年の差がリンクして苛立たせる。頭の中が散らかったのをそのままにして僕は叫ぶ。

「何も解っていない、解っていない、雪は!」

 その言葉と同時に太陽の子が使用者を防衛する機能を利用して、防壁となる衝撃波を地面に向かって打ち付けた。僕の小さな身体は急速に地面から離れて、螺旋階段の中腹に着地した。

「ベアトリーチェ!」

 と呼ぶ雪の声には耳を貸さなかった。

 何故、僕の気持ちに気が付かない! 本当は撫でて欲しくなかった。それよりも大人の口づけが欲しかった。雪そのものを僕は求めているのに対象としても見られないのか!

 様々な怒号が僕の口を閉じさせた。

 気の利かないリボルバーの跳部夜須久は先程からふわふわと僕の視界の隅に入ってきた。何か、言いたいのはその奇妙な動きで推測できた。言えばいいと腹が立った。

「勝利する見込みはあるんですか、相棒」

 僕はわざとらしい息を吐いた。

「太陽の子は創造主に通用する唯一の聖剣」

 おそらく、と言った僕だったが確信があった。太陽の子を持った時に今までの九十八回分で試された剣の扱い方が脳に当然のようにあった。先程の衝撃波の利用は二回目の僕が残せた扱い方だ。どうやら、太陽の子は不安定だが創造主の力処か、自分の時間を広げる能力があるらしい。

 それが一度のみ使用可能な奥義、歪曲の羽根。

 それを知った今は螺旋階段を上る足取りは軽い。

「今、行くぞ! 性悪女!」

 先を急ぐべく、強い衝撃波を足場に発生させて空へと舞い上がった。


         


 創造主の覗く鏡には血みどろの黒いブラウスとチェックのスカートといった出で立ちの小さな女の子が、空へと舞い上がっている映像が映っていた。鼻を摘みながらその映像を見ていた。

「来なさい、ゲロリーチェ!」意地悪く創造主はそう言い、手で鳴らすタイプの呼び鈴を鳴らした。「来られるものならば、ね」

 黒いスーツに身を包んだ短髪の男性が恭しくお辞儀をしてから入ってきた。そのお辞儀に創造主はふんと鼻を鳴らして応えた。

「死に神課、武器課、拘束課、終末課の総員のうち、三分の一を空に配置しなさい」

「え、三分の一を空に?」

 創造主の言った課の人数を男性は頭の中で計算した五千人ほどだ。それを空という足場の効かない場に招集するのだから男性が聞き返すのも無理はない。

 創造主は聞き返した男性の顎を蹴り飛ばした。顎を蹴り飛ばされた男性はその顎をさすりながらも自分が何故、蹴られなければならないのか、見当も付かなかった。

 姿勢を正そうとする男性に対して、頬を平手打ちする。

「ベアちゃん、こうしたかったのに可哀想に背が足りないのよ、背を伸ばすにはどうしたらいい?」

「あの言っている意味が?」

「真面目ね、私はそういうの嫌い」

 その創造主が何気に言った言葉が男性を震え上がらせて半歩、後退させた。その理由に気が付いていながらも半歩、創造主は前進してから命令する。

「白い空熊に乗ったベアトリーチェが空にくる。お仲間の空熊どもを引き連れてね。奥義を撃たせなさい」男性は仰々しく、頷いた。その男性は既に創造主の眼中に無く、手を顎に添えて思考に暮れる。「そうね……」白いテーブルに置かれた時の書のページを捲る。目的のページで手を止めると、「これはまさに愉快な手」と呟いてこれから起こる出来事を想像して身悶えした。

「私達に世の災いと戦えというのですか!」

「私に殺されるのと、ベアちゃんに殺されるのどちらが良い? まだ、ベアちゃんの方が優しいかもね。私、激しいの」

 打たれた頬に手を添えている男性の顎を箸でぐっと持ち上げて、低い声で脅した。男性が恐怖に震えているのが箸を通して、創造主の身体へと伝ってきた。

「闘う準備を整えておきましょう」

「よろしい」

 一連の会話を聞きつつ、白い髪の間から時間様の朱い瞳は自分と同じ白髪のベアトリーチェの懸命な様相が映った鏡を心、ここに在らずと見入っていた。

 鏡の向こうではベアトリーチェが草原を爪先が穴の開いたレースアップブーツを履いて先を急いでいるのが認められた。おそらくはこの先にある空熊の牧場にでも行くのだろう。

 創造主も同じ映像を鑑賞していた。

「どう? お気に入りのベアちゃんの奮闘ぶりは」

「いいえ。私は中立です」

 感情のない声で反論する時間様に創造主は嘘つきな女だと思った。私には何の救いの手も差し伸べてはくれないのに、ベアトリーチェが寝ている時に優しく髪を何度も撫でているという優しさを見せる。

 そう考えを巡らせるだけで自分が他の世界にただ、独りだけ取り残されている寂寥感が募ってきた。

 創造主は目の前に直立不動で立っている男性に行け、と顎で扉を示した。男性が歩き出すのを見て、ベアトリーチェ虐めは次の段階へと移行したのを悟った。

 命と命の取り合いに……。


          


 街を俯き加減に彷徨っていた。雨は止め処なく、降り続けていた。

 あたしは抜け殻になってしまったのだろうか、不思議と何も感じなかった。心は勿論のこと、先程から歩きにくいと思ったら両足がぎこちなく動いていた。身体の痛みさえ、感じないのだ。

 ただ、ベアトリーチェがあたしに向かっていた死ねばいいという言葉がとても正しいように聞こえる。いや、正しいのだ。

 薄霧の掛かった世界に在っても、人々は自分達の生命活動を止めない。レインコートを着た郵便配達員がバイクに乗ってあたしの歩いている歩道を通り過ぎた。そのバイクのタイヤが撒き散らした泥水があたしのジーパンに掛かったが、もう既に雨によってジーパンの薄紺色は濃く染まっていた。乾いている上衣が無かったので代わりに着てきたワイシャツもめでたく、中古のおんぼろ洗濯機の中に仲間入りだ。だが、あたしの心が晴れない限り、洗濯機が動き出す事はもはやないだろう。何の感傷も浮かばない。

 あたしの前方には母親と手を繋いで身体を揺らして歩いている四歳くらいの女の子が、今日の晩ご飯の話を母親としていた。母親が今日はお魚さんだよと微笑むと、四歳の子は無邪気にハンバーグと駄々をこね始める。次第に二人の歩く速度は遅くなった。会話に集中しているのだろうけど、あたしは早く、自分を消したかった。でも、その親子の前途有望な後ろ姿を見つめてしまった。十四歳の少女を見殺しにしたあたしには泣く権利なんかないと堪えていた涙が溢れ出した。

「ハンバーグじゃないとくーちゃん食べないもん」ときつく母親を見上げるくーちゃん。

「駄目よ! 久美ちゃん、昨日はハンバーグだったでしょう?」と叫ぶくーちゃんこと久美ちゃんの母親。

「だっておかあさんのハンバーグ、美味しいんだもん」と言った後、くーちゃんを凝視する母親に自分の手をめいっぱい広げて何かを表現したかったようだが、上手くできずに目を潤ませる。「星形のハンバーグで中に入っている人参が兎なんだよ」

 その言葉にはっとした母親だったが、

「もう、しょうがないわね、その代わり来週の幼稚園の遠足には駄々を捏ねないで行くのよ?」

 そう言って我が子の右肩に優しく、手を置いた。

「駄々って?」

 不思議そうにくーちゃんは首を傾げた。

「遠足、にこにこさんで行きなさい」

「はい、おかあさん!」

 元気なくーちゃんの声があたしに人間らしい感情の起伏を呼び起こした。

 なんて、優しい会話なんだろう。それに比べてあたしはどうだ?

 この世界に来ていつも自分の存在を他の同姓の輝きを求める事で誤魔化し、それが適わないとなれば自己否定していた。自分にもあの親子のような日向の人生が歩めたのではないか、いや、もうそう望む権利はない。

 あたしは足早に日向にいる親子を追い越して、日陰の人生の終着駅へと急ぐ。

 終着駅から無という電車に乗る前にどうしても別れを伝えたい人がいた。それはあたしの義務でもあり、二人の人間の人生を狂わせたせめてもの礼儀でもある。

 この期に及んで礼儀なんて言葉は当てはまらないかと、顔を引き攣らせて不気味な苦笑をした。

 ワイシャツのポケットの中で携帯電話が爽やかな流行歌をけたたましく鳴らしていたが、ちっとも気にならなかった。

 ただ、あたしは目の前に在る建物だけを鑑賞していた。この店があたしの人生最後の立ち寄った場所になるのだ。

 コンクリート壁を黒塗りで統一し、窓硝子を外部から覗けないように遮光硝子にした建物の入り口の取っ手には、天秤座というプレートが掛かっていた。それだけがここは店だと示しているのだが、中に入らなければ何を扱っているのかは全く不明だった。

 あたしは深呼吸してから、その取っ手を回して建物内へと入った。その時には携帯電話の着信音は途切れていた。爽やかな流行歌は電話の時に鳴る設定にしてあったと思ったが今更どうでも良かった。

「いらっしゃいませ」

 開いた瞬間、待ち望んでいましたとばかりに騒がしい声が聞こえてきた。

「ごめん、あたし」

「なんだ、貴女様ですか、へぇ……」

 何故か、ブラックジョークと肩を組んで一緒にレジ前に座っているこの店の店長である倉本静がそう嫌そうに言った。

 ブラックジョークにはプライスカードが首から掛けられていた。命は大切なのよと書かれている。

 それを見て顔が緩んでしまったが、それも一瞬だ。沈んだ表情のまま、静に唐突に言う。

「別れを言いに来ました」

「え、何、言ってんのよ。ブラックジョークのつもり?」

 ブラックジョークを指さして静は豪快に笑った。つまらないジョークは本人とって、最高のジョークだったらしいと見える。

「そうです」

「つまらないわよ」

 その言葉に何の言葉も言い返せずにただ、じっと立っていた。まるで物言わぬブラックジョークのようにただ、不気味に。

 あたし達のいる場所、レジ前を照らす蛍光灯は両方とも何度も明滅していた。それが事の異常さを演出している。演出ではなく、本物の別れの光景なのだとあたしの破れぬ沈黙によって静も理解したのだろう。

 あたしがバイトに入る時間より五時間近くも早く訪れた事に歓迎の意を示していた笑顔が曇り始めた。

「ちょっと、どうしたの?」

 割れ物注意と貼ってある宅配物のようにあたしの心に優しく触れようとしてくれた。でも、それは不要だと寂しげに笑った。

「助けちゃったのはあたしの判断ミスだったから貴女だけにはちゃんと別れを告げたかった」と言った後、「ごめんね、もう耐えられない」

 と言う言葉を付け加えた。別にそれに意味は無かったのだと思う。いや、もう全てに意味は無くなってしまうのだ。この別れが産まれた命の世界の歴史に刻まれる事は決してない。

 事情を知らぬ静は困惑していた。レジ台に両肘を突いて、組んだ拳を淡い口紅で彩った唇に押しつけていた。そして、唸るような声を少し上げた後に考えが纏まったらしく、拳から唇を解放した。

 その結果が、

「何、それ?」

 と軽蔑の混じらない純粋な疑問の声だった。

「信じられないかもしれないけど、聞いてくれる。あたしの贖罪」

 柔和な顔つきをあたしに向けてじっと見つめている。聞くか、どうか、というよりもどういう姿勢で臨むべきだろうと考えているような嫌悪のない目つきをしていた。

「良いでしょう、聞きましょう」と言った後、静はすっと立ち上がる。ドアの取っ手にあるプレートを外して、内側から鍵を掛けた。「なんたって深希は私の命の恩人でしょう」

 そうなると予測していたが、伝えたい反面と出来れば伝えたくない反面が今も自分の奥底で(せめ)ぎ合っていた。

 だが、自分は有終の美を飾るのだと潔さを選んだ。


           


 ベアトリーチェが登っていた先を雲村雪は心配そうに眺めていた。ベアトリーチェからささやかながらも力を与えられた身でも、実態はただの人間に過ぎない雪には螺旋階段を登る資格がなかった。ベアトリーチェ無しで登れば、たちまち稲妻の大群に撃たれるからだ。だが、雪は行こうとしていた。

 恐怖に身を竦めつつも、足を一歩ずつ動かす。

「お兄様、駄目ですよ。そんな無謀な。ベアちゃんは喜びません」

 先程、雪が呼んだ了、李緒、永遠のうち、永遠が雪の首根っこを掴まえて言った。深希にも連絡したのだが、携帯電話に出ることはなかった。

 雪は振り向いて、怒ったぞというメッセージを表情で記したふくれっ面の永遠を確認すると、冷静さを取り戻した。みんなを呼んだのはベアトリーチェに力を貸す方法は何かないか? と知恵を出し合う為だ。我が儘リーチェが本気で我が儘を言い出して引いた事はあまりに少ないので今更、ベアトリーチェを説得する気は失せていた。

 雪は自分の呼びかけに集まった自分と同じ選定の儀式を受ける者達を見回す。

「わーちゃん、現状だと私達の不思議パワーに頼るしか術はないですね」

 綺麗な赤いパーティードレスの裾を両手で持った李緒が、上品な口調にのんびりと言った。胸元近くで拳が掲げられていた。気合いは十分のようだ。そんな友達の空回り気味のやる気を適量値に戻すべく、永遠は李緒の拳を丁寧に降ろした。

「李緒、不思議パワーじゃなくて前に魔法で統一しようって決めたよね?」

 演技だと直ぐに発覚するような大袈裟すぎる顔を歪ませた嫌悪を李緒に向ける。李緒は友達のあまりに不気味な面に閉じていた唇を微かに開かせた。

「そうでした」

 と笑いの入り交じった聞き取りにくい声で李緒は応えた。

 傘を首と肩の間に挟んで器用に、口に加えた煙草に火を灯していた了がさらに喋り出した。

「雪の疾風」と了は呆れた顔つきの雪を指さす。何だか知らないけど、元気を出せよという思いを込めて雪にウィンクしてから了は自分の額をライターで指さして、「俺の重力の楔」と言った。「那世李緒の炎の雨」「永遠の水の圧力」と続けざまに本人に台詞を横取りされてしまい、首を傾げてから雪に訴えかける。「で何になるんだ」

 雪を指さした煙草は早くも空気中に灰を撒き散らす。煙草先の真ん丸い熱の塊を雪は見つめつつ、思案に暮れようとした。だが、そうはさせてくれない者がいるらしい。誰かが雨に濡れた砂場を踏みしめる摩擦音で察した。

 雪は優雅な半回転のターンで鮮やかにその方向へと身体を向ける。

「どうした」

 と言葉を言った後、雪の見ている場所に目を向ける。了は煙草を口に加えてせっかく、煙草を吸って頭をリフレッシュさせているのに無駄にするなと招かれざる客を険しく観察した。

 観察しているのが丸わかりなのに萎縮せず、さも自分がいつも優位に立っていると背筋をぴんと伸ばしている。まず、これが了にとっては気に食わなかった。さらに気に食わないのが、両肩に頭蓋骨を括り付けるファッションだ。彼らの風習だと、雪に選定学園にいる頃に教わっていたがいつも、目につく度に気味が悪かった。永遠と李緒も同じ感想を持っているようだ。雨が打ち付ける地面へと顔を背ける。

 流石にベアトリーチェの仲間内のリーダーである雪は能面のような動じなさを相手に見せて、君達は決して優位には立っていない。私達は対等だ、話し合おうと誘導させようと試みている。

 その姿に感嘆したあまり、了は小さく口笛を吹いた。それが合図だったように雪から相手へと話を切り出す。

「俺達に何か用でしょうか? 死に神課の方々」

 砂場にいた五人の死に神のうち、一人がその言葉を聞いて雪にお辞儀を返してから、

「どうも、ご丁寧にありがとうございます。たいした用ではないんですがね、用があるんですよ」

 と役人にありがちな猫撫で声でそう嫌みを言った。だが、そこに浮かんでいるはずの感情は黒ずくめの顔の為に読めない。その顔は見る者を動揺させる。李緒は永遠の制服のカラーを握り締めていた。

 永遠は兄に助けを乞うように兄の顔を見上げる。永遠自慢の兄は今も一人、冷静に死に神達に視線を向けて、背広のポケットに片手をさり気なく突っ込んでトランプをいつでも跳ばせるようにしていた。

「お兄様、どうします?」

 雪は永遠の言葉に額を指さして、じっと何かを考えてる。それを永遠、了、李緒が固唾を飲んで見守る。

 雪は額から人差し指に汗が伝うのを感じつつ、相手が一カ所に集まっていては勝ち目がないと相手の持つ武器を備に分析する。それぞれ先程喋った男はライフル、その他の者は大剣、鞭、弓矢、槍を持っていた。この構成ならば、近距離でも遠距離でも優勢に戦える。

 今は相手の出方を待つしかないと、雪は永遠の前に立った。

 それを見ていた大剣を肩に置いている者が雪へと近寄ってきた。

「私達は雲村雪にだけ用事がある。他の方々は席を外してもらいたい」どうやら、声から察するにこの者は女性のようだと、了は煙草を地面に激しく投げつけて思った。「単刀直入、話しましょう。貴方を創造主の名において、拘束します」

 大剣の女性の言葉の後に、翁特有の優しげなのんびりとした口調で鞭の老人が締めくくった。

 別段、戸惑うことはないと雪達は各々、感想を持った。ああ、やっぱりかと。創造主はベアトリーチェと真っ向から闘う気などさらさらない。大方、ベアトリーチェが一番懐いている雪を人質にして一方的に殴る蹴るの暴行を与えるというシナリオなのだろう。

 雪は怒りを収めろと震える人差し指から脳へと指令を下す。怒りは他者に余計な懐疑をもたらす。そして、他者に早まった冷静な判断を下す時間をも与える。ここは自分が何の推察も出来ない愚かな男を演じる。そう心に留めた時、堅かった表情が軟らかくなってきた。

 そうだ、なるべく、危害は与えませんと嘘ぶるんだと内面では語っていたが、

「俺が何を? それに……」

 外面は仕留めやすいターゲットでいる。

 その言葉が微笑と共に雪に現れたのを確認して、永遠は弓矢を持つ者の場へと水を降り注ぐために神経を集中させる。了はそれを横目で確認し、一番自分達に接近している大剣の女性の足を止めようと考えた。雪のトランプが鞭の老人へと跳ぶのだろうと李緒は推測する。一番、攻めがたいのは遠距離の攻撃だ。そして、その中で一番脅威となるライフルの男は自分へと回ってくるだろうとも推測する。

「創造主様からの伝言です。特等席でベアちゃん半殺しショーを拝める権利を貴方にあげますだそうです」

 弓矢を持った者は男性のようだ。とても低い声をしている。その低い声が雪のベアトリーチェを思いやる心を刺激した。


          


 俺は目の前にいる五人の死に神課の奴を見回す。誰も小さな女の子に同情を見せる仕草をしない。誰もが自分の武器をちらちらと見ている。そして、自分の武器の切れ味を想像してにやついていた。

 弓矢の男の言葉には許せなかった。実に楽しそうに言っていた。まるで前から楽しみにしていた映画を見に行くのと同等としか考えていない。

 俺の小さなリーチェを半殺しにするだって、お前達はいつもそうしてきたじゃないか!

 そう初めてあった時もそうだった。

 今から十年前だ。俺達、産まれなかった命は特定の年齢に創造主から設定されており、今の俺とはそう変わらなかった。何の疑問も感じずに創造主の引いたレールを電車に乗って、何度もループするように走ってきた。やがて、廃棄課に廃棄されるまでずっと続くのだろうと思っていた。俺達に死などないのだから。

 俺は選定学園の長い廊下を歩いていた。いつも、と変わらない日々に不満を持ってもいたが、それを創造主に直訴する事は廃棄を意味していた。だから、ただ無心に歩いていた。いつか、廃棄される身体を動かして。

 俺と同じ学年の生徒達はみんな、今日の産まれた命の世界論で習った小さな者について話し合っていた。俺の身内には永遠という妹がいるが、その妹よりもさらに小さな存在がいるとは信じられなかった。産まれた命の世界にいる人間は成長というものを繰り返して大きくなり、最期には死を迎えるらしい。とても神秘的だ。

 妹の永遠が俺と同じ年齢に達するのを想像していたら、いつもお弁当を広げている場所へと辿り着いた。立ち入り禁止という札がチェーンに結ばれて、下り階段を塞いでいた。その先には世の災いと呼ばれている恐ろしい怪物ベアトリーチェが封印されていると、教師は口を酸っぱくしてここへは近寄るなと言っていた。だが、そうは感じず、この場所に座っていると心が暖まるような気がした。流石に処罰が怖いので下り階段へ踏み入ろうとはしないのだが、ここで十分だった。

 今日も壁に背をもたれて、通学鞄から水色の布で覆われたお弁当箱を取り出した。それを膝の上に置いた。妹の永遠に正座をさせると十分で足を痺れさせて苦悶の表情を浮かべてしまうのだが、兄の俺はそういう事はなく、何時間でも正座の姿勢を保てる。

 欠伸が口から飛び出した。瞼から水分が溢れて目が痛む。咄嗟に指で目を擦った。さらに痛みが増した。逆効果だった。

 だが、産まれた命の世界に溢れる痛みは死には直結しない。死に直結しそうな痛みはこの世界のルールによって治癒されると、産まれなかった命の世界論でかつて習った。

 思い出すだけで悲しいことだ。それでは僕らは足踏みしているだけじゃないか! それは確かに生きていない……。

 心が沈んでゆく。こういう暗い考えが浮かぶのは昨日、妹の友人である李緒と俺の妹、永遠との三人で婆抜きをしていたからだと無理矢理、他者のせいにしてみる。

 染み一つ無い白い天井を見上げて、よし寝てしまおうと考えが纏まり、目を閉じかけた時、下り階段の方からぴた、ぴた、という人の足音が聞こえた。裸足のようだ。興味が湧き、振り向くと大きな朱い瞳と目が合った。

 その瞳の持ち主は長い白い髪の毛を重そうに床に引きずらせて、辿々しい足取りで俺の所へと近づいてきた。近づくに連れて汗が幾日も混ざり合ったような悪臭が風に乗ってきた。咄嗟に通学鞄から消臭スプレーを取り出して、小さな者へと噴射した。消臭スプレーの檸檬の香りが打ち勝ち、周囲をその爽やかな香りが包む。掛けられた小さな者は大きな口を開けて、スプレーの煙を食べようとしている様子だった。どうやら、嫌悪感を示さず、無邪気な行動を取っているようだ。小さな者は無臭か、好意的な匂いを発していると教科書には説明がなされていた。どうやら、間違いのようだ。服装も清潔なものではなく、胸部と局部をタオルで隠しただけの格好だ。

「お前」

 と高い音の可愛らしい声で小さな者は鳴いた。そして、選定学園に住み着いている子猫の役割をしているクロのように俺の肩に白い髪を擦り付けてきた。お前というぞんざいな言い方のわりには好意的だ。だが、訳が分からない。

「はい?」

 だから質問口調になってしまったのだが、小さな者は気にせずに勝手にお弁当を両手で持ち上げた。それを持ったまま、楽しそうな奇声を発して俺の膝の上に乗った。その奇声は歓喜に溢れていた。何故、そこまで、喜びを表現するんだ? という想いに襲われ、嫌悪という感情が鳴りを潜めた。代わりに深い優しさが産まれてくるのを覚え、驚愕した。

 小さな者から尿の匂いがするが、全く気にならなかった。

「お弁当だな。公園にいく時に母様が作ってくれたのに似てる」

 小さな瞳が中にあるお弁当箱を水色の布の隙間から凝視していた。そんな行動が愛おしくて、俺の手は自然にべたついた白い髪の上にあった。

「これが?」

 俺は小さな者の顔に自分の顔を近づけてそう言った。だが、小さな者の話題は小さな者自身の中で終わったようだ。お腹を摩すって、しきりに訴えかけるような目で俺を見る。

「お腹減った、お腹減った。ベア様に献上しろ、ベア様は怖いぞ。母様と同じように魔法が使えるんだ!」

 どうやら、脅しているようだが、可笑しかった。でも笑ってはいけないと堪える。

「魔法?」と言った後、堪えきれず笑う。「なんだ、この頭の可哀想な小さな者は」

 と言ってから、産まれた命の世界論の教科書ではそれとは違う説明が成されていた事を思い出した。

「違う、知能が低いのか! なるほど、成長していないからな」

 思わず、小さな者に対して失礼な物言いをしてしまった。今までにしたどんな失敗よりも後悔した。怒っていないだろうか、と再び自分の顔を小さな者の顔に近づけた。やはり、怒っているようだが、無邪気な怒り方だった。粉雪のように白い肌の頬の部分が両方とも山を築いていた。

「お前、本当に雪なのか! 意地悪だ」

 そう言う割には口調が柔らかだった。小さな者がしきりに頭を横に振っている。載せた手で白い髪を撫でてあげると、それがぴたりと止み、小さな者の顔に笑顔の火が灯った。

「どうして、俺の名を?」

「秘密だ。母様が言っていた。フラグの立つ前は攻略キャラの深い話には立ち入れない」

「訳が分からん」大事そうに小さな者が抱いているお弁当に視線を向けて言う。「とりあえず、喰うのか?」

「有り難く、献上品を頂こう」案の定、小さな者が弁当を縦にして抱いていたのだから具があちらこちらに所定の場所から離れていた。それでも小さな者は嬉しそうだ。「これで雪もベア様の信仰者だな」

 鮮やかな黄色いたくわんの下に鮭が乗っかっているのが面白いのか、小さな者はにんまりしながら、大口を開けて自分の胃にたくわんを誘った。

 かり、かり、かり。その音はとても、速いテンポだ。まるで二人の短距離走者が互いに勝りも劣らぬ、拮抗状態にあるようだ。小さな者の胃へと続く食道というゴールテープを切るべく、彼らは生きてきたわけではないのだが、と俺はその音から想像した。何故か、幸福になれた。

 休むことなく撫でている手から、小さな者の咀嚼する激しい動きが読み取れた。ふと、その動きが止む。お弁当を覗いてみるとまだ、ウィンナー、卵焼き、人参入りのグラタンが残っている。

 どうしたのだろうか? と問おうとした俺の口よりも早く小さな者が口を開く。口元には窓から射す太陽光に当てられて、赤々しい生の光に満ちていた。

「雪、母様と同じ匂い」

「お母さんは何処にいるんだ、小さい者」

「ベアトリーチェ」小さな者はお弁当に視線を向けたまま、ぼそっとそう言った。俺がその名前を繰り返すのを待たずに、「ベアトリーチェ、小さなリーチェ、ベア様と雪は呼んでいた」と応えてお箸を勢いよく、上げてからウィンナー目掛けて降下させる。予定通り、ウィンナーが内包されていた油を飛び散らせながら小さな者の捕虜になった。

「ベア様」俺は優しく呼んだ。「うむ」箸で突き刺したウィンナーを手放すとベア様は威厳に満ちた表情を見せる。愛らしく俺の胴へと両手を巻き付かせた。さらに俺は呼び続ける。「ベアトリーチェ」掠れた声で「はい」という声がベアトリーチェの頭が触れている右胸に木霊した。「小さなリーチェ」と俺は楽しくなって呼んだ。「はい」と言って小さなリーチェは静かに泣き出した。

 半袖のワイシャツの胸元が湿ってゆくのを優しく見守り、小さなリーチェが泣いている理由を尋ねた。その時の俺はただ、産まれた命の世界論では小さな者は万人に守られて成長してゆくというルールがあった事を思い出し、ルールを守らない者がいるという強い憤りと、小さなリーチェに対する愛情に溢れていた。その愛情は同情と同価値のものだったと振り返れば、そう思う。今感じている熟した愛情に比べれば。

 それでも、衝撃的だった。母親から引き離されて地下室に一年間、監禁されて食事はポップコーンという現実に存在するのも怪しい事実は、俺を恐怖に震え上がらせた。

 それを察知したように小さなリーチェははにかんだ笑顔を俺に見せて、思い出したように言う。

「僕の母様はイブ。なんか、それぽいから付けたそうだ」

「それぽい? うちの妹並みに直感派だな」

「いつも食べているポップコーンより美味い。さすが、永遠が作った昼食だ」

「うちの妹を知っているのか?」

 当時も今も、何故、永遠の名前を知っていたのかは解らない。大方、ベアトリーチェを世話をしていた飼育係(個人的にこの呼称は好きではない)に聞いたのだろう。

「もう、何年も前から知っている永遠も、雪も。特に雪は僕のファーストキスの相手だ」

 恥ずかしそうに俺の右胸に飛び込んでベアトリーチェは寝た振りをする。

 全てが自分の世界と同じ世界に住まう者とは思えなかった。自らの油でべたついた白い髪、先程まで見せていた大きな朱い瞳、涙の余韻を残す長い睫、今にも折れそうなか細い首、自分が幼いことを強調している丸みに帯びた鎖骨、白い肌から透けて見える背骨の線、可哀想に瘡蓋のある膝、埃に塗れた踝の小さなリーチェはむしろ、保護の対象でしかなかった。

「ないな……」

 その時の小さなリーチェとの出逢いが俺を変えた。世界は不思議に満ちたものへと彩りを様変わりさせた。

「何故! そんなに拘る!」

 この怒りは正しいと記憶が教えてくれた。今の俺にそう叫ばせた。

 その怒りの咆吼を待っていた仲間達は目的の方角にベアトリーチェの与えてくれた魔法を放つ。ベアトリーチェへの愛情をそれぞれが胸に秘めているはずだ。

「うちのベアちゃんを虐めないで!」

 永遠はそう叫んだ。母親にも似た気高い母性を顔に滲ませて、掌を突き出した。その掌から一瞬の速さで荒れ狂う水流が溢れ出す。それが弓矢を持つ死に神を襲う。弓矢に直撃し、弓矢は真っ二つに折れて使い物にならなくなった。そのまま、我が道を水は流れて、弓矢の死に神の首を跳ね飛ばす。

 了は煙草をかさかさに荒れた唇に挟んで

「まぁ、地面とキスでも楽しめよ、女」と言った。鋭い目つきを向けて煙草を地面にゆっくりと落とした。「チビ助を虐めていいのは俺だけなんだよ」

 その言葉は小さな友人に対する思いやりで溢れていた。煙草が地面に着く前に大剣の死に神は先に地面へと身体を着いていた。何か、譫言を言っている死に神に目もくれずに了は新しい煙草をジーパンから除く煙草箱から取り出した。そして、鈍い拉げた音を耳にした。

「私達はベアトリーチェを守る為に何だってやります! だから」李緒は人差し指で弧を描いた。描いた先にいたライフルを構える死に神の頭上に、郵便ポスト大の炎が降り注いだ。「死んで下さい」

 その言葉には決して労りの思いやりはなく、李緒は断末魔の声を当然の報いだと思って聞いた。そして、螺旋階段を見上げて妹分である小さなリーチェの姿を探した。

 そんな仲間達の所業と同時刻、無言で俺はハートのエースを投げた。鞭の死に神の首を鮮やかに跳ね飛ばし、残った槍を持った死に神の首も跳ね飛ばして手元にハートのエースは戻ってきた。

 カードの端にはごく僅かだが、その時は生きていた証である血が付着していた。どんな理由であれ、生命を停止させてしまったという事実が両肩に重くのし掛かる。俺以外にもそれを感じているのか、誰も口を開かない。無言で自分の犯した罪の後を確認していた。

 




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