四章 幸福の残滓
そうか、これは私の本来、存在し得ない過去。ならば、これは悪い悪夢のはずだ。那世家に嫁ぐのに不満はなかったが、篭の中の鳥になる前に私、ツバメにはずっと、解き明かしたい謎があった。
十八の私は両親の反対を押し切り、世界の真実の姿を解き明かすべく、雇われ傭兵として各地の戦場を渡り歩いた。ベアトリーチェと名乗る廃棄者に出会ったのもそんな傭兵生活での事だった。
連絡の途絶えた親友であるマイクを捜索しに廃墟の街を歩く。そこはつい先日までクーデターを起こした軍と政府軍による内戦の舞台となった場所だ。私は政府軍に雇われた傭兵で前線ではなく、後方の補給が主な任務だった。マイクも同様だったが、数日前……彼は野営にて、私だけに自分は本来ならば、産まれなかった命なのだ、だから最期は姉を守る為に運命を殺す努力をすると話してくれた。それから数刻も間もなく、彼の姿は忽然と消えた。
まさか、と思いながらも私は勝手に隊を離れて、マイクの生まれ故郷である街を彷徨い歩いていた。
ライフルは常に両掌のどちらかが握り、周囲の廃屋から銃を装備した人間が襲撃しては来ないかと十分、注意を払う。茫然とした状態に一瞬でも取り憑かれたら命を持って行かれる。それが死と隣り合わせな日常での暗黙のルールだ。
周囲を見渡すと辺りは悲惨だった。
乗り捨てられた戦車と正面衝突して自動車の車体は拉げていた。その横を私は戦車が今にも、動き出しそうだったので屈み進んだ。万が一、砲台から弾丸が放出された時に頭部が吹き飛ぶのを避ける為だ。尤も、その砲台の筒部分に人間の頭が入っていたのでどうなるかは推測しがたい。だが、確実に彼ないしは彼女の頭は海辺の西瓜風になるだろう。欠伸程の大きな口を開けて、嗚咽する。想像なんかしなければ良かった。
想像はリアルな死の香りに消え去り、代わりにさらなるグロテスクを私にプレゼントしてくれた。瓦礫が散らばった道のど真ん中に性別の判別不可能な焼死体が乱雑に放置されているのを顰め面で一瞥し、先を急ぐ。公園の水道管の蛇口から流れるぽたっ、ぽたっ、ぽたっ、とコンクリートに音を打つのに誘われて目が合ってしまった。小さな男の子が腕をもぎ取られた末に横たわって絶命していた。その淀んだ白一色の枯れた瞳と目が合ってしまったのだ。
私は半ば、反射的に声を上げた。声を上げる中、自分だけが残忍なパラレルワールドに迷い込んだのではないか、と現実逃避した。
だが、現実逃避さえも長くは続かない。
家を形取っていた木材に圧迫されて犬の死体が煎餅状になった光景が私にここは戦場なんだ! 大小様々の捨てられた銃弾がお前も餌食の目玉焼きになりたいかとサドな微笑みを浮かべていた。
現実へお帰り、哀れな……世間知らずな小娘、ツバメ・テンダー、と私の命を唯一、守護するライフルが太陽に熱せられた生温い感覚で、私を最悪でクソッたれなリタイアは死というサバイバルゲームに連れ戻した。気の利く美男な相棒だ。黒く湿った道路を踵で蹴りつける。ありがとうよ、人間だったらきっと江ノ島辺りでサーフィンを嗜むであろう相棒。
先程のヘタレな私の声のおかげで寄ってくる敵がいるかもしれないと、気の利きすぎる相棒を四方に機敏に構える。幸い、廃墟の街に息する者は私しかいないという空想が自然に身体中に透き通ってゆくくらい静かだった。
時計塔の細長い建物が途中で折れて幾つもの家々を下敷きにしている。そんな怪獣映画さながらの有り得無さを醸し出した現実を目の当たりにしながら、ふと……マイクが、私達が初めて人を撃ち殺した日の野営地でパンを一口、囓った後に洩らした言葉を思い出した。ここには死、しか産まれない、と彼は弱々しく言ったのだ。
それが幸福の目印だったのかもしれない。充てもなく角を曲がった私の二十メートル前方に見慣れた埃まみれの軍服を着込んだ金髪の痩せ細った男が見えた。屈んでいる彼の右腕には刀傷のような深い傷があった。それが彼と証明できる数ある中で一番、手っ取り早い例だった。間違いないマイク・ハミルトンだ。
だが、マイクだけではなかった。彼の逞しい両腕が支えていたのは痛々しい表情を浮かべている三十代くらいの短髪の女性いたし、女児もいる。彼女の右足は鮮やかな血に染まっていた。それは小枝みたく不自然に垂れ下がっていた。負傷した右足は彼女の出る所の出た胸、峠のカーブのように滑らかな括れ、太陽と同色の金色の髪、とは似つかわしくなかった。
優しい女神の如きマイクの姉の身体全体から感じ取れる極限の緊張は彼女の視線の先にある女児に向けられていた。
彼らを精巧な人形の如き紅蓮の瞳で見下ろす五歳くらいの女児の風体は異様だった。上品な真っ白いワイシャツの裾を出し、フリルの付いた両端に素人じみた漫画風の兎のアップリケがあるスカートの大半を覆っている。肩に掛けている丈夫そうな黒い水筒にはちゃんと名前を書くプレートに名前が書いてある、べあとりーちぇと。ベアトリーチェは白い肌に映える青緑色の痣だらけの腕で小汚いかつてピンク色だった熊の縫いぐるみをぎゅっと抱いていた。これが本物の熊だったら息が出来なそうだ。
その上品な風体は戦場にいるよりも両親と両親の優しい知り合いに囲まれて、日本のような安全な国の公園で砂遊びしている方が似合っていた。
不潔な縫いぐるみはきっと、女児にとって大切なものだろう。ベビーシッターのバイトをしていた頃に四歳の男児がお気に入りの三輪車を家に入れようとしていたのを目にしたことがある。それと似た心理なのだろう。その男児が三輪車、お外だと風邪をひいちゃうと泣いていたのを思い出し、私は満面の笑みを零した。それが自分をマイク達の元へと動かす合図だったかのように私はゆっくりと歩み寄ってゆく。美しさと可愛らしさの混在する女児の前には相応しくないとライフルを降ろした。
可愛いベアトリーチェは口を堅く噤んで何かに耐えている。
一陣の強風が吹いて、ベアトリーチェのおかっぱ頭を形成する何本かの白い髪があちらこちらへと意志のあるようにふわりと舞う。
可愛いベアトリーチェはそれでも、口を堅く噤んで何かに耐えている。
私は歩み寄りながら、心神喪失した寒さに震えた人間独特の揺れたマイクの声を耳にした。
「姉さん、大丈夫か?」
少し間を置いてからマイクの姉が答える。
「ええ、大丈夫よ。骨が折れてるけど……なんとか元気よ」
少し周囲を見渡してから、私はマイク達に陽気に声を掛ける。
「良かった! マイク! 無事だったのね」
「まさか、ツバメ!」と大袈裟なまでに目を見開いて驚いて見せた。それから私を心配するように声を潜めて喋り続ける。「隊を乱す行動は禁止されているはずだ」まだ、何か、言おうとした彼の口を私が喋って塞ぐ。「私は雇われ傭兵。正規の軍人ではないから使い捨ての駒よ」
自分で言っていて随分と割り切った言い方を、と苦笑した。マイクも釣られて、疲労感を感じさせない爽やかな苦笑いをする。
「それよりもマイクのお姉さんを野営地に連れて行きましょう」
マイクの姉の足を見て私は言った。
マイクは私の提案に首を残念そうに横に振ってから厳しい視線を女児に向ける。その視線には途方もない疲労感が混ざっているようだ。僅かな時間でスポーツ好きなマイクの体力は何処へと消え去ったのでだろうか……。
「心配することはないよ、人間。現実を舞台にしたささやかな夢は終わりだ」女児はなけなしの威厳を甘い声に乗せて辿々しく言った。一端、言葉を切り、腕時計で時間を確認してから女児は諦念した吐息を吐く。「午後三時三十分をもってして廃棄者、ベアトリーチェの名においてマイク・ハミルトンを廃棄処分する」
私の頭中をかつてない程に熱い血が駆け巡った。混乱してはいたが、冷たい冷静さに包まれ始めている。
廃棄処分=マイクを何らかの方法で殺害する?
廃棄者=死刑執行者?
ベアトリーチェ=白い髪の毛の女児。これは解る。
仄かにレモンの原液の香りを漂わせる柑橘系のベアトリーチェ推定五歳の頭がお花畑なだけなのだろうか? それとも、私の精神がついに日々の戦いで窶れて崩壊してしまったのだろうか?
「嫌だ、俺は!」
と言いながらマイクは咄嗟に傍らにあったライフルをベアトリーチェの方へと向ける。
「マイク! 相手は小さな女の子よ。頭が可笑しくなったの、貴方?」と早口気味に私はマイクを諭す。彼はそれでも、銃を降ろそうとはしなかった。銃口は小刻みに震えていた。まるで彼と彼の銃は神経の通う同じ生物のようだ。
銃口を向けられたベアトリーチェの朱い瞳は微かに水分を溜め込み始めた。透き通った赤がよりいっそう、それを強調していた。その瞳には限りない死を宿しているというフレーズが漠然と頭に浮かぶ。
「ツバメ。こいつは産まれなかった命の世界の住人を廃棄する存在だ。小さな見た目に騙されるな。こいつは暴君、創造主の犬だ! とんでもない駄犬だ!」
産まれなかった命の世界の住人=こことは別世界の住人?
創造主=神様の別名だろうか?
創造主の犬=ベアトリーチェ。
私の混乱など些細なことというように今ある状況を見定める時間を与えずに、事態はとんでもない方向へと進行してゆく確かな予感が心臓の鼓動を急速に早打ちをさせた。得体の知れない生ぬるい感情が吐露しそうになる。
「マイク!」
と名前を呼ぶ私の声が合図であったかのように!
憎悪に取り憑かれたマイクがライフルの引き金を引く瞬間が私の目にはスローモーションのように見え、それを利用して私は最悪な現実をなんとかしたいと思った。熱い闘争心を投げ捨てて、視界を片腕で目を覆い閉ざした。
乾燥した一人を葬るには冷徹すぎる音が、何度も墓場のように静寂が仕切った。一種の聖域とも呼べる街を貫いた。そして、私の心も貫いたのだ。
あの子の年くらいの少女の死体を私は多く目の当たりにしてきた。高校時代の卒業文集にて将来、何になりたいですか? というお決まりのコーナーで女学校の教師と自信満々で迷わずに記入した私がだ!
世界が狂っているのか! 私が狂っているのか! 数週間前に保護した片腕から多量の出血が見られる四歳の女児は小さな口から必死で呼吸を繰り返し、生きようとした。だがマミーと優しく呟いて息を引き取った。私が戦場で飢えていた三歳の女児を保護した数分後、女児は地雷に吹き飛ばされて死んだ。数分前までパンがこんなに美味しいなんて思わなかったわ、と言っていた子がおぞましい物体に成り果てて水田の水底に浮かんでいたのだ。六歳くらいの三つ編み髪の少女がにこにこと、持ってきたお弁当箱程の包み箱を受け取った日本国籍の二十歳の男性を巻き込んでその少女は火炎に飲まれていった。自爆テロだった。
そんな私の心の奥底にある死体コレクションに白い肌の透き通ったか細い可憐な少女が加わった。もう、沢山だ……。
あ、というマイクの姉の短い何とも言えない感情を晒す声を聞いた。
片腕を退けてゆっくりと目を開ける。
私は白昼夢で見ているのだろうか……。
立っていた。
未だに続くライフルの音が見えるとでも言うかのように一瞬にして、壁際へと移動した。水たまりに漫画のキャラクターがプリントされた運動靴が入ってしまった事に気付くと、強ばった表情から剥き出しの表情が見え隠れし始める。お行儀良く揃った白い乳歯が特徴的だった。そんな幼子の状況をチャンスだと思ったのか、マイクは雄叫びと共に引き金を引きベアトリーチェの立っていた水たまりを爆ぜさせる。
だが、それよりも速くベアトリーチェは枯れ木の側へと立った。場違いにも縫いぐるみに顔を埋め、私達の方向へと足を踏み出す。
唖然としている私を余所に、世界は彼女の姿を消した。見えない、無に見える。ライフルの甲高い音さえも掻き消して、風だけが轟々と唸りを上げた。
世界が女児の姿を再び、描き始める。唐突に。
頬を膨らませて随分と可愛い気のある表情を浮かべたベアトリーチェは、曇り空へと向けられたライフルの銃口を右手で握った。左手は熊の縫いぐるみの手を握る。
「無駄な、抵抗」
その地から這い出たような声がマイクにライフルを手放させた。
ベアトリーチェはライフルを放り投げて、指さした。幼子が指さしたのと同時に深いどんよりとした雲を突き抜けて、赤い線がライフルを貫いた。ライフルは不自然に燃え始める。
私、マイク、マイクの姉はそれを茫然と見つめていた。
「僕はサド女の忠実な駄犬」
風に乗って私の耳へとそんな弱々しい声が届いた。ライフルが燃えているのを見ていた私はベアトリーチェに視線を戻した。
どう見ても、小さな女の子が自分を必死に守るために顔を熊の縫いぐるみに近づけて甘噛みしている保護欲をそそる仕草を私に見せているようだった。
その女児に大の大人が土下座をして頼み込む。
「お願いだ。姉さんは産まれた命なんだ。産まれなかった命ではない! 年をとる本物の世界の、産まれた命の世界の住人なんだ!」土下座をした頭を上げずにそのまま、言葉を続ける。「いつも、姉さんを鏡で見ていた。俺が果たせなかった生を謳歌するという姉さんの姿を。顔を見たことすらない弟を供養し続ける姉さんを! こんな寂しい所で死なせたくない!」
ベアトリーチェは黒い水筒の蓋を開けて、蓋にオレンジ色の水を注ぐ。風がそれは甘露なオレンジジュースだと教えてくれた。あれほど、大切に抱いていた縫いぐるみの事を忘れて、両手で蓋を掴んで喉を鳴らす程に早々と飲む。その間、熊の縫いぐるみはゆらゆらと、女児の腕と結ばれた鎖の重い音を立てながら小刻みに揺れていた。
「それ……だけか」マイクの声を聞いていない素振りを見せていたベアトリーチェだったが、ちゃんと聞いていたようだ。女児はゆっくりと蓋を閉めながら「現実を一時的に蝕む夢、と始めに言っただろう。夢は醒めるんだ」と諦めの悪いマイクを哀れんで眉を潜めた。熊の縫いぐるみを再び、ぎゅっと抱きしめる。「人間、僕は君に同情する。僕も叶わないんだ」
白い肌、白い髪、赤い瞳という神秘的な美を持つベアトリーチェ。女児特有のアンバランスな大きな頭、少し丸い胴体、短足の配列が可愛いさを表しているベアトリーチェ。
二つの愛すべき要素を兼ね備えた女児の流す涙はそれ自体も美と可愛いさに変えてしまった。本人が望もうが、望むまいと。
その涙が教えてくれた。
この子はいずれ、不幸になる、と。そして、その不幸は避けられる種類のものではないのだろう。
マイクは静かに立ち上がり、ベアトリーチェの涙をごっつい指先で拭き取った。
「そうか、ベアちゃんにもいるんだね、大切な人」ベアトリーチェに頭を下げて、「ごめん、無理なお願いをして」
と優しさをオブラートに包んだ。
ベアトリーチェはそれを感じて、自然に堅さのある緊張した表情から、緩やかな無垢な表情へと移ろわせる。
「うん」と頷いてから、縫いぐるみを一度、甘噛みをする。「僕には雪、永遠がいる。独りぼっちだった僕の面倒を見てくれる大切な」大切な、という言葉を廃墟の街に響くくらい元気のある声で言った後、「お兄ちゃんとお姉ちゃんなんだ」
とうっとりしたように言った。
「優しいの? お兄ちゃんとお姉ちゃん」
中腰にしゃがんでベアトリーチェの目線に合わせようとするマイクを見て微笑みつつ、廃屋の壁に寄り掛かっていたマイクの姉がそう質問した。
ベアトリーチェはマイクの姉に駆け寄って、マイクの姉の顔をまじまじと見つめる。
「優しすぎるくらいに過保護だ」と言って、黒い水筒をマイクの姉に自慢するように掲げた。「これもお兄ちゃんが修学旅行のお土産にくれたんだ。お姉ちゃんが採れ立ての蜜柑でオレンジジュースを淹れてくれたんだよ」
私はベアトリーチェから近寄りがたい未知の部分が消えてゆくのを感じて、疑問に思っていた事を質問する。
「何でこんなことをしてるの? お金を稼ぐため?」
私の言葉をベアトリーチェは神妙な面持ちで聞き、背を向ける。小さな背中が見えない重荷を何か、背負っているようにより小さく見える。それは私達、大人でも重荷に感じるものであろうと私は思った。
右手で顔を拭いて、左手は黒い水筒を握り締めていた。
ゆき、とわ……僕は間違っている、悪いことをしてる。
という苦悶の呟きが砂を含んだ風が私の耳元まで運んできた。
「違う、僕は無給の廃棄者」と鼻水を啜る音を響かせた。ばつの悪い顔をして、「僕は雪と永遠を殺させない為にこれをやっているだけだ」と力なく言い、後は大声で泣くだけだった。
これから人の命を奪うというのに幼い少女はあまりにも人を殺す覚悟を識らな過ぎた。私は数多くの少年、少女が人を殺す無給の兵士として戦っているのを見てきたし、その少年少女を躊躇無く今、握り締めているライフルで何人も殺害した。中には命乞いをするものさえいた。でも、理屈じゃない……本能がそうさせるんだ、生きるために殺せ! と。そんなたった一度の戦争に立ち会っただけで戦闘狂になったツバメでも硝子細工のような心と体を持つ小さな、小さな少女を殺せなかったし、同情さえも感じていた。戦闘インストラクターが同情は死者がする事だ! お前達の頭脳は精密な殺人を犯す為だけの道具だ! と私やマイクといった素人に罵倒した言葉の一言、一言の楔を解くが如く、
私は……
誰の死も脅かさない命の輝きを哀れな少女に与えて下さい
と強く願った。
目の前にいる五歳の少女は鼻水を垂らして、赤い瞳から止め処なく、光る涙を流す全てが私の身体のミニチュアサイズのような身体を、見えない痛みに震わせていたのだから。
マイクもそう思ったのか、苦渋に満ちた表情を浮かべて目を閉じていた。彼の両手は胸部前で堅く握り締め合っていた。まるで自分にしか見えない神に祈っているようだ。
マイクの姉は愛しいげにベアトリーチェを手招きする。
「ごめん、僕は優しい兄妹を殺したく……な、い。けど、だめなんだ。むり……なの」
マイクの姉の抱擁の中で涙を流しながら、深く頷いてから不明瞭な言葉を言った。
「そうかい」とマイクの姉は幼子の背を優しく摩る。涙が幼子に飽きて、何処かへと行ってしまうようにそうしたのだろう。「姉さん、俺は……」とマイクは言った。晴天に浮かぶ太陽の偽りなき笑顔を浮かべて、自分の姉をじっと見つめる。
「貴方が言おうとしている事は解るわ、不思議とね。兄妹だもの」
マイクは姉の同意の言葉を待っていたのだ。マイクがこの世界にいない存在であるというのなら、マイクの姉はマイクに救出される事無く、朽ちる事を意味しているという事実を私は頭の中で今更ながらも強く意識した。
「ベアトリーチェ、さぁ……僕らを解放してくれ、自由のない世界から」
マイクが中腰になってベアトリーチェの真っ白な頭を整えるように何度も撫でた。
「ベアトリーチェ、貴女が罪を感じることはないわよ、これは救済なんだから」
ベアトリーチェの両肩に手を置いて、マイクの姉はそう言い聞かせた。
静寂の彼方……幼子は指揮者が奏者を動かす合図を送るタイミングを見計らうように自分の両手を太陽に透かした。眩しそうに幼子は目を細めることなく、ただ、それを激しく嫌悪していた。
「跳部夜須久、派遣」
幼子の直ぐ側に一丁のリボルバーが唐突に出現した。音も、気配もなく。
そのリボルバーは幼子の白い肌には似合わない黒色を纏っていた。
「廃棄者 ベアトリーチェ。何を躊躇うのです、この期に及んで尚。創造主様からの命令を執行しなさい。さもないと言いつけますよ、貴女は創造主様の世界で唯一の反逆者になった、と」
リボルバーの全体から、お役人のように業務的で真面目、融通の利かない声が聞こえた。ベアトリーチェはむっと頬を少し膨らませながら、
「やはり、これは悪いことだ! 雪が言っていた。悪いことは罪って言うんだって。罪を犯した人間は罰を受けなきゃならないって! 嫌」
と目の前に浮かぶリボルバーに叫んだ。
「だから、罰を受けているんだろう。産まれない命でもない、産まれた命でもない創造主様の御手から外れた世界のウィルスが知識人のように発言しないで下さい。これは業務です」
「嫌だ。雪にごめんね、言わなくちゃならなくなる……悪い事をしたって」
「産まれない命の世界市役所 武器課の平社員である私を使用して、廃棄課、選別課所属の君は一年間で二百人ほど廃棄、選定したでしょう。罪であるというベアトリーチェの意見を行使しても、全ての概念を決定するのは偉大なる創造主様です」
「解ってないけど、解ったよ役人」
ベアトリーチェはマイクの額に銃口をくっつけた。マイクはそれを受け入れて、ベアトリーチェのひらひらと舞うスカートの裾が見える方向に視線があった。見えない殻の中に閉じこもったように彼は呼吸のみを行っていた。
「一発で決めて下さいね。武器課は経費削減が今月の目標でしたでしょう、事務の人間がうるさいんですよ」
何の同情もなく、ただ物を扱うようなリボルバーの言い方にマイクは見えない殻から抜け出して再び、感情を取り戻して叫ぶ。
「人の命を軽々しく、言うな!」その声は山彦となって周囲に響いた。何処かで瓦礫の山が崩壊したもの凄い音が聞こえたが、「その子を奴隷のように扱って今にお前達は報いを受けるぞ!」とその音を掻き消す程、あらん限りの力を振り絞ってマイクは絶叫した。
「誰の報いでしょうか?」と惚けるリボルバー。
マイクはそれを無視して、
「さぁ、俺達を」
と優しく今も自分の額にリボルバーを当てている幼子に声を掛けた。
そして、ベアトリーチェはゆっくりと引き金を引いた。
銃口から両刃が生えて、マイクの頭部を貫いた。同時に、苦痛にマイクの歪んだ顔と断末魔の叫びが私の心に突き刺さった。私は目を背けられなかった。
マイクの身体が真っ白な光に包まれてゆくのを見届けると、私の視界が揺れる。
マイクの姉に目を向けたが、そこにはアスファルトで固められた道しかなかった。歪んでいるそれは布のように弾力性があるように思えた。
私もここで死ぬとふと考えた時、視界の幅が狭まった。ついには暗闇に閉ざされた。
そんな状態でも意識があると解るのは、
「僕は……」と嘆きにくれる優しい小さな子の声。
「ですが、君はいつも猿と人間を称して嫌ってるでしょう。やれやれ、これだから矛盾だらけのチビッコは困りものです」と本当に嫌気が指しているとわざと誇張した言葉を放つリボルバーの真面目な声が耳に届いてくるからだ。
まもなくして、私の意識も一端、途切れた。
随分と昔を思い出してしまった。
開いた窓から差し込む月の光で神秘的にも見えるしわくちゃの自分の両手を眺めた途端、自分の中にあった神秘性が蘇ってしまったようだ。
「ベアトリーチェ……」
今日出会ったあの少女は確かにベアトリーチェだったが、昔のような異常な能力は持っていないようだ。
彼女はあの苦痛から解放されて、自由の身になったのだろうか?
「いや、それはないわ」
部屋の雰囲気を感じる。あの廃墟とは異なって、そこには一瞬で死という波に攫われてしまう凄みはなく、ただ生ぬるい空気だけが漂っていた。その空気を陰鬱というリボンで丁寧にラッピングするかのようにしんしんと雨が降り注いでいる。
ベアトリーチェが去った後、私は雨の下、マイクの姉が廃屋の下敷きになっている所を発見した。その時の雨は私の心にも降ってくるような冷たさを灯していた。だが、この雨はなんだろうと窓から身を乗り出して、心に届かない退屈な雨に触れる。
あの雨がくれた、ベアトリーチェがくれた、マイクがくれた、マイクの姉がくれた、そして……戦争の非日常がくれた凄み達はその後の私の平凡だった人生をほんの少しだけ豪華な舞台へとステージアップされる原動力をもたらした。それを経験と呼ぶには私は年を取りすぎた。
私は部屋を見渡す。
天井近くの壁には横三列にボランティアに参加した感謝状が額縁に大切に入れられ、保管されていた。ボランティアといっても様々な活動に従事した。アフリカの学校へと英語教師として過ごした事もあれば、日本の海を巡ってゴミ拾いをしたり、ホームレスの炊き出しに参加したり、那世家の主である那世三郎……つまりは私の夫が亡くなってからは数多くの募金に寄付をした。いつも、心の片隅にあったのはベアトリーチェの僕は……という嘆きの声だった。ベアトリーチェを救いたいという偽善めいた願望が現れるのはさほど、時を置かなかった。だが、ベアトリーチェは信じがたい現象の世界にいるのだ。満たされない願望を異なった者を救う事で埋めていた。
だが、常に空腹だった……。
空腹のまま、私は私では既になくなっていた。今の私はただの草臥れた老婆だ。
部屋にある白い箪笥はベアトリーチェに出会ったアフリカの民族紛争から逃げ帰った後にアメリカで購入した物だが、時と共に箪笥の白いペンキが剥がれて所々、黒ずんでいった。今では醜悪な白さが私の瞳に映っている。
その白い箪笥にある若い頃、着ていた胸の開いたドレスや、丈の短いスカート、派手な色遣いのブラウス、豪奢なネックレス等はどれも年を追うごとに似合わなくなってしまった。今では特別な行事がない限りは真っ白い清潔なブラウスに動きやすいジーズンといった年寄りにしては随分とエネルギッシュな服装だ。
今、着ている子供じみたピンク色のパジャマが似合わない年になってしまったものだと、自傷じみた笑いを浮かべて、電気スタンドの側に用意してあったスコッチを瓶のまま、一口飲む。
スコッチの瓶に話しかける。
さぁ、今夜も私を酔わせて、紙芝居のような人間社会と一時、おさらばさせておくれよ。
露の雨はしつこく、それでも生ぬるい現実の下で生きてゆくんだ、と単調に、私に囁いていた。
病院内は休診日の為、必要最低限の灯りしか点いていなかった。薄暗い闇の覆う廊下は放課後の学校を彷彿とさせる。その闇は雪の胸をざわめかせた。献血という本来の目的とは掛け離れた謳い文句で連れ出した甦南が両足をばたつかせていた。白い壁に運動靴が当たる音が雨雨の間に隠れた。
「雨、止みませんねぇ」と甦南は手持ちぶさたになり、診察を待っている子どもが退屈しない為に設置された棚上に乗っかっている鶴の形に折られた折り紙を手に取った。「献血って初めてなんですよ、誘ってくださってありがとうございます」
目の前の診察室の灯りに浮かぶ甦南の童顔は永遠に似ていた。その永遠は甦南の隣でベアトリーチェの食べかけであるポテトチップスの袋を握り締めていた。永遠の瞳は目の前のベアトリーチェが診察を受けている部屋の扉を見つめている。甦南にもベアトリーチェを案ずる困惑した表情が浮かんでいるのを気付き、一瞬、あれ? と雪は目を見張った。
その視線に気が付いた甦南が振り向く。
「いいえ、礼には及びませんよ。進んで参加してくれるなんて嬉しい限りです」
慌てて雪は当たり障りのない言葉と愛想笑いを浮かべた。
「昔、献血のボランティア活動を手伝ったことがあったんですよ。駅の一角を借りて声を張り上げてご協力お願いしますって。ですけど、あまり集まらなかったんですよ。それどころか、何か見返りを求めているんだろう? とんだ雌狐だと罵られもしました」
扉が開き、扉の向こうからは清潔感漂う白いシーツの敷かれたベッド、質素なパイプ椅子に座って書類に向かってペンを走られる頭の天辺に毛のない円下医師、目の前には箱庭を両手に抱えてベアトリーチェが立っていた。
「何でそんなにしてまで猿の為に血を集めていたんだ。甦南には関係ないではないか」
ベアトリーチェは心底不快そうに言った。どうやら、この病院の防音はなっていないらしい。後で円下医師に知らせておこうと思いながら雪はベアトリーチェを自分の両膝に座らせるべく、両膝を両手で一度叩いた。
「ベアちゃん、終わったの?」
雪の膝へと脇目も振らずに歩くベアトリーチェの腕を掴んで永遠が聞いた。
「終わったよ、永遠。あいつ、もう来なくて良いよとか、言ってた。もう大丈夫だからって。僕の最高傑作にきっともの凄く感動して、これ以上見ると自分のちっぽけさをまざまざと見せられているようだと気付いたのだろう」と言い、自分の最高傑作と称した作品をあっさりと永遠の膝に置く。自分は雪の膝に頭を乗っけて「雪枕」と眠たげに呟いてから目を閉じた。お気に入りの洋服が乾いていないと永遠に怒鳴り散らして癇癪を起こしていた一時間前とは大違いだ。ベアとは腕の鎖で繋がれている白い子猫の縫いぐるみが呆れてふて寝していた。そんな他者の感情を知らずに紫色のジャージを着込んだベアトリーチェの顔は幸福に包まれている。
「ベアちゃん、もし、揚羽が災害とかで大怪我をして輸血が必要な時に血が足りなくて死んじゃったら、そんな事が言える?」
幼子は目を瞑ったまま、考えてみる。
例えば、僕が揚羽と一緒にしらす動物園に行ったとしよう。僕は当然、揚羽と手を繋いでまずはライオンを見に行く。いずれ、僕はライオンを一頭、使役したいと考えているからだ。その次にペンギンやアザラシといった可愛い動物達をそいつらが赤面するくらい観察するんだ。揚羽はそんな僕に叱るんだ。駄目だよ、ベアちゃん。雪お兄ちゃんとベアちゃんがラブい時に人にじろじろ見られたら、気に障るでしょう? って。僕はペンギンやアザラシのいる方角を向いて御免なさいペンギンさん、アザちゃんと頭を下げるんだ。偉い、ベアちゃんと揚羽に頭を撫でてもらった後、丁度昼時になったから近くにあったペンギンの形をした建物に入る。そこは雪が前に教えてくれたとおり、ペンさんという名前のレストランなんだ。悩んだ末に僕はカツ丼、揚羽は天丼を注文した。それらが来たら半分、半分交換するはずだった。だけど、地震が起きて揚羽の頭に蛍光灯が当たって……。
「嫌だ! 絶対に嫌だ! 僕が揚羽に血をあげる。元気に歩けるくらいあげる」
突然、考えから醒めた幼子は雪の両膝に座ると雪の胸を叩いて、自分が想像したものを外へと排出しようとした。その声は悲鳴に近かった。
「でもね、ベアちゃんの体格だと採血できる量は微々たるものだし、ベアちゃんの血液型と合わないかも知れないでしょ? 誰もがそんな悲しい目に合う可能性を秘めているの。だから、思いやりの心を持ってね」
だが、その考えには賛同できなかった。嫌いな考えに似ていた。人間は見返りを求める猿だとベアトリーチェは雪と出逢って少しずつ世間と接する機会が増えて行く中で得た一つの幼い一方通行な思想だった。ベアトリーチェの力を利用したいと考える人間は数多くいたし、ベアトリーチェが無償で働かされている仕事で見る人々の中にも卑しい者達がいた。
「李緒と同じ偽善を吐くんだな。僕はそういうの」言葉を切ってから、雪と永遠の笑顔が浮かんだ。あの笑顔は偽善か? お前に生きる術や恋する事を教えてくれている雲村雪、お前に温かい食事や人間としての道徳を教えてくれる雲村永遠。勿論、今のは砂漠の砂をスコップで穿り返した程度しか例を挙げていない、と自分を嫌悪する心が毒づいた。ベアトリーチェは口をぎゅっと閉じた。解らなかった、どうして雪や永遠が世の災いと忌み嫌われている自分に愛情を与えてくれるのか。半ば、やけくそじみた低い声で言う。「苦手だ」
そのぶっきらぼうな声の裏の意味にそれでいいんですよ、と甦南はベアトリーチェの胴体を無理矢理、掴まえると頬ずりをした。
「お兄様」
永遠は自分達がしようとしている事が正しくないと強く感じていた。それは甦南のベアトリーチェを可愛がる光景を目にしていっそう、強くなった。この作戦を提案した兄に自分達が正しいのだとはっきり言って欲しかった。心根の弱い自分は切望の眼差しをただ、常に冷静で今もベアトリーチェを見守っていながら作戦で得るはずのカードを何処で切るべきか? と腕組みをして考えている。
「我慢しろ。必要な事なんだ。動かざる証拠は強いんだ。特にこの件に関しては」
永遠は解ってしまった。自分の兄は手に入れたいものの為には手段を厭わない純真さを示すと。
だとすれば、ベアトリーチェは一番、兄の手元に置き続けたいものなのだろう。永遠は自然と自分の膝に視線を向けた。
そこにはベアトリーチェの箱庭があった。
土の土台には所々、造花の薔薇が植えてある。その箱庭には三人の住人がいた。それぞれ、雪、永遠、四歳のベアトリーチェというネームプレートを右胸につけたアニメキャラの人形だった。その三人は仲良く手を繋いで土の土台の端っこにあるミニカーへと歩んでいる。永遠はバスケットを握っていて、雪が浮き輪を持っている事から海水浴にこれから行くのだろう。人形達はにこにこと、きっと幸福であろう自分達の未来へと脇目も振らず歩んで行く。
好きになるはずだ。夢中になるはずだ。自分の兄が鈍感であり、ベアトリーチェに恋している事実を認識していないと永遠は知っていた。少し嫉妬もある。まだ、黙っていようと唇を舐めた。唇の湿り気は可哀想な自分の涙だと詩的なフレーズが浮かんだ。感傷ってこういう恥ずかしい言葉を自動製造してしまうんだと妙に納得した。
「つんでれ べあとりーちぇ元気、恋下君?」
近所の幼稚園の制服をマネキンに着せながら、天秤座の女店長 倉本静がフランクな口調でレジのお金の定期点検をしている恋下深希に話しかけた。
深希はお金を数えてパソコンに一円玉は何円分、あるといったように打ち込むという作業を中断して、静の方に視線を向ける。
「元気ですよ、店長」とあまり、重要視していないと丸わかりな早い間で答えた。すぐさま、合計の計算を算出するべく暗算する。「あ、五円足りないですよ、その辺に落ちてませんか?」
とレジの真下を中腰で覗き込んだ。だが、あるのはほこりの固まりと、天秤座の悪趣味な頭蓋骨の吊された扉を人間が開けて入ってくるのと一緒に入ってきた砂、キャンディー 百五円と私立那世中学校指定体操着 五千円で合計 五千百五円のくしゃくしゃのレシート、シックな赤いラッピング用の紙袋があり、求めていた五円玉は見当たらない。
静は短パンから覗く健康的な肉付きの良い太ももを大胆に掻きながら、
「ないわ」と軽々と言った。着せ替えが完了したマネキンを脇に抱えて立ち上がる。「ご縁がなかったね」
「あたし、今、一つのご縁を切りたくなりましたよ」
そう溜息混じりに苦笑いしつつ、切れかかった蛍光灯の下で無表情な学校の理科室に置いてあるのと同じ人体模型が置かれていた。人体模型の下には値段が書かれていた。
そのプライスカードには、
命は売れませんわ
と書かれていた。彼女の名前はブラックジョークという。静が名付けた。廃校になった自分の母校から買い取ったと以前に話していた。そんな罰当たりな人と、ご縁のある状態とは如何なものか? と頭を悩ませた。
「ドンマイって言ってよん」とウィンクしてから静はバックルームへと引っ込み、「それ、終わったら今日は上がりで良いわよ」
と大声で深希に言った。数分もしないうちに薄青い手提げをさげて、ブラックジョークの肩に肘を乗せて寄り掛かる。やはり、罰当たりだった。
この人、ろくな死に方をしないけど、同じ女の子好き仲間だからなぁと深希は頭の中では考えた。
聞いていると言いたげな表情を静がしたので頷き返事をする。
「はい」手提げが気になって気軽に「何ですか、それ?」
と深希は質問した。
すると、満面な笑みを浮かべて、手間が省けたわと言わんばかりに深希の平坦な胸を下から上へと舐めるように軽く叩いた。静が機嫌が良いと親しい人にはよく、この理解不能なしぐさをする。静の知り合いのみほという太めの女性が言うには女子校で一時期、それが流行していて未だに彼女の頭の中では流行の最前線を象徴し続けているんじゃないの、と塩味のポテトスナックを店内でばりばり、お下品に立てていた事を思い出した。
もう、慣れっこなので出会った当初のように激昂する事はなく、ただ茫然と無関心を装った。
「実はね、頼みたい事があるのよ」
そう言って女子校一スケベだった十年前の可憐なる乙女の姿を保ち続けている美しき深希のボスは、手提げ袋の詳細な説明を生き生きと語るのだった。
「で、あたしは今、あいつのマンションの前に佇んでいるってわけね」
見上げれば、首が痛くなるほどのベアトリーチェの肌を彷彿とさせる白を纏ったマンションが聳え立っていた。別にあいつに用事があるわけではないと、何度も口内で自分に言い聞かせた。それは自分に催眠術でも掛けているようで、深希を大いに苛立たせた。苛立ちのあまり、身体が憂鬱の熱に徐々に浸食されてゆく感触が手に取るように解る。
見上げた夕焼け空も深希の憂鬱に枯れた花を添えていた。いっそう、不機嫌になって辺り構わず、怒鳴り散らす。
「あいつ、何処へ行ったんだよ、畜生!」丁度、目の前を通過した働きづめで草臥れた中年の男性が、見てはならない者でも見てしまったと一度合った目を逸らせて駆け足に過ぎ去った。それが深希の沸点を極限へと導き、怒りに任せてダーウィンと大理石に彫られた立派な表札を回し蹴りする。大理石に当たった瞬間、尋常ではない辛い食品を食べたような痺れを感じた。違うのは右足全体にそれが伝わったことだ。「痛い! ああ、単位落としたくらいの痛み。だざいおさむが理解できない人には単位はあげませんって何よ!」
「だざいおさむって誰、馬鹿野郎! と試験前日の夜中に電話を掛けてきた人間が背負うべき末路としては妥当な所ではないか」痛みを堪える事なく、左足のみで飛び跳ねている深希の忙しない動きを止めるように、深希の肩に手を置いてからそう冷静に喋った。まるで深希の様子を気にも掛けていない雪の口から「どうした、こんな夕食時に?」
という言葉が飛び出した。
「やほぉ、深希さん」
元気な無さ気に俯くベアトリーチェを無理矢理、手を引いて歩かせながら永遠は深希に振り幅を大きく、腕を振る。
「まぁ」その永遠の歓迎の意を受けて深希はそう感嘆の声を洩らして、「永遠ちゃん」と囁いた。
ベアトリーチェは深希の顔を見上げたが、顔を認識するとまた、俯いた。
「そこでしょぼくれているお子様に用があるのだけども」
「ツンデレ。夢を、最期の夢を僕は叶える事が本当にできたのだろうか?」
ベアトリーチェは奇怪な質問で返した。
ほんの少し、深希は腹立たしい思いに駆られた。
夢を叶える? そんな事が私の目の前にいる百十センチの身長に黒いワンピースを着て可愛らしい踝が覗く赤いシューズを履いた弱々しい存在が、そんな途方もない事が出来るはずがない。自惚れるなとも言いたかった。
だが、その怨念のようにつきまとう言葉を振り払ってとっさに深希は質問で返す。
「ベアトリーチェ、あんた。また、廃棄者のお仕事を?」
適当に言った言葉はどうやら、的を得ていたようで小さなリーチェはさらに小さく肩を落とした。縋るような瞳を雪に向ける。
弱さ故に子ども時代には誰もが持っている保護欲をそそる幼さの潤いに溢れた瞳に、雪はにっこりと微笑する。それを受けてベアトリーチェは雪の着ていた赤、青、黄色が波のように渦巻くTシャツの布地をぎゅっと、両手で掴んだ。
「ベア様、話して下さい」
その声は小さなリーチェを絶対に守ってくれる強さに満ちていた。ふと、その声が深希の心の奥底に飼っている悪魔を呼び起こしそうになる。それは嫉妬という悪魔だ。泥饅頭である自分が優しい人間に触れる度に欲しいなぁ、私にそれがあれば、と空腹感に襲われる。
これも愛なのかな、と明るさを取り戻したベアトリーチェの両頬の緩みと、口から覗く未だに残る乳歯を……強く深希は目に焼き付けた。
そんなことは露とも知らぬ幼子は雪を見上げて、はっきりとした声で返事をする。
「ああ」
雪とベアトリーチェの笑顔は、互いに呼び合う心の鼓動と鼓動が繋がったような共鳴にも似ていた。それは何年も時を過ごした愛し合う二人みたく、普段は見えないのだが時として絆が全面に出れば出るほど、薄く光り出す絆に似ている。
やはり、泥饅頭には眩しすぎる……。お蔭様で用件を言い損ねてしまった、と雪、永遠、ベアトリーチェが夕食と会話をする為に歩き出したのを見計らって再度、表札を回し蹴りした。
先程の痛さと、それに負けない惨めさを右足に感じた。
雨でも降れば、自分の心の藻を洗い流してくれるかも知れないと深希はふと、空を見上げたが……空は鴉が深希を馬鹿にするようにカァ、カァとウザイ声を発して飛ぶ姿を見守っていた。おまけに橙色の絵の具をうっかり屋の太陽が零していったかのように、全面的に橙色が薄く引き延ばされていた。
梅雨という季節はまるで僕みたく、高貴な生まれらしい。実に自由奔放だ。そんな感慨を抱いて、喫茶店みゃあなん♪の窓枠から覗く雨粒を数えていた。
一粒、二粒、三粒、僕の視線の前にある雨粒は身を寄せ合っていた。まるで雪と永遠のようだ。嬉しくなった。そんな気持ちになれば、鬱陶しいと感じてしまう雨音も幸福色に染まる。だが、今日は心に気掛かりな痼りがあるのでいつものように上手くいかない。年を追うごとに何故か、上手くいかなくなっている。その代わりに急速に深く、深く、笑顔が沈んでゆく。躊躇いのない笑顔はいつか、僕の中から消えてしまうのだろうか、と不安になり、雪に辛く当たった事もここ数週間ほどあった。雪が言うには、僕は同世代の子よりも感受性が豊かだから自分を知りすぎて心の変化を恐れる傾向にあるらしく、同時に愛らしい子どもらしさをいつまでも忘れない純真を持ち、それらが相対する事で形成された自我である為、必然的にナーバスに陥りやすいそうだ。雪の言葉は難しく、半分も理解できない。
でも、新しい僕に繋がる感覚が僕に雪の言葉の意味を無理矢理、解らせてくれる。それは何処から産まれるか。そんなのは解りきっている。
失う事から一滴、と産まれるんだそれは……。
僕は料理が来るまで、話すのはお預けだと雪達に釘を刺した。色々と考えを巡らせてしまう頭を整理したかったからだ。
相変わらず、客の少ない喫茶店内で雨の音に身を任せてしばし、考える。僕の目の前に何の変哲もないミートスパゲッティーが運ばれてきた。運んできた雪と永遠の母親である甦南は、僕によく噛んで食べるんだよと言った。当たり前の事を言うもんだから、そっぽを向いた。しかも、雪の奢りだと知りチョコレートパフェ、特大ハンバーグ、コロッケ、カレーライスを頼んだ永遠、みたらし団子を頼んだ深希には決して当たり前の事を言わなかった。
コーヒーを一口、含んで嚥下した雪がこちらを流し見る。それを合図に僕は堅くなった口を解すようにゆっくりと話し出した。
「あるところに二人の友情に結ばれた男性がいた。その二人はケーキを調理するのも、食べるのも大好きだったんだ。いつしか、二人は産まれた命の世界でケーキ専門の店を持ちたかったなと語り合うようになったそうだ」話している間、パスタが食べてくれ、と僕に訴えているような幻聴に襲われた。仕方なく、少しだけ口に運ぶ。「パスタ、美味しいなぁ、雪」
雪に同意を求めた。いつも、雪は僕のして欲しい事を理解してくれる。ほら、静かに頷いた。
「食べるか、話すかにしろ、行儀悪い。完璧なクールロリ要素が失われるじゃない」
雪と僕の意志の疎通の美しさを破壊するような不機嫌な声で僕の左側に座る肘をテーブルについたまま、下品にみたらし団子を食べる深希が言った。
永遠お姉ちゃんはそんな事しないよね、と僕は期待を込めて、右側に座る永遠を見る。
「良いのですよ」チョコレートパフェのクリームを破壊して口に運ぶ永遠お姉ちゃん。「このくらいの女の子は」納豆ご飯の一粒を自分の口に入れる事さえ惜しんでいた永遠お姉ちゃんの姿勢を、壊す、壊す、食べる、食べるカレーライス。「食べなきゃいけないのよ。だからお喋りを」永遠お姉ちゃんはその日のご飯が食べられるか、不確かなくらい貧乏だ。ここぞとばかりにコロッケにハンバーグのソースを載せて食べる。「お食事を両方やってもおーけー」
説得力はある意味で抜群だったのだが、雪は咎めるように咳払いをした。
その雪の咳払いが永遠の自尊心を取り戻させて、いつものご飯をじっと眺めて食べる永遠に戻した。激しい食器音が無くなると話せと急かされているようだった。話さない理由もないので再び、話し始める。
「知っての通り、創造主はとんでもないサドだ。そんな二人の夢を叶えた後に一人を廃棄してもう一人を産まれなかった命の世界へと戻せ、という命令が僕に下った」
そのあまりにも酷い事実に雪はコーヒーカップを掴んだまま、じっと僕の顔を見ていた。事実そのものを備に自分の中に取り入れ、僕を見守るような優しい眼差しだった。永遠は食事をする手を止めて箸を置いて、完全に話に向き合う姿勢を取る。深希はじっと僕の顔をじろじろと見ていた。そこに何の意図があるのか、僕は深希ではないので解らないが悪意のある表情はしていない。
急に僕の後ろから年期を重ねた衰え知らずの高々とした声が聞こえる。
「それは酷い事ですね、ベアトリーチェ」
僕はその声の持ち主を知っていた。自分でも驚くほどの早変わりさでぱっと、笑顔が綻んだ。だが、僕の話はそんな表情が似合う程のハッピーエンドではなかったので、すぐに笑顔を自分自身を嫌悪する心が掻き消した。
「僕はあの時のようにまた、酷いことをしたんだよ、ツバメ」
真っ白なブラウスとジーンズという出で立ちの燕は首を振って、僕の言葉を否定してくれた。
雪、永遠、深希は突然、やってきた燕に険しい眼差しを向ける。そういえば、紹介がまだだったことに気が付いた。四月に再会した時から李緒を通じて、燕に会いに行った。正確には李緒の飼っているイルカのニャーと遊ぶ為だが、燕とも和御菓子を食べながら会話したのであながち、間違えではない。
「紹介する」と前置きした。僕のテーブルに寄ってきた燕を一瞥し、「那世燕。僕が五歳の頃、知り合った人間だ。事情があって産まれなかった命の世界が存在する事などを知っている」
那世という名字を聞いた瞬間、雪達の顔は平穏を取り戻した。雪は立ち上がると深く、燕にお辞儀をした。
「私は雲村雪です。ベア様の信仰者の一人です」
雪は出会った当初から僕を一種、神格視していた事を僕は思い出し、すぐに訂正しておくんだったと深く溜息を吐いた。
本当は信仰者ではなく、愛しい小さなリーチェの恋人だと言って欲しかった。そう妄想した時、胸がちくりと痛んだ。
叶うことのない片思い……。
九十八人の僕はそれを経験した。そして、九十九人目の僕も経験するだろう。でも、捨てられないのだ、この暖かみも備えた感情を。
雪の滑らかに輪郭を形成する顎を横目でちらっと急ぎ見た。犯罪者がさも被害者面して刑事に自分が罪を犯す確率は少ないと弁護するかのように僕はスパゲティーの麺をフォークにくるくると巻いて、周囲に見えるように大きな口を開けて食べた。
美味しい。
「貴方がベアトリーチェの言っていた優しいお兄ちゃんですね」
悪気はないのだが、燕は愛想笑いと共に僕の本心を軽々と喋ってしまった。何とも居心地が悪く、顔が赤くなるのが自分でも解る。
痛々しい眉を歪ませた顔で深希が僕を眺めているのに気が付き、
「いや、僕の忠実な信仰者だ」
と燕の言葉を訂正した。その時、深希はにやりとほくそ笑んでいた。してやったり、と顔が語っている。
「子どもね、そう意地を張っているうち、大切な者ほど掌からこぼれ落ちていきますよ。これは年寄りからの助言です」
「もし、この世界が小説のように定められたとしてもその助言は役に立つのだろうか」
僕はそう言ったつもりだったのだが、声は周囲には聞こえなかった。雪達は各々、燕に自己紹介していた。だから、聞こえなかったのだろう、と僕はフォークでスパゲティーを弄びながら推論した。
だけども、すぐに撤回した。
きっと、自分はまだ、世界の理を認めてはいないんだ。これが破滅の前の微かな幸福だと認めたくもない。
僕は目を瞑り、気持ちを切り替える。終わりだけを、下だけを見て生きるのは止めよう。途方もないのだから……。
自分を無理矢理、笑顔にした。雪の顔を心に思い描けば、造作もない。
「二年掛かって二人の夢は叶ったんだ。創造主の力で時空を越えて定期的に様子を見て、僕が素晴らしい助言を二人に贈った賜だ」
全く、その通りだ、僕が二人の夢を壊したんだ。
俯いた僕の頭を真っ正面に向かせるように永遠の人差し指が僕の額に触れた。その人差し指は上方向の力を示していた。ただ、それは微々たるもので逆らおうとすれば、逆らえた。逆らうことなく、ゆっくりと視線を上げてゆく先で出逢ったのは、永遠の蛍光灯に照らされた舌を垂らして、微笑する顔だった。
「ベアちゃん、嘘は駄目だよ。ケーキを食べに行くって決まって三時になると姿を消していたよね?」
その蛍光灯の偽光に照らされた本物の優しさ、暖かみは僕の心を癒そうとしてくれた。きっと、癒せない痛みだとしても癒すことを止めないだろうと感じさせてくれる。
僕はテーブルに両手を突き出して、身を乗り出した。
「それは永遠の家にいた時」唾を飛ばしつつ、弁解する。永遠のウィンクに感化された雪が珍しく弾んだ声で僕に言う。「ベア様、三時になるとケーキって歌っていましたね」
椅子を隣の席から一脚持ってきて、優雅に紅茶の香りを鼻で楽しんでいた燕が口を滑らせる。
「李緒を訪ねてきた時も三時に」僕の行動について探るのは終わりだと言わんばかりに叫ぶ。「僕の行動を探るのは人権侵害に当たるぞ!」
その必死さは違った意味で雪達に伝わった。みんな、お腹を抱えて笑っていた。とても、満たされた表情をしていた。多分、僕もそんな顔をしている。
何故、だろう……重苦しい話をするのに。雪、いつか僕にその理由が解る時は来るのか? と視線を送った。どういう意図なのか、雪は僕の頭を撫でた。
「願いが叶った日……最期の時」
そういう出だしで僕は一つの両翼を持った夢が散った日を語り出す。
雪、ジャンと三島は雪と同じくらいの年だった。二人とも毎日、甘い生クリームの香りを漂わせていた。僕はその生クリームの香りが好きだったんだ。
何故って? 永遠おねえちゃん?
だって、その生クリームの香りは二人が朝から夜までケーキを懸命に作り続けた、夢へとトライし続けた幸福の香りだからだよ。
深希好みの女性が足繁く、通うことで有名だったアメリカにあるケーキ専門店ハッピーライブで二人は自分たちの店を立ち上げるべく修行していたんだ。
深希の事だろうから、聞く前に言っておく。ジャンと三島は深希の恋のライバルになれるような男達ではなかったんだ。二人ともルックスは雪には劣るが、了レベルだったんだ。ジャンは長い金髪を輪ゴムで結んでいて、三島は額の真ん中で黒髪を分けていた。二人して笑顔でケーキが僕の恋人だよって言ってるくらいだ。深希と同じ人種とは思えない。
殴るなよ! 所詮、同じ猿だろう! この猿深希!
やがて二人は苦労の末、燕みたいな生真面目が見たら、この人達は頭がイカれているのではないだろうか? と疑ってしまう実にファンタジーオタクな内装のお店ちっぽけな夢というケーキ専門店を立ち上げた。それもクリスマス イブにね。
普通やらない。そう、雪の言うとおりなんだよ。でもね、二人はサプライズが好きだったんだ。寝ている僕の背中に冷凍庫で冷やしに冷やしたチョコレートを入れたり、はずれだけしかないケーキを友人達と一緒に食べたり、アメリカなのにお正月にお節料理を友人達に配って歩いたりと様々なサプライズをしてきた。これにはこいつら、本当に猿なのか、と妖精界のアイドルベア様でも疑ったよ。
お店からして、クレイジーだったね。
どんなだったの? 妖精界の大きなお友達のアイドルベアちゃんだって? 良い心がけだ、深希。なんだ、そのにやついた顔は……まぁ、良い。
床一面に芝生が敷かれていて、何の生物が入っていたのかは不明だが揚羽一人、隠れられるくらいの卵の殻が置いてあるんだ。
本当に不明なんだって永遠おねえちゃん?
………
……かわゆいべあちゃん? です。
そこ、笑うなぁ、猿深希!
正面にはケーキに入った透明な硝子ケースがあるんだけど、その中にあるケーキの名前がへんてこりんなんだ。永遠おねえちゃんが喜びそうな名前ばっかし!
いくつか、教えてだって言われても。うんとね、高山病に掛かったドラゴンっていう名前のケーキが普通のモンブランケーキで、酒に酔って主人公に闇討ちされたドワーフっていう名前のがショートケーキだ。
僕の顔を見ながら憂いの吐息を吐かないで燕。
カウンターの側には蜜柑の木が植えられているのに、その木の前にある札の紹介文には人に英知を与える魔法の実です、決して食べないで下さいって書いてあるんだ。けど、カウンターの上に蜜柑が篭に置いてあって買えるんだ。冬だったからわざわざ、南国から持ってきたらしい。
天井は薔薇の蔦で覆われていて、勿論、赤い薔薇が所々に咲いている。
他にもファンタジーな雰囲気を醸し出す物はあるが、本題から遠のいているので割愛する。
そんな良くも、悪くも個性的な店内でクリスマスケーキを売りさばくジャンと三島の手伝いに来てくれた友人達の忙しなく、働く姿を熊の着ぐるみを着て僕は見守っていた。片手にはケーキのメニューが記述されたプラカードを持っていたから邪魔をしていたわけではないし、ある目的があって僕は……。
言わせてくれ、雪。僕がその時、やろうと決意した事なんだ。涙なんて流さないよ、大丈夫。もう、終わったんだ。
その目的はジャンを廃棄し、三島を産まれなかった命の世界に戻してその世界にある自動車修理工場で元通り働かせる事だった。いわゆる選定の儀式だ。その時の創造主のきまぐれで手段は決まるので残念ながら参考にしない方が良い。
僕は彼らが寝ている間にそれを遂行するつもりだった。ところが世の中はたった一人の思惑でそいつの願ったり叶ったりの賽の目を出すとは限らないんだ。
永遠おねえちゃん、恋愛ゲームと同じだよ。
人間というものに対して知識のなかった僕はジャンと三島が何事もなかったように過ごしていたから創造主の趣味で動く市役所の予言課が動いていないと内心、一安心したんだよ。けどね、大人は嘘がもの凄く上手いんだ。
年月が子どもと大人との感覚を遮るから、決して俺はベア様を恋愛対象にはしないって雪が以前に言った時、意味が解らなかったけどね。少しだけ解ったよ。
ケーキの香りを嗅ぎながら、今日もケーキをタダで貰う交換条件のお手伝いという口実で店内にいたんだ。
カウンターの上に乗っかって、カウンターを拭いている僕の目線にピンク色のラブレターが現れたんだ。そのラブレターを持っている逞しい手の主を探るべく、僕はその手から上方向へとなぞるように視野を駆けてゆく。辿った先にいたのはジャンだった。
汚らわしいって……燕、そういう意味の手紙じゃないんだ。ピンク色の如何にも恋文ですよ、と見せかけた中身はあるものの未来について書かれた予言というよりは定められた未来の断片が記されている。よく当たる占い屋は創造主とつるんでいることがよくあるんだ。
「ベアトリーチェ、僕はもう、知っているんだ、僕が消える方なんだろう? 三島、君じゃなくて良かったよ」
そんなジャンの言葉に店のシャッターを閉じていた三島は困惑した表情をしつつも、はっきりと首を横に振った。
創造主はやはり、僕を虐める為だけに随分と悪趣味なラブレターを送っていたんだってその言葉で僕は理解したよ。
「ジャン、その事なんだが俺もお前と一緒に!」と言ってから僕に視線を向けてお願いしたんだ。「頼む、ベアトリーチェ」
深希、出来ることなら、そうしたかったんだ。本当だよ、ケーキだって美味しいし。
ケーキが目当ての人助けじゃないよ! 永遠お姉ちゃん。うん、解っているよ……でも笑えないよ。
三島の願いに対する答えなんてこれしかなかった。
「僕は……」布巾を掴む手が拳を固めてゆく。独りでに両手が震えた。「できない……」
「止めてくれ、三島。ベアトリーチェは創造主には逆らえない。僕には三島という大切な相棒がいたように、彼女には雪という大切なお兄ちゃん、永遠という大切なお姉ちゃんがいて、この後は言わずとも人情に厚い君ならば理解できるだろう?」
ジャンの言葉に三島は当然のように頷く。三島という人間は僕と違い、人間が大好きな男だった。殺人、窃盗、憎悪、嘘といった人間の負さえも彼はそれにはそうするだけの理由があるだろうと笑って、全てを受け入れるんだ。だから、僕はその時も三島は笑って話を終わりにしてクリスマスケーキを全部売り切った事を話題にし始めるだろうと思った。だけど、雪……人間はどんなに頑張っても根っからの善人にはなれないんだ。
三島は俯いたまま、しばし固まった後……言語にもなっていない雄叫びと共に鬼のような真っ赤な顔をして蜜柑の木を拳で叩いたんだ。その頃、蜜柑の実は全て売れていて、代わりに銀色のラップで包んだクッキーを吊していたんだ。全部で六個くらい吊してあったんだけど、全部芝生の上に落ちたんだ。
普段、牧師のように穏やかな三島が始めて僕の前で、
「汚い奴だ、あいつは!」
叫んだんだ。
子どもの前では教育上、大きな声を出したり、あまり怒ってはいけないだろう。これから大人になる為に沢山の情報を必要としているのにそんな寂しい情報を与えられない。子どもはみんな、ケーキのような甘さに包まれていれば良いんだ、と僕に語っていたのに三島は叫んだんだ!
ベアちゃん、人にはどうしようもなく、そうしたくなる事があるの……理屈じゃないんだよ。
永遠おねえちゃん、ジャンと同じ事言うんだね。
ジャンはね、びっくりした僕の頭を優しく、撫でてから三島を叱るように優しく睨み付けた。そして永遠おねえちゃんと同じ事、言うんだ。
「どうしようもない事が世の中にはある。確かに僕たちの感覚では創造主の独善性は悪だ。でもね、世の中の人間全てがそう思っているかというと違う。それもどうしようもないんだ。夢は叶ったんだし、良いじゃないか」
ちらちらと蒲公英の種のように雪の結晶が空を覆う瞬間、瞬間を頑張って春になれよと今になって思えば、そんな感覚でジャンは店の窓が空と自分とを遮っていないかのようにそっと、撫でたのだ。
燕、お前の孫の李緒のおかげで僕は燕の言う詩的感覚を手に入れる事が出来たんだ。教育の賜だ。
ジャンの言葉を一つ、一つ聞き逃さないと黙っていた三島がもう、頬を涙の滑走路にさせながらその交通規制もせずに……ぼそっと言ったんだ。実はこの言葉は僕の心に今も残っているんだ。
「俺はお前と夢から産まれた新しい夢を叶えたかったよ」
新しい夢。僕はそれに出逢った事がなかった。四歳のあの頃……牢屋から脱走して食べ物を探索したあの頃から僕の夢は一つしかなかったから……。
だから、僕はどうしても知りたくて! どうしても教えて欲しくて! 三島のベルトを引っ張ってこちらを向かせてから聞いたんだ。
「そんなのがあるのか! 筋肉のあんちゃん」
「おうよ、あるぞ、ちびベア」筋肉のあんちゃんというと、三島は不快感を露わにするのだがそうすることもなく、親指を立てて御機嫌に言った。僕はすぐさま、「あれ? 怒らないのか?」
と質問したんだ。
僕を堅い腕で持ち上げると、僕は薔薇の蔓の中に頭が突っ込みそうになった。実際は突っ込んでいない。後、一センチで突入するとこだった。
これで猿どもをベア様が見下ろす事ができると思ったが、何故かいつものような笑みは浮かべられない。悲しくなってきた。
そんな僕の凹んだ気持ち等、知る由もなく三島は喋り出す。
「今日くらいその名称を受け入れてやろう」
ジャンは三島に意地の悪い笑みを視線に載せて贈ると、
「いつか、お前にも見つかるベア」
と僕の頬にキスをした。なんだか、身体中が恥ずかしさで一杯になった。
僕は声を出さずに雪達の前で、その台詞をもう一度、嬉々として叫んだ。
「僕の夢は雪と一緒に、永遠と一緒にずっと、暮らすことなんだ!」
勿論、ジャン達の時には声を出して語った。けども、雪達には僕の声は届かないだろう、それで良いんだと僕はこの世界の何処かにいると信じているジャンと三島の魂に語りかけた。
語りかけた瞬間、ジャンと三島が僕らの座っている席の側で腕組みをしてそれで良いよ、ベアと答えてくれた気がした。
これは幻だと思いつつも、身体は泣いていた。心も泣いていた。
雪達に伝えることができているだろうか? と思いながらも言葉はもう、止まらない。
「ベア、君はもう、新しい夢のお母さんを見つけているじゃないか。嬉しいね、夢を見ている子どもを見ているのは」ジャンは僕にそう言ってから自分の拳と拳を軽くぶつけ合わせて「あ、そうだ」と言い残して厨房の中へと消えていった。
すぐにジャンは大きな白い箱を持ってきた。
「クリスマスケーキをベアトリーチェにあげるよ」
三島が付け加えるようにジャンの言葉に続いて言う。
「俺達の最期のケーキだ。味わえよ、ちびベア」
三島は僕をゆっくりと下へと降ろした。それは今までの幸せだった時間はこれで終わりだよ、という合図でもあるように思えたんだ。事実、その通りだった。
僕はジャンからケーキを落とさないように大切に扱おうと思い、両手で受け取った。それをカウンターへと置いておく。
これから幸せを、新しい夢を壊すと懺悔の涙を流していたかもしれないけど、それは偽物の涙だったんだよ、雪! 僕は……迷わず殺したんだから。
「ありがとう」僕は二人に丁寧にお辞儀をしてから「そして、ごめんなさい!」と言って頭を上げた時には殺人鬼の恐ろしい顔をしていただろう。だって、両手にリボルバーを握り締めていたのだから。
もう、迷うな! と言う心の命じるままに僕は引き金をゆっくりと押す。
そんな殺人鬼に向かって言う。
「君は自分の成すべき事をするんだ。君の夢を叶える為に生きる……その中で君は絶望にも似た悲しみを何度も味わうんだ。これもその一つさ」
子どもでしかない僕に、大人であるジャンが人間の一生を最期に早口で教えてくれた。その眼差しは熱心な教師のようだった。
僕はその教育者を雪達と生きる為だけに撃った。
音もなく、悲鳴もなく、ただ消えていった。夜から朝へと、朝から夕方へと、夕方から夜へと、時が移ろうように何の不自然もなく、ジャンは消えた。
撃った瞬間、ケーキ屋ちっぽけな夢の壁は見る見る内に消えてゆく。ジャンを失った三島の微かな泣き声を聞きいた。だが声を掛けなかった。僕はただ、ジャンが残してくれたケーキを守るべく、両手で抱き続けた。
僕の触れている物は創造主の世界の法則外になり、残す事が出来るという特性が今は悲しくもあり、嬉しくもあった。
また、二滴、僕の心底に喪失の雫がこぼれ落ち、それを糧にまた、二段階自分を成長させた。
僕は人間をこんなにも愛おしく思っていたんだ……。遠い、遠い昔から、今も。
貴女の体験して来たことは全て、貴女の糧になりますよ、この婆さんが言うんですからね、安心でしょう。
ベアトリーチェ、責めちゃ駄目だよ、自分を。
ベアちゃん、ありがとう。
ベア様、その助言は役に立ちますよ、だって泣いてるじゃないですか、小さなリーチェ。
ありがとう……みんな。でもね、でもね。
定められていたとしてもベアトリーチェの心に影響を与えているものが確かにあると幼子は信じたかった。けれどもそれと同じように真実がある。
「そんな事を言ってくれた優しい人間達の夢の子どもを殺したんだ、僕は」
深希は俯いた。少し、暗い顔をしてから急にぎこちない作り笑顔を浮かべて、ベアトリーチェのおでこを小指で弾く。
「殺すって事はそんなに悪くない場合があるのよ」
そんな子供じみた無垢さで和らげられた言葉は幼子にすっと入り込んでゆく。それは是非とも聞きたい事例だと幼子は考えた。
考えている間にまだ、切り終えていないケーキが箱に入って甦南の手によって運ばれてきた。ケーキに良く合う紅茶も気を利かせて運んできてくれた。
幼子の紅茶にミルクをたっぷりと加えてから、燕は深希の考えというスポンジの上に難解というクリームを上手に、上品に言い放つ。
「世の中に死んでも良い命なんかない。でも交通事故だってありゆるのよ。世界はすべからく、理不尽。理不尽だからこそ、複雑さが産まれる」ミルクを入れた紅茶を幼子の前に音を立てずに置いた。ケーキに視線を注いで「このケーキのようにね、複雑な深みのある美しい味になる」
とまだ、見ぬケーキの姿を想像しつつ、燕はこれで難しいお話はおしまいと微笑んだ。
「ジャンと三島の最期のケーキだ」
ベアトリーチェはどう感情を表して、二人の情熱の果てにあった目の前のケーキと対面して良いのか、わからず結局、緊張したぶっきらぼうな口調になってしまった。
その口調を訂正する満面の笑みを浮かべて、幼子は早まる鼓動をそのままにして白い箱からケーキを出した。
ケーキを見た瞬間、わあ! と心の中で飛び上がり、身体は空っぽになってしまった。
幼子がそんな放心に暮れるくらい、ケーキはある種の美しさと甘さを漂わせていた。
真っ白い草原の上にはベアトリーチェを囲んで雪、永遠、了、李緒、深希、ジャン、三島がみんなニコニコとベアトリーチェを見ていた。そんなみんなに見守られている幼子が何をしていたか? というと見守られている事に気が付かずにブランコを漕いでいた。
一瞬、一つの記憶が幼子の中に蘇った。
母の事を、父の事を聞かれた時に幼子は知らない、いないと答えた。
ジャンと三島は家族は大切なものなのに……と言い、幼子を心配したのだ。
家族の風景なのか、とジャンと三島の魂に教えられた気がして、ベアトリーチェの朱い瞳からはやっと泣きやんだのにまた、涙が零れ始めた。
甦南の手によって草原が切り崩されてゆくのを期待の目で見つめながらも、いつまでも永劫にそのケーキを残しておきたかった。けれども時間は移ろうということは幼子が一番、理解していた。決して時間が自分の両手に留まる事はなく、指と指の隙間からこぼれ落ちることも。
だから、小さなリーチェはチョコレートプレートに書かれているハッピーな人生を送って下さい、歌うように自由に! という言葉を続きから続きへと出てくる喉から外へと出ようとする唾と一緒に胃の中に飲み込んだ。
一時でも時間がそこに留まりますように、と幼子は思いつつも、自分の前に置かれたケーキを食べ始める為にフォークを二本取った。
幼子が深希を形取った砂糖菓子を食べようとした時、深希がベアトリーチェの前にベアトリーチェを形取った砂糖菓子を見せつけ、ぱくりと食べた。
「美味しい、ベアトリーチェ」
その言葉に反応して幼子は正直に自分の気持ちをふくれっ面に露わにして叫ぶ。
「こら! ベアちゃんは雪に食べて欲しかった!」
「マセガキ」と直ぐさま、深希が言った。
これには頭にきた小さなリーチェは二本のフォークの降下地点を深希砂糖菓子に標準を合わせる。
「お前なんか、こうしてやる」と気合いの入った言葉をお腹から出した。フォークをナイフのように扱って深希和菓子の胴体から足、腕、首を切断して草原の上に置いた。キザな吐息と共に「人体バラバラ」
と言ってこれ見よがしに深希を一瞥した。
そんなの効かないとばかりに深希は小さなリーチェの無垢な残忍さを無視して、
「次はない胸でもいただこうかしら」
と気分はベアちゃん号の騒ぎに巻き込まれる前の夕暮れ時、奥様風に言った。そして、予言通り、ベアトリーチェ砂糖菓子の胸を突こうとしたが空を切った。
深希は胸が足りなかったから、命拾いしたなぁ……と口の中でもごもごと呟いた。
一方、永遠は雪が永遠砂糖菓子の頭を実に美味しそうに咀嚼しているのを横目で見て、自分のケーキの生クリームの上でにこやかに微笑んでいる雪砂糖菓子の頭をフォークで撫でながらぼそっと言う。
「お兄様が永遠の頭を食べた」
雪は独り言をケーキに向かってする永遠や何故か身体的特徴を罵り合っているベアトリーチェと深希を見回してから上品に食べる燕と呆れたように視線を交わし合った。
「お前達は……もっと静かに食べる事を学べ」そう注意した後、ケーキをフォークの上に載せて食べた。「うむ、美味しいな」
ベアトリーチェはその言葉を聞くと、何度も頷いて……もう、思い出すべきではないと解っていながらもケーキを熱心に創造するジャンと三島を思い出した。彼らはケーキのスポンジに、生クリームに、砂糖に……一つ、一つに愛情を如雨露からケーキという華に注ぐように大切にしていた。それはベアトリーチェの知る創造をする者とは違って、とても優しい役割分担がケーキ内で成されている気がした。
そう思ったのは自分が何かを創造することに憧れていたのだと今になって解ったのだ。その思いの熱が喉にあるときは気が付かなかったのに。
ベアトリーチェは胸が苦しくなって、両手で小さな胸を押さえた。
雪が気が付いて心配そうにみるが、ベアトリーチェは、
「そうか、美味しいのか」と何事もないと言葉を返した。でも、人生の多くを知らない幼子にはそう繕いきることはまだ、荷が重かった。涙をぽろぽろと流してケーキをフォークで掬い取り、食べる。「僕には涙の味、塩辛い味がするのにな」
そう言って、ベアトリーチェはむすっとした顔で永遠の膝の上へとお尻を載せて目を閉じた。
まるでそれは自分にはまだ、多くの温もりがあると再確認しているようにも思えた。だから、雪はベアトリーチェの食べかけのケーキを永遠の座る椅子の近くへと移動させた。永遠は兄に負けじとベアトリーチェのケーキに自分のケーキの残りを全部あげた。それを頬杖をついて眺めていた深希は幸福に満ちた寝顔のベアトリーチェをつまらない存在とばかりに見ていた。
深希の心の中でもう一人の自分に愚痴る。
多くの人間を殺害した小さな女の子は確かに可哀想だ。けど、その女の子には創造主さえも恐れている何かがある。それは力以外の何かだ。力だけとってみても十分、驚異に成り得るのに創造主に刃向かわない。可愛らしい臆病者。その理由だって知っている。自分を甘やかしてくれる雪と永遠という存在を喪失したくないからだ。大好きな偽両親がいなくならないように繋ぎ止めたいのだ。ならば、それこそ、創造主を殺せばいい。時として人は闇にのみ、幸福を求める事ができる。闇しかない私が言うのだから真実だ。
そう深希と深希の深層は重なり合ってゆく。その重なり合う心と心が居心地の良さを与えてくれる。今までの苛立ちや迷い、不安、同情等の弱い感情が自分から追い出されてゆく感触さえ感じた。それは徹夜した後、上りゆく朝日を見て自分を褒めた時の感触にも似ている。
だから、これ以上、深希と深希は幼子の安らいだ顔を見たくなかった。不機嫌そうな口調でさらりと言葉を流す。
「何深く沈んでの。もう終わっただから。それよりもベアちゃん、うちの店の広告のモデルにならない?」
深希の頼み事とはこの事だったのか、と思いつつも手放しで雪は、
「やるべきだな」
と弾んだ声で賛同した。
永遠も興奮気味に賛同する。
「そ、それは素晴らしいですね、お兄様」
既にトラックが喫茶店を横切る時の騒音と振動で何事か、と思い、起きていたベアトリーチェは眠い目を擦ってから叫んだ。
「揚羽も一緒で良いか!」
あまりに小さなリーチェの声が大きかったので、何かあったのか? と甦南がこちらへと歩いてきた。その甦南に雪は説明する。
「ベア様が深希のバイト先の天秤座の広告のモデルとして起用されたんですよ」
「それは良い事ね。後でお祝いにクッキー、持たせてあげるね」
クッキーという言葉にベアトリーチェは必死に何度も頷き、愛想の良い笑みを浮かべる。
深希はベアトリーチェの案を少し考えた結果、
「素晴らしいアイディアね、それ!」と指と指を擦り合わせて何かが弾けたような音を鳴らした。「んじゃ、もう一着分用意してくるね」
そう言い残して深希は足軽に暖簾を潜って外へと出て行ってしまった。
雪は何か、忘れていないか? と思った。
幸福な時を、まだ、幸福な時を過ごしている相棒であるベアトリーチェの姿を映している鏡の前で、私は上司である創造主と共に眺めていた。
ご自慢の金髪を旋風機が放つ風に弄ばせながら、真っ白い毛並みの犬を椅子に見立てて股を開いたまま、座る。時折、ベアトリーチェの見せる悲しげな表情に賞賛の拍手を送っていた。世界中のサドを足し合わせたら、この存在になるだろうと誰もが感じているはずだ。
リボルバーである跳部夜須久、私はただ……浮いているだけしか出来なかった。喋る事もできるのだが、上司に失言を言って自分の地位を危ない場所へと歩ませてゆくのは得策ではない。喋らなければそうなる確率など、零になる。求められた際には十分、吟味してから思考を言葉に加工すれば良いのだ。この世は全て、言語ゲームで成立しているのだから、それが当たり前だと相棒と出会った当初は思っていた。世界を詰まらない試合として捉えて常に自分を無難なところに置いて人生を過ごそうという大人な私と、自分の考えを是が非でも通そうとする子どもなベアトリーチェとは何度もぶつかり、和解し合って互いの目的の為に協力してきた。
私はこの詰まらない試合で悲惨な思いだけはしない為の結果を。
ベアトリーチェは雪と永遠との生活を維持する為の結果を。
「幸せって長く続くと思う跳部?」
スーツを着た紳士からベアトリーチェのお土産であるハンバーガーの入った篭を受け取って、机の上に置いてあった書類の山を手で吹き飛ばした。それから篭を机の上に荒々しく置いた。そして、同じ机に置いてあった無理を言って市役所の技術課に作らせたリモコンを操作する。これは壁の液晶パネルのリモコンであり、離れた場所から床に広がる映像を変えられる。
創造主は私が震える声でやっとの思いで、
「それは時と場合によります」
と答えるのをまるで聞いていなかった。その代わりに新しい玩具のリモコンを操作して床の映像を米国の国旗に変えた。
これらの新技術を無駄だと批判した勇気ある経理課の若い男性職員はナイフで身体中を切断された後で、汚らしい言葉と暴力のフルコースを味わい……最期には創造主に虫けらのように殺された。それを市役所の朝の朝礼でやったのだ、高笑いして。そんな人物とコミュニケーションを取らなければならないのだから冷や汗が身体全体を包んでいるぬるりとした感触さえ、恐怖という全身タイツを着ているように感じた。こんな状況がいつまでも続いていたら、緊張のあまり発狂しそうだ。
「それもそうね……」どうやら、私の回答は及第点を貰えたようでもう、幸福論には興味はなくなったのか、机の引き出しからベアトリーチェが提出した報告書をチェックしていた。多分、ジャンと三島の件であろう。私は武器課の予算報告書を提出する為にここへ来て、既にその用事も済んだのでお暇しようとした。私が声を掛けようとすると、「何これ」という不満を漏らす声と共に紙を激しく床に投げつける。荒れ狂う創造主の顔は物を作るというより、破壊する方が性に合っているのではないか、と思わせる程きつかった。「日本語じゃない!」
私に意見を求める為に創造主はわざとらしく、声を張る。彼女の表情に快楽を貪るだらけた微笑みが垣間見える。きっと、頭の中で小さなリーチェにどうお仕置きをしようか、と考えているのだろう。創造主はこの瞬間が人生の中で一番輝いているのだ。嘘ではない。市役所でのもっぱらの噂だ。人の口に戸は立てられないものだ。
私はそんな笑顔に事務的な愛想笑いを浮かべて、穏やかに、丁寧に言葉を紡ぐ。
「何か、不都合でも?」
「つまらないわよ。あの子、何処でお仕事してきたの? アメリカでしょ?」
子供じみた論理を展開しつつ、苛立ちを抑えきれず大股で机の方へと引き返してハンバーガーの入った篭を腕に通して持ってくると、鏡に映るケーキを頬一杯に頬張るベアトリーチェのおでこに狙いを定めて、野手のような鋭いストレートボール、いや、この場合はストレートハンバーガーかもしれないが、とにかく、ハンバーガーを投げた。だが、これは映像であった為、実際のベアトリーチェに何の被害はない。幼子はケーキを幸せそうにもぐもぐ、と口の中で弄んでいる。その姿に保護欲を掻き立てられつつも、俯いてそれを創造主に悟られないようにしてベアトリーチェに代わって言い訳をする。
「そうですが……英語でなくとも事務的には」
「私に意見しないで頂戴。世界全て、私のものなのよ。何一つ、愛しいクソリーチェちゃんのものじゃないのよ」と突然、言葉を切って真っ赤な唇を避けるくらい広げて確かな悪意と共に微笑んだ。それは自嘲の笑みではなく、何者かに対する挑戦と何者かの敗北への哀れみを含んだものだと私に解らせる程の説得力に溢れた嫌な顔だ。私が嫌悪しているのに気が付いたのか、それが正解だと無言で語る。ご褒美とばかりに言葉を続ける。「例え、創造主になれる素質があったとしてもね」
そんな存在はベアトリーチェ以外、誰もいない。牢屋に幽閉されていた理由が異端な存在だからと産まれなかった命の世界では有名だったが、真実を知り身体中の部品が興奮にざわついた。
創造主はリモコンを操作して、床の映像を荒々しい滝の映像に変えた。そうしてから、ベアトリーチェが映る鏡を睨んで床に転がったハンバーガーをヒールの踵で少しずつ、力を加えて、じわじわと潰してゆく。それを見た時、創造主がベアトリーチェの未来の姿に途方もない恐怖を感じているのを私は感じ取った。
ベアトリーチェを虐めるのは精神的に服従させて、その力の可能性に気付き、開花する前にあのハンバーガーのように踏みつぶす為だったのだ。そう考えに至った瞬間、小さなリーチェの思い描く世界を私は見てみたくなった。
想像してみる。
人間と動物は共に手を取り合って暮らしているだろう。誰かの犠牲の上に成り立つ社会ではなく、誰もが犠牲にならない社会。
そして、産まれるという概念もなく、誰もが縛られず、魂は自由に空を飛んでいるだろう。
「跳部? 知りたいと思ったでしょう、良いわ。教えてあげる」惚けた私の意識を戻すように、鋭敏な声が私の夢想を突き刺した。突き刺して抉り続ける。「あの子は世界を滅ぼし、新たな世界を産む為に世界が選んだ無垢な命」
魂が跳部夜須久という概念を得てから、創造主が全ての頂点にある存在だと無意識に認識していた。それが音を立てて崩れてゆく。嘘だ! という心の叫びの他に何処かで良かった……という確かな安堵する心があった。
それと同時に何故、目の前にいる金髪の人間に創造主としての地位を世界は与えたのだろうか? という疑問が浮かんだ。世界という空間を居心地の悪いものに変えたのは正しく傲慢な女の独裁にあるのだから。
沈黙を保っていた創造主がくすくすと薄気味笑いを零した後、喋り出す。
「でもね、条件があるのよ。クソリーチェちゃんがこの世の理、永劫回帰から逸脱する事ってね。そしてその時、世界は終わる。すなわち、私の死よ」
依然として薄らとにやついた顔で明かりの弱い部屋に佇む創造主だったが、前触れもなく、ベアトリーチェの顔面が映る鏡を蹴り割る。
鏡の破片は仄かな光に照らされて、辺り一面へと散った。それを一つ、一つ眺めてはこうなるに決まっているの、と何度も創造主は呟き続ける。それは恐怖のあまり、自我を無くした子どもに似ていた。
ベアトリーチェの力以外では決して傷つけることの出来ない創造主が、だ。如何にあの幼子が特別か、という事を嫌でも理解させられる。それは新手の洗脳のようだ。
「どうして、そのような大切な事を」
と聞いてみたくもなる。
私の声によって意識を取り戻したかのように固まってから、創造主は自信に満ちた確かな口調で言う。
「大切な相棒でもあるリーチェちゃんに教えるの? 跳部? それもいいわ」ハンバーガーが沢山、積んである篭から一つ、ハンバーガーを取り出すとゆっくり、包装紙を剥がす。それはこれから、話す事柄をもったいぶる小さな女の子の様子にも似ていた。包装紙を綺麗に剥ぎ終えると抑揚のある声で言う。「けどね、今からきついお仕置きをするからリーチェちゃん廃人になっちゃうかもよ」
「待って下さい。ベアトリーチェは廃棄課の仕事を完璧に遂行しました。彼女の何処に落ち度があると言うのです」
慌てて、私は創造主に訂正を求めた。だが、その言葉に耳を貸さなかった。創造主は美味しそうにハンバーガーにかぶりつく。かぶりついた時、肉汁が唇に付着して床へと落ちた。床に映る滝の激流に飲み込まれず、黄金色の肉汁は床に印象的に映った。これ以上、肉汁が落ちないように唇を一舐めしてから、今きづきましたよという素知らぬ顔をして、私の言葉に対して独善満載の言葉を返す。
「あるわよ。英語で書かなかった報告書」
と言って、床に落ちて裏返しになっていた報告書を私に見えるように表替えしにする。
その報告書には酔っ払いが意識朦朧と歩くようなやっとの思いで、という印象を強く持つ字の不確かさで一生懸命、書いてあった。よく見るとその紙は水色の画用紙のようだ。
さいしゅうほうこくしょ きさいにちじ じゅうにがつ じゅうごにち きさいしゃ べあとりーちぇ
じゅうにがつ、にじゅうよんにちにじゃんと、みしまのゆめであったけーきせんもんてんのおーぷんをかくにんした。とうしょのけいかくをじっこう。へいてんをまって、じゃんのしょぶんへといこうし、せいこうした。じゃんにていこうするこうどうはみられず、ひかくてき、すばやいしょちをほどこせた。また、なきわめくみしまをうまれなかったいのちのせかいへとつれかえるのもせっとくするひつようもなく、じぶんからすすんでほをすすめてくれた。
ほんじつ、みしまがじどうしゃしゅうりこうじょうへと、じどうしゃにじょうしゃしてしゅっきんしているのをかくにんした。
これでまんぞくか、あほおんな。ぼくはじゃんと、みしまのゆめをこわしてしまった。あたらしいゆめといっしょに。ぼくはぜったいにおまえをみとめない!
その言葉の一字一句洩らさずに能面を被ったような無表情で読み進めた創造主がその報告書に向かって拍手する。
「リーチェちゃんの幸せは長く続きませんでした、残念」
残念という顔を創造主はしていない。むしろ、獲物を見つけたライオンのように眼光鋭く、報告書を見ていた。
そして、指を顎に当ててしばし、思案に暮れる。
「跳部、市役所から死に神課の奴をリーチェちゃんのお友達に回してね」
その言葉を創造主から聞いて、私は可哀想な小さなリーチェと自己完結できなくなった。門を閉じずに、剥き出しの怒りを見送った。それは短い言葉となって流れ出る。
「貴女は!」
創造主はノリが悪いとでも言いそうなきょとんとした顔を向けて、私に近寄ってきた。
「あら? 反抗? 良いのよ? 次世代の創造主様におべっかを使うのも」
悪魔という存在がもし、いるとするならば、悪意ある顔をした種を指すのではない。悪、善という感情を分別のある知識で知っているのに、一色端にする者こそが悪魔だろう。そんな悪魔が今、私の目の前にいた。
恐らく、どんな説得の言葉も悪魔には通用しないだろう。創造主が望むのは彼女の否定する存在ではなく、常に肯定し続ける存在なのだ。
だから、私は心の中で裏切りを密かに決意した。
私が肯定するのは創造主 ベアトリーチェ。
それとは知らぬ、創造主は以前にベアトリーチェを虐めた後に撮影した写真を引き出しから取り出した。この時はこんなふうにお仕置きをした、というような話をビール一升瓶片手に喋り出す。そして時折、思い出したように一緒瓶にそのまま、口を付けてアルコールという舌が上機嫌に回る薬を摂取した。
深希から写真を撮影するよという一報が自分の携帯電話に入ったのを知らせに、急いでベアトリーチェが遊びに行っている永遠の家へと連絡を取ろうと思いついたが無理な話だった。ベアトリーチェは幼いから携帯電話を持つことを雪からまだ、許可して貰っていないから当然、持っていなかった。永遠は必要ないという理由で室内電話さえ引いていない。
ベアトリーチェはともかくとして、永遠には携帯を持たせようと雪は自室のソファにどっしりと座った。
そして、携帯電話で了に連絡を取り、了共にに永遠の住んでいるアパート古釘へと車を走らせてくれるようにお願いした。勿論、快く、路上販売を一回、手伝うという破格の条件で車を出してくれた。
道中、ベアトリーチェと揚羽が深希のバイト先の広告に起用するモデルになった事を伝えると、了はおめかししない、となぁと嬉しそうに呟いた。
しばらく、車を走らせると前方に線路が引かれた鉄橋が見えてきた。その側に古釘が建っていた。今にも崩れそうな緑色のペンキの剥がれた壁には、全体的に黒ずんだカビが繁殖していた。あまりの繁殖率に今では黒色の比率が高いくらいだ。来る度に可愛い生き物とまで呼ばれ、高校ではアイドル的存在の永遠が住む場所ではないなぁと唐突に言葉が了の頭の中で意味無く、のたうち回る。
ワゴン車を路肩に停車させて、二人は外へと出る。二人がワゴン車内から砂利へと足を触れた時、じゃり、という小石と小石が擦れ合う音がした。その不景気な音を聞き、了は永遠のアパートを訪ねると、いつも言う言葉を吐く。
「一センチ、横に傾いていないか」
「これ以上、鉄橋に接近させたら列車とアパートが正面衝突する。それはない」
了の言葉を丁寧な口調で返しつつ、雪はそこら中、虫食いだらけの薄赤いカーペットに寝そべるアパートの住人が飼っている猫のるーるらに手を挙げて挨拶する。るーるらはちらっと雪を見て、にゃーと一鳴きしてからまた、夢の世界へと旅立った。
「昔のベアトリーチェみたいな素っ気ない猫だな」
「今のベア様は揚羽のおかげで明るくなった。どうにしかして、中学校に通うよう説得すれば、また友達も増えるだろう」
雪は登る度に錆の落ちる階段を慎重に登ってそう言ったが、中学に通う前に読み書きを向上させなければならないという事実に気が付いた。顔を俯き顰めてしまった。
色々と話す事でベアトリーチェに知識を無意識に吸収させてきたが、これだけは反復練習をしなければ会得できない。だが、小さなリーチェは学習するのを嫌がる。
「でも、聞くか? あいつ」
了の声が背後から聞こえた。
勿論、
「聞かないだろう」
という訳でこの話題はここでおしまいとなる。小さなリーチェの学習に関する件はいつも、こんな感じで幕を閉じる。
雪が溜息を吐いたと同時にアパートの渡り廊下を体感できる程の揺れが襲った。その原因である鉄橋の上を我が物顔で走るオレンジ色の電車を確認した。それ程、速い速度で走行していない事から多分、各駅停車だろう。その各駅停車は耳を塞ぎたくなる騒音を周囲に撒き散らしている。
「おお、揺れる。揺れる。そのうち、潰れんぞ、これ」
了は雪の横で腹を抱えて笑っていた。
「大袈裟だ」
本当にその通りなのだが……これが快速だったり、特急だとしたら相当な揺れになる。電車のダイヤルが終了するまで眠れないのではないか?
雪は二0五 雲村永遠というプレートが薄汚れた白い壁に取り付けられている下にあるチャイムを押した。
既に揺れは収まり、各駅停車はずっと、先へと行ってしまった。
「はい! 今開けます、お待ち下さい」
という大声が雪の耳元に届いた。
木製の扉の右上に拳大の穴が開いていた。そこから永遠の声が漏れていたのだ。扉の意味がほとんどなかった。これでは外からの空気が入り放題だろう。
忙しない足音は扉の前で止めると、すぐに軋んだ音を立てて木製の扉は開かれた。中から現れたのはいつもの淡いビー玉の付いたゴムで左右に髪を結わえた永遠だった。雪は永遠の使い古されて伸びきった体操着という服装に呆れた。人を出迎えるのに女性なのだからそれなりの格好をしていて欲しかったのだ。微かな期待もあったが、現実はエコロジーだ。
そんな複雑な思いを抱えながら一言。
「永遠、物騒だ。誰が訪ねて来たのか、扉の覘き穴から確認してから開けた方が良い」
「大丈夫だよ。今はベアちゃんがくれた水魔法があるんだよ。怪しい人間は撃退できる。おまけにこの魔法で水をかなり節約もできているし」
ベアトリーチェが永遠に授けたのは手から水を放出する能力だが、決して魔法ではない。詳しくは綺麗な水のある場所から勝手に水を転移する能力で、水圧は能力者の意志によって変えられる。実に便利な能力だ。永遠は目の前で右手から水を放出して真っ赤な舌を水に浸す。まるで夏場の犬だ。
「本当か……。そっち、貰えば良かったな」
永遠の手から流れ出る水を凝視して、了がそう呟いた。
「あげないよ!」
その言葉を残してくるっと身体を半回転させて、アニメキャラの絵が描かれたマットを踏みしめてゆく。すぐ横には流しとガスコンロが設置されていた。ちょっと、進んだところで雪、了を手招きした。
手招きされた雪、了は靴を脱いでさっそく、アニメキャラの絵が描かれたマットを踏みしめた。
扉が閉まって、薄暗くなった。雪は上を見上げて電灯を探すが、流しのある場所には設置されていないようだ。その流しは全く、使った痕跡がないくらいにぴかぴかに磨き上げられており、銀色に光っていた。ガスコンロの周囲も綺麗なものだった。だが、永遠の住処が全て、こうだと限らない事を兄である雪は心が痛いほど知っていた。
その住処へと続く白い扉を開けた。その扉にはベアトリーチェの写真が飾ってあった。四歳の時の写真だ。写真の中でおかっぱ頭のベアトリーチェは兎の耳付きフードを被り眠そうな表情で雪に抱っこされ、永遠に頬ずりをされていた。その表情は何処か幸福に満ちていた。場所は薄暗い牢屋の中だ。目に映る度に胸の中が熱くなった。
その懐かしさは永遠が扉を開くと同時に何処かへと飛翔した。だが、また帰ってくる事を心が知っていた。
もう、小さなリーチェは自分の一部と言って良いくらいの存在なのだから……。
雪は部屋を見回した。
ちゃぶ台の上には漫画が載っかっていた。一冊ならまだしも、六冊も載っていて山を形成していた。外部の力が少しでも加われば、すぐに地盤沈下が起きるだろう。生き埋めになるのはその付近にあるベアトリーチェ無意識教育用の絵本だけだろうから、被害はないかもしれない。
窓際に置いてあるベッドの布団の上には制服が乱雑に放られていた。雪はそれをそのままにはしておけず、制服を掴んだ。
「ベア様はここにいるだろう。ベア様を呼んで欲しい」と言いながら、制服を掛けるハンガーをベッドの脇の篭から見繕う。「撮影の日時が決定したんだ」
そう言い、制服をしっかり掛けろと説教したかったが止めた。白いハンガーを選ぶと壁と壁に渡されたロープにそのハンガーを掛けて制服をハンガーへと掛けた。スカートも同様に。
雪の一連の動作に気にせず、永遠はベアトリーチェの晴れ舞台の日決定に飛び跳ねて喜ぶ。
「そうなんだ、良かった」跳ねるのを止めてからまた、話し出す。「けど、ベアちゃん、リボルバー拳銃のお役人を連れて何処かへ行っちゃった。話があるって言ってたけど」
雪は顎を一回触った後、思考を巡らせる。
市役所の人間が出てくるという事は、産まれた命の世界の住人を廃棄処分する仕事だろう。選定の仕事は今、受けているから物理的に不可能だ。だが、廃棄処分の仕事が入ると決まって、ベアトリーチェは前日にその詳細を話してくれる。そして、今夜は一緒に寝てやるとそっぽを向いて恥ずかしそうに言うのだ。これに関しては今のベアトリーチェならば、もっと素直に言うかもしれない。
「興味があるが、跳部夜須久がそれを話すことはないだろう。口の堅い男だからな。おまけに真面目ときている」
これは間違いなく、イレギュラーだ。
だが、跳部とベアトリーチェの力を知る雪はそれほど、イレギュラーが脅威になるものだ、とは思えないとも考えていた。何故なら、ベアトリーチェに跳部を使用する制限を創造主は設けているからだ。ベアトリーチェから聞いた事柄だが創造主曰く、面白くないとの事だが、明らかに恐れているのだ。だから、雪は平然といつものように静寂を好み、そこへと身を置いた。
「お前みたいな奴だもんな、あれ」
「リボルバー拳銃と一緒にするな」千習高等学校指定の白い帽子を持ち、指先でその帽子に付いている赤いリボンを弾く了から白い帽子を救出して言葉を続ける。「ともあれ、連絡を取る方法がないな。待つしかない」
雪の言葉を茶化すように口笛で雀の鳴き声を再現して、窓を勢いよく開いた。窓の向こうは鉄橋が目と鼻の先にあり、鉄橋の縁が所々、茶色く錆びていた。風が強く、雪の立っている場所まで吹き荒んだ。
その風の魔法を受けて、ベアトリーチェのお泊まり用パジャマが雪の足下に擦り寄ってくる。小さなリーチェに感じる親近感を薄いパジャマの水色模様が漂わせて、雪に自分を摘み上げるように囁いていた。その聞こえない言葉に従って雪はパジャマを掴み上げ、じっと眺めた。
昨日、永遠の家にお泊まりした時のパジャマのようだ。汗で湿っていた。実に悪戯好きな風がきまぐれを起こして、雪の鼻孔に昨夜のベアトリーチェの香りを届ける。チョコレートの甘苦い香りだった。何故、そんな香りがするのかはパジャマの袖に付着したチョコレートが教えてくれた。顔を難問でも解くように歪ませて、その部分を親指で擦った。親指を確認したが、いつもの肌色しか色は無かった。どうやら、小さなリーチェはまた、お気に入りのパジャマを一つ駄目にしたようだ。ベアトリーチェが家に帰宅して、お泊まり鞄を開いてそのパジャマを眺めたら何とかしてくれと泣き喚くに違いない。薄くは出来るが到底元通りにならないだろう。しょんぼりと肩を落として、顔真っ赤にして理不尽に怒鳴り散らすだろう。変なところだけ、子どもな部分を垣間見せる小さなリーチェを見るのが嬉しくて叱らずに同じのを買ってくれ、と堂々とした口調で命令するお姫様の言う事を聞いてしまうのだ。雪の他にも永遠、了、深希、李緒も小さなお姫様には逆らえない。可愛さは武器になる。
これから数時間後に訪れる幸福の一粒飴を子どものようにじっくりと眺めていた雪の肩越しに、永遠も小さなリーチェの粗相を発見して苦笑いを浮かべた。
「お兄様。雑草茶を入れますね」幸福な家庭の主婦みたく永遠は雪の両肩に手を載せて囁いた。「了さんにも」
と雪の両肩から手を離し、部屋の隅に積まれた雑誌に目を通していた了に視線を送る。
それに対して当然、
「いらん」「いらねぇ」
ほぼ同時に雪、了が何の躊躇いもなく言った。当たり前だ、そこら辺の雑草の味と砂糖を少々の飲み物を誰も飲みたいなど思うはずがない。永遠は何度も二人に薦めては、大地の年月を踏みしめる深みのある味と喚いている。短に、土の味では、と雪は言い返そうとしたが、永遠の必死さが頑なに見えたので無理と判断し、放置する。
「酷い!」という一言を残して踵を返した。ふと、思い出したように立ち止まると永遠はフィギュアスケートの選手の如き、鮮やかなターンと妖精が戯れるみたいな笑顔を振りまき、「駄菓子ご飯はどう? 美味しいよ、目を瞑って食べれば牛丼だぁ!」
と拳を高く挙げた。
もう、滅茶苦茶だと言う代わりに了は永遠の頭上を目掛けて、手にしている雑誌を投げる素振りを見せた。永遠は微笑みつつ、身を竦める。
「単体でくれ、単体で」
雪はベアトリーチェのお泊まり鞄として使用している横の長さが幼子の身長とほぼ同じの黒いボストンバックにパジャマを詰め込んだ。
ベアちゃんお気に入りのパジャマは、数時間後には彼女自身の意志によってゴミ箱に葬られるだろう。
だから、といってベアトリーチェが全てにおいて替えが聞くと考えている傲慢な人間という訳ではない。
本当に大切なものは替えが聞かないんだ、ということを痛いほど知っている。幼子を愛でてくれた自分よりも背の高い者達はいつも、幼子を置いて去って、常に心で、身体で泣いているのだから。
耳をすますと、小さなベアトリーチェが声を上げて、
「また、殺しちゃったよ! 僕は何度、自分の為に人を犠牲にするんだ!」
と言う掠れた声と、雪の腹部に磯巾着が岩場にへばり付いているかのように密着した幼子の胸部から聞こえる心音が、だんだんと現実味を帯びて耳元に浮かんできた。
その悲しい思い出を振り払うように雪は窓を閉めた。
地獄の底へと悲しみに暮れる者を誘い込むような圧倒される音が、窓の先から聞こえた。