三章 揚羽蝶
桜が咲く季節はゆらゆら、ゆらゆら、と桜というピンク髪の少女の微笑みに惑わされて、夢の国へと連れ去られてしまう。意識を強く持たなければ、あたしは永遠ちゃん風に言うならば
「異世界に連れ去られた人みたいなゲーム展開に……」
「おい、恋下! 太宰治の作品についてお前の意見を述べて見ろ!」
「だざいおさむ? 違う違う、夢の国にはかわゆい女の子しかいないのん」
自分でも感心するほどの卑しい微笑みが出てきた。口から涎が飛び出しそうだったので、啜って回避する。講義という束縛された時間内、教室のテーブルに頭を横たえるという行為は数多の人間がそれで失敗してきたというのに何故、止められないのだろう。夏は熱過ぎ、冬は寒過ぎだし……春は二人よりも優しいからかと虚ろな意識の中、考えを纏める。だが、あたしの目の前にいる夢の国の住人には絶対になれない禿頭の背広を着た教授という人種には、この素晴らしい考えは説いたところで論破されるだろう。
さすがにこんな事で単位を落とすわけにはいかない。あたしの大学での一番の目標は単位をきっちりと取得し、それ以外は大学内の女の子観察だ。
あたしは寝ぼけた頭を掻きつつ、目の前にいる禿頭もとい、麻鍋久にあたしの素晴らしい明瞭な回答を贈った。
「だざいおさむって誰?」
そう口にして辺りを見回すと誰もが固まっていた。太宰治を知らないと熱い軽蔑の視線を光合成中の植物並みに喰らうという事を初めて知った。あたしは目の前にある黒板を見るが作品と作家の精神状態とは関係性があるか? というリベートの議題のみが書かれているだけだった。
あたしは心の中でだざいおさむって誰なのよ、と叫び続けたが誰一人としてだざいの正体を教えてくれなかった。だざいおさむを知らない私は完全にゼミ生からは仲間外れにされてリベートは続いてゆく。
あたしは何気に窓を眺めた。窓の先には桜の木の下でツンデレ ベアちゃんと見知らぬショートカットの少女が遊んでいた。ツンデレ ベアちゃんの可愛いさは神話に出てくる少女のような白い髪と背からお尻に掛けての直線の美しさにあると冬の日に確認済みだ。だが、怖いお姉ちゃんとお兄さんがいるので対象外。
そのベアちゃんと釣り合う子が一緒に遊んでいる。だざいおさむが話題のリベートに集中するよりも、二人の少女の友情について勉強する方が有意義だ。
あたしは扉を静かに閉めて退室した。ゼミのみんなはあたしがお手洗いに立ったとでも思ったのだろう。誰も咎める者はいなかった。尤も、大学という場所は他者に迷惑を掛ける行動でない限りでは、意外とルーズな講義が多かった。そのルーズな講義で固めて卒業まで漕ぎ付く事が可能な大学も存在している。では、何の為に大学に通うか?
「まぁ、小学校、中学校、高校はベアちゃんの設定が産まれた命の世界に反映されているだけだし。実際に経験してないから解らないな」
自分の問いにそう独り言を言った。
廊下は講義のない生徒達で溢れかえっていた。あたしはスキンヘッドに鼻ピアスの男とウィンドブレイカーを着た髭を生やした男が私の通行予定の廊下ど真ん中を占拠しているのにどうしようと思った。だが、その隙間を難なく、走り抜けた。二階の階段を飛び降り、一階の廊下を駆け抜ける。階段を飛び降りた時にカップラーメンを右手にびっくりしてこちらを見ている知り合いのポニーテイルの少女に手を挙げて、
「やっほ! 急いでるからまたね」
「恋下ちゃん、またゼミ、抜け出したでしょ。真面目にやりなさいよ」
呆れた溜息混じりの言葉があたしの背中を追い風と共に撫でた。私は生真面目な仮野鈴らしい発言だなと苦笑した。鈴の声から青春の衝動エネルギーのようなものを吸収したあたしは、ベアトリーチェから譲り受けた力を解放する。
その瞬間、あたしの足は存在しないような軽さを得た。地面を蹴っているという感触さえない。だが、それは地面と足が接する時間が限りなく零に近いが故に脳が処理を仕切れないだけだ。
目指せ、小さなリーチェとあたしの少女!
雲村永遠のお腹は過去最高に下品な音を立てていた。もう、三日も食パンとベアトリーチェから与えられた能力を使用した水以外、口にしていないのだから仕方がない。欲しいゲームソフトを後先、考えずに購入した結果とはいえ、永遠は金という生き物の希少さに俯いた。おまけに小さなリーチェに新しくできた友達の推帆揚羽との馴れ初めについて朝日が昇るまで、布団の中で互いに見つめ合って語り明かした。その影響で今は目を開けているだけで体力が減少する気さえしていた。
小さなリーチェは妄想癖の固まりのような子なので、揚羽という少女が蝶になったり、マフィアのボスになったり、未亡人になったり、と大変だった。どれも創作というジャンルに分類されるような話だった。だけども、興奮気味に早口に話しながら、手振り身振りを交える幼子を見ていると真実を包む蜜柑の皮なんてどうでも良い、ようするに友達ができたという蜜柑の実が大切なんだと幸せな気持ちになった。だが、それでも目の疲労度は嘘をつかないのだ。迷子のベアちゃんを揚羽が助けた、それだけが幼子の話の核だったのにそんなに話が広がるとは……。
永遠の隣を歩く那世李緒はそんな永遠の真っ青な顔を見て、ちょっと待ていて、と永遠に微笑むと近くのコンビニエンスストアの扉を潜っていった。
那世李緒は同じ白い制服で、セラーカラーに赤い二重ラインが入っているといった特徴のない千習高等学校の制服を着ているのに、癖のない茶髪と腰まで伸びた髪が翻す度にスタイルの良い芸能人を連想させる事から永遠とは違う生き物のように思えた。一応、永遠とは異なり、千習高等学校指定の右側に赤いリボン付きの白い帽子を被っているがそれは関係ないと思いたい。少なくとも今の永遠のような品のないお腹を両手で押さえた情けない図柄の人物とは比較のしようがないと空腹で思考することも億劫になる状態の中、頭が勝手に誤作動したのだった。
李緒は数刻も立たぬうちに御握りを袋一杯、購入して戻ってきた。永遠の頭の中にはもう、御握りの映像しかなかった。
テレビ番組のグルメリポーターが美味いとしか発言しない事の意味が初めて解ったような気さえする。彼らは本当に美味い物だから美味いとただ、その一言に魂の全てを掛ける。
優しい李緒の事だからこの御握りを全部、食べて良いよと言ってくれるのだろう。永遠はなるべく、御握りを見ずに不自然にならないように、これから行く予定の図書館の方角へと歩を進めた。
「わーちゃん、これ、お食べになって下さいな」
穏やかな風に運ばれて、那世市の素となった集落を築いた那世家のお嬢様の声は永遠の耳に届く。
永遠のぎらぎらと輝いた瞳に映る位置に重量感ありげなふっくらとした袋は在った。そう、その袋にいるのは御握り様だ。
御握りの具は何だろう? と考慮している暇なんぞなかった。一瞬間もない。
李緒が両手で持っていた袋を永遠はすぐさま、引ったくるとにやりと微笑んだ。電化製品を取り扱っている店付近の歩道で、右足を軸にして身体を回転させて喜びを表現する。当然、永遠と李緒は訝しげな視線に晒された。ミュージカルの舞台のような陽気さの少女なんぞ、現実の枠を飛び越えてきたら不自然で仕方がない。
夢から醒めたようにぴたりと回転を止めると、永遠は微かに顔が引き攣っている李緒に言う。
「良いんですか? 本当に私、全部食べちゃうよ。私の食欲はアニメキャラよりも凄いよ」
「知ってますから大丈夫ですよ」と言葉を返す李緒を無視して、永遠は袋の中に頭を突っ込む。御握りの海苔の匂いのパラダイスへようこそと芳しい者が永遠にお辞儀をした。たんなる妄想だが、永遠はその者に声を掛ける。「ふへへ、お嬢ちゃん。もう、あたいから逃げらへんで!」興奮気味の永遠の二の腕を掴んで恥ずかしそうに周囲を見渡して言う。「ですが……お行儀が悪いので暫く、我慢です。図書館付近にある臨海公園で食べましょう」
「そんな、殺生な」
御握りの入った袋を持った手はだらりと垂れ下がった。世界の不幸を今、一心に背負っているとでも叫びそうな憂鬱顔で、永遠は自分たちの横を通り過ぎてゆく小さな女の子を目で追いかけた。
その子は丁度、ベアトリーチェと同じくらいの体格で眼鏡を掛けた生真面目そうな顔立ちの黒髪が外跳ねした少女だ。少女の生真面目さは何処か、子供じみているようにも思えた。地図を片手に何やら、メモ用紙を握り締めている。母親にお使いを頼まれたのだろうか? という疑問が永遠の頭の中で温かい日差しのように射してきた。それは少女にだけに降り注ぐ母性という名の太陽から放たれているのだろう。我が子が何処に行っても、何をしていてもその光が途絶えることはない。その証拠に少女の肩には兎の絵が描かれた水筒が掛かっているし、少女は時折、母から貰ったであろうピンク色の財布をジーンズのポケットから取り出しては中身を何度も確認している。
永遠はその少女が羨ましく、思えて仕方がなかった。きっと、李緒もそうなのだろう。
その思いが頭の中に染みこめば、染みこむ程、風邪の始まりのような立ちの悪い心の咳が青空へと消えてゆくのだった。
私達はもう、手遅れだから……、あの小さな背中には戻ることはできないのだから良い。母親が必要な段階を通り過ぎてしまったのだ。駆け足跳びで。
永遠の頭の中で永遠お姉ちゃんという声が、太陽の光を浴びる事のない日陰の少女の声が木霊した。
「今日は千習大学の桜。雪が可憐だって話してくれた桜の下で揚羽と遊ぶんだ」
今朝、ボロアパートである古釘の永遠の借りている部屋でベアトリーチェは永遠の腕の中で猫なで声を出していた。その言葉と全く同じだった。
桜の薄桃色の花びらがぱっと散ったように永遠の心に白昼夢が浮かび上がる。
桜の木の下で口からくちゃくちゃと音を立てて御握りを美味しそうに頬張って微笑むベアトリーチェとその友人揚羽。永遠はベアトリーチェの微笑む顔に満足している。そうすると自分も自然に笑顔になっていた事に気が付き、李緒にその事を指摘される。永遠と李緒はきっと、春の日差しのような今日を手に入れられるはずだ。それはどんなゲームの宝箱を開いても、手に入れられないレアアイテムではないか。それに勝る宝物を永遠は今の時点では見出せない。
自動車の走行音や、人々の解読不能にまで解け合った会話、誰かが乗る自転車のブレーキ音、投げ捨てられた空き缶が風という原動力を得て歩道に転がる音、鴉達が電柱の上で高々と歓声の宴を主催する生活音、微かな耳障りの悪い音を立てて歩道から飛び出してダンプカーに轢かれる新聞紙、唐突に歩道の中央に陣取る木からするざわついた葉達の会話、前を歩く女子高生が投げ捨てたポテトを包み込んでいた包み紙が捨てられる哀れな音、時折通過する選挙カーから撒き散らされた怒号、頭上から鳴り響く職人達がビルの骨組みを構築している勇ましい音、風船が空に舞い上がってしまってそれを仰ぎ見つめて泣き叫ぶ女児の悲壮な声、その女児を泣くなと宥める父親の頼りない声、開け放たれた本屋から聞こえるレジの単調な機械音、遥か上空にある青いキャンパスに白い絵の具で一閃を描く飛行機の耳には届かぬ音、永遠達を囲むようにして形成された小さなリーチェ口調で言うところの薄い理性という感情を自慢したがる猿達の耳障りな靴音、路上駐車された自動車から聞こえる重厚なエンジン音とその厚い鎧の中で鼾を掻く助手席に座る六十代の男性、同じく路肩に路上駐車されたトラックから慌てふためいて腕時計を眺めつつ荷台の扉を開閉する作業員の苦労が音となって現れたような甲高い音、マンションの前を竹箒片手に腰の曲がった老婆が懸命に落ち葉を掃く爽やかな音、そして永遠のはしたないお腹の音―ああ、なんて生活感のある世界だこと……。
その調律の合わない不快な曲を奏で続ける自然と不自然が織り成す世界には、白昼夢の世界みたく幸福のみの曲は合いそうにもなかった。一瞬だからこそ、それは宝物になる。その宝物に手を掛けてみたくなった。ついでに白昼夢通り、腹を満たそうではないか、と永遠のお腹が間抜けな音を立てた。
「李緒」左右の足運びのペースを乱すことなく、優雅に永遠の隣に歩く李緒がいきなり呼ばれて首を右に向ける。待てましたといわんばかりに永遠は先程までにも増して元気な声で喋り続ける。「もうじき、お昼だからベアちゃん、困っているんだ……だからね」理想の母親のような容姿をしている李緒はその容姿と寸分違わぬ寛容さを微笑に託し、口を開く。
「さすがベアちゃんのお母様ですわ。わたくしも見習いたいものです、せめて……わーちゃんのように料理ができないと将来、子どもが……」
自己嫌悪の波に攫われて李緒の声が徐々に遠ざかってゆく。まぁまぁと永遠は李緒の背中を摩った。李緒が口にした通り、彼女は料理が苦手分野なのだ。幾ら、ベアトリーチェが用意した設定が不器用だというのがあるからといってそこまで演じる必要はないのになぁと心の中でつっこみを入れつつ、永遠は慰めの言葉を用意した。同時に自分のお腹を慰める言葉も己に掛けなければ……。ゲームのシステム並みに融通の利かないお腹を持つと大変だ。
さぁ、頑張って揚羽ちゃんとベアちゃん、目指そう!
銀行から出てきた雲村雪は一万円札の束を指で一枚一枚弾く。確認しなくとも引き出した金額分のお金は手元にあるはずなのだが、ついついこうして確認したくなるのは自分だけはないだろうと推測する。確かに一万円札が十五枚ある。
「おいおい、そんなにお金を持ってどうするの?」
半袖のTシャツ一枚、ジーパンというラフな格好の雪の悪友、了がそうラップ調に言った。階段の段差に腰掛けている了をわざとらしく冷ややかに一瞥すると、白いスーツ姿の雪は今夜のイベントに胸を躍らせながらもそれを内に閉じこめて冷静を装った。
「ベア様の友人が今夜、ダーウィンに泊まりに来るのだ。その友人のパジャマや、着替え、歯ブラシ、専用のマグカップ、ベッド」雪の声ははきはきとした口調で友人に自慢する。その自慢を遮るように了が一言、呟く。「お前は過保護気味な親か」了の言葉に首を傾げる。「普通だろう、これくらいはな。まだまだ、あるぞ。蚊に刺されたら可哀想だから蚊帳も用意しなければな。女の子なのだからシャンプー等にも拘りがあるかもしれない、困った。俺はそういう女性の好むものには疎い」
雪はベアトリーチェの友人が使用する着替え用の服を購入する為の参考として、銀行前を通り過ぎる女性達に目を走らせる。スーツ姿の女性が種類を片手に、足早に過ぎ去ってゆく。ベアトリーチェの年頃ではあのように整然とした隙のない服装は七五三を彷彿とさせ、浮いた服装として周囲から判断されるであろう……却下だ。次に栗鼠のアップリケのブラウスに淡い水色のスカートを履く女児がエプロンを身に纏った母親と一緒に手を繋いで通り過ぎた。雪は女児の姿を見て、このようなイメージでいこうと決めた。
「女性ってただのガキだろう」丁度、了が見上げて欠伸をしたところに一枚の哀れな桜の花びらが吸い込まれていった。「口の中に桜が入った。不味い、お前の妹の永遠じゃないだから桜の花びらなんか喰うか! 畜生!」
「永遠はそんなもの」永遠が去年、ほうれん草が買えなかったから臨海公園脇に生えていた雑草でスープを作っても意外と美味しいと嬉々として話していた事が、雪の頭に過ぎった。それでも、と少し考えた後にやはり……。「食すかもしれないな」
と落胆の溜息と共に言葉が出た。
「マジかよ」
「遺憾ながら。それよりもお前、化粧品に詳しいんだろう? ベア様の友人はおませな方もしれん」
「お前こそ、詳しいだろうが。モテモテの雲村雪さん」
「いや、詳しくないな、女性とはあまり接点がない。それにな、ベア様から恋愛はきつく禁じられている。多分、信仰者として恥のない慎ましい生活が望ましいとベアは考えているのだろう」
雪が大学から帰宅して少しでも女性の香水の香りがすると、子供じみた癇癪をベアトリーチェが起こすのを思い出して苦笑した。
その癇癪の内容が泣きそうな顔で言葉巧みに自分が寂しかった事を伝えるのだ。雪が永遠や李緒の所へ自分がいない間は遊びに行けばいいと提案すると溜息を吐き、何やら憑き物の取れたように微笑みをベアトリーチェは浮かべていた。あの微笑みの意味が今も雪には理解できない。そう、丁度……桜がそよ風という揺りかごの掌で踊る魅惑のダンスと同じくらい雪はベアトリーチェにある何かにその時、心を一瞬、持って行かれた。
それはなんだろう? と考える雪の横で両手を天高く挙げて踵を浮かせてゆっくりと背伸びしつつ、漠然と了は呟く。
「チビッコ、お前の事、好きだと思うぜ」
「そうだろうな。ベア様は信仰者の中で一番、俺に一番懐いている。この前、お守りを頂いた。何でもベア様が作ったものだそうだ」
「そこに恋愛感情があるとは考えていないだろう?」
ポケットから取り出した斜光に射されて銀色に輝く菱形の図形のキーホルダーに付いた鍵をお手玉の要領で、右掌へ左掌へ右掌へと交互に投げて移動させる。たわい無い遊びを繰り出しつつ、了は検討外れの質問をした。
雪は込み上げる愉快な感情を腹に抑えてから、口をゆっくりと開く。
「恋愛?」その漢字二文字と、ベアトリーチェという穢れがあってはならない幼子とでは天秤に掛ける事さえもできぬ程の距離にあるのを発見した。雪は胸を締め付けられる想いに震えた。だが、それも一瞬の事だった。人間によくある気の迷いだと愉快な感情が這い上がり、無邪気な笑いとなって完遂する。「何を言っているベア様は十四歳、俺は二十歳だ、成立しない。ベア様は俺に父親の姿を見ているんだろう。健気なベアちゃんだ」
その言葉に呼応するように街路樹の枝の上で休息を得ていた二羽の雀が翼を力強く羽ばたかせた。アスファルトというコートにいる人間達の遥か頭上を飛んでゆく、飛んでゆく。大きな方はお父さん雀で、小さい方は娘雀なのだろう。安全な道を我が子には通って欲しいと言っているような囀りと共に我が子の前をゆく。
それも良いな。それも? それもだと?
雪はその思考を中断させて大学の方へと足を歩ませようとした。雪の背中に軽蔑の色合いを含んだ鋭敏な声が突き刺さる。
「今日ばかりはチビッコに同情するな、俺」
俺をお前の操り人形なんかにさせるな! と叫んで、口の両端をサディズムに歪ませている了の右頬を殴ってやろうという衝動が沸き上がってきた。だが、それをすればベアトリーチェという信仰の対象を自ら否定する事にも成りかねない。雪は振り向き、あっけらかんとした態度で接する。
「俺は午後の講義があるので大学の食堂で食事をするが、お前は?」
長年、親友という間柄の役回りにいる二人にしか解らない見えない軋轢の間を置いてから、了が今の事は忘れてくれというサインをおちゃらかした渋い爺さん声で言う。
「久しぶりに千習大学の不味いスパでも食べに行くかな」咳を何度か、催してから普通の低い一般成人男性に、ありがちな声に戻して喋る。「乗れよ、モテモテの雲村雪さん」
と路上駐車された茶色い泥に汚れたリアルな牛の絵付属のトラックの前方にある不幸を全部背負った、あるいは呪いを何かの分まで引き受けたような大量の葉が髪の毛のように化しているワゴン車を鍵で示した。
何処へ行ってきたんだと訝しげつつも爺さんネタに対して、王道とも呼べる婆さんネタで返す。だが、この婆さんはアクが強いという設定。
「すまないな、失恋数更新中の沙凪了さん」
婆さんだったつもりが普段の雲村雪の声をただ、棒読みにしただけだった。その真実を了が知ることなく、俯いたままの背中の上方からは煙が立ち上っていた。煙は透き通った空へと伸びていた。
「うっせぇ」
と煙草を指と指の間に挟んで、了はつまらなそうに吐き捨てた。
了に続いて雪が助手席に乗り込んだ。シートベルトの装着に手間取っているとベアトリーチェが自分を呼んでいるような妙な感覚に囚われる。
「あ」
それは妙な感覚ではなかった。今日のお昼頃にベアトリーチェとその新しい友達である揚羽が大学へと来るのだった。ベアトリーチェが早く、雪に新しい友達を紹介したいらしい。よほど、同じ世代の友人ができた事が嬉しいようだ。
「ベアは新しい友人ができたことを喜んでいる」
「そうか……」
了は煙草の灰を携帯用の灰皿に落としながら応えた。煙草を灰皿に押しつけてハンドルを両手で握る。
「俺、了が死んでも永遠、ベア様はこの世界で幸せに生きるだろう」
遠い目を、遥か未来を、自分のいなくなった未来を想像すると胸の奥からじわりと温かい空気が心臓部に向かって波立っているように感じられ、死にたくないとその波が暴れているのだ。雪は何度もその波に向かって黙れと防波堤を築き上げた。何度も、何度も防波堤は波の前に陥落し、その都度、高さを増した。その高さはベアトリーチェへの忠誠心だった。
不正確な呼吸が姿を消したのを見計らって、雪は震えた唇から声を紡ぎ出す。
「俺達に力を分け与えて、力を失っているベア様には永遠が必要だ。ついでに、創造主と刺し違えて見せるさ」
「俺達は選定の儀式の内容をまだ、知らされていないんだぜ、そこまで出来るかよ」
と了は前方の速度の遅いトラックを無理矢理、追い越している片手間でそう皮肉を言った。
「考えても内容は解らない。出たとこ勝負だろう」
そう言ってから窓から自分たちが憧れていた世界を眺める。
自転車に乗っていた若者が転倒して痛さに身を捩っている。だが、その痛いという感情が死を伴う事の重要性を彼は知らないだろう。その大切さを知らずに彼は自転車を蹴り飛ばす。単純で子供じみた八つ当たりは雪にとって……いや、一年前の雪にとっては新鮮な光景だった。死に至る痛みというものは産まれなかった命の世界で知識としては知っていた。だが、雪の現実には存在せず、例え怪我をしても一定の時間を経れば、元通りになる。そうして産まれなかった命はただ、創造主から役割を貰って無限の時を過ごすだけだ。その退屈な世界から連れ出してくれたのが小さなリーチェだった。小さなリーチェは創造主からの影響を受けないただ、一人の人間だった。それを創造主は自分の世界を蝕むウィルスとして見た。たった一人で創造主から虐待を受けていた。殴る、蹴る、食事を与えない、罵声、タダ働きの役所の仕事という虐待を小さなリーチェは耐えていた。雪はその小さなリーチェを自分だけは慈しもうと考えた。だが、そこに他人の痛みを感じる痛みは含まれていた。
今は雪の身体中をベアトリーチェの痛みどころか、了、永遠、恋下、李緒という仲間の痛みも赤い鮮血と共に体内を駆け巡っている。
それと同じような事を産まれた命の世界の住人は最初から知覚している。なんて、素晴らしい心を持っているのだろう。
雪は心の片隅でもう、窓の向こうから見る事はないであろう自転車に乗った若者の心に憧れた。
多種多様な憧れをくれたベアトリーチェとその友人である揚羽に会おう!
ベアトリーチェという少女の見る明日は創造主が無表情でこちらをじっと、見下ろして微笑してから、悲恋だったわね人に愛されない哀れなベアトリーチェと言った後に踵を返す姿と、ベアトリーチェが必死で暖かな温もりを両手に包んでいた。それはもう、動かなかった。それでもベアトリーチェは知っているのだ。また、会える事をまた、片思いする事になると。
だから、少女は全ての想いをたった一言に伝う。
「雪、今度は……回目の出逢いをしよう」
太陽がお休みする時間に放つ緋色の幕の下でベアトリーチェは永遠の少女の王子様の唇に初めて触れる。息をしようと藻掻く唇で……。
酸素を取り込みたいと本能が要求し、小さなリーチェの幼い恋心は淡い恋心の成就を要求する。その二つは相反しており、当然、キスとはほど遠い唇を一方的に触れさせる形だけのものだった。
そのキスが終わると、感嘆の溜息を吐いて紅色の空の一点をただ、眺めるのだ。背後で誰か、ベアトリーチェを必死で呼ぶ声が聞こえる。
「永遠。大丈夫……お前は」
何かを伝えようとしたのだが、急速に各部位のブレイカーが墜ちてゆく。
足、手、唇、目といった身体機能が停止してゆく鈍い音を耳にしても小さなリーチェは恋心だけは手放したくなかった。だが、死によって恋心に執着する小さなリーチェも、死を執行するリーチェも消えた。
最後に残った意志だけがベアトリーチェを過去へと回帰させた。
自分がその後、覚えている限りの遠い昨日に戻る事を知っていた。それは終わりほど、鮮明に自分の心の中に描かれていない。
柔らかな、冷たい手が今よりも小さなベアトリーチェの手を必死に導こうとしていた。きっと、それが小さなリーチェの母の記憶なのだろう。
小さなリーチェは百十センチの身体に希望が満ち溢れているプロローグと絶望しかないエピローグを常に持ち歩いていた。それは望んだわけではない。ただ、そのページの断片のみを覚えている。そして、そこに記された事実は変革することは不可能だった。何回も同じ時を繰り返す中で心だけは自由だという性質を発見した。
ベアトリーチェは桜の大木に刻まれた複数の皺を撫でながらふと、そんな感慨に浸った。サングラスごしに見る世界は全てが薄黒いフィルターに掛かっていて不快だった。だから、ベアトリーチェは冬という季節以外はあまり、外に長時間居たくはなかった。そのことを友人である揚羽が二人分の缶ジュースを購入しに大学の校舎内にある自販機へと駆けていった後、発作のように思い出していた。
太陽が燦々と輝くのを無視するかのように白い肌を守るという名目で長袖の黒いブラウスを着ていた。襟元にある雛の小さな人形が気に入っている。永遠が嬉々としてベアトリーチェに魔法のステッキと共にこの服を今朝、手渡された。甲高い音の鳴る格好いい魔法のステッキはこっそり、永遠の布団の中に安置した。
「遅いぞ、揚羽」
と呟いて真新しい白い運動靴の踵だけを挙げたり、降ろしたりする。それにつられて黒いロングスカートのフリルが激しく揺れ始めた。そんな単調な行為に耽っていると、太ももまでたくしあげられた靴下の存在を思い出さずにはいられない。何だか、それがとんでもなく邪魔だという気分に駆られる。だから、といって脱ぐという選択肢はない。去年の冬にベアトリーチェがお風呂に入るべく躊躇いもなく、雪の目の前で着ていたスカートを脱ごうとした。その時に雪に女の子が恥じらいもなく、自分以外の目がある場所で衣服を脱いではいけませんと珍しく、一喝された。ベアトリーチェはそれに対して、雪はそんな慎ましやかな女が好きなのか? と問い質したら雪は深く頷いた。それ以来、衣服は人前では脱がないのだ。去年の夏は上衣を脱いで臨海公園にある噴水で涼んでいたが今年はしないつもりだ。
しばらくすると、ベアトリーチェの待っていた少女、揚羽はウェーブの掛かったショートヘアの女性と一緒にこちらへと歩いてくる。
ショートヘアの女性は恋下深希だ。恋下深希はTシャツをご丁寧にジーズンの中に突っ込んでいた。今時、そんな格好の若者などいないという事実は世間に疎いベアトリーチェでも認識していた。
一方、推帆揚羽は首筋まで伸びている片方が外跳ねをした髪に褐色の肌のエネルギッシュな百二十センチの少女で、その元気さが緑色のTシャツと半ズボンという女の子らしくない服装となって見事に表現されている。
その二人が一緒に歩いていると、深希が体育の教師で、揚羽が生徒みたいだ。しかも教師に叱られるために別室に輸送中の生徒という構図に見える。
ベアトリーチェは馬鹿だから深希は運動で優秀な成績を修めて体育教師になるしかないなぁというにやつきと、深希が自分を訪ねにきてくれた嬉しいというにやつきを咳払いして、深希の視線が自分の正面顔に映らないようにそっぽを向く。
「ベアちゃん」
という歓声にも近い喜び勇んだ声がベアトリーチェの耳に響くと、幼子としては応えぬわけにはいかなかった。自分にできる精一杯の歓迎の笑顔を揚羽だけに授ける。
その笑顔は誰に向けた者なのかが深希には解っていた。首を傾けてウィンクする身振りで幼子にサインを送って続け様に、
「三年一組 つんでれ べあとりーちぇ。元気に白い日傘を差して遊んでいるかね」
と大袈裟な大声で言った。
「誰ですか、天使の名を騙るそいつ。ちなみに僕は人間の形はしているけど、天使なベアトリーチェだ」
「天使ぃ?」と深希は素っ頓狂な声を上げるが持ち直して咳混じりに言う。「そうしておくか。ほれ、天使貢ぎ物だ」声と同時にベアトリーチェのところに缶ジュースが放り投げられる。「ありがとう、深希!」
と小さなリーチェは頭上を通過予定の貢ぎ物に対してお礼を言ったが、そうしている間に缶ジュースは幼子の頭上を通過して背後の芝生に落ちた。小さなリーチェは予定通りと装うべく口笛を吹き始めた。優雅に桜の木に立て掛けてあった白い日傘を差して歩き、缶ジュースを回収しようとした。
手に取った瞬間、あまりの熱さに手が拒絶反応を起こし、大袈裟な悲鳴をあげて芝生へと缶ジュースを落としてしまう。
真っ赤になった手をふぅふぅして、スカートのポケットから取り出した水色のハンカチで缶ジュースを包む。
「熱い。お前、コーンポタージュって書いてあるぞ」
ベアトリーチェの言葉に揚羽はわざとらしい深い溜息を吐く。
「リアクション薄いなぁ、りっちゃん。貸してみふぁそ」
とたとた、と近寄ってきた揚羽の掌に缶ジュースを載せる。揚羽はそれを躊躇いもなく握り締めて上下に振る。そして、躊躇無く、プルタブを上方向へと引っ張った。湯気を諸ともせず一気に飲み干す。やはり、熱かったみたいで舌を犬のように垂らせて、空気によって冷やそうとする。無言で一連の動作を流動的にこなした彼女の視線は誇らしげだった。自然と反論できそうもない空気が形成されてゆく。何より、彼女の強い意志を秘めた黒い瞳が反論は駄目だと訴えかけている。
「さすが、僕の親友の揚羽だ、完璧だな」ベアトリーチェは軽々と跳んで、深希の肩に触れた。「な!」
同意しろ、という意味を受け取った深希は一瞬、愕然と立ち尽くしたが、正気を取り戻して芝居じみた渋声で応える。
「敢えて無言。そうきたか……。やるね」
舌を出したままの揚羽が潤んだ瞳でベアトリーチェを見つめる。幼子はその瞳の波の持つ普段の元気な揚羽には備わっていないはずの儚さを発見し、思わずたじろいだ。
「喋っていいかい?」
「どうぞ」「どうぞ」
深希、ベアトリーチェは偶然、声を揃えた。
「舌がひりひりするんよ。よい子のみんなは真似してはいけません的ひりひりさ」
その割には彼女は意外と平気だった。軽快なスキップを踏んで、大学の図書館の脇にある燃えるゴミのポリバケツに捨てようとしたが、すぐ間違えに気付いてその隣にある空き缶のポリバケツに捨てる。軽快なステップを踏み続けて何故か、ベアトリーチェの身体を抱きしめる。抱きしめ合ったまま、ベアトリーチェと揚羽は桜の木が形成する日陰の下でぴょん、ぴょんと跳ね続けた。
「なによ、これ? 宇宙人の親愛の証を証明する儀式の類」と大人な諦めの溜息を吐いた後、残っていた無邪気な少女の心が本音を呟かせる。「で、でも可愛いじゃないの……」
ベアトリーチェは深希の発言を盗み聞き、内心ほくそ笑んだ。
やはり、恋下深希は永遠お姉ちゃんが僕に話してくれた属性のうちの一つ、ツンデレだ、と。
燦々と輝く太陽の光が僅かに地上へと零れて、ベアトリーチェの白い髪に神秘の華を沿える。幼子は自分の髪も、自分の朱い瞳も、自分の白すぎる肌も大嫌いで、大嫌いで仕方がなかった。そう、本当に仕方がないのだ。持って生まれたものは手放せないという事実を皮肉にも自分の身体的特徴で知り得た。それは幼子にとってはあまりにも過酷な現実だった。人によってはそんなことでと罵るかもしれない。だが、世界はそんなことの集合体ではないか? とかつて雪がそう言い……、でもそんなことの中には鮮明な輝きを持つ自分の意志と共鳴する存在が一人や二人埋もれているんだ。それを人は家族と言ったり、恋人と言ったり、親友と言ったりする。時にそれは憎悪の対象であるかもしれない、一人でも多く小さなリーチェの人生から発掘しなさい、俺はいつまでも小さなリーチェを守るから安心して発掘しなさいと言い加えた事を自分の周囲を流れる風のワルツがふと、何処からか、連れてきた。
小さなリーチェはくるくると、くるくると揚羽の満たされた表情を見つめてその場を回り続ける。
僕たちが招いた春風のワルツよ。どうか、お前の囁き声で愛おしい雪に伝えておくれ。
決して特別な才能や特別な美しさを持った存在ではないと多くの人間は、僕の両手を握り締めている少女を評するだろう。
僕たちが招いた春風のワルツよ。この先の一言が一番大切なのだ、よくお聞き。
けれど、僕は親愛なる情をこの少女に見出した。親友の輝きを、青春の蒼い輝きだ。
さぁ、春風のワルツよ! 僕の想いを連れて行くんだ、雪の居る場所まで吹いてゆけ!
小さなリーチェはくるくると、くるくると揚羽の満たされた表情を見つめてその場を回り続けた。幼子もその表情に解け合うように笑う。そこには悪意も、善意もなかった。
無垢な語らいを、永遠とも名付けて愛撫したい語らいを、背後からの無粋な声がベアトリーチェの楽園をいとも簡単に破壊した。
「宇宙人!」
その言葉を背後の背で聞きながら、ベアトリーチェはむっとした感情を抑えずに爆発させる。
「僕は某国のお姫様だ!」
だが、相手は幼子の怒りなんか露も知らずに手に持っていた二本の缶ジュースのうち、一本を左右に少し、揺らした。
ベアトリーチェの大嫌いな梅干し入りのジュースだった。梅干しは千習市の名産である。街を歩けば必ず、千習の梅干しを使用した食品にぶち当たる。小学校、中学校の給食に一ヶ月に二回は登場する食材でもあった。
そんなんだからベアトリーチェはこの街が大嫌いだし、目の前にある缶ジュースに描かれている梅干しマンという筋肉モリモリの梅干しがこちらをピースしている醜い顔が大嫌いだった。何気に太陽に反射し、光り輝いている梅干しマンは幼子に僕を怖がるなよ、ベイベーと渋い顔で呟いているようだった。幼子は自分の手首に手錠で繋がれた子猫の縫いぐるみをぎゅっと抱き寄せた。朱い瞳だけは心なしか、深希の爪先が泥まみれの運動靴を心配そうに眺めていた。
「お前の分のジュース、飲んじゃうよ」
妙に抑揚のある悪戯めいた口調でベアトリーチェの頭上に声が聞こえた。幼子は顔を上げて即座に言葉を返す。
「うん、いらないから、お前飲めよ、ツンデレ」
小さなリーチェの身体が急に持ち上がる。ベアトリーチェが姉と慕っている雲村永遠が今日、首筋に振りかけていたレモンの香水の香りがした。両手で抱えていた子猫の縫いぐるみから手を離して、永遠の制服の袖に掴まった。
皺のないアイロンののりがまだ、残った袖からほっそりとした長い首にあるほくろへと幼子は視線を移し、永遠の薄く塗られたリップクリームが唾液によって輝いている淡い赤い色の唇を何度も瞬きをして確認すると、幼子は愛すべき永遠お姉ちゃんに頬ずりをした。
「ううん、ベアちゃんが飲むって深希ちゃん」
その言葉を聞いたベアトリーチェは少しむっとして、子猫の縫いぐるみを蹴った。その縫いぐるみは永遠の膝に一度ぶつかり、力なく振り子の如く宙を彷徨う。
冬の乳歯の抜けた出来事以来、ベアトリーチェは永遠への憧憬が胸に抑えきれなくなるくらいに大きく成長していた。それは幼子自身も理解し、それを自然に思っていた。憧憬の対象に言われてもやはり、嫌いなものは嫌いだった。
だが、永遠の悲しそうな瞳が幼心に子猫の縫いぐるみに申し訳ない気持ちで一杯にさせた。
ベアトリーチェの頭を小動物を愛玩するように撫でている那世李緒の偽善顔に内心、苛立ちを感じた。永遠の手前、それを出すことは幼子の選択肢にはなかった。仕方なく、仲良しごっこをする。
親しみを込めて一言。
「李緒」
「好き嫌いは駄目ですよ。私の先祖である那世倉之助が梅干しを那世市に根付かせたのですからベアちゃん、飲んで下さい」
そう言って深希から梅干しが混入されたジュースを受け取ると、お節介な人間特有の私は正しい事をしているのだという恩着せがましい笑顔を浮かべた。勿論、そのジュースをベアトリーチェの視野で確認可能な所へと持ってくるのだから、幼子としては勘弁して下さいという様相だった。
そこへ、見守っていたベアトリーチェの親友である揚羽が幼子の頬に人差し指で触れた。揚羽の人差し指はひんやりとしていた。
「ベアちゃん、いらないの?」
「嫌いなんだ、あれ」
「じゃあ、交換だね、私のジュースと。私、梅干し嫌いじゃないから平気よ」
深希から貰ったオレンジジュースを掲げてベアトリーチェに見せた。その無垢な善意に触れたベアトリーチェは永遠の腕から離れると、揚羽の身体をぎゅっと、抱きしめた。その行動に幼子を知る永遠、深希、李緒は驚いて固まってしまうが、幼子は気にすることなく、笑った。
「ありがとう、揚羽」
話が完結してしまい、そこに大人の屁理屈をねじ込むことは不可能だった。李緒はそれでも良いと言うかのようにまだ、偽善顔をしていたのは幼子にとっては不快だった。だが、手元にはオレンジジュースがあるので不快さを表情に出せなかった。
揚羽は梅干し入りのジュースを喉の音を立てて、飲み出した。ベアトリーチェも親友と同じく、喉の音を立てて天を仰ぎつつ飲み干した。
太陽は薄オレンジ色に輝いていた。オレンジジュースを飲んだから、そう思えたのかな、と幼子は思った。
「ベアちゃん、もう……」
「まるで私達のようですね」
そう李緒は永遠に言った。
「親友は大切なもんだよね、李緒」
そう言う永遠の遥か後方から雲村雪、沙凪了がゆっくりと歩いてきた。ベアトリーチェはすぐに雪に手を振った。その表情は何処か威厳に満ちていた。本当に見せたい表情は恋する乙女全快スマイルなのだが、幼子はどうしても、人がいる前では雪に素直になれなかった。そんな自分を心の奥底で駄目だぞぉ、と可愛らしく叱ってみる。
雪と了はベアトリーチェに手を振り替えしてくれた。だが、了はする必要がなかった。
「お前はいらない」
と幼子は呟いた。
ベアトリーチェの呟きは了には届かず、了はへらへらと何度も幼子の肩に気安く触れる。その度に片手で了の掌を払う。それでも、了は幼子の肩に気安く触れるのだった。
ベアトリーチェは揚羽の手を取って了から逃げ出す。
さすがに大の男が少女二人を追いかけ回すという図柄は怪しい人間に間違えられるとでも思ったのか、了は追いかけなかった。
幼子は追いかけてきても、きゃ、きゃ、悲鳴を挙げてやると息巻いていたのに肩すかしを食らったのだった。
あたし達は何処からどう見ても幸福そうなグループに見えるだろう。だが、皆がそれぞれ難題を抱えている。誰もがこの場ではそれを表へと出さずに、桜の木の下の芝生で仲良く輪になって御握りを食べている。それぞれの好きな食べ物、大好きな人、大好きなアイドル等を話し合い、互いに交流を深め合う姿はなんて、美しい友情の始まりへの第一歩だろうか。けれどもあたし、恋下深希だけはそこへと加えてはならない。あたしは存在自体が穢れているのだから。
朱に交われば赤くなるっていうでしょ。
何故って?
あたしが産まれなかった理由が陸上部の練習を終えた母、恋下飴が下校途中、大学生風の男性達に襲われて廃ビルで何度も犯されて、妊娠してしまったが誰の子かも解らない子であり、当時強化選手に認定されていた為、すぐに薬によって処置された。マスコミ等には情報が公開される事無く、陸上連盟の圧力により、真実はひた隠しにされている。
その一つ、一つの経緯がまるで体験してきたかのようにいつも、心に刻まれていた。思い出したくもない咽せるような熱さと悪臭、何度も繰り返し訪れる磔にされるような痛みがいつも、波のように刻まれている。だから、あたしは暴力的な男が大嫌いだ。だが、その存在がなければこうして、あたしは鮭御握りを食べるというありふれた行動すらできなかっただろう。
穏やかな時が流れる度にあたしは考えてしまう。あたしはここに居て良いのだろうか? そもそも、あたしの存在は許されるのだろうか?
許されるはずない。ならば、今すぐ産まれなかった命の世界に戻れというのか! あたしは産まれたいんだ。許されるはずがない。ならば、今すぐ産まれなかった命の世界に戻れというのか!
頭にあたしではない聞いたことがあるような、ないような不可思議な声が襲う。こうなると顔をきつく顰めなければ耐えられない程の偏頭痛が容赦なく、襲いかかる。
あたしは両膝に添えられた掌を拳へと作り替える。爪が皮膚に食い込むのが鋭い痛みとなって脳へと伝わった。
歯を食いしばり、自分という存在を認識した日から連綿と続く生きる事への罪悪がもたらす痛みに耐える。常に強く生きたい、生きたい、生きたい、生きてやる、生きてやる、生きなければならないという怨念にも似た想いを持たなければ身体は柳のように脆く、風に飛ばされそうだった。飛ばされた先は永久の闇、死という奴の腹の中だろう。こう考えると、それはそれで穢れた自分には相応しい最期だと薄ら笑いさえ浮かんでくるのだから、自分のジャンクぶりも大したものだ。やはり、恐怖から存在が確立した人間は魔性の闇を精神に飼っているのかも知れない。
鮭御握りを噛み砕いた。小骨があったが容易く噛み切れた。鮭御握りを嚥下しつつ、あたしと同じ泥臭い闇の匂いを身体中から漂わせるベアトリーチェを盗み見る。
ベアトリーチェは肩を忙しなく、動かしつつ御握りを食べている。嚥下をするというよりも、飲むといった印象の俊敏さだ。食べ物に汚い小さなリーチェも小柄が故にその一生懸命さは妖精にも劣らない純白の宝石へと化す。誰もがその宝石に裏のない爽やかな笑顔を翳す。同じ匂いをさせながらも小さなリーチェは穢れなく可愛い、可愛いお人形さんだ。
「雪、僕に赤飯御握りを寄越せ」
その横柄な口調の裏にある淡い恋心も手に取るように解る。しかも、横柄でありながら小さな女性はちら、ちらと雪を何度も視線で追いかけている。他人が与えてくれる愛情が離れないか、どうかを常に測っている。臆病なチビッコ冒険者だ、とあたしは羨意の眼差しを気付けば、向けていた。
有り難くも鈍感な雪は小さなリーチェの幼心には疎く、今も平然とした顔でベアトリーチェの真っ白な掌にビニールを剥いだ赤飯御握りを載せる。
淡々とした如何にも遜った言葉を可哀想なリーチェは受け取る。
「ベア、食べるのも良いですが、後ほど健康的に運動を試みて下さい」
幼子は上目遣いに雪の黒い瞳を見つめると、
「雪が同行してくれるならば、考えても良い」
両手が子猫の縫いぐるみの白いお髭を何度も触れた。
なんとも意地らしい反応なのだろう。少女好きのあたしから言えば、このような恥じらいを持つ少女が近年、減少している。それは日本教育における道徳がお座なりにされてきた結果だろうとあたしは推察して、未来の可憐な少女の生息状況に危機感を持っている。尤も、あたしにはそれに関して何ができるというわけではない。憂いながら今みたく、最高の少女を堪能するだけだ。
だが、その至高の少女をあたしから掻っ攫おうという輩がいる。
「勿論、同行する」
雪は感動する事もなく、無感動でもなくただ、ベアトリーチェに従う兵隊のように命令を遂行する意志のみが見られる。この男こそ、あたしのベアトリーチェを汚す害虫だ。このいけ好かない澄まし顔が影では幼子の洋服を買い与えたり、幼子の三時のおやつを買ったり、幼子を守る優しいお兄ちゃんみたく肩車して夕焼け前の閑静な住宅街を今時流行らないトレンディードラマのように歩いてゆくのだろう。考えただけで寒気がした。これだからペドフィリアという人種は困りもんだ。
揚羽が桜の木に立て掛けてあったベアトリーチェの白い傘を持ち出した。幼子と寄り添い、白い傘を咲かせる。普通の理性のある大学生ならば、白い花を汚すような真似も、その花の影に実っている青々しい果実に手を出さないだろう。あたしもそうでありたいと思うが、胸が張り裂けんばかりに邪悪な魔物が暴れている。それが揚羽とベアトリーチェという果実に暴かれないか、と横目でちらちら、と何度も観察するのみしかできない。本当はぎゅっと抱きしめて絞め殺したい程に欲情している。
何を隠す? お前の魂の半分はそういう欲望で塗り固められたくすんだ泥饅頭だろう。それを若々しい母の顔入りのもう半分の魂が泥饅頭を包んで、立派な餡子入りの饅頭に仕立て上げているだけさ。
そうあたしの魂が叫んでいる。
それを忘れさせてくれよと桜の花びらが強風で数え切れない程、舞い落ちて様々な場所へと花びらの死体が散乱した様相を眺める。
鎮魂の曲の代わりに太陽が全ての者を等しく、照らしている。仲間の花びらの死体がある側溝へと落ちている。図書館二階部分にあるバルコニーの手摺りの上にも花びらの死体は陳列されており、その手摺りに手を添えて二人とも眼鏡な男と女が恋愛における正しい会話を口ずさんでいた。下に目を向けると、真新しいリクルートスーツを着込んだ男子学生のグループが企業の経営状態に関する情報を交換し合っている。昨今の不況も相まってかつてのやんちゃ顔の少年特有の無邪気さは微塵もなかった。その紳士に生まれ変わった学生諸君が桜の花びらの死体を次々と踏んでゆく。
だけどね、だけどね!
「花びらは散っているわ。多分、今日でお花見の季節は終了ね」
散っている、と認識してもらえるだけ、マシなのだ。あたし達は認識してもらえないのだから、と花びらなんかに嫉妬してしまった。あたしは少し、美少女アニメキャラの可愛さに嫉妬する雲村永遠の気持ちが解ったような気がした。
「コスプレをしているとね、その時だけ美少女キャラの全能萌えぶりが私に憑依した感覚に」と言って永遠が背伸びをする。揚羽とベアトリーチェは永遠の前に胡座を掻いて仲良く永遠を見守っていた。そして、永遠がまた、喋り始める。「憑依した感覚に陥るんだよ」と言って揚羽、ベアトリーチェの肩に触れながら、「ベアちゃん、揚羽ちゃん、全能さを手にしたいでしょう。この瞬間だけは女として美少女キャラに負けた気がしないの。むしろ、勝てるかもしれない! 負け戦じゃない!」
訂正、雲村永遠の気持ちは永遠に解らない。
だけど、泥饅頭ではない純真な思考を持つ雲村永遠が羨ましかった。だから、雲村永遠も好きだ。
この世に存在するほとんどの女の子は泥饅頭には眩しすぎる……。
御握りを両手に持ち、揚羽とベアトリーチェを追いかけ回す優しき幼子のお姉ちゃん永遠。
永遠の右手が握る御握りを狙い定めて一気にジャンプし、口でそれを攫う野性味溢れる揚羽。
了の野蛮な野宿生活の新鮮さに、お上品に口元に手を添えて微笑するこの街の全歴代の市長を家系から輩出する家柄の李緒お嬢様。
本当に眩しすぎる。
この眩しい者達の中であたしは産まれた命の世界に永住できる権利を手にする事ができるのだろうか? という疑問が頭に掠めるが首を振り、その疑問を振り払った。
あたしは生きるんだ!
足を力強く踏み降ろした。
俯き、足下を見るとあたしの運動靴に圧迫されて生き残りの桜の花びらが藻掻いていた。
部屋の中央にあるソファに疲労した身体を沈めて、いつものようにコーヒーメーカーからカップへと人類の英知の深さを改めて感じさせてくれるような漆黒の水を注ぐ。雪にとって夕方になったと知らせてくれるのはその静寂を内に与えてくれる飲み物と、たまにやってくるヒステリックに防音の部屋に伝う優しい騒音を内に与えてくれる妹、永遠の声だ。
「ここはそっとしておくを選択する方が良い。流菜ちゃんエンドを目指すには美補ちゃんっていう番いの犬みたく始終一緒にいる女の子が邪魔なんだよ!」
雪の傍らで永遠が真剣にノートパソコンの画面に魅入っている。そのパソコンからは軽快な音楽が響いてくる。地方のスーパーにかかってそうな何とも飽きない曲だが、然りとて、名曲というわけではない。うっとうしくも耳に馴染んでくる曲だ。
「あの先輩を私から奪わないで下さい!」とパソコンの中の美少女 その一。
「お兄ちゃんは別にあんたの所有物じゃあないっしょ。頭のネジが四、五本外れているようなお馬鹿な発言は止めて下さい!」とパソコンの中の美少女 その二。
雪はコーヒー片手に立ち上がり、ソファの裏手へと回り、永遠の背後からノートパソコンを覗き込んだ。なるほど、主人公以外のキャラクターは絵として画面に表示されるのかと思いつつも、画面の状況把握を頭の中で開始する。左側にいるボブカットの小柄な少女が先程、主人公の事をお兄ちゃんと言っていた妹の流菜。右側にいる冴えない眼鏡の三つ編み少女が主人公を先輩と呼称していた後輩の美補。
馬のシルエットのみが描かれた白亜のコップから放出される白い湯気ごと、コーヒーを喉の奥にある食道へとほんの少しの量だけ流し込む。
永遠が無言になるほど、集中しているのは稀だ。永遠の友人の李緒が一週間に一度、提供してくれる機密情報によると、授業中は高度な内容な為にほとんど、身体と精神が硬直状態にあるらしい。兄として、ここは勉学の尊さを教えなければならないだろう。
「永遠」
雪の声に振り返らずにノートパソコンのマウスパッドに手をくっつけたまま、
「何、お兄様? 今、永遠は大切な時間を過ごしてるんだよ」
と気怠く応えた。
「あんた、妹なんでしょう! 妹は兄とは法律で結婚できないって決まっているんですよ。日本以外の殆どの国が近親相姦を不道徳なものとして忌み嫌っています。貴女だって、」
画面上の美少女、美補が全て、自分の主張を言い終わる前にプレイヤーである永遠はエンターキーを押した。何度も酷使されているエンターキーの悲鳴の余韻が雪の耳から消え去るのを待たずに、画面上の美少女、流菜の声が鮮やかに再生される。
「世界のルールは臆病な人が迷わない為にあり、狡賢い人がそれを利用して利益を得る為にあるんです。ルールを片手に自分には利益があるなんて主張するのは利益ありきの女のすることです」
そう言って画面上の美少女、流菜は不適に笑う。それは美補に対して笑っているのではなく、雲村兄妹に対して笑っているかのようだった。背中におぞましい寒気のようなものを感じた。
永遠が嫌いな訳ではない。だから……
一瞬、思考が停止し、雪の身体の底にある太古の刻から受け継がれている進化の知恵が一つの感情を強制的に呼び覚まさせる。
なんて、気持ちの悪い妄想なのだろうか、と雪は自分が憎悪にも似た嫌悪感を抱いていることを感じた。掻き消すべく、コーヒーを呷る。熱さに咽せそうになるが、嚥下しきる。
永遠の左右を淡い水色のビー玉付きの黒いゴムで結わえられた髪も、腰まですらりと伸びた髪も動かずに生きたヴィーナス像のようだった。まるで息をしたら、その美しさは永遠に失われてしまうようだ。
美術館に存在する荘厳たる静寂感が世界における人間という種は、永遠と雪だけではないかという程の錯覚にも近い妄想を雪の脳裏に与えてくれた。だが、そんなちゃちな妄想ではいつの間にか、形成された静寂さの下では生きづらい。祈るような気持ちでベアトリーチェと揚羽が帰ってくるのをまだか、と壁に立て掛けられたデジタル時計を凝視する。そんなに凝視されても時は早く流れません、残念でしたぁ、と南国少女の汗塗れた香りのする揚羽の声が律儀に教えてくれた……。
ベアトリーチェと揚羽の名前が頭に出てくると不安になってきた。
「小さなリーチェはカレーの材料が解るだろうか」
突然、雪が言葉を口にしたのに永遠の反応は恐ろしく俊敏だった。振り向き、目をかっ開いて早口で言葉を紡ぐ。
「お兄様は小さなリーチェの心配ばかりですね」
「当たり前だろう、ベアは癇癪持ちの可愛いチビッコなんだ。それだけで保護の対象だろう。虐めたりするのは創造主くらいなものだ」
「小さなお姫様達の様子、誰かに見張らせているんでしょう?」
呆れたように永遠はそう言いいつ、マウスパッドを軽く一叩きする。
「随分と甘やかされて育ったんだね。人間は利益で動いている。無利益な事ばかりをしていては人間に残された道は死しかないのよ」と雲村兄妹の会話を邪魔する画面上だけの美少女、美補。
「よく解ったな、永遠」
「小さなお姫様ばかり……なんか、狡いなぁ」
ぶらつかせた両足がテーブル虐待を始める。その実行犯である雪の可愛い妹は口を噤んだまま、雪の言葉を待っている。
微かに外から聞こえる子ども達の奇声を聞きながら、雪は腕組みをする。それを永遠は円らな瞳でじっと見つめる。
「よし!」と言う気合いの籠もった一声と共に腕組みを解除する。そして、饒舌に喋り始める。「スーパー格好いいと那世市のスーパーはるかぜで買い物する主婦達に有名な永遠のお兄さんが勉学の尊さ」滑走路を軽快に滑る飛行機を無理矢理、停止させるような強引さで永遠が割って入る。「ノートパソコンが永遠を呼んでいる」すぐに雪は言い返す。「却下だ」
「こっちの小さなリーチェもあらゆる意味で保護しないとならない」
「微妙にならないが英語のmustを彷彿とさせているんですけど」
大袈裟にも両手で顔を覆って喋っている永遠の声は別人のようにくぐもって聞こえた。そんな可愛い妹のご期待通り、雪はソファ付近に転がっている紺色の通学鞄から英語の教科書を取り出すべく、鞄をご開帳する。
永遠の鞄の中身は子どもが友達の家に遊びに行くような内容のものばかりだった。携帯用ゲーム機、のど飴、チョコレート、予備の乾電池、飲みかけのペットボトル、縄跳び。それらを掻き分けて英語の教科書を手にする。
それを喜び勇んで永遠の視線に掲げた。
「これは?」
雪が流暢な英語で永遠に質問した。
永遠は少し、怒りを含めた強い目つきで開かれた通学鞄を見ながら、辿々しい英語でゆっくりと応える。
「それは英語の教科書です」寸分の間も置かずに、自分の危うい英語に注ぎ足すように女々しく、呟く。「お兄様、妹のプライバシー侵害」
未だ、持っていたカップから立つ白い湯気を呆れた吐息で吹き消し、コーヒーを一口含む。
「違うな、この部屋では俺がルールだ」
永遠がソファに膝を載せて、ソファの背後に突っ立っている雪の澄ました顔を嬉々として眺める。今にも永遠が雪の方へと転がってくると思える程、身を乗り出している。
「世界のルールは適用されないのかな?」
「ルールはお前自身の魂が決めろ」
雪はわざと自分が千習大学で講義を受けているフランス語でぶっきらぼうに答えた。このスタンスは自分が自分である為のものだ。誰にも真似して欲しくなかった。例え、妹の永遠であっても……ベアトリーチェであっても。
「何語?」
「映画に登場する密偵が使う暗号だ」
すらりと嘘が口から飛翔した。
嘘が真になるのを待たずにソファへと座り、きょとんとしている永遠の肩に手を回して英語の勉強会から逃れられないようにする。同時にノートパソコンを左手で隅に寄せた。確保したスペースに春の暖かさと多分、勉強するぞという意志に熱せられている永遠の向上心によって冷めることのないコーヒーを置き、英語の教科書もその下側に置いた。勿論、李緒の報告の中から聞いていた今、永遠が勉強中の項目を開いている。
永遠はあまりの兄の妹を思う気持ちに触れて、天井の白色に向かってこう叫んだ。
「ノー、センキュー!」
ベアトリーチェは白い日傘を差して、サングラスを掛けて、紫外線避けの薬を身体全体にバターのように塗りたくるという完全防備で夕暮れ時の那世市をゆっくりと歩く。
その前を揚羽が後ろに両手を組んで踊るように歩いていた。時折、カレーライスというフレーズを何度も繰り返すだけのへんてこりんな歌を大声で歌う。
この奇妙な二人を様々な人生を歩んできた、これからも歩む人々が見つめている。
お行儀良く、赤信号で二人が青に変わるのを待っていると、永遠と同じ制服に身を包んだ少女達、五人が左右をきょろ、きょろと確認していた。自動車が両車線とも走っていないのを確認すると、そのまま渡って行った。その少女達に揚羽が抗議する。
「駄目だよ、お姉ちゃん達、信号は守らないと」
五人の少女のうち、李緒よりも背の高い少女が眉間に皺を寄せて、顔をしゃくり上げた。まるで鶏だ。そして、女の声とは思えない、いや、人間とは思えない低い声で揚羽を威嚇する。
「うっせー、ちび。おめぇらが通っている小学校と違うんだよ」
「青信号になってから、みんなで手を挙げて横断歩道は渡りましょうね」
鶏の仲間の一人である女が鼻息を荒くして、丁寧な口調で付け加えた。
ベアトリーチェは今まで、人間が酷い悪態を自分に向けても奴らは猿だから仕方がないと諦められたのに、友人である揚羽がその対象になっているとそう諦められずに激しい苛立ちを心に抱えた。新鮮でもあった。
赤信号が青になるのを待たずに五人の女達をぼこぼこに懲らしめる目的を抱いて、幼子は一歩を踏み出そうとした。その小さな背中に聞き覚えのある声が触れた。
「俺はあいつらを許せねぇ。確かにいねぇのに待ってやる義理はない。けど、ちびにあんな口を利く必要はないだろうよ」という馬鹿な論理を翳す沙凪了。
「交通ルールは人の生命を優しく包んでくれる花瓶です。守りましょう」という相変わらず、神経に触れる偽善ぶりを発揮する世界は花畑の、那世李緒お嬢様。
その二人が電柱に隠れているのをベアトリーチェは振り向いただけで確認した。完全に電柱に隠れていると思っているであろう了と李緒の身体は半分しか隠れていなかった。了の汗で湿った臭そうな真っ白いTシャツと、李緒のウェデイングドレスみたいな服のふんわりとしたスカートの見かけは真っ白い、中身は空っぽの善で詰まっている空白が電柱から覗いていて、幼子は肩を落とした。
「密偵はもっと格好いいものだ。ベア殿様の密偵がこんな間抜けとは」
小さなリーチェの呟きは、今日という有限の時間を惜しんで黄昏に萌ゆる太陽へと溶け込んでいった。それ程、微少な音量で呟いたのは幼子なりの間抜けな密偵への配慮だった。
ベアトリーチェが顔を信号の方に向けた時には信号機は進めの青を示しており、頭の悪い猿鶏五匹の姿はなく、下品な笑い声が聞こえてくるだけだった。
しばらくして、人の多い幅の広い道路沿いに差し掛かった。ベアトリーチェと揚羽は二人で白い傘を持って、背の高い人の壁を縫うようにして歩いた。少し触れた揚羽の指先とベアトリーチェの指先を通して、互いの熱は行き来している。その熱は不思議と見えない本心を互いの瞳に映しているような感じさえもした。
それはただ、ただ、優しかった。
手首の手錠に繋がれた縫いぐるみを片手で抱いていた掌が握る永遠から貰ったカレーの材料を記したメモは人混みの中へとあまり、飛び込むことのない幼子の緊張しきった汗で湿っていた。それが解る程なのだから、メモはびしょ濡れだろうと、ベアトリーチェは罪悪感の海に溺れそうになった。
「どうしたの?」
「永遠お姉ちゃんから貰ったメモがこんなになっちゃった」
不安げにベアトリーチェは揚羽の手を離し、掌にあるメモを摘んで揚羽に見せた。そのメモは当初の厚さの半分になり、気持ちの良いそよ風に遊ばれて揺らいでいた。
メモをベアトリーチェの手から素早く掠め取ってから、
「貸してみふぁそ」
と揚羽は戯けた。
「ほら、こうすれば太陽の熱によって乾くのだよ」と揚羽はメモを茜色の天空に掲げた。ベアトリーチェは深く一度頷き、「本当、」と言って後を続けようとしたのだが、揚羽の感嘆に満ちた声に遮られる。「うわぁ、霧に包まれた黄金世界だ!」
揚羽の憧憬の軌道がメモの先にあるのに気付き、小さなリーチェは掛けていたサングラスを半ズボンのポケットに突っ込んだ。そして、自分よりも少しだけ心も体も大きな友人の肩を何度も優しく揺さぶった。
「僕にも見せて!」
「私も見たいから」と言って揚羽は自分の息が小さなリーチェに掛かるくらい近寄ると、小さなリーチェの肩を自分の方へと抱き寄せた。「ほら、こうすれば二人で見られるね」
―可愛い生き物な永遠お姉ちゃんのメモ。
カレーちゃんのざいりょう。ここにかかれたざいりょうをとわおねぇちゃんのところへ、もってきてね、ちいさなりーちぇとあげちゃん。
霧の中に微かに見える黄金の情景が永遠お姉ちゃんのメモを浸食する。
白の混じった空の中に映える黄金壁を邪魔するように、人間の文明が生み出した高層ビルのコンクリート壁が同じ顔をして小さなリーチェを威圧していた。それでも黄金の価値は揺るがない。
アニメに熱狂しすぎの永遠お姉ちゃんのメモがまた、姿を現す。
ぎゅうにく(とりさんとまちがえたらめっ、よ。ちなみにとわおねぇちゃんはどじっこぞくせいもすきよ)
「黄金だぁ」と揚羽は蕩けた声を発する。
にんじん(ぶきはそうびしないといみがないのよ。ちなみににんじん、こうげきりょく2)
再度、大人には見えない幻の情景が永遠お姉ちゃんのメモを浸食する。
黄金の絹に包まれて幸福の白い鳥ががぁ、がぁと甲高い声で鳴き飛んでゆく。彼は何処へとゆくのだろうか? と小さなリーチェはふと思った。黄金の価値は彼にも降り注いでいた。
ノートパソコンに怨念を送信する永遠お姉ちゃんのメモが負けじと姿を現す。
たまねぎ(べあちゃんがおてつだいのときにきらいなやろう、なんばーわんにあげたかれですよ。かれーなだけに)
かれーのるー(かれーのるーってかいふくあいてむだよね。はじめのほうの……。さいごにはたりょうに……さっしてください)
「黄金だぁ」と小さなリーチェは素直に喜ぶ。
おかし(やったぁ! たからばこよ。しかし、たからばこには、にんじんがはいっていた)
いじょう、とわちゃんめもよ。―
「お嬢ちゃん達、上ばかり見ていると転びますよ」
ベアトリーチェと揚羽を一瞥して、そのゆったりとした声を発した人物は紺色の着物を整然と着込んだ背の高い金髪に白髪の交じった異国の老婆だった。その老婆の蒼い瞳に充ち満ちている生命エネルギーをベアトリーチェはまじまじと見て感じ取った。幼子の見たことのある年老いた人間は誰しもが若かりし頃の疲労知らずの体力と、瑞々しい肌を生きることですり減らし無くしてしまっている者達という印象が強かったのだが、目の前に佇んでいる老婆にはそれらが当てはまらなかった。
幼子は知っていた、それは創造主のような秀でた何かを持つ者の余裕を全体から醸し出している。老婆の皮を被っている何か……。
ベアトリーチェは只者ではないと感じ、一歩退いた。朱い瞳が動揺に震える。隙を窺って老婆の脇を駆け抜けようと腰を低くくした。
幼子は相棒の動向に目をやる。自分よりも背の高い相棒は未だにメモを両手で掲げて、
「黄金人だよ、ベアちゃん」
とはしゃぎながら老婆の旋毛辺りを見上げていた。
相棒の危うさに愕然としつつも、ベアトリーチェはレースアップブーツに鋭敏な目線を送る。
「お嬢ちゃん」と一声、幼子に話し掛けながら、ゆったりとした足運びで近寄ってくる。それに動揺して喉から空気が漏れたような「ひぅ」という声と共に両肩が飛び上がった。ぴりぴりとした殺気を宿す黄金に生える蒼い瞳がベアトリーチェを見下ろす。「仕込みのあるブーツはもっと、成長してから履く事です。意味がありません。ナイフは防犯に効果的ですが……」いや、見下ろしていたのはベアトリーチェの履いている明らかに体格にあっていないぶかぶかだと推測されるほんのちょっと、泥水に塗れた革製レースアップブーツだ。幼子はそれに気づき自分の靴を守ろうと靴を掴もうとしたが、その手を素早く払う。「貴女の体格ではこのように奪われてしまいますよ」と心底から冷える笑顔を幼子に向けた。硬直している間に子鹿のように細い片足を軽々と持ち上げて、幼子を逆さにする。突然のことに対応できずに、為すがままに自分の目線では眺めたことのない位置へと持ち上げられた。スカートが重力に贖いきれずに幼子の胸部辺りまで、重みのある布が華のように萎れた。そんな状態で見る通行人の目線は冷ややかだった。悪さをして怒られているんだろう、どんな時代でもわんぱくっ子はいるんだねと真っ赤なトナカイさん並みに顔を赤くしたバーコード頭の男性が勝手に自分の思い出に浸り、通り過ぎていく。
人間は最悪の状況を考えない。現実を心の何処かでは正しく認識している癖に、それを置いてきぼりにして常に心の平穏を得る。幼子は一種の感慨を持ってそう過去から、現在へ……現在から未来へと向かう、黄金の陽の先にある次の世界へと向かう人々を睨んだ。
だが、小さなリーチェが睨んでも、もう悪さはしませんとお仕置きに屈して不本意ながらも大人に従おうという子ども独特の諦念に街行く人々には捉えられているようだ。
現に身の丈に合わない高級な手提げを肩に掛けて、何をそんなに気取る必要があると問いかけたくなるお尻をふりふりと歩く度に蠢かしている二人組が、そのような意図を含んだ会話をしているのをベアトリーチェは耳にする。
「うわー、お仕置きされてるよ。ああされると嫌々、認めるしかないんだよね」と長い髪のスーツ姿の女性。
「理不尽だよね」と短い髪のスーツ姿の女性。
「黒い大人なパンツが見えちゃってちょっと、可哀想だよね」
「七歳くらいの子でもあんなの履いちゃうんだね、何かジェネレーションギャップだ」
「その言葉、知ってるだけで年を喰ってるよ、あたしら」
そう言って二人は疲れた溜息を吐いた。その溜息は自動車達の騒音の前には為す術もなく掠れ消えた。
ベアトリーチェは両足をばたつかせて、中空を泳ぐように足を動かす。だが、自由という名の海原には飛び出せない。漁師が仕掛けた網のようにしつこい老婆の手が幼子を留めていた。徐々に込められる老婆の手の圧力が幼子の足を圧迫した。
緩やかな痛みに耐えきれず、顔を顰めた。顰めた幼子の顔を見た揚羽は恐ろしさのあまり、両足を小刻みに震わせて、ベアちゃん御免、と立ち尽くしていた。
そんな気の優しい友達を悲しませたくない。ベアトリーチェの中で違った種類の優しい眼差しの混在する怒りが生まれた。
「揚羽を悲しませるな!」能力のないベアトリーチェは中空に弧を描くような蹴りを老婆の右肩に喰らわせる。老婆はそれをすんなりと受け入れ、「小さなリーチェ、あの時見せた力は出せないようですね」
と冷静な口調で分析した。
ベアトリーチェは老婆が自分を知っている事に微かな動揺を覚えつつも、自分の力では状況を打開できないと考えた。李緒と了がいる電柱に期待を載せた視線を向けると、既に了が怒りと解る程に顔を歪めた恐ろしい形相でこちらへと走っている最中だった。
ベアトリーチェの身体をすぐに掴まえて、老婆から引き離してくれた。だが、小さなリーチェは逆さまのままだった。自分の血が頭へと集まってゆくのが手に取るように解り、新鮮であると共に不安だった。
「婆さん、ベアトリーチェに何を!」
「勘違いしないでくれる青二才君」
老婆に殴りかかろうと今にも太い腕を動かそうとする了と、それをやんわりと躱してやると強かな微笑を浮かべる上品という皮を被った老婆にもうすぐ、夜へと移るよと教えてくれる冷たい風が吹き抜けた。その風はおでんの匂いがした。季節感、皆無の風だ。
幼子は足が寒いなぁ、誰かこの気の利かない馬鹿共に何か言って欲しいと疲れのあまり他力本願を決め込んで、揚羽に向かって変な顔をした。犬さえも笑ってしまう種の断層をひとっ飛びする口が裂けんばかりに横に開いた口、細めた眼、これで笑わない奴はいないだろうと幼子、満足。
しかし、揚羽はいまいちとばかりに溜息を吐いた、とさ。そして、後で見本をみせたぁあげると顔が笑っていた。
数秒も経たない間にベアトリーチェの窮屈な状況は改善されて、李緒は幼子に対して頭を下げた。幼子は揚羽と一緒に互いの顔を見つめ合い、何のことか知っている? さぁというように首を同時に傾げた。
「那世家現当主、那世燕御祖母様です」
李緒はそうベアトリーチェ達に紹介した。それよりも謝れよ、と幼子は燕に鋭い視線を向けるが、何の反応もない。それでも頑なに己を通す。
幼子の姿が目線に入っていないだけなのに、と李緒は口に出さずに黙った。
「那世李緒、元気そうですね。何よりですが……小さな女の子をこそこそとつけ回すのはあまり感心できないことですね」
「申し訳ございません、御祖母様」
ベアトリーチェは内心、いい気味だと思った。偽善者の那世李緒が自分の偽善のおかげで頭を下げる結果になっているではないか。
幼子はふと、愛しい永遠お姉ちゃんが言っていた事を思い出した。
ベアちゃん、私ね、大切な記憶はゲームみたく、心のアルバムにセーブして置くんだよ。そうすれば、見たい時にロードして見ることができるよね、と言っていた。
過去の永遠に頷いてから、幼子はさっそく、李緒の頭を下げているシーンをセーブした。後で百回再生だ。
「お遣い?」
揚羽に向かって孫に言うような刺々しさのない口調で燕はそう言った。揚羽はすぐに頷く。怒られると思ったのだろう。自分でもそうすると幼子は思った。
「そう、気をつけて行きなさい」
「小さなリーチェ」といきなり、早口気味に言われたので慌てて、幼子は「はひぃ」と実に愉快な返事をしてしまった。顔が見る見るうちに赤くなる。それと同時に顔の表面温度が上昇した。だが、燕はその事には一切構わず、大人に話すように対等な甘さのないブラックコーヒーのような苦みの合う真剣な様相を見せる。
「貴女の戦場は何処にあるの? 貴女の朱い瞳は暖かな世界へと帰還したがっている兵士のような目つき」
兵士?
その語彙が幼子に一つの記憶を思い起こさせた。
燕……ツバメ……、ツバメ・テンダー。マイクを廃棄した時に一緒にいた若い兵士の燕か。僕はあの兄と妹を救えなかった。そして、僕はまた、同じ過ちを繰り返す。また、一組の兄妹を救えない。それは決定事項。
握った拳から罪と共に血を流したい、と感情が暴れる。
一組の兄妹の別れを九十八回、僕はきっと諦める。九十九回目は諦めたくなかった。
一組の兄妹の別れを九十八回、僕はきっと抵抗し続けた。九十九回目も多分、抵抗する。
随分と長い、長い時を経たんだという感想を燕の顔に浮かぶ皺の一つ、一つが幼子に教えてくれて、罪の剣を一つ、一つ……幼子の柔らかい肉に突き刺してゆく。その剣の雨は永遠に止まず、痛みを与え続ける。
自ら、罪の剣達を心深くに突き刺した……。そして、儚く笑うんだ。
「僕の戦場は永遠に続く親しい者の死と僕の死の情景。故に僕はベアトリーチェ。それでも……」
小さなリーチェと雪が心の中でベアトリーチェに囁いた。
ベアちゃんと永遠が心の中でベアトリーチェに囁いた。
「愛すんだ」
ベアトリーチェは自分の決断を尊く感じ、深く頷いた。
「貴女の為に祈りましょう」
「僕達に、」
頭が吹き飛んでいたり、片足がなかったり、と五体不満足な死人が幻の影となってベアトリーチェと那世燕を冷ややかに蔑む。
それを感じながら、ベアトリーチェは深く息を吸い吐いた。
「祈りは届きません」
と幼子は言葉を完結させた。
「そうね、廃棄者 ベアトリーチェ」
「ツバメ」
揚羽との楽しい毎日を妄想していた幼子の小さな夢は音を立てて崩れ去った。いつかは揚羽の元を離れて業の渦巻く世界へと戻らなければならないと、燕との再会は教えてくれた。
幼子はきょとんとしている揚羽に何でもないと言ってから強引に、自分にとってはつかの間の夢の住人である揚羽の手を引いて、自分には眩しすぎる黄金の陽の中に飛び込んで行った。
黄金の太陽は眩しすぎる……。
ベアトリーチェと揚羽は了、李緒についてこないで、と釘を刺した。夕暮れ時の街を二人で二十分、動物限定しりとりをしながら歩くと目的地のスーパーはるさめに到着した。
入店するとクリーム色の壁には沢山の文字が並んでいる事にすぐに目が行った。その文字の情報によると本日、日曜日はスーパーはるさめの御菓子二割引セール。新発売蟹クリームハンバーガー。マグロの解体ショー、来週木曜日らしい。
揚羽はそれを声に出して一々、ベアトリーチェに教えた。幼子は当然、それくらいの文字は読めるのでその必要はないと嘘を吐こうとしたが、揚羽なりのコミュニケーションだという事に気付いて、一々反応を返した。
御菓子一杯、買えるねだとか、わざわざハンバーガーにする必要性皆無だなぁとか、マグロの解体ショーって人間に例えるとかなり残酷だよね……とか、言ったのだった。
その間の幼子の姿勢はかなり、快適だった。ベアトリーチェよりも少し小さな子が乗車する席が前に付いた車輪付きの買い物篭に幼子は揚羽の提案で乗車した。店内の照明がきつかったので幼子の乗る席に持参した白い傘を差した。
最初は京都なんかでありがちな人力車のようにゆったりとして観光旅行ペースだったが、徐々にペースを上げて今では心地よい風が感じられる程のハイペースだ。
「乗り心地はどう? ベアちゃん?」
乙女らしくない荒々しい息を吐きながら、汗も拭かずに車輪付きの買い物篭である幼子名称、ベアちゃん号を押し続ける。
そんな頑張り屋の揚羽の髪を一撫でしてから、サングラスを弄りながらベアトリーチェは答える。
「快適だな」と偉ぶって前を向いた後、巨大な肉の固まりがベアちゃん号の行く手を塞いでいる事に幼子は驚愕した。すぐに揚羽にその恐るべき事態を伝える。「我々の目の前に主婦なる障害物がある。しかも二匹いて完全に行く手を塞いでいる!」
「ベアちゃん、任せて。この道十六年のプロになったつもりで魂の走りを開眼させてみせるよ!」
そう言った揚羽の熱い魂をベアトリーチェは友として、信じた。さぁ、お前の走りを見せろ! 幼子は視線で語る。だが、そこにあるのは揚羽ではなく、幼子の身体の右側方向に広がる魚肉ソーセージ百五十円税込みだった。そこで小さなリーチェは思った。
魚肉ソーセージ百五十円税込みも御菓子なのかな?
友情よりも目の前に広がる食品コーナーを眺める薄情リーチェを乗せて、ベアちゃん号は留まらず、さらなる加速を続ける。徐々に主婦の逞しい贅肉の付着した背中が大きくなってくる。
さすがに不安になり、不適な笑みを浮かべる揚羽を一瞥した幼子は何か、秘策があるのか、と確信した。
すると!
「町子さん」と雑に天然ウェーブの掛かった太り気味の主婦がこれまた、枝毛が無数に渦巻いている長髪の太り気味の主婦の肩を二度、三度叩いた。天然ウェーブ主婦の方を振り向く町子さん。町子は咳をしてから「何? 利九流ちゃん」と暢気に言った。全然、利九流ちゃん、じゃねぇよ、と萌えゲー大好きの永遠お姉ちゃんなら毒づくなぁと主婦の出方を、固唾を飲んで見守るベアトリーチェ。
「あれ」
そう言って利九流ちゃんは目線を現在爆走中のベアちゃん号に向ける。だが、その時には彼女達の取れる行動は一つしかなかった。
速やかに左右に二人は別れる。
辛うじて、ベアちゃん号は出来た立てほやほやの空間に吸い込まれるように走り抜ける。走り抜けられたのを確認した揚羽は八重歯の覗く笑顔を浮かべてから、いつもとは違う無感情な口調で説明を始める。
「ベアちゃん号は車並みの速さでした。ベアちゃん号の加速度を止める手だてはもはや、ありません。そんな人間の手に余る力に恐怖感を感じない人なんていないはずです。反射的に人間はどうにもならない事柄を回避、防御する習性があります。防御しても被害は生じる。よって、まともな人間でしたら回避」
そんなエセ証明よりも、ベアちゃん号という船の名前を二人で共有している事実に幼子は大感激した。
自分自身が頭良いと思って鼻高々な揚羽と、感激で胸一杯のベアトリーチェは字縦横無尽にスーパーはるさめ内を走り抜ける。途中、永遠のメモに書かれた品をゲットしてゆく。
生肉コーナーに群がる大勢の主婦を殺す勢いで、ベアちゃん号は突入してゆく。揚羽が述べた通り、加速の付いた船はまさに黒船と化していた。いるだけで他を圧倒する威圧感が漂っていた。その艦長である小さなリーチェは手をだらんと席から晒して、下にある牛肉を取る。次々と後ろの席に放り投げて結果的に五パック獲得できた。
危ないじゃないのよ! と怒り狂う主婦から逃れて、ベアちゃん号は野菜売り場にやってきた。ここも主婦で混雑しているのか、と幼子は予想したが、予想は外れた。玉葱と人参は様々な大きさと形があったが、手に一度持って二種類とも、重いものを選択した。
玉葱を後ろの席に丁寧に置いて、ベアトリーチェは永遠のメモに書いてあった通りに人参を装備してみた。少しだけ、強くなった気がする。
走行中のベアちゃん号に乗って、幼子は何度も素振りをした。そうしたら、唐突に人参に罅が入った。壊れた武器は後々、役に立つかも知れないからちゃんと保管しなさいと以前、永遠が教えてくれたのを思い出し、後ろの席にこれ以上破損しないようにゆっくりと時間を掛けて置いた。
その間、ベアちゃん号はカレールーの棚の所で止まった。
「カレーのルー、沢山あるね」
「そうだな」
幼子は首を上下左右に動かしてカレーのルーの品定めに入る。
その時、目には映したくないフレーズが映ってしまった。
梅干しを入れて青春のように酸っぱい記憶を思い起こさせるようなビューテーなカレーが召し上がる事が出来ますよ、と赤い物体が浮かんだカレーがこれでもか、と覆い被さっている哀れなライスの完成写真の下にそのフレーズが記入されていた。
「これ、作った猿はきっと、荒んだ青春時代を過ごしたんだろうな。家の中に引き籠もってぼっーとしていたら辺りが暗くなっていました、意味無いな人生って感じなんだろう。報われない者だ」
「どうしたの、ベアちゃん?」
「不憫を一端、背負ってそのまま、人生を続けると不幸が力を増す例を想像したんだよ」
「ふ~ん」と口を噤んで言葉というよりも蚊の鳴くような音を揚羽は鳴らした。「よく解らないや、ハッピーなエブリディーを過ごしてるからね」
揚羽は赤いものが浮かんでいないやけに大きなジャガイモの入ったカレーライスの光に反射した海のように煌びやかなカレーを見つめつつ、それが描かれたカレーのルーを後ろの席に落とした。カレールーのパッケージと罅入りの人参がぶつかり、ついに人参は真っ二つに折れてしまった。
「そうだな、誰もがそうだと良いね」と言ってベアトリーチェは真っ二つの人参を見下ろした。その折れた箇所は強引にくっつければ元に戻るのではと思うほど、綺麗だった。だけどももう、永遠に戻らない。一つの幸福が壊れるのと同じように一つの幸福は戻らないのだ。だからこそ、目を伏せて優しく、「本当に」と幼子は自分に救いの言葉を捧げた。
ベアちゃん号の乗組員であるベアトリーチェと揚羽は自分たちの御菓子の代わりに魚肉ソーセージを購入し、カレールー箱に描かれているジャガイモのイラストで永遠がじゃがいもをリストに入れ忘れている事を発見して購入した。見事、何の欠損もないカレーライス召喚に必要なアイテムを揃えて今は、カレーの香りが漂う台所にいた。
雲村雪の膝を玉座に見立ててどっしりと幼子は座っていた。食卓上には魚肉ソーセージのビニールの歯形混じりな残骸が放置されていた。永遠がカレーライスを調理し、同時に雑草スープ調理を企んでいる間、どうしても二人のお腹が我慢できないよと我が儘を言って、言うことをきかなくなったのだ。我が儘である小さなリーチェと感覚のままに生きる揚羽はすぐに永遠に許しを取り付けて、魚肉ソーセージを貪ったのだが、育ち盛りの彼女達には雀の涙ほどの糧にしかならなかったようだ。事実、お腹が交互に可愛い声を挙げていた。
雪が背広のポケットからブラックガムを一枚ずつ、二人の腹ぺこさんに与えるが、食べずに揚羽がスプーンとお箸をぶつけ合わせて間抜けな音を発生させ始めた。
「カレー! カレー! はい、ベアちゃん!」
自分はカレーが出てくるまで暴れはしないと我慢の瞑想に入ろうとしていたベアトリーチェだったが、友人の音頭に嬉しそうに同じく、スプーンとお箸を叩き合わせる。また、間抜けな音が発生するのだった。
「カレー! 食べる! 食べる! 揚羽!」
二人だけの秘密の呪文が終わり、毎日がハッピーな感触を肌で感じるべく、ベアトリーチェは雪の膝から身を乗り出した。真正面に座る揚羽と食卓という壁を友情エネルギーで乗り越えて、揚羽の手と自分の手を繋ぎ合わせる。それは親愛なる情を表すキスにも似ていた。
そんな神聖な行為を邪悪な悪餓鬼笑みを宿した了が、二人の手と手が重なり合う部分を手刀で切る真似をして御機嫌な口調で言う。
「うるせなぁ、チビ共は」
了の言葉に対して揚羽は何故か、ピースサインで返す。揚羽の感性は宇宙人、そのものだなとベアトリーチェは雪の顎に自分の頭の天辺をくっつけたり、くっつけなかったりとしながら考えた。
永遠が待ちに待ったカレーライスの乗った大皿を両手に持って現れた。ベアトリーチェと揚羽は同時に拍手をした。
出来てのカレーライスを食卓の上に並べながら、永遠が残念そうに言う。
「雑草のサラダ、作りたかったな。私の得意料理なんだよ、お兄様」
「わーちゃん。雑草、食べられるんですか!」と偽善お嬢様な李緒。
「うん、食べられるのもあるんだよ。虫さんだって美味しそうに食べるでしょう」
永遠には当たり前の事だったらしく、少し驚きながら答えた。
「同じ次元か……」
永遠ちゃんの、可愛い生き物のカレーが食べられると始終吠えていた深希がその遠吠えを中断させて、食卓の上に置かれた魚肉ソーセージが雪の手によってゴミ箱の世界へと誘われようとしているのを見守りつつ、その言葉と共にやるせない溜息を漏らした。
「兄、妹に教育を施せよ」と既にカレーを食べ始めた幼子達よりも精神年齢低い了。
「手遅れだ」と別の事をそう言っている風にも思える雪。
「雑草スープ、美味しいのに。絶対に気に入るのに」
そう粘り濃く呟いた永遠がカレーライスを全員分、配膳し終えて自分の席に着席したのを見計らって、雪が喋り出す。
「さぁ、カレーを食べましょうか、ベア様」
「雪、あれを忘れてるぞ」
「そうでしたね、ではベア様」
「了」雪の言葉を受けて了が「ガキぽいな、ベアちゃんぽいなぁ。まぁ良いか、そういうノリ」と両手を合わせてそう満更でもなさそうに言った。
「恋下」雪の言葉を受けて深希が「あんたに言われなくても解ってるわよ、ロリコン」と戯けた口調で言ってから、両手を怠そうに合わせる。
「李緒」雪の言葉を受けて、朗らかな笑顔を浮かべて丁寧に両手を合わせてから「作法は大事ですからね」と感心したように言った。
「永遠」雪の言葉を先回りして、永遠が自分の名前を雪の渋声に真似った。両手を合わせた後、一人だけ目を瞑って言う。「そして、私の雑草スープお披露目の野望は潰えるのです」
「揚羽」ベアトリーチェが友人の名前を力強く呼んだ。「何か、給食を食べる気持ちになってきますなぁ」と両手を大袈裟に振りかざして合わせた。
残念ながら、ベアトリーチェは学校給食を味わった事がなかった。だが、以前、雪に話を聞いていた。
それを思い出そうとしながら、ベアトリーチェはみんなに声を合わせて、
「頂きます!」
と叫んだ。その声達は今より一瞬先の明日を生きる力に溢れていた。
思い出した!
教室のお友達、みんなと仲良くお喋りをしながら、楽しい気持ちを共有しつつ食べるのが給食です。
人間は愚か者ばかりだ! みんな仲良くなんぞ不可能だとそれに対して五歳のベアトリーチェは激しく抗議した。
でも……
今は見えた気がするそんな眩しい程の黄金色、カレーみたく黄金色に溶け込んでゆく風景が。
幼子はカレーを銀色のスプーンでそっと、掬った。