二章 せめて乳歯が全て、生え替わるその日まで……。
背の低い幼子―ベアトリーチェは眺めていた箱庭をそっと、床へと置いた。
外はちらちら、と粉雪が降り注いでいる。小さな両手で硝子にへばり付いて、下界を見下ろしていた。目を凝らしても下界の様子は窺えない。
それが我慢できないと床暖房で暖まった床の上で足踏みする。
幼子の上質のストレートティーの如き瞳は慌ただしく通り過ぎる自動車には目もくれずにただ、一心に街行く米粒程の人間を観察していた。
次第に幼子の眉間に皺が寄ってゆく。意図的に現れた皺の為か、演技ぽさが見え隠れしている大袈裟な寄り具合だ。
「雪が見えない。僕の鏡を使うか」
痺れを切らして、革製のソファに寝かされていたベアトリーチェの前腕と鎖に繋がれている白い子猫の縫いぐるみを片手で抱くと、お昼寝部屋であるマンションの一室を後にする。その際に頭上の蛍光灯や、床暖房、除湿器、エアコンのスイッチを切らなかった。
赤い絨毯の敷かれた廊下には誰も通った気配はなく、静寂を常に保っている。マンションの三階部分はベアトリーチェ専用として確保されているスペースとなっている。素足のまま、廊下を歩む。
心なしか、足運びは一定のリズムを刻んでいる。雪に遭いたいなぁと解読できそうだ。
何の飾りもない重厚な扉を誰もいない事が解っているのだが、ノックを小刻みに打つ。
「もう良いかい? まだだよ。生意気な」
そう一人遊びをしてから、ジャンパースカートのポケットから多くの鍵を括ってあるリングを取り出す。その内のベア様専用信仰者監視室とラベルされた鍵を選択した。躊躇なく、鍵穴に差し込もうとするが狙いを外して、赤い絨毯に倒れ込む。苦痛に顔が歪んだ。赤くなった膝小僧を手で摩りつつ、もう一度試す。
今度は成功し、暗い部屋へと入る。暖房の効いていない部屋は寒いので、衣装ダンスの中を覗き込んでオーバーニーソックスを履いた。そのオーバーニーソックスはお気に入りだった。白い薔薇模様の刺繍が幾多も散らばっている可愛らしいデザインだというのも理由の一つだが、ベアが一番気に掛けている雲村雪が似合うと褒めてくれたのが最大の理由だ。その事を思い出し、ルージュの引いていない幼子独特の食パンのように弾力のある唇の両端が緩んだ。
早く、雪の姿を確認するべく、部屋の真ん中に陣取っている世界の鏡の前に座り、命じた。
「おい、鏡。ベアちゃんの恋人、雪の姿を映せ」
すると、鏡は一人の男性の周囲を映し始めた。その鮮明な画質はまるで、その場にいて肉眼で捉えているかのようだ。
ちょっと乙女チックな嘘を吐いたベア様こと、おかっぱ頭の白い髪の美幼女は俯せたまま、足をバタバタする。
君はいつも通り、ファー付きのトレンチコートのポケットに両手を突っ込み、颯爽と千習大学の構内を歩いている。気に入らないのはその背後を人間の薄汚い女どもが列を成して付いてきている事だ。
「発情ザルめ」
僕は憎々しく言った。
それ以外の君は完璧だ。僕が無理矢理、これを毎日履けと命じたレースアップブーツを履いて、その靴音は子守歌のような響きを奏でている。整然とした顔つきからは隠しきれない知性を感じる。実際、かなり頭の切れる人物だ。髪に隠れた片眼の黒色からは、静かな決意にも似た意志が感じられる。肩まで伸びた後ろ髪、外に跳ねている左右の髪は何処からか、流れてくる微風によってゆらゆらと揺れていた。
その格好良さに僕は
「格好いい、雪」
と口を滑らせてしまった。
普段の僕からすれば、こんな発言をする等と露にも思わないだろう。
「鬱病に関してのアンケート調査をしているんですが、ご協力お願いできますか?」
と女が一匹、雪の行く手を塞ぐように前と出る。
鬱病とは心の病気だと聞いた事があった。だが、心が風邪をひくなんて聞いたことがない。心が盲腸にかかるなんて聞いた事がない。心は天候のようなものだ。
よってこれは性悪女の嘘に決まっている。
「悪いが、用事があるんだ。残念ながら手伝ってやれない。誠にすまなく、思う」
君の渋めの低い声は私の心を射貫こうとする。それは声を聞く度に九十八回の失敗と新しい想いの乗った天秤へと加算されてゆく。
心臓が悲しみと優しさできゅっと引き締まった。
君の声がまるでハーメルンが奏でた音色であったかのように、背後で慎ましやかにしていた女達が君の四方を囲み、口々に言葉を汚物のように吐き出す。雪の声が台無しだ。
「あれ、今日もベアちゃんと遊ぶの? 彼女できないぞぉ!」と不敬にも僕の不信仰者である女が調子づいて君の肩を叩いた。「ベアちゃん、小さくって可愛いよね」と太った豚女が卑しく微笑む。僕は自分の名前を気軽に呼ばれたばかりか、格下に見られた事に吐き気を覚えた。「ツンってしているところが良いのよ」と鏡が金髪の女の無礼な発言をご丁寧に伝えてくれた。鏡を殴ろうと振りかぶったが、両手で子猫の縫いぐるみをぎゅっと抱きかかえた。「十四歳だっけ?」と痩せすぎの女が言った。雪の妹である永遠並みの貧困な生活を送っている事が想像できる。
「永遠お姉ちゃんに僕のインスタントラーメンを分けてあげよう、かな」
ときっと、友人と大好きな声優についてのトークが盛り上がっているであろう永遠の身を按じた。
「すまんが、ベアちゃんと呼ばないでくれるか?」真面目な口調で、「ベア様と呼んで欲しいんだ」
と周囲に呼びかけた。
「ベア様ってどうして?」
猿の集団を代表して、太った女が言った。いや、こいつだけは豚だが。同様の種を秋葉原という地を永遠と共に散策した時に見かけたことがある。皆、ベア様以下のルックス程度の絵を後生大事に抱えていた。
「それはだな」君が口元を抑えて咳払いをする。すかさず、僕は「萌え」と舌の上で言葉を転がした。永遠お姉ちゃんがしきりに使っていた何かの専門用語の意味が解ったような気がした。
君の背後からけたたましい音ともに近づいてくる私の信仰者の一人、恋下深希の姿を鏡状で確認して、それを知らせる為にキャロット色の携帯電話を素早く、開き……
雲村雪、窓の外を見ろ! と打ち終えたが時既に遅く、君の背中にドロップキックが炸裂した。
「あんたね、それは秘密でしょ! これで私よりも女の子にもてるなんて。あんたの高校時代に百人の女子から告られた設定が反映されているだけって信じ難いわ」
「痛い。それに話の脈略がおかしい。蹴る事の意味が理解できない。説明して貰おう」
今の現象は幻だとでも解したかのように君は眉間に中指を沿えて涼しい顔で立っていた。
ワイシャツの上に重ね着した学生風のブレザーに、ジーパンという出で立ちの活発な少女、深希は雪と永遠兄妹が住む家の隣に住んでいた豪邸のお嬢様という設定だ。いわゆる、幼なじみである。それから僕にツンデレベアちゃんという反抗的な言葉を吐いた経緯から、雪に対してツンデレなんていう設定もある。
その事を思い出したのか、深希は中空を睨んだ。残念ながら僕の目線はそこにはなかった。虚しい行為に横目で嘲笑う。
「できるか! こんな無茶な設定。寒気がするわ。寒気がする」そう言った後、雪の周囲に未だ、残っていた女をわざとらしく、見回しながら口を開く。「ベアトリーチェちゃんのごっこ遊びに付き合っていたのよね」
親しげに雪と会話を始めた深希の出現により、萎縮した猿の軍団は一目散に散っていった。所詮、発情期の猿だ。脆弱な己の立場を弁えている。
「別に、あんたを助けたわけじゃないんだからね」
「ベア様、どうやら、この信仰者には荷が重かったようです」
君は窓辺を背に向けて、掲示板に貼られているNASEというOS開発会社が出資している奨学金制度についてのご案内を何気なく見つめる。本当は僕を見つめているに違いない。
「むかっ、助けてやったのに!」奨学金制度の案内の付近に貼られていた学内調査アンケート イケメントップテンを破り、近場のゴミ箱の中に投球した。君の名前があったような気がした。「ふん!」と言う言葉を残して深希は去ろうとした。
「待て、君の意見が聞きたい? 統合失調症を解消する為にはどのような処置が必要になってくると考える?」
「って言っても色々あるでしょう?」
眉を潜めて中腰気味に深希が問いただした。
「妄想が酷い。他者に対する怯えのようなものもあるようだ」
「それって……」深希があろう事か、君に近づき耳打ちする。「でしょ」
とんでもなく、羨ましい! 憎たらしい! という言葉が僕の頭の中に反響した。
「俺が死ぬ前にその問題解決と永遠の生存権の確保だけはしておきたい」
渋い声が元来、君に整っている静けさに深い憂いの一滴を加えた気がした。
その君は自動販売機にお金を入れて、出てきたコーヒーのプルタブを親指で弄んだ。
「あの年代は外で友達と伸び伸びと遊んでいないと駄目なのにね」そう言いながら君のコーヒーを奪い取り、プルタブを開けた。「て、なんであんたと仲間のような和やかムードになってんのよ。最悪なんですけど」
深希は点滅する蛍光灯の光を仰ぎ見つめ、コーヒーを一気飲みした。
そして、何もかもが不味いという言葉を吐いた。その顔は悲しみと諦めの入り交じった笑顔を見せていた。
雲村雪はどんよりと曇った空から粉雪が降る中、ベアトリーチェという小さな女の子の手を引いて歩いていた。ベアトリーチェはフードを深々と被り、雪の着るトレンチコートに小さな頭を付着させている。雪の歩を頼りに歩いているようだ。時折、うむぅという小鳥の囀りが聞こえた。
街は一週間後のクリスマスに向けて活気づいている。雪が選定の儀式を受けるために産まれなかった命の世界から産まれた命の世界へと足を踏み入れて二年目の冬だった。自然と何もかも忘却の彼方へと吹き飛ばして、はしゃぎたくなる。
丁度、雪達の横を通り過ぎていった父と母に挟まれてはしゃぐ小さな男の子のように。
だが、それはできない。
産まれた命での生存権を手にする為に何らかの方法で最期の一人にする選定の儀式があるからこそ参加者である雪も、執行者であるベアトリーチェも那世市にいるのだ。一年目の冬は産まれた命の世界に慣れる為に選定の儀式はまだ、開催されていない。そして、未だに開催されていなかった。
過去の選定の儀式の統計からすると、もうすぐ開催されるはずだ。
楽しげに鳴り響くジングルベルという曲をやけに冷静に聞いて、疎外感を覚えた。ベアトリーチェも同じ思いなのだろうか、と視線を移す。
「僕の頭の上に何か、ついているのか?」
「あ、いえ……」ベアトリーチェのフードに粉雪が数粒、積もっていた。「はい、雪が」
と頭を撫でるようにそっと、取り除いた。
ベアトリーチェは直ぐさま、感謝の眼差しを雪に浴びせるわけもなく、疑いの眼差しと微かな微笑を浮かべた。
「ギャグか、お前のせいで余計に寒くなった。凍え死んだらお前のせいだな、これは」
さりげなく、雪の腕にしがみついた両手に力を込める。
側にある自動販売機でお汁粉とコーンポタージュを購入し、中腰になってベアトリーチェの目線に合わせた。
「どちらを飲みますか? ベア様」
ベアトリーチェの表情は冷めたコンポタージュスープのようにむすっとし、雪の腕から離れた。数秒の間もなく、雪にとってはお汁粉を頭上から被るよりも強烈な跳び蹴りが胸元に入った。
「コーンポタージュと、お汁粉。お前、僕の信仰者失格だな」
着地に失敗したベアトリーチェがお尻に付いた雪を払いつつ、そう罵った。ベアトリーチェを手伝おうと雪が手を伸ばそうとするが、素早く払いのけられた。
白い顔に頬を真っ赤にさせ、ベアトリーチェの白い息は何度も虚しく、飛んでいった。
「面白くない!」
「ベア様? 食べ物で面白いか、どうかを論ずるのは的外れです。覚えていて下さい」ベアトリーチェはこちらを振り返ろうともせずにすたすたと歩いていった。それを認めると雪は一息吐いた。「コーヒーの方が良かったか、だがあの容姿では若干、早いだろう」
囁き声はカップルと親子が織りなす渋滞の騒音に掻き消された。ベアトリーチェの頼りない背中もそこへと加わろうとしていた。
小さな手が助けを求める前に雪は眉間に皺を寄せながら歩き出した。
「そうか……糖分の高いコーヒーならば、飲んだかもしれない」
だが、その検討も虚しく、ベアトリーチェは信号待ちをしている振りをして、雪の持っていたものを両手を広げて催促した。
そして、ぽつりと一言。
「喉が渇いた」
数分前のそんな不可解な現象を所々穴の開いたレジャーシートに胡座を掻く沙凪了に話した途端、大口を開けて笑い出した。
困っている人間を笑う事のできる冷淡な男が親友だとは天を仰ぎたくなった。もっとも、信仰の対象であるベアトリーチェが神様とこの世界では呼ばれている創造主に嫌悪感を覚えているのでそいつに対しては祈らない。
その小さなおかっぱっ子は雪が用意した新品のレジャーシートに寝転がって、鬱憤を晴らすように子猫の縫いぐるみをしこたま殴りつけていた。
かなり、ご立腹のようだ。
周囲の人々はぷくりと怒った幼子の表情さえ可愛いと思うのか、銘々とそのような感想を述べて立ち去る者や、遠巻きから観察する者が度々、現れて了が違法で営む露店を違った意味で賑やかせている。
どうしたものかと困惑して了は整ったオールバックをさらに整えようとする。目線は虚しく、光り輝く数々のアクセサリーへと向いていた。
雪はヒョウ柄の長袖のTシャツに、所処、穴の開いたジーパンを履いていて、タグをアクセサリーにつけている了の容姿を一瞥する。
「可哀想にあまり、収入が良くないのか」
と先程のお返しに冷静に分析した。
「馬鹿、これは俺のマイ ベスト スタイル!」
そう言った了の格好をもう、一度分析する。Tシャツは暖冬と言われている今日でも防寒という観念から考えると有り得ない選択だ。まして、穴の開いたジーパンなど論外だ。
次にベアトリーチェの半袖のジャンパースカートに目が移行した。
「半袖だって! しかも細い足に鳥肌が!」大袈裟に雪は悲鳴にも似た声を出した。素早く、ベアトリーチェに自分の羽織っていたトレンチコートを渡す。「ベア様、これを」
ベアトリーチェは無言のまま、深々と頷き、トレンチコートに袖を通そうとしたが袖口から手が見える事はない。袖を通すのを諦めて毛布の要領で自分の身体に巻き付けた。時折、ベアトリーチェが鼻を仕切りに動かし、至福の表情を浮かべた。
雪はその無意味な行動に首を傾げた。
「お前……幸せそうな」ベアトリーチェはその言葉に酷く怯え、雪のワイシャツを引っ張る。その意味を理解した雪はベアトリーチェと了の間にしゃがむ。その事を気にせず、了は話し続ける。「だいたい、チビ助を連れて来ちまったら、この店が保育園になってしまうだろう」
アクセサリーに値札を付けながらそう言った。値札は六百円と記載されていた。高史という地元の職人から仕入れている割には破格の値段だ。これで買い手が現れないのは金髪の厳つい男が捌いているからだろう。ベア様が売り手ならば一秒で完売するのに、と雪が嘆いているうちにベアトリーチェは、煙草を吸っている金髪頭の了に対して反撃の狼煙を挙げる。
「無礼な。僕はもう、十四歳だ。九十九回目の十四歳だぞ。しかも妖精だぞ」
十四歳で百十センチという身長の審議はともかくとして、九十九回目と妖精というのはベアトリーチェのいつもの妄想だと雪は判断した。
「嘘、こけ。チビ助はニーチェか、永劫回帰か」了も雪と同じい判断を下した。「いつもの官憲との小競り合いも何回か、繰り返すのかよ」
「にーちぇ? なんだ? それ」ベアトリーチェは知らない名前に顔を顰めてそう言った。雪は自業自得にそんな偉大な人の名を使うなと眉を潜めたが感嘆した。「ほう、やるなぁ」
「ニーチェってニーチェ死すとも自由はしなぬって自害した」
得意げに胸を反らせて了は千習大学の人文学部に在籍する雪に説明した。
「混ぜるな、危険と書いてあるものを構わず、混ぜた過去のある人間だろう?」
ニーチェと自由民権運動で有名な板垣退助と何かを混合している友人に対して、雪はそう人物分析をした。
「流石、友人だぜ。ガキの頃、アルコールランプを点ける前に酒を混ぜたぜ」
「おい、雪、ニーチェって」
雪の耳元で内緒話のように囁いた。どうやら、了には聞かれたくないようだ。
「簡素化して説明致しますと、同じ事を生と死のある万物は死んだ後に始まりへと戻り、また同じ経路を辿って終わりへと向かう永劫回帰を唱えた哲学者です」
了にも解るように説明したが、了とベアトリーチェは硬直していた。だが、ベアトリーチェは雪の説明に感心する振りをした。
「ほう、的を得ているな」
案の定、了は反論する。
「解った振りするな」
「お、お前なんか選定の儀式で痛めに合えばいいんだ!」雪の背中に寄り添い、恐怖に震える身体に鞭打って、目の前にあった二万円と記載されたタグの付いた銀の指輪を了の額に投げる。了の額に直撃したのを確認せずにベアトリーチェは踵を返す。「雪、僕はもう、お昼寝の時間だ。帰る」
雪のトレンチコートの裾と子猫の縫いぐるみを引き摺りつつ、歩き出した。可哀想にも子猫の身体には黒く濁った雪が襲いかかった。それを後で洗濯しなくては、と雪は苦笑いした。
そんな雪に対して、友人である了は目を細めて力強く唐突な言葉を放つ。
「雪、解っているだろうな、俺たちの願い」
「どうした? いまさら確認する事項でもないだろう、了?」
そう、俺たちの願いは永遠の産まれた命の世界における生存権の確保だ。
永遠の兄である雪ならば、当然のように考える事だが……
了、お前はまだ、そんなにも頑なでいられるんだ? とは聞けなかった。
何故ならば、了の言葉には肯定よりも強い意志が芽生えているような迫力があったからだ。本当の信念が宿る言葉は人に有無も言わせぬ説得力を与えるのか、と頭の中で感想を述べながら、ベアトリーチェの下へと走った。
冷たい風の浮かれ声と雑踏に紛れて、
「兄妹は互いを慈しみ合う、そんな関係を見せてくれたお前への……」
と独り言が聞こえた。雪はそれを耳から排除した。認めてしまえば、悲しくなる気がした。
「兄妹は互いを慈しみ合う、そんな関係を見せてくれたお前への感謝かな」
そう沙凪了は口にしてみたくなった。彼自身も知っているように粗暴な彼にはセンチメンタルな言葉なんぞ似合わなかった。短くなった煙草を路上に捨てた。生きているという事に何も感じずにただ、日々を暮らす人々の頭上に振る雪が、異邦人の足跡と共に煙草の火を踏み消してくれるだろう。煙草を吸うべく、箱の中に手を突っ込んだ。
「けっ、今日は景気が悪いなぁ」
舌を二度、鳴らした。上手くいかない自分を哀れみつつ、ベアトリーチェについて考えを巡らせる。目を閉じた。
すっと、黒い画用紙で表現されたトンネルの中を通るように意識だけが過去へと飛ぶ。
産まれた命の世界で生まれる事にできなかった命達は自動的に産まれなかった命の世界での存在権を獲得し、産まれなかった命の世界で役を演じながら過ごす。ただ、創造主が観る劇の配役としての日々を過ごすのだ。
そこで了は選定学園と呼ばれる学園の学生の役を得た。
不満はなかった。それが全てなのだから。いつの間にか、自分という存在が始まっていたのだから、どう文句をつけようというのだ。
だが、成績が芳しくない了に対する周囲の目は最悪だった。目を合わせただけでお前なんて存在は屑にも等しいんだ! と言われているような感じだった。今になって振り返れば妄想だったのだろう。
妄想をして良かったとも思える。それが切っ掛けとなって本物の神様に会えたのだから。
ベアトリーチェという創造主の手のうちにいない唯一の人物を殴れば、それ相応の罰が下るだろうということを悪友の一人から噂話として聞いていた。それ以来、消える為にベアトリーチェの姿を求め続けた。
もう、正直、諦め掛けていた。産まれた命の世界論で習った都市伝説のようなものだったのだろう。
深夜と人々が表現する時間帯に地下室へと続く階段を塞ぐチェーンをナイフで断ち切り、憮然とした態度で下って行く。行き着いた先は囚人が入るような牢屋が左右、ずらりと並ぶ不気味な部屋だった。学園と呼ばれる教育の場には少なくともこんな部屋がある事に意味はない。
ちくちくと恐怖が背中に何度も突き刺さった。創造主と同等の力を持つのだから危険視されて牢屋に閉じこめられているという推測が浮かび、足が前へと進んでくれない。
何分もじっと、その場に佇んでいた。
牢屋という割には悪臭もしないし、床も埃一つない程に綺麗に磨かれて薄明かりの下、輝いている。牢屋の中は今のところ、物一つない空席のようだ。
「雪なのか。いい加減、決められた時間以外に僕のとこに来るのは止せ」
同じ所をぐるぐると回っているような感覚に陥りながらも歩んでいる了の耳元に微かに聞こえた。
その声はどう思考しても、
「幼女?」
そう疑問符の頭の中で何度も反芻して、声の主の下へと急ぐ。
やはり、幼女だった。牢屋の柵に手錠で繋がれた白髪のおかっぱ頭に、朱い瞳の印象的な幼女だ。
小さな口から予想外の言葉が溢れる。
「見くびるな、学生」
一吹きの風と共に熱が頬を掠めた。
一瞬間、置いて痛みが頬に宿った。その苛烈な刺激に頬を摩らずにはいられなかった。
「血?」自分の掌に付着した苺ジャムのような物を穴が開くような憧れにも似た視線を向けた。「血だよ、おい。初めて観たよ俺」不機嫌そうな幼女の投げたアニメキャラの描かれたカードは柵を真っ二つに裂き、平行に壁に刺さっている。それと幼女の不適な笑みを何度も見比べて言う。「ああ、痛い。これが痛いって事か! しかも消えることに繋がる痛みだ。俺達の持っていない力だ」
感激のあまり、カードに描かれた萌え美少女におっかなびっくりの視線を落としつつも、感嘆の声を洩らした。
間違いないこいつがベアトリーチェだ。
「お前……」呆れたように呟き、取り繕うように咳をする。「これでわかっただろう、今ならば、非礼を許してやる。早々に立ち去れ」
その言葉の割には幼女の足下は恐怖のあまり、後ろへと微動していた。
幼女の言葉を了なりの解釈として受け止めた。彼は自らの解釈と真っ二つに成り果てて冷たく濁り光る床に横たわる鉄くずを見比べた。
「わかったさ。これで消える事ができる」
「ほう、あの女の操り人形にしては面白いことを言う。死のない偽りの痛みさえ味わった事のない癖に」
手錠に繋がれていた子猫の縫いぐるみを了の横に蹴り寄せるという大胆な行為に出たにも関わらず、薄汚い布団の上へと飛び込みんだ。掛け布団で頭を覆う。怖いよ、という幼子の呟き声が了の耳に入っていた。
幼子? こいつは幼子なんかではない。幼子というのは精神的にも、肉体的にも雛のような状態を指すのだ。決して雛の皮を被っている人間の事を指すのではない。両拳に力を込めた。だから、今からする事は決して、児童虐待ではない。死という罰を貰う為にはそれ相応の感情を死刑執行者に与えなければならない。
「五月蠅い! そんな事はどうでも良い! 今すぐ」声を荒げて躊躇なく、幼子の頭を保護している掛け布団を取り除き、首を両手で絞めた。幼子は殴られると考えたのか、反射的に両手を頭上へと載せてぎゅっと目を閉じていた。「止めろ! 苦しいだろう」何とか逃れようと了の手中で活きの良い人間が跳ねた。「今すぐ、消してくれ!」その言葉と共に憎悪にも似た堅い表情を幼子に飛ばした。その顔を間近で見た幼子は嫌なものを避けるようにそっぽを向いた。在らぬ方向へと唸り声にも似た涙声で問う。「本気か?」
その声に重なるタイミングを待っていたとばかりに無数の靴音にも似た心臓音が響く。
自分の心臓は何を怯えているのか? と両手で胸を鷲掴みにする。
本気か? という幼子の言葉にどれほどの意図があるというのだ。
殺されたいという自殺願望? それとも、女という種に対して振るわれようとしている理不尽な暴力? どちらにしても幼子の意図は反映されない。
だが、了の眼は充血のあまり、目の前が霞むほど、血走っていた。俯きながら、眼を何度も擦る。その時、白光に照らされた木製床に佇む哀れな幼子の絵画の中に二つの影が踊った。
その影達は声を発する。
「ベア様、夜遅くにすみません」と渋い男性の声がした。「ベアちゃん、産まれた命の世界のアニメ観よ! ヒロイン くろみちゃんの声が可愛いんだよ」と反響する程の高音を放つ少女の声がした。
男性の方を雲村雪、少女の方を雲村永遠と呼ぶ間もなく、男性の拳が迫る。了は既に殴られる事を覚悟し、出来損ないの悪人が白い歯を見せつけるような笑みを浮かべる。歪んだ口が開いていた。
だが、籠もったような幼子の制止の声が入る。
「雪、こいつを殴るな」
「しかし、ベア様を泣かした者に制裁を与えずには……」
困惑の表情を浮かべた。選定学園の指定制服であるネクタイとブレザーを埃や皺無く着こなしている雪はブレザーのポケットからチェック柄のハンカチを取り出すと幼子の頬に触れようとする。
「こ、これは汗だ」
と動揺しながら、ハンカチを払いのける。
「ベアちゃん、怖かったでしょう?」
払いのけられたハンカチを握り締めたまま、硬直した哀れな兄に代わり、その妹である永遠が中腰になり悪意のない笑みを浮かべる。
「こ、こ、これは汗、だ」強がっては見せたが、何かを吹っ切るように頭を横に振り、「永遠お姉ちゃん」
と永遠のブレザーの袖を握った。綺麗に手入れされた淡い桃色の爪と細い指先が印象的だった。
そんなか弱い姿を一部始終、眺めていた了は幼子の皮を被っていない悪魔でもないただの幼子には、自分の願いを叶える事はできないと諦念の溜息を吐いた。
雲が晴れたように唐突な疑問を目の前にいて、永遠の脇の下から威嚇に近い強い視線を浴びせてくる幼子に対して口にする。
「なぁ、なんでこんなところにいるんだ、幼女? 牢屋で囚人ごっこする時間帯じゃないぞ、お兄さん……お前の事をベアトリーチェと勘違いしちゃったじゃないか」幼子の方に手を差し出す。「ごめんね、お嬢ちゃん」
むすっとした表情のまま、永遠から離れた幼子は差し出された了の手と営業スマイルのようにぎこちない完璧な微笑みを浮かべる了を無視し、睨み付けた。そして、にやりと口の両端を吊り上げる。
「愚弄するな」
その低い声のイメージは様々な負の言葉を連想させた。
凍る感情、死、消去、悪夢、苦痛、血、停止、強者の余裕。余裕?
そう、この幼子からはいつしか、背後に何か、自分の何倍もの背の高い業を背負っているような凄みが芽生えていた。それは人間が背負えるものではないと直感的に了は感じた。
「僕にはベアトリーチェという高貴な名前がある。僕よりも劣る創造主様は僕の反逆に恐れているんだろう? そんな事……」含みをわざと持たせてから、ベアトリーチェという名の人外は話を続ける。「考えていない。無駄な足掻きだというのにな」
幾つもの、暗がりを持つ幼子であるベアトリーチェとその信仰者である雲村兄妹との付き合いはそんな奇妙な出会いから始まった。
どうして、人間性の違う了達が何年もの間、親交を深める事が可能だったのか、ずっと疑問に了は思っていた。
ふらふらと充てもなく、彷徨う人のような粉雪を両手、一杯に拾い集める。ふと、答えが天啓のように浮かび上がってきた。
きらきら、と掌で輝く白い妖精達が語りかけた。
雲村雪は了に対して今のようなあっさりとした言葉を残すクールな男だった。
雲村永遠は了に対してしきりにゲームやアニメの良さを説いて、オタク化させようとする静かな口調とは裏腹に栗鼠のように動き回る少女だった。
ベアトリーチェは? と白い妖精達は了に問う。
「最後まで頑なに本音を吐き出さない変なチビッコだったな」
拾い集めた粉雪をガードレールの上に降らせて、代わりに煙草を手にする。ライターを弄ぶが、火が飛び出さない。腹いせにライターを側溝に向かって投げ捨てた。
仕方なく、火の点いていない煙草を口に咥える。
「おい! こんなところでまた、違法に路上販売を!」
厳つい顔の刑事が雪に足を取られながら、こちらを真っ直ぐ見据えて走ってくる。
勿論、捕まるわけにはいかない。了はレジャーシートの中心に商品を掻き集めて、風呂敷状に縛り付けた。そして、お決まりの言葉を吐く。
「やべぇ、察様だ!」
真ん丸と肥えたレジャーシートを両手で抱え込んで人の波を上手く、掻き分けて進む。いつの間にか、夕陽が雲の合間から顔を出していた。その事に気が付いたのは了が住処としているワゴン車の運転席だった。彼は満足げにそれを眺めて、火の点いた煙草を旨そうに咥えた。
ベアトリーチェの心は不満で満ちあふれていた。
昨日、作った箱庭が雪は気に入らなかったのか、幼子に向かって苦笑したからだ。どうせ、藪医者も苦笑するのだろうと思うと幼子は腹が立った。だが、藪医者の評価なんぞどうでも良かった。問題は雪のベアトリーチェに対する評価だ。それを挽回しようといつもならば、十時に起床するお寝坊さんな幼子はとある計画の為に雪よりも早く起床して叩き起こした。それはささやかな悪意に満ちた計画の始まりになるはずだった。
当時を再現するようにうきうきとベアトリーチェは、
「雪、今日は外で食事がしたい。永遠を呼べ」十二階立てのマンション、ダーウィンの表札についている粉雪を小姑がするように指でなぞり取った。「とは言った」粉雪を見つめてからゴミステーションの方向へと息を吹きかけて飛ばす。「だが何故、沙凪了なる下等人間がいるのだ」
怠そうに欠伸をする了に目を向ける。もう、何分も前からいたのだが視界には入れたくなかった。むしろ、消えてしまえとさえ願っていた。
一応、強く念じてみた。
「おい、チビッコ。本当は俺のこと、怖いだろう?」
了の言葉に身が竦みそうになったが、心強い味方である雪のトレンチコートをぎゅっと掴んで反撃に出る。
「こ、怖いわけがないだろう」
その言葉とは裏腹に足下はまるで生まれたての鹿のようにぷるぷると震えている。それに気付いている了はわざとらしく、微笑む。
「足が震えてますけど、おトイレを我慢しているんですか、おチビさん?」
「それ以上、ベア様を愚弄するな」怒りに口を震わせて、雪はトレンチコートのポケットからレシートを取り出すと、了の顔に飛ばした。「例え、友人だとしても許さないぞ」
と言う間にレシートは了の右頬に鮮やかな線を描いて、背後の電柱に突き刺さった。レシートはその電柱から落ちる事無く、突き刺さったまま制止していた。
「おい、もう制裁を加えられているんですけども……」鈍感な頬の痛みに耐えかねて掌で傷口を押さえながら、辿々しい口調で言った。「これは如何に?」
雪ではなく、雪の背へと隠れて舌を出して了を挑発するベアトリーチェに厳しい視線を向ける。
「警告だ」
雪は何処か、ユーモアの醸し出されている白い息と共に柔らかな笑みを零した。
「嘘、後付だよな」
自分の首をベアトリーチェの首に見せかけて両手で首を絞めて苦しそうな表情をした。それを見たベアトリーチェは指を指して声を出さずに馬鹿と了に言った。
そのやりとりを観察していた雪がベアトリーチェの指を無理矢理、降ろしながら気怠そうな声で付け加える。
「よく、わかったな」
と同時に雪に似た渋声が雪の背後から聞こえた。
「俺はベアトリーチェ様を守る為ならば、人を殺すことさえ厭わないんだ。ハードボイルド風のお兄様」
頭だけを動かして背後を向くと、階段の段差に座る千習高等学校の制服を着た少女が手を振っていた。少女が物まねの中で言っていた通り、雪の妹―永遠だった。
永遠の黒いゴムで結ばれた二房の髪と腰まで流れる髪は幼子の憧れだ。
雪達に挨拶してから、永遠はベアトリーチェの手をぎゅっと握った。ベアトリーチェはそっぽを向いて別に、というような憮然とした表情をしているが雪はそれだけではないと見切っていた。どことなく、晴れやかな表情も時折、見せているのだ。背後から眺めていると本物の姉妹のようでこちらも思わず、優しい眼差しでずっと見ていたいなという憧憬にも似た感慨が浮かんでくる。
そんな憧憬にも似た感慨を壊すように、
「見分けがつかなかった。雪が分身をしたかと思ったよ」
と隣を歩いている了が雪に言った。
「眼科に行く事をお薦めする」と雪が言った後、ベアトリーチェも了を哀れむような口調で付け足す。「脳を変える事をお薦めする」
自分が世界で一番正しいとベアトリーチェは頭の中で良い脳外科医はいないか、と思いを巡らせたが自分にそのような知り合いがいなかった事にふと、目が醒めた。幼子の心に暗い影を落としてゆく。その影をゆっくりと払うように幼子の耳へと暖かな息が吹きかけられた。
むず痒さと一緒に、
「ベア様、残念ですが脳を変える技術は今の日本にはないですよ」
言葉の暖かみを確かにベアトリーチェは受け取った。
幼子のまだ、生育していない感情が叫んだ。
許されるならば、ずっと、いたいと。
普段、ひきこもり全快なベアトリーチェを先頭に北方向へと歩を進めてゆく。雪の記憶が正しければ、北方向には住宅が身の厚いパンのように工場が多く点在する地域と、デパートや商業ビルの建ち並ぶ地域とに挟まれている。尤も、これまた、パンのように具がはみ出して、住宅が所々に建っている。
そんな地図を頭に浮かべながら、ベアトリーチェが恥を掻く前に何処かでそれとなく指摘するべきだろうかと冷や汗を脇の下に感じていた。嫌な感触だった。
目の前の幼子は雪の心配を余所に時に、永遠とアニメ、ゲーム談義をしつつ、目的地である美味しい料理を食べられる店を目指す。
十分後、雪達の目の前にはこじんまりとしたログハウス風のシックな建物が建っていた。ジャンパースカートに付属しているフードを目深に被った逃亡犯な姿のベアトリーチェにはミスマッチだった。かといって、金髪頭にオレンジ色の長袖を着た了や、制服に着られている永遠に合うわけがない。しいて、合う人物がいるならば、感嘆の声を挙げつつ、建物の屋根に飾られている風見鶏を眺望している雲村雪くらいだろう。
ベアトリーチェは雪の両腕に自分の細腕を巻き付けると、悪意と善意の入り交じった子ども特有の無垢な微笑みを浮かべた。この特有の悪癖のような意図の在る笑みを知る雪は反射的に苦笑いで返した。
さぁ、鬼が出るか? 神様が出るか? そう思考したが神様……いわゆる創造主が扉の向こうから出る事はないと雪は知っている。ベアトリーチェという幼子は梅干しと同等にそいつを嫌悪している。堂々とクソ婆と呼称しているくらいだ。
ベアトリーチェは扉を勢いよく、開けた。開けた反動で壁にぶつかり、鈍い音が鳴った。その音のフォローをするように扉の正面に垂らされている暖簾に飾られた鈴がりん、と短く鳴り響いた。
「いらっしゃい」
ベアトリーチェと大して変わらぬタイミングで暖簾を潜った雪は窶れた女性の声を耳にした。その声は妙に耳へと残った。雪は知っていたのだ。
その声の人物を。
女性は飾り気のないセーターの上に、喫茶店『みゃあなん♪』という印字と子猫が顔を舐め合っているロゴ入りのエプロンを着用して、色気がない事に安いノーブランドのジーパンを履いていた。だが、長い黒髪の清潔感を、永遠に保っているような艶やかな肌を、同時にその身に持つ女性であった。
女性の名前は雲村甦南。
雪と永遠の母親は我が子の存在を認識したように、茫然と立ち尽くす雪と永遠の瞳を二往復、思巡した。
「え?」
もしや、という思いに呼応して心臓と呼吸のペース配分が早まる。それを表情として表に表すことなく、ぶっきらぼうに問う。
「俺の顔に何か?」
甦南は雪達から一歩退いてから無理矢理、言葉を振り絞った。
「ごめんなさい。知り合いに似ていたものですから。それにまさか、そんなはず」
「相当、雪に似ているようだな、その知り合い」
勝手に並列に並ぶ椅子をベッドに見立てて、その上にお行儀悪く寝そべるベアトリーチェのお腹を突きながら、上機嫌に了は言った。
言葉を口にする瞬間を見計らっていたかのようにベアトリーチェは了の魔の手から逃れて雪と永遠の真ん中に無理矢理、お尻を載せる。その結果、雪と永遠の腕にぴったりとベアトリーチェの両頬が密着する形となった。借りた猫のように小さく身を縮めて手を両膝に載せている。
「ええ。そっくり。そちらの可愛い女の子も」
と甦南は戸惑うような微笑みを浮かべながら永遠を見つめた。
じっと見る黒い眼の視線の中で何かの魔力を生産し、永遠の眼へと郵送しているかのような沈黙が一瞬間続いたが、雪の中ではそれは延ばしに延ばされた時間のような気がした。
永遠は両手を小刻みに振りつつ、毅然とした態度の含んだ口調と苦笑いを相手に手渡す。
「いや、可愛いなんてそんな。これでも可愛い生き物って呼ばれてます」
「そう」
寂しげに一瞥する甦南の瞳から、雪は彼女の過去を聞き出さない方が良いと自分自身に楔を打った。そうした方が懸命だ。雪が知る限りではその過去は諦念と憎悪に渦巻いた人間のおどろおどろしい影が蠢いているのだから。
雪は目を見張った。自分を上からの目線でいつも眺めているベアトリーチェが自分の膝の上にスカート部位を載せ、永遠の膝の上に白髪を晒していた。
「ベア様、どうしたんですか?」
「うるさい、懐かしい匂いがするんだ、僕の邪魔をするな」
朱い瞳が邪魔するなと熱々しく訴えた。
雪はベアトリーチェではないからその匂いについて、想像するしかなかった。
幼子は永遠の腹部に両手を絡ませながら頭を永遠の胸元に埋もれさせていた。時折、幼子の顔が見える。その顔は全てを永遠に委ねるというかのように幸福の下で日向ぼっこをする子どもだった。そう、この世の残酷さなど一欠片も知らない子どもだった。
雪は変だなと思った。
ベアトリーチェは誰からも無償の保護を受けるべき対象、小さな者だ。四歳のベアトリーチェに出逢った時から世界はベアトリーチェに過酷な運命を突きつけ続けてきた。
雪はそれを強く感じる度に、祈った。この子を普通の女の子としての人生を送らせて下さい、誰か、と。
見てみろよ、そんな悲劇の少女が今、赤ちゃんの微笑み―エンジェルスマイルを浮かべて目を細めているではないか。
ベアトリーチェの髪を優しく撫でながら、雪も昔、永遠から無理矢理聞かされた事のあるゲームの曲を子守歌として歌う。
―子どもは夢を見て心を育てる
心を育てた子どもと子どもはいつか、愛の夢を見る
愛の夢は正夢となって新しい夢追い人が生を受ける
愛という羽根ペンで綴られる無限の物語
子どもは夢を見て心を育てた―
永遠の薄くリップクリームのついた口から紡がれた言葉は魔法だった。
どんなに過酷な運命を持った幼子にも優しい一時を与える魔法だった。雪と了は深く頷いた。彼らの意志は共に同じだった。
強い視線と、視線が永遠とベアトリーチェを眺める。
視線達は物言わず語っていた。
偽りでも良いからこの母子は産まれた命の世界で幸福に暮らして欲しいと語っていたのだ。
「母様、ベアはあの熊さんが欲しい。あれをクリスマスプレゼントにしてくりゃちゃい」
永遠はベアトリーチェの夢の会話を独りぼっちにさせない為に幼子の耳元で囁いた。
「うん、良いですよ。くろみちゃんの使い魔さん、くーにゃんさんに似ている熊さんですね」
「母様!」ベアトリーチェはそう叫びながら飛び起きて永遠と目があった瞬間、明らかにがっかりして肩を落とした。「永遠お姉ちゃん」
「ベアちゃん」短く呟き、四方八方に身体を動かしてこの事態を打開する何かを探しているようだった。「あの、あのね」
雪は了に声を出さずにお前の力で頼む! と口を動かした。ついでに拝むのを追加する。気をよくした了は声を出さずに解ったぜと口を動かした。
雪はしどろもどろする永遠を見つめながら了の第一声を待った。
この土壇場で了ならば、きっと。
「やっぱり、チビっ子はチビっ子だなぁ。もう、おねんねでゅかぁ」
と了が見えないがらがらを操るという巧みな技も交えた過剰なサービス込みで調子づいた。
夢の内容をすっかり忘れたベアトリーチェは目の前にある水の入ったコップを投げようとした。だが、永遠に後ろから羽交い締めにされて、代わりに店内に響く大声で叫んだ。
「ぼ、僕を愚弄するな!」
その声に振り返った甦南に対して雪は苦し紛れの愛想笑いを浮かべて、
「すいません」
と頭を下げた。
甦南も愛想笑いを返す。
「いいですよ、子どもは元気な方が良いですからね」
直ぐさま、ベアトリーチェの鬼気とした目は全体からほんわかした空気を漂わせながら、こちらへと大皿を持って歩いてくる甦南を睨み付けていた。
「僕は子どもじゃない」
肘で人工のダムを造り、その中に雨水ではなく、ベアトリーチェの小さな頭が入った。そんな幼子が発した言葉はダムの底に当たってくぐもった可愛らしい声になっていた。
永遠、雪、了、それに雪達とは出会ったばかりの甦南は顔を見合わせて、見守るような幸福に溢れた笑みを幼子に浴びせた。
誰もが幼子の人生が安泰でありますように、と。そういう意味だろうと雪も感慨深く、白い髪の隙間からみんなの反応をひっそりと窺っている朱いお目々の幼子を一瞥した。
雪はベアトリーチェの事は何でもお見通しだった。見知らぬ人にはとんでもない警戒心と人間に対する憎悪を持ってして接する表の顔と本当は誰にでも甘えたい甘えん坊の裏の顔を持っている不器用な幼子だという事をたった二年の時間で見切った。その時間は何か見えない糸が雪の小指とベアトリーチェの小指を結びつけていて、そこからパーソナルデータが共有されているような感じさえしていた。
「御免ね。許してね。はい、これ。サービス」
優しい口調で幼子に語りかけ、香ばしい甘味の煙が漂うホットケーキをベアトリーチェの目の前に置いた。置いた振動でホットケーキの頂上に居座っていたバターが足を滑らせてホットケーキとホットケーキの隙間に転落した。滑り落ちた軌道上には黄金の道が出現していた。それを目にした幼子は掌の上に顎を載せて恋する乙女のようにじっと、うっとりと眺める。
「可愛い。お嬢ちゃん、全部食べていいんだよ。遠慮せずにね」
甦南は永遠に似た透き通ったアニメ声に載せてウィンクをした。
だが、ベアトリーチェの難儀な性格上、次のステップは純粋な一般的幼子とは逸脱している事を雪は知っていた。
予測通り、ベアトリーチェの身体はチワワのように震えだし、フォークを二本持ってホットケーキを裏返しにして眉間に皺を寄せて目を細めた。
甦南はその奇妙な行動に固まった。きっと、何をしているのか理解不能なのだろう。
「騙されるか。きっと、何処かに僕を苦しめる錠剤上の下剤が磨り潰してホットケーキに混入してあるに違いない」
その言葉にショックを受けた甦南は何も言葉を繕うことも出来ずにただ、たじろいでいた。雪は甦南に実直な視線を向けると口を開く。
「そ」一瞬、その女性の名前を呼びそうになったがまだ、女性から名前を聞いていない事に気付き留まった。一呼吸置いてから続ける。「店長さん、ちょっと」
雪は素早く、歩き出してからベアトリーチェに聞こえないであろう位置にまで来ると甦南を手招きで呼び寄せた。
「折角サービスして貰ったのにうちのベアトリーチェが粗相してすいませんでした」
深々と頭を下げる雪に対して甦南はいいですよ、と変わらぬ優しい響きを持った口調で応えた。今もホットケーキを検閲しているベアトリーチェをちらりと見据えた。
「何か、問題を」と言いかけた後に慌てて修正する。「ごめんなさい。理由は聞きません。お客様のプライバシーに関わる事ですから」
「ありがとうございます。ですが、今後もご贔屓にしたいと思っておりますのでお話致します」了承したという意図を含んだ甦南の頷きを確認する。「あの子は昔」今もと言う言葉を噛み砕いた。「虐待を受けていたんです」
空調から流れる温かい風の音とベアトリーチェの持つフォークが皿に当たって奏でられる音は混ざり合い、沈黙に華を沿えていた。
「まぁ……」と不快に溢れた唸り声を吐いた。ベアトリーチェがホットケーキを切り刻んで恐る恐る鼻に近づけて匂いを嗅いでいる。フォークは小刻みに揺れ続けて赤い瞳から涙がうっすらと浮かんでいた。「可哀想に。なんてことを」
「それにアルビノという性質を見ず知らずの人間に揶揄されて以来」本当は違うが、というという言葉を天井に吊された観葉植物の葉辺りに少しの間だけ隠して置く事にした。「すっかり、他者を信用できなくなってしまったんですよ」
「酷いですね。人は誰だって同じではいられないからこそ、世界が成り立っているのに。数学的な能力に優れていて数学者の道を歩む者もいれば、世界の為に自分が出来ることをしたいと考えてボランティアをする者もいれば、武器の扱いが上手いというだけで兵士になる者もいる。そして、私、雲村甦南のように御菓子とお茶については人より自信があるから喫茶店を経営する者もいる。人は他者と同じになる事で安住の地を得ては駄目なのです。また、他者を汚す事で心に安定という栄養を与えているだけではきっと辛くなります」
甦南は手持ちぶさたに両手を絡めた。
「あ、すいません、私ばかり話してしまって。喫茶店を経営していると様々な人間模様に出くわす事がありますのでつい」
話の解る甦南と雪は自己紹介を交わした後、ベアトリーチェ達の席に戻り、雪はみんなを紹介した。しばらくの間、ベアトリーチェはホットケーキに何も仕掛けられていない事を知り、甦南の調理したホットケーキを何事もなかった様に食べ続けた。テーブルの上にはホットケーキの欠片が幾つも散らばり、ホットケーキの星空が形成されていた。それを黙々と永遠が拾い集めてはティッシュに刳るんだ。
了はハーブティーを音立てて、いちいち上手いと言った。
そんないつもの空間を雪は無糖のコーヒーを含みながら見つめていた。雪と目の合ったベアトリーチェは自分に興味を惹かせるべく、うむと小さく唸り、やっと捻りだした言葉を伝える。
「知ってるか、雪? ベア様と同じ熊という種は」雪の口元にホットケーキを付着させる。それは事故なんだというように何も触れずにそのホットケーキをベアトリーチェは迷わず、ごく自然に口に含んだ。「これが好物なんだ」
鮮やかな絹の性質である清涼感と同等の小さな口からお外へと遊びに行った舌が印象深い。幼子の舌にはまだ、消化されていない狐色の粉が付着していた。雪はそれを愛おしげに見つめてベアトリーチェの肩にさり気なく手を添える。
「はい、存じておりますベア様」
ベア様という呼称をゆっくりと言い、優しさという陳腐な言葉では語れないそれに類する感情をそっと、もぐもぐ口を忙しなく動かす愛すべき幼子の贈り物とした。
それを哀愁にも似た表情を隠すことなく、甦南は隣のテーブルに腰掛けて眺めていた。彼女は肘をテーブルに載せ、さらに頭を傾けて掌の上に載せている非常に喫茶店の店長らしからぬお気楽な態度だった。
雪は永遠の腕を掴み、腕に巻かれている頭蓋骨型の時計の針を確認した。入店してから三十分が経過しているようだ。そろそろ、お暇しても良い頃合いかもしれない。頭蓋骨の窪んだ目の空洞が怪しく、緑色に輝いた。けたけた、とお下品に笑う頭蓋骨は一時間ごとにこうやってどうでも良い仕様を晒す。
午後三時の一時を包み込むような静寂が支配している中、ベアトリーチェはお腹が痛むような苦悶をゆらゆらと水分の中で動く朱い色彩の表面に載せて、雪の方とも、永遠の方とも、了の方とも、甦南の方とも、異なる空席部分の椅子へと視線を注ぎ呟く。
「折角の親の子の対面だというのに何故、話さないのだ」
「時の流れが我々とは違うのです、小さなリーチェ」
その言葉に小さなリーチェは善意のみの笑みを浮かべた。
人には等しく輝かしい未来が訪れるものだと愚かしい期待を抱いている者がいる。だが、私は否定という名の剣で絶望という傷をその者に与えよう。その時、私の顔は罪深きベアトリーチェの言うようにクソ婆な顔になっているのだろう。ならば、いつもではないかと苛立ちがふいに募った。それらを腹ばいのまま、生きていると辛うじて認識できるような浅い息を吐くクソベアトリーチェを踏みつけた。
もはや、呻き声を出す気力も残っていない白いワンピースの背に不細工な靴模様を付けた罪人は一度だけ、魚が断末魔の叫びの如く見せる痙攣を私に見せた。それで満足してやる事にした。
床に広がる暗黒に希望という名を付けてその全身を愛撫したいと思わせる程の美の集大成―青い、青い地球が映し出されている。主役である地球を引き立たせるべく、太陽という黄金色の恩恵を授かっても美しくなれない不細工星達が仮初めの燦めきを与えられている。床の映像は壁の液晶画面で十通り程、選べるのだが、雄大な景色を集約した淡い水色とそれを汚さないように偶然が配色した色達のビー玉は一番のお気に入りだった。
「こういうのなんて言うんだっけ? 児童虐待?」
床の映像、月の凹凸部分に忌々しくもクソベアトリーチェの血を発見した。その血は糸屑のように擦り剥いた肘部分が痛々しく映っている。
可哀想に今、未成熟の子鹿の足よりも細い腕をへし折ってあげるという妙な義務感に襲われたが首を振って否定した。それでは面白くない。もっと苦痛を舐めさせなければ、愛しい人の名前が呼べないくらい苦痛という泥を口に投げ入れましょう。ああ、素晴らしき言葉と暴力のカップル。
私は仰向けに脱力しているクソベアトリーチェの首根っこを掴む。
「人間って馬鹿よね。児童虐待は駄目とか主張している癖に産まれると自分に不都合が生じる者を捨て去るのだから」
私が科学の力で自分たちの未来は無限に広がるとでも思い上がっている人間の矛盾点を講義して差し上げている最中に心、ここに非ずという態度をクソベアトリーチェは取っていた。早期に発情した子熊のような甲高い声を挙げる。その子熊の憎悪に燃える瞳が私を常に軽蔑視している。
「あら? 何か言いたそうね、小さなリーチェ」
「クソ婆! その名で呼ぶな!」
小さなリーチェと私が口にした刹那、無数の肌色の嘔吐物が付着したレースアップブーツの内側から一本のサバイバルナイフを抜き出し、私の首筋に当てた。
サバイバルナイフにはあの嘔吐物と同じ、甘い蜂蜜と可愛らしい顔に似合わず、クソベアトリーチェが吐いた臭い唾液と胃液の混じった汚臭が媚びついていた。私は顔を顰めた。それを確認したゲロベアトリーチェは引き攣った不気味な笑みを浮かべる。その口から涎が糸を引いていた。
咄嗟に私はそれを投げ捨てた。百九十センチの長身である私が投げ飛ばしたのだから、百十センチの幼子には相当の負荷が掛かっただろう。幼子はとうとう、顔も隠さずに号泣した。先程まで反抗的な瞳を宿していたが、もはや真ん丸の可愛らしい瞳という印象にしか映らなかった。それでも、罪人には変わりはない。
存在自体が罪だ……。その言葉を噛み締めて私は口を開く。
「私を殺せる人間は貴女一人だものね、でもね」容赦なく、幼子の腕と繋がれた子猫の縫いぐるみを踏みつけて、「力の差を考えろよ、牛乳臭いガキ。私はね、世界を産んだ創造主様。で、あなたは?」と金髪のさらさらした長い髪の私が平凡なおかっぱ白髪幼子に問う。「僕はベアトリーチェだ。お前の駒になる選定者にはならない。だから」だからの強烈な発音で幼子は、自分の身長を私よりも高く見せようとしているようだ。私は幼子の方に殺気だった視線を送って萎縮させてから、フランクに話し始める。表情も非常に親しみやすい偽善者仕様のはずだ。「はいはい、聞き飽きましたぁん。みんなを産まれた命の世界に存在させて欲しいだって。世界という名のコップは常に満タンに近い状態で安定しているの。前に教えたでしょう」世界の支配者が誰かという事をまだ、幼子は解らないのか、私の所へと足を運ぶ度にチワワのように怯えた眼差しを見せながらも何回も繰り返し、同じ事を要求してきた。みんなを産まれた命の世界に存在させて欲しいと言うのだ。その時の光景が私の瞳の中に蘇り、耐え難い不快感を与えた。私は腹いせに白い髪が雑草でもあるかのように握り締めた。「痛い。痛い」小さな両手が懸命に私の腕を掴む。爪が私の腕に食い込んだ。顔を顰めながら、「理科のテストで零点を取った後のお仕置きが効き過ぎたかしら」
と言う。白い髪を握る力が増していくのと同じくして上歯と下歯は互いにせめぎ合った。その感情を逃がすのに吐息を吐く。一呼吸置いてから、後退して黒縁の豪奢な机にお尻を載せた。
「まぁ、良いわ、再教育してあげる。満タンではないのは母胎に宿っている時、何らかの理由で産まれる事ができない命が世界というコップから取り除かれるからなのよ。慈悲深くてきれーなみんなのお姉ちゃん、創造主様はそこで選定の儀式という敗者復活戦みたいな事を考えたのよね。すごいでしょ、すごいでしょ」
クソベアトリーチェは悲しげに俯き、両手に載った数本の抜け毛を見ていた。口を尖らせて唇が震えるのも隠さず、言い放つ。
「そんな事しなくても全員、救えるではないか」
私は肯定するように薄気味悪い笑みをクソベアトリーチェの方角にあるノブ式の扉に向かって零す。
「頭の良い小さなリーチェちゃんはズルっ子だから先生」ゆっくりと幼子に歩み寄る私の姿は鬼婆の形相にでも見えたのだろう。クソベアトリーチェは両手で自分の頭を隠した。幼子の上に白い線が振って白い集合体の中へと同化してゆく。「やめて!」怯えきった声がほの暗い部屋に響き渡った。だが、歩みを止めずに首を振る。「嫌いだな」という頓狂な声を喉から出し、拳を高く掲げた。「嘘ん」と私は舌を出しながら、この世の終わりを粛々と受け入れるように目を瞑る幼子を笑った。人形のように整然とした顔は恐怖に染まっても何処か、癒しを与える愛らしさに満ちていた。それは私がとうの昔に忘れていた母性本能を擽った。
全てに絶望して、捨てたのに。創造した者達は私という存在を等価値の存在……友人としては見てくれなかった。価値観の共有がないという事は華やかな街を一人、彷徨っているようなものだ。だが、今は自分とおそらく、等価値に近い存在である人物がいる。しかも尤も腐ることのない憎悪という感情で繋がっている。これは赤い糸だ。どす黒い赤い糸だ。
その母性本能が小さなリーチェを壊す事を否とした。すっと朱一色の感情が波に攫われ、穏やかな肌色をした砂浜色に灯る。
その瞬間、それが愛だという事に初めて気が付いた……。
「その通りなの。でもね、創造主にだってレクリエーションは必要でしょう。退屈だもん。機械化して欲しいよね、人間ちゃんの管理も」小さなリーチェの頬についた唾液まみれのホットケーキの欠片を舌で舐めとり、嚥下した。蜂蜜の香りのする未成熟の味がした。「ああ、全部リセットしちゃおうかなん」
私は小さなリーチェに言葉という茨の鞭を振るう。案の定、リセットという言葉に顔が青ざめている。
茫然と立ち尽くす小さなおでこを人差し指でぐりぐりと動かす。執拗な攻撃でおでこの一点のみが赤みを増した。それは未踏の雪原に足跡でも付けるような達成感を与えてくれた。
「敗者復活戦に参加できるのは産まれなかった命の世界で生徒役をしている子のみん。それ以外の子達も本人達のそれまでに至る経歴を自分のものだと信じ込もうと頑張っているのにって言いたげ? 世界って不公平だからこれで良いのん」
「今更、選定の儀式の事など、説明するな。気まぐれで選ばれた人間同士をこれまた、きまぐれな方法で日時で最後の一人を決めるんだろう。それまでは各自自由」
「そうそう、ベアトリーチェちゃんが良い子にしてくれたら、ママを探してあげるからね、協力しようよ、お互いの為に」
そう言って、私は机の二番目の引き出しから一丁のリボルバー拳銃をさり気なく、取り出す。その黒い凶器を尤も似合わない幼子に与えた。小さな手は拒絶してなかなか受け取ってはくれなかったが、力に任せて握らせたら幼子は容易に屈した。
白マシュマロ弾力であろう頬に一筋の迷いを一閃、流しながら……。
「母様……」と自分だけを守護する母性を求めながらも、もう一方の未熟な感情が辿々しく「雪……」と呼んだ事を私は知っていた。
ふらふらと覚束ない足取りで、世界で一番残酷な運命を背負った哀れな百十センチの背中は私の視界から遠ざかってゆく。
私は敢えて最後まで説明しなかった。
そんな事は十の昔から選定者であるベアトリーチェは執行してきたことだ。また、それの繰り返し。人間世界でいうところの死刑執行者に似ているだろう。いや、まさにそのものだ。
小さな背中に向かって、
「貴女には遊園地でお客様として無邪気に脂肪分たっぷりの特大ポップコーン、片手に遊ぶ権利はないわ。あるのは無数の死を描くアトラクションの主催者よ、愛しいクソリーチェ……」
と囁いた。
だらしなく垂れ下がった細い腕を視線で辿ると、どす黒い銃口に終点する。
早く、壊れて断末魔に最後の蛍の灯火の如き、穢れない幼美を私に贈れ。代弁者 壁際のランタンが仄かな赤面顔で私に視線を送った。キュートね、本当に。
天空から降り注ぐ雪はベアトリーチェに対して優しくはない。容赦なく真っ白い髪の毛に、辛うじて細い二の腕に留まる解れた肩紐に、安易な蝶々結びコーティング健在のもう一方の肩紐に、嘔吐物で汚れたワンピースの生地に、染みこんだ。
ダーウィンの庭にある産まれない命の世界と産まれた命の世界を通じる螺旋階段を閉じてから、行く充てもなくベアトリーチェは産まれた命の世界の都市の一つである那世市を歩き彷徨う。
慟哭に乙女な夢を見て膨らむ予定の甘食お胸は貫かれた。幼子の心は空腹だった。けれども、塩辛い涙を沢山、飲んでいて補う気持ちにはなれなかった。
ここは何処なのだろうと朱い瞳がなけなしの防衛本能を発揮して、幼子の頭を四方八方に動かせた。
鼻の高い幼子は微かに香る醤油ラーメン臭から反対の歩道の屋台にて、暖かな会話が飛び交う家族を発見する。その瞬間だけ……聴覚と視覚を殺したかった。
幼子は乳歯を何度もかち合わせながら寒さに身震いする。そんなチワワチックな幼子に誰も話しかけずに、目があったとしてもすぐに逸らされた。まるで目があっただけで後ろめたいものがあると誤解されると思考しているような素早さだった。
三日月の光に映える白い色彩が煌びやかなビル群に囲まれていると、ベアトリーチェは不安な気持ちに襲われた。ここで立ち止まったら駄目だと言い聞かせるのは死に損ないのふくらはぎだった。幼子のふくらはぎは判別できないほどの貧弱な肉の膨らみだ。筋肉と贅肉の最小限な幼体を支えるのはそれで十分だったのだ、恐らく普段通りならば。
ふくらはぎが訴える痛みがやがて、左足を引き摺らせた。引き摺る度にレースアップブーツの爪先に雪が付着し加重される。両肩を寒さで震わせながら、浅い呼吸を繰り返す。
行き交う人々はそんな哀れな幼子を視界に捉えても自らの心には入れず、他者を排除して自分たち……個々の営みを形成していた。
頬にそばかすのある茶髪の少女と、不健康に滲んだ褐色の肌の少女が寄り添って歩いている。彼女らにとっては携帯電話は自分の手足のように無くしてはならない部位なのだろう。液体画面を始終、眺めていた。そして、時折下品な大口を開いた爆笑をする。
サラリーマン風の派手ではない背広を着た五十代の男性は眉間に皺を常に寄せて、溜息が義務化しているのか、何度も繰り返していた。彼の手と背広の間にある茶封筒はそんなにも憂鬱にさせるものなのだろうか、と幼いリーチェは首を傾げた。その間に五十代の男性は全く同じ格好をした群衆の波へと溶け込んだ。
武菜塾と表記された群青色の手提げ鞄をさげている坊主頭の少年達はコンビニエンスストアの燃えるゴミ、瓶・空き缶、ペットボトルの三種あるゴミ箱の前に陣を構えていた。銘々にカップラーメンを手に持って地べたに座っていた。立ち上がる湯気の向こうに家で待つ母親の姿を視たような気がした。幼子はそれが羨ましくて視線を逸らした。
ふさふさの黒い長髪に目が隠れた恥ずかしがり屋のわんちゃんを散歩しているジャージ姿の中年女性はそのわんちゃんが電柱に糞を撒き散らしている様子をまじまじと眺めた後、後片付けをせず、足早に立ち去っていった。
横目でベアトリーチェはそれらの姿を、霞んでゆく映像を脳裏に焼き付けた。強い印象を幼子がそれらに抱いたわけでは決してない。むしろ、幼子は悪意の笑みを全てに投げかけていた。
「永遠……お姉ちゃん。僕にはちゃんと母様がいる。永遠お姉ちゃんは僕の母様にきっと、なってくれるもん」
と見上げたビルの側面にはアニメ・ゲーム専門店 チワワという微かに光を放つ看板が設置されていた。それを見て深く頷いた後、ベアトリーチェは睡るようにその場に横たわってしまった。どうしようもなく、身体が言うことを聞かなかった。そんな情報を脳が幼子に伝える中、自動ドアが開く音と無数の慌てふためいた声がした。
その声は優しさに満ちていた。
だから、僕は何度、人生を繰り返しても無償の優しさを知ってしまうのだろう、と声にならない声で九十八回分の永遠母様の愛と、現在進行中の九十九回目の永遠母様の愛に感謝の優しく口づけをした。
尊い、尊い。
アニメ・ゲーム専門店 チワワは私の理想のバイト先である。私、雲村永遠はアニメ・ゲームマニアと呼ばれる人種の一人だ。その中でも守備範囲はギャルゲーに、ロールプレイングゲームである。
ロールプレイングゲームの登場人物が被っていそうな紺色のとんがり帽子を被って、紺色のマントで制服を隠し、床掃除に勤しんでいる。オレンジ色のモップ先には細やかな大量の埃が付着していた。それは今まで、私が頑張った成果であり、私だけの敵軍撃墜スコアだった。軽く吐息を吐き、プラモデルコーナーの商品の乱雑さが目に付いた。次なるターゲットは奴だと心の奥底のエンジンを点火させる。先程、見た二階のカウンター前の時計の針が正確ならば、後十五分で私の勤務時間は終了となる。その事実を頭の片隅に置き、ついでにモップを慎重に、白い柱に立て掛けた。プラモデルの箱を次々と手に取り、箱と箱の壁を万里の長城の横線の如く、続くイメージを持って形成してゆく。こうする事によって自分が人気商品ですよと誇示する為に制作したポップが生えるというものだ。私の手は止まり、滲む汗が特徴的な男の中の男である劇中の艦長が操縦していた戦艦が登場だぁ! 初回特典にはその艦長のフィギュアが同封される。激しくいらねぇー。オペレーターのおねぇたまを出せやぁあああ、という文章の書かれた横細いポップを凝視した。
いまいちだった……。そして、自分は胸だけが大きくて能なしなオペレーターの年増女はあまり好きなキャラではなかった。まるで自分の大きな胸と優秀なお兄様と同じ血が流れているとは思えない馬鹿っぷりを見ているようで、そのキャラがお兄様の部屋にある液晶画面に映っては反省するのだ。その猛る想いを代弁するかのように周囲にいる登山用のリュックサックを背負った男性達が周囲を気にしない大声で主張する。
「オペレーターの女の子よりも白い髪の毛の……ほら、何だっけ」言葉を切って、男性はその場で足踏みをすると顔が開花するアサガオのように咲き誇り、「朱い瞳の……。艦長が作中で保護したミミルちゃんの方が萌えるだろう」
「その考えもありか。オペレーターの女の子はリアル女を想像してしまうから萌えからは遙かに逸脱している。さすがだ、今日からお前、神な」
「いやいや、お前のその考えでゆくならば断然、ミミルちゃんが神だって」
「だな。ミミルちゃんは容姿からして神レベルだからね」
ミミルちゃんが神レベルなのは私も激しく同意。だが、私の周囲を取り巻く人物の中にそれと似た容姿を持つ人物がリアルに存在している。その事実を店内放送で喋りたい衝動に駆られた。事実、そんな妄想が頭に浮かんだ。その妄想を脳内核兵器で木っ端微塵に粉砕してから、モップのある柱へと近づこうとした。だが、私の耳にどうしても気になる情報が耳へと勝手に届いた。それは女性の黄色い歓声となって届いたのだ。
「あっちにミミルちゃんによく似た子がいるよ」
「本当に?」
興奮気味のダッフルコートの女性に朱いジャンパーの女性はこう応えた。
「本当だって。でもね、倒れてるの。お母さんはどうしたのかな?」
心配そうな言葉を紡ぎながらも、それを奏でた唇は両端を吊り上げて好奇心に酔いしれていた。その屈託のない微笑みに私は言い知れない恐怖を感じた。恐怖は自分の身体の一部が新幹線の車輪と線路の間でズタズタに切り裂かれるよりも痛々しい感触を再現させようとしていた。私はそれが本格的に襲いかかる前に人間である為の条件―理性を一端オフにして、入り口へと向かって飛び出した。
そこに姿があると古に備わった優しい感情が教えてくれている。永遠……小さなベアトリーチェ、小さな永遠はそこにいる、と。
棚の角に片足をぶつけて、その振動がプレミア中古ソフトを棚から床へと落下させたが気に止まらなかった。プレミア中古ソフトを何本、追加しても天秤に載せるに値しないのだ、私の目に飛び込んできたベアトリーチェは。
腹ばいのまま、ベアトリーチェは倒れていた。ワンピースの背には誰かの足跡がくっきりと残っていた。私はその足跡を背から退けるように優しく繰り返し撫でながらも、その足跡を刻み込んだ人物に対して殺意をはっきりと抱いた。だが、そいつが誰なのかは特定できない。やり場のない悔しさを耐えるべく歯ぎしりをする。そいつは小さなリーチェを嘔吐させるほどに背を蹴りつけたのだろうという事実は、幼子から香るホットケーキの味で容易に掴めた。
私の腕の中でリーチェを仰向けにさせる。真白いお人形のような肌と艶やかな睫毛、癖のない白い髪、蒲公英の茎のような細い首筋、丸い肩には傷一つ無く、大人として芽吹く前の小さなベアトリーチェは凛とした佇みを全体に残しつつ、寝息を立てている。その寝息は私をほっとさせるのと同時に過保護にもさせた。
ワンピースの肩紐の解れを素早く、直す。他人の浴びせる興味の眼差しから遮断させるべく、胸に小さなリーチェの頭を抱き寄せた。
ワンピースのポケットから名刺入れに入った紙切れが、少年雑誌のアニメキャラがデザインされているマットへとこぼれ落ちていた。
その紙切れには、
名前:ベアトリーチェ。
住所:世那市守美区 ×××ー××× ダーウィン、世那市以瑠衣区 ×××ー××× 古釘、世那市以瑠衣区 ×××ー××× 水母三○一号室、世那市守美区 ×××ー×××。
連絡先:雲村雪 ×××ー×××ー××××、雲村永遠 ×××ー×××ー××××、恋下深希 ×××ー×××ー××××、那世李緒 ×××ー×××ー××××、沙凪了 ×××ー×××ー××××。
と書かれていて、その横の子熊のイラストの吹き出し部分には、
もし、貴方が心優しい方ならば年端もいかない可愛いベアトリーチェを助けてあげて下さい。
もし、貴方が私達の小さなリーチェに危害を加える方ならば留まることをお薦めします。その考えを持った時点で私達は貴方を許しません。
と書かれている。
私達が生きている命の世界に到着し、互いの連絡先が判明した頃にベアトリーチェにお兄様が手渡したものだがベアトリーチェは書いてある内容に憤慨し、僕は人間のガキじゃないと叫んで投げ捨てた。だが、ベアトリーチェはしっかりと持っていたのだ。その名刺入れを探すように私の掌よりも小さくて、握り締めたら何処かが損なわれてしまうのではないかと予測してしまいそうになる掌が微かに動く。
私とベアトリーチェを囲むようにして形成された輪の住人達は様々な表情を浮かべて私達を見下ろしていた。
イベントで企業が用意した現実に存在する女性の良い部位を寄り集めた微笑みを浮かべる空想上の女性の顔がプリントされた紙袋を手にさげて、自分の微動でさえも震えの伝う太ったお腹の男性が眉を潜めてか細く言う。
「ミミルちゃん、大丈夫かな?」
その男性の隣にいたジーパンを履いた天然パーマの細身の女性が即座に応える。
「ミミルちゃんじゃないって名刺入れにはベアトリーチェって書いてあるだろう」
ベアトリーチェという言葉が彼ら、彼女らが待ちこがれた楽園の名であるように誰もがベアトリーチェと口の中でテイスティングした。その楽園はどうやら、彼ら、彼女らに好意的に受け入れられたようで誰もが幼子の呼吸に合わせて呼吸を繰り返していた。その一時の優しい静寂を壊さないように、壊さないようにベアトリーチェと同じくらいの年の少女が天使の微笑みを奏でながら、
「んじゃ、ベアちゃんだね」
雨露に濡れた天使の羽根から聞こえる羽音のように厳かに、荘厳に呟いた。三つ編みの天使はベアトリーチェよりも二十センチ近く、身長差があった。その身長が十四歳という年齢ならば標準なのだが、と思考しながら、ベアトリーチェのフィギュア選手のように限りなく空気と戯れる為に描かれた身体を見つめた。私は上手く、周囲に愛想笑いしようとしたが笑えなかった。
ベアトリーチェの身体は母の愛情をいつも、求めているようで痛々しかった。
それを想うと自分の事のようにどうしようもなく、涙が溢れるんだ。
幼子の唾液によって濡れている生き生きとした唇から今にも母様、という世界で一番、尊い言葉の口づけが聞こえそうだった。ほら、耳をすませば、足音がね。
それを想うと自分の事のようにどうしようもなく、涙が溢れるんだ。
きっと、まだ見ぬ君の母様もそう私以上に想っていて、身の切り裂かれる想いで君を捜しているんだ。ほら、母様の声が聞こえるよ、起きて私の愛しい小さなリーチェ……。
それを想うと、
「ベアちゃんのお母さん、しっかりして。ベアちゃん、多分寝ているだけですよ」
自分の事のようにどうしようもなく、涙が溢れていたんだと目頭を片手で押さえつつ、一方の手で何処か大人びた口調で話した三つ編み天使のハンカチを受け取る。溢れ流れる涙を吸い取ってくれたその真っ白いハンカチの端には真美という名前が下手くそな刺繍で施されていた。
愛されているんだ、と羨ましくも、微笑ましいという感情となって、全身に流れる血の行方が解るほど、季節外れの爽やかな夏の風の如く駆け足に過ぎっていった。
不安と救済に震える私の両肩を誰かが軽く叩いた。私は目を擦りつつ、振り向いた。真後ろにいたのはアニメ・ゲーム専門店 チワワの店長である金縁の真四角な老眼眼鏡を掛けた四十代男性だった。名前は確か、秋谷五郎だったと記憶している。普段、店長という肩書きで呼んでいるのでなかなか、豆腐頭には印象に残りにくい。
「救急車呼んだ方がよくないか?」
店長のオールバックと相性の良い西洋映画の年を取らぬ大生念の映画スターぽい渋声が、私の心に精神安定剤みたく広がってゆく。そんな哀愁漂う男にはロリキャラがプリントされた大きいお友達仕様の作業エプロンは似合わなかった。
店長の隣にいる男性のアルバイト店員が店長の発言に対して首を横に振る。その顔から滲み出ている清廉さは銃を構えている中年男性がプリントされたハードボイルド仕様の作業エプロンと一致していた。
「いや、それよりも警察ですよ、店長」
「そうだね」
警察という言葉に一瞬、青ざめた表情を見せるが、それもやむを得ないと店長は力強く頷いた。
警察沙汰になるとベアトリーチェが何処かに連れて行かれるという思いがあったので、店長達の意見には賛同できない。打開策はないかと……顎を指で一撫でした。
思案に暮れる私の前に、唐突に四階の御握り専用自販機で購入したと推測される御握りを頬張りながら、薄いフレームの眼鏡を掛けた凛々しそうな男性が現れた。彼は一言も喋らず、幼子に熱い視線をじっと、向ける。私は思わず、威嚇の意図を込めた攻撃的な視線を突き刺すが、彼の目の先にあるものは変わらなかった。
「落ち着け、お前達」と私と同じように怪訝な表情を彼に送っていた周囲のマニアやアニメ・ゲーム専門店 チワワのスタッフの顔を順々に見渡しながら言った。「見たところ、呼吸も安定しているし、出血をしている箇所もなさそうだ」眼鏡を人差し指でくいと持ち上げる。「どうやら、会いに歩いて来たは良いが店を見て、安心して睡ってしまったのだろう。大方、歩き疲れかな」
「貴方は?」
と私はお礼も言わずに憮然とした声で質問した。
彼は私の顔をまじまじと見るとおや? と両眼を丸くした。そして、怪訝な表情を隠さずに溜息を吐いた。
「元同級生を忘れるなよ」と悪ガキのように言い、私に考える間を与えてから、わからないなぁと口を開こうとした瞬間を狙って「医者の息子の都茶重だよ、可愛い生き物」
と早口に言葉を続けた。
その他者を煙に巻く達観ぶりは私の一年前の記憶を呼び起こさせた。それでもギャルゲーの幼なじみとの回想シーンのようには鮮やかに思い起こせない。記憶から抽出した言葉をそのまま、反射的に言う。
「重君か。お兄様を師匠とか言って追い回していた」
そんな事、覚えていたんだという心理を隠そうとしない人なつっこい笑顔を白い歯と共に醸し出すと彼は興奮気味に喋る。
「今でもあの人は心の師匠だぜ! なんたって、男子生徒にも目標にされつつ、女子生徒からはつきあいたいけれども、あの独特の空気を壊したくないと誰もが遠巻きに憧れていた存在。今でもあの人以外にいないなぁ」
彼も憧れている独特の空気を台無しにしていたのはお前だと口にしたかったが、あまりのテンションの高さに唖然とする方を選択した。いや、選択したといっても脳内画像には唖然とするという項目が三択くらい並んでいただろう。
今も如何に雲村雪が凄い人物なのかをその妹に喋り続ける重を無視して、ベアトリーチェの髪を一本、一本、指と指の間に挟み込み鼻にゆっくりと近づけた。子ども特有の無臭に近い保護欲をそそる蒲公英のように優しい汗の香りがした。その香りを母様ぁと寝言を囁きつつ睡る小さなリーチェ以外の人物から香ったような気がした。
その人物は誰? という疑問を頭の片隅に置きつつ、幼子を見守ってくれた重と、マニアの方々に深々と頭を下げて五郎店長の助言でとりあえず、ベアトリーチェが起きるまで従業員用の休憩室へと運ぶ。
ベアトリーチェの背中とお尻に手を添えて落とさないように恐る恐る足を前方へと動かす。私は心中、マニア達の事を考えた。
マニアという存在を知らない人達は何処かで彼らに偏見の瞳を向けている。好きなことをただ、好きだという理由だけで追いかける情熱を他の人よりも多く持っているという事以外、一般の人と同じ人生を送っている。そこに偏見という感情を見出す理由など決してないはずだ。それどころか、彼らはベアちゃんにあげてくださいとお煎餅やケーキ、ジュースなどの子どもの好きな食べ物を贈ってくれた。
他者と違うというだけで人は悪意の視線を様々なものに向けたがる。その行動は強迫観念に駆られているように醜悪なだけの黒い霧みたく人々を常に蝕んでいるのだ。私もそれに蝕まれているし、小さなリーチェでさえ蝕まれている。
何かを否定して自分という存在をより確かな肯定で確立しなければ、人は今の時代を生きてゆけないのかもしれないと心に決めている人が多い。卵ごはんという質素な朝食の席で十五インチのテレビ画面を眺めてそんな根拠のない感慨に耽った。そんな数時間前の自分を思った。そのテレビでやっていたニュース番組の特集は、自殺する人の人数が増加傾向にあるという事を様々な自殺の名所を訪れた映像を交えてテレビ局独自の考察を述べ伝えていた。人々は情報化社会で溜め込んだストレスを発散できずに、そのストレスが人々に自分の心の拠り所を探す余裕を奪っているという結論のようだ。
私達はそんな世界でも産まれたかったんだ! 命があるだけで多くの可能性があるという事に何故、気が付かないんだ! 何度でも、何度でも違う自分になる機会を得る事が許されているのに!
私の声にならない叫び声が思わず、小さなリーチェの身体を支える掌に余分な力を廻した。それに気付き、無垢な幼子の顔を見て心を静める。
従業員用の休憩室に辿り着くと、私はベアトリーチェの新しい洋服を確保するべく、お兄様と同じ学年の恋下深希に電話した。深希のバイト先は子ども服などの子ども向けの雑貨品を扱っている店、天秤座だ。午後八時という時間帯ならば店終いをして丁度、天秤座の店長と喋り込んでいる時間帯だろう。案の定、そうだったようで私の説明を聞くと深希は電話を終えてからたった二十分で服を届けて帰って行った。帰り際にツンデレちゃんにぴったりのお洋服よ、とベアトリーチェの耳元で囁いていた。
それから一時間後、ソファに寝かされたベアトリーチェは何の前触れもなく、起き上がり、
「眠い。お腹空いた。雪、お夕飯」
と舌足らずな声で言った。
深希が持ってきた服は確かにベアトリーチェにはぴったりだった。有名女子小学校として名を馳せている那世女子小学校の制服だったのだ。その制服はブラウスと紺色の丈の長いスカートであり、幼子はその衣服に触れては満足げに頷いていた。だが、肩にある校章と、右胸にある名札『三年一組 つんでれ べあとりーちぇ』を見つけると表情が曇り、
「僕は子どもじゃないもん」
と言い、自分のお尻の下に敷かれた動物園にいる動物達をプリントしたタオルケットを私へと放り投げた。
タオルケットは私の身体へと届かずに白い床の上にひらひらと落ちる。小さなリーチェは何かを堪えるようにぎゅっと拳を握り締めて、私の顔を見上げていた。小さなリーチェの瞳の縁には不安の波が満ちていた。
私は中腰になり、その波を拭い去って幼子の背を何回か、優しく叩きつつ、両手で背伸びする身体を包み込んだ。
「子どもでまだ、良いんですよ」
それは自分でも驚くべき透き通った声だった。
「僕は……」
弱々しい声で何かを必死に私へと伝えようとしている。でも、小さなリーチェ……私は貴女が思っている以上に貴女をいつも、見ている。だから、わかる。貴女が必死に隠そうとしているお兄様への恋愛感情、創造主のやり方への不満。だから、貴女は同じ立場を得たいのでしょう。
私は小さなリーチェの頬にキスをした。それは貴女を愛してますよというサインだ。
「急いで大人にならなくて良いです。それよりも本当の大人になる経験値を詰むことが必要ですよ」
「本当の大人?」
大人という者に対して過大評価をしていたであろう小さなリーチェは朱い瞳を丸くして、私の口元を見つめている。口の形から相手の語る事が真実か、嘘か、と判断できると考えているのだろう。可愛らしい百十センチの妖精だ。
「はい。自分の価値観を大切にして社会の中で強く生きる人ですよ」
「永遠お姉ちゃん」
私の両手の中にある小さなリーチェの身体が何やら、もぞもぞと動く。表情も先程よりも硬く、眉がへの字になっている。
「ん?」
「それになれば、雪は僕を子どもとしてではなくて」
健気に揺れ動く虹彩は幼子が全て語らなくても、語ろうとすべきものを幼子に代わって語ってくれた。
「見てくれますよ。大丈夫です。お兄様は恋愛ベタなのでベアちゃんが立派な大人になる時間はありますよ」
咄嗟にあります、と言ったが、その言葉が喉の奥で偽善というワードと共に引っ掛かって離れない。それを真剣に幼子に諭す頼りになるお姉ちゃんという凛々しい顔つきで隠す。
幼子は欲しい言葉をありがとうと私の頬に無垢なキスを与えた。
「そうだな。ベア様以上の魅力ある女なんて早々現れるはずがないし」と安心して、テーブルの上にあるお煎餅を勝手に頬張る。「堅いぞ」
そう言いながらお煎餅を分解しようと両手で持って、乳歯に力を入れている。やけになって頭を前後に揺らしていた。涎がお煎餅を伝い、ベアトリーチェの紺色のスカートへと零れる。それに本人は気が付く事もなく、お煎餅との戦いに顔を真っ赤にさせていた。
しばらく、その戦いをパイプ椅子に座って眺める。
この戦いによって小さなリーチェの乳歯の一本が抜けてしまって、それを幼子はまるで自分の分身のように後生大事に包み紙に入れた。人が沢山、行き交う道路で小さな歯を幼子は何度も見つめていた。
そこには小さな子にしか解らないリアルがあるのかもしれない。ふと、私は雪降る街の様々な光が織り成すダンスを眺めた。
今年も後、十五日で終わりだ。
時間がどんどん失われてゆく。私達の楽園の終末へと刻々と近づいているのだ。
創造主様、どうか……小さなリーチェが運命を憎しみ以外のもので振り返る事ができる年齢まで私達の楽園をそっと、しておいて下さい。
私は小さな歯をまだ、しげしげと見つめている小さなリーチェの頭を背後から抱いて消えるような声で求めた。
「ベアちゃん、うちでプリン、食べよう」
「プリン!」と抑揚のある声で叫んだ後、振り返りチワワのような弱々しい視線を送る。「歯がまた、取れちゃう」
「大人の歯が代わりに生えるんだよ」




