あいせいぐっばい
夏休みに入ったからといっても何かが変わることはなく、ただ、ぶう太と過ごす時間が少し増えたように感じた。
バイトのない日はぶう太と庭に繋がる縁側で昼寝している。
茂った梅の木が大きな影をつくって私達を覆っていた。
ある日、事件は起こった。
早朝の散歩でいつも顔を合わせていた新聞配達のお兄さんから告白されてしまったのだ。
「返事はいつでもいいから」
はじめての出来事に焦ってしどろもどろになっていた私にお兄さんはそう言い、自転車に乗って去っていった。
「どうしよう、ぶう太、私、告白なんてされたのはじめてだよ」
困っている私に、ぶう太はブギともヴィーとも鳴いてくれない。
ただいつもより速く山へ歩いている気がした。
山のふもとで天然水を皿に注いで、でもぶう太は水を飲んでくれなかった。
ただ小川を見つめている。
ぶう太が初めて川の方へ歩き出した。
私の心臓はなぜかさっきの告白よりドキドキしていた。ぶう太、どこに行くの?
「駄目、ぶう太、その水は飲んだらお腹壊しちゃうかもしれないよ。喉が渇いてるならこっちおいで」
必死にハーネスを引っ張って止める。
絶対に止めないといけない気がしたのだ。
ぶう太は川の直前で立ち止まって、私を振り向いた。
青い水面の光が反射して、ぶう太の目が緑に見える。まばたきするとすぐに元の黒になった。錯覚?
「ぶう太、帰ろう。そっちに言ったら駄目」
ぶう太はブ、と返事するように鳴いて、私の所に戻ってきた。
ほっとして地面に膝をつく。
ぶう太が鼻を私の目元に押し付けてきた。私は泣いていたようだった。
夜、暑いので変えた青色のブランケットをいつものように開いても、ぶう太は入ってくれなかった。
すぐ近くでお座りしている。
私もぶう太の前で正座して座ってみた。
背中にすごく緊張した時と同じように冷や汗が流れていた。暑いはずなのにひどく寒かった。
「・・・ぶう太!?」
急にぶう太の瞳から涙が零れた。
豚って泣くの???
しかし今まさにぶう太の瞳からは一粒、二粒、と緑の雫が――。
ああ、ぶう太の目はもう見間違えようがないほど透き通った緑になっていた。
「泣かないで、ぶう太。何が悲しいの?」
ピスピスブグブグと鼻が鳴らしているが、何を言っているのか、わからない。
人と豚じゃ、通じ合えない。
私まで悲しくなってきた。
でもどうにかぶう太の涙を止めたくて、私は緑の瞳のそばにキスをした。
ぶう太がやってくれたように、涙をぬぐえるようにキスをした。
ぶう太をぎゅうと抱きしめて、私はそのまま眠ってしまった。
夢に入る直前に耳に入ったぶう太の鳴き声は懺悔のように聞こえた。
早朝の散歩、目に痛いほど真っ青な空には大きな入道雲が浮かんでいた。きっと雨になるのだろう。土砂降りの、水が溢れるほどの雨に。
新聞配達のお兄さんには会わなかった。
私は確かに聞いたはずの彼の名前を思いだせないのだから、それが全てだろう。
ぶう太と私はただ一心に山のふもとへ向かっていた。
天然水を飲んで、古ぼけたベンチで一休みして、昨日夜遅かったせうか、私の頭はぼんやりしていて、いつの間にか手からハーネスが抜けていたことに気づけなかった。
ボチャン!と重いものが水に投げ入れられたような音に頭が覚醒する。
私の前にぶう太はいなかった。
「ぶう太ー!!」
小川に向かって走る。
転げ落ちるように草の間を下る。
何も考えられなかった。嘘だ。
わかっていた。ぶう太がただの豚じゃないなんて。はじめて緑の瞳を見た夜からずっとわかっていた。
今、ここに飛び込んだら、きっと帰れないことも私はわかっている。
そして、今を逃せば、二度とぶう太に会えないだろうこともわかっている。
私はまだ聞けてない。
涙の理由を聞けてないのだ。
目をつむれば家族の顔が浮かぶ。
後悔は一瞬、いや一生かな。
でも、私はぶう太を捨てられない。
私は目を開き、濁って緑にも見える小川に飛び込んだ。
次はトリップです。