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戻れない手紙

 春の終わりに近づいた街は、どこか浮ついた空気をまとっていた。冬の名残はすでに薄れ、陽射しはやわらかく、風は肌を撫でるように通り過ぎていく。道行く人々の足取りも軽く、笑い声さえ弾んで聞こえた。


 けれど、その流れの中で一人だけ、時間に取り残されたように立ち尽くしている女性がいた。


「……ここ、でいいのかな」


 小さく呟きながら、彼女は古びた看板を見上げる。


 ――選択相談所。


 控えめに掲げられたその文字は、知らなければ見落としてしまいそうなほど静かだった。


 少し前に耳にした噂を、彼女は思い出す。


 迷ったとき、どうしても決められないときに訪れる場所。

 答えはくれないが、選ぶための何かを与えてくれる場所。


 半信半疑のまま、それでも気づけばここまで来ていた。


 右手には、一通の封筒。


 何度も書き直した手紙だった。


 書いては破り、書いては消して、ようやく残った言葉。整えたはずの文字はどこか不揃いで、書いている間の迷いが、そのまま形になっている。


 出すべきか、出さないべきか。


 たったそれだけのことが、どうしても決められなかった。


「……帰ろうかな」


 踵を返しかけて、止まる。


 ここで帰ったところで、結局また同じ場所に戻ってくる。迷いは消えず、封筒は手の中に残り続ける。


 それが分かっていた。


 彼女は小さく息を吸い、意を決して扉に手をかける。


 ゆっくりと押し開けると、外の柔らかな喧騒とは切り離された、静かな空間が広がっていた。


「いらっしゃいませ」


 落ち着いた声が、奥から届く。


 カウンターの向こうに立つ女性は、前と変わらない穏やかな表情をしていた。時間の流れから少し外れているような、静かな佇まい。


「あの……」


「どうぞ。おかけください」


 促されるままに椅子に腰を下ろすと、不思議と肩の力が抜けていく。ここに入る前まで胸を占めていた緊張が、ゆっくりとほどけていった。


 店内は相変わらず整然としていて、余計なものがない。


 ――コチ、コチ。


 時計の音だけが、一定のリズムで響いている。


「お名前を伺ってもよろしいですか」


「……高梨です」


「高梨さん。本日はどのようなご相談でしょうか」


 形式的な問いかけ。だが、その声音には逃げ道を残さない静けさがあった。


 高梨は少しだけ視線を彷徨わせ、それから手の中の封筒をそっとテーブルに置いた。


「手紙を……出すかどうかで、迷ってます」


 女性は静かに頷き、封筒へ視線を落とす。


「差し支えなければ、お相手は」


「……元恋人です」


 その一言で、十分だった。


「別れてから、もう一年くらい経ってて」


 高梨はゆっくりと言葉を選びながら話し始める。


「ちゃんと別れたはずなんです。喧嘩したわけでもなくて、お互い納得して」


 穏やかな言葉。けれど、その奥には整理しきれない感情が沈んでいる。


「でも、最近になって……どうしても、伝えたいことができて」


「どのようなことでしょうか」


 少しだけ迷い、視線を落とす。


「……ありがとう、って」


 短い言葉。


 けれど、その一言に至るまでの時間の重みが、確かにあった。


 女性は何も言わず、続きを待つ。


「一緒にいたとき、ちゃんと伝えられなかったんです。感謝とか、そういうの」


 封筒の端を、指先でなぞる。


「今さらだって分かってるんです。向こうはもう、新しい生活をしてるかもしれないし」


「それでも、伝えたい」


「……はい」


 迷いのない返事だった。


 だからこそ、迷っている。


「でも、迷ってるんです」


「迷いの理由は?」


 高梨は、少しだけ苦く笑った。


「迷惑かもしれないからです」


 その一言に、ためらいのすべてが詰まっている。


「せっかく忘れてるかもしれないのに、急に手紙なんて届いたら……」


「相手の時間を、揺らしてしまう」


「そうです」


 強く頷く。


「自己満足なんじゃないかって思うんです。自分が楽になりたいだけで」


 沈黙が落ちる。


 時計の音だけが、変わらず空間を刻んでいた。


「高梨さん」


 やがて女性は、静かに口を開く。


「その手紙を出した場合と、出さなかった場合。どちらも見てみますか」


 高梨は顔を上げる。


「……見れるんですか」


「可能性のひとつとして、ですが」


 しばらく考えたあと、高梨は小さく頷いた。


「お願いします」


 女性はカウンターの奥から、古びた懐中時計を取り出す。


「こちらに触れてください」


 高梨は封筒をそっと脇に置き、時計へと手を伸ばした。


 触れた瞬間、かすかな震えが指先に伝わる。


「ではまず、手紙を出さなかった場合です」


 視界が、ゆっくりと歪む。


 気づけば、自室に立っていた。


 見慣れた部屋。机の上には、あの封筒。


 だが、少しだけ色褪せている。時間が経っていることが分かる。


 高梨はそれを手に取らない。


 引き出しを開け、奥へとしまい込む。


 まるで、なかったことにするように。


 日々は過ぎていく。


 仕事をして、友人と会い、笑うこともある。


 やがて、新しい出会いも訪れる。


 穏やかで、問題のない時間。


 けれど――。


 ふとした瞬間に、思い出す。


 あの手紙。


 出さなかった言葉。


「……あのとき」


 小さく呟く自分。


 後悔と呼ぶには弱い。


 だが確かに、消えない違和感が残っている。


 胸の奥に薄く張りついた膜のように、それは静かに居座り続ける。


 時間が経っても、完全には消えなかった。


 視界が揺れる。


「次に、手紙を出した場合です」


 女性の声。


 景色が切り替わる。


 ポストに封筒を入れる自分。


 その手は、わずかに震えている。


 数日後。


 スマートフォンに通知が届く。


 見慣れた名前。


 短いメッセージ。


 ――手紙、ありがとう。


 それだけ。


 続きはない。


 会う約束もない。


 やり直しの気配もない。


 それでも。


 高梨の中で、何かがゆっくりとほどけていく。


 張り詰めていたものが、静かに緩む。


 涙が落ちる。


 それは悲しさだけではなかった。


 終わったことを、ようやく終わらせることができた――そんな感覚。


 同時に、もう戻れないという確かな痛みもある。


 けれど、その痛みはどこか澄んでいた。


 濁らず、逃げ場のない形で、ただそこにある。


 やがて、視界が元に戻る。


 高梨は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。


「……どっちも、つらいですね」


 ようやくこぼれた言葉。


「はい」


 女性は静かに頷く。


「伝えない後悔と、伝えたあとの痛み」


 高梨は目を閉じる。


「どっちを選べばいいんでしょう」


「それは、お答えできません」


 予想していた答え。


 それでも、わずかに笑みが浮かぶ。


「ですよね」


「ただ」


 女性は続ける。


「ひとつだけ、お伝えできることがあります」


 高梨は顔を上げた。


「言葉は、届いた時点で役目を終えます」


「……役目」


「相手がどう受け取るかは、相手のものです」


 静かで、揺るぎのない声だった。


「ですが、伝えるかどうかは、高梨さんのものです」


 その言葉は、まっすぐ胸の奥に落ちた。


「……自己満足でも、いいんでしょうか」


「はい」


 迷いのない肯定。


「誰かを傷つけるための言葉でなければ」


 高梨はテーブルの上の封筒を見つめる。


 何度も書き直した文字。


 消して、書いて、また消して。


 それでも最後に残った言葉。


 そこに込めた気持ちは、紛れもなく本物だった。


「……出します」


 小さく、しかし確かな声。


「怖いですけど」


「ええ」


「でも、このまま持ってるほうが、ずっと引きずりそうだから」


 女性は穏やかに頷いた。


「良い選択だと思います」


「本当にそう思ってますか?」


「本当に思ったことを言っているだけです」


 わずかに笑いがこぼれる。


 高梨は封筒を手に取り、大切そうに持ち直した。


「ありがとうございました」


 立ち上がり、頭を下げる。


 来たときよりも、ほんの少し軽い足取りで扉へ向かう。


「高梨さん」


 呼び止められ、振り返る。


「はい?」


「返事が来るかどうかは、分かりません」


「……はい」


「ですが、届いた事実は、消えません」


 一瞬だけ目を見開き、そして静かに頷く。


「それで、十分です」


 そう言って、彼女は外へ出た。


 空は薄く晴れている。


 雲の切れ間から、やわらかな光が差し込んでいた。


 高梨は近くのポストへと歩いていく。


 一歩進むごとに、胸の奥の迷いがほどけていくようだった。


 赤いポストの前で立ち止まり、深く息を吸う。


 そして、封筒を投函する。


 小さな音を立てて、手紙は中へ消えた。


 もう戻らない。


 それでいいと、思えた。


 相談所の中では、女性が静かに懐中時計を見つめていた。


 規則正しく刻まれる針の音。


「二人目、ですね」


 小さな呟きは、誰にも届くことなく、静かに空間へと溶けていった。


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