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相談員の過去

 相談所の朝は、いつもと同じ静けさから始まる。


 窓の外では光がゆっくりと色を変え、街はまだ完全には目を覚ましていない。

 建物の影が長く伸び、通りを歩く人影はまばらで、雨上がりの路面に光が反射して揺れていた。

 水たまりに映る空の青は、薄く曇った朝の光に淡く溶け込み、街全体が眠りの名残を抱えているようだった。


 女性はカウンターに立ち、湯を注いでいた。

 湯気がふわりと立ち上がり、ゆらぎを見つめていると、時間の感覚が少しずつ曖昧になっていく。

 カップを手に持ったまま、そっと息を吐く。


「……今日は、来るかな」


 返事はない。それでも、この場所ではそれが普通だった。

 湯気がゆらめく様子に、自分の胸の奥もまた、過去の迷いや期待の揺らぎと重なって見える。


 扉が開いたのは、その直後だった。


「いらっしゃいませ」


 顔を上げると、そこに立っていたのは年配の男性だった。

 スーツではなく、少し古びたコートを着ている。

 迷いを抱えながらも、何かを決めてきたような表情。

 彼の瞳には、時間と経験を重ねた深みと、過去の後悔を背負った影が映っていた。


「……ここは、まだあるんですね」


「はい」


 女性は静かに答える。男性は少し息を吐き、カウンターの上に置かれた湯気の揺らぎをじっと見つめる。


「変わらないな」


 その言葉に、女性は一瞬だけ手を止める。


「以前にも?」


 男性はゆっくりと頷いた。


「ええ」


 椅子に座る動作は慣れているようで、どこか慎重だった。まるで自分の過去をそっと扱うかのように。


「本日は、どのようなご相談でしょうか」


 女性が問う。男性はしばらく黙った。カップの湯気がゆっくりと消えていく。空気の中の微細な振動まで、過去の選択の余韻に思える。


「相談、というより……確認です」


「確認」


「ここがまだ続いているのか」


 視線はカウンターではなく、部屋の奥へ向かう。まるで過去の自分や、当時見えなかった可能性を探すかのような眼差しだった。


「あなたは」


 女性が静かに言った。


「あの時の……」


 男性は少しだけ笑った。


「覚えているんですね」


「はい」


 短い肯定。男性はゆっくりと頷く。


「ずいぶん昔です」


 沈黙が落ちる。外の光が少しだけ強くなり、カウンターの表面に朝の光が反射する。

 カップを差し出す女性の手が揺れるのを、男性は静かに見つめた。すぐには手を伸ばさない。


「……あのときの私は」


 ぽつりと呟く。


「何を選んだんでしたか」


 女性は少しだけ目を伏せ、静かに答える。


「選びませんでした」


「選ばなかった?」


「はい」


 男性はゆっくりと視線を上げる。


「ここに来て、可能性を見て、そして……逃げたんですね」


 女性は否定しなかった。


「私は」


 男性は苦く笑う。


「全部を知るのが怖かった」


「選べば、どちらかを失う」


「見なければ、失わないままでいられると思った」


 その言葉は、静かに落ちる。湯気の消えるカップと、朝の光が揺れる窓辺が、彼の心の揺れと重なるようだった。


 カウンター奥の時計。止まった針は、今日も変わらない。


「その時計は」


 男性が言う。


「まだ直していないんですね」


「はい」


「理由は?」


 女性は少し間を置いた。


「止まったままの時間を、覚えておくためです」


 男性は目を細める。


「あなたは……変わった」


「そうでしょうか」


「昔はもっと……」


 言葉を探すように。


「迷っていた」


 その言葉に、空気がわずかに揺れる。

 外の風に街路樹の葉がかすかに揺れる音が重なり、女性はしばらく黙った。やがて静かに口を開く。


「迷うことは、今もあります。ただ……」


 視線を上げる。


「選ばないままでいることを、やめただけです」


 男性はゆっくり息を吐く。


「私は、戻れますか」


 その問いは過去へのものでもあり、現在へのものでもあった。女性はすぐには答えない。カップをそっと置く。


「戻る、というのは……どこへですか」


 男性は言葉を失う。微かに笑う。


「昔のことです」


 沈黙。外では鳥の声が聞こえ、街の音がかすかに混ざる。時間だけが進んでいる。


 男性は深く息をつき、過去のことを語り始めた。


「昔、私は恋人と別れたんです」


 目を伏せる。声は遠く、自分自身に語りかけるようだった。


「仕事に打ち込むあまり、彼女のことを後回しにして……そして結局、二人の関係を壊してしまった」


 指先が机の縁を撫でる。


「そのとき、ここに来るべきだったのに、私は逃げた。未来の可能性を見ないまま、ただ現実から目を背けてしまった」


 静かな声だが、深い後悔が滲んでいた。


「選べば、何かを失う。見なければ、何も失わない──そう思っていた。でも、結果として、すべてを失った」


 女性はそっと頷く。沈黙が二人の間にゆっくりと落ちる。


「それでも、ここに来たのは……あなたがまだいるか確かめたかった」


 男性は目を上げ、真っ直ぐに女性を見る。その瞳に、迷いや恐れ、そしてわずかな期待が混ざっていた。


「私は」


 女性は静かに答えた。


「ここにいます。時間が止まったままでも、選ぶ人を待っています」


 男性は少しだけ笑った。


「昔、あなたに救われたと思っていた。でも今は分からない」


「……」


「救いだったのか、ただの逃避だったのか」


 扉に手をかけ、最後に振り返る。


「あなたはまだ、人を選ばせていますか」


「選ばせています」


 短い沈黙。男性はゆっくりと頷き、扉が閉まる。


 相談所に静けさが戻る。外の光は少しずつ強まり、街の音が混ざってくる。しかし、その静けさはいつもより少しだけ重かった。


 女性はカウンターの奥で目を閉じる。かつて自分も、依頼人としてここに立っていた過去を思い出す。

 迷い、恐れ、逃げた自分。

 カウンター奥の時計の針は止まったままだが、彼女自身の時間は確かに進んでいる。


 カップの湯気がゆっくりと消え、止まった針を背に、今日もまた選ぶ者たちを迎える準備を静かに整える。


「十一人目……」


 その声は、誰にも届かず、時計の沈黙に吸い込まれていった。


「思い出すのは、早すぎましたね」


 外の光がさらに強くなる中で、女性はゆっくりと深呼吸した。過去の自分と現在の自分の間で揺れる感情を整理しながら、今日もまた、選ばれる者を見守る決意を固めるのだった。

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