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はじまりの依頼

 雨は、降るでもなく止むでもなく、街の輪郭をやわらかく溶かしていた。


 アスファルトは鈍く光り、遠くの建物は水彩画のように滲んでいる。


 音さえもどこか遠のき、世界は薄い膜の向こう側にあるようだった。


「ここ、相談所って書いてあるけど……本当に合ってる?」


 軒先で立ち止まった青年は、何度もスマートフォンの地図と、目の前の古びた扉を見比べていた。


 地図は確かにこの場所を示している。だが、そこにあるのは看板も控えめで、今にも時間から取り残されてしまいそうな、小さな建物だった。


 人の出入りの気配はなく、営業しているとはとても思えない。


「選択相談所、ね……」


 呟いた言葉は、湿った空気に吸い込まれていく。


 来なければよかった、と彼は思う。


 こんな場所に、人生を決める答えがあるはずがない。そう思いながらも、ここに来るしかなかった理由が、胸の奥に重く沈んでいた。


 ポケットの中の紙切れが、やけに存在感を主張している。


 一通は、合格通知だった。


 第一志望の企業。名前を出せば誰もが頷く大手企業。安定した給与、整った福利厚生、途切れることのない昇進の道筋。そこには、ほとんど保証された未来があった。


 もう一通。


 それは、小さな劇団からのオーディション合格通知。紙質は薄く、印字も簡素で、重みなどないはずなのに、不思議とこちらの方が胸に引っかかる。収入は不安定で、将来は霧の中だ。それでも――。


「……どっちかなんて、選べるわけないだろ」


 吐き出すように呟いて、彼は自嘲気味に笑った。


 選べないから、ここに来た。


 “選択を手伝ってくれる場所がある”――そんな噂を、半信半疑で辿って。


 しばらく逡巡したのち、青年は小さく息を吸い込み、扉に手をかけた。


 鍵は、かかっていなかった。


 軋む音を立てて扉が開く。その先に広がっていたのは、外の陰鬱さとは対照的な、やわらかな明るさだった。


「いらっしゃいませ」


 静かな声が、奥から届く。


 カウンターの向こうに、一人の女性が立っていた。


 年齢は二十代後半ほどだろうか。落ち着いた佇まいで、余計な装飾のない服装。だがその視線は、まっすぐにこちらを射抜いてくる。逃げ場を与えない、しかし威圧でもない、不思議な眼差しだった。


「……あの、ここって」


「はい。選択相談所です」


 間髪入れずに返された言葉に、青年はわずかにたじろぐ。


「本当に、あるんだ……」


「あるから来られたんでしょう?」


 柔らかい声音のまま、核心を突く。


 青年は言葉を失い、視線を逸らした。


「……その、相談っていうのは」


「椅子におかけください。お話を伺います」


 促されるままに腰を下ろす。


 店内は広くはないが、妙に落ち着く空間だった。余計な装飾はなく、整然と整えられている。どこか現実から切り離されたような静けさがあった。


 ――コチ、コチ、と。


 壁の時計の音だけが、規則正しく空間を刻んでいる。


「お名前は?」


「……藤崎、です」


「藤崎さん。今日はどのようなご相談でしょうか」


 形式的な問いのはずなのに、なぜか誤魔化しが利かない。


 藤崎はポケットから二通の紙を取り出し、テーブルの上に並べた。


「これ、なんですけど」


 女性は静かに視線を落とし、内容に目を通す。ほんの数秒。それだけで、すべてを理解したように顔を上げた。


「なるほど」


 短く言って、続ける。


「就職か、夢か」


「簡単に言えば、そうです」


「簡単ではありませんね」


 即座に否定され、藤崎は苦笑した。


「……ですよね」


「藤崎さんは、どちらを選びたいのですか」


「それが分かってたら、ここには来てません」


 思わず語気が強くなる。


 だが女性は気に留める様子もなく、ただ静かに頷いた。


「では質問を変えます。どちらを選んだときの後悔が、より大きいと思いますか」


 藤崎は息を呑む。


「……それも、分からないんです」


「分からない、というのは」


「どっちを選んでも、後悔する気がするんです」


 言葉にした瞬間、胸の奥に沈んでいたものが、形を持って浮かび上がる。


「安定を選べば、夢を諦めた後悔が残る。夢を選べば、現実に負けたときに、あのとき就職していればって思う」


 視線は自然と下がっていく。


「どっちを選んでも、間違いになる気がして……怖いんです」


 沈黙が落ちる。


 時計の音だけが、やけに大きく響いていた。


「藤崎さん」


 やがて女性は、穏やかな声で口を開く。


「ここでは、“正しい選択”はお伝えしていません」


「……え?」


「お伝えできるのは、“選んだあとの景色”です」


 意味がすぐには理解できず、藤崎は顔を上げた。


「どういうことですか」


「少しだけ、未来を見ていただきます」


「未来……?」


 思わず笑いそうになる。だが、女性の表情は冗談を許さない静けさを湛えていた。


「もちろん、確定した未来ではありません。可能性のひとつです」


「そんなこと、できるわけ……」


「見ますか?」


 遮るように問われる。


 怪しい。非現実的だ。信じる理由などどこにもない。


 それでも。


「……見れるなら」


 気づけば、そう答えていた。


 女性は小さく頷き、カウンターの奥から古びた懐中時計を取り出した。銀色のそれはくすみ、長い年月を経てきたことを静かに物語っている。


「こちらに触れてください」


「これで?」


「はい」


 藤崎は躊躇いながらも手を伸ばす。


 指先が触れた瞬間、かすかな振動が伝わった。


「ではまず、就職を選んだ場合です」


 女性の声が、遠ざかる。


 視界が揺れた。


 気づけば、別の場所に立っている。


 見覚えのあるオフィス。整然と並ぶデスク。スーツ姿の自分。


「……え?」


 声は出るが、誰にも届かない。


 同僚が話しかけている。だが言葉は霞のようにぼやけている。


 ただ一つ、確かなことがあった。


 ――自分はここで働いている。


 数年後の、自分だ。


 悪くはない。むしろ順調だ。評価もされている。生活も安定している。


 それなのに。


 胸の奥に、小さな棘のような違和感が残る。


 帰り道、駅のポスターが目に入る。小さな劇団の公演案内。


 足が止まる。


 ほんの一瞬、見つめる。


 そして何事もなかったかのように、歩き出す。


 その背中に、言葉にならない重さが張り付いていた。


 次の瞬間、視界が再び揺らぐ。


「今度は、劇団を選んだ場合です」


 女性の声。


 景色が切り替わる。


 狭い稽古場。汗と埃の匂い。何度も繰り返される台詞。


 そこにいるのは、間違いなく自分だった。


 息は荒い。喉は痛い。それでも、どこか満たされている。


 仲間の笑い声。演出家の厳しい指摘。


 苦しいのに、楽しい。


 だが同時に、不安は消えない。


 収入は安定せず、未来は見えない。


 夜、一人で歩く帰り道。


 街灯の下で、ふと立ち止まる。


「このままでいいのか」


 誰にも届かない問いが、胸の内で沈んでいく。


 そして、よぎる。


 あの内定。


 選ばなかった、もう一つの人生。


 胸の奥が、わずかに軋む。


 気づけば、元の部屋に戻っていた。


 藤崎は荒い呼吸のまま、椅子に座っている。


「……今の、何ですか」


「可能性のひとつです」


「どっちも……」


 言葉が途切れる。


 どちらの未来にも、後悔があった。


 どちらの未来にも、納得があった。


「藤崎さん」


 女性は静かに言う。


「後悔のない選択は、ありません」


 断言だった。


「どの道を選んでも、必ず別の道を思い出します」


 藤崎は何も言えない。


「ですが」


 女性の表情が、わずかに和らぐ。


「後悔の“重さ”は、変えられます」


「重さ……?」


「自分で選んだと、思えるかどうかです」


 その言葉は、まっすぐ胸に落ちた。


「人に決められた選択は、長く尾を引きます」


「……」


「ですが、自分で選んだ選択は、たとえ後悔しても、前に進む理由になります」


 藤崎はゆっくりと視線を落とした。


 二通の通知が、そこにある。


「……結局、自分で決めろってことですか」


「はい」


 あまりにもあっさりと、女性は頷いた。


 思わず笑いが漏れる。


「それが一番難しいんですけどね」


「そうですね」


 女性も、わずかに笑った。


 沈黙。


 だが先ほどまでのそれとは違い、どこか澄んでいる。


 藤崎は深く息を吐いた。


 胸の中にあった霧が、少しだけ晴れている。


 答えは、最初からどこにもなかった。


 ただ、自分が決めることを避けていただけだ。


「……俺、やってみます」


「どちらを?」


「劇団のほう」


 口にした瞬間、不思議と迷いは消えていた。


「怖いですけど」


「ええ」


「でも、多分こっちの後悔のほうが、引きずらない気がする」


 女性は静かに頷く。


「良い選択だと思います」


「さっき、正しい選択は教えないって言ってませんでした?」


「はい。今も言っていません」


 少しだけ、いたずらっぽく笑う。


 藤崎は肩の力を抜いた。


「……ありがとうございました」


 立ち上がり、深く頭を下げる。


 来たときとは違う足取りで、扉へ向かう。


「藤崎さん」


 呼び止められ、振り返る。


「はい?」


「選ばなかった未来は、消えるわけではありません」


「……え?」


「ただ、思い出になるだけです」


 その言葉の意味を考える間もなく、彼は外へ出ていた。


 雨は、いつの間にか止んでいた。


 湿った空気は残っているが、どこか軽い。


 藤崎はポケットの中の紙を確かめる。


 劇団の合格通知。


 それを強く握りしめ、歩き出した。


 背中は、もう迷っていなかった。


 店の中では、女性が一人、静かに懐中時計を見つめていた。


 針は変わらず、一定の速さで時を刻んでいる。


「一人目、ですね」


 誰にともなく呟く。


 その声は、静かな部屋の中に溶けていった。


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