⑬ アングルボザの窓⑦「ヘル」
【前回のオレオー】
再び襲った母アングルボザの悲劇。二人目の子供も異形に育ち、またもやアース神族に連れ去られ――――
外は今日も雨。それでもロキはアースガルズへと出掛けていった。帰らない日が増えた。何日も顔を見ないことが多くなった。二人で暮らすはずだったこの家に、今もアタシ独り。
毎日毎日…アタシは何をして生きているのか分からない。食事は…たぶんしたと思う。でもその記憶すら怪しい。昔は肉を喜んで食べていたのに、今じゃ麦粥を一杯も食べれば十分。 …痩せたのかな。肌の張りが無くなってきた気がする。
こんな雨の中、来客があった。男とも女ともいえない容姿、男とも女ともいえない声。白いマントを羽織り、そのフードを深く被っているので顔も良く見えない。何者なの? コイツ…
名も名乗らずソイツは言った。アタシの前に杖を翳し、「幸せになるおまじないをかけてあげるよ」と。そんなものがあるなら、いくらでもすがりたい。そんなうまい話、あるものか。
「キミはとてもステキな女性だ。きっと男性から激しい求愛をされるのだろうね」
これ、モテモテ、ってこと? アタシにはロキしかいないのに…でも褒められてるハズなのになぜか寒気がする。
そしてソイツは帰り際にこう言った。
「いい子が生まれるといいね。それじゃ」
…ウソ…またアタシ、子供を産むの? …怖い…怖い! もうイヤ。子供を産むのは、幸せを奪われるのはもうイヤ! 幸せになれないなら、もうお母さんになれなくてもいい…
でも、こんなときに限って…
ロキは帰ってきてアタシを見るなり抱きしめた…無性に興奮しているようで…昔なら、こんな荒々しいロキがステキで、頼もしく見えた。でももうイヤ。子供を産むのはイヤなの。でもそんな願いはロキの力強さには勝てない。押し倒され、欲望のままに犯された。そして残念なことに、アタシの「オンナ」はまだ健在だった。悲しいくらい、アタシは燃えてしまった…
◆
「幸せになるおまじない」とは、こういうことだったのか。また…間もなく身籠った。ただ、前とは違ってゆっくりとお腹の中で育っているようで…今度は違うのかもしれない。そんな期待がうっすらとあった。
臨月を迎え陣痛が始まる。ロキが帰ってこない以上、また一人で産むしかない。それで生まれた子は…真っ青…というより黒く見えた。え…死んでる…の? イヤ。ダメ。お願い。あなたはこの世界に生まれたんだから! この世界に生まれた意味があるんだから! お願い! 息をして! 泣き声を聞かせて!
何をしたらいいのかわからず、体をさすったり、何か詰まってないかと口を吸ったり。そして
オギャァァァァア!
よかった…泣き声が聞こえる。ありがとう。生まれてきてくれてありがとう。生きていてくれてありがとう。アタシがあなたのお母さんなんだよ。ほら、しっかり飲んで。早く元気になろうね。
…でも、この子のことは知られたくない。アースになんか知られたくない。だから彼女をヘル、と名付けた。
◆
ヘルは生まれてからしばらくしても、血が通い血色がよくなったのは体の半分だけ。あとの半分はまるで死んでるかのように青黒いままだった。それでも健康に育ってくれればと、アタシはがんばって食べ物を獲りに行き、がんばって食べて、お乳がしっかり出るよう気遣った。そのせいかヘルは体半分は相変わらずでも順調に育っていった。いえ、むしろ『いつものように』スクスクと大きく育っていった。イヤな予感がする。
◆
女の子は言葉を覚えるのが早いと聞く。ヘルもおしゃべりできるようになるのが早かった。「お母様」と呼ばれたときには泣いてしまって、ヘルに不思議な顔をされた。
ロキは帰ってくるとヘルと遊んでくれることもあるが、やはり子育てはアタシ任せ。それは今までと同じ。でもたまに不思議な行動をとることもあった。珍しいものをもらったと、牛の尻尾肉を煮てシチューを作ってくれた。今までそんなこと、一度たりとも無かったのに。やはり娘がいると男は違うものなのか? それともただの気まぐれ? ヘルはシチューが気に入ったのか嬉しそうに食べ、おかわりすらした。はた目には微笑ましい一家団欒の光景だけど…もうアタシは、ロキが何を考えてるのかさっぱり分からなくなっている。
◆
ロキがアースガルズから帰ってきた…アースガルズの使者とともに!
「ご息女をお預かりに参りました」
やっぱり! ロキを詰問しようと目を移せば
「先に俺の方から話をつけといた」
先回りしてる…アタシに相談も無しに…
「なんで…どうして…」
「あっちで相談してみたら危険だっていうんだよ」
「この子は違うっ! ヘルはオオカミじゃないっ! ヘルはヘビじゃないっ! ヘルは人なのっ! アタシの子なのっ! どうしてっ⁈ どうして奪うのっ⁈ どうしてアタシから幸せを奪うのっ⁈ もうイヤっ! 奪われるのはもうイヤっ! お母さんになりたかったアタシの夢、奪われるのはもうイヤなのっ!」
「でもこいつをこのままここに置いても体半分腐っていくだけだぞ! 死ぬのを待つだけだ! お前のわがままでヘルの死を見届けるつもりか!」
わがまま…死…ロキの言葉が突き刺さる。アタシが幸せになろうと思えば、この子が、ヘルが死ぬ…ヘルは幸せになれない…そんな…どうして…
アタシの両横をアースガルズの使者が、続いてロキが通り過ぎる。家の奥で一人で遊んでいるヘルの元へ行くのだろう。でもアタシはそれを見ることができない。怖いから。辛いから。
「ヘル。俺とアースガルズに行こうか」
「アースガルズって何? お父様とお出かけ?」
「そうだよ。一緒に行こう」
ロキの優し気な声。こんな声、久しぶりに聞くのに…どういうつもりで言ってるのか全然わからない。
背後から足音が近づき、それらは再びアタシの横を過ぎていく。
「お母様は?」
ロキと手をつないだヘルが振り返り、アタシを見た。
「お母さんはお留守番」
「一緒にいかないの?」
アタシは答えられない。言葉にすれば、アタシのせいでヘルの命が消えてしまう…ヘルの姿が歪み、とても遠くに感じた。今目の前にいるのに…
「それではご息女をお預かりします」
そう言って使者たちはロキとともに去った。
…また…何もしてあげられなかった…守れなかった…アタシ…無力だ…
◆
それから数日。ロキが帰ってきた。
「俺、アースガルズに住むことになったから。ボザ、お前も来るか?」
後頭部を殴りつけられたようなショック。アタシにとってはそれほどなのに…こんなに大切なことを、こともなげにさらっと…
「アタシは無理。アースガルズで暮らすなんて無理。秩序を重んじて暮らすなんて無理。アタシから大切なものを奪っていった神たちと暮らすなんて無理。アタシにはヨトゥンがお似合いなのさ…」
「…そうか。わかった。さよならだ」
たったそれだけ。それだけの言葉を残し、ドアは静かに閉じる。
…引き留められるかと思った。思い直してくれるかと思った。でもアイツは…行っちまった…アタイを置いて行っちまった…もう…アタイには何の価値もないんだ…母としても…女としても…
♪白い花咲くベリーの丘♪
♪未来の実りを夢に見る♪
…もうすぐ夏至祭。どこからともなく女の子たちの歌声が流れてくる。
♪青い果実はまだ遠く♪
♪誰と分け合う?その甘さ♪
…これは『命の歌』。練習なんかしなくたって歌えるよ。
♪あの子?(あの子?)♪
♪この子?(この子?)♪
♪私? 私! フゥゥゥゥゥゥ!♪
…だってそれは
♪夏至の光に揺れる花♪
♪やがて結ぶよ未来の輪♪
…アイツに聞いて欲しくて覚えたんだから。
♪南の島には渡り鳥♪
南の島には渡り鳥…
♪厳しい崖に巣を作る♪
厳しい崖に巣を作る…
♪白い卵に想いを託せ♪
白い卵に想いを託せ…
♪相手は誰かと右左♪
相手は誰かと右左…
♪あの子?♪
あの子…
♪この子?♪
この子…
♪私?♪
アタシ…
♪フゥゥゥゥゥゥ!♪
♪もうすぐ殻から顔を出す♪
もうすぐ殻から顔を…
♪会ってみたいねパフィンの子♪
あって…みたい…ね… パフィン…の…子…
歌えるよ、『命の歌』。 …でも意味を知ったのは今、この瞬間… …そういう意味だったんだ…
アタシ…母にも…女にも…なれたかったよ…
◆
あとがきはこちらにまとめました。
→「なぜ?なに?オレオー!」(N7423LN)
各エピソードで使用したネタとその解釈なんかを書いています。
本編と併せて読むとより面白く!




